トレーニングを終えた一人の帰り道。
 あーあ、と思う。
 会えない間に九条先輩の思い出に縋ること、はや半年以上が過ぎた。
 吐く息も白い。
 年末だった。

(これってもうあれだよな?)
 
 好きってやつだ、と。
 この時になって、俺はようやく観念した。
 先輩と会えなくなって最初の冬休みを一週間後に控え、俺はその長期休暇の間に、来年通うことになる大学寮の下見に行くことが決まっていた。
 この街を出るまで、あと三か月と少し。まだ先のようでいて、あっと言う間なのだろう。
 先輩が学校にいなくても、今はまだ先輩と過ごした思い出があの校舎にはある。でも俺も卒業してしまったら、もうその繋がりすらなくなってしまう。いよいよ先輩との接点が無くなっちまうって時になって、遅すぎる気づき。

「あーくっそ!!」

 気を紛らわす為に、首が痛くなるくらい上を見ながら歩いていた。
 悔しいことに、今日も嫌になるくらい綺麗な空だった。
 名前は知らないが、多分有名な名前がついていそうな、明るい星が幾つも瞬いている。
 それを眺めながら、やっぱり俺は先輩のことを考える。
 今すごく会いたかったし、せめて先輩が海外みたいに遠くじゃなくて、この街にいてくれたらよかったのにと思う。
 そうすれば今この空に向かって大声で叫べば、偶然にだって会えたかもしれない。

「先輩帰ってきたりしねえのかな……」

 まあ帰ってきていたとして、俺に連絡くることなんて絶対にないし、すぐ向こうに戻っちまうんだろうけど。と、拗ねた気持ちで歩く。流石に歩道を歩くのは、前をみていないと通行人にぶつかりそうだったので、土手を下って人が滅多に通らない川沿いに出る。

「っと、アブね……」

 足元なんてちっとも見ていなかったから、川べりに出っ張った大き目の岩に足が引っかかる。
 咄嗟に足を踏ん張った先に、ありえない人のありえない姿を見止めて、俺はギョっと目を見開いた。
 誰もいないと思っていた。
 だから、そこに――今の今まで俺の思考を占領していた”彼”を見つけた時は、本気で驚いた。

「九条……先、輩?」
 
 暗がりで目を凝らす。空はまだ夕暮れ時だったが、高架下は影が邪魔をしてよく見えなかった。
 うっかり蹴飛ばしてしまわなくて良かった……。俺が冷や汗を流したのも無理はない。先輩は、俺の足元、数センチ先に寝転がっている。

「九条先輩……っすよね?」

 白昼夢の可能性も考えながら俺が恐る恐るもう一度名を呼ぶと、俺の顔を一瞥した先輩は嫌な奴に会ったとばかりに眉を顰め、面倒そうに半身を起こした。

 真っ白の質の良さそうなコートが、土と草でまばらに色づいていた。先輩はそれを手で払うのではなく、コートを脱いで乱暴に振りまわして汚れを払った。パンっと最後に一振りして、敷物になっていたコートが、きちんと先輩の身に纏われる。

「随分大雑把なんっすね。まだ汚れてますよ、そことか……」
「気にならない」

 汚れの部分を指さした俺に、先輩は短く応える。俺に一人の時間を邪魔されたのが、大層不快らしい。元々あまり機嫌の良い人ではないが、特に今日は眉間の皺が濃い。久々に会えたというのに、あんまりだと苦笑いする。

「ちょっとは気にして下さいって。ほら、髪も跳ねてる」
 乱れた黒髪を直してやろうと後頭部を撫でつける。先輩はそれに大げさに驚いて、俺から数歩後ろに遠ざかった。
「そんなに怖がんなくても」
 ちょっと傷ついて、触れたばかりの手を引っ込める。
「別に怖くなんて無い」
「じゃあこっち来て下さいよ。久しぶりなんだし、ちょっと付き合ってください」
 なんでここにいるんだとか、向こうの生活はどうなんですかとか、訊きたいことは色々あったけど、頭の中は先輩が今ここにいるってこと以外どうでも良くなってしまった。

 家に帰ってもする事も無いし、俺はまだもうちょっとこの空を見ていたかったので、その場に先輩がしていたみたいに寝転がってみる。草がちくちくと捲りあげたシャツからはみ出た腕に刺さって痛い。川の傍のせいか、土が少し湿っていて、それが夕暮れの涼しさのせいで冷えていた。
 お世辞にも心地良いとは言えない。気持ちよく眠れるような状況じゃなかった。こんな場所に、先輩はいつから寝転んでいたと言うのだろうか。

「先輩、こんなとこで何してたの?」
「――君は?」
「俺は帰り道っすよ。川辺に降りて来たのは、空を見て歩きたかったから、かな」

 先輩は胡乱な目つきで俺を見下ろしていたけれど、どこかへ行こうという気はないのか、そのまま俺の横に居座った。律儀に付き合ってくれているのだろうか。いや、先輩は俺が現れなければそのままここに寝転がっていたのだろうし、元々ここを離れる気はないのかもしれない。

「で、質問」
「何?」
「先輩がここで何してたの、って俺は訊いたの」
「君は……相変わらず目上に対する口の利き方がなってないね」
 長い会話に面倒になって、早速崩れだした俺の敬語に、先輩はあからさまに不快感を滲ませる。
 そういえば、学校にいる時もそれでよく怒ってたっけ。今にも舌打ちが聞こえて来そうな苦い顔だ。それでも先輩は俺の事を無視する気は無いようで、ゆっくりと、重たい口を開く。

「僕も、空を見てた」
 そう言って、先輩は空を仰いだ。予想通りの言葉だった。それでも、改めて言葉に出されて、俺は安心する。やっぱり、気のせいなんかじゃない。先輩と俺は、同じ物を見ていた。
 先輩の視線に誘われるように、俺も空を見上げる。なるほど、ここから寝転がって見る空はまた格別だと思った。

「町の屋根んとこと、空の境界線のとこが綺麗なんだな……」
 俺の言葉に、先輩がちょっと驚いた様に目を見開いた。驚くと言うより、意外と言った感じか。
「そう、君にも分かる?」
 先輩は珍しく、どこか嬉しそうに弾んだ声を出した。先輩の表情から、棘が抜ける。

「僕ね、ここ好きなんだ。町の人工的な光が、闇が濃くなるにつれて瞬きだす」
「先輩は空が好きなの? それとも、この町の風景が好きなの?」
 俺が尋ねたことはとても些細なことで、どっちでもいいと言うのが正直な所だろうとは思った。だけど俺は知りたかった。その小さな差が、とても気になったのだ。
 先輩が何を好きなのか、正確に知りたいと思った。
「この町の空が好きだ」
 即答だった。
 どうしてだろう。今日は先輩は、何でも素直に答えてくれるみたいだ。こんな風に九条先輩と普通の会話をしているのが、俺にはとても不思議なことのように思える。
 元々、学年だって違うし、友達でもないし、先輩がしつこく俺の素行を正しに来さえしなければ、言葉を交わすことすらなかった相手だ。すっかり目を付けられてしまった俺は、先輩の小言は沢山聞かされたけれど、それは一方的なもので、ほとんど会話では無かった。あとは全部、俺が勝手に先輩を眺めてただけ。先輩は俺のことなんて、ネクタイを結んでくれる5分間で話をした程度にしか知らない。それなのに、今、先輩が当たり前に俺と会話をしてくれるのが嬉しかった。

「――その答えじゃダメ?」
 
 俺が先輩との会話に殊更感動している間、反応がないことを不審に思ったのか、先輩は体ごと俺の方に向けて怪訝そうに俺の顔を覗き込んだ。
 空を見たままだった先輩の視線が、真っ直ぐに俺を捉えた。
 綺麗で、優しい目だと思った。本当に、好きという気持ちが流れて来そうな、そういう目。良くない勘違いをしてしまいそうだ。眩暈が、する。
 きっと、先輩は素直なだけなのだ。自分の感情を取り繕ったりしないから、俺のことを馬鹿にしたりもするし、こうやって真正面から「好き」なんて言えるんだろう。

「俺も、どっちも好きっすよ。町も、空も」
 正直な話、そんなの深く考えたことは無かった。俺は先輩みたいに地元愛が強い訳じゃないし、そもそも空が綺麗だなんて恥ずかしくて誰にも言えない気がしていた。
 高校生男子として、その話題はロマンチック過ぎる。でも、先輩は俺よりずっと前からその綺麗さを知っていて、そしてそれを素直に好きだって言える。そういうの、カッコイイと思う。

「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。お爺様の具合が悪いって言うから、年を越す前に早めにこっちに帰ってきたんだ。病院帰りに少し寄り道をしただけだから」
 一通りの会話が終わったと判断したのか、先輩は立ち上がり、俺に背を向ける。先輩が何故ここにいたのか、知りたかった情報は今の先輩の言葉で全て知れた。

「あ、待てって……! あの、俺、送ろっか?」
 咄嗟に出た言葉に、先輩が信じられないと言った様子で振り返った。
「……なんで?」
 心底不思議そうに先輩が尋ねる。その反応はとても自然だと俺も思う。
 なんとなく口をついて出て来た言葉なので、理由を考えるのは難しかった。本音は、ただ先輩と離れがたかっただけなのだけれど、じゃあ何故離れたくないのかと言われると、何も言えないから黙り込む。

「えと、もう暗い、から。変な奴に絡まれでもしたらって、思っ、て――」
 しどろもどろ自分で言いながらも、妙なことを言っていると思う。顔が、急激に赤くなって来るのが、集まる熱で分かる。
 何を言ってるんだ、俺は。相手はあの、九条先輩だ。特に有名でもなかった、うちの学校の剣道部を全国優勝に導いた彼は、俺なんかよりずっと強くて、彼に敵うような奴はそうそう居るはずもないのに。
 だけど、俺はどこかでちょっと思ったんだ。

 ――でも顔とか可愛いし、アブネェかも、って……。
 
 先輩は俺の言葉を聞いて、口をポカンと開けた。そんな間抜けな彼の表情は初めて見た。目がまんまるに見開いて、なんだか俺を可哀想なモノを見る目で見ている。先輩が何を言いたいのかは痛いほどよく分かる。分かるけど、いたたまれなくなるから、出来れば何か言って欲しい。
「君、正気じゃないね」
 ようやく先輩の口から出た言葉は、思い出の通り容赦がなかった。でも、何も言われないよりはずっと良い。先輩の言葉に力なく俺は頷く。本当に、どうかしている。

「疲れてるんじゃないの? 早く帰った方がいい。僕も帰るから」
 一人で、と強調する先輩の言葉が、俺の沈み切った心に更に追い打ちをかける。恥ずかしいし、馬鹿だし、呆れられた……。
 先輩は、「じゃあね」と言って、踵を返す。今度こそ俺はそれを見送った。別れる間際には、先輩の顔をまともに見れもしなかった。今引き止めないと、また先輩が行っちまう。でも、引き止める術が俺には無い。

(ああでも、嫌だな)

 どうにもこのまま、行かせられる気がしない。
 先輩が「好きだ」って言葉を発した時の、口の動きだとか、表情だとか。あんなに柔らかい表情が出来るだなんて、反則だと思う。
 それで俺を見たんだ。見て、「好き」って言った。
 先輩が好きなのは、この街の空で、俺のことじゃないけど、言ったのは言った。

「あー、やっぱ無理だって!」

 突然の大声に、すぐ横を歩いていた散歩中の野良猫がびっくりして走り去った。
 もやもやした気持ちをスッキリさせたくて、俺はまた、空を仰いだ。
 ――と、何かが一瞬またたいて、地上に落ちた。

「あ、」
 思わず声をあげる。見間違いかと思ったけれど、もう一度目を凝らして空とにらめっこしていると、また星が、堕ちた。
「え? え? 流れ星? え、何?」
 見ていたらそれは、次から次へと落ちて来て、陳腐な言葉だけれど、まさに星のカーテンみたいだった。
 すっげぇ、綺麗だ――。
 思ったら、俺の足は先輩の向かった先を追いかけて走りだしていた。