それが二週間前のこと。そして、また現在に戻る。

 倫久はやっと学校に来た。スラックスのしわがちゃんと伸びていた。シャツはどうやらポロシャツに買いなおしたみたいだ。
 『委員長、思ったより元気だな』と先ほどのヒロの言葉にニヤリとする。彼がこの2週間頑張っていたことをこのクラスで俺だけが知っているから。

 授業中だが気にせず、スマホを確認する。
 さっき鳴ったのは、倫久からのRINEだった。

 倫久:来たよ 学校
   美緒さんが今日も家においでって 行ってもいいかな

 ニヤついてしまった。慌てて口を引き結ぶ。

 祐一郎:おう来い

 と言葉はそっけなくして、スタンプは動物系にすることにした。スマホをポケットにしまって、また窓を見た。窓には反射して倫久が映っていた。姿勢がいいのは剣道部だからだろうか。
 鬱陶しいくらいに太陽は明るい。もうすぐ期末で、そのあとは夏休みだ。




 ☆☆




 うちの学校には、正門のほかに、徒歩通用の裏門がある。と言っても、バス通、電車通の人間は正門のほうが近いし、自転車通の自転車置き場も正門に近い。徒歩通でも寄り道派には正門のほうがいろいろと店がそろっているため。裏門はほぼ人通りがない状態だ。裏門の存在を知っている者も、少ないかもしれない。
 だが、旺次郎の通う保育園に行くにはこちらからのほうが近い。
 RINEでやりとりして、裏門前で待ち合わせた。
 「へぇ、裏門なんて初めてだ」
 倫久が感心していた。

 裏門を出て寺の境内を抜ける道を通る。10分ほどで旺次郎の通う保育園に着いた。
 「すごい大きな道を使うともう少しかかるよね。良いこと聞いたよ。ありがとう」
 倫久は無邪気に喜んでいる。尊すぎて眉間にしわが寄る。
 カバンから保護者名札を出して園に入ると、いつも通り園児たちの注目を集めた。今日は子分を連れていると、どこかの子がポソリとつぶやいていた。子分じゃない。想い人だと目で訴えておいた。


 園庭で待っていると、旺次郎と理央が出てきた。あひる組の先生は男の先生だ。かわいらしいくまちゃんエプロンをつけていなければ、なにかのスポーツ選手かのようにガタイがいい。
 「今日も、問題なく過ごせました。詳しくは連絡帳に書いてあります。あと、七月二十五日にお泊り保育がありますが……理央君はどうしますか?」
 この先生、自分がガタイが良いのを理解していてしゃべり方がすごく丁寧だ。
 「えっと……」
 倫久は眉を八の字にして困っている。
 「お泊り保育の日は、夏祭りがありまして。保護者の皆さんで屋台を出していただいています。ですから参加なら係りの希望を聞いていてですね。的あて屋さん、魚釣り屋さん、くじ屋さん、あと、たしか長瀬さんところは、今年はヨーヨー屋さんでしたね。もちろんそちらの係りで参加が難しいようなら、お布団を並べる方もありますが……」
 倫久の視線がこちらを向いた。
 「今年は俺が出る。倫久もヨーヨーすれば?」
 倫久はうなずいて、書類を受け取っていた。
 「やったあー、理央君。今年も、お泊り保育一緒だね。お隣で寝ようね!」
 旺次郎が理央君の手をぶんぶん振って、はしゃいでいる。理央君もうれしそうに笑っていた。
 住宅街は夕暮れに染まり、影が長く道に伸びている。
 「保育園っていろんなイベントがあるんだね」
 「あぁ、大きいのだと運動会。お遊戯会。今年は卒園だから卒園遠足と、あと茶話会なんかあるかな……地区別交通委員は?」
 「あぁ、それは4月に終わってるらしいよ」
 「そか」

 旺次郎と理央が先導するように、スーパーに向かった。
 「今日はもらったトマトが山ほどあるから、トマトカレーだ」
 「おーはカレー大好き」
 「ボクも好き」
 「オレも大好き」
 「ぐっ」
 倫久の無防備な笑顔に撃ち抜かれる。全力でトマトカレーを作ることが決まった。この夏は、カレーばかり作るかもしれない。
 スーパーでは特売の卵と牛乳。それにしめじとひき肉をゲットした。


 家に着くと、3人はまっすぐ洗面所に向かった。
 「手を洗った人から、枝豆剥いてください」
 旺次郎がはい!と元気よく返事をした。いつもより、前のめりなのは理央君の前でカッコつけたいからだろう。理央君も枝豆要員に手を上げた。
 トマトは冷凍してあった。水につけて表面を溶かせば簡単に皮がむける。倫久はトマトの皮むき要員になった。
 俺は、野菜をとにかく刻んでいった。我が家のトマトカレーの準主役はしめじだ。およそ2株入れる。ちなみにルーは2種類を混ぜ、隠し味にリンゴジュースを入れる。
 そうしている間に続々と妹たちが帰ってきた。皆がキッチンになだれ込んできて、てんで勝手に好きなものを作り始める。あんとふみはサラダ担当。はるは自由担当。
 俺は煮るだけなので早々にそこから退散した。
 なんだかんだ賑やかに晩御飯の準備が終わる。倫久は目を丸くしたり、笑ったり楽しげだった。
 ちょうどご飯が炊きあがるころ母が帰ってきた。


 いつも通りダイニングテーブルの上はにぎやかだ。はるは卵焼きを焼ていた。サラダは豆腐とアボカドとゆでエビのタンパク質溢れるメニューだ。そこにいつもの常備菜が並び、メインにトマトカレーが置かれた。
 皆が席に揃うと、倫久が立ち上がり頭を下げる。
 「あの……今日から学校に通うことができました」
 ぱちぱちと拍手が沸いた。
 「よかったね。学生の本分は思い出作りだから、学校は行ったほうがいいよ」
 いや、そこは勉強だというべきだろう。まぁ、俺は赤点を取らないギリギリを攻めているから何も言えない。
 「りーくんもお泊り保育来るんだよ。俺の隣で寝るからね!」
 旺次郎の報告が始まった。
 「あぁ、今年もそんな時期なのね……今年の係は?」
 「ヨーヨー。倫久も」
 母は去年、あんとふみとサイコロ屋をやって、子供たちが勢いよくサイコロを投げるものだから、ご主人様の投げる棒を追いかける犬になった気分だったという話をしていた。倫久が笑っている。って、そんなに笑うほど面白いか? ……まぁいいか。
 次の話題は、あんとふみの山の学習の話に移った。
 「あぁ、オレも行ったよ。天体観測をしたんだ。すごいよ。こっちとは星の数が違う。近くに湖があってさ。そこに映る星もきれいだった」
 倫久も懐かしいなと、思い出を語る。
 「祐にぃってそういうの、ぜんぜん教えてくれないからうれしい。うちの祐にぃゴリラなんだよ。前世に引きずられてゴリラのままなんだよ。山の学習楽しみになった」
 あんが俺を横目でジドリと睨む。俺がムッと睨みかえすと。
 「いや、ゴリラは優しくて。穏やかなんだよ。森の賢者って言われてるし」
 倫久の絶妙なゴリラフォローに、あんふみと、はるが爆笑している。
 俺はどういう顔でいたらいいのか、微妙な顔になってしまった。
 「祐にぃ。やさしいゴリラなの?」
 理央君にまじめに質問された。
 「俺はいままで自分のこと人間だと思ってた」
 倫久が耐えられないと、吹き出して笑い始めるから理央君がきょとんとして、笑い始める。この兄弟が二人そろって笑えるならゴリラで良いか。


 「デザートでーす。これさっき作ったの」
 食後、はるが冷蔵庫からケーキ型を持ってきた。
 理央君に目線を合わせて、「これなんだと思う?」とやっている。理央君は「わかんない」と答えている。
 「正解は――じゃーん。プリンです」
 「ちょっと待て、はる。卵焼きにプリンって……卵使いすぎだろ!」
 「もー、祐にぃは無粋だな。せっかく、とも君が学校復帰したお祝いなのに」
 とも君って先輩だからなと睨むが堪えてなさそうだ。
 二パックあった卵を何個使ったのか。最近卵は高いんだからな。と睨むと。
 「そうやって、視線だけで文句言うのやめてくれない? あ、祐にぃ卵白2個分余ったから処理よろしく!」
 あぁ贅沢な方のプリンレシピだ。ということは卵の残量はごく少数だろう。
 8等分に切られたプリンがそれぞれに配られた。倫久を見ると、嬉しそうに口角を上げていた。
 (お祝いだから……お祝い。たまご、お祝い)
 食べ終わるころには、理央君がウトウトし始めた。そして、夜も遅いからと母が車で送った。
 七月の上旬に期末試験は終わり、あとは消化試合のような授業がだらだらと続く。そうしているうちに三者面談があるために早く帰らされるようになった。それに合わせて、倫久は休んでいた部活へ出ていた。
 保育園のお迎えが六時半で、そこから一分でも遅刻すれば超過料金がかかる。部活は授業が終わって二時間だが、剣道部は練習が終わった後、皆で床掃除をする慣例があるそうだ。それをしていると六時半のお迎えには間に合わないため。平日の部活はほとんど参加できなくなっていた。

 中途半端になっていたのが心残りだったのだろう。
 「オレ、今週末の県大会に出たら、部活を辞める」
 倫久はそう言っていた。あんなに楽しそうに部活に出ているのにと思うが、彼には彼の思うところがあるのだろう。
 「祐一郎、応援に来てよ。俺の最後の試合」
 「ん」
 少し寂し気な横顔に気付かないふりをした。
 「祐一郎に見てほしいんだ」
 場所は近くの総合体育館だ。そこなら、理央君や旺次郎もつれて見に行ける。って、そのあと続いた言葉にすぐに反応できなかった。
 恐る恐る見下ろすと、倫久は少し耳を赤くして笑っていた。余計に言葉が出てこない。試合の日に食べるものってなんだ。うん? カツ丼? カツサンド? カツカレー……頭が一生懸命に日常を探り出す。
 週末はカツを揚げようと心に誓った。

 きっと言葉に他意はないのだろう。俺のような下心などない純粋に……。いや、俺の気持ちだって純粋だ。

 ☆☆

 夏の体育館は想像を絶する蒸し暑さだった。理央君と旺次郎のリュックの中には熱中症対策の水筒と塩ラムネ。汗拭きタオルと背中タオルの変えも入れて準備万端だ。

 剣道の試合は声を出して応援してはいけない。だから、旺次郎と理央君は応援用に拍手の練習をたくさんした。彼らはやる気満々だ。俺は見つかってもばれないようにキャップを深く被って適当な場所に座った。
 剣道の観戦は保護者が多いようだ。

 日程表を見ると今日は男子個人戦、女子団体戦、明日が女子個人戦、男子団体戦だった。今日の倫久の出番は第3コートの第二試合。ちょうど座ったところからもよく見える場所だった。
 倫久に限らず、剣道着を着ていると皆、礼儀正しく強そうに見える。倫久は次の試合だからか、コートの外でスタンバっていた。
 俺は剣道のルールをよく知らないが、竹刀同士を向けあってじりじりと間合いを詰めたり、踏み込むときの足の音にびっくりしたり。かなり見ごたえがあった。なんというか、武士だ、ここにいるのはみな武士の生き残りだ。
 見ていた試合は、背中に赤い帯を挟んである方が、すごい速さで二連続、胴を打ち抜き勝ち上がったみたいだ。
 入れ違うように倫久が入ってきた。
 先ほどの選手たちはせわしなく動いていたが、倫久は竹刀の先を動かすだけで、あまり動かないタイプのようだ。相手の選手がじれて、踏み込んだところにコテと一本入れた。見惚れていて拍手が遅くなる。かっこいい。理央君も旺次郎も練習の成果を発揮して、拍手を送っていた。
 続いて、倫久は竹刀を上下に揺らしながら間合いを詰めていく。相手はガンガン行こうぜにコマンドを入れなおしたのか。バンバン打ち込み始めた。倫久はそれを冷静にさばいている。
 声がすごい。
 大振りになった相手が、大きく振りかぶったところを、後ろに下がることでいなし。振り下ろしたところをコテで一本取った。
 白い旗が二本シュバッとあがって、一人はバサバサ振っている。
 どういうことだ? だが、今ので決まったみたいだ。
 倫久は二回戦に上がったらしい。コートから出て周りを見渡している。その視線が俺たちに向いた。ちいさくコテを振って見せた。
 なんかもうすべてかっこよかった。
 「理央君の兄ちゃん。かっこいいな」
 理央君もうなずいて、にこにこしている。ルールなんてわからなくても倫久が強いのはわかった。まっすぐなのも。
 倫久は結局、ベスト8まで勝ち進んだが、そこでシードと当たり負けてしまった。全国へはいけなかった。
 そして次の日、倫久たちの団体戦。いきなりシード校と当たったみたいだ。昨日対戦した相手との2度目の試合となった。
 倫久は副将。もうすでに、先方次鋒中堅と負けていて敗退が決まっていた。
 倫久は真っ直ぐに竹刀を構える。昨日と違って倫久は狂戦士モードだった。技を打つと、間髪入れず次の技を繰り出している。
 最後だからできることを全部やっている。そんな感じだった。
 相手は気圧されているのか防戦一方で。そんな中、倫久は相手が振りぬいた隙をついて、メンを打った。パァンとこぎみ良い音が響く。3人の審判が一斉に旗を上げた。倫久はゆったりと動いていて、余裕を見せている。

 二人はまた開始線に戻り構えた。相手が落ち着いたのか。倫久は攻めあぐねている。じりじりとしているのがこちらにも伝わってきた。打っても交わされ。また、打ってもいなされる。焦れたところを、うまくコテを返され。相手にも一本入った。

 1対1。

 倫久は開始線に立つ前に大きく深呼吸をした。そしてたぶん、こちらを見た気がした。俺はそれに合わせて手をあげる。
 はじめ!という声とともに。倫久はバッと前に出て気勢を発する。驚いた相手がそこに振り下ろす。その隙をついて、まっすぐにメンを狙った。スパンっときれいにメンが入った。
 審判3人がシュバッと旗をあげる。
 圧巻の勝ち方だった。なんだろう、たった10秒ほどのことなのに緊張と動悸、勝利と歓喜で涙が出そうだ。
 理央君も旺次郎もバチバチと手を叩いている。

 団体戦は大将戦が引き分けになり。3対1で負けた。倫久たちの全国大会への挑戦は終わった。倫久たちは試合の手伝いや、片づけがあるからあとで帰ってくるらしい。

 祐一郎:試合お疲れさま すごいな

 そして少し考えて、もう一行足す。

 祐一郎:かっこよかったよ

 RINEを送って、幼児二人の手を取る。俺の好きな男はすごい男だった。そう思うとなんだか、胸が軋んだ。あれだけ強くなるのに彼はどれだけ練習を重ねてきたのだろう。

 ☆☆

 倫久の県大会健闘会を、家で行うことになった。母がお寿司が食べたい!というので、大量の寿司ネタを買ってきて、手巻き寿司パーティーをすることにした。

 夕方、私服に着替えた倫久が到着する。リビングでは、あんとふみに理央君が構われているいつもの風景を見て笑っていた。
 「手伝うことがある?」
 倫久はまっすぐ俺のいるキッチンにやってきた。
 「特に」
 もう全部準備はできた、母が帰ってくれば始められる。
 「じゃあさ。ちょっと話がしたい」
 倫久が俺のシャツの裾を引っ張った。なんだその仕草、あざといぞ。って少しドキリとした。
 「ん。じゃ、先に部屋へ行っといて」
 倫久はうなずいて、廊下に出ていった。それを見届けてから、シンクの縁に手を突いた。
 (え?話したいことって何だ?思い当たることがない。いや、もしかしてあれか?かっこいいなんて調子に乗って送っちゃったからか?いやあ。うーん)
 とりあえず、ペットボトルとグラスを持って後を追った。
 部屋に入って絶句する。倫久が俺のベッドに座っている。表情筋が緩まないように口を引き結ぶ。
 俺は勉強机の椅子に座って、倫久に向かい合った。
 「試合、見に来てくれてありがとう」
 「ん」
 「全国行けなかったよ。個人戦はあと1勝だったんだけど」
 「でも、強かったよ」
 ルールはよくわかんねぇけどな。と足して倫久をじっと見た。倫久は嬉しそうな顔をして照れた。
 「応援があったから、頑張れたのかな……」
 「ん、頑張ってたわ」
 俺は手を伸ばして倫久の髪を混ぜた。うん、これは旺次郎を褒める時のほめ方だった。倫久が顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。なんか、ごめん。
 「あのさ。ご褒美お願いしてもいい?」
 「え?あぁ」
 「オレと写真撮って……」
 「あぁ」
 返事をした後、一瞬の沈黙がよぎる。
 (ん?写真?)
 ガバリと倫久が顔を上げて、ほんとに?と目で疑うように見てきた。
 (なんでそれがご褒美になるんだ?俺にとってはご褒美だが?)
 とりあえず、立ち上がると、倫久も一緒に立ち上がった。
 「どうする」
 「えっと、じゃあ」
 腕を組まれた、そのまま倫久がスマホを掲げる。そちらを見ているとカシャカシャと音がした。倫久がそれを画面で確認して俺に見せてくる。

 「祐一郎の顔、きょとんとしてる。ありがとう」
 「ん。これがご褒美になるのか?」
 「うん。なんか祐一郎ってオレの……お守りみたい。困ってたら助けてくれて、頑張りたいときは背中を押してくれる」
 「頑張ってんのも、足掻いてんのも倫久自身だけどな」
 倫久は目を細めて口角を上げた。

 「そういうとこだよ」
 「ん?」

 倫久はそのまままたベッドに座った。俺もそのまま隣に座る。

 「でも本当に剣道部辞めてよかったのか」
 「うん。最初は辞めたくないって思ってたんだ。でも、辞めない選択をすると今度は周りに迷惑がかかる。きっと、みんなは迷惑なんて思ってないって言うだろうけど。そうやってどんどん、まわりに負担を強いるのは違う気がして。だからさ。辞めさせられるんじゃない。辞めるんだって決めることにした。もう、三段は五月の昇級試験でとってるしね」
 「そか」
 なんとなくわかる気がした。今の俺の境遇もしかり。自分が選んだってことが大事なのだろう。

 「それに両親がお金を残してくれてはいるけど。理央にしっかり残してやりたいんだ。だから、奨学金目指そうと思って。部活がなければ、勉強に時間がとれるから」
 「そか」
 言い聞かせるような穏やかな口調で、もう決めていると、決意のこもった言葉だった。倫久はしっかり将来を考えていて偉いな。俺は将来どうしたいなんて考えたこともなかった。

 「やっぱ、祐一郎と話してると、すっきりする」

 倫久が体をこちらに向けて、俺の目をじっと見てくる。優し気で凪いだ目だった。

 「さっきさ。お守りって言ったけど、本当は好きな人って言いたかったんだ」

 語尾が震えている。俺は急なことで頭も口も回らない。
 何かを言わなきゃ。だけど目を見たら逸らせなくて、言葉が思うように出てこない。

 「ごめん、男同士で気持ち悪いよね。今日は気が大きくなってるのかな」
 倫久は頬を赤くして立ち上がると、さっさとドアの向こうに行ってしまった。

 ぱたんと扉が閉まる音で我に返る。
 「え?」
 後ろに倒れて、枕を抱き込む。声が漏れないように顔に当てた。
 「えええええええ?」

 いや、どうする。答えるのか?でも……きっと、倫久は卵からかえったひなが目にはいたものを親だと思うように。たぶん、困っていた時、最初に声をかけた俺に刷り込まれているだけなんじゃ。好きになられるより、その理由の方が納得できる。きっと……そうだ。



 母が帰ってきて、手巻き寿司パーティーが始まった。
 食事中、何度か倫久からチラリと視線を送られたが、俺は気にすんなって笑顔を返しておいた。勘違いで苦しいのは今だけだ。わかってる、俺は勘違いなんかしない。


 週明けに修了式があった。
 倫久はクラスメイトに囲まれていた。前まであったいつもの光景だ。イケメンで、男女問わず人当たりがよくて、先生からも信頼されている。成績も運動神経もいい。修了式は皆シャツとネクタイ着用だった。倫久のシャツにはちゃんとアイロンがあたっている。
 頑張ったんだな。

 白鳥のあがきを知るのは、底辺で見上げている俺だけで十分だ。
 うだうだ過ごしているうちに、お泊り保育の日になった。
 保育園から配られたお泊り保育と夏祭りの係決めは、特にもめることもなく。俺と倫久はヨーヨー屋に決まった。担当の先生はあひる組の先生だった。こちらも顔見知りだから問題ない。
 昼から保育園の遊戯室へ集まって、同じ係の人たちとヨーヨーを作ることになっていた。
 倫久とは修了式以来だから三日ぶりだ。学校に通っていれば、用事がなくても毎日会うがそれがなくなれば俺たちの接点なんて特にない。これが現実だ。
 下駄箱で履き替えていると、倫久が現れた。
 「これからヨーヨー作るんだよね。作ったことある?」
 「いや」
 「オレも」
 「ん」
 思ったよりスムーズに話が進む。どんな表情をしているかなんて見られるわけもなく。なんだかお互い前だけ見て話をしていた。
 そうしていると、同じヨーヨー屋担当の母親たちにみつかって、準備が始まる。
 「すごい、結ばなくていいんだ。これ便利だね」
 パチンと止めるプラスチックの部品を見せながら、倫久が無邪気に見上げてくる。
 「ん」
 母親たちはさっさと流れ作業を確立して、倫久は膨らんだ風船に釣りゴムを挟んで止める係をひたすらやっている。母親たち曰くとても器用そうだからだそうだ。俺はその隣でもう一人の母親と紙縒りを縒っていた。地味だが楽しい。
 あっという間に準備された100個が完成した。園児一人に二個の計算らしい。

 作業が終わるとあとはひたすら夕方を待つことになった。母親たちは何やらにぎやかに話をしている。俺たちは二人並んで、遊戯室の隅に座っていた。
 「夏休み、なにしてるの?」
 「あー旺次郎の世話」
 俺が家にいると、旺次郎は保育園に行きたがらない。
 「ひとりふたりも一緒だから、理央君も来る?」
 何の気なしだった。いや気まずいと思っている、頭の片隅にはあの告白が残っていたのだが、きっと旺次郎が喜ぶだろうなと思った。言い訳臭い。自分が会いたいというには、自分の気持ちはあやふやすぎるのだ。でも、ふと夏休み中だろうと会いたいなと思ってしまう、業が深いと思う。

 「ほんと……祐一郎は裏表がないね」
 単純馬鹿と言いたいのか。いや、倫久はそんな厭味を思うことはないだろう。
 「じゃあ、理央が保育園に行きたがらないときはお邪魔するよ。オレもついていくけど」
 倫久はにっこりと笑って俺の目を真正面からとらえる。
 「あぁ」
 「言質とったからね」
 少しうれしそうに笑う。
 「あぁ、友達と遊びに行きたいときでもいい」
 「なんかそういうのはもういいや」
 せっかく笑っていたのに、曇ってしまった。
 「オレさ。将来は会社員か、公務員って漠然としたことしか考えてなくて。剣道続けるなら警察官でもいいなくらいで」
 「ん」
 「でも、今は弁護士になりたいなって思ってる」
 「そか」
 「両親の事故の時、親身になってくれた弁護士の人がいてさ。ああなりたいと思った。だから今は勉強がしたい」
 なんだかまぶしかった。お金のことといい、進路のことといい。倫久は俺とおなじ年なのに真剣に悩んで答えを出している。辛いことがあったのにすごく前向きだ。
 「俺なんて、夏休みの過ごし方で、母親と喧嘩したばっかだ。倫久はえらいな、ちゃんと考えてて」

 倫久がまぶしかった、心から。
 「……倫久ならできる」
 と言った。
 倫久がぐっとうつむいてから顔を上げた。頬が赤い。
 「祐一郎は?」
 倫久の決意を聞いた後でごまかせないと思った。
 「俺は……うちは兄弟が多いだろ。なんか、はるはお菓子を作る人になりたいって、きっとそれにはお金がかかるだろうし。はる自身もそのためにバイトしてる。そういうのを支えたいと思うから、自分の将来にまで手が回らねぇ。それに……」

 今の成績はひどい。大学に行けたところで、どうにかなるとは思えない。まだ固まってない未来が心細いように感じた。だから妹のせいにした俺はずるいのかもしれない。

 「祐一郎はほんと、優しいな。家族思いだ。当たり前に人を尊重する」
 「いや……」
 倫久は首を振って、俺の否定を否定する。

 「優しいよ、祐一郎ならきっと見つけられる」
 力強い言葉だった。どうしてそんな風に俺のことを信じられるのか、不思議だ。だが、欲しかった言葉だった。体温がじわじわと上がっていく。

 「ありがとう」
 「どういたしまして」
 未来は漠然としていた。そのためには何が必要か、何をしなければならないのか。分からないことだらけだ。でも、そう思うたびにきっと倫久の『祐一郎なら、見つけられる』が脳内をめぐりそうだ。

 「そうだ、一緒に勉強しよう」倫久は良いことを思いついたという顔をして、提案してきた。
 「ん」
 「勉強すれば選択肢は広がるって」
 倫久が笑う、俺だけに向けた屈託のない笑顔だ。



 「ちょっと男の子たち!カレーのお米が届いたから運ぶの手伝って!」
 遠くで呼ばれた。
 「いこっか」
 「ん」
 遊戯室内はすっかり、夏祭りの屋台が並んでいた。
 「これも夏の思い出?」
 倫久が笑いながら聞いてきた。
 「夏の思い出だな」
 皆でカレーを食べ終わってからが夏祭りの本番だ。子供たちが一斉に屋台に向かう。ヨーヨー釣りは、ほどほどに盛り上がった。倫久は初恋キラーだ。女の子たちがキラキラした目で倫久を見ていた。俺も隣りにいたが、全くそんなことはなかった。遅れてやってきた旺次郎と理央君は、くじ屋さんで当たったものと、さかな屋さんでとったものを見せながら楽しそうに笑っていた。


 高校2年の夏。青春真っただ中と言うやつなのだろう。


 それからほぼ毎日、倫久はうちに来て勉強している。ありがたいことに、俺の勉強も見てくれて、初めて夏休み期間より前に宿題が終わった。倫久はいつも七月中には終わらせていたそうだ。

 ダイニングテーブルには大量のてんぷらと、ざるいっぱいのそうめんが並んでいる。
 「そういえば、とも君。初盆どうするの」
 倫久は、理央君と並んでマイタケのてんぷらをほおばっていた。
 「弁護士さんに教わって、飾りとかできる範囲でやる予定です。お寺の人には昼から来てもらうことになりました」
 「そう……親戚の方は?」
 「祖父母はどちらとも亡くなっていて、親戚は母の姉だけです。いちおう、お寺さんの来る時間は伝えています」
 母は眉間にしわを寄せていた。
 「じゃあ、初七日以来ね」
 倫久の両親が亡くなって、半年近いが一度も家に顔を出したことはないそうだ。
 「……そう、ほんとうにいやらしいわね……」
 理央君に聞こえないギリギリのトーンで毒づいた。倫久は苦笑いを返す。
 「祐一郎、初盆にはついていてあげなさいね。私よりもあなたのほうが適任だと思うわ」
 なぜか母が困ったような笑みを浮かべていた。
 「ん」
 その時はその思わせぶりな言葉を、なんとなく流したが、初盆で遭遇した倫久の親戚はやばい人たちだった。

 夏休みに入って初めて制服を着た。倫久に玄関で迎えられる。
 とりあえず、母から預かったメモを持って確認作業を二人でした。お供え、お飾り。理央君が頑張って作った気持ち足長めの精霊馬も飾ってある。
 「えらいなぁ、理央君」
 わしわし、頭を撫でるとうれしそうに笑った。
 倫久が時計を見ながら「お寺さんから連絡あって、もうすぐ来るらしいよ」と言った。
 待っていると、突然ガラガラと玄関の引き戸が開く音がした。驚いて玄関に向かうと、母親とおなじくらいの女性が立っていた。その後ろから、おじさん。多分その子供だろう。中学生くらいの男の子。その制服には見覚えがあった。隣町の中学だ。三人は当たり前のように入ってくる。
 「おじさん、おばさん、こんにちは」
 倫久が驚いて迎える。
 「誰この子?」
 おばさんが俺を見て怪訝な顔をする。
 「友人の長瀬君です、初盆だからって、手伝いに来てくれました」
 おばさんはふーんと言って、さっさと上がっていく。理央君が俺のところにやってきて、珍しくしがみついている。

 「理央君。元気だった? お母さんのお姉ちゃんよ。覚えてる?あらあら、ご飯ちゃんと食べてる?やせたんじゃない?」
 俺の存在は丸っと無視して、理央に話しかけている。いや、理央君は、やせてない。むしろ背が伸びた。
 「あ?」
 何適当なこと言ってんだと、俺が睨むとおばさんが「怖っ」と慌てた。

 「おい倫久。お茶出せ」
 勝手に上がっていったおじさんの方は、どっかりとソファに座った。中学の息子は俺を見て目を見開いたが、こっちも、さっさと上がっていっておじさんの隣に座った。
 おばさんは理央君が俺から離れないので、あきらめて、家の中を見て回っていた。キッチン、ダイニング。洗面所に、トイレ。リビングに戻ってきてもまだキョロキョロとしている。
 「トイレの紙。なくなりそうだったわよ」「キッチン。洗ったものはしまわないと埃がつくわよ?」「初盆のお飾りこんなのしかなかったの?」
 おばさんは怒涛のダメ出しを始めた。一言で言うと、何なんだこのおばさんだった。
 「やっぱり、理央君が心配。家を売って家に来なさいよ」
 締めくくるように言っておじさんの方を見る。
 心配するのは理央君だけなのかよ。結局、初盆だってこの人たちはてつだいすらしなかった。親戚だというのに言動がいちいち胡散臭い。

 俺は知っている、倫久が両親を亡くして、この半年弱必死に生活をしていたことを。何もわからない状態から一つずつ覚えて、生活を立て直したことを。何も知らないで、なんでそんな風に言えるのかわからない。ましてや手を差し伸べることだってできたのに、しなかった意味もわからない。
 おばさんはなおも、庭が汚いとか。理央君の服がしわっぽいだとか。難癖をつけていた。確かに、これを母が聞いていたら、速攻こぶしが飛ぶ。話し合いではなく、果し合いになる。

 俺も怒りが限界だ。こぶしを強く握って睨んだ。倫久が隣に来て、俺の握ったこぶしを撫でる。

 「ご教授ありがとうございます。ご提示いただいた点については考慮していきます」
 倫久は怒りも、あきれもしてない平坦な口調で、口角を上げてお辞儀をした。

 それを聞いて怒りが吹き飛んだ。口調が厄介な患者を相手にする母そのものだった。理央君もぺこりと頭を下げて「考慮していきます」と言った。
 おばさんは目を丸くして、倫久を見ている。
 俺はなんだか冷静になれた。頭がすっと、クリアになった気がする。
 「おばさんが、どういうつもりか知らねぇけど。さっきから、いろいろ気づいてすごいなとは思うよ。だけど、じゃあ、気付いたならなおそうとは思わないの? トイレの紙は? 食器は? 初盆の準備は? 何一つ手を出さないで、口だけ出してあげつらうのって親切って言うより、いじわるなんじゃないの?」

 深呼吸をして唇を舐める。口が乾いてしょうがない。

 「倫久と理央君が二人で生活を始めて半年近くたった。その間心配じゃなかったの? なんで一度も見に来なかったの? 倫久は高校生だし、理央君は保育園児だ。俺だったら心配で毎日見に来るよ。それって倫久たちが失敗して、助けを求めるのを待ってたの?」
 おばさんとおじさんをじっと睨みつけた。
 「……最低だな」
 ぜんぜん、冷静になれてなかった。
 「祐一郎、本当のことが一番傷つくんだよ」
 フォローのようなフォローじゃない言葉だ。倫久も全然冷静じゃなかった。追い打ちをかけてきた。
 「でも、おかげで俺たちは二人で生活できるって証明できたし。いまさら口も手も出させないよ」
 倫久はおばさんたちを睨んで、俺の方に顔を向ける。
 「オレのために怒ってくれてありがとう」
 「ん」
 おばさんは違う、違うと言っているが、それはおばさんの主観だ。外の蝉みたいな鳴き声にしか聞こえない。

 にらみ合っていると玄関のチャイムが鳴った。お寺さんが来たようだ。

 お寺さんは、倫久が準備した初盆飾りを褒めてくれた。おばさんとは対照的だ。
 低い朗々とした読経を聞いて、倫久の両親に手を合わせる。ちらりと見た、倫久の姿勢の良さと凛とした横顔に、自分も背筋を伸ばした。つい、一番怒りたいだろう倫久を差し置いて、俺が怒ってしまった。反省で空気となっていた。

 おばさんたちは、お寺さんが帰るタイミングで帰っていった。


 倫久はやれやれと、ソファに座って天井を見上げている。俺も隣に座って、理央君を膝に乗せた。
 「18歳になったら理央の成年後見人になるつもりだ。オレ5月生まれだから、あと半年経てば、誰も口も手も出させなくできる」
 倫久は顔を上げてまっすぐ前を見ている。
 「俺は倫久も心配だよ。そうやって理央君を守るって言ってんの。倫久だって守られる年だろ」
 倫久はこっちを向いて、手を伸ばしてくる。なんでか握手を求められた。
 「大丈夫、オレのことはきっと、祐一郎が見てくれる」
 俺は握手をし返して、ちょっと考えた。
 「見てるのが俺で良いのか?」
 「祐一郎が良いって言ってる。」
 握っていた手を少し緩めると、その分強く握り返された。
 「そか」
 「そうだ。オレの剣道の試合見ただろ。オレはガンガン攻めて相手に突っ込んでいくタイプなんだ」
 「おう」
 自分でもこんな真夏のさなか、ソファにくっついて座り、暑いよりも心地いいと思うのは、もう好きだと言ってるようなもんじゃないかと思う。
 理央君があくびをして、つられて俺もあくびをした。自分が思うよりも、気を張っていたのだろう、気付けば夕陽が部屋に差し込むまで寝ていた。