「先輩ー!! 九条先輩ー!!」
 土手を上っていった先輩の背中は、もう見えない。家に帰ると言っていたから、向かう先は分かっている。俺は見えない先輩の後を追って、必死に走る。

「先輩、どこ? もう帰っちまった? なあ、あのさぁ――」

 すっかり姿の見えなくなった先輩に向かって呼びかける。
 何を言うつもりなのか、何が言いたいのか、自分でも分からないけれど、心のまま伝わればいいと思った。先輩が聞いてなくても別にいいんだ。俺が知りたいんだ。俺の心を。

「空が、星が、すっげー綺麗で。俺、アンタに、教えてやりたくって」
 走りすぎて、荒くなった呼吸のせいで途切れ途切れに、思いつくまま言ってみる。声に出してみて、初めて自分が何をしたかったのか分かった気がした。
 綺麗なモノを、先輩と一緒に見たかった。教えてやりたくて、俺の好きなモノも知って欲しくて。

「だって、俺今日嬉しかった。俺が綺麗って思ったモノを、先輩も見ててくれて、嬉しかった。あの時だって――」

 俺が初めて空を綺麗だって思った、あの日。
 誰も見ていなかったモノを、俺達だけが見ていたのが、特別な気がした。
 同じものを良いと思えるのは、素敵なことだ。きっと俺たち、相性がいいよ。

「先輩、見てるか? 夜の空も、すっげー綺麗!」
 言い切ったら、清々しかった。走って汗をかいたのも良かったのかもしれない。俺は根っからの体育会系だから、頭で考えるより体を動かした方が、答えが出やすい。
 叫んで満足すると、その場にぺたりと座り込んだ。流石に、トレーニングを終えた身体に、全力疾走はきつい。でも気分的には爽快だった。ずっと胸の中につっかえていたものが、全部吐き出された感じがする。

「キモチイー!」
 うーん、と体を伸ばして、ふぅっと息をつく。

「この野生児が……」
 後ろから聞こえた楽しげな声音を、誰と確かめる必要もなかった。そんなの、分かり切っている。

「居たなら早く出て来てよ先輩。ここ小さな街だから、変な噂が立っちまう」
 高坂さんちの郁人くんが夜中に奇声を発してた、なんて、ご近所さんで噂になったら俺はともかく母さんが可哀想だ。
「嫌だね。まあ、恥ずかしい思いをしたのはこっちだけど」
 人の名前をデカい声で、と先輩は吐き捨てるように言う。

「いいじゃん、呼びたかったんだよ。アンタの名前」
 少しも怯むことなく言い返してやれば、先輩は少し面喰ったように目を見開いて、それからすぐ「生意気」って、怒った。尖った唇は、怒っていると言うより、拗ねている風だ。
 先輩は、どういう気まぐれなのか当然のように俺の横に並んだ。 

「綺麗だな……」
 もう何度言ったか分からない言葉を、それでも呟かずには居られない。今度のは、独り言ではない。横には、同じように空を見上げる先輩がいる。
「――うん、冬は流星群の季節なんだ」
「へぇ?」
「珍しいから、よく見ておくといいよ」
 まるで、自分は興味がないみたいな言い方をする。
 ちょっとした違和感を感じて、先輩の表情を伺おうと顔を横にずらす。
 空を見上げている先輩は、また、さっきみたく優しい表情をしているのかな、とか、期待を込める。
 正面からでもいいけど、横顔もきっと良いと思った。なんたって、俺に向かって先輩が眉を吊り上げ小言を言っている時ですら、俺は「綺麗な顔してんなあ」なんて、呑気に思っていたくらいなのだ。微笑まれでもした日には、それこそ凶器だ。

 俺は息をひそめて、先輩の横顔を盗み見る。
 空を見ることなんて、忘れていた。
 流星群が珍しいだとか、よく見ろだとか、そんなことどうでも良かった。
 先輩の顔が見たい――。頭の中は、先輩のことで一杯だ。

「……貴文先輩」

 まだ顔を寄せる勇気がなくて、体を固くしたまま初めて下の名前で呼んでみた。視線を先輩の横顔から、正面へと戻す。緊張で、体温がどんどん冷えて行く。先輩は振り向いてくれたのか、それとも空から目を離していないのか。知りたいけど、知りたくない。

「先輩はよく見ろって言ったけど、俺、今は空見てる余裕なんてない」
 頭が浮わついている。言葉だけが先走る。何かが、俺の体を、猛烈な勢いで駆け抜けて行く。熱なのか、感情なのか、良く分からないものが溢れて、どうしようもない。
「先輩が傍にいたら……俺、何にも見れない」
 思わずつぶってしまった目を、恐る恐る片方ずつゆっくりと開けた。そのまま先輩の方へと向き直る。
 綺麗な、黒を見た。
 まさか、先輩もこっちを見ているなんて思ってもいなかったから、それが先輩の切れ長の目から覗いた、漆黒の瞳だと気付くには、少しだけ時間が要った。

「うん、僕も……」
 先輩の唇が動いた。
 星なんかより瞬いて見える。先輩の傍は、キラキラする。
「空なんて、星なんて、今だけはどうでもいい」
 先輩の腕が伸びて、俺の肩を掴んだ。弱い力で手のひらを乗せられただけなのに、まるで吸いつかれたように思った。引き寄せられる。離れたくない、離れられない。
 俺の目の前で、それはゆっくりと閉じられた。先輩の伏せた睫毛が、俺を誘う。
 そのまま唇を重ねて、瞼にもキスを落として、それからようやく先輩の顔がまともに見れた。緊張したし、恥ずかしかったけど、それは先輩も一緒なんだと思った。俺だけ、目を逸らすのは卑怯だ。
「俺、先輩のことそういう風に好きって今日気づいた」
 だからまだちょっと混乱してるって正直に言ったら、先輩は「遅いよ」と鼻で笑った。

「僕は知ってたよ。いつも見てたから」
 ――僕をみてる、君のこと。