慌ただしい喧騒が、夢の世界を揺蕩(たゆた)っていた奈古女(なこめ)(うつつ)に引き戻した。

 続いて目覚めたらしい影雀(かげすずめ)がちゅんと鳴き、奈古女と共にしていた寝具の()の下から這い出した。

「どうちたのかちら。なんか慌ただちいわね」

 影雀の呟きとほとんど同時に、障子にぼんやりとした影が浮かぶ。

「奈古女様、お目覚めですか。私です、清高(きよたか)です」
「あ、はい。起きています」

 影雀が再び衾に潜り込んで身を隠すのとは逆に、奈古女は慌てて上体を起こす。失礼、と断ってから障子を引いた清高の険しい顔を見て、腹の奥底に緊張が走った。

「何かあったのですか」
鬼穴(きけつ)です。日中に話していた、荘に生まれた小さな鬼穴が、急拡大して大鬼(たいき)が現れたのです」
「大鬼が」

 人や鬼を食べた俗鬼は、捕食対象となった者の力を取り込んで大鬼となる。しかし昼間の清高の話では、荘に生まれた鬼穴は小規模で、放っておいてもしばらくすれば消えていくようなものではなかったか。

「いったいどうして」
「とにかく時間がありません」

 困惑の声を上げた奈古女を遮って、清高は言う。

「詳しい事情は馬上でお話いたしましょう。どうか、清めの支度を早急にお願いいたします」

 言われるがまま、奈古女は部屋の隅に置かれていた葛籠(つづら)を開く、幸い、神楽道具には昼の間に香を焚いてあり、清めが済んでいる。

 白小袖に千早(ちはや)を羽織り、髪に花簪(はなかんざし)を挿す。季節の生花を飾った花簪には二本の枝が挿されており、板床に落とされた己の影を見降ろせば、額の両側に角がある鬼のように見える。

 最後に、木箱に収められていた神刀を手に取って、部屋の外で待っていた清高と合流した。

「お待たせいたしました」
「では参りましょう」

 足を進める度に、神刀の鍔にたわわに成った実のような鈴が、しゃん、と鳴る。自然と、郎党や家僕の注目が清涼な鈴の音へと集まった。好奇と期待の入り混じった視線を受けて、奈古女は肩をちぢこまらせて歩く。主殿の前を通った時、向けられた目の中に和香(わか)のもの言いたげなそれがあることに気づき、いっそう身体を小さくした。

 仕切りの網代塀(あじろべい)を越え(うまや)の前に到着すると、すでに馬に跨り焦燥に駆られた様子の真均(まさひと)が奈古女に向けて右手を差し出した。

「やっと来たか。さあ、乗れ」

 乗れ、と言われても馬は大岩のように大きい。真均に腕を引かれ、清高に足を押し上げてもらい無様な恰好でやっと背に跨った。

「すでに郎党らの半数以上が先に鬼穴へと向かっている。急ぐぞ」

 言うなり馬の腹を蹴り、出立する。松明(たいまつ)を掲げた郎党らがそれにつき従い、やや遅れて来た清高が、真均と馬首を並べた。

東一(とういち)様、新たな報せです。今宵、最初の鬼穴——一の穴の番をしていた山名(やまな)殿の姿が見えないようです」
「恐れをなして逃げたのか?」
「その可能性は低いでしょう。小さかった一の穴が広がり大鬼が出て、新たな鬼穴が次々に生まれている状況から察するに、おそらく大鬼の糧となった者がいるはずです。つまり」
「食われて糧となったのは山名の(せがれ)か」
「おそらく」

 手綱を握る真均の拳が、強く握り締められた。前方の宵闇に顔を向けて座っているため、奈古女からは彼の表情が見えない。しかし、郎党が鬼に食われたかもしれないという情報の衝撃が相当なものだということは想像に難くない。

「お知り合い、ですよね」

 気遣う様子を見せた奈古女。しばしの間が空いて、真均は冷酷に言い捨てる。

「怠惰な男だった。心の弱い者は鬼に食われて大鬼の一部になる」

 鬼を斬る立場にありながら、鬼の糧となるとは何事か。たしかに、鬼頭の若殿としての真均の憤りはもっともだろう、しかしほんの僅かな哀悼さえも見せない厳しさに、奈古女は反感を覚えた。

「そんな、冷たい」

 思わず首を捻ると、松明の朱に照らされた真均の瞳がすぐ近くにある。血のように赤々とした鋭い眼光を受けて言葉に詰まり、奈古女はそれ以上何も言えずに唇を噛み締め、精一杯の眼力で睨み返した。

 その時、不意に馬上が大きく揺れた。どうやら蹄が小石を踏んだらしい。

 小さく声を上げてずり落ちかけた奈古女の脇を支え、真均はあからさまな舌打ちをする。

「よそ見をするな。それとも、落馬で死んで大鬼の餌になりたいか」

 なんと心根の冷たい男だろうか。奈古女は神刀を抱く腕に力を込めて、やり場のない思いを押し殺した。

 それからしばらくの間、馬蹄が地を叩く音ばかりが辺りに響く。沈黙に耐えかねた頃、脇の道から松明を掲げた伝令役がやって来て、馬で並走した。

「何事か」
「若殿に申し上げます。西国より清めの波動が届いております。新たに湧いた鬼穴のうち、小規模のものは塞がり始めました」
「そうか。夜明けまで残りそうな鬼穴はどこにいくつある」
「調査中です。しかし、以前から田の端にある一つと、海へ下る葵ヶ谷(あおいがやつ)の中腹に新たに生まれた一つ。これらの規模が大きく、鬼が多数這い出しております」
「わかった。引き続き調べ、何か変化があれば知らせよ」

 伝令役は短く雄々しい返事を残し、速度を緩めて馬首を返し、来た道を戻って行った。

「どちらの鬼穴がより多くの清めを必要としているでしょうか」

 清高の声に、真均は前を行く篝火の揺らめきを睨むように見つめてから答える。

「手がかりが少なすぎる。だが、定石通りならば一の穴が全ての根源だ。奈古女はそこへ連れて行く」
「承知いたしました」

 清高が頷く。

「では私は葵ヶ谷の方へ向かいましょう。万が一、二の穴の規模が想定以上だった場合、私があちらを指揮して鬼を斬ります」

 清高は言って、右腰に吊るした刀を撫でる。奈古女は、手入れが行き届いているものの使い込まれた様子の柄と、それに触れる滑らかな白い指を見て、思わず声を漏らした。

「清高様も鬼穴で戦うのですか?」
「意外ですか? これでも若殿と一緒に鍛錬に励んできましたから、剣技には通じております。この白い肌なので、皆からはそうとは見えないと言われますが」
「いいえ、そうではなく……じゃなくて、すみません」

 歯切れの悪い言葉に清高は、大きな目を瞬かせてから、ああと頷く。

「もしや、私が鬼穴に行って大丈夫なのか疑問なのですか?」
「その……ごめんなさい」
「お気になさらず。それと、ご心配には及びません。巫女の舞が呼び集めた光が清めるのは大地です。鬼自体ではありません。巫女が地を浄化し鬼穴を塞ぎ、武者が鬼を斬るのはそのためです」

 だから、大鬼に襲われて神楽で撃退しようなどとは思わないでくださいね、と冗談めかして言った清高に、奈古女は軽く首を横に振る。

「それもそうですけど、あの」

 奈古女が懸念したのは、身の危険の有無だけではない。鬼でありながら鬼を討伐するために戦う清高。いったいどういう心境で武器を取るのだろうかと思ったのだ。

 そこでやっと奈古女の視線に含まれる感情を察したらしく、並んだ馬上で清高は小さく笑んだ。

「我々純鬼(じゅんき)は鬼から生まれた存在ですが、角があるより他は、人と変わりません。もちろん、中には他人の不幸を喜び、負の感情を垂れ流す人や鬼を好んで貪る純鬼もおりますが、鬼と共に生きるか、人と共に暮らすかの選択は個体によります。私は東一様に救われて、人と共にある道を選んだのです」
「人間にも、光を切望する者と闇に魅入られる者がいるだろう。それと同じことだ」

 真均の言葉に頷いてから、清高は前方へ顔を向けて表情を引き締めた。

「さて、谷への分かれ道です。では東一様。私は二の穴の様子を窺って参ります」
「ああ、頼む」

 松明を掲げた清高が離れると、周囲の闇がぐっと濃密になる。すかさず、灯持ちの男が馬を寄せた。

 清高の姿が宵闇に浮かぶ赤い光となり谷側へと去って行くのを見送ってから、真均は馬首を人里へと向ける。夜に沈んだ里は、遠目には穏やかだ。しかし、あちらには鬼穴があり鬼が湧いているのだと意識すれば途端に、里に沈殿する闇が陽炎のように禍々しく揺らめくような錯覚を覚えた。鬼の糧となる負の感情の(おり)が帯となり、鬼頭の荘を覆っている。

「腹を決めろ。おまえは清めの巫女。その力で、多くの者を救うことができる。力を持つ者には怖気づく権利などない」

 怖気づく。そうか、奈古女は怯えていたのか。背中越しに聞こえる叱咤の言葉に背筋が伸びた。神刀を抱いた腕の小さな震えを、拳を握って封じ込める。向かうは第一の鬼穴。落ちこぼれ巫女奈古女が、生まれて初めて誰かの役に立てるかもしれない戦いの地が、もう目と鼻の先に迫っている……。