「ごめん、鬼越」
公園の水飲み場でおでんの出汁を洗い流していると、不意に恐田が俺から半身を逸らした。
水を止め、バサバサと髪の毛から水滴を払う。
「いや、助かったよ。ありがとう。恐田が来なかったら、きっと俺は……」
考えるだけで恐ろしい。恐田が現れなければ、今頃身体だけでなく精神的にも支配されていたことだろう。
西に沈みゆく夕日が恐田の横顔を金色に照らす。その顔はどこか思案げだ。
「鬼越が嫌じゃないなら……良かった」
「嫌って……助けに来てくれたのに、そんな風に思うわけないだろ」
「だけど、鬼越……好きな人ができたって」
不意打ちにドキッとする。目の前で言われるとどう伝えたらいいものか迷う。
「なぁ、それって――目黒か?」
「……は?」
何故ここで目黒の名前が出てくるのか。
ぽかんと口を開けていると、恐田はばつが悪そうに頭を掻いた。
「そうとは知らず、付きまとったりしてごめん。目黒に勘違いされてたらごめん。明日、訂正しておくから。もう二度と鬼越に迷惑かけないから。だから……と、友達で……いてほしい」
(はあああああああああッ!?)
俺はその場にへたり込んだ。空気が読めないにもほどがある。いや、純粋と言うべきか。
恐田がどうしたものかと狼狽している。無知過ぎるその顔がムカついて、愛おしくて、俺は恐田に向けて蛇口を目一杯捻った。
「ご、がぼッ!! つ、冷たッ……何ッ……!?」
顔面から水を被り、恐田が全身びしょ濡れになる。いいザマだ。水を止め、俺はゲラゲラと笑う。
恐田は訳がわからず目を白黒させている。
「あの、鬼越……い、嫌だった? 俺と……友達、なんて……」
「……ああ、まっぴらごめんだ」
恐田ががっくりと肩を落とす。言葉の一つ一つをそのままの意味で受け取るのか。今なら恐田の両親の気持ちがわかる。
恐田からは目が離せない。何をするかわからないし、純粋過ぎて物事を曲解するおそれがある。追いかければ疲れるし、追いかけられても疲れる。目の届く範囲内で大人しくしてもらいたいと願う気持ちもわからないでもない。
だが、それ以上に俺は恐田にこのままでいてもらいたい。のびのびと、感情のままに、自由に、世界を飛び回ってほしい。それはきっと、恐田のいろんな一面を発見したいという願いがあるからだろう。
くいくいっと人差し指を折り曲げる。恐田が素直に俺の前の前へとしゃがみ込む。
隙だらけの唇に唇をそっと重ね合わせた。
「ッ――!!」
恐田の身体が震えた。俺の身体も震える。すっかり冷えた身体が、急速に温まってゆく。
唇を離す。恐田は熱を帯びた面持ちで茫然としている。
やがて恐田は自身の唇に触れ、驚愕のあまり目を見開いた。
「これって……『振ってごめんな』のキス……?」
「そんなわけねぇだろッ! 俺の勇気を台無しにしやがって!」
それじゃあ、と恐田が言い淀む。
「好きな人って……?」
恐田の頬に触れる。すっかり水滴も蒸発していた。
「あんたのことだよ。俺は、えと、その……恐田のことが、好き……で」
「好き……で?」
「できれば……つ、付き合いたい、です」
チラリ、と恐田の顔を見上げる。恐田はしきりに瞬きしていた。
「友達じゃなくて恋人になりたいってことか?」
「皆まで言わせるなッ!! 察しろッ!!」
「ご、ごめん! わからなくて!」
恐田が顔を近付かせてくる。
「俺も……鬼越と、付き合いたい」
「じゃ、じゃあ……そんな感じで、よろしく」
鼻と鼻が触れる。赤城の時とは異なる衝動が身体の奥底から湧き起こってくる。
(マズいマズいマズいマズい!! 身体が……爆発しちまうッ!!)
幸い周囲に人の目はないが、公共の場でこれ以上触れ合うわけにはいかない。俺は完全無欠のクラス委員なのだ。色恋に現を抜かしている現場を目撃されるわけにはいかない。
バッと立ち上がり、バッグを肩に掛ける。俺の意図に気付いたのか、恐田もバッグを持って肩を並べた。チラチラと互いに視線を交わすものの、照れ臭くなって何も言えない。
沈黙に耐え切れなくなったのか、恐田はブランコ前の柵に飛び乗った。重力を感じさせない動きで柵の上を渡り、近くの木の幹へと飛び移り、反動を使ってブランコの支柱の上に飛び乗った。
「マジかよ」
思わず感嘆の声が零れた。夕日を背に受け、こちらを見下ろす恐田の姿が、初めて追いかけた時に体育館で見た姿と重なる。
「……やっぱり恐田はヒーローみたいだ」
「ヒーローは逃げたりしないよ」
恐田が目の前に降り立った。服についた埃を払い、すっと眉尻を下げる。
「俺のことをずっと追いかけて、救い出してくれた鬼越こそ、俺にとってのヒーローだ」
「その理論で言ったら、あんたも同じだろ」
恐田は少し思案し、目を線にして笑った。
「そうかもな」
『鬼ごっこ』は鬼が敗者のゲームだ。鬼役になったが最後、誰かを犠牲にするまで懲役は終わらない。ちょこまかと逃げ回るネズミを捕まえなければ、永遠に勝つことができないのだ。
しかし、現実はゲームではない。逃げたところで必ずしも追われるとも限らず、逆に追いかけたところで相手が逃げるとも限らない。苦しいから逃げるのであって、苦しくなければ逃げることないのだ。
俺にはもう、恐田から逃げる理由がない。恐田にも、俺から逃げる理由はない。
だが、何となく想像できることがある。
***
「恐田ァ!! どこだッ!!」
渡り廊下を抜けると、恐田は階段を飛び降りていた。俺も手すりに飛び乗り、するすると滑り降りる。恐田には遠く及ばないが、普通に駆け降りるようも時短になっている……はず。
「恐田!! 追い詰めたぞ!! さあ、さっさと自習に戻ろう!! イヤホンでも何でもしていいから授業には出るんだ!!」
施錠された体育館の前で恐田がこちらを振り向く。くいくいっと人差し指を折り曲げ、俺を挑発する。
俺だって学習している。こういう時、恐田は俺が駆け出すのを見て、逆方向に逃げ出すのだ。俺はそろりそろりと恐田と距離を取ってゆく。恐田が逃げ去る方向に合わせ、駆け出す作戦だ。
しかし、恐田は一向に逃げ出さなかった。目と鼻の先まで詰め寄ったところで、恐田が俺の肩を掴んだ。唇が徐々に近づいてくる。
(おいおい、こんなところで……!?)
俺は咄嗟に目を瞑った。しかし、胸の高鳴りとは裏腹に、俺の身には何も起こらない。
「わかった。戻る」
恐田は俺の耳元でそう囁き、校舎へ向かって去っていった。
ぽかんとする。やがて俺は恐田の背中に向かい、声を荒らげた。
「恐田ァ!!」
相も変わらず恐田は自習の教室から逃げ出しては、俺が追いかけてくるのを待っている。しばらく鬼役は継続になりそうだ。
そういう意味では、こと俺に関して言えば追う側が勝者のゲームと言えるかもしれない。
何故なら、俺は恐田が自由に飛び回る姿に惚れたのだから。