テレビ画面に武装した男キャラクターの背中が映っている。男は鬱蒼とした密林地帯を抜け、崖が連なる渓谷地帯へと出た。そして、男はそのまま崖に飛び出し、谷底へと落ちてゆく。
【GAMEOVER】
黒い画面におどろおどろしく表示された赤文字を見て、俺は左隣の恐田を睨みつける。
「何やってるんだよ、恐田ァ!! 崖から落ちてるじゃねぇか!!」
「鬼越がジャンプしないからだろ」
恐田が手元に目をやる。一つのコントローラでゲームを二人プレイする唯一の方法、それはコントローラを左右で半分ずつ持ち、それぞれ操作することだ。
俺が右側、恐田が左側。肩と肩とを触れ合わせ、一つのコントローラを分かち合う。主に俺がボタンを押してキャラクターに攻撃やジャンプをさせ、恐田がスティックを操作してキャラクターを移動させる。
「まさか崖の方に向かうとは思わねぇだろ! ジャンプならジャンプって言え! いいな?」
「わかった」
俺はボタンを連打し、ゲームを再開する。先ほど落下した地点の少し前、密林地帯からのスタートだ。恐田がスティックを操作し、男が密林地帯を抜けてゆく。渓谷地帯に出た。崖の方へと突き進んでゆく。
「ジャンプ」
「おうっ!」
男は大きく跳躍すると、そのまま谷底へと落下していった。
【GAMEOVER】
「何でッ!?」
恐田がじっと俺を見る。
「滑空しないと向こう岸まで届かないよ」
「言えよッ! もう一回!」
崖際でタイミング良くボタンを押し、男が大きく跳躍する。そこで別のボタンを押すと、男はプロペラのような道具を頭上に掲げ、崖の間を滑空し始めた。
「おっし! ……ん、なんか鳥が飛んで来たぞ!」
滑空していると、上空から巨大な怪鳥が飛んできた。このままでは衝突してしまう。
「弓使って」
「どのボタンだ!?」
「それ」
「よっし」
恐田が指差したボタンを押す。男はプロペラを仕舞い、弓を構えた。
「狙いを定めて……!」
男は怪鳥目掛けて弓を構えたまま、谷底へと落下していった。
【GAMEOVER】
「おいっ!!」
恐田に詰め寄る。
「ハネ仕舞ったら落ちるよ」
『ハネ』というのはプロペラ型の道具のことだ。どうやら羽を出しながら弓を構える方法があるそうだ。
「交代だ、交代! あんたがボタンを押してくれ! 俺がスティック操作するから!」
「わかった」
恐田が俺の右隣にやってくる。コントローラを半分ずつ持ち、先程よりも密着する。近いな、とは言えなかった。言えば、恐田は距離を取るとわかっていたからだ。
肩越しに恐田の熱が伝わってくる。コントローラを操作すると、肩が擦れてむず痒い。身体が熱いのはゲームに熱中しているせいだろうか。
「鬼越、敵に近付いて」
「お、おう!」
密林地帯で男が猿によく似た獣の群れと相対している。俺は慌ててスティックを奥に倒し、敵のもとへと男を送り込む。
「鬼越、近付き過ぎ。もっと引いて」
男が敵にバカスカ殴られている。みるみるうちに大量ゲージが減ってゆく。
「マズいマズいマズい!」
慌ててスティックを手前に引く。男が敵から遠ざかり、誰もいないところで剣を振っている。
「鬼越、引き過ぎ。もっと前」
「ムズいんだよ、コレ!」
スティックを奥に倒す。今度は男を群れのど真ん中まで送り込んでしまった。男が獣から袋叩きに遭い、悲鳴を上げている。
【GAMEOVER】
「鬼越……」
恐田が冷ややかな視線を向けてくる。俺は悪くない。ゲームも悪くない。強いて言うなら遊び方が悪い。
「半分ずつでまともにできるわけないだろ!! 大体何でオープンワールドなんだ!! もっとこう……あるだろ! 作物育てたり、牛育てたりする平和なゲームが!」
「それ、二人で操作して楽しい?」
作業ゲームを二人でやれば、ストレスが溜まることは目に見えている。
俺が言葉に詰まっていると、恐田はコントローラを放して立ち上がった。
「右と左でやりにくいなら、もういっこ方法あるけど」
「もういっこ?」
恐田は俺の背後に回り、胡座の俺を抱き抱える形で座った。俺の両手を覆うようにコントローラ上部の右側と左側にあるトリガーボタンへと指を沿える。
「上と下で半分こ。俺はトリガーボタンを押すから、鬼越はボタンとスティックをよろしく」
「確かに半分こだけど……」
背中越しに恐田の心拍を感じながら、ゲームを再開する。耳元に聞こえる恐田の指示どおり操作すると、先程まで苦戦していた敵を倒し、崖の間も渡り切った。要所要所で恐田がトリガーボタンを押し、ゲームをサポートしてくれるおかげでスムーズに進められる。
だが――
「……恐田、これ楽しいか? 九割九分俺がやってるだけだぞ?」
気の置けない友人ならともかく、初めて訪れたクラスメートの家でやることではない。
俺が心配している後ろで、しかし恐田は声を弾ませた。
「楽しいよ。……ドキドキする」
「確かにスリリングだけど、さっきまでのほうがドキドキしたぞ? いろんな意味で……っと、マズいマズい」
いつの間にか敵に囲まれていた。武器を切り替えようとトリガーボタンに指を伸ばす。
「あ……」
恐田の指ごとボタンを押してしまい、思わずボタンを放す。恐田がどうしたものかと人差し指を宙に浮かせている。
指示を出すのも躊躇われ、俺はスティックを動かした。
「ちょっと逃げるか」
咄嗟に近くの崖に飛び出し、ハネを広げて逃げ出した。高所から広大なフィールドを俯瞰していると、世界の広さに圧倒される。敵から追われる身でありながら、このゲームの主人公はなんて自由なのだろうか。
ふと俺から逃げ回る恐田の姿が頭を過った。恐田は地上二階から飛び降りることも、階段を一足で飛び降りることもできる。このゲームのキャラのように自由な存在だ。
しかし、自由とは言え、危険が付きまとうのもまた事実。このゲームのキャラだって、一歩間違えれば地上に落下してゲームオーバーだ。現実世界で大怪我をしてもリセットはできない。スリルを求めてわざわざ危険を冒すことに何の意味があるのだろうか。
しかも、恐田はわざわざ授業をサボり、俺を挑発して追いかけさせている。俺がパルクールを見せてほしいと要求したことも一因なのだろうが、果たしてそれだけの理由で危険な行為に身を投じるだろうか。
目黒の言葉が脳裏を過る。
『いやどう見ても、鬼越の気を引こうとしてただろ』
目黒の言葉が正しいとすれば、恐田の行動は辻褄が合う。今にして思えば、俺から距離を取り始めたのも、俺の気を引く行為の一環だったのかもしれない。
(押して駄目なら引いてみろ、か)
「……なるほど。俺はまんまと恐田の策にハマったってワケだ」
「何のこと?」
恐田が俺の耳元に口を近付ける。
俺はテレビ画面を凝視したまま答えた。
「恐田は俺の気を引こうとしていたんだろう? パルクールを見せてくれっていう俺の言葉を逆手にとって、授業をサボって、クラス委員である俺を誘き出した。急に俺を避けるようになったのだって、こうして俺を家まで誘き寄せるのが目的だったんだろう?」
「え……?」
恐田が言葉に詰まる。図星という奴だろう。
「……普通、家までつけて来ないだろ」
困惑していたようだ。恐田に正論を言われると非常に悔しい。普段から常識外れな行動を取っているのは恐田だというのに。
俺は唇を尖らせた。
「だったら何で俺を避けたりしたんだよ! 体育の時間だってそうだし、この前のノートの時だって急に居なくなっちまうし! やっぱりあんた、俺が口喧しく言ったから怒ってるんだろ!?」
「それは……恥ずかしかったから」
恐田の声が尻すぼみになってゆく。
「恥ずかしい? 何が?」
「…………が……」
「何だって?」
ゲームを中断して振り返った先で、恐田は顔を俯かせていた。これでは恐田の声が聞こえない。
俺が下から覗き込むと、恐田は――顔を真っ赤にしていた。
「鬼越に近くで見られると、恥ずかしいんだって……!」
「は……!?」
思いもよらぬ言葉に俺の身体は硬直した。恐田を見ているだけで顔が熱くなってゆく。
(な、何か言わねぇと……!)
えー、と言葉にならない声を出す。一度沈黙してしまえば、何も喋れなくなる気がした。
「お、俺に見られると恥ずかしいって……何で?」
やっとの思いで絞り出した言葉は、しかし火に油を注ぐようなものだった。
「そ、それは……」
ごくりと唾を呑み込む。何故だろう。恐田の回答に期待している俺がいる。
恐田の耳が赤くなる。釣られて俺も赤くなる。
「……恐田が――」
「ああっ!! わかったァ!! これ以上すげぇ技を見せられないから、合わせる顔がなくて恥ずかしいんだろォ!? そうだろォ!?」
我ながら臆病者だ。欲しい答えを貰えない可能性を危惧して、答え自体を封じるなんて。だが、こんな小手先の阻止をしたところで真実はすぐにやってくる。
恐田の返事は、しかし俺の予想とは反するものだった。
「……そうかもしれない」
え、と俺が目を丸くしている先で、恐田は静々と語り始める。
「俺はもっと鬼越に見てもらいたかった。授業をサボったのも、校内を逃げ回るようになったのも、鬼越に追いかけてもらいたかったから」
「追いかけてもらいたかった……?」
頭が追いつかない。俺に追われることに何の意味があるのだろうか。鬼に追われるなんて辛いだけではないか。
俺の疑問を感じ取ったように、恐田が次の言葉を紡いだ。
「だって、追いかけてくるってことは、俺に興味があるってことだろう?」
思わずコントローラを放すと、代わりに恐田がコントローラを操作し始めた。主人公が悠々と滑空している。
「昔は、俺が走るだけで親が追いかけてきた。俺が手を引っ張れば、親も笑ってついてきてくれた。だけど今は……俺のことを見ていない。多分、俺が何を食べているのかすら知らないと思う」
おでんの入っていた容器を見遣る。容器を跨る割り箸が震えているように見えた。
恐田の言葉が思い返される。
『二人とも忙しいから。八時にならないと誰も帰って来ない。帰って来たところで誰も喋らないけど』
「……親の仲が良くないのか?」
恐田は首を横に振った。
「俺に費やす時間を惜しんでいるんだと思う。二人とも仕事で疲れているから。声をかければ疲れた顔をされるし、目につくことをしても疲れた顔をされる」
「そんなこと……」
ない、とは言えない。何故なら、俺は恐田家の事情を何も知らないから。形式ばかりの慰めなど腹の足しにもならないのだ。
「俺は空気が読めないから、いつも二人を困らせる。叱られたって、すぐには直せない。だからもう、二人は俺に口出ししなくなった。こんなに広い家なのに、夜更けみたいに冷たくて、他人の家みたいに息が詰まる。……自由なのに、全然自由じゃない」
恐田がじっとテレビ画面を見つめる。そこでは、男が谷を越え、大地に降り立ち、澄み切った青い空を見上げている。
「だから、鳥みたいに自由に飛び回るパルクールに憧れていた。だけど……俺は、そんな小さな窓すら抜け出せなかった」
カーテンが閉まった窓ガラスを見上げる。隙間から覗く外の景色はすっかり真っ暗だ。
「どれだけ技を覚えたって、高いところから飛び降りられたって、誰も見てないんじゃ意味がない。……嫌われたんじゃ、意味がない」
恐田が声を震わせる。顔を見ずとも沈痛な面持ちをしていることは明らかだ。
「鬼越なら……俺のことを追いかけてくれる鬼越となら、自由になれると思った。だって、鬼越は……あの日、俺を連れ出してくれたヒーローだから」
初めて鬼越を追いかけた日のことを思い出す。あの日の恐田は自習をサボり、屋上前の階段でパルクールの動画を見ていた。当時は自由気ままな自習に限ってサボる恐田の気持ちがわからなかったが、今なら想像できる。
恐田はこの広い家を彷彿とさせる空間が耐えられないのではないだろうか。人がいるのに、誰一人として喋らない沈黙が息苦しかったのだろう。
恐田は俺の気を引きたいから逃げていたのではない。追いかけられたいから気を引こうとしていたのだ。親から受け取れない愛情を、視線を、自由を、鬼に求めていた。
「だけど……気付いたんだ。ノートを隠して鬼越に怒られた時、『やっぱり俺は空気が読めないんだ』って」
テレビ画面の中で、広大なフィールドを駆け巡っていた男が走るのを止める。辺りが暗くなり、徐々に視界に悪くなってゆく。
「鬼越は俺にもっと凄い技を見せてほしいって言ったけど、あんな台詞は社交辞令だったんだよな? そうとも知らずに俺は舞い上がって、鬼越に迷惑をかけて……恥ずかしくなった」
まるで胸の内を見透かされているかのような台詞に冷や汗が噴き出す。確かに俺は社交辞令を口にした。だが、それが全くの嘘かと問われれば、ノーだ。しかし、今頃俺の本心を伝えたところで逆効果なのは目に見えている。
「鬼越、ごめん。やっぱり俺は……何もしないほうがいい。見てほしいだなんて子供みたいなワガママ、捨てるべきだったんだ」
男キャラが敵に囲まれ、攻撃を食らってゆく。恐田はコントローラを握り締めるばかりで何も操作しない。そうこうしているうちに、男キャラの体力は減り、テレビ画面に見慣れた文字が浮かび上がった。
【GAMEOVER】
おどろおどろしいゲーム画面に合わせるように、階下からドアの開く音が聞こえた。恐田がハッとしてスマホで時刻を確認する。
「……親が帰って来た」
恐田は立ち上がり、そそくさと俺に荷物を手渡した。親に見つかる前に帰らせようとしているのだろう。
恐田が窓ガラスを開くと、肌寒い風が入ってきた。
「鬼越、今日はありがとう。友達が家に来るのは初めてで……楽しかった。こんな形で返す形になって……ごめん」
恐田が俺の靴を窓の外へと並べる。いつの間に用意していたのだろう。
屋根の上に並べられた靴を眺め、俺は恐田の顔を見つめる。
「ここから帰れ、と?」
恐田は黙って頷いた。俺はもう一度外を眺める。
地上四メートルはあるだろうか。跳べなくはないが、無事ではいられないだろう。
「俺を忍者か何かだと思ってる?」
恐田は黙って頷いた。それならば仕方がない。
俺はしゃがみながら軒先まで移動し、屋根にぶら下がる形で地上に降り立った。これまで散々恐田を追いかけていたせいか、無事着地できた。
玄関前に人影がないことを確認し、門を抜ける。闇夜に紛れて抜け出す姿は忍者に見えたことだろう。
頭上を見上げると、恐田が窓からこちらを見下ろしていた。部屋から漏れ出す灯りが逆光になって表情を視認できなかったものの、俺にはその表情が手に取るようにわかる。
だって恐田は、俺の背中越しに――泣いていた。
グッと歯を噛み締め、俺は声を上げる。
「恐田ッ!!」
恐田がビクッと身体を跳ね上がらせ、キョロキョロと辺りを見回している。
「恐田陸ッ! あんただよ、あんた!」
人差し指をくいくいっと折り曲げ、こっちに来いとジェスチャーする。
「駅まで話そうぜッ!」
恐田の身体が硬直する。迷いが見える。親に見つからないかと、幻滅されないかと危惧しているに違いない。
俺は足元を見つめ、身体の横で拳を震わせる。
「……何だよ。そんな大層なハネ持ってるくせに、何で飛び出さねぇんだよ。嫌な場所から逃げられる術があるくせに、何で逃げ出さねぇんだよ。あんたのことを見てくれる人間なんてごまんといる。だいたい、社交辞令だけでこんなところまで追いかけてくるワケねぇだろ、普通」
俺は自由に動き回れる恐田が羨ましいし、妬ましい。だからこそ、恐田が俺に対して同様の気持ちを抱いているだろうこともわかる。何故なら俺は、誰からも好かれるクラス委員だからだ。
窓は既に開け放たれている。遮るものは何もない。地上四メートルの高さなど、恐田の前では無いに等しい。
俺は面を上げ、近所迷惑など考えずに声を張り上げた。
「恐田ァッ!! さっさと来いッ!!」
次の瞬間、恐田は目の前に降り立っていた。軽やかな足取りで屋根を伝い、裸足のまま空へ飛び出す。その姿に不自由の文字は似合わない。
恐田が求めているものは、きっと親からの愛情だ。嫌われたくないのは愛情を求める気持ちの裏返しなのだろう。だからこそ、自由気ままに振る舞えない。親の目の届く範囲に閉じこもっている。さながら、カゴの中で飛び回る鳥のように。
だが、いつだってカゴは開け放たれていた。恐田はただ、外の世界でも孤独になってしまうことを恐れていただけなのだ。
受け身を取って俺の眼前で膝をついていた恐田は、おもむろに面を上げた。その顔は感情がない交ぜとなって、喜怒哀楽のどれに属するかも判断がつかない。
だが、一つだけわかることがある。
俺はその顔を見て、心底――愛おしいと思った。