制服、ローファー、約束のピアス

 僕がその男に意識を向けるようになったのは、学校の中庭で「あるある」な光景を目撃したからだ。
 その男——太田充は、高校二年生にしては高い身長をしている。その背中を少し屈めて、茶色く染めた髪をくるくるといじっていた。
 太田の目の前には、女子生徒が居た。名前は知らない。見たことが無い顔だから、うちのクラスの子ではないことは確かだ。同じ学年かもしれないし、違うのかもしれない。まぁ、僕には関係無いから、どうでもいいけども……。
 これ、たぶん、告白の場面だよね。
 迷惑な話だ。
 僕は、右手に持ったゴミ袋の結び目をなんとなくぎゅっと握り直した。どうして僕が中庭の中途半端な場所で立ち止まっているのかというと、このゴミ袋を捨てるゴミ箱が、ちょうど太田の真後ろにあるからだ。
 これは困った。今、このゴミ捨てという任務を遂行してしまえば、告白という重要イベントをぶち壊すことになる。それは、双方から恨まれそうだから避けたい。だから僕は、植えられた木の影に隠れてひっそりと立ち尽くしているのだ。
「わ、私……太田君のことが前から好きだったの! 付き合ってもらえるかな!?」
 あ、告白をしたのは女子だ。すごい。勇気があるな。太田の反応は……ここからじゃ、良く見えない。きっと付き合うんだろうな。なんとなく僕はそう思った。
 太田充という男は、クラスでも明るいグループに所属している。カーストって言われているのかな……その上位の方だと思う。いつも彼の周りには友人たちが居て、毎日を楽しそうに過ごしている感じ。僕とは正反対だ。別に、羨ましいとは思わないけども。
 そんなことを考えていると、太田は「うーん」と声を漏らした。そして、告白した女子に向かって言う。
「ごめん。俺、今は付き合うとかそういうのは考えられない」
 あれ? 付き合わないんだ。
 意外に思っていると、太田はゆっくりと目の前の彼女に言葉を紡ぐ。
「俺さ、誰かと特別になるより、今は大勢の奴らとワイワイしてるのが楽しいんだ。それに、もうすぐ受験だし?」
「受験って……まだ先の話じゃない!」
「そうだけどさ、もう高二の春だし。たぶんあっという間に受験になる。そしたらさ、せっかく好き同士になった彼女のことを一番に考えられなくなるかもしれない。俺、そういうの嫌なんだ。一番好きな子は、一番大切にしたいんだ俺。だからさユキちゃん、お互い今は将来に向けて頑張ろう? そんでさ、今日のこと、いつか笑い話にすればいいと思わない?」
「……なんか、太田君らしいね」
 告白した子、ユキちゃんはフラれたことを怒るどころか、くすっと笑った。
「あーあ。すっごい緊張したのに、簡単にフラれちゃった!」
「ごめんって」
「あはは! いいよ! それに、太田君は皆の太田君って感じだし、あたしが独り占め出来ないよね!」
「なんだよそれ」
「うーんっと、マスコットキャラ的な?」
「なんだよ、ウケるなそれ!」
 フった人間とフラれた人間の会話に思えない。もっと、こういうのは修羅場になったりしないのだろうか。僕にとって未知の世界だから分からない。
「それじゃ、あたしもう帰る! 太田君、バイバイ」
「ん。また明日」
 そう言って手を振り合って、ふたりは別れた。ふう、これでゴミを捨てに行ける、と思った。その時。
「覗き見、楽しかった?」
「っ!?」
 いつの間にか僕の隣に居た太田が、僕の耳元で囁く。驚いた僕は体勢を崩して転びそうになったが、太田の咄嗟の判断で、僕は彼に引き寄せられ、地面にダイブするのは免れた。
「あれ? 今井じゃん。もう放課後なのにまだ残ってんの? もしかして、覗きが趣味とか?」
「ば、馬鹿! 違うっ!」
 僕は太田から距離を取って、手にしていたゴミ袋を彼に見せた。
「今日は日直で、これを捨てに来たの! けど、誰かさんが告白されてたから空気を読んで邪魔をしなかったの!」
「ああ、ゴミ箱……それはどうもありがとうございます」
 わざとらしく太田は丁寧に頭を下げた。これ以上、太田に関わりたくなかった僕は、急足でゴミ箱に向かってゴミ袋を捨て、中庭を後にしようとした。したのに……!
「あれ? それ、ピアス?」
 太田に肩を軽く掴まれたので、僕は反射的に立ち止まった。
「な、なんのこと?」
「いや、今、髪が揺れた時に見えたから」
 僕は、両手で自分の耳を塞いだ。確かに、僕の耳にはシルバーの小さなピアスが付いている。けど、これは内緒のオシャレなのだ。誰かに知られるわけにはいかない。それなのに、太田という陽キャな奴に見られてしまうなんて……!
 とぼける僕に、太田はニヤリと笑って軽く僕の黒い髪をつついた。
「大人しそうに見えて、やるじゃん」
「っ……! ピアスなんて、知らないっ!」
 そう言って、僕は太田から逃げた。太田は僕を追いかけることもしないで「また明日なー」なんて僕の背後から声を掛ける。馬鹿。明日は土曜日だ。学校は休みだよ!
 早足で教室に戻る僕の脳裏に、太田が僕のピアスのことを皆に言いふらしたらどうしようという小さな心配がよぎった。
 別に……人生が終わるほど困らないけど。いや、先生に没収されたら困るけど……。
「……ああ、もうっ!」
 僕は小さく舌打ちをして、手洗い場でごしごしと手を洗った。もう身体の一部みたいになっているピアスが、ちくり、と痛んだ、気がする。変な感覚だ。
 土曜日と日曜日の間に、太田がピアスのことを忘れてくれたら良いのに。
 そんなことを考えながら、僕は手をハンカチで拭きながら、教室への道を急いだ。早く帰って、ピアスを外したい。そんな思いを始めて僕は抱いていた。
 月曜日、僕はいつものようにピアスをつけて登校した。
 土曜日と日曜日の間中、ずっと考えた結果、別に太田のために、こそこそする必要は無いと結論が出たのだ。
 そもそも、そんなに仲が良いわけでも無いのに、ピアスくらいで絡んでくるとは思えない。だから、僕がオシャレを我慢する必要は無い!
 そう強気になって登校した僕は、教室の自分の席にどっしりと腰掛けた。
「今井君、おはようー」
 一個前の席の田辺が僕に笑いかけてきた。僕も笑顔で彼に「おはよう」と返す。
「宿題やった?」
「なんのやつ?」
「数学」
「やったよ」
「答え合わせやろうー?」
「良いよ」
 田辺はのんびりした性格だ。優しいし、付き合いやすい良い奴。なので、すぐに友達になることが出来た。
 それに比べて太田は……。
「ごめん、マジで一限の数学助けて!」
「太田、いつも一限の宿題やってこないよなぁ。不良!」
「はぁ? 俺は超真面目君だし!」
 宿題くらいやってこいよ。
 僕は心の中で呆れながら、引き出しから数学のノートを取り出した。
「えっと、答えは……」
 宿題の答え合わせは順調に進み、僕と田辺の答えは完全に一致した。これなら、授業中に当てられても安心だ。
「良かったー。あーあ、数学苦手だから、早く大学に行きたいなぁ」
「ふふ。じゃあ、田辺は文系のとこを受けるんだ?」
「うんー。数学の試験が無いとこ……だと、私立になっちゃうなぁ。経済的には国立なんかの方が助かるけど……うーん」
「まぁ、まだ高二の春だし。これから数学が得意になるかもしれないよ?」
「そうかなぁー」
 そんな会話をしていると、予鈴が鳴った。僕たちはおしゃべりを止めて、気持ちを朝のホームルームへと切り替える。
「でさー、隣町の古着屋が……」
 僕はちらりと太田の方を見た。彼は楽しそうに、仲間とおしゃべりを続けている。
 ——あれ?
 僕は、太田の耳にきらりと光るものを見た。
 あれは……?
「はい、ホームルームを始めます!」
 教壇からの担任の声に、僕はびくりとした。急いで視線を前に戻して、どきどきうるさい心臓を落ち着かせる。
 ——太田も、ピアスしてるんだ……。
 一瞬しか見えなかったけれど、彼の耳元で光っていたのは、絶対にピアスだ。高いのか安いのか分からないけど、青い石のついたやつ。青空みたいな色をしたそれは、とても綺麗だと思った。
 ——僕には、似合わないだろうけど。
 そう思いながら、僕は自分の耳を軽く触った。お気に入りの、シルバーのピアス。それがしっかりついている。体育の授業の時と、試験の時以外は、いつも一緒の小さなオシャレ。
 ピアスを開けたのは、中学を卒業してすぐのことだった。
 前からオシャレに憧れていたとか、高校デビューをしようとか、そういった理由は特に無かった。なんとなく、ショッピングセンターに立ち寄った時に、ピアスのコーナーがあって、その中のひとつを見た時に「あ、これをつけてみたいな」と思ったのがきっかけだ。
 穴を開けたり、ファーストピアスの作法だったり、めちゃくちゃ面倒なことを乗り越えて、僕はやっと、一目惚れした今のピアスをつけることが出来るようになったのだ。
 僕が通う高校の校則は、そんなに堅苦しく無い。だから、ピアスくらいで、どうこう言われたりはしないだろう。けど、僕は少し前の英語の小テストの結果が、あまり良くなかったので「オシャレにかまけて勉強をサボったな」って思われたら大変だ。次のテストまでピアス没収なんて事態は避けたい。
 なので、僕は髪で隠してオシャレを楽しんでいるのだ。
「それじゃ、ホームルームを終わります!」
 ホームルームの内容は、まぁ、たいしたことじゃなかった。いつもと違うことといえば、進路希望調査のプリントが配られたくらい。三者面談とか進路相談とかあるのかな。嫌だなぁ……自分の進みたい道を誰かに真剣になって話すのって、なんだか恥ずかしい。
 僕はクリアファイルにそのプリントを入れながら、あと十分くらいで始まる数学の授業のことをぼんやり考えた。実は、田辺以上に僕は数学が苦手だ。面談で、そのことを突っ込まれると思うと胃が痛い。今年は、成績を上げないとな……。
 はぁ、と息を吐いたその時、後ろから肩をぽんと叩かれた。僕は軽く振り向いて、目を見開いた。そこに僕の肩を叩いたのは——太田だった。
「な、何ですか?」
「えっ、なんで敬語?」
 咄嗟に口から出た僕の言葉に、太田はけらけら笑う。そんな彼を見ながら、僕は背中に汗をかいた。こいつ、僕のピアスのことを、今ここで言うつもりじゃ……!
「す、数学でしょ?」
 僕は一刻も早く、太田に退席してもらおうと、自分の数学のノートを太田に差し出した。
「良いよ! 写しても!」
「いや、違うし」
 太田は、わざとらしく咳払いをしてから僕に言った。
「放課後、空いてる? 話、あるんだけど」
「え……」
 話って、なんの?
 もしかして、ピアスのことで脅されるんじゃ……?
 逃げたい。けど、断ったら、今、ここでピアスのことをバラされそうだし……。
「……空いてる」
 小さな声でそう言った僕の肩を、今度は強く太田が叩く。
「それじゃ、一緒に駅前のファストフードな!」
「あ……」
「忘れるなよ!」
 そう言いながら、僕の肩を二回叩いて、太田は自分の席に戻って行った。僕は頭を抱える。放課後のことを考えると、ますます胃が痛くなった。
「今井君って、太田君と仲良かったんだね」
 首を傾げる田辺に、僕は肯定も否定も出来ず、ただ曖昧に笑うことしか出来なかった。
 それから放課後までの時間は、あっという間だった。
 僕は授業の内容がほとんど頭に入らないまま、それまでの時間を過ごした。早退して逃げてしまおうか、とも思ったけど、嘘の体調不良をうったえる勇気も持てず、結局だらだらとしている間に放課後になった。
「……はぁ」
 僕は息を吐いて、ちらりと太田の方を見た。彼は教室の出入り口のところで、他のクラスの誰かと会話をしている。誰だろう。なんだか、派手な感じの男子生徒。名前は、知らない。ま、そんなもんだろう、学校内の人間関係なんて……。
 なんとなくスマートフォンで、僕は今日のこれからの天気を見た。夜から、雨。ああ、今日は傘を持ってきていないけど、まぁ、夜からなら降る前に帰れるだろうな……。
「い、ま、い、君?」
「……っ!」
 背後から声を掛けられて、僕は飛び上がる。僕を脅かしたのは太田だった。彼は驚いた僕を見て、けらけらと笑っている。
「ごめん……っは、良い反応!」
「う……! 普通に声を掛けろって!」
「えー。普通って何?」
「な……」
「普通にやるのが一番難しいじゃん」
 言いながら、太田は僕の腕を掴んだ。まるで、逃さないとでも言うかのように。
「ほら、早く行かないと混むから」
「……分かった」 
 覚悟を決めて、僕は荷物をまとめて教室を出た。
 触れてもいないピアスが、ずきんと痛んだ気がした。
 
 ***
 
 誘ったのは自分だ、と言って、太田は五百円のハンバーガーとポテトとドリンクのセットを奢ってくれた。それをふたり分トレイに乗せて、太田は僕が座っている席に大股でやって来た。僕は周りを見渡す。店内は僕たちと同じ制服を着た人間が多かった。
「なんか、意外」
「え? 意外って?」
 席に座るなり、太田は自分のコーラの入った容器を手に取り、プラスティックのストローを刺した。
「今井は、アイスコーヒー派かと思った」
「なんで?」
「なんとなく」
 太田は僕に対して、どんなイメージを持っているんだろう。そう思いながら、僕はオレンジジュースにストローを刺す。ひとくち飲んでから、僕はポテトに手を伸ばした。こういうのは、揚げたてが美味しい。
「でさ、今日、今井をこの宴に招待したのには理由がある」
「宴……」
 太田の言葉に僕は吹き出す。
「うん。そうじゃなきゃ、奢ってくれないよね」
「まぁ、な」
 頷きながら、太田はすっと僕の耳元に手を伸ばした。そして、髪の隙間から僕のピアスを覗き見る。僕は咄嗟にその手を掴んだ。
「い、いきなり触らないでよ……」
「ああ、ごめん……その、実は俺、今井のピアスに興味があってさ」
「……え?」
「どこで買ったん?」
「えっと……」
「いくらぐらい?」
 どうやら、本当に太田の興味は僕のピアスに向けられているようだ。このピアスのことを他人に言いふらしたりは……しないだろう。きっと。きらきらした太田の目を見たら、なんとなくそう思った。
「……買ったの、だいぶ前だから、もう同じのは売ってないと思う……というか、売ってなかった。予備に同じの買いに行ったら、そのショップ自体が無くなってたんだ」
「えー!? なんだ、そうなのか……」
 太田は残念そうに眉を下げて、大袈裟に息を吐きながらポテトをつまむ。
「今井のピアス、めっちゃ格好良いからさ、真似したくなったんだよね」
「……それは、どうも。今日の太田のピアスは、なんというか、綺麗だよね」
「え? やっぱそう思う?」
 太田は少し誇らしげに自分のピアスに触れた。
「安いんだけどな、気に入ってるんだ」
「どこで買ったの?」
「商店街のアクセサリー屋」
「商店街? アクセサリーのお店があるんだね」
「あるぜ。隠れ家的な……今度、一緒に見に行こう。値段も安いしさ、バイトの給料入ったら、また誘うわ」
 太田はアルバイトをしているのか。偉いなぁ、と思った。僕は家族の意向でそれを禁止されている。学業に支障が絶対に出ると言われてしまい、毎月渡されるお小遣いで、どうにかやりくりしている身だ。
「どんなバイトしてるの?」
「コンビニ」
「へぇ……すごいね。僕も見習いたいな」
「別に、偉くも何も無いから。ただ、親の金で自分のものを買ったり食べたりするのに抵抗があってさ……」
 一瞬、太田の表情が曇った。
 だが、彼は一瞬で明るい顔になる。
「今井もバイトやる? 紹介しようか?」
「あー……僕は、家族に反対されてるから無理だな。成績が落ちるだろ、って」
「そうなん? それも意外」
 意外、意外、と言う太田だが、僕も彼のことを「意外」だと感じていた。
 きらきらしたタイプの太田と、普通のタイプの僕。絶対に話は合わないと思っていたけど、今、こうやって普通に会話が出来ている。
 ここに来る前は、逃げ出そうと思うくらいに嫌だったのに、どうしてだか今は、居心地の良さを感じてしまっていた。
 僕みたいなタイプの人間にも、普通に話してくれるって……意外と、良い奴なんだ。
 バイトもやっていて、偉い。
 僕は、太田のことを、もう少しだけ知りたくなった。
「……ピアス以外に好きなものあるの?」
「え? ピアス以外に?」
 太田は少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「……勉強、とか?」
「え? 勉強?」
 僕が首を傾げたのを見て、太田は大袈裟に息を吐いた。
「今、嘘だーって思っただろ?」
「え、いや、思ってはない……よ?」
「嘘だー」
 太田は僕の頬を軽くつついた。綺麗に整えられた爪を見て、思わずどきりとする。
「俺さ、K大に行きたいんだよね。そんで、日本の文学を勉強したい」
「え? そうなの?」
 そういえば、告白の現場に遭遇した時、受験があるからって言って断っていたっけ。あれは、適当な理由ではなく、本当の理由だったんだ。
「太田は、美容師とかミュージシャンとかの学校に行くと思ってた」
「え?」
 僕の言葉に、太田は目を丸くする。
「俺、そんなイメージ?」
「まぁ……オシャレだし」
 僕はポテトを一本つまむ。
「僕もさ、日本の文学を大学では勉強したいと思ってる」
「マジで!? じゃあ、俺ら同じとこ受けたら良くね!?」
「いや……」
 自分の成績に自信の無い僕は俯く。
「一年の終わりから、成績があまり伸びなくて……」
「ほう、ほう」
「なんか、もう何処にも行けない気がして、ちょっと落ち込み中」
「なるほどー」
 太田は言いながら、ハンバーガーの包み紙を開いた。
「でも、まだ時間あるし、肩の力を抜いてみたら? それこそ、ピアスなんかでオシャレして気分転換してさ」
「うん……」
「なぁ、一緒の大学受けようぜ。そんで、勉強とか一緒にやったら、たぶん成績も超上がると思う!」
 そう言って、太田はハンバーガーにかぶりついた。僕もそれの真似をする。中に入っているケチャップが、ちょっと酸っぱくて美味しいと思った。
「……太田は、どんな作家が好き?」
「ん?」
「日本の文学が勉強したいんでしょ? だから。推しの作家とかいるのかなって思って」
「推しの作家……あんまり詳しくないけど、夏目漱石とか良くない?」
「ああ、教科書にも載ってるよね」
「そうそう。俺、告白する時に月が綺麗だねーって言うのが夢! その意味を分かってくれる子と結婚する!」
「ふふ……面白い理由で結婚するんだね」
「今井は? 推しはいるん?」
 太田の質問に、僕は苦笑する。
「いや……あんまり深く考えたことないんだけど……うーん……日本語で書かれた文章を読んで、いろいろ考えるのが好きなのかもしれない。僕なら、こう思うとか。こう書くとか」
「へぇ……なんか学者っぽい! 大学院行けば?」
「そんな……そういうのは受かってから考えないと」
「……」
「……」
 僕たちは、目を合わせてから同時に吹き出した。楽しいな。こんなに明るい放課後は初めてかもしれない。また、こんなふうに過ごせたら良いのにな……なんて、思ってしまう。
「じゃ、明日から放課後は勉強会をしましょう!」
「でも、太田はバイトがあるんじゃない?」
「あー……じゃ、都合の合う日にお勉強!」
 どうやら、太田は本気らしい。けど、僕も誰かの視線があった方が勉強が捗る気がしたので「うん」と頷いた。
 それから、太田に小声で言う。
「あのさ、僕のピアスのことは、誰にも言わないでね」
「え? なんで?」
「これは、内緒のオシャレなんだ」
「内緒のオシャレ……」
 僕の言葉を繰り返し、太田はくすっと笑った。
「なんか悪いことしてるみたいな響きで良いな……分かった。誰にも言わない。俺だけが知ってる今井の秘密な」
 そう言ってウィンクする太田の顔を、僕はなぜだが、どきどきする心で見つめていた。
 それから、放課後は太田の都合に合わせて「勉強会」の時間になった。
 皆が帰った教室で、僕たちは最終下校時刻まで、こつこつと勉強を続けた。
 なんと、太田は数学が得意なのだ。彼は、僕が分からないと言ったところを、ゆっくり丁寧に解説してくれる。
「ごめん。太田の時間を取ってしまっちゃってるよね……」
 謝る僕に太田は笑う。
「良いんだよ! 他人に教えるとこっちの頭にも深くインプットされるから!」
「……ありがとう」
 勉強の他にも、ファッションの話もした。太田は古着屋で服を買うのが好きらしい。
「でも、ジーンズとか高いんでしょ? テレビでやってたよ、何百万円もするって……」
「いや、そんなのは買わない、というか買えないし……シャツとかさ、安いのに格好良いデザインのやつがあるんだよ。今度、一緒に行こうな」
 太田の口癖なのだろうか。
 彼はよく「一緒に行こう」と約束をしてくれる。強制って感じの空気じゃなくって、ふわっと軽い感じで、誘ってくれる。
 まだ何処にも行けていないけど、その約束が叶えば良いな、と思う。
 僕はすらすらとシャープペンシルを走らせる太田を見る。きらりと光っているのは、少し大きめのピアス。背の高い太田に、よく似合っていると思った。格好良い。
「何?」
「え?」
「いや、今井が俺のこと見てたから、何かなって思って」
「あ……」
 思っていたことをそのまま口にするのは、なんだか照れ臭い。僕は心とは違う言葉を選んだ。
「太田って、勉強が得意だよね?」
「えー。普通だと思うけどなー」
「今だって、詰まらず問題解いてるし……」
「まぁ、うん」
「それなのに、どうしていつも宿題を写させてもらってるの? 特に、一限の授業のやつを」
「あ、え? なんで知ってるん?」
「だって、太田って声が大きいから僕の席まで聞こえてるよ……」
 僕の言葉に、太田は息を吐く。
「ああ、俺って恥ずかしい奴……」
「もしかして、バイトで疲れて家ではすぐに寝ちゃうとか? それで宿題の時間が取れないのかな……」
「うーん。まぁ、それもあるけど」
 太田は、表情を曇らせる。それは、ファストフード店で見た時と同じ顔だった。
「……俺の秘密、誰にも言わない?」
「えっ、秘密?」
 僕がピアスのことを隠しているのと同じように、太田にも何か内緒のことがあるのだろうか。僕は息を呑む。そして、声のトーンを落として言った。
「……誰にも言わない。約束する」
「ん……ありがとう。今井なら、そう言ってくれると思った」
 太田はシャープペンシルを机の上に置いてから、じっと僕の目を見て言った。
「俺の両親、離婚するかもなんだ」
「……え」
「それでさ、この先、俺もどうなるか分からない感じで……家では勉強全然集中出来なくてさ……」
「ま、待って」
 僕は震える声で訊いた。
「太田がどうなるか分からないって、どういうこと……?」
「……転校、しなきゃいけなくなるかも」
「な……」
 衝撃だった。
 僕はどういった言葉を口から出せば良いのか分からず、ただ、ぱくぱくと息をすることしか出来なかった。
 僕の様子を見た太田は苦笑する。
「びっくりするよな、ごめん」
「いや、太田が謝ることじゃ……」
「誰にも言ってないんだ……担任の先生には相談したけど」
「太田……」
「あーあ。しらけるよな、こんな暗い話。本当にごめん。けど、誰にも言わないでもらえると助かる。俺、暗いの嫌いだから」
 そう言って眉を下げる太田の手を、僕は握った。僕よりも少し大きなその手は、小さく震えている。
 無理をしている。
 そう思った。
「……しらけたなんて思わないよ。暗いとも思わない。大事な、話だと思う」
 予想外だったのだろうか。僕の言葉に太田は目を見開く。僕は、まだ混乱している頭で彼に言った。
「僕に、話してくれてありがとう。本当に僕は誰にも言わないから……だから、僕の前では無理に笑わなくても良いよ。僕、何も出来ないけど……もやもやした気持ちとか、聞くことは出来るから。だから……」
 言いながら、自分の視界が滲むのが分かった。
 まだ少ししか太田と一緒に過ごしていないけど、その間、ずっと太田は笑顔を絶やさなかった。太陽みたいに、あたたかかった。
 そんな彼が抱えていることに、何も気付いてあげられなかった。そのことが、とても悲しかった。
「な、なんで今井が泣くんだよ……!?」
 焦った太田の声。
 太田の手の震えは止まっていた。
 でも、次は僕の身体が震える。
 どうしてだろう。辛いのは太田なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
 僕はしばらく俯いていた。
 けど、ぐい、と頭を抱き寄せられて、僕は少しだけ目線を上げた。太田の揺れる瞳と僕の瞳がぶつかる。近い、と思った。
「……太田」
「お、落ち着いて、な?」
 キスが出来そうなくらいの距離で、太田が囁く。少し掠れた声が、聞いていて心地良いと思った。
「ごめん。暗い気持ちにさせて」
「だから、暗いなんて思わないよ」
 僕は太田の肩に額をくっつけた。太田は僕の背中に手を伸ばして、そっと背中を撫でてくれた。
「僕、ずっと太田とは居られるって思ってたから、心がついて行かなくて……泣いてごめん」
「いや……俺もさ、まだちゃんと決まってないのに深刻な話をしてごめん。なんか……今井になら話せる気がして、その、ここまで心配してくれるなんて思わなかったから、その……」
 中途半端なところで何も言わなくなった太田を不思議に思い、僕は顔を上げた。だが、強い力で頭を押されて僕は下を向かされてしまう。
「太田?」
「ま、待って……俺、ちょっと今、ヤバい顔してると思うから……」
「ヤバい、顔?」
 僕は強引に顔を上げて太田の表情を見た。
 彼の頬は、真っ赤に染まっていた。
「ちょ、見るなって!」
「どうしたの? 真っ赤だよ?」
「っ……!」
 太田は机に突っ伏した。そして、叫ぶ。
「ああ、もう! 今井君!」
「え? あ、はい?」
 急にかしこまって名前を呼ばれ首を傾げる僕に、太田はがばりと身体を起こして、ばちんと視線をぶつけながら言う。
「今度の日曜日、デートして下さい!」
「は、え? デート?」
 急に話の方向性が変わって、僕は戸惑う。
 けど——。
「うん。分かった」
 太田の気晴らしになれば良いや、と思って僕は頷く。
 太田の顔は、まだ、赤かった。
 日曜日は、少し曇っていた。
 僕は折りたたみ傘をカバンに入れて、待ち合わせの駅に向かう。太田と休日に会うのは初めてだったので、少し緊張している。
「……あ」
 駅の改札の近くに太田は居た。上下を黒色で統一したファッションで、スマートフォンをいじっている。スニーカーの赤いラインが目立っていて、格好良いと思った。
 僕は、なんとなく、おそるおそる彼に近付いて遠慮がちに声を掛けた。
「お、おはよう。太田」
「ん? あ、おはよう今井……って、何、そのファッション!」
「え? 変かな……?」
 僕は薄手の茶色いカーディガンを見る。中には白いシャツを着て、緑色のズボンを履いている……これらは全部、選んでもらったものだけど。
 僕は不安気に自分の姿を駅の窓ガラスで見ようとしたけど、太田に両手を掴まれたことでそれは阻止されてしまった。
「可愛い!」
「……へ?」
「めっちゃ似合ってる! 今井、センス良いな!」
「いや……これは姉に選んでもらって……」
「え? お姉さん居るん!?」
「うん。大学三年生」
 あんまり姉とは会話をしない。けど、初めての「デート」だから着るものに困った僕は、就活でかりかりしている姉に彼女の好物のプリンを差し入れて相談したのだ。
 クラスメイトの男の子とデートするんだけど、どんな格好をすればいい——と。
 すると、何故か姉は張り切って上から下までトータルコーディネートしてくれた。太田のことを紹介しろとも言われた。姉は高校生のような年下がタイプなのだろうか……弟は少し心配です。
 経緯を太田に説明すると、彼はその場にうずくまってしまった。
「太田、体調悪い?」
「いや……今井って、ちょっと天然だよな」
 太田は立ち上がり、僕に手を差し出す。
「ほら、デートなんだから手を繋ぐの!」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの!」
 なんだか照れ臭い。
 けど、断る前に太田は僕の手を取って歩き出した。この前の放課後の時みたいに震えていないその手の体温を感じて、僕はこっそり安心したのだった。

 ***
 
「これ、本当に五百円!?」
「そう書いてあるだろ」
「うわ……すごく格好良い」
 僕たちは、前に太田が言っていた商店街のアクセサリー屋さんに来ている。店長さんは茶髪の女性で、太田とは付き合いが長いらしい。お互い、軽い口調で会話をしている。
「珍しいね。充君がお友達連れて来るなんて初めてじゃない?」
「うん。まぁ、そうっスね」
 言いながら、太田はシルバーの小ぶりのピアスを手に取って、僕の耳元に当てた。
「これ、似合うと思う」
「そうかな……」
 僕は備え付けてある鏡を見る。シンプルなデザインで、こういうの良いなって思った。太田はセンスが良い。
 ちらりと店内を見回す。そんなに広くない店内には、ピアスの他にもネックレスやブレスレット、指輪なんかがところ狭しと並んでいる。
「太田は、いつもここで買い物するの?」
「そうだな。だいたいは、そう」
「あらー? 他の店で浮気してるの?」
 けらけら笑う店長さんを睨みながら、太田はこれでも無い、こっちも違う……と何やら悩んでいる様子だ。
 僕はそっと太田から離れて、指輪のコーナーを見た。値段は五百円からで売られていて、少ないお小遣いでもオシャレが楽しめて良いなぁ、と思った。
「ちょ、勝手にうろうろするなって!」
 太田が僕の手を引っ張って、またピアスのコーナーに引き戻される。あ、今日は「デート」なんだった。勝手に離れるのは良くないよね。僕は素直に太田に従った。
「あ……」
 僕の目に、赤い石のついたピアスが飛び込んできた。小さい石だけど、程よくその存在を主張している。前に太田がつけていた、青い石のピアスと対になるんじゃないかな、なんてことを思った。
「それ、気に入った?」
「あ……」
 僕がじっと赤い石のピアスを見ていたのに気が付いた太田が、にゅっと僕に顔を近づける。ふわり、と良い匂いがした。太田、香水をつけているのかな。
 僕は頷いて、ピアスを耳元に当てた。
「似合う、かな……?」
 僕には派手かも、と思いながら太田に訊くと、彼は歯を見せて笑った。
「良いと思う!」
「本当?」
「ああ、絶対に似合う!」
 そう言って、太田は僕の手からピアスを奪った。それから、まったく同じピアスを手に取って、レジの方に向かう。僕は慌ててその背中を追った。
「待って、それ、いくら?」
 僕の言葉に、太田は笑う。
「俺からのプレゼント」
「そんな、悪いよ」
「良いから」
 太田は僕の耳元で囁いた。
「デートの時、こういう場面では格好つけたいんだよ」
「っ……」
 そう言われてしまえば、僕は何も出来なかった。スマートに会計を済ませる太田は、なんだかとても格好良く見えた。
 
 ***
 
「ずっと、いろいろと考えてたんだけど」
 アクセサリー屋さんから少し離れたところにあるカフェで、僕たちはアイスティーを注文して外のテラスでそれを味わっていた。
 僕はレモンティー、太田はストレートティー。ピアスを選びながらたくさん喋ったので、冷えた紅茶の温度が心地よかった。
 僕はストローを咥えていたけど、太田が話し出したので、背筋を伸ばす。
 太田は、テーブルに肘を軽くついたまま僕に言った。
「俺、母親について行くことにする」
「……そう、なんだ。じゃあ……転校するんだね」
「ああ、そうなる」
 僕は、自分の心臓の音を耳の奥で聞いていた。ばくばく、ばくばく。怖いくらいに、鼓動が早くなっている。
 太田は、僕をじっと見つめながら言った。
「もっと……今井と、したいこといっぱいある」
「……うん」
「勉強もだけど、もっとたくさんデートして、それでお互いのこと詳しく知って、さ……」
「うん」
「ゆっくり、友達以上になりたかった」
 友達、以上……。
 それって、親友ってこと?
 それとも……デートをするような仲ってこと?
 ……きっと、後者だ。だって、太田の瞳がそう言っている。嫌じゃない。むしろ……嬉しいと思う自分がいる。ああ、僕も、もっと、もっと、太田に近付きたいと思っていたんだ。
「学校が違っても、ずっと仲良しでいられるよ」
「けど……」
 太田の目が不安そうに揺らいだ。
「……今井、どこにも行かない?」
「え? どこにって?」
「誰かのものに、ならない?」
 言いながら太田は、買ってくれたピアスをそっと僕に差し出してきた。
「これ……同じのを買ったのは、わけがあって……」
「わけ?」
「そう。これ、お揃いでつけられたら良いなって……」
 太田は、照れたように頬を掻く。
「俺、勉強めっちゃ頑張るから! だからさ、大学……本当に、今井と同じところに行きたいんだ……! そしたら、毎日会えるし、いろんなところにも行けるし! 俺……」
「太田……」
 僕はピアスを受け取って、空になった太田の手をそっと握った。
「分かった。僕もまだまだ勉強をしないといけない身だけど、約束する。同じ大学に行ってさ、このお揃いのピアスをつけて登校しようよ!」
「あ……ありがとう。今井、ありがとう!」
 太田は、今まで見た中で一番の笑顔を見せてくれた。
「好きだよ、今井……まさか、こんなに一緒に居て、居心地の良い人間に出会えるとは思ってなかった」
 太田も、僕と同じように居心地の良さを感じてくれていたと知って、嬉しくなる。
 僕は太田に比べたら小さな声で、彼に伝える。
「僕もね、好き。約束、絶対だよ」
 僕たちは、テーブルの上で手を握り合う。少しだけ震えているのは、悲しいからじゃない。お互いに緊張しているからだと思った。
 
 ***
 
「今井!」
「あ、太田!」
 大学の合格発表の日、ネットでも合否は確認出来るけど、僕たちは大学に出向いて掲示板で確認することを選んだ。
「太田、背が伸びたんじゃない?」
「今井こそ」
 こうやって、肩を並べるのは何ヶ月ぶりだろう。長い長い、遠距離恋愛は、まだまだ成長期の僕たちに変化を与えていたようだ。
 掲示板の前に立って、自分の番号を確認する。結果は……!
「あ……載ってる」
「俺も!」
「うわ!」
 太田が僕に抱きついてきた。僕は彼の胸に顔をうずめる。
「受かったな、俺ら!」
「……うん!」
 見つめ合って、どちらからともなく、くちびるを重ねた。触れるだけのキス。あたたかい。ファーストキスは、ここに来る前に飲んだ缶コーヒーの味がした。
「ああ、しまった!」
 急に叫ぶ太田に、僕は首を傾げる。
「どうしたの?」
「初チューは、夜景を見ながらする予定だったのに!」
「ふふ……月が綺麗ですね、も聞いてない」
「それは、プロポーズの時に言うの!」
「……ふふ」
「……あはは!」
 笑い合って、もう一度小さくキスをした。
 コートのポケットには、約束のピアスが入っている。早く、これをつけて大学生活を送りたいな。大好きな人と一緒に——。
「さて、と……久しぶりにあの商店街に行ってみようかな!」
「寄り道して良いの?」
「今日は良いの! ほら、古着屋にまだ行ってないだろ? それから……」
 デートだ。
 今日くらいは、ご褒美に楽しんでも良いよね。
 僕たちは手を繋いで歩き出す。
 これからもずっと、こうやって体温を交わし合いたい。そう思った。 

(了)

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