豊騎がアルバイトを始めたらしい。正確に言えば、今までやっていたコンビニでの夜勤アルバイトを辞めて、カフェでアルバイトすることにしたらしい、という話だけど。近頃の豊騎は何かに追われるようにアルバイトに明け暮れていて、体調を崩したり、居眠りするせいで教師から説教をされ続けていた。あいつもようやく「このままじゃヤバイ」と気づいたようだ。そして、そんな時にちょうど駅前の商業施設に入っている有名チェーン店のカフェでアルバイト募集が出たのだ。この地域の中では、かなりの高時給。迷いなく豊騎は応募して、すんなり受かったという。
豊騎からアルバイトについての話を聞いた俺の母親は、「家計に困っているならうちに来ればいいのに」と言っていたけど、それはそれで別の問題が浮上するよな。久美子は俺と豊騎が結婚すればいいと今でもうそぶいているし、同居なんてしたら久美子が余計に張り切りそう。あ、もしかしたら豊騎の狙いはそれなのか? 俺と事実婚状態になれば、久美子と結ばれなくても久美子のそばにいられるから。なんか、そんな状況を示す言葉があったような。
「なんだっけ、あれ。Aを手に入れるためにBを初めに手に入れろ! みたいなことわざ」
喉のここまで出かかってるんだけど。放課後の教室で俺が泉くんにそう尋ねると、すぐに「『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』か?」と泉くんは答えを教えてくれた。さすが、成績優秀者。
「そう、それ!」
答えがわかってすっきりした。俺たちの会話を横で聞いていた陽が、「よく出来まちたね〜」と言って泉くんの頭を撫でる。満更でもなさそうな泉くん。
将(久美子)を射んと欲すれば先ず馬(俺)を射よ。まさに豊騎が考えそうなことではあるけど、そうだとしたら嫌だ、と思ってしまうのは俺のわがままなのかもしれない。でも、俺の勝手だろ。豊騎がイケメンで、男同士なのに俺をドキドキさせるのが悪い。
豊騎の裸を見てからこの身に起きている決定的なエラーは、治らないままだ。悪化している気さえする。今もそうだ。豊騎は俺と同じ制服の白シャツ、ブレザーを着ているのに、何故か自然と豊騎の顔と身体の線を視線で辿ってしまう。
「……何。さっきからジロジロ見てっけど」
豊騎を看病した日、この腕に抱かれて寝てたんだよな……なんて思いながら豊騎の二の腕を凝視していたら、豊騎が不審者を見上げるみたいな目で見返してきた。慌てて豊騎が手にしていたプリントを指差す。
「や、そ、その呪文みたいなメニュー名! 全部覚えんの」
豊騎が新しくバイトするカフェのメニュー表だ。問われた豊騎は「そうだけど」と短く言う。
「うへえー、めっちゃ多いな。ま、頑張れ」
「こんなの、タバコの種類コンプよか楽勝よ」
さすがコンビニバイト経験者。理不尽なクレームや面倒な客にも対応してきただけある。面構えが違う。
「今日でバイト3日目だっけ? 後で冷やかしに行くからねん」
「おー、ホイップクリーム増し増しにしてやんよ」
陽と豊騎は商品のカスタマイズについて話している。抹茶味のドリンクには何が合うのか、とか。エスプレッソショット追加したら苦いのかな、と素朴な疑問を陽がぶつけていた。というか、新人バイトの分際で勝手にカスタム増量とかしてたらすぐにクビになるのでは。そう思ったけど、黙っておいた。夜勤バイトを続けて身体を壊すより、日中カフェで働いたほうが豊騎の負担が少ないと思ったから。
だけど豊騎のカフェでのアルバイトには、俺たちが思うよりも壮絶な展開が待っていた。
***
「あっ、来たよ!」
「伊佐敷くーん!」
「こっち見て!!」
豊騎の新しいアルバイト先である駅前のカフェでは、今まで見たことのないくらい人だかりが出来ていた。その全てが女の子だ。大半はスマホのカメラを店内にいる豊騎へ向けている。
「え、何これ」
俺と泉くんが唖然として固まっていると、一緒に来た陽がさっと動き出した。
「ね、ね、みんな何してんの~?」
陽は近くにいた女子高校生のひとりに声をかける。その子はうざったそうに陽を見返して、「ここにマジエグいイケメンバイトがいるって動画がバズってたから、見に来てんの。てか忙しいんで話しかけないでもらっていい? 邪魔」と早口で言い切った。こんな風に女子から冷たくあしらわれた経験のない陽は、ちょっと涙目になっている。
「う……なんだよお、そんなに豊騎のほうがいいのかよお」
すっかり自信を失ってしまった陽は、泉くんの肩に隠れて泣き始めた。泉くんは動揺しているせいか、眼鏡の縁を意味もなくカチャカチャと直し続けている。
それにしても、いつのまに豊騎は有名人になってしまったんだ。カフェの外から店内を覗き込むと、なんと満席だった。おまけに外にまで待機列が出来ている。応援しに来たので注文もせず帰るわけにいかない俺たちは、渋々ながら列の最後尾へと並んだ。
行列は長く、すぐには店内に入れそうにない。手持無沙汰でスマホを取り出す。そういえばさっき陽が話しかけた女の子が「動画がバズってた」と言ってたよな。そのことを思い出して、動画アプリを起動させた。【カフェ店員 伊佐敷豊騎】で検索する。あ、ヒットした。
「20万回再生……!?」
驚き過ぎて、ついその場で大声を上げてしまった。「チッ、うるせえな」と周りの女子から舌打ちをされたけど、しょうがないだろと言い返したくもなる。だって、20万回って。豊騎は芸能人でもインフルエンサーでもないんだぞ。
「あ、あのあの、豊騎ってもしかして世間一般的に見ても超イケメンなやつだったのか?」
「今頃気づいたのー想ちゃん」
呆れたように言う陽。嘘だろ。確かにイケメンだとは日々思っていたけど、ここまでとは思っていなかった。豊騎のやつ、なおさら人妻にうつつを抜かしてる場合じゃないだろ。
そろそろ目の前の現実を受け入れざるを得ない。俺の親友はイケメン店員として有名になってしまったらしい。
こちらの困惑をよそに、絶賛アルバイト中の豊騎は、押し寄せる客を前にしてもうろたえることもなく、淡々とカウンター越しに注文を取っている。
女子に囲まれキャーキャー言われてる豊騎を見て、俺たちは面白くなかった。特に陽なんか、歯をギリギリ言わせて「あっくんの塩対応っぷりを知ればこんなブーム、すぐに過ぎ去るよ……そうに決まってる……」と呟いている。あの後も何回かレジに並んでいる女子にアタックしてみたものの、害虫を見る目で「話しかけんな」と言われたのが相当キているようだ。いつもへらへらと浮かべている笑顔はどこへやら、行列の終着点にいる豊騎を恨みがましい瞳で睨みつけている。その隣に並んでいる泉くんは、最初は陽を気にしていたものの、今はスマホでカフェのメニュー表を眺めては「キャラメル……でも抹茶も捨てがたいなあ」と声を弾ませていた。ただ甘い飲み物を飲むのが楽しみな人じゃん。陽を好きなら今こそ慰めて株を上げるチャンスなのにな。もったいない。
そうこうしているうちに、カフェの店員さんたち(もちろん豊騎も含め)が猛スピードで客をさばいたのか、待機列が動き出す。やっと店内に入ると、「連絡先交換してください!」「彼女いるんですかあ」「仕事終わり時間ありますか!」などと、豊騎に猛アピールする女子たちの声が耳に飛び込んできた。豊騎はその声に答えはしないものの、にっこりと営業用スマイルを返している。
あ、そういうことか。突然の豊騎フィーバーの謎が解けた。学校などとは違い、アルバイト中の豊騎は話しかけてくる客を無下に扱ったりしない。勤務時間中は、賃金が発生するからだ。つまり、客に対する営業用の豊騎を見て、女子たちは理想のイケメンがいる! と錯覚してしまったわけだ。実際の豊騎はちっとも優しくないし、笑顔を振りまいたりしない。もしも豊騎が学校でやっているように全員に塩対応をしていれば、彼女たちはすぐにこのカフェからいなくなっていたはずだ。
「……でも、あの調子じゃそろそろ限界が近いな」
1年半以上、豊騎の近くであいつの表情を見てきたのでわかってしまう。愛想笑いをしている豊騎の片頬はピクピクと痙攣し始めていたし、どんなに隠そうとしても目の奥には苛立ちが滲んでいた。
「次にお並びのかた、こちらへどうぞー」
豊騎が俺たちを見て言う。やっと列の順番が来た。
「モテモテで羨ましいですなあ、あっくんよお……あ、チョコレートラテひとつね」
陽が恨み言のついでに注文を入れる。泉くんは「抹茶フラペ、ホイップ増し増しで!」とウキウキしている。
「俺はほうじ茶ラテで。豊騎、なんか大変そうだな」
俺がそう言うと、豊騎はそれまで顔に張り付けていた営業用笑顔を取り去り、真顔になった。
「……ああ、本当にな。俺の動画上げたやつ、開示請求して訴えようかと思ってる」
「お、おお」
割とガチめに困っていたようだ。店としては集客出来ているからいいことなんだろうけど。
その後、順番にお会計を済ませ、俺の番になる。
小銭をトレイに並べていると、突然ひとりの女の子が割り込んできた。何事だとびっくりしていると、その女子は「伊佐敷くん、無視しないでよ。連絡先もらえるまで、私ここから絶対に動かないから!」と豊騎に向かって叫んだ。騒然となる店内。この様子をスマホで撮影し出す客。ああ、カオスだ。
豊騎はこの状況にうんざりしたようにため息を吐いた。そして、ピリピリと尖った声のトーンで言った。
「俺、付き合ってる人がいますから!」
「嘘、じゃあ彼女ここに連れてきてよ」
豊騎にそう言われるであろうことを承知の上だったのか、女の子は即座に言い返す。どうする、豊騎。
俺たちと周りのオーディエンスが息を呑んで見守る中、豊騎は何故か腕を伸ばして俺の手を掴んだ。え、え、何。
「こいつが俺の恋人です」
なんだそれ!? 「キャアー」と違う意味で悲鳴が上がる。悲鳴を上げたいのはこっちだよ。
「ちょっと想ちゃん、水くさいじゃん! 付き合ってたんなら教えてよ」
「いやいやいやいや!? 俺は付きあ――」
俺は付き合ってない。そう言おうとしたのに、豊騎が俺の口を手で思いっきり押さえつけたので、「もがもがもが」という不明瞭な声にしかならなかった。何するんだよ、と豊騎を睨む。が、豊騎は一歩も引かなかった。
「俺たち、付き合ってるよな……?」
そう言う豊騎の瞳は恐ろしいまでに見開かれていて、まるで「否定したらただじゃおかない」とでも言っているようだ。美形の怒り顔って怖い。大して強くもない俺は、恐怖に屈した。
「ハ、ハイ……」
俺、これからどうなっちゃうんだろう。
「あ、来たよっ!」
「伊佐敷くん、天辰くんと付き合ってるってほんとなの?」
朝、俺と豊騎が教室に入るなり数人の女子が駆け寄ってきた。目を爛々とさせ俺たちの顔を交互に見つめている。みんなゴシップに夢中なようだ。暇なのかな。既に同様のやり取りを何回か繰り返していた俺は、げんなりとしてため息を吐いた。
豊騎が新しいバイト先のカフェで、俺を指し「こいつが俺の恋人です」なんてとんでもない発言をしてからというもの、すぐにその様子を撮影していた不届きものが動画をアップし、その動画がバズりにバズった。「イケメンカフェ店員には、なんと彼女ではなく彼氏がいた!」というセンセーショナルな話題は、娯楽を求めていた人たちには面白かったようだ。おかげで、あれから毎日のように「本当に付き合ってるのか」と突撃取材を受けている。
「……ちょっと。俺の彼氏に近づき過ぎ。離れて」
豊騎がそう言って、俺の目の前にいた女子を遠ざけた。すると、「『俺の彼氏』だってえ!」「キャーッ」と女の子たちは楽しそうに叫びながら走り去っていく。
カフェの前で俺と付き合っているフリをしてから、豊騎は俺と一緒にいる時は変に芝居がかった振る舞いをするようになった。未だに動画を見て押し掛けてくる女子への牽制のつもりなんだろうけど、俺に対してでろでろに優しい豊騎なんて慣れなくて、気持ち悪い。あと、「彼氏」と言われるたびになんだか胸のあたりがそわそわしてしまうので、やめてほしい。
「豊騎、お前今までこんな風に俺に優しくしたことなんてなかっただろうが。あと彼氏ってなんだよ」
文句を言って豊騎を見上げる。でも豊騎は素知らぬ顔で、今度は俺の手を握ってきた。ひやりと冷たい指先が触れて、ビクッと肩が震える。
「おま、お前、ななな何して」
「例の動画、開示請求して肖像権侵害で訴えるにはまだ時間がかかるから。それまでは恋人のフリしてくれよ」
「ええええ……?」
俺の困惑をよそに、豊騎は握った手を恋人繋ぎにして、指まで絡ませる。少しカサついた豊騎の肌が俺の肌の上を滑り、背筋にぞくぞくとした感覚が走った。まずい。またしても、俺の分身の危機だ。繋いだ手から逃れたくて自分の手を引っ張ってみたものの、力を込められてしまって手を離すことができなかった。握力、強過ぎ。
豊騎は物凄い握力で俺の手をがっちりと捕らえたまま、2人の手の上でスマホをカメラを構え、シャッターを押した。SNSに載せて俺たちの仲をアピールする、とのことだ。俺に拒否権はないらしい。
「あ、あの。豊騎さん、そろそろ手を離してはもらえないでしょうかね」
「は、無理だけど」
「はあ!? こっちのほうが無理ですけど!」
席に座ってからも、豊騎は手を離そうとしない。そんな俺たちの様子を見ていた陽が、「仲良ち~」なんて言ってハートマークを手で形どり、こちらへ見せてきた。ふざけんな。泉くんも、惚れた弱みがあるからって陽に釣られてハートマークを作らないでくれ。陽のやつを止めてくれ。ついでに豊騎も。
***
放課後、1階の昇降口まで下りて学校の外を見ると、校門の前にいつか見た高級車と同じ車が止まっていることに気がついた。円の中に星が輝くエンブレムが日差しを受けてキラリと光っている。あの車種ってお高いはずなんだけど、この街で流行ってんのかな。車の持ち主は誰なんだろうと思いつつ、校門を通り抜ける。俺の隣を歩いていた豊騎は、何故だか高級車を睨みつけていた。
「豊騎、あの車に知り合いでもいるのか?」
「……いや、別に」
豊騎はそう言うと、いきなり俺の腰に腕を回してきた。脈絡も何もなかったので、避けきれず俺はされるがままになってしまう。
「おいっ、豊騎!」
何してんだお前は、という意味を込めて豊騎を睨みつけたが、豊騎は俺のほうなんてちっとも気にせずにまだ高級車を睨みつけている。なんなんだ。今は周りに豊騎を追いかけている女子たちもいない。ここで恋人の演技をする必要なんてないだろ。
腰に腕を回されているから、否応なしに近づいてしまう距離。歩くたびにお互いの腰がごつんと当たるので、そのたびに変な気持ちがむくむくともたげてくる。やめろ。落ち着け。豊騎と触れ合うと暴走しそうになる息子を、心の中で叱る。こんな往来でやらかしたら、一生もんの黒歴史になっちまう。
俺が息子の反応を必死に抑える努力をしているなんて、露ほどにも知らないだろう豊騎は、学校からたいして離れてもいない場所で突然「ちょっと、話つけてくっから。先行ってて」と言うなり、学校のほうへ走っていってしまった。
やっぱり何かがおかしい。何かが起きている。だけどその何かの実態がわからないので、ひたすらもやもやする。急に豊騎の体温が消えたので、妙に寒く感じた。
「んー怪しいっすねえー」
「だろ? やっぱ最近のあいつ変だよな」
通学路を逆走していった豊騎の後ろ姿を見て、陽が頭を傾げた。俺も怪しいと思っていたので同調したが、「んーん。あっくんじゃなくってえ、想ちゃんのが変」と矛先を向けられてしまう。
「はあ!? 俺はいつも通りだろ」
「仲良しの友達が困ってんだから、恋人のフリくらいしてあげたらいいじゃーん。なんでそんなキョドってんの?」
「キョ、キョドってなんかねーし!」
ギクリ。思い当たる節しかない。主に豊騎との接触で起きる分身の誤作動とか、心臓の誤作動とか。やましさのあまり、ついどもってしまった。
俺の不審過ぎる態度に、陽は揶揄うチャンスだと言わんばかりにニヤケ顔を作る。
「それともお、彼氏のフリしたらなーんか不都合があるのかにゃ?」
「……」
「あー図星だにゃーん! その顔は図星だった顔だにゃーん」
「にゃんにゃんうるせえにゃん! ……あっ」
陽の気色悪い語尾につられた。悔しい。陽と泉くんは笑いもせず、生暖かい目で俺を見ている。せめて笑い飛ばしてくれよ。
「この間のあっくんの告白動画、かーなり再生数回ってんねえ」
羞恥に震える俺を華麗にスルーした陽は、スマホで動画投稿アプリを眺めて呟いた。カフェで盗撮されていた動画のことだ。横から陽のスマホ画面を覗き込むと、コメント欄では【せめて彼女であれよ】【は? 変な女よか男同士のほうがマシだわ】と意見がまっぷたつに分かれ、抗争が始まっていた。中には【男子と男子がいちゃついてんのてえてえ】なんてコメントもあったが、まあこれは稀有な意見だった。
「でもさあ、この調子じゃそろそろカフェでの出待ち隊もいなくなってんじゃねえ? 偵察に行こーよ」
「ひな、伊佐敷がモテまくってたのがそないに悔しかったんか」
泉くんが言うと、陽は小さい子供のように唇をとんがらせた。
「だって今彼女いないんだもん! 寂しいんだもん! そんな時にあんなの見せられたらムカつくっしょ」
「ただの八つ当たりじゃん……」
陽の言い分にドン引きしていると、「か、彼女はいなくても、俺がっ……そばにおるやろ」と泉くんが控えめに陽のフォローに入る。
おお、泉くんにしては頑張った。俺は密かに泉くんの勇気を称えて拍手をしたが、陽は「いや、とっしーは早くゆうちゃんにちゃんと返事かえせよ。また無視してんだろ」と辛辣に言い返した。がっくりと項垂れる泉くん。この2人の仲はまだまだ進展しないようだ。
***
駅前にある豊騎のバイト先のカフェの店内は、先日とは打って変わって、ほどよい客の入り具合だった。全面ガラス張りのため、広々とした店の中がよく見える。テラス席ではペット同伴でティータイムを楽しむ人がいたり、店内の奥側ではパソコンを開きながら優雅にコーヒーを飲んでいる人も多い。この前は店内がとても狭く感じたけど、あれは単に豊騎目当ての客が多過ぎたからだったようだ。本来の店は広く、開放感のある素敵なカフェだった。
「……あっくんがいない時はこんなに静かなんだねえ」
俺と同じようなことを感じたのか、店内のソファー席に腰を下ろした陽は、きょろきょろと周りを見回して驚いたように言った。その隣に座った泉くんは店内には全く興味がないようで、手に持っている季節限定のストロベリーラテに夢中な様子。
俺はアイスコーヒーを啜りながら「平日のカフェなんてフツーこんなもんだろ」と言い、カウンターの中で忙しなく動いているスタッフたちを眺めた。ここで働いている人たち、豊騎ほどではないにしてもみんな顔が整っている。顔採用でもあるのか?
「あ、あっくん」
静寂の時は早くも終わりを告げそうだ。陽が呟いた後、カフェの入り口から豊騎が「おはようございます」とスタッフに挨拶しながら入ってきた。もちろん、後ろに追っかけの女子軍団を引き連れて、だ。この間より頭数は減っていたけど、まだまだ女子の人数は多い。イケメン店員・豊騎にはたくさんファンがついているみたいだ。
学校前まで謎に戻っていた豊騎は何をしていたんだろう。バイトのシフト時間に少し遅れたようで、豊騎は裏にあるスタッフルームに入ってエプロン姿に着替えてきた後、カウンター内にいる先輩店員らしき人に頭を下げている。先輩店員は豊騎に「いいよいいよ」と笑い返した。バイトに入って以来、物凄い集客力を見せている豊騎に対して、強くは出られないようだ。
「確かに……かっこいい、かも」
ふと呟きが漏れてしまう。カフェの制服である黒シャツにエプロンをつけた豊騎は、女子に騒がれるのも納得なくらい、様になっていた。俺が豊騎の友達じゃなくて、このカフェで出会った客だったら、その場で恋に落ちてしまっていたかも。そんな幻想さえ浮かんだ。
その後は、この間のような大騒ぎになることもなく、平穏な一日が過ぎていった。豊騎の追っかけファンたちもだいぶ大人しくなった。今日は時々レジに女子が駆けていき豊騎の連絡先をねだる、くらいのものだった。
だけど、事件は俺たちが油断しきっていたその時、起きた。
「伊佐敷くん。伊佐敷、豊騎くん」
凛とした、鈴を鳴らしたような声が店内に響く。声の主は、どこか気の強そうなところはあるけど美人な女の子だ。よく見ると、陽の元カノで幼馴染のゆうちゃんが通うお嬢様女子高の制服を着ている。でも、誰?
見たことのない女の子を前にして、豊騎はにわかに表情を強張らせた。
「あんた……もしかして綾小路家の手先か?」
「まさか。私は伊佐敷くん、あなたの婚約者の西園寺姫花よ。会うのはずいぶんと久しぶりだから、覚えていないのも無理はないけれど」
謎の女の子――西園寺姫花は豊騎に言う。なんか話しかたがひと昔前のラノベのヒロインっぽい子だな、というのが俺の受けた第一印象だ。てか、待って。婚約者って何。初耳なんですけど。
豊騎は一瞬悩むように額に手を当ててから、先輩店員へ「すみません。休憩入ります」とひとこと告げて、エプロンを脱ぎ捨てた。俺たちがハラハラと見守っている間にカウンター内から出てきた豊騎は、西園寺姫花に「来い」とでも言うように、顎をしゃくった。
カフェの外へと出ていく豊騎たちを慌てて追う、俺、陽、泉くん。
「綾小路の使いの者に伝えたはずだ。俺にはもう将来を考えている恋人がいるから、婚約なんて出来ないと」
今は休憩時間だからなのか、豊騎は途端に偉そうな口調になる。だけど、西園寺姫花はまったく怯まない。両腕を胸の前で組むという、いかにもプライドの高いお嬢様っぽいポーズを取っている。
「あら、私はあなたに恋人がいても構わないわよ。愛人のひとりやふたり、許す度量がなければ西園寺の名が廃るもの」
「……話が通じないな」
2人のやり取りを見て、「伊佐敷のやつ、ほんまに金持ちの家の子やったんか」と泉くんが言う。よっぽど驚いたのか、眼鏡がずり落ちているが気づかないままだ。
「あの姫花って子、すごいオーラだねえ。あっくんの追っかけちゃんたち、手も足も出ないみたい」
陽がそう言った通り、カフェまでついてきていた数人の豊騎のファンたちは、西園寺が喋り出してからというもの、豊騎を遠巻きに見てひそひそと仲間うちで話しているだけだった。西園寺さん、なんかいかにも強そうだもんな。ラノベヒロインっぽいし。
「想ちゃん、ライバル出現でだいピ~ンチだね?」
にゅっ、と横から俺の顔を覗き込んでくる陽。おい、ちょっとこの状況を面白がってるだろ。陽のやつめ。
陽にうんざりして顔を顰めていると、陽の言葉を聞きつけたのか、豊騎がこちらを振り返った。
「俺が好きなのは想だけだから」
真顔で突然、そんなことを言う豊騎。少女漫画かよ。そう馬鹿にしたかったのに、愚かな俺の心臓はドキドキと、ときめき始めてしまう。「ちょ、おま、役に入り込み過ぎだぞ」と、誤魔化すように言って笑ってみたけど、豊騎は笑わない。
「……恋人のフリじゃなくて、本気だって言ったらどうする?」
「え……?」
本気、ってどういう意味だ。元々たいしてよくもない俺のIQが急激に低下する。あ、豊騎の真剣な顔ってマジでイケメン。
みんなが見つめる中、俺はきっと宇宙いち間抜けな顔を晒していた。
「神様、仏様、泉様~! 俺たちに勉強を教えてください」
放課後の自転車置き場で、俺は恥も外聞もかなぐり捨てて嫌がる泉くんに縋りついていた。泉くんはズレてしまった眼鏡の縁を抑えながら「中間から頑張らへんかったジブンが悪いやろ……」と呆れている。
期末テストを明日に控えた俺は、中間テストの点数が悪かった為に久美子から「次は許さないわよ♪」なんて軽く脅され、焦りに焦っていた。このままではただでさえ少ないお小遣いが減らされちまう。そして焦っているのは俺だけではなかった。豊騎も、だ。
近頃、豊騎の周りは更に騒がしくなった。カフェバイトで意図せずに獲得してしまった追っかけファンだけでなく、そこに自称・豊騎の婚約者――西園寺姫花まで加わったせいだ。西園寺さんはカフェで働いていた豊騎の目の前に突然現れたかと思えば、それからほぼ毎日というもの、俺たちの前に姿を現すようになっていた。
せっかく夜勤のコンビニバイトを辞めて、授業中に居眠りせずに済みそうだったというのに、結局厄介なファンと婚約者(?)と毎日のように騒動を起こすせいで、未だに豊騎は学校の教師陣から「問題のある生徒」扱いをされている。これでテストの点数まで悪ければ、内申点も当然大幅に下がるだろう。つまり奨学金制度を利用して大学に進む道が閉ざされてしまう。志信さんに援助を求めればいいとは思うが、恐らく豊騎はそれを望んでいないんだろう。
かくして、中間テストの結果がヤバ過ぎた俺、生活態度で注意されまくって教師にマークされている豊騎、赤点スレスレ常習犯の陽による「泉くん囲い込み作戦」が決行されることになったのだった。
縋りつく俺を払いのけ、泉くんは「今日は寄り道せんと帰る!」と駅のほうへと歩き出そうとした。そうはさせるかと、俺と豊騎の2人がかりで泉くんの腕を掴み、全力で引き留める。
「はーい、とっしーは俺の後ろに乗ってねん」
捕らえた泉くんを、陽が俺の自転車の後ろへ乗せる。俺は自分の自転車の鍵を陽に投げて、アシストした。パッと鍵を受け取った陽は即座に鍵を開けて、自転車を漕ぎ出す。俺は豊騎の自転車の後ろに飛び乗り、急いで陽と泉くんたちを追う。
「ジブンら、これは立派な誘拐やからなああああ!?」
猛スピードでペダルを漕ぐ陽の後ろで、泉くんが向かい風に吹き飛ばされそうになりながら叫んだ。
***
泉くんを誘拐して勉強会の会場である俺の家に連れて来たものの、家の前には先客がいた。
「ごきげんよう、伊佐敷くん」
西園寺さんは笑顔でそう言うと、豊騎に向けて手を振った。手の振りかたもなんだかお上品だ。西園寺さんと同じ女子高に通っている陽と泉くんの幼馴染であるゆうちゃんから、「西園寺さんはお嬢様が多い学校の中でも別格の人。大手百貨店オーナーの孫娘らしい」という噂話を聞かされたばかりなので、なんだか普段の振る舞いも納得してしまう。どう見てもその辺の一般人とは違うもんな。というか、なんでうちの玄関前で仁王立ちしてるの、この人?
「伊佐敷くん、そろそろ私と婚約する気になったかしら」
西園寺さんは俺や陽、泉くんは全く目に入らないようで、豊騎だけを見据えて言う。陽が未練がましく「あのー、俺っちたちのこと見えてます? おーい」と西園寺さんの目の前でぶんぶんと手を振ったが、西園寺さんはまばたきひとつすらしない。陽はしょんぼりと肩を落とす。まるで尻尾が垂れた犬みたいだ。
「……想、警察に通報しろ」
「え、通報?」
豊騎の言葉に驚いて聞き返すと、豊騎はズビシッと西園寺さんに人差し指を突き付けて、叫んだ。
「何度も断ったのに聞きやしねえ。恋人がいるって言ってもしつこく追いかけ回してくる。お前は立派なストーカーだよ」
「ストーカーだなんて、私は婚約者よ」
「そんなに綾小路家との繋がりがほしいのか? 西園寺家も堕ちたもんだなあオイ」
「……なんですって」
「お前らにどんな思惑があろうと知らねえけど。今の綾小路家、お宅との婚約なんてしてられる状態じゃねえぞ」
豊騎の言葉を聞いて西園寺さんはハッと顔色を変える。そして「山本!」とすぐそばに待機していた運転手を呼びつけ、家の前に停車していたどでかいリムジンに乗り込んだかと思ったら、走り去っていってしまった。嵐みたいな人だ。
「てか、綾小路家とやらとどういう関係なんだよ」
気になってはいたものの聞けていなかったこと。豊騎を見上げて尋ねると、短く「父親の家」と答えが返ってくる。父親、というと豊騎が生まれても認知せずに豊騎の母親ともども見捨てたクソ親父(志信さん談)のことか。つまり見たこともない豊騎の親父が、知らぬ間に豊騎に接触していた、ということだよな。
「綾小路と西園寺の家のやつらに何を言われても、お前に手出しはさせねえから」
俺が豊騎の父親について考えていると、豊騎が俺の肩を掴んでそんなことを言い出す。陽が「キャッ、あっくんかっこいい~」と囃し立てているが、「え、お、俺え?」と、俺はうろたえることしか出来ない。
――俺が好きなのは想だけだから
先日、豊騎から言われた言葉も思い出してしまい、顔がカアッと熱くなる。ヤバイ。今、俺の顔めちゃくちゃ真っ赤になってる気がする。
「……は、早く勉強はじめよーぜっ! 久美子、ただいまあ」
豊騎の顔をまともに見られなくて、もうあの空気の中にいるのが耐えられなくて、俺はそそくさと玄関を開けてその場から逃げた。この時ばかりは期末テストが近くて本当によかったと思った。
***
「――この文章はSVOCの第5文型。でもここにto不定詞があるやろ? せやさかいこのtakeは過去形にならへん」
「はあ、なるほどなるほど」
「……ほんまに理解できたんか?」
「うん!」
「ほんまかいな」
泉くんに逐一説明してもらいながら、英語の問題集を解き進めていく。俺たちはそれぞれの目標――俺と陽は赤点回避、豊騎は奨学金を狙える程度の内申点――を目指して、教科書との睨めっこを続けていた。そもそも前日じゃなく、もっと前から焦っとけよっていう話なんだけど。泉くんなんて1か月も前から毎日予習復習を欠かさなかったらしい。さすが、成績優秀者だ。
「想ちゃんたち~、頑張ってる? お菓子食べてねえ」
扉のノックもせず、母親が部屋に入って来る。そんな俺の母親を見て陽は何を思ったのか、ニヤリと笑うと「久美子さーん、最近あっくんに変なストーカーがついてるの、知ってましたあ?」なんてことを言い始めた。
「ええっ、ストーカー!? 大丈夫なの、豊騎くん」
「なんかあ、『自分は婚約者だ!』って言い張ってる女の子でしたよー。もっと想ちゃんがしっかり捕まえとかないと。あっくんあの子に取られちゃいますよー」
「あらやだあ、想ちゃん大変っ!」
案の定、久美子が騒ぎ出したので、俺は陽に「何言ってんだよ」と言い、その頭にチョップをお見舞いした。
「久美子、こいつの言うことは真に受けんなよ」
母親がこれ以上騒がないように釘を刺しておく。久美子は不満そうに「でも婚約者って、ねえ……?」と呟き、豊騎の顔をチラリと見た。視線を受けた豊騎は、何故か俺のほうに向き直る。
「この前から気になってんだけどさ。想は俺があの女と婚約してもいいって思ってんのか?」
突然どうした。豊騎はいつになく真剣な目をしてこちらを見つめている。緊張して、思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。
「はあ? そ、そりゃ嫌だけど」
「なんで」
「え?」
「なんで嫌なのか答えを述べよ。はい5秒前ー、4、3、2……」
豊騎は突然、カウントダウンを始める。助けを求めて周りの面々の顔を見上げたけど、陽も泉くんも久美子もあんぐりと口を開けているだけで、役に立ちそうにない。どうしよう。
「え、ええっと、えっと、西園寺さんと婚約しちゃったら、俺たちと遊ぶ時間が減るし、それに、えーっと」
「……はい、時間切れ」
豊騎がそう言った後、唇に何かがちゅっと音を立てて触れる。え、なに今の? パチパチとまばたきをしてから、自分の置かれている状況を確認する。目と鼻の先に、豊騎の顔。触れている、ふたつの唇。あ、これ豊騎の唇だ。
「んんん〜!?」
ファーストキスを豊騎に奪われたことを理解して、俺は絶叫した。が、唇は豊騎によって塞がれていたので声にならない。視界の隅で口元を手で押さえて驚きを示している久美子の姿が見えた。息子の危機なのに助ける気配すらない。泉くんは自分が今見たものが信じられないとでも言いたげに、眼鏡を外して裸眼で俺たちをまじまじと見つめている。こんな時に冷やかしてきそうな陽は、逆に「うわあ……」とドン引きしていた。なんでだよ。引いてんじゃねえよ。
俺の口にキスをしやがった豊騎は、した時と同様に離す時も唐突に唇を離した。たぶん時間は1分くらいのもんだったとは思うが、俺には永遠にも感じられた世界で1番長い1分だった。豊騎は周りに陽たちがいることも気にしていないのか、俺の顔を両手で包み込んだ。目を逸らしたくても、強制的に豊騎の顔を見つめてしまう。至近距離だから瞳の中までよく見える。豊騎の黒目の中に、顔を真っ赤にした俺の間抜けな顔が映っていた。
「他の女と婚約してほしくないのは、俺のことが好きだからだろ?」
「あ、あわわ、あわわわわわわ」
「バグってんじゃねえよ。ちょっとは慣れろ」
「な、何に」
「こういう雰囲気に、だよアホ」
そう言うなり、また豊騎の顔が近づいてくる。この距離で見てもやっぱりイケメンなんだよなとか、睫毛の影が肌に落ちている様を眺めていたら、口元にふにっと柔らかい感触があった。
ふわふわとしていて実感のこもっていなかった感情が、次第に輪郭を帯びてくる。2回もキスしてくるなんて、冗談でもフリでもなく、本当に豊騎は俺のことが好きなのか。問いただしてやりたくて、見開いたままだった目のピントを豊騎に合わせる。
視線が絡み合うと、今度はただのキスでは終わらなかった。ぬるり、と口の中に舌が這いずり回る。ついうっかり、呻き声が漏れた。
「わあーお」「す、すげえ」「豊騎くんったら、情熱的ね!」とオーディエンスの声が聞こえてくる。そうだった。みんなに見られてるんだった。急激に羞恥心に襲われて、豊騎の胸を拳で叩きまくった。それなのに豊騎は気にせずキスを続けている。くそ、酸欠になるだろうが。それにこの調子でキスされていたら、俺の分身が目覚めちまう……!
俺が意識を飛ばしそうになった瞬間、陽によって豊騎の身体が引き剥がされた。
「はいはーい、あっくん落ち着け~? みんな見てること忘れんなよ。てか耐性ないのにそんながっつかれたら想ちゃん倒れちゃうぞ」
陽は幼い弟を叱るお兄ちゃん、みたいな口調で豊騎を叱った。助かった。今ばかりは陽に後光が差しているように見える。ありがとう、陽。お前は俺の命と尊厳の恩人だ。
豊騎は少しむくれた顔をして、陽をうざったそうに見下ろした。そして、ふっとこちらを目で射貫くように見つめて、言った。
「想。俺のことが好きだよな?」
「ふぁ、ふぁい」
さっきの熱烈キッスの余韻でへろへろな俺は、涙目のまま頷くしかなかった。こんなの、告白のカツアゲだろ。どうやら両想いらしい、なんて嬉しい気持ちより、疲労感のほうが勝っていた。豊騎のせいだ。
「で、でも、お前って久美子のことが好きだったんじゃないのかよ? あ、二股!? 久美子と二股かける気かお前」
豊騎と俺は両想いだったらしい。そんな事実を受け止めてから数秒後。ふと久美子の存在を思い出した俺は、豊騎に詰め寄った。横から泉くんが「まだそんな勘違いしとったんや」と呟いている。
豊騎は豊騎で、俺の顔を見て心底呆れたようにため息を吐いた。おい、それが仮にも好きな相手を見る顔か。
「俺からしたらなんでお前がそんな勘違いすんのか、わかんねえんだけど」
「だ、だって豊騎と久美子、去年からずっと仲良いし。久美子には特別優しいじゃん」
「やあだ、想ちゃんったら、ママにやきもち妬いてたのお?」
久美子が嬉しそうに手を叩いた。はしゃぐなはしゃぐな。俺と豊騎のキスシーンを目撃してから、久美子は何がそんなに楽しいのか、にっこにこの満面の笑みを浮かべている。そして、「ずっと言うタイミングを見失ってたけど……今がその時なのかもねっ」と謎の呟きを残し、部屋を飛び出した。パタパタと軽快な足取りで階段を下りていく音が聞こえる。なんだろう。俺たちが久美子の謎行動に戸惑い顔を見合わせていると、久美子がまたパタパタと足音を立てて階段をのぼってきた。
「はい、想ちゃん」
母親はそう言って、何枚かある写真の束を俺に押し付けた。なんだ、と思って写真を眺める。そこには、赤ちゃんと、赤ちゃんを抱っこして笑っている美しい女性が写っていた。赤ちゃんの顔は、どことなく豊騎に似ている。
これは恐らく豊騎の子供の頃の写真だ。豊騎の誕生日、志信さんから豊騎への誕生日プレゼントとして渡された写真――若い頃の志信さんと、小さい豊騎のものだ――あの時の豊騎と、赤ちゃんの顔がほぼ一致する。だとすると、この女性は誰だろう。
そこまで考えて、俺はあるひとつの恐ろしい疑惑に思い至り、ハッと声を上げた。
「まさか、俺と豊騎って兄弟だった……!?」
写真の女性は全く久美子には見えなかったけど、久美子がこの写真を持っている理由がそれくらいしか思い当たらなかった。俺の名推理を聞くなり、久美子は「何を言ってるの~想ちゃんのお馬鹿さんっ!」と、思い切り俺の頭を叩く。
「これはね、豊騎くんのお母さん――伊佐敷心信の遺品なの」
それから、久美子は真面目な顔をして豊騎の母親と自分の関係、そして豊騎の母親の過去について語り始めた……。
――ご近所さんとして育ち、小中高と同じ学校に通っていた久美子と心信。2人はとても仲が良く、何でも話せる親友だった。だけど心信が久美子とは別の大学に入ってから、心信の人生は転落し始める。頭がよく、国内最高峰の大学に入った心信は、その類まれなる美しさからよからぬ男に目をつけられてしまった。後に豊騎の父親となるその男は大企業の跡取り息子で、大層な遊び人だったらしい。心信を遊び相手の1人としか見ていなかった男は、心信が妊娠したことを知ると簡単に心信を捨てた。失意のまま豊騎を出産した心信だったが、出産の後に体調を崩し、不幸にも亡くなってしまったのだった――
久美子が豊騎の母親、心信さんの顛末を話し終えると、関係ないはずの陽が「そんな、可哀想過ぎるよ心信さん……!」と泣きじゃくり始めた。陽の涙に釣られて、久美子も少し涙ぐんでいる。俺と泉くんは予想だにしていなかった事実に、ただただ呆気に取られていた。豊騎は前から久美子と自分の母親の関係を知っていたのか、微動だにしていない。
「去年、想ちゃんがこの家に豊騎くんを連れて来た時は、びっくりしたなあ。みっちゃんそっくりの子だったから。もう何年も会ってなかったけど、すぐにみっちゃんの息子だ! ってわかったのよ」
母親の言葉を受けて、去年の春、俺が豊騎と初めて会った日のことを思い出した。たまたま後ろの席に座っていた、イケメンくん。そんな印象だった豊騎が、帰り道で青い顔をしてうずくまっていた。腹を空かせ過ぎて貧血になった、と言う豊騎をどうにかしてやりたくて、「俺の家、近くだから来いよ」と誘った。自転車の後ろに豊騎を乗せて、ペダルを漕いだあの瞬間を今でもよく覚えている。
だけど、まさか豊騎と俺の母親同士が友達だったとは。というか、なんで久美子は先に教えといてくれなかったんだよ。本人曰く「言うタイミングを見失ってた」らしいけど。
「みっちゃんとは、子供の頃から『お互いの子供が生まれてきたら、結婚させようかー』とか冗談で言っててね」
心信さんの写真を見ながら懐かしそうに呟く、久美子。「男同士で残念だったな」と皮肉を返すと、「もう、またそんなこと言って。同性婚出来ないほうが遅れてるんだから、この国の法律を変えてみせる! くらい言わなきゃダメよー」と何故か説教されてしまった。
「そうですね。法律、変えますか」
「いや乗り気なんかい」
久美子のイエスマンな豊騎の言葉に俺がツッコむと、陽と泉くんが笑った。久美子は誰よりも嬉しそうに爆笑している。
――同性婚もバリバリ許容してくれる両親でよかったじゃーん
いつの日か陽が言った、そんな言葉を思い出す。俺と豊騎が好き合ってることを、久美子がこうやって心から祝福してくれるのは、当たり前なんかじゃない。俺はかなり恵まれているんだと思う。
豊騎のほうを垣間見ると、久美子が笑っているのを嬉しそうに見ていた。たぶん同じことを考えているんだろう。俺たちは2人とも久美子に感謝していた。
こうして、俺の親友が母親を好きかもしれない……と思っていたことは、俺の盛大な誤解だったことがわかった。
残る問題は、豊騎のお家問題と、婚約者の件だけだ。
「豊騎くん、婚約者がどうのって話は本当に大丈夫なの? 手助けが必要だったら言ってね」
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫だと思いますよ。手は打っておいたので」
初めて知ったことだったが、豊騎は中学生に上がった頃から実の父親に接触されていたらしい。なんでも、後継ぎにする予定だった腹違いの息子(つまり豊騎の異母兄弟だ)が不祥事を起こし、別の後継ぎが必要になったとか。
だから豊騎は、志信さんと一緒にいたら志信さんにまで迷惑がかかると思い、自立することを決めたんだそうだ。わずか13歳だったのにもかかわらず、だ。壮絶な人生過ぎやしないか……。今の豊騎が毒舌キャラになってしまったのも、納得というか。むしろこれくらいの歪みで済んでいてすごい、と褒めてやるべきか。
「新聞配達をしていた時に知り合った新聞記者のツテがあるんです。そのツテを使って、マスコミに綾小路家のスキャンダルをばらすって綾小路のやつらに言ってやったんですよ。ま、それでも周りうろついてたんで、『隠し子がいる』ってタレコミしてやりました。今は株が大暴落したせいで、てんやわんやしてますよ」
そう言ってアッハッハ、と高笑いする豊騎はまるで物語の悪役のようだ。その様子を見た陽が「暗躍してたんだねえ」とのんびり言う。泉くんは「ドラマか。恐ろしい世の中やな」と震えている。
色々なことがあったけど、今の豊騎には俺も久美子もついてるし、陽、泉くん、もちろん志信さんだって心強い味方だ。豊騎はもうひとりじゃないんだぜ。照れくさくて直接は言えないけど、そんな気持ちを込めて、豊騎の手を握った。
それにしても、何か忘れている気がする――
「あ、期末テストの勉強」
そう言って壁にかかっている時計を見た。「ポーン」と電子音が鳴り響く。時刻は夜の10時。
「やだ、大変! こんな夜遅くまでごめんねえ。真子くんと泉くん、おうちは遠いの? 送りましょうか」
久美子が声を張り上げる。陽と泉くんは「大丈夫です」とやんわり断っている。というか、待ってくれ。せめて泉くんは残ってくれ。そうでないと俺の期末テストが悲惨なことになっちまう。
「い、泉くん。うちに泊まってかない?」
「いや、普通にかえるわ。ほな」
俺の提案を速攻で断り、泉くんは陽と一緒に階段を下りていってしまった。
終わった。がっくりと膝をつく。隣にいた豊騎が「勉強くらい俺が教えてやんよ」なんてほざいていたが、馬鹿が馬鹿を教えても2人で泥船に乗って沈むだけだろうが。
次の日から始まった期末テストの結果は、もう散々だった。泉くんに教えてもらった英語なんかは比較的に良い点数を取れていたけど、時間が足りなくて手付かずだった数学なんて、中間テストより成績が下がってしまったのだ。
テストの結果表を久美子に渡すと、世にも珍しい久美子の真顔が見れてしまった。
「……お小遣い、今月から半分にするわね♪」
「そんなああああああ!!」
俺の大絶叫が家中に響き渡る。これも全部、豊騎のせいだ。
修学旅行。学生のほとんどが、耳にしたらはしゃぎだすであろう学生時代の一大イベント。
そんな修学旅行で、今日から俺たちの学年は2泊3日で京都へ行く予定だ。でも、冬の早朝からどうやってテンションを上げろっていうんだよ。
朝の6時半。集合場所である東京駅まで久美子に送ってもらい、車を降りる。一緒に乗ってきた豊騎は飲み物を買ってくると言って自販機に走っていく。
12月ということもあり、外の空気は痛みすら感じるほど冷たい。ダウンコートとマフラー、手袋と完全防備して来たつもりだったけど、何にも包まれていない耳と鼻がかじかんで取れてしまいそうだ。くしゃみをひとつして鼻をすん、と啜る。すると、急にファサッと頭の上に布地が落ちてきて、俺の視界を覆う。厚手のマフラーだ。誰かの体温であったまっていたのか、ほこほことしてとても暖かい。
「馬鹿は風邪ひかねーんじゃなかったのか?」
半笑いで背後から現れたのは豊騎だった。手にはホットのお茶が入ったペットボトルを2つ持っている。今しがたマフラーを投げて来たのもこいつだったようだ。
「マフラーなんかよこして、なんだよ。俺の知る豊騎はこんなに優しくしてくるキャラじゃねえぞ」
豊騎のマフラーを顔にうずめて温かいお茶をひとくち飲みながら、恥ずかしさを隠すみたいにして悪態をついた。豊騎はダッフルコートに手袋、耳当てをした格好で笑っている。
くそ、こんな朝っぱらからキラキラしやがって。イケメンめ。
俺がじとーっと睨み上げても、豊騎は何も言わなかった。無言でつけていた耳当てを俺の頭にかけてくる。過保護かっての。
その後、新幹線乗り場のホームに向かった。入口に着くと、担任の花形先生が立っている。バインダーを抱えた花形先生も、俺と同じくらいとても眠たそうだ。
「……っはよーゴザイマス……」
俺の挨拶を聞いて、花形先生は「はい……天辰くん、伊佐敷くん、出席」と、普段よりもゆったりとした口調で言い、名簿にまるを書いた。
自分のクラスの列に並び、眠気と戦いながら出発の時間を待つ。時が過ぎるごとに、生徒たちや一般のサラリーマンらしき人がホームに雪崩れ込んできて、場が活気づいていく。
「はーい、1組のみんな! 順番に席に座ってね」
花形先生が大声で叫ぶ。新幹線に乗り込む時間になったようだ。教師陣の指示に従って、俺たちはぞろぞろと新幹線に乗り込み始めた。座る席は前もって決められている。俺は豊騎の隣の席だ。事前に配られていた指定席の切符を取り出して、自分たちの座席はどこかと探した。
「1号車、2のE番……あ、あそこか」
自分の座席番号を見つけたので、いそいそと座ろうとしたその時。横から「ちょーっと待った、想ちゃん!」と陽が飛び込んできた。
「なんだよ、あっぶねーな」
「メンゴメンゴ。でさ、申し訳ないついでにお願いしていい? 隣に座らせてくーださいっ」
陽はそう言って、両手を合わせお願いのポーズを見せてくる。陽は泉くんの隣の席に座るはずだった。当日になっていきなりなんだよ。譲ってやる義理もないだろと言ってやりたかったが、陽が邪魔をしてきたせいで、俺たちの後ろでは大渋滞が起きていた。新幹線の発車時刻も迫ってきているので、周りからの「早く座れよ」という視線が痛い。俺たちのせいで迷惑をかけるのは忍びないし、何よりいたたまれなくなったので、陽の要望を受け入れることにした。
豊騎が泉くんの隣に、陽が俺の隣の席に座る。席を移動させられた豊騎は、不機嫌な顔を隠そうともしていない。でも、豊騎よりもショックを受けていた人がいた――泉くんだ。
通路を挟んだ向かいの2人席で、泉くんはこの世の全ての不幸を身に宿しました、みたいな悲壮なオーラを漂わせている。
「……なあ、泉くんとなんかあった?」
泉くんがあんなに落ち込んでいるのは、文化祭でゆうちゃんが来た後、陽に叱られた時くらいしか見たことがない。十中八九、陽のせいに違いない。そう踏んで、隣でポテチの袋を開けている陽に聞く。
「うん、俊喜がウザイから」
「俊喜? ああ、泉くんのことか」
聞き慣れない名前に一瞬わからなくなったけど、そういえば泉くんの下の名前は俊喜だった、と思い出す。泉くんって目つきが鋭いから、仲良くなった今でもなんか呼び捨てにしにくい空気なんだよな。陽もいつもは「とっしー」としか泉くんを呼ばないから、もう俺の中では泉くんの名前は「とっしー」になっていた。
陽はポテチをむっしゃむっしゃと食べながら、だるそうに取り出したスマホを俺に見せて来た。
「見てよ、これ」
陽のスマホ画面を見ると、トークアプリが開かれている。送信主は「とっしー」で、数分おきに【今なにしてる?】【まさかゆうと一緒とちゃうやんな】【なんで返事してくれへんねや】【既読無視?】【ゆうとより戻したとか……ないやんな】【俺のこと捨てるつもりなん?】と、鬼のような勢いでメッセージが送られてきていた。
「こ、怖ぁ……」
つい本音が出てしまう。いや、怖過ぎでしょ。泉くん、怖いのは目つきだけでいいんだよ。内面まで怖くなられたら、もう存在がホラーだよ。このメッセージだけ見たら、陽のやつどんなメンヘラ女子と付き合ってるんだ、と思うところだ。
陽はあっという間にポテチを1袋食べ終えて、今度はクッキーを貪り始めている。後で豪勢な昼飯が出るのに、食えるんだろうか。
俺が陽の腹のキャパシティーを心配していると、陽がため息を吐いた。
「1回寝たくらいで彼氏面されてもなあ。困るんだよね」
「寝ッ、は、ハア!? 寝たってだ、だだ、誰と」
「とっしーとだよ」
「陽、こッんのドクズがああああああ!!」
心からの叫びと共に、陽の頭へ拳を振り下ろした。風紀が乱れている。けしからん。てかいつのまにそんな進展(?)してたんだよ。泉くんの恋路を応援していたのに全く知らなかった。しかも、なんでそんなにあっけらかんとしてるんだ。もうちょっと悪びれてくれよ。
俺に拳をお見舞いされた陽は、「いったいなあ」と顔を顰める。俺がもう一度殴ろうと拳を振り上げると、車内に音楽が流れ、「――この電車は新大阪行きです。全車指定席で、自由席はございません。次は品川に停まります」とアナウンスも流れた。
あまりのことに、ここが新幹線の中ということを忘れていた。声を潜めて、陽に「その気もないのに泉くんとその、え、エッチしたのかよ? 最低だぞ」と怒る。陽はうんざりしたように目をぐるんと回した。
「だってあいつしつけーんだもん。ゆうちゃんには素っ気ないくせにさあ。それに1回ヤッたら諦めるって言ったの、向こうなんだけど」
「え、ええ……なんでそんなこと」
チラリと通路を挟んだ向かいの窓側席にいる泉くんを見る。これから楽しい修学旅行に向かうというのに、ずっと下を向いている。隣に座る豊騎もさすがに気まずいようで、無言のままだ。
子供の時からずっと陽のことが好きだったらしい泉くん。俺から見ても、脈がありそうには思えなかった彼の絶望的な恋は、1度きりの思い出に縋らせてしまうくらい、泉くんを狂わせたんだろうか。
ふと、アイドルとして歌い踊る陽と、その姿を見守る後方腕組み彼氏面の泉くんが脳内に思い浮かんだ。いやいや、陽はアイドルでもなんでもない。頭を振って、己の脳内の幻想を振り切る。でも、関係性としてはほぼ一緒な気がするんだよな。
要するに、泉くんはどんなに嫌がられても陽を諦められなくて、陽は身体を差し出してでも諦めさせたかった、というわけだ。
俺は泉くんが陽を思って泣いていたことを知っているので、不憫になってしまう。確かにさっき見た鬼メッセはキモかったけど。それでも、真剣な恋心をここまで無下にされているのを見るのは、つらい。
俺の胡乱な目つきを見た陽は、不満げに「何その目。え、俺が間違ってんの?」と言う。
「間違っては……ないかもだけど。酷いよお前」
「だってさあ、俺っち、友達より恋人を優先する人って嫌いなんだよねー。なんか、それってほんとに愛なんかな? って思っちゃう。性欲に踊らされてんじゃねって」
陽はキツイ口調でとうとうと語る。一見すると、陽のほうこそ性欲を爆発させ暴れまわってそうなチャラ男なので、言葉とのギャップに脳がバグりそうだ。
「だから1度ヤれば落ち着くと思ったんだけど……はあ、うざ~い」
陽はそこまで言うと、旅行鞄からアイマスクを取り出してまぶたを覆い、窓に持たれるようにして眠り始めた。まごうことなきふて寝だ。ひとり残された俺は、友人たちの爛れた恋愛事情に頭を悩まされる羽目になってしまった。
陽は友情より恋に突っ走る人が嫌いだという。確かに陽自身、彼女をいくらとっかえひっかえしていたとしても、俺たちといる時間を削ったりしたことはなかった。それに、彼らの幼馴染の女の子、ゆうちゃんが泉くんのことを好きだから、余計にそう思うのかもしれない。泉くん、ゆうちゃんにはそっけない態度だったしなあ。そういう泉くんの言動が陽の気に障ったのか。
「……でも、何も修学旅行の時に揉めなくたっていいだろうがよお」
悲鳴じみた呻き声を漏らす。俺たちは班行動も自由行動も4人一緒にするつもりだったので、必然的に陽と泉くんは顔を合わせ続けなければならない。
当事者よりもそれをはたから見てる俺と豊騎のほうが気まずい。俺たちは両想いだし。
むしろ、この機会に2人で抜け出しちゃおうかな。豊騎と旅行ってしたことないし、してみたい。そんな企みが思い浮かんで、ふと向かい側の豊騎を見た。偶然にも、豊騎もこちらに視線を向けている。
「(な、ん、だ、よ)」
隣の陽を起こさないように口パクで豊騎に言う。豊騎も同じように口パクを返してきた。
「(つ、ぎ、は、ふ、た、り、で、い、こ)」
豊騎も俺と似たようなことを考えていたらしい。豊騎の隣で地獄の雰囲気を作っている泉くんには申し訳ないけど、俺は今、最高に甘ったるい幸せを感じていた。
「ここ、三十三間堂にある千手観音立像は、現在1001体も配置されており――」
引率の教師たちの説明を聞きながら、俺たちはずらりと並べられた仏像を目にしていた。荘厳な雰囲気に圧倒されている俺の横では、豊騎が「集合体恐怖症だから……キッツイ、うっぷ」と口元を手で押さえている。観音様を見て吐き気を催すなんて、罰当たりなやつだ。そう呆れたものの、豊騎の顔色がどんどん青ざめていくのでさすがに心配になって、豊騎の背中をさすった。
「三十三間堂って十円玉の裏にあるやつだっけ?」
陽がお寺の入り口で全員に配られたパンフレットを見ながら、聞いてくる。俺に聞くなよ。わかるわけない。俺と豊騎が黙りこくっていると、後ろにいた泉くんが「あれは平等院鳳凰堂やろ」と答えを教えてくれた。
「……ちょっと物知ってるからって偉そうに」
陽はまだ泉くんにイラついているようだ。嫌味っぽく文句を言っている。可哀想な泉くんは、すぐに口をつぐんで下を向いてしまった。すると、その様子を見ていた豊騎が陽を睨んだ。
「お前らがいくら喧嘩しようがしったこっちゃねえけどなあ、俺と想の修学旅行を台無しにしてる自覚はしとけよ」
途端、俺たちの間にピリついた空気が走る。一種即発の気配。陽は豊騎を一瞥したかと思うと、何も言わずにお堂の外へと出ていってしまった。
「おい、ひな……!」
泉くんがその後を追う。2人を放っておいたらとんでもない修羅場になりそうなので、俺も陽を追いかけて走った。豊騎もため息を吐いて、後ろから追いかけてくる。陽は俺たちが追いかけてきていることに気づくと、走るスピードを一段階上げた。三十三間堂の朱色の縁取りが見事な外観を横目に、ぐんぐんと駆けていく。
「陽のやつ、足速ぁ……」
すぐに追いかけ始めたのに、陽はもう三十三間堂の参拝入場口を通り抜けている。少し目を離しでもしたら、見失ってしまいそうだ。
「ひなは陸上やってたから、本気出したら速いんや」
ぜえぜえと息を切らして泉くんが言う。俺と泉くんは運動が得意なほうじゃないから、ちょっと走っただけでもう息も絶え絶えだ。唯一、豊騎だけはまともに陽を追い続けていた。
ホテル街を抜け、鴨川の橋のたもとまでたどり着くと、陽は川辺近くまで下りていく。川の目の前に下り立つと、ようやく陽は歩みを止めた。そのすぐ後ろに追いついた豊騎が立っている。
そんな陽の姿を見て、水の中を沈んでいく陽という嫌な想像が脳内に浮かんだ。
「まさか陽のやつ、早まったりしないよな……?」
ボソッと呟いた俺の言葉に、泉くんが息を呑む。そしてどこにそんな体力が余っていたのか、猛ダッシュして陽の元まで駆け寄って、陽の腕を掴んだ。
「ひな、俺が悪かった。俺が全部悪いから、死なんとくれ」
「は? 何言ってんの」
「え、だって入水しようとしてたんやないんか」
「俺がお前のために死ぬとでも思ってんの? いい加減に目え覚ませよ、俊喜」
陽はそう言うと、泉くんの手を振り払った。ナイフみたいに鋭い言葉だ。関係ない俺のほうが怖くて震えてしまう。豊騎は「あいつはまた……!」と語気を荒らげた。そのまま陽に殴りかかりにいきそうだったので、慌てて豊騎を羽交い絞めにして引き留めた。
のどかな川の側、制服姿で騒いでいる俺たちはよっぽど異質だったみたいだ。通りがかるランニング中の男性や、散歩中の老夫婦、サイクリングしている通行人がみんなジロジロとこちらを見つめている。うう、視線が痛い。すみません、お騒がせして。謝って人の間を駆け回りたいところだったけど、陽と泉くんの会話はまだ終わっていなかった。
「……どうして俺のこと嫌いになってくれないんだよ。これ以上どう頑張ればいいっていうのさ」
心底困ったように、陽は黄色い野草の上で頭を抱え、うずくまった。
「なんで俺に嫌われたいねんで。ゆうのためか」
「それもあるけど……俊喜には、俺の親父みたいになってほしくないんだ」
「親父さん? ずっと単身赴任しとんやないんか」
「違うよ。人刺して、ずっと刑務所にいる」
――それから語られた陽の父親の話は、俺たちを驚かせた。泉くんすら知らなかった、陽の家族の過去。
陽の父親と母親、そしてもうひとりの男性は3人とも学生時代からの友達だったらしい。でも、陽の父親は親友だった男を裏切り、陽の母親を奪い取ったそうだ。そして、陽が生まれてから数年経ったある日、彼らの家を訪ねて来た親友だった男と陽の母親の仲を勘ぐった父親は、妻を奪われたくない一心で、男を刺したらしい。
「みんな大好きなまま、仲良しでいられたらいいのに。なんで好きって気持ちには順位がついちゃうんだろ」
陽は手の甲で顔を覆い、川原へ寝ころんだ。声が少し震えている。もしかしたら、泣いているのかもしれない。そんな陽の隣に、泉くんが腰を下ろした。
「……ひなの気持ちはよく分かった。けどな、俺もひなのこと嫌いにはなられへんねや」
泉くんが、落ち着いた声で話す。衝撃的な話を聞かされて動揺していないわけはないと思うけど、自分に落ち度があって嫌われたわけではないことがわかって、逆に元気を取り戻したみたいだ。いつもは厳しい目つきを和らげて、優しい表情で陽を見つめている。
「これからもひなを好きでいることくらい、許してくれへんか」
そんな泉くんの願いを聞いても、陽はしばらく無言だった。俺が内心「これを断ったらぜってえ殴る」と思っていると、手で顔を隠したまま、陽が呟いた。
「狂わないで誰も傷つけずにいられるなら、いいよ。好きでいても。その代わり、俺と同じくらいゆうちゃんにも優しくして。それが出来ないならこの話はなしにすっから」
そう言うと、陽は起き上がる。意外にも、その瞳に涙は浮かんでいなかった。泉くんは陽を見て、「わかった」と頷く。
一件落着、なのか。
「陽なりに守ろうとしてたんだね、きっと」
陽に飛び掛かりそうだった豊騎の腕を離してそう言うと、疲れたように豊騎は「ああ」と相槌を打つ。
「にしても、修学旅行で騒ぎ過ぎなんだよボケが! 先生になんて説明すんだよ」
「うわあ、あっくんこわ~」
陽に向かって拳を振り上げる豊騎を見て、陽はそそくさと泉くんの後ろに隠れる。すっかりいつもの調子に戻った陽を見て、笑う。
その後、団体行動中に勝手に抜け出したせいで俺たちは花形先生にみっちりと説教をされたけど、陽と泉くんが仲直り出来たのでよしとしよう。
***
早朝出発に加えて陽たちのせいで全力疾走もさせられた俺たちは、京都駅近くの旅館に到着する頃にはもうくたくたに疲れ切っていた。夕食に出されたすき焼き鍋は美味しかったけど、ご飯も食べてしまったからか疲労に加えて眠気も襲ってきた。
「伊佐敷たち、風呂の順番回ってきたぞー」
隣の部屋の班のやつらから声をかけられる。かろうじてまだ体力がある豊騎が「わかった」と返事をしたものの、俺や泉くんなんかは部屋のテーブルに突っ伏して潰れていた。
「想ちゃん、風呂行こーよ。ここの大浴場、マイクロバブルの湯とやらがあるって!」
「うええ……俺はいいや。部屋のシャワー使う……」
「ええー、もったいない! 何のための旅行だよお」
陽は俺の肩を掴んでぶんぶんと揺さぶったが、大浴場に行くわけにはいかなかった。だって豊騎も一緒だから。俺は自分のリトル・サンを信用していない。大浴場で万が一にもおかしな気を起こしてしまったら、笑い話では済まされないだろう。
「……俺は夜中にひとりで入る」
泉くんも俺と似たような事情持ちなのか、陽を垣間見てから不自然に俯いた。そんな泉くんと俺を見た陽は、羽虫を見かけたかのように口をひん曲げた。
「意識し過ぎはキモイって。ま、いいや。じゃーあっくん行こうぜ」
「伊佐敷と行くのか」
泉くんはチラッと豊騎を意味深な目で見上げてから、陽にまたしても虫を見るような顔を向けられていることに気づいて、慌てて言い訳をし始めた。
「だ、だってひな、俺と簡単に関係を持ったから、その、ほかのやつともしとるんやないかって考え出したら止まらなくて」
「キッショいな〜」
陽は泉くんの言い分を聞き、引き笑いしている。まあ、確かにキショいけどあまりにも辛辣だ。泉くんの陽への恋心は年季が入ってるから、そのぶん拗れに拗れてるんだろうに。
「……だって、ひないっつもゆうと距離近いやん。付き合うてた時期もあったし。他にも彼女ぎょうさんおったし……」
ゆうちゃんとも身体の関係があったんじゃないかと、前から気にしていたらしい泉くんは、完全に病みモードに入ってぶつぶつとそんなことを唱え始めた。
「ゆうちゃんとは友達だからしないよ」
「じゃあ俺は?」
「とっしーは……」
そこまで言いかけて、黙り込む陽。そして、気になる答えを言わないまま「……んじゃっ、また後でねん」と豊騎を連れて部屋を出て行ってしまった。
がっくりと机の上に倒れる、泉くん。哀れになったので、部屋に置いてあったインスタントのお茶を淹れて、泉くんに差し出した。
頑張れ、泉くん。俺は応援してるからな……!
***
「……あれ、どうやって着るんだこれ」
部屋のシャワーを浴びてから、備え付けられていた旅館の浴衣を着ようと格闘する。でも、着付けの方法なんて俺が知るはずもない。結局、それはもうぐちゃぐちゃの酷い有様になった。脱げなければいいだろ、と帯をきつく縛って無理矢理に服の体裁を整える。
「ふぃ~、いいお湯だったあ……って想ちゃん、何それは。ウケ狙い?」
ちょうど大浴場から戻ってきたらしい陽が、俺の姿を目にするなり幼い弟にうんざりしたような顔をして言った。着方が間違っているのは自分でもわかっていたので「やっぱおかしいか」と聞くと、陽は「左前になってるし。それじゃ死装束だよー」と言い、やれやれと頭を横に振った。
「久美子さんはお前を甘やかし過ぎてるよな」
そう言って、陽の後ろから部屋に入ってきた豊騎は、俺と同じ旅館の浴衣と羽織ものを着ているというのに、顔がいいせいなのか輝いて見える。なんだか浴衣までお高い服に見えてきた。俺が目をこすって幻覚じゃないよな、と確認しつつその姿を凝視していると、豊騎が俺の浴衣の中に手を突っ込み。脱がし始めた。
「ちょっ、お、お前何してんだ」
「何って、着付け直してる」
豊騎は平然と言い放つと、はだけさせた浴衣を恐らく正しい手順であろうやりかたで、俺の身体に巻き付けた。俺は豊騎の身体を見たり触れたりするだけで危機的状況に陥るというのに、豊騎は平気な様子なのが、無性に腹立たしい。ムカついたので、豊騎の浴衣の帯を解いてやった。せっかく綺麗に整えられていた豊騎の浴衣が、はらりと裾から崩れていく。
怒るかな、とちょっと心配になりながら視線を上げると、豊騎は何故か「くっ」と含み笑いをしている。笑い声は出していないけど、身体が震えるくらい笑っていた。
「……ガキかよ。それとも、誘ってる?」
「ハアッ!? んなわけねえだろ!」
「あっそ。浴衣、似合ってる。可愛い」
「急になんだお前」
「思ってたけど言わなかっただけ」
平然と言って、豊騎は俺の頬に手を添えた。なんだこの手は。パチンと豊騎の手を払いのける。またこいつは友達の目の前で不埒な真似をするつもりかよ、と焦って部屋を見渡した。が、そこにいたはずの陽と泉くんの姿はなかった。あれ、どこ行った。
「陽と泉ならとっくに出てったけど」
豊騎はそう言いながら、俺が崩した浴衣を着直している。そして部屋の奥へと歩いていき、窓枠にもたれかかった。浴衣を着ているのも相まって、どこかの雑誌の表紙でも飾っていそうな光景だ。うっかり、俺はそのまましばらく豊騎に見とれた。「お前ってほんと俺の顔好きだな」と笑い声が聞こえてきて、意識が現実に戻る。
「ま、俺もお前の顔、好きだけど」
そんな呟きを残して、窓の外をぼんやりと眺め出す豊騎。今の言葉は聞き流せない。俺は前からはらせていなかったひとつの疑問をぶつけることにした。豊騎の元へ駆け寄る。
「顔が好きって言ってるけどさあ。本ッ当に、久美子のこと好きなわけじゃないんだよな?」
「ちげえよ。俺、男しか好きになれねーし」
「ふーん」
さらりと豊騎からカミングアウトをされたけど、豊騎がゲイだろうがバイだろうが、正直どっちでもいい。目下の心配事は、俺の母親である久美子を好きかどうか、だったから。
これで正真正銘、俺の親友は俺の母親を別に好きでもないらしい、と言える。安心しきっていた俺は、すぐ側に豊騎がいることを失念していた。
「おい、想。ようやく念願の2人きりだぞ。今」
あ、本当だ。と思った瞬間、身体が引き寄せられ、豊騎の影が俺の影と重なった。柔らかい唇の感触と、嗅ぎ慣れないシャンプーの香りがする。たぶん、旅館に備え付けのものを使ったからだろう。
豊騎は唇を離すと、まるで「来いよ」と言ってるみたいに両手を広げる。俺は迷いなくその腕の中に飛び込んだ。
バイクに乗るイケメンは、好きですか。
「好きでええええす!!」
豊騎が運転するバイクの後部座席で、俺は叫んだ。風切り音のせいで俺の声がよく聞こえなかったらしい豊騎は「え、なんてー?」と叫んでいる。「なんでもなーい」とまた叫んで、豊騎の腰にぎゅっとしがみついた。
――豊騎がある日突然バイクの運転免許を取ってきた。「事故起こさないでね、安全運転でね」とハラハラした表情で俺たちを見送る久美子にハイハイと頷きながら、豊騎のバイクで通学するようになってから、はや数日が過ぎようとしている。
豊騎が「免許取ったぜ」と言いバイクを見せてきた日は、馬鹿で多忙なくせによく免許なんて取れたな、と俺や陽は豊騎を揶揄ったけど、豊騎いわく「学科試験がちっとやばかったけど。なんとかなった」らしい。なんでも、うちの高校が許可証さえもらえればバイク通学が出来るのを知って、前々からバイク通学してやる! と意気込んでたとか。勉強にもそのくらいの意欲を見せろよ。まあ俺も人のことは言えないけど。
豊騎がバイクのエンジン音を轟かせながら校舎に滑り込むと、周りから「かっけえー!」と男子生徒がはしゃぐ声が聞こえて来た。わかる。かっこいいよな。正直、初めてバイクを運転している豊騎を目にした時、もう1度恋に落ちたもんな。そんな男と自分が両想いだ、ということまで思い出してその場で悶えてしまって、陽と泉くんには呆れられたっけな。
「やばいやばい、伊佐敷くんかっこよすぎん!?」
「でも既に彼氏持ちなんだよなあ」
「悔し過ぎる……」
豊騎がバイクを駐車している間も、俺たちを遠巻きに見ている女子軍団が話している声が聞こえて来た。
彼氏。その言葉を聞いて、俺は首を傾げた。俺って豊騎の彼氏……なのか? 付き合おうとか一切言われてないけど。というか、今更だけど俺たちの関係って何?
***
「付き合う時ってさ、どうやって始まるわけ」
放課後の教室で、俺は陽に尋ねていた。陽にこんなことを聞くのは屈辱だったけど、俺の友達に陽ほど恋愛経験豊富なやつはいない。幸いにも、今日は2学期の終業式を終えたあと、豊騎はバイトに行き、泉くんは予備校に行ってしまった。つまり、陽だけに相談出来る完璧な状況が揃っていた。
「そんなん、時と場合と相手によるっしょー。何も言わずに始まることだって多いし」
「え、そうなの?」
「そーそー」
陽はスマホで誰かにメッセージを送りながら頷く。
それにしても、恋愛、難し過ぎる。そんなケースバイケースみたいなこと言われても。じゃあ豊騎のケースの解答例を教えてくれよ、と胸倉を掴みたくなってしまう。
「てか想ちゃん、あっくんのとこ行かなくていいの?」
「後で迎えに行くつもり。どうせあいつ、うちで飯食ってくし」
俺がそう言うと、陽は「ほーん」となんだか気の抜けた相槌を打ってから、スマホを置いてじっと俺の顔を見つめだした。
「なんだよ」
「……いやあ、あっくんは想ちゃんの何がよかったんかな〜? と思って。やっぱ顔かなあ」
「喧嘩売ってんのか?」
俺は陽に向かって拳を構えてファイティングポーズを取った。そりゃあ、俺は豊騎ほど超イケメンってわけでもないし、陽みたいに誰とでも話せるコミュ力もないし、泉くんみたく成績優秀ってわけじゃないけどさ。俺だってそれなりの顔だ。可愛いってよく褒められるし。褒めてくるのは、主に母親の久美子と豊騎だけど。
「めっそーもない! 人の好みはそれぞれ、ってね」
「失礼な奴だな……それじゃあ、そういう陽はどういうのが好みなんだよ」
「んー、そうだなあ。俺っちはねえ、想ちゃんみたいなお馬鹿ちゃんより頭がいい人がいいな」
「泉くんみたいに?」
俺がそう言うと、陽は見たことのない変な顔を見せて固まった。何、そのピカソが描いた絵みたいな顔。
陽は数秒経つとキュビズム的な作画になる魔法から解けて、へらりと「とっしーは頭よくないじゃーん。焦ったあ」と笑った。
「あれは勉強が出来るだけの馬鹿だよ。じゃなきゃ、俺みたいな男をいつまでも追いかけ回してないでしょ〜」
「あ、確かに」
「でしょでしょ!」
陽は自分の価値を下げてまで、泉くんが自分の好きなタイプだとは言いたくないらしい。泉くん、ドンマイ。
「でもさ、そんなに泉くんのこと嫌がってたら可哀想だよ」
身体の関係まで持っておいて、と付け足して睨む。陽は心と身体は別物って考えかたなんだろうけど、俺にはよくわからない。
「別に嫌ってるわけじゃないんだってば。俺だって……」と、言うと、陽のスマホから「ピコン、ピコン」と立て続けに通知音が鳴る。陽は画面を確認すると、口をへの字に曲げた。何かよくない連絡でも来たらしい。
「ただ、俊喜はゆうちゃんとくっついたほうが幸せになれるのになって、そう思ってるだけ。ゆうちゃんは昔っから俊喜が大好きだし。ほら、見てよこれ」
陽はそう言って、スマホ画面を突きつけてくる。そこには、「ゆうちゃん」からのメッセージが数分おきに送られてきていた。
【としくん、今日は予備校に来たんだけど】【ゆうが話しかけても『講義中やから』って】【無視される、、、】【でも迷惑そうな顔もかっこいい~】【ひな~助けてよ】【返事は?】【協力してくれないなら、おばさんにひなの酷いテスト結果バラすから】【おい。返事!】
「怖ッ……」
次々と送られてくる脅しにも思える文面に、恐怖で鳥肌が立った。ゆうちゃん、やっぱりヤバイ人じゃん。時間が経つにつれて口調が荒くなるのも怖過ぎる。見た目はおしとやかな女の子、って感じだったのに。それに、なんかデジャヴだな。何か再放送を見せられた気分になって、ふと思い出す。あ、泉くんの鬼メッセだ。修学旅行の時に陽から見せられた泉くんからの怒涛の追いメッセージを脳裏に蘇らせながら、納得して手をポン、と打つ。泉くんとゆうちゃん、案外似た者同士なのかもしれない。というか、この2人に板挟みになっている陽、少し可哀想。
「はあ~……ゆうちゃんもとっしーも、いつになったら落ち着いてくれんのかね」
陽は疲れたように机の上へだらんと倒れた。倒れながらもスマホでゆうちゃんに【協力すっから大丈夫よん~! そっち行く、講義終わったら3人で飯でも行こ】とメッセージを打っている。なんだか、チャラ男代表なイメージだった陽が、あたかも中間管理職で胃を痛めているサラリーマンにも見えてきた。
幼馴染のゆうちゃんも大事にしている陽は、泉くんとゆうちゃんの2人の間に挟まれているからこそ、どうにかして自分ではなくゆうちゃんと泉くんをくっつけたいんだろうか。でも、そうしたら泉くんの気持ちはどうなるんだよ。そう思ったけど、陽にはそれ以上何も言えなかった。陽には陽の事情があるんだろうし、人の恋路に口挟むやつは馬に蹴られるって言うから。
***
「想、ちょっとバイクの練習に付き合って」
天辰家で夜ご飯を食べ終わった直後、豊騎がそう声をかけてきた。今更バイクの練習? と思わないでもなかったけど、夜道での走行に慣れたいのかもしれない。特に文句も言わずに付き合うことにした。
日没後に外へ出ると、身を切るような寒さに襲われる。はあ、と白い息を吐きながら、豊騎に渡されたヘルメットをかぶった。ここのところ毎日かぶっているのに、未だに俺はヘルメットを手早く着けられない。ひとりで格闘していると、とっくに自分のヘルメットをかぶり終わっていた豊騎が無言で俺のヘルメットのあごひもを締めた。
「行くぞ」
バイクに乗った豊騎は後ろにいる俺を振り返り見てから、前に向き直りエンジンをかけた。街灯の少ない夜道を、豊騎の運転するバイクで通り過ぎていく。
あと数日で2学期も終わる。そうしたらすぐに高校3年生の春がやって来る。来年、俺たちはどう過ごしてるんだろう。そんなことを考えながら、豊騎の背中に抱き着いた。
そのまましばらく夜道を走り続け、丘の上まで進んだところで、豊騎はバイクのエンジンを止めた。目の前には、夜景スポットとして知られている公園がある。いかにもカップルご用達と言わんばかりの場所で、それを証明するように公園内には数組のカップルがいちゃつきながら夜景を眺めていた。
「えっと、豊騎さん。ここに来たかったのか……?」
俺が恐る恐る尋ねると、ヘルメットを脱いだ豊騎は乱れた髪の毛をかき上げながら「ああ」と言う。いちいちかっこつけやがって。実際に顔もかっこいいから2倍でムカつく。俺は豊騎のイケメンぶりに怒りながら、公園の中へ足を踏み入れた。
「……あの、さ」
「何」
公園を歩きながら豊騎が謎に言い淀みだした。「うう……ハズいんじゃ、ボケぇ!」と、しまいにはキレ出している。悪態をつかないと話すことも出来ないのかよ。勝手に恥ずかしがられて、勝手にキレられてるんだけど。え、これ俺が悪いの? 今、なんの時間よこれ。
豊騎が髪をガシガシとかきむしりながら奇声を上げたので、すれ違ったカップルが不審者を見る目つきでこちらを振り返った。よっぽど豊騎を置いて知らない人のフリでもしようかと思ったくらいだ。
そのまま公園を歩き、夜景を一望出来る場所まで来ると、豊騎は歩みを止めて何かの箱を俺に差し出した。
「……ん。これ、やる」
「え、なになに。怖いんですけど」
脈絡のないプレゼントに怯えながら箱を開けると、リングケースが入っている。なんだろ、と不思議に思いケースを開く。
「うええっ、これ、ピザまるくんの超高い24金の指輪じゃん!?」
それは、ピザまるくんの公式グッズの指輪だった。指輪の中央にある金色のピザまるくんが、街灯のライトにあてられてキラリと輝いている。ピザまるくんのぼけっとした顔も、なんだかいつもより得意げに見えた。このピザまるくんの指輪は、2か月ほど前に突如発売を告知された、マニア向けの商品だった。ネットで「誰がこんなのに金出すんだよw」とか散々言われてたやつ。いや、ピザまるくん大好きな俺は欲しかったけどね?
「すっげえ! ありがとうなあ、豊騎」
驚いたけど、ちょっと早めの誕生日プレゼントに渡してくれたのかな。俺の誕生日、冬休みの真っ最中だし。そう思って素直に礼を言うと、豊騎は「こういうの、必要かどうかもよくわかんねえけど。いつか――出来るようになったら、すぐに出来るように渡しておくな」とぼそぼそ小さい声で呟いた。なんて? 途中、ごにょごにょと喋られたからか聞き取れない。
「てかお前、バイク買ったばっかなのに無理すんなよ。これ高かっただろ」
よく聞こえない豊騎の言葉を右から左に聞き流して、俺は豊騎の背中をバシバシと叩いた。ピザまるくんのシュールなキャラデザと値段の高さがミスマッチだと、ネットニュースで叩かれていたのを思い出したのだ。確か、値段は10万円近くはしたはず。学生が買うアクセサリーにしては、高価過ぎる。豊騎はバイト三昧で金は持ってるんだろうけど、それは進学のための貯金だと前に話していたから、俺のために散財させてしまったのなら、気まずい。
「バイクはこの間の和解金で買ったから。心配すんなって」
「あー、カフェバイトの盗撮のやつ?」と聞くと、「そう」と豊騎は頷く。いつのまに肖像権侵害の件、片付いてたんだ。豊騎のやつ、こういう大事なことは誰にも言わずに知らぬ間に終わらせるところがあるんだよな。志信さんもこんな甥っ子を持ってさぞ心配だろう。
「今年はいろいろ面倒かけたな。家のこと、とか」
「なんだよ急に。別にお前が悪いわけじゃなかったじゃん」
というか被害者だったわけだし。俺がそう言い返すと、豊騎は照れくさそうに「ま、それもそうだな」と笑う。
「俺の家も、俺自身も、クソ面倒だけど……一緒になってくれるか?」
「えっ」
指輪を見せられた時よりも驚いて、豊騎の顔を見つめた。豊騎はそわそわと所在なさげに足元の石を蹴っている。
つまりこれって、告白? 豊騎のやつ、俺と付き合おうって言ってる? 今がそのタイミングなのか!? 恋愛経験皆無なので、心の中にいる恋愛の師匠・イマジナリー陽に尋ねてみる。「師匠! これってお付き合いの申し込みでしょうか」「そうじゃね? よかったじゃーん」……そう、なのか。それにしても豊騎、言うのが遅くないか。いいんだけどさ。人それぞれのタイミングで付き合い始めるとは本当だったんだなあ、となんだか感動してしまう。
「もちろん!」
親指を立てて了承すると、それまで柄にもなくもじもじと下を向いていた豊騎が、パアッと嬉しそうな笑顔を浮かべた。え、そんな子供っぽい笑顔初めて見たんだけど。ちょっと可愛い。
俺が豊騎の笑顔にドギマギしていると、テンションが上がったらしい豊騎は、「陽と泉にも報告しようぜ!」なんて言い、ビデオ通話で陽に電話をかけ始めた。電話に出た陽は、まだ制服姿で、後ろには駅前のファーストフード店のロゴが見えている。
「……どしたの、あっくん。こんな時間に」
ややお疲れ気味の陽の声。それにも気づかないほど浮かれているらしい豊騎は、「俺と想、晴れて恋人同士になったから。イェーイ」と言い、人を煽るようなピースサインをした。すると、画面の向こうでスマホがガタガタと揺れる。
「ほんまによかったなあ伊佐敷。おめでとさん!」
画面に泉くんの顔が写った。まだ陽と一緒にいたようだ。その隣には、ゆうちゃんもいる。ゆうちゃんは俺たち2人のことをよく知らないはずだが、笑顔で「おめでとー」と手を振っている。
これ、もしかしてもしかしなくても、3人の修羅場タイムに「恋人になりました報告」をした空気の読めない友人になってるんじゃねえの。俺はひとりで冷や汗をかいた。豊騎の袖を引っ張り「豊騎ッ、陽たちの邪魔したら悪いから。また今度にしよ? なっ」と、必死に通話を止めさせるよう、試みた。が、浮かれた豊騎には怖いものなどないようで、ニコニコの笑顔で「なんでだよ。こんな時くらい幸せ自慢したっていいだろ。だって俺たち将来を誓い合ったわけなんだし……クソッ、言わせんなこんなこと」と、わけのわからないことを言い出した。
「どゆことどゆこと」
「え? いつ将来なんて誓い合ったの俺たち!?」
「さっき俺がプロポーズしただろうがあああああ!!」
電話の向こう側で頭を抱え始める陽。当の本人なのに驚く俺。俺の言葉にショックを受けたように叫ぶ豊騎。
「ええええええー!」
一斉に叫び出す俺たち。何か知らないうちに、俺、豊騎にプロポーズされてたらしい。戸惑っていると、陽と泉くん、それにゆうちゃんが「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」と、みんな口を揃えてお祝いの言葉を送ってきた。エヴァの最終回か、っての。といっても、そもそもこの場に俺以外でエヴァを知る人間はいないので、本当に素直な気持ちで祝福してくれているだけなんだろう。
陽たちに拍手されるという謎の居心地の悪さを感じつつ、「気づかなくてごめん」と豊騎に謝る。すると、豊騎はニヤッと片方の口角だけ上げて笑った。
「いいよ、そんな馬鹿なとこが好きだから……って、ハズイこと言わせんなアホッ!」
「言い出しておいてキレんなよ!?」
「……嘘。別にキレてねーよ」
なんなのコイツ。やけにテンションの高い豊騎に若干引いていると、豊騎はスマホを放り出して俺に抱き着いてきた。哀れにも地面に叩きつけられたスマホからは、「えっ、おーい、見えないんですけどお。やらしいことでもしてんの?」と、呆れた調子で言う陽の声が聞こえてくる。
スマホ壊れてるかもよ、と言おうとしたけどやめた。豊騎があまりにもぎゅうぎゅうと抱き締めてくるから。言葉にならない幸せの形をなんとか伝えてこようとしているような、そんなハグに、俺もお返しがしたくなった。
きっとこれが、平凡だけど替えの効かない幸福ってやつなんだよな。そう思って、俺は豊騎を抱き締め返した。