「あお?」
それは学校を出て颯真が塾へ、神崎がバイトに向かう途中のことで、ちょうど「また明日」と言って別れる直前のことだった。
ふと現れた女性がそう呼んで、神崎の名前が「碧《あお》」だったと思い出す。
神崎を名前で呼んだ女性は折れてしまいそうに細く、人形のように美しい。けれども負のオーラというか、恐ろしいものを身にまとっているような人だった。彼女の焦げ茶色の瞳に見つめられた瞬間、全身に鳥肌が立つ。
「かあ、さん……」
急に干からびた声に、恐る恐る隣の神崎を見上げる。その顔は血の気が引いて真っ白になっていた。
「ずいぶんと仲がいいのね。その子はだあれ? お母さんにも紹介してほしいな」
「ただのクラスメイト。偶然そこで会っただけ」
声を震わせながら神崎が自分の背中に颯真を隠す。神崎のブレザーを引っ張ると、大丈夫だと言わんばかりに指先が握られた。
「隠したってだめよ。お母さん、わかっちゃうんだから」
一歩、女性がこちらに向かって踏み出す。神崎に背中で押され、颯真も後ろに下がった。
「ねえ碧もお母さんをひとりにするの? 碧はそんなことしないよね。碧はずっといてくれるって言ったよね? お父さんみたいに捨てたりしないよね?」
「大丈夫だよ母さん。帰ろう」
神崎は颯真から手を離し、母親の元に駆け寄った。道路の中央であるにも関わらず、母親は神崎の頬を両手で包みながら子供のようにぼろぼろと涙をこぼす。
「あの子、わたしから竜一さんを取ったの。竜一さん、騙されてるの。だから返してもらいにいかなきゃ。竜一さん、まってるって言ってたもの!」
「帰ろう、母さん」
「あの子が竜一さんを取った……あの子、が……」
母親が急に顔を上げ、颯真をキッと睨んだ。今まで体験したことのない恐怖――頭が真っ白になって、声すら出せない。
「颯真!」
叫ぶ声に、金縛りから解き放たれる。
神崎は今にも颯真に向かって飛びかかって行きそうな母親に抱き着き、抑えてくれていた。
「颯真、行け!」
「……や、だよ……」
「颯真ッ!」
「かん、ざ……」
だいじょうぶ、と神崎の口が動く。颯真はゆっくりと首を横に振った。嫌だ。嫌な予感がする。このまま会えなくなってしまうような、そんな予感。
神崎がほとんど力づくで、母親を引きずるように離れてゆく。呪詛のような彼の母親の言葉は颯真にはもう聞こえていなかった。神崎が行ってしまう、それだけが、ただ。
「い、やだ……」
呆然と呟いた颯真の頬を、ぽろりと涙が伝う。
それからどうやって帰宅したのか、ほとんど覚えていない。塾から掛かってきた電話には欠席するとだけ伝えて――自分の部屋に入ったとたん、糸の切れた操り人形のようにぺたりと床にへたり込む。
しばらく経って神崎のラインにメッセージを送ったものの、返事はなかった。
「どうした颯真。変な顔して」
翌日、颯真は教室に神崎の姿を探した。午前中、いつもなら授業に出ているはずの時間。
「……神崎、休み?」
その言葉に優太朗は明らかに不機嫌そうな顔をする。知らん、とそっけない言葉が返ってきた。
「知らんって、そんな」
「それよかさ、この問題教えてくんね? 次の授業で当たるんだよ」
「うん……」
教室の真ん中にぽっかりと空いた席。鞄もない。朝にもう一度メッセージを送ってみたが、今のところ返事はない。次の休み時間には保健室にも行ってみたが、神崎は来ていないとのことだった。
大丈夫だと、神崎は言った。
けれども神崎の「大丈夫」は大丈夫じゃないのだ。
初めて名前を呼んでもらえた。お前、でも、松永でもない、「颯真」と神崎は呼んだ。なんで今なんだ、と思う。なんで今。もっと違うときに呼んで欲しかったのに。
授業の声が頭の中をすり抜けてゆく。ノートは文字で埋まっていくものの、黒板に書かれた文字をそっくり写しているだけで、内容はまったく入ってこない。何度目かに止まった手を動かすと、力が入りすぎてノートに穴が開いた。
おはよう。ちゃんと寝てる? ご飯食べた? いつ学校に来れる? 何でもいいから返事してよ。神崎。僕のことが嫌なら会いに行かないから学校来てよ。神崎。返事がほしい。
溜まっていく一方通行のメッセージ。あの日から三日が経ち、とうとう既読すらつかなくなってしまった。学校も休んだまま。
放課後、颯真は職員室の前で大きく息を吸って、吐き出した。汗でぬめる手をスラックスで拭いて、ドアを開ける。たったそれだけなのに、膝が震えた。
一歩を踏み出すと、職員室内にいる全員の視線が颯真に向けられた気がする。できるなら今すぐ逃げ出してしまいたい。それでもやっと目的の人物の前まで来ると、眼鏡の女性教師は颯真を見て不思議そうな顔をした。
「何の用かな?」
「さ、三年の、松永と言います……あの、か、神崎は」
「神崎?」
「ええ、神崎は、まだ休みですか……?」
「そうだねえ」
「いつまで……」
「そのうち来るよ」
「そのうちって……理由、は」
「それは……ご家庭の事情だから言えないな」
個人情報だから安易に教えてくれるわけがないと解っていた。それでも――聞かずにはいられない。
「神崎の家、教えてもらえませんか」
「それも個人情報だからね」
でも、と食い下がる颯真の肩が強い力で掴まれた。斜め上で聞き慣れた声がする。
「すみません、飯田先生。うちのクラスの生徒がご迷惑を」
「野宮先生。いいえ、彼が松永君だったのね」
いきなり迫ったにも関わらず、神崎の担任が颯真に向ける目は優しい。
「松永、ちょっと俺と話をしよう。飯田先生、失礼します」
「……すみません、失礼します」
野宮の隣で颯真も頭を下げる。無言のまま連れて行かれたのは無人の教科準備室だった。懇談以外で呼び出されたことがなく、きっとひどく叱られるのだと思うと、今にも心臓が止まりそうになってしまう。
「座ろうか」
颯真の担任――野宮はそう言って、颯真の向かいに腰を下ろした。
「叱るわけじゃないから安心しなさい。神崎のことが気になる?」
こくん、と正直に頷いた。
「どうして?」
訊ねる声音は想像よりずっと柔らかい。それでもなかなか口を開かない颯真に担任は急かすことなく、言葉を待ってくれている。
「ともだち、だから……」
「そうか。神崎のことは心配しなくていい。担任の飯田先生もいらっしゃるし、保健室の先生だって、学年主任の先生だってみんな神崎のことを心配してるし、守ってる」
「はい」
「松永は今、自分がすべきことをちゃんとやりなさい。ここ数日、授業中もずっと上の空だろう。模試も近いんじゃないか。とにかく心配しなくていい。大丈夫だから」
安心させるように笑い、野宮が颯真の頭の上に手を置く。
「どうした? ああ悪い、こういうスキンシップも苦手だったか」
いえ、と答えつつ、颯真は胸の奥に何か引っかかるものを覚えた。
アルバイトには行っているかもしれない、と思ったのは帰宅してからのことで、けれどもすぐにバイト先を知らないことにためが出た。家も、バイト先も知らない。神崎のことを知った気になっているだけで、実は何も知らないことばかりだ。
神崎がこの部屋に来ていたのはたった数日前なのに、ずっと昔のことみたいに感じる。静かで落ち着くな、と言って、颯真のベッドでやっぱり体を丸くして眠っていた神崎。自分の体を守るような、外の世界から遮断するように体を丸くして寝るのがもう癖になってしまっている。
神崎がいると普段より息がしやすい気がするのは、颯真と同じ波長の人間だからなのかもしれない。とても静かで、気持ちがいい。
神崎は居心地のいい場所をくれた。息がしづらくなったときには助けてくれた。その他のときだって、何度も助けてくれた。それに対して、自分はいくらかでも返せただろうか? 自分がもっと強い人間だったなら、神崎は頼ってくれたのだろうか? 行け、と逃がすのではなく、助けを求めてくれたのだろうか。
毎日学校に来ていた神崎が来られないほど、母親の状態がよくないのだろうか。神崎はそうやって、何年も何年も、ひとりで母親を支えてきたのだろうか。
ねえ神崎、ちゃんと寝られてる?
ご飯、食べてる?
どうしているんだろうって、ずっと考えてしまうんだ。
きっと神崎は大丈夫なんかじゃない。大丈夫だって自分に言い聞かせ、他人を安心させようとしているんだ。
颯真はガタッと椅子から立ち上がった。階段を駆け下りて玄関を飛び出し、隣家へ駆け込む。
「優太朗!」
久し振りに訪れた幼馴染の部屋は相変わらず散らかっていて、優太朗はベッドの上で漫画を読んでいた。肩で息をする颯真を見て、驚いた顔をする。
「どうした」
「っはあ、はあ、あの、ねっ」
「落ち着けよ、ほら、呼吸して。普段運動しねえから、颯真」
「あ、のっ……神崎、のっ」
優太朗は視線を漫画に戻す。
「優ッ! ……お願い、聞いてっ……神崎の出身中学校、教えてっ」
「知らん」
「友達に神崎と同じ中学校の子がいるって言ってただろ、その子がどこの中学か教えてほしいんだ」
地域外からの登校じゃなければ、ある程度の区域は絞り込める。それでも広すぎるけれど、手がかりが何もないよりはマシだ。
答える気はない、と優太朗は態度で示す。颯真は大股でベッドに向かうと、その手から漫画を奪った。
「何すん、」
「なんでそこまで嫌うんだよ、神崎が優に何したの!」
「危ないものには近づくなって諺《ことわざ》があるだろ」
「その危ない内容を、優は自分の目で見て確かめたの_!?_」
「見なくても分かる!」
「見ないでどうやって分かるって言うんだ!」
部屋に怒声が響く。颯真が怒ってんの珍しいなと、ドアの隙間から優太朗の兄が顔を覗かせた。兄貴はあっち行ってろと鬱陶しそうに優太朗が吐き捨てる。ベッドに座り、前髪をぐしゃっと握って重たいため息を吐いた。
「……なんでそこまであいつを気にする。放っときゃいいだろ」
「嫌だよ、神崎は……」
「神崎は?」
「大切、なんだ」
「大切って」
「あいつ、人のことにはよく気が付いて助けてあげられるのに、自分のことは大切にしてやれないんだ。だから僕が、僕が……神崎のこと、大切にしてあげたい」
細くなった目が颯真を見つめた。お前それって、と優太朗が引き攣った声を出す。
「あいつが好き、みたいに聞こえるんだけど」
「うん」
颯真も真っ直ぐに優太朗の目を見つめ返す。生まれた頃からずっと隣にいたから、冗談を言っているのではないと分かっているだろう。
「好きって、そういう……恋人とかの好きって意味で」
「うん」
「キス、とか、えっちとか、そういうことをするってことだぞ」
「優太朗はそういうことをするために彼女と付き合ってるの?」
「いや、もちろんそれだけじゃないけど、そりゃあしたいと思うけど……一緒にいたい、と思うからであって……」
「僕もそれと同じなんだけど、優太朗と僕は何が違うの」
「それ、は……お前、相手は男だぞ」
「知ってる」
「知ってるって……おかしいだろ」
「何が?」
「同性だぞ」
「性別で好きになったんじゃないよ。神崎だから……一緒にいたいって思うんだ」
「お前の負けだな優、口喧嘩で颯真に勝てた試しがねえだろ。さっさと教えてやれよ」
「うるせえ!」
スマホを掴んだ優太朗は兄を押し退けて部屋を出て行ってしまう。ドタドタと階段を降りていく激しい足音が聞こえてきて、優太朗の兄と顔を見合わせ、肩をすくめた。
「あいつな、颯真をナントカって子に取られるのが悔しいんだよ、きっと」
「取られる?」
「ずっと自分の後ろを付いてきて、自分だけを見ていた颯真が初めて外に目を向けたんだ。そりゃあ面白くないよな。まあもちろん、アイツの勝手な独占欲なんだけどさ」
「独占欲……でも先に大切な人を作ったのは優だし……」
「それとこれとは別――だから勝手だって言ったんだよ。彼女と颯真とは『大切』の種類が違うんだ。カレーとラーメンどっちが好きなのか決められないのと同じ」
解るような、解らないような。けれど優太朗は彼女がいても颯真を大切に思ってくれているらしい。自分もやっぱり、神崎と優太朗を同じベクトルには並べられない。
そうこうしているうちに優太朗が戻ってきた。颯真と視線を合わせずに「第二中」と告げる。じゃあなと優太朗の兄が自分の部屋に戻って行った。
「ありがとう、優太朗」
ベッドに俯せで漫画を読み始めた幼馴染の肩に額を押し当てると、優太朗も軽い頭突きで颯真に応えた。
優太朗の家を出るなり、すぐさまスマホで第二中の区域を検索する。自転車で二十分くらいのところで――その程度なら移動可能な距離だ。
翌日の塾の帰り、いつもより少し自転車の速度を上げて第二中の校区を走った。暗くて見慣れない景色に不安感が増す。ゼェゼェと呼吸を荒げながらもペダルを漕ぎ続けた。
もしかしたら散歩には行っているかもしれない。近所のコンビニくらい、自動販売機くらいは。そんな運よく見つかるはずはないと頭では解っている。それでもほんのわずかな可能性に縋るしかなかった。
模試の出来は思ったほど悪くはなかった。一時は勉強に身が入らなかったものの、必死で取り返したおかげだろう。自分がどうこう言われるのは構わない。けれどそれが神崎に及ぶことだけは避けなくてはいけなかった。
試験の帰り、途中の駅で電車を降りてやっと見慣れた第二中の校区を歩く。辺りはそろそろ暗くなり始めていた。
郵便局の近くに差し掛かったとき、話し声が聞こえた。郵便局の先にはブランコと滑り台しかない小さな公園がある。聞こえた声は恐らくそこからで、颯真は思わず駆け出した。
ずっと聞きたいと思っていた声だった。
一言でもいいから、と。
「神……ッ……」
突然、颯真の足が止まった。神崎以外にも人がいたせいだ。路上に停まっていた車に姿を隠して様子を窺う。
声の主はやっぱり神崎だった。ジャージをはき、だぼだぼのトレーナーを着た姿を見て、鼻の奥がツンとした。ここから見ても分かる。痩せた。
神崎は誰といるのだろう。後ろ姿しか見えないが、背格好からして男性であることだけは確認できる。
その人物は神崎の頭に手を乗せると、ぐいっと自分の方に引き寄せた。神崎の姿が男の体に隠れて見えなくなってしまう。
それ以上見ていられずに、そっとその場を離れようとしたときだった。
「大丈夫。心配すんな、碧《あお》。俺が何とかする」
この声を、颯真は知っていた。
毎日聞いている声だ。
学校で、教室で。
たぶん聞き間違い。よく似た声だったのだろう。こちらを向かないでくれ、と願った。だが颯真の願いは叶うことがなかった。
――野宮先生が、どうして。
神崎の担任ならまだ理解はできる。養護教諭なら、百歩譲って学年主任なら。けれど同じ学年とはいえ、特進科の担任の野宮と神崎との接点は……?
一歩下がり、二歩下がり、颯真はやっとその場を離れた。角を曲がると全力で走った。自分の鼓動が聞こえるくらい走り続け、足がもつれて二度転び、それでも走り続けた。心臓がドクドクとうるさいうちは何も考えなくてよかった。
今は何も――考えたくない。
ふらふらになりながらそのまま自宅まで帰り、玄関で力尽きた。そのときのことは覚えていない。玄関のドアを開けるなり倒れた颯真にさすがの母親も悲鳴をあげ、その声で幼馴染家族がすっ飛んできて、危うく救急車を呼ばれるところだったらしい。
熱で朦朧とする意識で、颯真はその話を聞いた。
翌日の学校も休み、夜になると見舞いがてら優太朗がプリントを持ってきてくれた。流行り病ではないと診断を受けたから、優太朗はすぐそばで漫画を読み始める。
「アイツ来てたぜ」
「……うん」
「なんだよ、もっと喜ぶかと思った」
「……うん」
ズズッと鼻をすすると頭が痛くなった。体も痛い。それが熱のせいなのか走り続けたことによる筋肉痛のためなのか。
「きてたなら、いいよ」
「何があった?」
神崎が学校に来られたのだったら、それでいい。
何『か』、ではなく、何『が』と訊ねたあたりは、さすが幼馴染。でも何があった、なんて言えるわけもない。
「なにも、ないよ。神崎とは会ってないし、話もしてない」
「あれだけ必死になってたのに?」
「もういいんだ……優、眠い」
「悪イ、そろそろ帰るわ。学校行けるようになったら呼びに来いよ」
「……ひとりでも平気だよ」
気付いてしまったんだ。
先生の「大丈夫」の言い方や頭の撫で方が神崎に似ているということに。いや逆か、先生の言動が神崎にうつったというのが正しいところだろう。つまりそれほど一緒にいるということ。
職員室で神崎の担任に詰め寄ったときに野宮が現れたのは、颯真が自分のクラスの生徒だからというだけではなく、神崎を守るのは自分だという牽制の意味もあったのかもしれない。野宮に抱き寄せられた神崎は抵抗もせず、自然に体を預けていたように見えたから。やっぱり彼が本当に必要としていたのは頼れる人間なのだ。そんなの分かっていた。自分はただの友人でしかないって。
神崎の母親と遭遇したとき、本当は神崎を守ってあげなくてはいけなかったのに、神崎に守られていた。
自分が、頼りないから。
いや、そもそも神崎にとって颯真は友人の域を超えない存在でしかないのだ。当たり前じゃないか。そんなの、解っていた。
――解ってた……ッ……。
ようやく熱も下がり、一週間ぶりの登校。授業自体は二年のうちに終わっているので問題はなく、クラスメイトも来たり来なかったりするのでやはり問題はない。
「お、やっと来られたか。よかったな」
野宮が嬉しそうに言うが、颯真は「ハイ」とそっけない返事しかできなかった。顔も上げなかったので怪しまれたかと思ったものの、野宮が気にした様子はない。
東棟の教室に行くと、神崎の姿を発見した。久し振りに学校での姿を見られて安心する。神崎は颯真に気が付くと、軽く指を曲げるいつもの挨拶をしてくれた。颯真も優太朗越しに顔に笑みを浮かべて返す。
「教えてくれてありがとう、優」
「別に」
「神崎に余計なこと、言わないでね」
「言うかよ。いきなり話しかけるなんておかしいだろ」
「うん、でももし言ったら、優太朗の恥ずかしい秘密を彼女さんにバラすから」
「っおい、颯真!」
優太朗の恋人のことだって、口にできるようになった。日にち薬とはよく言ったもので、時間が経てばどうにか飲み込めるようになるのだ。自覚したばかりの神崎への想いも、今はまだ辛いけれど、傷が瘡蓋になり、ぽろりと取れて傷があったことすら気が付かなくなる日が来るのかもしれない。
昼休み、外庭の保健室の窓のそばで腰を下ろした。細く開かれた窓――神崎が開けてくれているのだろう。
夏は木が陰《かげ》を作ってくれるおかげで過ごしやすかったけれど、真冬になると外で食べるのは辛そうだ。それでもお気に入りのこの場所で、あと何回食べられるかを数えたら意外と少なくて、できる限りはこの場所に来ようと思った。
放課後になれば保健室に行き、神崎を起こして共に課題をする。終わったら途中までは一緒に帰る。部屋に招くことがなくなっただけで、今までと変わらない日常。
会わないという選択はできなかった。傷を癒すには多くの時間が掛かるかもしれないけれど、事情を知る友人が必要だと思ったから。神崎はきっとひとりで耐えてしまう。野宮に……恋人に話せないことだってあるかもしれない。そんなときに隣で、彼の話を聞いてあげられる存在になれればいい。
そう、自分に言い訳をする。
……まだ彼のそばにいたいだけだ。
一方通行だったメッセージにようやく反応があった。
『心配かけて悪い。もう大丈夫だから』
何が大丈夫なのかと問うことはできなかった。その言葉の裏には「何も見なかったことにしてくれ」というメッセージが隠れている気がしたから。
あっという間に、冬がきた。