例えば春先。
 九条先輩は剣道の全国大会優勝者だし、決して身体が弱いわけではない。それなのに俺がなんとなく先輩をひ弱に思っているのは、先輩が花粉症もちだったからだ。
 くしゃみが止まんなくなって、鼻水を啜りあげると、忌々しげにポケットに手を突っ込む。しばらくまさぐって、見つからないとなると、イラついたのか隣の長峰先輩を蹴ることもあった。完全なる八つ当たり。そういう所が、暴君って言われる所以なんだと思う。上品そうな見かけと違って、意外とやることは荒っぽい。俺はそれがなんだかとても可愛く思えて。ハンカチやティッシュなんて当然俺も持ってやしないけど、制服の袖で無防備な先輩の赤くなった鼻をこすってやったらどんな顔するんだろうって思った。

 例えば夏。
 その日は梅雨も明けたばかりだと言うのに、湿気が多くてじめじめした日だった。
 衣替えの時期を過ぎても、なんの意地なんだかなかなか学ランを脱ごうとはしなかった九条先輩も、流石に赤いTシャツ一枚だった。少しでも風を求めてか、珍しくちゃんと自分のクラスにいたらしい先輩は、教室の窓からだらしなく腕を垂らしていた。暑いのは特別苦手なようだった。
 三年のクラスは一階だから三階の生徒会室とは違って、グラウンドから見える先輩の顔はいつもより近くに見えた。赤という強烈な色に、先輩の白い肌は映えていて、酷く眩しかった。いつもは袖に隠されている、ほっそりとした腕に誘われるように、俺はその日も先輩を眺めていた。
 汗で張り付いた前髪が、肌を刺激して痒いみたいだった。子供がむずがるみたく、乱暴に頭をふって前髪を鬱陶しそうに掻き上げる仕草を見るのが好きだった。あれは、凄く可愛い。

 例えば秋は――暑くもなく寒くも無く、九条先輩は割といつも機嫌が良かった。俺のネクタイを結んでくれる時も、いつもは小言が多かったけど、秋には珍しく俺の試合の結果を気にしてくれたり、普通の会話も幾らかしていた。
 読書に適した季節になったせいか、先輩の図書室に入り浸る時間は増えたようだった。太い本を手にしていることが多くなって、先輩は一人ではなく、たまに長峰先輩を連れてくるようになった。
 二人が、何を話しているのかは想像もつかなかった。本のことかもしれないし、学校のことかもしれない。表情をころころ変えながら、普通の友達同士みたいにしてる九条先輩が不思議で、ちょっと寂しかった。だから先輩の機嫌とは反対に、秋はあまり俺は楽しくなかった。

 そうして、冬。
 先輩は、窓際に居なかった。それは図書館でも、生徒会室でもそうだ。雪が降って、窓ぎわで過ごすのは寒いから、奥に引っ込んでいるのだろうとはすぐに分かった。
 大体は窓際から顔を出す先輩を眺めていた俺にとって、これは結構つらいことだった。
 雪が降ると、屋内でのトレーニングに限られるため、部活は早めに切り上げられて、俺は暇になる。そうなると、生徒会よりは入りやすい図書室で、俺は九条先輩が来るのを待つようになった。でも冬は受験もそうだし、卒業に向けてだったり、学校の行事は増える時期だ。九条先輩はいつも忙しそうで、なかなか図書館でゆっくりする暇なんてないようだった。
 でもその日――冬休みを明日に控え、長期休暇前に会える最後のチャンスに、九条先輩はいた。 
 相変わらず誰もいない。図書室のど真ん中に、どこから引っ張り出して来たのか、教師用のストーブを我が物顔で持ち運んで、先輩は机に顔を突っ伏して眠って居た。
 コートは教室にでもおいているのだろうか、セーターだけでは寒いのか先輩はたまに肩を震わせていた。
 空調が肌に合わない生徒の為に、図書館には毛布が何枚か置いてあったはずだ。
 先輩に釣られて、ちょこちょこ顔を出すようになった俺に、いつだったか受付の図書委員の子が教えてくれた。
 急いでそれを借りに行こうと思ったところで、俺はふと思い立った。
(これって先輩をじっくり眺められる、滅多にないチャンスなのでは?)
 盗み見るだけではなく、堂々と――それは日々こそこそと先輩を追いまわしていた俺にとって、随分と魅力的なことだった。
 だからそのまま、ちょっとだけと言い訳をして、眠る先輩の正面の席に座って、何をするでもなく穏やかに寝息を立てる先輩をぼうっと肘をついてみていた。
 
 どれだけ時間が経ったのだろうか。
 陽の落ちる時間が早くなって、夕暮れというより暗くなってきた窓の外に気づく。
 そろそろ図書館を閉める時間かもしれない。
 下校を促す放送が流れて先輩が目を覚ます前にここを離れようと思っていたら、ふいに先輩がくしゅ、とくしゃみをした。
 目は覚まさない。けれど、その唇が小さく「寒い」となぞったのを、俺は確かに見た。
 見て、それから、ほとんど衝動で唇を寄せた先輩の冷えた頬の感触を、俺は今でもはっきりと覚えている。
 意気地なしの俺は、着ていたブレザーを先輩の肩に重ねて、逃げるように図書室を出た。
 
 あれは……あの日々は――。