テレビ画面に武装した男キャラクターの背中が映っている。男は鬱蒼とした密林地帯を抜け、崖が連なる渓谷地帯へと出た。そして、男はそのまま崖に飛び出し、谷底へと落ちてゆく。
【GAMEOVER】
黒い画面におどろおどろしく表示された赤文字を見て、俺は左隣の恐田を睨みつける。
「何やってるんだよ、恐田ァ!! 崖から落ちてるじゃねぇか!!」
「鬼越がジャンプしないからだろ」
恐田が手元に目をやる。一つのコントローラでゲームを二人プレイする唯一の方法、それはコントローラを左右で半分ずつ持ち、それぞれ操作することだ。
俺が右側、恐田が左側。肩と肩とを触れ合わせ、一つのコントローラを分かち合う。主に俺がボタンを押してキャラクターに攻撃やジャンプをさせ、恐田がスティックを操作してキャラクターを移動させる。
「まさか崖の方に向かうとは思わねぇだろ! ジャンプならジャンプって言え! いいな?」
「わかった」
俺はボタンを連打し、ゲームを再開する。先ほど落下した地点の少し前、密林地帯からのスタートだ。恐田がスティックを操作し、男が密林地帯を抜けてゆく。渓谷地帯に出た。崖の方へと突き進んでゆく。
「ジャンプ」
「おうっ!」
男は大きく跳躍すると、そのまま谷底へと落下していった。
【GAMEOVER】
「何でッ!?」
恐田がじっと俺を見る。
「滑空しないと向こう岸まで届かないよ」
「言えよッ! もう一回!」
崖際でタイミング良くボタンを押し、男が大きく跳躍する。そこで別のボタンを押すと、男はプロペラのような道具を頭上に掲げ、崖の間を滑空し始めた。
「おっし! ……ん、なんか鳥が飛んで来たぞ!」
滑空していると、上空から巨大な怪鳥が飛んできた。このままでは衝突してしまう。
「弓使って」
「どのボタンだ!?」
「それ」
「よっし」
恐田が指差したボタンを押す。男はプロペラを仕舞い、弓を構えた。
「狙いを定めて……!」
男は怪鳥目掛けて弓を構えたまま、谷底へと落下していった。
【GAMEOVER】
「おいっ!!」
恐田に詰め寄る。
「ハネ仕舞ったら落ちるよ」
『ハネ』というのはプロペラ型の道具のことだ。どうやら羽を出しながら弓を構える方法があるそうだ。
「交代だ、交代! あんたがボタンを押してくれ! 俺がスティック操作するから!」
「わかった」
恐田が俺の右隣にやってくる。コントローラを半分ずつ持ち、先程よりも密着する。近いな、とは言えなかった。言えば、恐田は距離を取るとわかっていたからだ。
肩越しに恐田の熱が伝わってくる。コントローラを操作すると、肩が擦れてむず痒い。身体が熱いのはゲームに熱中しているせいだろうか。
「鬼越、敵に近付いて」
「お、おう!」
密林地帯で男が猿によく似た獣の群れと相対している。俺は慌ててスティックを奥に倒し、敵のもとへと男を送り込む。
「鬼越、近付き過ぎ。もっと引いて」
男が敵にバカスカ殴られている。みるみるうちに大量ゲージが減ってゆく。
「マズいマズいマズい!」
慌ててスティックを手前に引く。男が敵から遠ざかり、誰もいないところで剣を振っている。
「鬼越、引き過ぎ。もっと前」
「ムズいんだよ、コレ!」
スティックを奥に倒す。今度は男を群れのど真ん中まで送り込んでしまった。男が獣から袋叩きに遭い、悲鳴を上げている。
【GAMEOVER】
「鬼越……」
恐田が冷ややかな視線を向けてくる。俺は悪くない。ゲームも悪くない。強いて言うなら遊び方が悪い。
「半分ずつでまともにできるわけないだろ!! 大体何でオープンワールドなんだ!! もっとこう……あるだろ! 作物育てたり、牛育てたりする平和なゲームが!」
「それ、二人で操作して楽しい?」
作業ゲームを二人でやれば、ストレスが溜まることは目に見えている。
俺が言葉に詰まっていると、恐田はコントローラを放して立ち上がった。
「右と左でやりにくいなら、もういっこ方法あるけど」
「もういっこ?」
恐田は俺の背後に回り、胡座の俺を抱き抱える形で座った。俺の両手を覆うようにコントローラ上部の右側と左側にあるトリガーボタンへと指を沿える。
「上と下で半分こ。俺はトリガーボタンを押すから、鬼越はボタンとスティックをよろしく」
「確かに半分こだけど……」
背中越しに恐田の心拍を感じながら、ゲームを再開する。耳元に聞こえる恐田の指示どおり操作すると、先程まで苦戦していた敵を倒し、崖の間も渡り切った。要所要所で恐田がトリガーボタンを押し、ゲームをサポートしてくれるおかげでスムーズに進められる。
だが――
「……恐田、これ楽しいか? 九割九分俺がやってるだけだぞ?」
気の置けない友人ならともかく、初めて訪れたクラスメートの家でやることではない。
俺が心配している後ろで、しかし恐田は声を弾ませた。
「楽しいよ。……ドキドキする」
「確かにスリリングだけど、さっきまでのほうがドキドキしたぞ? いろんな意味で……っと、マズいマズい」
いつの間にか敵に囲まれていた。武器を切り替えようとトリガーボタンに指を伸ばす。
「あ……」
恐田の指ごとボタンを押してしまい、思わずボタンを放す。恐田がどうしたものかと人差し指を宙に浮かせている。
指示を出すのも躊躇われ、俺はスティックを動かした。
「ちょっと逃げるか」
咄嗟に近くの崖に飛び出し、ハネを広げて逃げ出した。高所から広大なフィールドを俯瞰していると、世界の広さに圧倒される。敵から追われる身でありながら、このゲームの主人公はなんて自由なのだろうか。
ふと俺から逃げ回る恐田の姿が頭を過った。恐田は地上二階から飛び降りることも、階段を一足で飛び降りることもできる。このゲームのキャラのように自由な存在だ。
しかし、自由とは言え、危険が付きまとうのもまた事実。このゲームのキャラだって、一歩間違えれば地上に落下してゲームオーバーだ。現実世界で大怪我をしてもリセットはできない。スリルを求めてわざわざ危険を冒すことに何の意味があるのだろうか。
しかも、恐田はわざわざ授業をサボり、俺を挑発して追いかけさせている。俺がパルクールを見せてほしいと要求したことも一因なのだろうが、果たしてそれだけの理由で危険な行為に身を投じるだろうか。
目黒の言葉が脳裏を過る。
『いやどう見ても、鬼越の気を引こうとしてただろ』
目黒の言葉が正しいとすれば、恐田の行動は辻褄が合う。今にして思えば、俺から距離を取り始めたのも、俺の気を引く行為の一環だったのかもしれない。
(押して駄目なら引いてみろ、か)
「……なるほど。俺はまんまと恐田の策にハマったってワケだ」
「何のこと?」
恐田が俺の耳元に口を近付ける。
俺はテレビ画面を凝視したまま答えた。
「恐田は俺の気を引こうとしていたんだろう? パルクールを見せてくれっていう俺の言葉を逆手にとって、授業をサボって、クラス委員である俺を誘き出した。急に俺を避けるようになったのだって、こうして俺を家まで誘き寄せるのが目的だったんだろう?」
「え……?」
恐田が言葉に詰まる。図星という奴だろう。
「……普通、家までつけて来ないだろ」
困惑していたようだ。恐田に正論を言われると非常に悔しい。普段から常識外れな行動を取っているのは恐田だというのに。
俺は唇を尖らせた。
「だったら何で俺を避けたりしたんだよ! 体育の時間だってそうだし、この前のノートの時だって急に居なくなっちまうし! やっぱりあんた、俺が口喧しく言ったから怒ってるんだろ!?」
「それは……恥ずかしかったから」
恐田の声が尻すぼみになってゆく。
「恥ずかしい? 何が?」
「…………が……」
「何だって?」
ゲームを中断して振り返った先で、恐田は顔を俯かせていた。これでは恐田の声が聞こえない。
俺が下から覗き込むと、恐田は――顔を真っ赤にしていた。
「鬼越に近くで見られると、恥ずかしいんだって……!」
「は……!?」
思いもよらぬ言葉に俺の身体は硬直した。恐田を見ているだけで顔が熱くなってゆく。
(な、何か言わねぇと……!)
えー、と言葉にならない声を出す。一度沈黙してしまえば、何も喋れなくなる気がした。
「お、俺に見られると恥ずかしいって……何で?」
やっとの思いで絞り出した言葉は、しかし火に油を注ぐようなものだった。
「そ、それは……」
ごくりと唾を呑み込む。何故だろう。恐田の回答に期待している俺がいる。
恐田の耳が赤くなる。釣られて俺も赤くなる。
「……恐田が――」
「ああっ!! わかったァ!! これ以上すげぇ技を見せられないから、合わせる顔がなくて恥ずかしいんだろォ!? そうだろォ!?」
我ながら臆病者だ。欲しい答えを貰えない可能性を危惧して、答え自体を封じるなんて。だが、こんな小手先の阻止をしたところで真実はすぐにやってくる。
恐田の返事は、しかし俺の予想とは反するものだった。
「……そうかもしれない」
え、と俺が目を丸くしている先で、恐田は静々と語り始める。
「俺はもっと鬼越に見てもらいたかった。授業をサボったのも、校内を逃げ回るようになったのも、鬼越に追いかけてもらいたかったから」
「追いかけてもらいたかった……?」
頭が追いつかない。俺に追われることに何の意味があるのだろうか。鬼に追われるなんて辛いだけではないか。
俺の疑問を感じ取ったように、恐田が次の言葉を紡いだ。
「だって、追いかけてくるってことは、俺に興味があるってことだろう?」
思わずコントローラを放すと、代わりに恐田がコントローラを操作し始めた。主人公が悠々と滑空している。
「昔は、俺が走るだけで親が追いかけてきた。俺が手を引っ張れば、親も笑ってついてきてくれた。だけど今は……俺のことを見ていない。多分、俺が何を食べているのかすら知らないと思う」
おでんの入っていた容器を見遣る。容器を跨る割り箸が震えているように見えた。
恐田の言葉が思い返される。
『二人とも忙しいから。八時にならないと誰も帰って来ない。帰って来たところで誰も喋らないけど』
「……親の仲が良くないのか?」
恐田は首を横に振った。
「俺に費やす時間を惜しんでいるんだと思う。二人とも仕事で疲れているから。声をかければ疲れた顔をされるし、目につくことをしても疲れた顔をされる」
「そんなこと……」
ない、とは言えない。何故なら、俺は恐田家の事情を何も知らないから。形式ばかりの慰めなど腹の足しにもならないのだ。
「俺は空気が読めないから、いつも二人を困らせる。叱られたって、すぐには直せない。だからもう、二人は俺に口出ししなくなった。こんなに広い家なのに、夜更けみたいに冷たくて、他人の家みたいに息が詰まる。……自由なのに、全然自由じゃない」
恐田がじっとテレビ画面を見つめる。そこでは、男が谷を越え、大地に降り立ち、澄み切った青い空を見上げている。
「だから、鳥みたいに自由に飛び回るパルクールに憧れていた。だけど……俺は、そんな小さな窓すら抜け出せなかった」
カーテンが閉まった窓ガラスを見上げる。隙間から覗く外の景色はすっかり真っ暗だ。
「どれだけ技を覚えたって、高いところから飛び降りられたって、誰も見てないんじゃ意味がない。……嫌われたんじゃ、意味がない」
恐田が声を震わせる。顔を見ずとも沈痛な面持ちをしていることは明らかだ。
「鬼越なら……俺のことを追いかけてくれる鬼越となら、自由になれると思った。だって、鬼越は……あの日、俺を連れ出してくれたヒーローだから」
初めて鬼越を追いかけた日のことを思い出す。あの日の恐田は自習をサボり、屋上前の階段でパルクールの動画を見ていた。当時は自由気ままな自習に限ってサボる恐田の気持ちがわからなかったが、今なら想像できる。
恐田はこの広い家を彷彿とさせる空間が耐えられないのではないだろうか。人がいるのに、誰一人として喋らない沈黙が息苦しかったのだろう。
恐田は俺の気を引きたいから逃げていたのではない。追いかけられたいから気を引こうとしていたのだ。親から受け取れない愛情を、視線を、自由を、鬼に求めていた。
「だけど……気付いたんだ。ノートを隠して鬼越に怒られた時、『やっぱり俺は空気が読めないんだ』って」
テレビ画面の中で、広大なフィールドを駆け巡っていた男が走るのを止める。辺りが暗くなり、徐々に視界に悪くなってゆく。
「鬼越は俺にもっと凄い技を見せてほしいって言ったけど、あんな台詞は社交辞令だったんだよな? そうとも知らずに俺は舞い上がって、鬼越に迷惑をかけて……恥ずかしくなった」
まるで胸の内を見透かされているかのような台詞に冷や汗が噴き出す。確かに俺は社交辞令を口にした。だが、それが全くの嘘かと問われれば、ノーだ。しかし、今頃俺の本心を伝えたところで逆効果なのは目に見えている。
「鬼越、ごめん。やっぱり俺は……何もしないほうがいい。見てほしいだなんて子供みたいなワガママ、捨てるべきだったんだ」
男キャラが敵に囲まれ、攻撃を食らってゆく。恐田はコントローラを握り締めるばかりで何も操作しない。そうこうしているうちに、男キャラの体力は減り、テレビ画面に見慣れた文字が浮かび上がった。
【GAMEOVER】
おどろおどろしいゲーム画面に合わせるように、階下からドアの開く音が聞こえた。恐田がハッとしてスマホで時刻を確認する。
「……親が帰って来た」
恐田は立ち上がり、そそくさと俺に荷物を手渡した。親に見つかる前に帰らせようとしているのだろう。
恐田が窓ガラスを開くと、肌寒い風が入ってきた。
「鬼越、今日はありがとう。友達が家に来るのは初めてで……楽しかった。こんな形で返す形になって……ごめん」
恐田が俺の靴を窓の外へと並べる。いつの間に用意していたのだろう。
屋根の上に並べられた靴を眺め、俺は恐田の顔を見つめる。
「ここから帰れ、と?」
恐田は黙って頷いた。俺はもう一度外を眺める。
地上四メートルはあるだろうか。跳べなくはないが、無事ではいられないだろう。
「俺を忍者か何かだと思ってる?」
恐田は黙って頷いた。それならば仕方がない。
俺はしゃがみながら軒先まで移動し、屋根にぶら下がる形で地上に降り立った。これまで散々恐田を追いかけていたせいか、無事着地できた。
玄関前に人影がないことを確認し、門を抜ける。闇夜に紛れて抜け出す姿は忍者に見えたことだろう。
頭上を見上げると、恐田が窓からこちらを見下ろしていた。部屋から漏れ出す灯りが逆光になって表情を視認できなかったものの、俺にはその表情が手に取るようにわかる。
だって恐田は、俺の背中越しに――泣いていた。
グッと歯を噛み締め、俺は声を上げる。
「恐田ッ!!」
恐田がビクッと身体を跳ね上がらせ、キョロキョロと辺りを見回している。
「恐田陸ッ! あんただよ、あんた!」
人差し指をくいくいっと折り曲げ、こっちに来いとジェスチャーする。
「駅まで話そうぜッ!」
恐田の身体が硬直する。迷いが見える。親に見つからないかと、幻滅されないかと危惧しているに違いない。
俺は足元を見つめ、身体の横で拳を震わせる。
「……何だよ。そんな大層なハネ持ってるくせに、何で飛び出さねぇんだよ。嫌な場所から逃げられる術があるくせに、何で逃げ出さねぇんだよ。あんたのことを見てくれる人間なんてごまんといる。だいたい、社交辞令だけでこんなところまで追いかけてくるワケねぇだろ、普通」
俺は自由に動き回れる恐田が羨ましいし、妬ましい。だからこそ、恐田が俺に対して同様の気持ちを抱いているだろうこともわかる。何故なら俺は、誰からも好かれるクラス委員だからだ。
窓は既に開け放たれている。遮るものは何もない。地上四メートルの高さなど、恐田の前では無いに等しい。
俺は面を上げ、近所迷惑など考えずに声を張り上げた。
「恐田ァッ!! さっさと来いッ!!」
次の瞬間、恐田は目の前に降り立っていた。軽やかな足取りで屋根を伝い、裸足のまま空へ飛び出す。その姿に不自由の文字は似合わない。
恐田が求めているものは、きっと親からの愛情だ。嫌われたくないのは愛情を求める気持ちの裏返しなのだろう。だからこそ、自由気ままに振る舞えない。親の目の届く範囲に閉じこもっている。さながら、カゴの中で飛び回る鳥のように。
だが、いつだってカゴは開け放たれていた。恐田はただ、外の世界でも孤独になってしまうことを恐れていただけなのだ。
受け身を取って俺の眼前で膝をついていた恐田は、おもむろに面を上げた。その顔は感情がない交ぜとなって、喜怒哀楽のどれに属するかも判断がつかない。
だが、一つだけわかることがある。
俺はその顔を見て、心底――愛おしいと思った。
「鬼越――」
低く、落ち着いたその声で呼びかけられ、俺は教科書を閉じた。椅子から立ち上がり――全速力で教室を立ち去る。
廊下に出たところでクラスメートの目黒と遭遇した。「また先生に呼び出されたか?」と問われ、「そんな感じ」といい加減に返事する。悪いがそれどころではないのだ。
階段を駆け上がる。上から下へのショートカットは複数あるが、下から上へのショートカットはほぼない。追われる際には階段を上ればいいのだ。
「しまった!」
俺はなんてアホなのだろう。三階から上は屋上だ。そして、屋上は常に施錠されている。自ら袋のネズミになるなんて愚にもつかない。
迫り来る足音に振り返る。そこには人相が悪ければ、目つきも悪い、おまけに勘も悪い男――恐田がいた。肩で息をしている俺とは対照的に、澄ました顔をしている。
(ここまでか……!?)
逃げ場はない。観念してお縄につくしかなさそうだ。俺はその場にへたりと座り込む。
何故こんなことになってしまったのだろうか。
***
遡ること一週間前。俺は恐田を尾行し、自宅まで突き止めた。そこで、恐田の抱える問題に直面し、恐田を外の世界へと導いた。
それが功を奏したかはわからない。だが、恐田は自分の意志で外の世界へと飛び出した。
そこまでは良い。問題はそれからだ。
ひとまず裸足の恐田に俺の体育館シューズを履かせ、最寄り駅まで一緒に歩くことにした。ゲームの話や学校での話、中学時代の話など、他愛のない話をしていると、あっという間に駅に辿り着いた。時間にして三十分程度か。普段よりも狭い歩幅で時間を稼いでいたように思う。
「改札入るなよ」
「せっかくだから」
俺の忠告を無視して、電車に乗らないはずの恐田も改札口を通ってきた。見送られるのも悪くないか、と考え直してホームで電車を待つ。いざ電車に乗り込むと、振り返った先で恐田は何事か口にした。
「俺、鬼越のことが……」
ドアが閉まり、言葉尻を聞き損なった。読唇術の覚えはないが、しかし恐田の言わんとしていたことは容易に読み取れた。口の形は『う』『い』『あ』。導き出される答えは一つ。
〈好きだ〉
***
「お前も物好きだなぁ、鬼越。恐田とまーた追いかけっこしてんのか。しかも、今度は恐田が鬼とか。仲良しかよ」
元クラスメートの金子がバスケットボールをシュートする。ゴールリングの縁をなぞるようにネットをくぐったボールが、体育館の床を跳ねた。さすが毎日昼休みにやっているだけのことはある。
「好きでやってるワケじゃない」
恐田に屋上前まで追い詰められた時には頭が真っ白になったが、恐田の股下を潜り抜け、窮地を脱することができた。自分でも気付かないうちに恐田の技を盗んでいたようだ。
ボールを受け取り、金子へとパスを出す。金子は「はあ?」と眉根を寄せ、くいくいっと手を折り曲げて俺を挑発した。1on1の誘いだろう。俺はコートに入り、金子からボールを奪いにかかる。
「嫌ならやらなきゃいいだろ」
「それはそうなんだけど……」
「自覚がないだけで、お前も好きなんだろ?」
「はあっ!?」
つい大きな声が出てしまった。動揺する俺の隙を突いて、金子が一気にドリブルする。あっという間に抜かれ、シュートを決められてしまった。
「好きじゃなきゃ挑発されたってやらねーだろ。鬼ごっこだって、バスケだって」
「……ああ、そういう意味かよ」
床をバウンドするボールを追いかける。まだ数分しかやっていないのに、既に背中は汗でびっしょりだ。コートを出て、壁によりかかる。
(『好き』って何だよ。俺にどうしろって言うんだよ)
不意にガラガラと体育館の扉が開かれた。俺と金子がほぼ同時に入り口を注視する。
そこに立っていた人物を見て、金子は俺を凝視した。それと同時に俺は腰を浮かせる。
「恐田ッ……!!」
体育館の二階に上がる。通路を行き来してやり過ごそうという作戦だ。
実行して早々、浅はかな自分に辟易した。二階の通路奥で恐田に追い詰められてしまった。俺はその場にへたり込む。
恐田が目の前でしゃがみ込み、俺に視線を合わせる。目つきは悪いが、どこか熱っぽい。今ならその視線の意味がわかる。
「鬼越、あのさ……俺、鬼越のことが――」
「だああああッ!! 何回も同じこと言うなよッ!! 聞こえてたって!! あんたの気持ちは十分わかったって!!」
「そうか。……なら、それが返事ってこと?」
恐田がおもむろに立ち上がる。その背中を見ると居た堪れなくなった。本心を伝えてくれた恐田に対し、本心を隠し続ける俺。どちらが悪いかと問われれば、百人中百人が俺と答えるだろう。
(だって……しょうがねぇだろ)
バスケットボールの音だけが響く体育館で、俺は天井を仰ぎ見る。二階から見上げる天井は思ったよりも低い。
(あんたと違って、俺は……追いかけられるのが嫌なんだ)
***
ここはどこだろう。小学校か。中学校か。見覚えのある教室だが、高校のものではない。低い机に収まるほどに俺の手足も短くなっている。
机に座る俺の周りで、クラスメートがひそひそと話している。内容はわからないが、それが陰口だということは想像がついた。
不意に背後から人の気配が近付いてきた。
『鬼越ぇ、今日もヒマかぁ?』
その声に背筋がぞわりと粟立つ。今すぐに逃げ出したい。だが、俺の手足は鎖に繋がったように動かない。
窓から見える外の景色が暗く淀んでいる。夢も希望も抱けない灰色の空。まるで俺の心を映しているかのようだ。
『ウチで楽しいことしようぜぃ?』
遊びたくない。そう思うのに、口では本心と違うことを言ってしまう。
『う……うん』
助けて――その言葉を口にできず、俺はずっと俯き続ける。
『何しようかなぁ? あっ、そうだ……って、話聞いてるかぁ、鬼越ぇ?』
「――おい、鬼越」
ハッと目覚める。居眠りしていたようだ。目覚めると教室には夕日が差し込んでいた。時刻は四時半。七時限目は既に終わっている。
面を上げると、クラスメートの目黒が物珍しそうに俺を見下ろしていた。
「もう七限終わったぜ?」
「あ、ああ、そうか。サンキュー。帰るか」
「クラス委員ともあろう御方が居眠りなんて、余程疲れていたんだろうな。先生も見逃してたぞ?」
「そうなのか?」
帰り支度を済ませ、教室を出る。出遅れたせいか、廊下の人影はまばらだ。
「日頃の行いが良いからな。サボり魔恐田を改心させたって実績もある。多少の粗相は許してくれるんだろうよ。普段から馬鹿真面目で助かったな」
「馬鹿は余計だ」
目黒に肩をぶつける。目黒はけらけらと笑い、「それじゃあ」と部活のため体育館へと去っていった。
昇降口に差し掛かる。恐田の下駄箱に靴は無い。昼休みの一件で諦めがついたのかもしれない。安心して昇降口を出る。
「鬼越、さっきの話だけど」
恐田が目の前に現れた。下駄箱の陰に隠れていたようだ。当に俺への執着を失ったものと考えていたが、まだ諦めていなかったのか。
恐田が逃げ腰になる俺のバッグを掴む。引っ張られた勢いでバランスを崩し、俺は恐田の制服へと埋もれた。石鹸の香りに包まれ、思考が一瞬止まる。
「これって……考えを改めた、ってこと?」
恐田が俺の背中に腕を回す。
俺は咄嗟に恐田を突き放し、距離をとった。周囲に誰もいなくて助かった。こんな場面を見られていたら、あらぬ噂が立ってしまう。
両腕で空を抱き、恐田がすっと目を細める。信じた瞬間裏切られたとでも考えているのだろう。誤解を招くようなことをした俺も悪いが、元はと言えば俺のバランスを崩した恐田が悪い。うん、俺は悪くない。
とは言え、心苦しいのもまた事実。「悪い」と呟き、恐田の前から足早に立ち去る。
俺の家は電車に乗って二駅先にある。恐田とは逆方向だ。だから、電車に乗れば、これ以上は追いかけてこないはずだ。
「鬼越」
唯一空いていた席に座ると、隣に恐田が座っていた。先回りしていたということか。
(……え! 俺のほうが先に学校出たよな!?)
最早ホラーだ。謎は深まるばかり。ひとまず今は恐田から離れなければ。
席を立ち、隣の車両へと移動する。当然のように恐田も後をついてきた。
余計なことをした。一号車まで追い詰められ、俺は運転室と恐田の間に挟まれてしまった。逃げ場がない。誰か、助けて――
「鬼越は俺のことが嫌いなのか?」
吊り革を掴んだ恐田が眉尻を下げ、俺を見下ろしてくる。そんな顔をされたら、応じないわけにはいかない。
伏し目がちに俺は答える。
「嫌いじゃない。ただ……追いかけられるのは苦手だ。何つうか……息苦しい」
「ごめん」
恐田が俺から距離を取った。息苦しさから解放され、俺はホッと一息つく。
「……ところで俺は鬼越が好きだけど、恐田は俺のこと好き?」
「おいおいおいおい!」
恐田の腕を掴み、運転室の前まで連れ戻す。他の乗客が不審な目でこちらを見ているが、幸い陰口は叩かれていないようだ。顔が熱い。耳まで焼け焦げそうだ。
それを見て、恐田が一言。
「図星か?」
「あんた、ほんっとに空気が読めないなッ……!」
「ごめん」
恐田が悄然と頭を下げる。
俺は深く息を吸い込み、胸を落ち着かせた。
「……悪い。今のは言い過ぎた。だけど、そういうことは周りに人がいる時に言わないもんだぞ?」
「二人きりで伝えてほしいってことか?」
「そうじゃない。俺は……」
俺は、どうしたいのだろう。こんなにも好いてくれる人がいるというのに、目を逸らして逃げてばかり。恐田の気持ちに応えることに怯えているのだろうか。
(違う。俺は……)
恐田を掴んでいた手の力が抜ける。
「……俺は、誰にも嫌われたくない。惚れた腫れたが原因で揉め事に繋がるのは御免なんだよ」
恐田は何事か思案している。俺の言葉の意味を理解できないのかもしれない。
電車が止まり、人が降りてゆく。目的地だ。俺も電車から降りる。当然のように恐田も後ろをついてくる。
駅前のロータリーを抜け、大通りに入る。この時間になると、帰宅するサラリーマンや学生の姿が散見されるようになる。
恐田は俺の後ろを等間隔で追ってくる。俺が立ち止まれば立ち止まり、歩き出せば歩き出す。俺のことを見ているが、決して話しかけてこようとしない。
(家までついて来る気か? そんなに俺のことが好きなのかよ)
不意に、過去の自分の行動が思い返された。恐田も俺に尾行されていた時に、同じことを考えたのだろうか。
途端に顔が熱くなる。
(これじゃあ、俺が思わせぶりなだけじゃねぇか)
意を決して振り返る。逃げるのではなくきちんと返事をしよう。そうすれば、恐田も諦めがつくはずだ。
だが、俺の決意に反して、目の前に恐田の姿はなかった。先ほどまで感じていた気配もいつの間にか感じられなくなっていた。
(帰った……のか? いや、さっきまで気配があった。まだここにいるはずだ)
この時間帯になると人通りは多くなってくるものの、一人一人を判別できる。況してや、体格の良い恐田なら後ろ姿だろうと見逃すわけがない。
(どこに隠れたんだ?)
見晴らしの良い大通りに人が隠れられそうな場所はない。考えられるとすれば、軒を連ねる店のどれかに入ったということだろう。
ファーストフード店、ゲームセンター、コンビニ、花屋……挙げればキリがない。
(待っていれば、そのうち出てくるか)
俺は近くの軒下に入り、大通りを眺める。ここからなら、恐田がどこから現れても視界に入る。
(どうせ待つなら、恐田がどこから現れるか予想するか。当たっていれば決めたとおりに返事して、外れていたら……)
外れ=罰だとするのなら、俺は自分が苦しむ返事をしなければならない。それは即ち、俺が自分の気持ちに正直になるということ。誰からも好かれるクラス委員としてではなく、『鬼越』という一人の男子高校生として返事をすることに他ならない。
(仮に自由に返事ができたとして、俺は恐田に何て返すんだ?)
いや、と俺は頭を振る。外れた時のことを今考えても仕方がない。まずは恐田が隠れられそうな場所を絞り込もう。
大前提として、恐田はきっと俺から身を隠したわけではない。それをするなら、電車で俺の隣に座るはずがない。いや、隣に座ったのは俺のほうだったが。
恐田は何か用事があって店の中に入ったのだ。放課後の男子高校生が入りそうな店と言えば、ファーストフード店かコンビニ、ゲームセンターといったところか。恐田はゲームが好きだから、ゲームセンターはあり得そうだ。
(いや、コンビニか? 確か恐田はおでんが好きだったはず)
恐田はコンビニのおでんを好んで食べている。コンビニもあり得そうだ。
(だけど、もうおでんの季節は過ぎたか? だったら、ハンバーガー……は、食べてるのを見たことがないな。たまに食べることもある……か?)
昼食時、恐田は毎日弁当を持参している。高確率でおでんの具が入っており、手作りであることがわかる。
昼食におでんの具が入っているということは、前日の夕飯がおでんだったということ。ならば、ファーストフード店で済ますということは考えにくい。
(コンビニか、ゲームセンターか)
狙いを二店に絞り、俺は思案する。こうなれば当てずっぽうだ。俺はコンビニをロックオンし、恐田の登場を待つ。
すると不意に、俺は肩を叩かれた。想定外の事態に俺は動揺を隠し切れなかった。
俺が立っていたのは花屋の下。灯台下暗し。まさか恐田は花を買っていたというのか。何のために? シチュエーション的に俺に贈るためだろう。
(おいおい、花束で告白とかプロポーズじゃねぇか)
口元がニヤけてしまうのを手で隠す。嬉しくないと言えば嘘になる。だが、目立つ行為は避けてほしいという気持ちもまた本当だ。
表情を押し殺し、俺は平静を装った。
「あんた、こんなところで何を――」
振り返った先には、しかし恐田の姿は無かった。すらっとした長身に垂れ気味な目元。何年経っても忘れられない――悪い顔。
「やっぱり鬼越だぁ! 久しぶりぃ! ずっと探してたんだぜぃ?」
赤城。中学時代にクラスメートだった男だ。
自然と足が後ずさる。しかし、それを阻止せんとばかりに赤城が俺の肩に腕を回す。
「急に連絡取れなくなって心配したんだぜぃ? まさか俺のこと、嫌いになっちゃったのかぁ?」
「い……いや、そんなこと……」
「良かったぁ。お前に会えない間、俺ぁ寂しくて寂しくて堪らなかったんだぜぃ? なぁ、責任取ってくれるよなぁ?」
「う、いや、その……」
言葉がしどろもどろになる。早く逃げなければ。そう考えるのに、足は全く動かない。逃げたところで、どうせ捕まると諦めてしまっているのだ。
赤城は俺の顔を覗き込み、ニヤリと白い八重歯を剥き出しにする。
「だって俺たち、恋人だもんなぁ?」
俺の地元には大きな河川が流れている。流れは緩やかで、休日には釣り人が訪れ、放課後には小学生が川遊びにやってくる。
夕闇が迫る今の時間帯だと、ジョギングする人影が散見されるものの閑散としている。仮に河川敷で馬鹿騒ぎする集団がいたとしても、誰も気に留めないだろう。河川を跨る高架下なら尚のことだ。
俺はそこで中学時代のクラスメート赤城に追い詰められていた。
赤城がバッグをドサッと降ろし、シャドーボクシングを始める。
「いつもの始めようぜぃ?」
ひひひ、と赤城の口元が陰の中で不気味に歪む。裏表のない笑い顔。
赤城には俺を陥れようという魂胆がない。純粋に俺のことが――好きなのだ。
中学時代、俺は内気な性格が仇となり、クラス内でいじめられていた。そんな時に助けてくれたのが赤城だった。助けた理由は『愛の無い暴力は嫌い』とのことだった。
赤城と話していると楽しかった。どうでもいい話にも笑って応えてくれた。だから、クラス内で孤立しても平気だった。赤城さえいれば、他に何も要らないと思うほどに。
俺たちは自然と惹かれ合い、行動を共にすることが増えた。いつしか俺は赤城の背中を追いかけ、甘えるようになっていた。赤城はそんな俺のワガママにもちゃんと応えてくれた。
赤城の優しさが嬉しかった。俺をいじめる者がいれば報復し、陰口を叩く者がいれば容赦しない。楽しい時には笑い、悲しい時には泣く。目に見える喜怒哀楽全てを信じられたのだ。
俺も赤城に返したい――そう思っていた矢先のことだった。
「行っくぜぃ!」
俺が防御の体勢をとるよりも先に、赤城は俺の顔面に拳を叩き込んだ。
脳が揺れる。意識が一瞬飛んだ。気付いた時には地面に倒れ、高架橋を見上げていた。
恍惚とした赤城の顔が映り込む。
「いいなぁ! いいよぉ! 鬼越はサイコーだぁ! やっぱり俺、鬼越のことが好きだぁ! 大好きだぁ!」
赤城が俺の身体に跨り、今度は首を絞めてきた。
「ああ、ゾクゾクする!! 鬼越はエロいなぁ、エロいよぉ! なぁ、もっと鬼越の顔を見せてくれよぉ!!」
「ぐる……じぃ……!」
手の力が緩んだ。俺が咳き込む姿を見て、赤城は跳ね上がるように俺の上から退いた。
「ごごご、ごめんッ!! やり過ぎちまったッ!! 鬼越に会えたのが嬉しくて、つい……!! ほんっとにごめんッ!!」
起き上がる気力も湧いてこなかった。中学時代から何も変わらない。むしろ、二年という期間を空けたことで赤城の愛情もとい暴力性が肥大化している。
(逃げられなかった……)
俺と過ごす時間が増えてゆくと、赤城は次第に暴力を振るうようになった。はじめは肩を叩く程度だった。それが次第にエスカレートし、腹を殴り、顔を殴り、終いには首を絞めるようになった。
俺が苦しんでいると、赤城は恍惚とした表情を浮かべる。俺を支配している感覚に酔っているかのようだった。
やめてほしい、と言っても赤城はやめなかった。『ごめん』と言って反省しても、次の日にはまた手を上げる。約束を断っても家まで押しかけ、屋外に逃げ出そうとも必ず追ってきた。
痛いのは嫌いだ。執拗に追いかけられるのも、逃げ場を封じられるのも、嫌い。息ができないほど苦しくなる。檻の中での追いかけっこほど不毛なものはない。
赤城に救われたことは確かだ。だが、同じくらい赤城に苦しめられたのもまた事実なのだ。
身体を起こし、高架橋に寄りかかる。ぼうっとしていると、目の前に赤城がしゃがみ込んだ。両手で包み込むように、優しく俺の顔を持ち上げる。
「鬼越、明日からも会えるよな? また、中学の頃みたいに一緒に帰って、遊んで、それで……ずっと、一緒に居られるよなぁ?」
俺は何も言えなかった。二年前と同じだ。あの時も俺は赤城に別れを切り出せず、黙って逃げ出した。赤城という檻から逃げ出すために、中学卒業と同時に連絡先を変え、地元から離れた高校へと進学したのだ。
そして、過去の自分を全て捨てた。中学時代までの孤立した『鬼越』はもういない。今ここにいるのは誰からも好かれる『クラス委員』であって、赤城に依存していた『鬼越』ではないのだ。
俺にはもう赤城は必要ない――そう思っていたのに。
「あ……あ……」
視界がぼやける。痛みのせいか、悲しみのせいかわからない。目から溢れた雫が頬を伝ってゆく。
こんな時、恐田ならどうするだろうか。空気を読めない恐田なら、やられたことをやり返すくらいはしそうなものだ。あるいは、早々に赤城の前から逃げ去るかもしれない。恐田にはそれを可能とするだけの度胸と翼がある。俺とは違う。
赤城で満たされてゆくのが怖くて、俺は赤城を捨てた。だが、新しく手に入れたはずの『クラス委員』は綺麗な嘘で着飾っただけの張りぼてで、本当の『鬼越』は空っぽのまま。
ただ、現状を嘆くばかり。
「嫌だ……痛いのは……もう、嫌だ……!!」
「ごめんって。今度こそ優しくする。絶対に、だ。鬼越、愛してる」
赤城と鼻の先が触れ合う。怖い。逃げ出したい。だが、俺は逃げ出せない。そのための手段がない。逃げてもどうせ捕まる。そうなれば、また檻の中だ。
俺は恐田に嘘を吐いた。色恋沙汰による揉め事を避けたいだなんて、ただの言い訳でしかない。
本当は、愛されるのが怖かっただけ。好きだと言われる度に赤城のことを思い返し、逃げ出したくなっただけなのだ。
目をキツく瞑る。頭の中は真っ白で、しかし瞼の裏には一人の男の顔が過った。
自分勝手だ。自分から遠ざけたのに、自分から気持ちを偽ったのに、今ここにいてほしいと思ってしまう。
こんな時こそ隣にいてほしい、と願ってしまう。
「恐田ァッ……!! 助けてッ……!!」
次の瞬間、頭から熱いものがかかった。出汁の風味が鼻孔をくすぐり、すぐにそれがおでんの汁だと気付いた。
「あっっっつ!!」
赤城は飛び跳ね、出汁が染み込んだ上着を脱ぎ捨てた。髪の毛を掻きむし、出汁の出所を睨みつける。
熱さも忘れて、俺は突如現れたその人物に目が釘付けとなった。
「恐田ッ……!!」
俺たちの目の前で、恐田はおでんの容器を逆さにして立っていた。手に提げたビニール袋に具材が入っている。
(俺ごとかけるなよ……!!)
赤城がシャツまで脱ぎ捨て、恐田へと詰め寄る。
「何なんだぁ、いきなり? 熱いじゃねぇかよぉ?」
「ごめん。だけど、鬼越が助けてって言ったから」
「ああん? 俺がまるでイジメてるみてぇじゃかねぇかよぉ! 俺たちは付き合ってんだぁ! これは愛情表現なんだよぉ!!」
「俺だって鬼越が好きだ。愛してる。ずっと一緒に居たいし、辛い目に遭ってたら助けたい」
何を見せられているのだろうか。顔が熱いのはおでんの出汁のせいではなさそうだ。
赤城が恐田に向かってファイティングポーズを取る。
「おうおう、そうかぁ!! お前のせいで鬼越は俺に会えなかったんだなぁ!? それなら話が早いぜぃ! 俺がお前をぶっ倒して、鬼越を連れ戻してやるよぉ!!」
「揉め事は嫌いだ」
恐田は具材の入ったビニール袋を赤城へと投げつけた。赤城が袋を受け取った隙に、俺の腕を引いて立ち上がらせる。
「鬼越ッ!! 行こうッ!!」
恐田は俺に向かって微笑んだ。不気味とすら思える不器用な笑み。だが、俺はその顔を見て――安心した。
恐田が大通りで立ち寄ったのはコンビニ。二択を当てた。ならば、自分の気持ちに正直になろう。
俺は恐田の手首をしっかりと掴み、その場から逃げ出した。
背後から赤城の怒声が聞こえる。
「鬼越ぇッ!! 待てよぉッ!! 悪いとこがあったら直すからぁ!! もう酷いことしないからぁ!! 見捨てないでくれよぉ!! 鬼越ぇ!!」
酷いことしていた自覚があったのか。踏ん切りがついた。俺は首だけを振り返らせ、高架下の赤城へ向かって叫ぶ。
「赤城ッ!! ごめん、好きなヤツができたんだッ!! ごめんッ!! 別れようッ!!」
赤城は顔を真っ赤にして俺たちを追いかけてきた。河川敷に沿って逃げ続けるが、次第に距離が詰まってくる。俺の足が遅いせいだろう。
「鬼越、こっちだッ!!」
恐田が右手の河川に目を向けた。対岸までの間に足場がいくつかある。足場を跳び越えてゆけば、赤城から逃げきれるだろう。だが――
「無理だッ!! 跳び越えられないッ!!」
以前、恐田を尾行していた時、公園の水場で向かいの縁までの跳躍に失敗し、びしょ濡れになったことがあった。
今回の距離はその時よりも長い。跳び越えるのに失敗すれば、大きなタイムロスになる。
俺が躊躇している間に、しかし恐田は足場へ向かって跳躍した。軽やかな身のこなしで足場へと難なく着地する。そして、振り返り様に人差し指をくいっと曲げる。
「鬼越ェッ!! 来いッ!!」
いつか俺が恐田を檻の外に連れ出したように、恐田も俺を檻の外へと連れ出そうとしている。
迷いは吹っ切れた。俺は河川へ向かって助走をつけ、恐田へ向かって大きく跳躍した。
滞空している一瞬がスローモーションのように感じられた。長い時間、向こう岸の足場で両腕を広げる恐田を見下ろしていたように思う。
足場に片足が掛かる。しかし、ぐらりとバランスを崩し、視界がぐるりと反転した。背中から川へと倒れてゆく――
次の瞬間、恐田に手首を掴まれ、俺は意識ごと向こう岸へと身体を引き上げられた。
「鬼越ぇ、待っ……ごぼッ!!」
バシャン、と水の跳ねる音が鳴った。肩越しに振り返ると、赤城が川に沈んでいた。と言っても、腰ほどの深さなので命の危険はないだろう。
恐田と目を合わせ、俺は対岸へと進んでいった。
「ごめん、鬼越」
公園の水飲み場でおでんの出汁を洗い流していると、不意に恐田が俺から半身を逸らした。
水を止め、バサバサと髪の毛から水滴を払う。
「いや、助かったよ。ありがとう。恐田が来なかったら、きっと俺は……」
考えるだけで恐ろしい。恐田が現れなければ、今頃身体だけでなく精神的にも支配されていたことだろう。
西に沈みゆく夕日が恐田の横顔を金色に照らす。その顔はどこか思案げだ。
「鬼越が嫌じゃないなら……良かった」
「嫌って……助けに来てくれたのに、そんな風に思うわけないだろ」
「だけど、鬼越……好きな人ができたって」
不意打ちにドキッとする。目の前で言われるとどう伝えたらいいものか迷う。
「なぁ、それって――目黒か?」
「……は?」
何故ここで目黒の名前が出てくるのか。
ぽかんと口を開けていると、恐田はばつが悪そうに頭を掻いた。
「そうとは知らず、付きまとったりしてごめん。目黒に勘違いされてたらごめん。明日、訂正しておくから。もう二度と鬼越に迷惑かけないから。だから……と、友達で……いてほしい」
(はあああああああああッ!?)
俺はその場にへたり込んだ。空気が読めないにもほどがある。いや、純粋と言うべきか。
恐田がどうしたものかと狼狽している。無知過ぎるその顔がムカついて、愛おしくて、俺は恐田に向けて蛇口を目一杯捻った。
「ご、がぼッ!! つ、冷たッ……何ッ……!?」
顔面から水を被り、恐田が全身びしょ濡れになる。いいザマだ。水を止め、俺はゲラゲラと笑う。
恐田は訳がわからず目を白黒させている。
「あの、鬼越……い、嫌だった? 俺と……友達、なんて……」
「……ああ、まっぴらごめんだ」
恐田ががっくりと肩を落とす。言葉の一つ一つをそのままの意味で受け取るのか。今なら恐田の両親の気持ちがわかる。
恐田からは目が離せない。何をするかわからないし、純粋過ぎて物事を曲解するおそれがある。追いかければ疲れるし、追いかけられても疲れる。目の届く範囲内で大人しくしてもらいたいと願う気持ちもわからないでもない。
だが、それ以上に俺は恐田にこのままでいてもらいたい。のびのびと、感情のままに、自由に、世界を飛び回ってほしい。それはきっと、恐田のいろんな一面を発見したいという願いがあるからだろう。
くいくいっと人差し指を折り曲げる。恐田が素直に俺の前の前へとしゃがみ込む。
隙だらけの唇に唇をそっと重ね合わせた。
「ッ――!!」
恐田の身体が震えた。俺の身体も震える。すっかり冷えた身体が、急速に温まってゆく。
唇を離す。恐田は熱を帯びた面持ちで茫然としている。
やがて恐田は自身の唇に触れ、驚愕のあまり目を見開いた。
「これって……『振ってごめんな』のキス……?」
「そんなわけねぇだろッ! 俺の勇気を台無しにしやがって!」
それじゃあ、と恐田が言い淀む。
「好きな人って……?」
恐田の頬に触れる。すっかり水滴も蒸発していた。
「あんたのことだよ。俺は、えと、その……恐田のことが、好き……で」
「好き……で?」
「できれば……つ、付き合いたい、です」
チラリ、と恐田の顔を見上げる。恐田はしきりに瞬きしていた。
「友達じゃなくて恋人になりたいってことか?」
「皆まで言わせるなッ!! 察しろッ!!」
「ご、ごめん! わからなくて!」
恐田が顔を近付かせてくる。
「俺も……鬼越と、付き合いたい」
「じゃ、じゃあ……そんな感じで、よろしく」
鼻と鼻が触れる。赤城の時とは異なる衝動が身体の奥底から湧き起こってくる。
(マズいマズいマズいマズい!! 身体が……爆発しちまうッ!!)
幸い周囲に人の目はないが、公共の場でこれ以上触れ合うわけにはいかない。俺は完全無欠のクラス委員なのだ。色恋に現を抜かしている現場を目撃されるわけにはいかない。
バッと立ち上がり、バッグを肩に掛ける。俺の意図に気付いたのか、恐田もバッグを持って肩を並べた。チラチラと互いに視線を交わすものの、照れ臭くなって何も言えない。
沈黙に耐え切れなくなったのか、恐田はブランコ前の柵に飛び乗った。重力を感じさせない動きで柵の上を渡り、近くの木の幹へと飛び移り、反動を使ってブランコの支柱の上に飛び乗った。
「マジかよ」
思わず感嘆の声が零れた。夕日を背に受け、こちらを見下ろす恐田の姿が、初めて追いかけた時に体育館で見た姿と重なる。
「……やっぱり恐田はヒーローみたいだ」
「ヒーローは逃げたりしないよ」
恐田が目の前に降り立った。服についた埃を払い、すっと眉尻を下げる。
「俺のことをずっと追いかけて、救い出してくれた鬼越こそ、俺にとってのヒーローだ」
「その理論で言ったら、あんたも同じだろ」
恐田は少し思案し、目を線にして笑った。
「そうかもな」
『鬼ごっこ』は鬼が敗者のゲームだ。鬼役になったが最後、誰かを犠牲にするまで懲役は終わらない。ちょこまかと逃げ回るネズミを捕まえなければ、永遠に勝つことができないのだ。
しかし、現実はゲームではない。逃げたところで必ずしも追われるとも限らず、逆に追いかけたところで相手が逃げるとも限らない。苦しいから逃げるのであって、苦しくなければ逃げることないのだ。
俺にはもう、恐田から逃げる理由がない。恐田にも、俺から逃げる理由はない。
だが、何となく想像できることがある。
***
「恐田ァ!! どこだッ!!」
渡り廊下を抜けると、恐田は階段を飛び降りていた。俺も手すりに飛び乗り、するすると滑り降りる。恐田には遠く及ばないが、普通に駆け降りるようも時短になっている……はず。
「恐田!! 追い詰めたぞ!! さあ、さっさと自習に戻ろう!! イヤホンでも何でもしていいから授業には出るんだ!!」
施錠された体育館の前で恐田がこちらを振り向く。くいくいっと人差し指を折り曲げ、俺を挑発する。
俺だって学習している。こういう時、恐田は俺が駆け出すのを見て、逆方向に逃げ出すのだ。俺はそろりそろりと恐田と距離を取ってゆく。恐田が逃げ去る方向に合わせ、駆け出す作戦だ。
しかし、恐田は一向に逃げ出さなかった。目と鼻の先まで詰め寄ったところで、恐田が俺の肩を掴んだ。唇が徐々に近づいてくる。
(おいおい、こんなところで……!?)
俺は咄嗟に目を瞑った。しかし、胸の高鳴りとは裏腹に、俺の身には何も起こらない。
「わかった。戻る」
恐田は俺の耳元でそう囁き、校舎へ向かって去っていった。
ぽかんとする。やがて俺は恐田の背中に向かい、声を荒らげた。
「恐田ァ!!」
相も変わらず恐田は自習の教室から逃げ出しては、俺が追いかけてくるのを待っている。しばらく鬼役は継続になりそうだ。
そういう意味では、こと俺に関して言えば追う側が勝者のゲームと言えるかもしれない。
何故なら、俺は恐田が自由に飛び回る姿に惚れたのだから。
水無月は『水が無い月』ではなく、古語の『無』が『の』を意味する文字だったため、『水の月』という意味だと授業で耳にした。
言い得て妙だ。水無月たる六月の空は梅雨の気配を帯び、雲間から覗く太陽がグラウンドを優しく照らしているものの、足元で踏みしめる土の感触はまだしっとり湿っている。味方からパスされたサッカーボールも、いつになく重く感じられる。
「鬼越、シュートだッ!」
チームメイトの声援に背を押され、俺はゴール目掛けてシュートを打つ。相手のディフェンスを避けて放たれたそれは、しかしゴールキーパーのパンチングによって弾かれた。
「惜しい!」
天高く舞うボールの行く末を誰もが見守る中、俺は背後から駆け寄ってくる足音に気付いた。
「鬼越、背中丸めて!」
言われるがまま背中を丸める。次の瞬間、背中に何か重いものがのしかかり、強い衝撃を残して消え去った。俺は衝撃に耐え切れず、グラウンドへと崩れ落ちる。
俯せのまま空を仰ぎ見る。雲間の太陽に照らされ、一人のシルエットが浮かび上がっている。
「恐田……!」
俺は恐田に踏み台にされたようだ。天高く跳躍した恐田は捻り動作の中でボールを蹴り飛ばした。
鋭い角度から放たれたシュートはゴールキーパーの反射を凌駕し、ゴールネットをぶち抜いた。
グラウンドに着地し、恐田がジャージについた埃を払う。
「うおおおおおッ!! 何なんだ、あのシュート!? 映画みてーじゃん!」
「何? あの人、サッカー部?」
「いや、見たことねーぜ!? あの動き、体操部か何かか!?」
「チア部じゃねーの!?」
観戦していた生徒たちが湧き上がる。既に他の競技を終えたであろう生徒も集まり、グラウンドはちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
全員外れだ。恐田は帰宅部。アクロバティックな動きは独学のパルクールで培ったものだ。
「アリかよッ!? そんなのッ!!」
相手のゴールキーパーがボールを拾い上げ、驚きと戸惑いが混ざった抗議の声を上げる。本来のルールならスポーツマンシップに反する危険行為だが――
「球技大会だから怪我さえなければ」
審判を務めていたサッカー部の生徒は恐田のプレイを不問にした。
試合終了の笛が鳴る。球技大会のサッカー部門は俺たちのクラスが優勝した。
グラウンド中に盛大な歓声が湧き起こった。渦の中心はもちろん恐田だ。
チームメイトが恐田の周りに集まってゆく。
「恐田! すげーな! 全試合ハットトリック! もうプロになっちまえよ!」
「おいおい、プロ舐め過ぎだから。あんなの一発レッドカードだぜ?」
「派手な技が無くても凄かっただろ!? 準決勝の股抜きドリブル、五人抜きだぜ? しかも、自分は相手を跳び越えるって! 身体デケェのによく跳べるよな! 普通の人じゃ無理だって!」
「忍者かよってな!」
チームメイトから揉みくちゃにされながらも、恐田は満更でも無さそうな顔をしていた。次第に観戦していた他学年の生徒まで集まってゆき、俺の入る隙は無くなっていた。
「はー、決勝で負けた。金子強過ぎ」
遠巻きに恐田らを眺めていると、クラスメートの目黒が隣にやって来た。「お疲れ」と共に目黒へとスポーツドリンクを手渡す。担任の村岡先生からの奢りだ。
「ドンマイ。アイツは規格外だからな。バスケ部でもないと勝てねぇよ」
「だよな。善戦したんだけどな」
目黒が肩を竦める。金子は昼休みにも練習に励むほどのバスケ好きだ。他のメンバーがどれだけ下手だろうと、球技大会のレベルなら金子はまず敗戦しないだろう。だから、俺も球技大会の種目でバスケを避けたのだ。
「鬼越のほうはどうだ? ……って、見りゃわかるか。おめでとう」
目黒とペットボトルで乾杯する。「ありがとう」と言うものの、俺は大した活躍をしていない。九割方恐田のおかげだ。
「恐田も大分周りに溶け込んできたな」
「そうだな。俺もあんな風に恐田が他の奴らと喋るなんて新鮮だ」
恐田は見慣れない生徒と話していた。「チア部に……」とか「ラグビー部に……」とか聞こえてくる。おそらく部活動の勧誘を受けているのだろう。恐田ほどの運動神経があれば、二年生の六月から始めても良い成績を残せるだろう。むしろ、これまで部活動に所属していなかったことに驚くほどだ。
理由はわかる。恐田は親の目を気にしていた。だから、夜遅くまで拘束される部活動を嫌がったのだろう。恐田はただ、親に構ってもらいたかっただけなのだ。
親御さんの真意はわからないが、恐田が部活の一つでも始めていれば、事態は好転していたのではないかと思う。家の中にずっと引きこもっているよりも健康的だし、上下関係のある集団の中に属するようになれば、親御さん的にも心配の種が少なくなりそうなものだ。全て結果論だが。
「悲しい?」
突然、目黒がわけのわからないことを訊いてきた。俺はペットボトルに口をつける。
「何が?」
「恐田が他の奴らと仲良くなって、寂しくなったりしないのか?」
「何で? 良いことだろ?」
「そりゃそうだけど」
目黒が何と言えばいいのかと考えあぐねている。
確かに俺と恐田は周囲から見れば仲の良い二人組に映っていることだろう。駅で出会えば一緒に登校し、昼休みになれば一緒に昼飯を食べる。だが、その程度だ。移動教室は目黒と一緒になることが多いし、下校時だって目黒と一緒になることのほうが多い。
だからだろうか。未だに付き合い始めた実感が湧かない。デートはおろか、手を繋いだこともない。いや、家に招いたり出かけたりしたことはあるが、他の友人とやっていることは同じだ。果たしてそれがデートと呼べるだろうか。実態としては、友達以上恋人未満な状態だ。授業をサボる恐田を連れ戻していた頃のほうが、今よりもわちゃわちゃと触れ合っていたように思う。
だってよ、と目黒が話を続ける。考えがまとまったのだろう。目黒の話に耳を傾ける――
「お前、恐田と付き合ってんだろ?」
「は……?」
俺はペットボトルを取り落とした。グラウンドの喧騒が遠くに聞こえる。まるで俺の周りだけ空間が隔絶されている心地だ。
目黒の台詞が頭の中で何度も繰り返される。
『お前、恐田と付き合ってんだろ?』
『恐田と付き合ってんだろ?』
『恐田と付き合って』
(目黒は俺と恐田が付き合っていると知っている? そんなはずない! 学校で怪しい素振りを見せたことなんてないし、学校じゃなくても手だって繋いだことない! だったら、これはブラフ……?)
目黒が俺の目を凝視している。沈黙は金ではない、黒だ。早く何か答えなければ、認めていることになる。
(悪い、恐田。俺はクラス委員なんだ。誰かと付き合っているなんて、口が裂けても言えない)
クラス委員は誰からも好かれなければならない。色恋沙汰など揉め事を起こすだけ。現を抜かすなと言うつもりはないが、公にしないに限る。
ペットボトルを拾い上げつつ、何も気にしていない体を装う。
「何言ってんだよ。そんな風に見えるのか?」
「ん? ああ、だって――」
地面に横たわるペットボトルの脇に足元が映り込む。パッと面を上げると、半袖姿の恐田が立っていた。ジャージを脱ぐと、筋肉が浮かび上がってよく見える。
「おう、恐田。あれ? ジャージはどうした?」
「剥ぎ取られた」
「羅生門かよ」
観客の中に熱狂的な恐田ファンが紛れ込んでいたのかもしれない。用心しよう。
「部活の勧誘受けてたのか?」
「ああ。サッカー部と野球部とチア部とラグビー部と水泳部とテニス部とバド部とバスケ部とラクロス部とパソコン部と――」
「大人気だな!」
恐田の話を強制終了する。危うく全部活動の紹介をされるところだった。
(……いや、パソコン部は関係ねぇだろ!)
もしかすると、熱狂的な恐田ファンはパソコン部の中にいるのかもしれない。用心しなければ。
「気に入った部活はあったか?」
「特になかったな。……どうせなら、鬼越と一緒にやれる部活がいい」
「あ~~~~~~!! 知り合いと一緒のほうが楽しいもんなッ!!」
チラ、と目黒を見遣る。俺たちの会話に興味がないのか、スポーツドリンクを飲んでいる。
(セーフ……!)
恐田は俺との関係を隠そうとしない。隠さなければならない理由がないのだ。だから、こうしてストレートに物を言うし、行動を起こしてくる。先日など、他のクラスメートが俺の背中に抱きついてきたのを見て、それを真似て抱き着いてきた。考え過ぎなのかもしれないが、他のクラスメートの時よりも湿度が高かったように思う。
一応恐田には付き合っていることを隠したい旨を伝えているが、どこまで理解しているかは定かではない。恐田は空気を読めない部分がある。悪気が無い分、タチが悪いのだ。
だけど、と恐田が続ける。
「今度の土曜日、練習試合に出てほしいって頼まれた。人が足りないらしい」
「へえ、助っ人か。引き受けたのか?」
恐田はこくりと頷いた。
「もし空いてるなら、鬼越にも見に来てほしい」
「おう、いいぜ。何をやるんだ?」
「アルティメット」
(??????)
「アルティ、メ……三つ首の龍じゃなくて?」
「アルティメット」
「……そうか」
究極の部活動。それはきっと俺の想像の及ばない競技なのだろう。
(何だろう? AIを駆使した近未来ボクシングとか?)
***
どんな夜も必ず明けるように、梅雨の合間にも必ず晴れ間はやって来る。芝生の柔らかな匂いが風に乗り、今日が絶好のアルティメット日和であると知らせてくれる。
太陽の眩しさに目を細める。突き抜けるような青天井には白い円盤が行き来している。まるで自由に羽ばたく鳥のようだ。
まるで自由を求めるように、俺も円盤の一つに手を伸ばす――
「フリスビーじゃねぇか!!」
俺はキャッチした白い円盤を恐田目掛けて放り投げた。手首を内側から外側へ曲げて投げるバックスローだ。
円盤は風の影響を受け、正面に立つ恐田から逸れてゆく。恐田は、しかし円盤の動きに反応し、円盤をしかとキャッチした。
「フリスビーは商標。正式名称はフライングディスクって言うらしい。何でもディスクを使ったスキルとか、スピードとか、体力とか必要になるから究極――アルティメットって言うんだとか」
今度は恐田が俺へ向けてフライングディスクを投げてくる。俺の時とは異なり、恐田が投げたディスクは綺麗な軌道を描いて俺の手の中に収まった。
「わざわざ調べたのか?」
「白熊部長から教えてもらった」
噂をしていると、アルティメット部の白熊部長から号令がかかった。
「集合ッ!!」
部長のもとに部員が集結する。集まった部員は四名。部長合わせて計五名。部員の後ろに俺と恐田も並ぶ。
白熊部長が俺たちを眺め、「よし」と頷く。名は体を表す。大きな体躯で大らかそうな顔付きをしている。一番怒らせたくないタイプだ。
「七人いるな! 今日は練習試合だが、油断せず勝ちに行くぞ!」
「はいッ!!」
芝生の中央で一列に並び、相手チームと挨拶を交わす。
「よろしくお願いしますッ!!」
それぞれのポジションに着き、試合開始の笛が鳴る。
フライングディスクが飛び交う中、俺は思っていたことをようやく口にした。
「俺も出るのかよッ!!」
「ユニフォームに着替えてから言われても」
恐田が苦言を呈するように、俺は恐田や他のメンバーと同じ黒いユニフォームに身を包んでいる。
そうだけど、と俺は食い下がる。
「見に来てほしいって言葉は嘘だったのかよ!」
もしかするとアルティメット部の差し金なのかもしれない。
俺が抗議の意を示すと、傍にいた恐田が顔を赤くして俯いた。
「……嘘じゃない。鬼越にはすぐ傍で見ていてほしいから……」
「そんなこと言われたら……」
(もう何も言えないじゃねぇか)
確かに嘘はついていない。屁理屈のような、叙述トリックのような気もするが。
白線の外側を見る。部員の親と思しき観客に紛れて、クラスメートの目黒も観戦している。二人だと付き合っていると勘繰られると考え、俺が誘ったのだ。
先日の目黒の言葉が脳内によみがえる。
『お前、恐田と付き合ってんだろ?』
(怪しまれないようにしねぇと……!)
アルティメットのコートは37m×100mで、両端18mはお互いの『エンドゾーン』つまり『ゴールエリア』という構成だ。
お互いに自陣のエンドゾーンに七人が並び、ディフェンスチームがオフェンスチームへとディスクをスローオフすることで試合が開始する。
相手チームがこちらへとディスクを投げると同時に駆け出してきた。試合開始だ。白熊部長を筆頭に、俺たちのチームもディスクを追いかけ、コート中央へと密集する。
白熊部長が大きな図体とは対照的な軽やかな跳躍でディスクをキャッチする。その横をチームメイトの芦原君が全速力で通過し、部長が彼の進む先へとパスを出す。一年生ながら物凄い脚力だ。芦原君は相手のエンドゾーン内で大きく跳び上がりディスクをキャッチした。
白線の外から歓声が上がる。芦原君もガッツポーズを掲げ、駆け寄ってきた部員らとハイタッチを交わしている。俺も皆に合わせて芦原君とハイタッチする。若いのに背が高い。羨ましい。
自陣に戻ろうとすると、不意に恐田から肩を組まれた。
「鬼越、コートチェンジ」
「え? もう?」
「アルティメットは風の影響を受けやすいから、一点ごとにコートチェンジだ」
「そうなのか。わかった。……わかったけど、距離が近くないか?」
わざわざ肩を組んで伝える話ではない気がする。
もしかすると俺が恥をかかないように気を遣ってくれたのかもしれない。確かに肩を掴んで呼び止めたりしたら、ルールを知らないことがバレバレだ。
「……鬼越の顔が見たかった」
それだけ言い残し、恐田は脱兎の如く駆け去った。
「鬼越君、顔赤いけど大丈夫かい? 少し休む?」
白熊部長から心配され、俺は余計に顔が熱くなった。「平気です」と笑顔を返し、相手チームにスローオフする。今度は相手がオフェンスだ。
アルティメット超初心者の俺への指示は一つ。相手チームの一人を徹底マークすること。俺はその指示に従い、相手選手の一人にぴったりとくっついた。
不意に視線を感じ、そちらを見ると恐田と目が合った。不満そうな顔をしている。嫉妬だろうか。可愛いところがあるものだ。
とその時、マークしていた選手が俺たちのエンドゾーンへ向かって走り出した。追いかけることなら恐田で慣れている。
頭上にディスクが近付いてくる。相手選手へのパスだろう。俺は相手選手の目の前に身体を割り込ませ、飛来してきたディスクをキャッチした。
「よし!」
思わずガッツポーズを決める。
「恐田ほどじゃねぇな!」
連日、恐田を追いかけ続けたこの脚力を甘く見ないでもらいたい。
「……で、これからどうすればいいんだ?」
ディスクをパスすればいいのだろうか。だが、相手チームがブロックしてくる気配はない。
そうこうしているうちに白熊部長がやってきた。
「相手のパスを阻止したらターンオーバーだ。エンドゾーンまで戻ろう」
わかりました、と白熊部長の後をついてゆく。
「鬼越君はアルティメット経験者?」
「いえ、初めてです」
「そうなのかい。いやなに、パスカットが上手だと思ってさ」
「よく同級生とバスケの1on1やっているので」
「確かにアルティメットはバスケとアメフトを合わせた競技だってよく言われるね。バスケみたいにディスクをパスしていって、アメフトのタッチダウンみたいに相手の陣地でディスクをキャッチして得点を取る。ちなみにアルティメットにもバスケみたいにトラベリングがあるけど、バスケと違って一歩も歩けないから注意してね」
合点がいった。なるほど。だから、白熊部長はディスクをキャッチしてすぐに芦原君へとパスを出したのか。
「あとはバスケと似ているかな。ラインを出たら攻守交替。ああそれと、ディスクが地面についても交代だから気をつけて」
「わかりました!」
ルールは大体わかった。これからが本番だ――
「コートチェンジ!」
と意気込んだものの、常に走り続けていたこともあり、すぐに体力の限界が訪れた。相手選手へのマークも甘くなり、徐々にパスカットが失敗するようになった。
「恐田君! ナイスキャッチ!」
一方、恐田は絶好調だった。相手選手の股下をくぐってエンドゾーンまで駆け出し、高い跳躍力でディスクをキャッチしたかと思えば、
「恐田君! ナイトカット!」
今度は屈んだ相手選手を大きく跳び越え、パスをカットしたりと、最早恐田の独壇場だった。アルティメットは相手選手への接触が全面禁止されているが、障害物を乗り越えて移動するパルクールとは相性が良いようだ。
いつしか恐田に三人もの相手選手がマークしていたが、恐田にとってはそれすらも障害にはならないようだ。マークをかわし、ディスクを追いかけて高く舞う。その姿はまるで自由な鳥そのものだった。
「かっけぇ……」
思わず漏れた本音を「おっと」と押さえる。白線の外を見遣ると、目黒は恐田の活躍に目を奪われていた。バレていないようだ。セーフ。
「カッコいいよね、恐田君」
ぬっ、と背後から現れた白熊部長に俺は跳び退った。「ひえっ!」と幽霊でも見たような悲鳴が漏れ、白熊部長に大笑いされた。背中をバンと叩かれ、背中を仰け反らせる。
「見惚れる気持ちもわかるよ」
胸がキュッと締めつけられた。俺は今、そんな目をしていたのだろうか。
恐田を見る。すると、恐田もこちらを見た。何を思ったのか、会釈してきた。とりあえず俺も会釈を返す。何だこれは。
「さて、最後まで気を抜かずに行きましょうか!」
白熊部長の背中を追いかけ、俺はエンドゾーンに並んだ。
「ありがとうございました!!」
17対14で俺たちのチームが勝利した。相手チームと挨拶を交わし、チーム内でハイタッチを交わす。
「鬼越、お疲れ」
例に漏れず、恐田も右手を上げてやってきた。俺も右手を上げてハイタッチに応じる。そして、そのまま流れるようにハグされた。
「……いやなんか、近くねぇか?」
「勝利のハグだから、大丈夫」
(何が大丈夫なんだ?)
俺に触れたいという下心が透けて見えるのだが。
横目に目黒を見ると、俺たちのことをじーっと凝視していた。マズい。誤魔化さなければ。
「はは、恐田にも随分懐かれちまったな! これもクラス委員の恩恵か?」
「クラス委員じゃなくなっても、鬼越のことは好きだぞ?」
(あんた一体何なんだッ!?)
心中で声を荒らげるが、恐田はきょとんとするばかり。心なしか、目黒も俺に同情しているように見える。
恐田から離れようとしたその時、芦原君が俺たちのもとへと駆け寄ってきた。
「恐田先輩! 鬼越先輩! お疲れ様です!」
無邪気な笑みで俺たちのハグに加わってくる。
「ありがとう、芦原君……」
「こちらこそありがとうございました!」
なんて良い子なのだろう。彼に心の底からの感謝を。
ユニフォームから私服へと着替え、アルティメット部と別れると、俺たちは目黒と合流した。試合の感想を話しながら駅のフードコートへと移動する。
「あ~、疲れた! 助っ人も終わったし、この後どっか行くか、目黒?」
「今日のMVPに任せるよ」
目黒が恐田へと視線を向ける。
「……寄りたいところがあるんだ」
「ほう? それじゃあ邪魔者は先に帰るとするか」
目黒が悪戯っぽい笑みを向けてくる。
「あのなぁ、俺たちは別にそういうんじゃ……」
「目黒にも来てほしい」
恐田が俺の反論を遮った。俺と目黒の視線が恐田に集中する。
「大事な用があるんだ」
駅のほど近くにある私立高校の体育館内にシューズの擦れる音が鳴り響く。バスケットボールよりも一回り小さいハンドボールを片手で鷲掴みにし、プレイヤーがゴールエリア内へと飛び込む。永遠を思わせる滞空時間から放たれる鋭角のシュートは見る者全てを圧倒する。
ゴールネットをぶち抜くと、チーム内から歓声が湧き起こった。当事者である恐田からハイタッチを要求され、俺は白線の内側でそれに応じる――
「また助っ人かよ!!」
手厚いハイタッチを交わしてやった。恐田は、しかし満足そうに口元を綻ばせた。ドMか?
助っ人のハシゴなど聞いたことがない。恐田の背中を睨みつけるが、当人は他のメンバーとのハイタッチに夢中のようだ。
「悪いね、鬼越君まで。メンバーが突き指しちゃってさ」
ハンドボール部の鯨井部長が申し訳なさそうに隣に並ぶ。コートの外では、指に包帯を巻いた部員二名が胡坐をかいて応援している。
ハンドボールは七対七で行われる。どうやら我が校のハンドボール部には七名しか所属していないようだ。
「ハンドボールって影薄いんだよね。同じ屋内球技でもバスケとかバドのほうに人が流れちゃって、万年部員不足。鬼越君もうちにハンドボール部があるって知らなかったでしょ?」
俺は苦笑する。クラス委員と言えども、全ての部活は網羅していない。
「最近は良くなってきたけど、うちの高校ではハンドボール部はまだまだ知名度不足。だから、実績をつくりたくてさ」
「練習試合でも実績になるんですか?」
「ならないね。でも、校内新聞とかに載るから。一試合一試合を大事にしたいわけさ、僕としてはね」
鯨井部長が微笑む。長身でスマート、おまけに物腰が柔らか。これはモテる。一般男子生徒の身から言わせてもらうと、むしろこの人がモテていなければ困る。
「そうですか。……ちなみに、二人はどうして突き指したんですか?」
「……バスケでやっちゃったみたい」
(熱量差ァ!)
どうやら突き指した二人はバスケにご執心のようだ。
「それは……お気の毒に」
ともあれ、一度引き受けた(勝手に引き受けられた)からには途中で放り出したりしない。それがクラス委員というものだ。
ハンドボールのコートは20m×40mで、サッカーのように両チームにゴールネットが存在する。ただし、サッカーとは異なり、ゴールネットを囲うゴールエリア内にはゴールキーパーのみ入ることが許され、他の選手はエリア外からボールをシュートすることで点数を獲得できる。
「よろしくお願いします!」
試合開始の笛が鳴った。先ほどのアルティメットは審判がいない『セルフジャッジ』が基本のゲームだったが、今回は顧問と思しき男教師が審判を務めている。
コイントスの結果、俺たちのチームが先行だった。センターラインの中央から鯨井部長が恐田にパスを出す。
(早速恐田か)
前評判もあり、期待されているようだ。恐田はバスケのようにハンドボールをドリブルしてゆく。はじめはゆっくり、ディフェンスが迫ってくると急加速し、たちまちゴールエリアの手前まで迫った。
恐田はダッシュの勢いそのままにゴールエリア内へと跳躍し、空中からゴールシュートを決めた。いわゆるジャンプシュートだ。
おお、と突き指した二人から歓声が上がる。恐田がチームメイトとハイタッチを交わしている。
俺も恐田に近付いてハイタッチを交わす。
「ナイス恐田。だけど、ゴールエリアに入ってなかったか?」
「空中ならOKだ」
「なるほどな」
恐田は交わした手をそのままがっしり握り締め、俺を引き寄せた。
「……鬼越の手、温かい」
「試合中だからな」
恐田の手を振り解き、ディフェンスの位置につく。今度は相手チームのスローオフから開始だ。
横目に恐田を見ると、手を見つめてグーパーしていた。少し冷たくし過ぎただろうか。
いや、今は試合中だ。冷たいくらいが丁度良いはず。
わかっていたことだが、やはり恐田は運動神経が良いようだ。アルティメットの時のような派手な動きはできないものの、甘いパスのカットやディフェンスの穴を狙ったドリブルなど、手堅いプレーで俺たちのチームは優勢となった。
「この調子で行こう!」
試合も終盤に差し掛かり、鯨井先輩がチームメイトを鼓舞する。
「鬼っち!」
(鬼っち?)
鯨井部長が俺にパスを出してきた。
(って俺かよ!? えーっと……ボールを持ったら三秒以内に動いて……!)
ボールをキャッチし、とりあえずドリブルする。ハンドボールはバスケットボールよりも小さく、未だに感覚が掴めない。
「ああっ!」
そうこうしているうちに相手チームにボールを奪われた。何たる不覚。取り返さなければ。
相手のオフェンスを追いかける。先回りすることなら恐田のおかげで慣れている……と言いたいところだが。
「はあ……はあ……限界だァ……!」
午前のアルティメットが響いてきた。俺は前屈みとなり、呼吸を整える。
面を上げると、恐田が相手選手のパスをカットし、こちらへ戻ってくるところだった。
「すげェな、恐田は……ぜえ……さすが、ヒーロー……!」
俺の横を通り過ぎ、恐田が俺をチラリと見る。目配せしたわけではないが、恐田の纏う空気が変わったような気がした。
恐田はゴールエリア手前で相手のディフェンスに囲まれ、反対サイドの鯨井部長へとパスを出した。しかし、鯨井部長もマークされており、シュートを打てない。
すると、恐田はディフェンスの間を縫うように動き出した。鯨井部長が恐田を一瞥し、ゴールエリアの上方へとボールを投げる。
恐田は相手選手の陰からぬっと現れ、ゴールエリア内へと飛び込んだ。空中で鯨井部長のパスを受け取り、そしてシュートを決める。
「スカイシュート……!」
試合前の練習中に鯨井部長から見せてもらったが、試合中に見ると迫力が違う。ゴールを決めた恐田の背中が勇ましく見えた。
恐田が肩越しにこちらを振り返った。人差し指をくいっと曲げ、挑発のジェスチャーを見せる。俺にやれと言っているのか。
(いやいやいや! 俺には無理だって!)
俺は頭をぶんぶんと横に振る。
そこで試合終了の笛が鳴り響いた。俺たちのチームの勝利だ。
鯨井部長がチームメイトと順番にハイタッチを交わす。恐田の番になると、ハイタッチに続いて握手も交わしていた。
「お疲れ様! いやぁ、初めてとは思えないよ、恐田っち! どう? このままハンドボール部に入らない?」
恐田が俺をチラリと見る。俺は肩を竦め、恐田の自主性に任せることにした。
「鬼越がやめとけって……」
「言ってないッ!! 捏造するなッ!!」
恐田の頭をぽかりと叩く。恐田は、しかし嬉しそうだ。ドMここに極まれり。
鯨井部長はふふと目を細めた。笑い方まで様になっている。ここまでくるとズルいとすら思えない。素敵だ。
「そっか。残念。でも、もう一度やってみたくなったら体育館までおいで。いつでも歓迎するよ。鬼っちも、ね」
鯨井部長に続いて、他のチームメイトも口々に感謝と歓迎の言葉をかけてくれた。突き指をした二人も試合の熱が移ったのか、怪我していない方の手でボールをドリブルし始めた。
(疲れた。……だけど、こうしてクラス委員とか関係なく歓迎されるのって、いいな)
片付けを終え、学校を後にする。徐々に日が傾いてきた。
スポーツドリンクを飲み干し、自動販売機脇のゴミ箱へとペットボトルをシュートする。ようやく一点取り返せた。
「今からどこかに行くのも中途半端だな。今日はもう帰るか」
「だってよ恐田。用事は済んだか?」
目黒が後ろを振り返る。恐田は自動販売機からスポーツドリンクを一本取り出し、俺に手渡した。
「あと一つ。……言わなくてもわかるよな?」
***
「そんなことだろうと思ったよ!!」
最後は小学校のグラウンドだった。どうやらドッジボールの小学生チームの助っ人だそうだ。
(いいのか、これ?)
俺は外野で、恐田は内野。図体の大きな恐田が集団の中で浮いている。
恰好の的と言うべきか。先ほどから相手チームが執拗に恐田を狙ってボールを投げている。だが、恐田はすんでのところで全て避けている。障害物を避けることに関して言えば、恐田の右に出る者はいない。俺は「クソッ!」と悔しがっている小学生を前に優越感に浸っていた。
「油断するなよ、鬼越」
背後で目黒が腕を組んでいる。その目は真剣そのものだ。
「相手は俺の弟だ。甘く見ていると……死ぬぜ?」
「兄バカかよ」
どうやら弟のために強いチームと戦わせたかったようだ。即席チームのせいか戦力差は明らかで、気付けば内野は恐田一人だった。
「鬼越! 中入って!」
恐田のヘルプに応じ、俺は内野に戻った。自チームの内野が俺たち二人であるのに対し、相手チームの内野は四人残っている。しかも、まだ内野に戻れる外野も残っている。
(絶体絶命だな……!)
相手の内野がボールを手にして、俺たちを品定めしている。その顔立ちには目黒の面影がある。きっとあの少年が目黒弟なのだろう。
目黒弟がボールを構える。狙いは――俺だ。
ボールが迫ってきた。小学生とは思えない剛速球だ。俺には到底キャッチできない。
俺は右に跳んでボールを避けた。ボールが相手チームの外野の手に渡る。
「鬼越ッ!」
恐田の声に反応し、今度は真上にジャンプする。ボールは俺が足を着いていた地面へとバウンドした。
内野と外野の連携攻撃によって、俺たちは防戦一方だった。徐々に陣地の中央へと追いやられ、俺と恐田はほとんど身体が密着する位置取りとなっていた。
恐田と肩が触れる度にドキッとする。恐田もそう思っているのか、ボールを避ける動きが徐々に鈍くなっている。俺は極力恐田に触れないように陣地の外側へとポジショニングしてゆく。
(こんな時まで人目を気にしてどうするんだ。相手は小学生。俺たちが付き合ってるだなんて思うわけがないし、気付いたところでどうにもならない)
そこで俺は思い至った。
(……俺は、目黒に気付かれるのが嫌なのか?)
目黒は俺たちの関係性を半ば確信しているように思う。それでも、こうして俺たちの用事に付き合ってくれたし、こうして俺たちを頼ってくれた。俺たちの間には信頼関係が築かれている。俺はそんな相手を俺は疑っているのか。本当の姿を知られれば、離れてしまうと。
(違う。俺は……)
「鬼越ッ!!」
恐田の声で我に返った。しかし、気付いた頃には手遅れだった。
顔面に剛速球を食らい、世界が逆さまにひっくり返る。
「鬼越ェェェェェェッ!!」」
夕焼け空に目黒の絶叫が響き渡った。
「酷い目に遭ったぜ」
黒く塗りつぶされた窓ガラスに、額を擦る俺の姿が映り込む。夕飯時を過ぎた電車内は閑散としており、遮るものがほとんどない。
俺の隣で目黒が申し訳なさそうに笑う。
「悪かったな。うちの弟は肩が強いみたいで困ったもんだぜ」
「思ってもないこと言うなよ、兄バカ」
「最近反抗期が来て困ってんだって。力が強くってさ、毎日家の中で大暴れ。俗に言う台風一家ってヤツ?」
「意味がちげぇよ」
それを言うなら『台風一過』だ。
目黒が抑えた声でけらけら笑う。いつのもことだが、辛いことさえも笑顔で語る男だ。一緒にいて疲れない。
不意に目黒のポケットが震えた。スマホのバイブだろう。目黒がポケットからスマホを取り出す。
「恐田はもう家に着いてる頃か。アイツはすげーな。最後まで息切らしてなかったし。なぁ?」
そうだな、と目黒の手元を横目に覗く。スマホのロック画面に【20:28】と時刻が表示されていた。そして、壁紙には鼻を摘まんで仰向けになっている俺の写真が使われている。
「おい、その写真なんだよ」
状況からして、顔面でボールをキャッチして鼻血を出した時の写真だろうが、撮られた記憶がない。さてはコイツ――!
スマホの画面をこちらへと向け、目黒が二ッと口の端を上げる。
「幸運のお守り」
「皮肉か」
「人の不幸を糧にするタイプのお守り」
「呪いじゃねぇか」
人の不幸は蜜の味ということか。
「そんなもん、お焚き上げちまえ」
「悪い、もう恐田に送っちまった」
「何ッ!?」
目黒のスマホを奪い取る。メッセージアプリを立ち上げると、恐田相手に俺の写真を大量送信していた。今日のものだけでなく、これまでのものも含まれている。
「恐田が気になってるみたいだったから、あるだけ全部送ったんだ」
「……おい、俺の知らねぇ写真がたくさんあるんだけど」
去年の文化祭で俺がお化け屋敷から飛び出してきた時の写真だ。お化けよりも恐ろしい表情をしている。当時の俺も撮られたことに気付いてなさそうだ。
目黒がハハハと笑ってスマホを取り返そうとする。その手を弾き、俺はシャーっと威嚇する。
「他に変な画像はねぇだろうな?」
画面をスクロールしてゆくと、目黒と恐田のやり取りが目に入った。送信画像を削除しつつ、メッセージを追ってゆく。
■目黒 20:10
【今日は大活躍だったな!】
【また一緒に遊ぼうぜ!】
■恐田 20:19
【ありがとう】
【目黒は鬼越と仲良いんだな。いつ知り合ったんだ?】
■目黒 20:21
【クラスは二年から】
【一年の時も同じクラス委員だったからよく一緒につるんでたよ】
【部活ない日は一緒に帰るし】
【なぁ】
【恐田は鬼越のことどう思ってる?】
(唐突過ぎる)
もう少し自然な流れで訊けないものか。こうあからさまに怪しい質問なら、さすがの恐田も空気を読んで答えを濁すはず――
■恐田 20:21
【好き】
【大好き】
(濁せ。ドロッドロに)
しかも即答。食い気味に返信している姿が目に浮かぶ。
■目黒 20:25
【どこがそんなに好きなんだ?】
【アイツ、優等生ぶってるただのアホだぞ?】
(張っ倒すぞ)
目黒を横目で睨みつける。目黒は俺が盗撮写真を見つけたと思ったのか、肩を竦めて苦笑している。
スマホに注意を戻すと、恐田からの大量の返信が目に飛び込んできた。
■恐田 20:26
【恐田の好きなところは】
【優しいところ】
【頼もしいところ】
【誰にでも親切にするところ】
【正義感が強いところ】
【美味しそうにご飯を食べるところ】
【素直に謝るところ】
(やめろッ! 溶けるッ! 溶けちまうッ!!)
身体が火照ってきた。すぐにでもスマホを手放したい気持ちとは裏腹に、身体が恐田の返信を求めてしまう。
■恐田 20:27
【それと】
【ちょっと捻くれてるところ】
【良く見せようとして背伸びしてるところ】
【少しおっちょこちょいなところ】
【先生に従順なところ】
(ん? 悪口?)
身体が冷えてきた。悪寒すら走りそうだ。
■恐田 20:28
【顔も好き】
【匂いも好き】
【体温も好き】
【オーラも好き】
(もはや信者)
恋は盲目と言うが、これでは恐田に俺への好意があることは明白だ。
スマホを握る手がじんわりと汗ばんでゆく。
(クソ、これじゃあ恐田が俺のこと好きだってバレバレじゃねぇか。いや、だけど、これなら恐田の一方的な好意ってことで誤魔化せ――)
そう考えていた矢先、恐田から新着のメッセージが届いた。
■恐田 20:30
【俺を見捨てないところ】
俺は息を呑んだ。恐田の真っ直ぐな気持ちに当てられ、恥ずかしさすら覚えた。
(恐田はこんなに真剣なのに、俺は何で誤魔化そうとしてるんだよ)
隣の目黒へとスマホを手渡す。
「返す」
おう、と目黒がスマホを受け取る。
「変な写真はあったか?」
「わからないから全部消した」
「だよな。でも、恐田なら全部保存してると思うぞ?」
「だろうな。それはいい。アイツの勝手だから」
素っ気ない態度を怒っていると捉えたのか、目黒はしばらく沈黙した。
一定間隔で揺れる車内は心地好い。沈黙を丁度良い雑音で満たしてくれる。
目黒は向かいの窓ガラス越しに俺と目を合わせ、「なぁ鬼越」と切り出した。
「この間まで恐田に避けられてるっつってたけど、今度はお前が恐田を避けてんのか?」
目黒はいつになく神妙な面持ちをしていた。
俺は指を絡め、じっと足元を注視する。
「避けてねぇけど。そう見えた?」
「見えたっつうか、避けてるだろ? 何だ、俺が余計なこと言ったからか?」
「だから避けてねぇって。つうか何だよ、余計なことって?」
「恐田と付き合ってるって言ったこと」
「バカッ!」
俺は慌てて周りを見渡す。幸い、誰も俺たちの会話を聞いていないようだ。皆、スマホで自分の時間を堪能している。
「名前だけじゃ性別なんてわかんねーよ」
目黒が何てことないように言う。
やはり目黒は確信している。
「あ、ああ……そりゃそうか」
俺は手の震えを隠すように腕を組んだ。言い訳を考えるが頭が真っ白で何も思いつかない。ただただ、次に目黒から放たれる言葉への恐怖が頭を支配する。
やがて目黒は背をもたれ、揺れる吊り革を眺めた。
「……お前の言うとおりだったな。色恋沙汰に首突っ込んでも藪蛇だ」
言葉の意味を理解できず、俺は目黒の横顔を眺めた。目黒は、しかし俺の目を見ないように続けた。
「お前が恐田と何かあるんだろうって、みんな気付いてるよ。少なくともクラスの奴らは」
「は……?」
そんなはずない。俺は完璧なクラス委員を演じていたし、恐田と必要以上に接していない。第一、俺と恐田が付き合っていると知っているなら、もっと態度がよそよそしくなるはずだ。
目黒は俺の疑念を感じ取ったのか、少しだけ声を柔らかくした。
「気付いた上で態度が変わらないんだよ」
「そんな、こと……」
「そんなもんだよ。お前って自意識過剰だよなぁ。お前が思ってるほど、誰も他人の性的嗜好に興味ねーぞ? 特に男は単純だからさ。てか、そんなの気にしてるヤツ、気持ち悪過ぎだろ」
「……でも仮に、仮にだぞ? 俺が……恐田と付き合ってたら、それこそ気持ち悪いだろ。……嫌いになるだろ、フツー」
目黒が窓越しに俺を見遣る。ニヤリと笑う口元からは、普段の悪戯っぽさが感じられない。
「心配するな。恐田と付き合わなってなくても、お前は十分気持ち悪いよ」
ふざけんな、と目黒の肩を叩く。目黒がけらけらと笑う。釣られて俺も笑う。
目黒はこういう奴だ。気を遣わないし、遣わせない。
だけど、と目黒は言う。
「お前は自分で思ってるよりも、みんなから愛されてるよ」
ふと振り向いた俺に向けて、目黒がニヤリとピースする。
「少なくとも二人いるしな」
俺は口の震えを隠すように目黒から顔を逸らした。口を開けば、嗚咽が零れてしまいそうだった。
どれだけ目黒が俺に寄り添ってくれたとしても、どれだけ恐田が俺へと好意を示してくれたとしても、きっと俺が恐田との関係性を明言することはないだろう。誰か一人にでも嫌われる可能性があるのなら、俺は自分のことだろうと口にしない。
何故なら俺はクラス委員だから。
クラス委員となったのは、誰からも好かれる『理想の自分』を作り上げるためだ。その対象には自分自身も入っている。俺はもう、自分自身を嫌いになりたくないのだ。
自分の気持ちに正直になり、それを周囲に露呈するというのは、自ら理想像を壊すことに他ならない。理想が崩れれば、俺はまた自分を愛せなくなる。
いつか俺も恐田のように俺を愛せるようになるのだろうか。恐田を愛するように、俺自身をも愛することができるのだろうか。
そこで俺は、はたと気付いた。
(俺……ちゃんと恐田のこと、好きだったんだな)
自分の気持ちに改めて気付き、俺は――心底安堵した。
「じゃ」
改札口を出ると、目黒は俺に背を向けて手を振った。
「なぁ目黒」
「ん?」
目黒が振り返る。俺の手の震えに気付いたのか、「言わなくていいけど」と苦笑している。
いや、違う。俺は無理をしているわけではない。目黒にずっと訊きたかったことがあるのだ。
先日、目黒は俺に向かってこう訊いた。
『お前、恐田と付き合ってんだろ?』
「俺と恐田が、その……付き合ってるって訊いてきただろ? 別に俺と恐田はそういうアレじゃねぇけど……でも、何でそう思ったんだ? そんなベタベタしてたか? 恐田が俺に懐いてるのはクラス委員としてアイツとよく絡んでたからだし」
「いや? だってお前、恐田のことずっと目で追いかけてるじゃん?」
「俺が……恐田を……?」
俺は目を丸くし、すぐさま手を大きく振った。
「いやいや! 俺は恐田から見られてると思って、見返してただけだぜ!?」
「逆だろ。恐田がお前からの視線を感じて、見つめ返してたんだろうが」
茫然とする俺を見て、目黒が戸惑いをあらわにする。
「まさか無意識? 今日だって、恐田が先輩と喋ってる時とか、ずっっっっっっとアイツのこと見てたぞ?」
「嘘だろ……!」
俺はその場に蹲った。自分でもどんな顔をしているかわかるだけに、誰にも見られたくない。
頭上から目黒の大笑いが降り注ぐ。
「はは! 鬼越ってそういうところあるよな!」
「どういう意味だよ……!」
「好きなものを目で追っちまうところとか、小学生相手に本気になるところとか、しっかりしてるように見えて、実は子供っぽいよな。イイ意味で純粋っつうかさ」
「ぜってぇ褒めてねぇだろ」
「褒めてるって。何つうかさ、恐田を見つめてる時のお前の顔さ――」
「あーあー!! 言うなッ!! 聞きたくないッ!!」
声を張り上げる俺に、しかし降り注いだものは熱のこもった目黒の声だった。
「凄く――誇らしげだった。恐田が褒められて嬉しいんだなって。それでいて憧れてんだなって伝わってくる顔で……そんな顔見たら、言わずにはいられねぇだろ?」
面を上げると、目黒の背中が飛び込んだ。墨のような夜空をじっと眺めている。
「お前ら、お似合いだよ」
「……サンキュ」
胸のモヤモヤが晴れるような心地だった。普段なら気付きもしない一番星が、俺の目に焼き付いて離れない。
恐田を褒められれば嬉しいだなんて当たり前だ。俺にとって、恐田は憧れのヒーローなのだから。
「ああ、だけど」
目黒がこちらを振り返り、苦笑する。
「アレだけはやめたほうがいいぞ? 何つうか……見ているこっちが恥ずかしい」
「『アレ』?」
***
「あれ?」
恐田が俺の目の前に唐揚げを突きつけながら、首を捻る。
「お腹空いてないのか?」
昼休みになると、俺は決まって恐田と目黒とで弁当を食べる。今日は先週末の助っ人の件で話が盛り上がっていた。
だが、恐田から箸で唐揚げを突きつけられた時、俺の視線は自然と目黒へと向いた。目黒が忠告していた『アレ』が発動したのだ。
「……なぁ恐田、そういうのは友達同士じゃあまりやらないらしいぞ?」
「そういうのって?」
「食べ物をあーんって食べさせるやつだ」
恐田はキョトンとした。
「知ってるけど?」
「は?」
「でも、俺たち友達じゃ――」
「うぉおおおッ!! 美味そうッ!!」
俺は目の前に迫った唐揚げへと勢い良くかぶりついた。ジューシーな肉汁が口の中に広がり、身体が白米を欲し始める。恐田家の冷凍食品は味付けが濃い目だから弁当によく合う。
ごくんと呑み込むと、隣で目黒がゲラゲラと笑っていた。
「……おい恐田、あんたは『コレ』がどういう意味か知っていてやってたのか?」
「意味?」
「これが……その……何だ、恋人とか、夫婦がやる営みだってことをだな」
「営みって……」と目黒が噴き出す。ギロリと睨みつけていると、恐田が静かに答えた。
「わかるだろ、フツー」
恐田に常識を説かれるのが一番腹立つ。普段は俺よりも非常識なくせに。
「逆に鬼越は何だと思ってやっていたんだ?」
「おかずくれるんだ、やったー……みたいな?」
今度は恐田まで噴き出した。いやに熱くなってきた。
「それじゃあ、俺にあーんってしてくれたのは?」
「おかずのお返しあげるー……みたいな? ……ク、クラス委員なんだから当然だろ!?」
「出たよ、クラス委員への謎意識」
横槍を入れてくる目黒を「うるせぇ!」と一蹴する。
正直のところ、目黒が茶化してくれて助かった。もし恐田と二人きりなら、俺は羞恥のあまり蒸発していたことだろう。
俺は恥ずかしさを誤魔化すように口にご飯をかき込み、弁当を平らげた。
「ご馳走様! ちょっくらバスケしてくる!」
席を立つ俺の後ろを恐田が追いかけてくる。
「鬼越」
「あんたもやるか、バスケ? 2on2ならもう一人必要だな。目黒を誘って――」
俺の台詞を遮って、恐田が俺の手を引っ張った。ゴツゴツした指の感触に胸の辺りがぞわぞわっとなる。
「な、何だ!?」
「鬼越に見せたいものがある」
連れられた先は南校舎四階へ続く西口階段だった。教室が並ぶ北校舎と違って、昼休みの南校舎は人の気配は無く、静まり返っている。
恐田は踊り場から手すりに飛び乗ったかと思うと、するりと滑り降り、途中で手すりから飛び跳ねた。身体を一回転させ、三階の廊下へと着地する。
おお、と感嘆の声が漏れる。
「これって、俺の技……の、改良版か!」
「名付けて『鬼越え』」
「それはやめてくれ」
顔から火が出てしまう。
恐田が人差し指をくいくいっと折り曲げ、俺にやってみろと言う。
俺は手すりに飛び乗り、するすると滑り降りる。途中でジャンプしてみるが、数ミリ浮いただけで、すぐさま手すりの上に着地した。その後は今までどおり、ぴょんと手すりの終わりで跳んでおしまい。
気を遣ったのか、恐田が拍手を送ってくる。やめてくれ。
「どう?」
「どうって……」
辱められて、惨めな気分だ。
だが、本当の気持ちはそれではない。俺は踊り場まで駆け上がる。
「もう一回やる」
手すりに飛び乗り、するすると滑り降りる。途中でほぼ浮いていないジャンプを挟み、廊下へと飛び降りる。ここまでは先ほどと同じ。
そこで、俺はよろけたフリをして、恐田の身体に倒れ込んだ。咄嗟に恐田が俺の身体を受け止め、抱き合う姿勢となる。
俺はそのまま恐田の胸に顔を埋めた。恐田の脈拍が感じられる。恐田の体温が直に伝わってくる。恐田の匂いに鼻孔がくすぐられる。俺は今、『恐田陸』という男を全身で感じている。
背中に恐田の腕が回る。指先が震えているのか、背中が少しこそばゆい。
「……やっぱりあんた、かっけぇよ。凄い技決めるし、思ったことをストレートに言うし、いつだって自由だ。……憧れる」
恐田の指先が背中にぐいっと食い込む。
「鬼越のほうが、カッコいい。誰とだって仲良くできるのに、俺のことをずっと見てくれる。越がいるから、俺は自由なんだ」
顔を上げると、恐田と目が合った。目元が熱っぽい。こうなった時の恐田は制止が利かない。
「恐田、俺……あんたことが、好きだ。だけど、人前でこうしたり、好きだって言うことは……できない。付き合ってるって知られるのが……怖いんだ。それでも……許してくれるか?」
お互いの顔が徐々に近付いゆく。さながら磁石か、引力か。俺たちは互いに互いを求め合っている。
「許すとか許さないとかじゃなくて」
鼻先が触れる。恐田の息が顔にかかってくる。呼吸が荒くなっていることがわかる。きっと俺も同じなのだろう。
「鬼越の嫌がることはしないよ。俺も恐田のことが……好きだから」
やがて俺の唇は――恐田の唇に触れた。重なった。身体が熱くなってゆくのがわかる。このままいつまでも触れていたい。
唇を離し、見つめ合う。恐田の表情から俺と同じ気持ちであることが伝わってくる。
「……鬼越、人前でこういうことできないって言ってたけど」
恐田は上気した顔で言う。
「目黒は人じゃないのか?」
バッと背後を振り返る。廊下には誰もいない。だが、東口の方向から階段を駆け下りる音が聞こえてくる。
「いたのか、目黒が……?」
恐田はこくんと頷いた。
顔から血の気が失せてゆく。
「何で、言わなかったんだ……!?」
「ごめん。鬼越も気付いてるのかと思って……」
「人前でこんなことできねぇって、言ったばかりだろ……!」
何だったら、伝えている最中だったはずだ。
「ごめん。鬼越にとって、目黒は人じゃないんだと思って……」
そんなわけがないだろう。俺は何だ、鬼畜だと思われているのか?
俺はへなへなとその場にへたり込んだ。
「……一巻の終わりだ。いくら目黒でも、こんなところ見られたら……俺はもう、生きられない」
「わかった」
それだけ言い残し、恐田は目黒(と思しき足音)が去って行った階段へと向かってゆく。
(……わかった? 何がだ?)
俺の疑念を汲み取ったのか、恐田が背中越しに言う。
「俺が目黒を――始末する」
(なんてこった!)
次の瞬間、恐田は廊下を駆け出した。こうしてはいられないと俺も即座に駆け出す。
「待てッ! 恐田ッ! 冗談だッ! 目黒がいても生きられるッ! 目黒だったら何を見られても大丈夫ッ! だからッ! 止まれェッ!!」
俺の願いは届かず、恐田は階段を飛び降り、渡り廊下を爆走してゆく。どうやら目黒は体育館へと逃げたようだ。連絡通路を走る姿が見下ろせる。
すると恐田は渡り廊下の柵を跳び越え、屋根伝いに連絡通路へとショートカットした。目黒が怯えている様子が見える。いや、面白がっているようにも見える。
鬼さんこちら、手の鳴る方へ。……完全に遊ばれている。
だが、恐田は本気だ。本気で鬼になろうとしている。俺は秘技『鬼越え(もどき)』で階段を滑り降り、体育館へと急行する。
奇しくも、初めて鬼越を追いかけた時と同じシチュエーションだ。俺は腹の底から声を振り絞り、最愛の名前を叫ぶ。
「恐田ァッ!! 待てェッ!!」
恐田陸は追われたい 了