鬼越(おにごえ)――」

 低く、落ち着いたその声で呼びかけられ、俺は教科書を閉じた。椅子から立ち上がり――全速力で教室を立ち去る。
 廊下に出たところでクラスメートの目黒と遭遇した。「また先生に呼び出されたか?」と問われ、「そんな感じ」といい加減に返事する。悪いがそれどころではないのだ。
 階段を駆け上がる。上から下へのショートカットは複数あるが、下から上へのショートカットはほぼない。追われる際には階段を上ればいいのだ。

「しまった!」

 俺はなんてアホなのだろう。三階から上は屋上だ。そして、屋上は常に施錠されている。自ら袋のネズミになるなんて愚にもつかない。
 迫り来る足音に振り返る。そこには人相が悪ければ、目つきも悪い、おまけに勘も悪い男――恐田(おそれだ)がいた。肩で息をしている俺とは対照的に、澄ました顔をしている。

(ここまでか……!?)

 逃げ場はない。観念してお縄につくしかなさそうだ。俺はその場にへたりと座り込む。
 何故こんなことになってしまったのだろうか。
 
 
 ***
 
 
 (さかのぼ)ること一週間前。俺は恐田を尾行し、自宅まで突き止めた。そこで、恐田の抱える問題に直面し、恐田を外の世界へと導いた。
 それが功を奏したかはわからない。だが、恐田は自分の意志で外の世界へと飛び出した。
 そこまでは良い。問題はそれからだ。
 ひとまず裸足の恐田に俺の体育館シューズを履かせ、最寄り駅まで一緒に歩くことにした。ゲームの話や学校での話、中学時代の話など、他愛のない話をしていると、あっという間に駅に辿り着いた。時間にして三十分程度か。普段よりも狭い歩幅で時間を稼いでいたように思う。

「改札入るなよ」
「せっかくだから」

 俺の忠告を無視して、電車に乗らないはずの恐田も改札口を通ってきた。見送られるのも悪くないか、と考え直してホームで電車を待つ。いざ電車に乗り込むと、振り返った先で恐田は何事か口にした。

「俺、鬼越のことが……」

 ドアが閉まり、言葉尻を聞き損なった。読唇術(どくしんじゅつ)の覚えはないが、しかし恐田の言わんとしていたことは容易に読み取れた。口の形は『う』『い』『あ』。導き出される答えは一つ。
 
〈好きだ〉


 ***


「お前も物好きだなぁ、鬼越。恐田とまーた追いかけっこしてんのか。しかも、今度は恐田が鬼とか。仲良しかよ」

 元クラスメートの金子がバスケットボールをシュートする。ゴールリングの縁をなぞるようにネットをくぐったボールが、体育館の床を跳ねた。さすが毎日昼休みにやっているだけのことはある。
 
「好きでやってるワケじゃない」
 
 恐田に屋上前まで追い詰められた時には頭が真っ白になったが、恐田の股下を潜り抜け、窮地を脱することができた。自分でも気付かないうちに恐田の技を盗んでいたようだ。
 ボールを受け取り、金子へとパスを出す。金子は「はあ?」と眉根を寄せ、くいくいっと手を折り曲げて俺を挑発した。1on1の誘いだろう。俺はコートに入り、金子からボールを奪いにかかる。

「嫌ならやらなきゃいいだろ」
「それはそうなんだけど……」
「自覚がないだけで、お前も好きなんだろ?」
「はあっ!?」

 つい大きな声が出てしまった。動揺する俺の隙を突いて、金子が一気にドリブルする。あっという間に抜かれ、シュートを決められてしまった。
 
「好きじゃなきゃ挑発されたってやらねーだろ。鬼ごっこだって、バスケだって」
「……ああ、そういう意味かよ」

 床をバウンドするボールを追いかける。まだ数分しかやっていないのに、既に背中は汗でびっしょりだ。コートを出て、壁によりかかる。

(『好き』って何だよ。俺にどうしろって言うんだよ)

 不意にガラガラと体育館の扉が開かれた。俺と金子がほぼ同時に入り口を注視する。
 そこに立っていた人物を見て、金子は俺を凝視した。それと同時に俺は腰を浮かせる。

「恐田ッ……!!」

 体育館の二階に上がる。通路を行き来してやり過ごそうという作戦だ。
 実行して早々、浅はかな自分に辟易(へきえき)した。二階の通路奥で恐田に追い詰められてしまった。俺はその場にへたり込む。
 恐田が目の前でしゃがみ込み、俺に視線を合わせる。目つきは悪いが、どこか熱っぽい。今ならその視線の意味がわかる。

「鬼越、あのさ……俺、鬼越のことが――」
「だああああッ!! 何回も同じこと言うなよッ!! 聞こえてたって!! あんたの気持ちは十分わかったって!!」
「そうか。……なら、それが返事ってこと?」

 恐田がおもむろに立ち上がる。その背中を見ると居た堪れなくなった。本心を伝えてくれた恐田に対し、本心を隠し続ける俺。どちらが悪いかと問われれば、百人中百人が俺と答えるだろう。

(だって……しょうがねぇだろ)

 バスケットボールの音だけが響く体育館で、俺は天井を仰ぎ見る。二階から見上げる天井は思ったよりも低い。

(あんたと違って、俺は……追いかけられるのが嫌なんだ)


 ***


 ここはどこだろう。小学校か。中学校か。見覚えのある教室だが、高校のものではない。低い机に収まるほどに俺の手足も短くなっている。
 机に座る俺の周りで、クラスメートがひそひそと話している。内容はわからないが、それが陰口だということは想像がついた。
 不意に背後から人の気配が近付いてきた。

『鬼越ぇ、今日()ヒマかぁ?』

 その声に背筋がぞわりと粟立つ。今すぐに逃げ出したい。だが、俺の手足は鎖に繋がったように動かない。
 窓から見える外の景色が暗く(よど)んでいる。夢も希望も抱けない灰色の空。まるで俺の心を映しているかのようだ。

『ウチで楽しいことしようぜぃ?』

 遊びたくない。そう思うのに、口では本心と違うことを言ってしまう。
 
『う……うん』

 助けて――その言葉を口にできず、俺はずっと(うつむ)き続ける。

『何しようかなぁ? あっ、そうだ……って、話聞いてるかぁ、鬼越ぇ?』

「――おい、鬼越」

 ハッと目覚める。居眠りしていたようだ。目覚めると教室には夕日が差し込んでいた。時刻は四時半。七時限目は既に終わっている。
 面を上げると、クラスメートの目黒が物珍しそうに俺を見下ろしていた。

「もう七限終わったぜ?」
「あ、ああ、そうか。サンキュー。帰るか」
「クラス委員ともあろう御方が居眠りなんて、余程疲れていたんだろうな。先生も見逃してたぞ?」
「そうなのか?」

 帰り支度を済ませ、教室を出る。出遅れたせいか、廊下の人影はまばらだ。

「日頃の行いが良いからな。サボり魔恐田を改心させたって実績もある。多少の粗相は許してくれるんだろうよ。普段から馬鹿真面目で助かったな」
「馬鹿は余計だ」

 目黒に肩をぶつける。目黒はけらけらと笑い、「それじゃあ」と部活のため体育館へと去っていった。
 昇降口に差し掛かる。恐田の下駄箱に靴は無い。昼休みの一件で諦めがついたのかもしれない。安心して昇降口を出る。

「鬼越、さっきの話だけど」

 恐田が目の前に現れた。下駄箱の陰に隠れていたようだ。当に俺への執着を失ったものと考えていたが、まだ諦めていなかったのか。
 恐田が逃げ腰になる俺のバッグを掴む。引っ張られた勢いでバランスを崩し、俺は恐田の制服へと(うず)もれた。石鹸の香りに包まれ、思考が一瞬止まる。

「これって……考えを改めた、ってこと?」

 恐田が俺の背中に腕を回す。
 俺は咄嗟に恐田を突き放し、距離をとった。周囲に誰もいなくて助かった。こんな場面を見られていたら、あらぬ噂が立ってしまう。
 両腕で空を抱き、恐田がすっと目を細める。信じた瞬間裏切られたとでも考えているのだろう。誤解を招くようなことをした俺も悪いが、元はと言えば俺のバランスを崩した恐田が悪い。うん、俺は悪くない。
 とは言え、心苦しいのもまた事実。「悪い」と呟き、恐田の前から足早に立ち去る。
 俺の家は電車に乗って二駅先にある。恐田とは逆方向だ。だから、電車に乗れば、これ以上は追いかけてこないはずだ。

「鬼越」

 唯一空いていた席に座ると、隣に恐田が座っていた。先回りしていたということか。

(……え! 俺のほうが先に学校出たよな!?)

 最早ホラーだ。謎は深まるばかり。ひとまず今は恐田から離れなければ。
 席を立ち、隣の車両へと移動する。当然のように恐田も後をついてきた。
 余計なことをした。一号車まで追い詰められ、俺は運転室と恐田の間に挟まれてしまった。逃げ場がない。誰か、助けて――

「鬼越は俺のことが嫌いなのか?」

 吊り革を掴んだ恐田が眉尻を下げ、俺を見下ろしてくる。そんな顔をされたら、応じないわけにはいかない。
 伏し目がちに俺は答える。

「嫌いじゃない。ただ……追いかけられるのは苦手だ。何つうか……息苦しい」
「ごめん」

 恐田が俺から距離を取った。息苦しさから解放され、俺はホッと一息つく。

「……ところで俺は鬼越が好きだけど、恐田は俺のこと好き?」
「おいおいおいおい!」

 恐田の腕を掴み、運転室の前まで連れ戻す。他の乗客が不審な目でこちらを見ているが、幸い陰口は叩かれていないようだ。顔が熱い。耳まで焼け焦げそうだ。
 それを見て、恐田が一言。

「図星か?」
「あんた、ほんっとに空気が読めないなッ……!」
「ごめん」

 恐田が悄然(しょうぜん)と頭を下げる。
 俺は深く息を吸い込み、胸を落ち着かせた。

「……悪い。今のは言い過ぎた。だけど、そういうことは周りに人がいる時に言わないもんだぞ?」
「二人きりで伝えてほしいってことか?」
「そうじゃない。俺は……」

 俺は、どうしたいのだろう。こんなにも好いてくれる人がいるというのに、目を逸らして逃げてばかり。恐田の気持ちに応えることに怯えているのだろうか。

(違う。俺は……)

 恐田を掴んでいた手の力が抜ける。

「……俺は、誰にも嫌われたくない。惚れた腫れたが原因で揉め事に繋がるのは御免なんだよ」

 恐田は何事か思案している。俺の言葉の意味を理解できないのかもしれない。
 電車が止まり、人が降りてゆく。目的地だ。俺も電車から降りる。当然のように恐田も後ろをついてくる。
 駅前のロータリーを抜け、大通りに入る。この時間になると、帰宅するサラリーマンや学生の姿が散見されるようになる。
 恐田は俺の後ろを等間隔で追ってくる。俺が立ち止まれば立ち止まり、歩き出せば歩き出す。俺のことを見ているが、決して話しかけてこようとしない。

(家までついて来る気か? そんなに俺のことが好きなのかよ)

 不意に、過去の自分の行動が思い返された。恐田も俺に尾行されていた時に、同じことを考えたのだろうか。
 途端に顔が熱くなる。

(これじゃあ、俺が思わせぶりなだけじゃねぇか)

 意を決して振り返る。逃げるのではなくきちんと返事をしよう。そうすれば、恐田も諦めがつくはずだ。
 だが、俺の決意に反して、目の前に恐田の姿はなかった。先ほどまで感じていた気配もいつの間にか感じられなくなっていた。

(帰った……のか? いや、さっきまで気配があった。まだここにいるはずだ)

 この時間帯になると人通りは多くなってくるものの、一人一人を判別できる。()してや、体格の良い恐田なら後ろ姿だろうと見逃すわけがない。

(どこに隠れたんだ?)
 
 見晴らしの良い大通りに人が隠れられそうな場所はない。考えられるとすれば、(のき)を連ねる店のどれかに入ったということだろう。
 ファーストフード店、ゲームセンター、コンビニ、花屋……挙げればキリがない。

(待っていれば、そのうち出てくるか)

 俺は近くの軒下に入り、大通りを眺める。ここからなら、恐田がどこから現れても視界に入る。

(どうせ待つなら、恐田がどこから現れるか予想するか。当たっていれば決めたとおりに返事して、外れていたら……)

 外れ=罰だとするのなら、俺は自分が苦しむ返事をしなければならない。それは即ち、俺が自分の気持ちに正直になるということ。誰からも好かれるクラス委員としてではなく、『鬼越』という一人の男子高校生として返事をすることに他ならない。

(仮に自由に返事ができたとして、俺は恐田に何て返すんだ?)

 いや、と俺は頭を振る。外れた時のことを今考えても仕方がない。まずは恐田が隠れられそうな場所を絞り込もう。
 大前提として、恐田はきっと俺から身を隠したわけではない。それをするなら、電車で俺の隣に座るはずがない。いや、隣に座ったのは俺のほうだったが。
 恐田は何か用事があって店の中に入ったのだ。放課後の男子高校生が入りそうな店と言えば、ファーストフード店かコンビニ、ゲームセンターといったところか。恐田はゲームが好きだから、ゲームセンターはあり得そうだ。

(いや、コンビニか? 確か恐田はおでんが好きだったはず)

 恐田はコンビニのおでんを好んで食べている。コンビニもあり得そうだ。

(だけど、もうおでんの季節は過ぎたか? だったら、ハンバーガー……は、食べてるのを見たことがないな。たまに食べることもある……か?)

 昼食時、恐田は毎日弁当を持参している。高確率でおでんの具が入っており、手作りであることがわかる。
 昼食におでんの具が入っているということは、前日の夕飯がおでんだったということ。ならば、ファーストフード店で済ますということは考えにくい。

(コンビニか、ゲームセンターか)

 狙いを二店に絞り、俺は思案する。こうなれば当てずっぽうだ。俺はコンビニをロックオンし、恐田の登場を待つ。
 すると不意に、俺は肩を叩かれた。想定外の事態に俺は動揺を隠し切れなかった。
 俺が立っていたのは花屋の下。灯台下暗し。まさか恐田は花を買っていたというのか。何のために? シチュエーション的に俺に贈るためだろう。

(おいおい、花束で告白とかプロポーズじゃねぇか)

 口元がニヤけてしまうのを手で隠す。嬉しくないと言えば嘘になる。だが、目立つ行為は避けてほしいという気持ちもまた本当だ。
 表情を押し殺し、俺は平静を装った。

「あんた、こんなところで何を――」

 振り返った先には、しかし恐田の姿は無かった。すらっとした長身に垂れ気味な目元。何年経っても忘れられない――悪い顔。

「やっぱり鬼越だぁ! 久しぶりぃ! ずっと探してたんだぜぃ?」

 赤城(あかぎ)。中学時代にクラスメートだった男だ。
 自然と足が後ずさる。しかし、それを阻止せんとばかりに赤城が俺の肩に腕を回す。

「急に連絡取れなくなって心配したんだぜぃ? まさか俺のこと、嫌いになっちゃったのかぁ?」
「い……いや、そんなこと……」
「良かったぁ。お前に会えない間、俺ぁ寂しくて寂しくて堪らなかったんだぜぃ? なぁ、責任取ってくれるよなぁ?」
「う、いや、その……」

 言葉がしどろもどろになる。早く逃げなければ。そう考えるのに、足は全く動かない。逃げたところで、どうせ捕まると諦めてしまっているのだ。
 赤城は俺の顔を(のぞ)き込み、ニヤリと白い八重歯を()き出しにする。

「だって俺たち、恋人だもんなぁ?」