それから、放課後は太田の都合に合わせて「勉強会」の時間になった。
 皆が帰った教室で、僕たちは最終下校時刻まで、こつこつと勉強を続けた。
 なんと、太田は数学が得意なのだ。彼は、僕が分からないと言ったところを、ゆっくり丁寧に解説してくれる。
「ごめん。太田の時間を取ってしまっちゃってるよね……」
 謝る僕に太田は笑う。
「良いんだよ! 他人に教えるとこっちの頭にも深くインプットされるから!」
「……ありがとう」
 勉強の他にも、ファッションの話もした。太田は古着屋で服を買うのが好きらしい。
「でも、ジーンズとか高いんでしょ? テレビでやってたよ、何百万円もするって……」
「いや、そんなのは買わない、というか買えないし……シャツとかさ、安いのに格好良いデザインのやつがあるんだよ。今度、一緒に行こうな」
 太田の口癖なのだろうか。
 彼はよく「一緒に行こう」と約束をしてくれる。強制って感じの空気じゃなくって、ふわっと軽い感じで、誘ってくれる。
 まだ何処にも行けていないけど、その約束が叶えば良いな、と思う。
 僕はすらすらとシャープペンシルを走らせる太田を見る。きらりと光っているのは、少し大きめのピアス。背の高い太田に、よく似合っていると思った。格好良い。
「何?」
「え?」
「いや、今井が俺のこと見てたから、何かなって思って」
「あ……」
 思っていたことをそのまま口にするのは、なんだか照れ臭い。僕は心とは違う言葉を選んだ。
「太田って、勉強が得意だよね?」
「えー。普通だと思うけどなー」
「今だって、詰まらず問題解いてるし……」
「まぁ、うん」
「それなのに、どうしていつも宿題を写させてもらってるの? 特に、一限の授業のやつを」
「あ、え? なんで知ってるん?」
「だって、太田って声が大きいから僕の席まで聞こえてるよ……」
 僕の言葉に、太田は息を吐く。
「ああ、俺って恥ずかしい奴……」
「もしかして、バイトで疲れて家ではすぐに寝ちゃうとか? それで宿題の時間が取れないのかな……」
「うーん。まぁ、それもあるけど」
 太田は、表情を曇らせる。それは、ファストフード店で見た時と同じ顔だった。
「……俺の秘密、誰にも言わない?」
「えっ、秘密?」
 僕がピアスのことを隠しているのと同じように、太田にも何か内緒のことがあるのだろうか。僕は息を呑む。そして、声のトーンを落として言った。
「……誰にも言わない。約束する」
「ん……ありがとう。今井なら、そう言ってくれると思った」
 太田はシャープペンシルを机の上に置いてから、じっと僕の目を見て言った。
「俺の両親、離婚するかもなんだ」
「……え」
「それでさ、この先、俺もどうなるか分からない感じで……家では勉強全然集中出来なくてさ……」
「ま、待って」
 僕は震える声で訊いた。
「太田がどうなるか分からないって、どういうこと……?」
「……転校、しなきゃいけなくなるかも」
「な……」
 衝撃だった。
 僕はどういった言葉を口から出せば良いのか分からず、ただ、ぱくぱくと息をすることしか出来なかった。
 僕の様子を見た太田は苦笑する。
「びっくりするよな、ごめん」
「いや、太田が謝ることじゃ……」
「誰にも言ってないんだ……担任の先生には相談したけど」
「太田……」
「あーあ。しらけるよな、こんな暗い話。本当にごめん。けど、誰にも言わないでもらえると助かる。俺、暗いの嫌いだから」
 そう言って眉を下げる太田の手を、僕は握った。僕よりも少し大きなその手は、小さく震えている。
 無理をしている。
 そう思った。
「……しらけたなんて思わないよ。暗いとも思わない。大事な、話だと思う」
 予想外だったのだろうか。僕の言葉に太田は目を見開く。僕は、まだ混乱している頭で彼に言った。
「僕に、話してくれてありがとう。本当に僕は誰にも言わないから……だから、僕の前では無理に笑わなくても良いよ。僕、何も出来ないけど……もやもやした気持ちとか、聞くことは出来るから。だから……」
 言いながら、自分の視界が滲むのが分かった。
 まだ少ししか太田と一緒に過ごしていないけど、その間、ずっと太田は笑顔を絶やさなかった。太陽みたいに、あたたかかった。
 そんな彼が抱えていることに、何も気付いてあげられなかった。そのことが、とても悲しかった。
「な、なんで今井が泣くんだよ……!?」
 焦った太田の声。
 太田の手の震えは止まっていた。
 でも、次は僕の身体が震える。
 どうしてだろう。辛いのは太田なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
 僕はしばらく俯いていた。
 けど、ぐい、と頭を抱き寄せられて、僕は少しだけ目線を上げた。太田の揺れる瞳と僕の瞳がぶつかる。近い、と思った。
「……太田」
「お、落ち着いて、な?」
 キスが出来そうなくらいの距離で、太田が囁く。少し掠れた声が、聞いていて心地良いと思った。
「ごめん。暗い気持ちにさせて」
「だから、暗いなんて思わないよ」
 僕は太田の肩に額をくっつけた。太田は僕の背中に手を伸ばして、そっと背中を撫でてくれた。
「僕、ずっと太田とは居られるって思ってたから、心がついて行かなくて……泣いてごめん」
「いや……俺もさ、まだちゃんと決まってないのに深刻な話をしてごめん。なんか……今井になら話せる気がして、その、ここまで心配してくれるなんて思わなかったから、その……」
 中途半端なところで何も言わなくなった太田を不思議に思い、僕は顔を上げた。だが、強い力で頭を押されて僕は下を向かされてしまう。
「太田?」
「ま、待って……俺、ちょっと今、ヤバい顔してると思うから……」
「ヤバい、顔?」
 僕は強引に顔を上げて太田の表情を見た。
 彼の頬は、真っ赤に染まっていた。
「ちょ、見るなって!」
「どうしたの? 真っ赤だよ?」
「っ……!」
 太田は机に突っ伏した。そして、叫ぶ。
「ああ、もう! 今井君!」
「え? あ、はい?」
 急にかしこまって名前を呼ばれ首を傾げる僕に、太田はがばりと身体を起こして、ばちんと視線をぶつけながら言う。
「今度の日曜日、デートして下さい!」
「は、え? デート?」
 急に話の方向性が変わって、僕は戸惑う。
 けど——。
「うん。分かった」
 太田の気晴らしになれば良いや、と思って僕は頷く。
 太田の顔は、まだ、赤かった。