死を受け入れるために
真希さんが献体となってから、堂嶋さんは一層無口になった。
依然、半人前の料理人であるあたしの修行は続いているわけだが、堂嶋さんの口数が減った分、あたしが教えてもらえる内容も減ってしまった。たとえ料理の話であっても、堂嶋さんは饒舌に語らなくなった。加えて、娘の梨花ちゃんも体調がすぐれないらしい。母親に似て心臓が悪いことは聞いていたが、その症状は目に見えて悪化してきている。
この一カ月の間で、二度発作を起こした。
堂嶋さんは出向がない日は定時で仕事を上がるようになり、あたしは毎日一人残って練習をする日々を繰り返しているが、やはり一人でする練習では身につくものはたかが知れていると言いたいが、それでも本来ならば、今頃すでに堂嶋さんはこの世になく、あたしはひとり立ちしていなければならなかったことを考えれば、奇しくもこの時間さえ真希さんに与えられたということになる。
その日は、今年初の台風が列島を直撃して、朝から激しい雨が降り注いでいた。出向の予定もなく、ちいさなアトリエで堂嶋さんとふたり料理の訓練をしていた。倉庫のような簡素なつくりのアトリエの天井や壁を激しい雨がたたき、せっかくのパッヘルベルのカノンの演奏に余計な楽器が加わることになった。
「堂嶋さん。あたし、今日は一人で練習をしておくので、帰っていただいても大丈夫ですよ。梨花ちゃん、きっとさびしがっていると思います」
小学校は台風の影響で休校になっている。元より、梨花ちゃんは最近、学校に行かずに家に引きこもるようになっているということだったが……
堂嶋さんは、あたしの言葉を聞いて、少し迷っていたようだ。いつものまじめで融通の利きにくい堅物の堂嶋さんならば、あたしがそんなことを言ったところで変えるなんて洗濯をすることはなかっただろう。
にもかかわらず、あたしがそんなことを言い出したのは、堂嶋さんが迷ったのは、それだけ最近梨花ちゃんの様子がおかしいと感じていたからだ。
そして、その迷いに堂嶋さんが結論を出すことはなかった。
アトリエの備え付けの電話のベルが鳴り、堂嶋さんが素早く電話に出る。
「――はい。――はい。――わかりました。すぐにうかがいます」
無言で返事だけを繰り返していた堂嶋さんがコックコートの上に一枚、薄手のジャケットを羽織ると、
「すまないが、今日は帰るよ。香里奈君も、雨が少し落ち着いたタイミングを見て帰った方がいい」
そう言ってアトリエを出た。
あたしはひとりアトリエで過ごし、雨は午後になっても衰えることはなく、夕方になってさらに激しさを増した。あたしは寮へ一本電話を入れ、今日は帰れないことを寮母に告げた。激しい雨の中、アトリエで一晩を過ごした。
目を覚ましたのは翌朝六時ごろで、カウンター席に突っ伏したまま眠りに落ちていたようだ。
昨夜の雨の激しさがまるで夢であったかのような静けさに違和感を覚え、カーテンをあけて窓の外を見た。朝日が差し込み、澄み切った空から黄色い太陽がその光線を辺り一面の水たまりに反射して、それはキラキラと光り輝く幻想的な世界に見えた。
そこに、赤い、人工的な照明がひとつ、ふたつ……
水たまりに反射してせっかくの景色を台無しにしてしまう。朝早いこともあって気を使っているのだろうか、赤い照明こそくるくると品のない回転をしているにもかかわらず、サイレンの音は消しているようだ。黒と白のツートンカラーの車両がそろって水たまりをしぶきをあげながらやってきて、アトリエの前で停車する。
前の車両からスーツ姿の男が二人、禿げたノッポと出っ歯のちびが降りてくる。禿げたノッポがスーツの上に着ているトレンチコートは夏にもかかわらず、厚手の素材で、まるで彼らの制服であると言わんばかりの印象だ。後ろの車両からは、防弾ベストを着た警察官が二人。
アトリエの入り口を開けて出迎えたあたしに、先頭の禿げたノッポが「わたくし――」と、常套句を言いながら、菊の装飾の施された黒い手帳を見せる。そこまでしてくれなくてもそのくらいはわかる。
「どうか……したんですか?」
「こちらは、堂嶋哲郎さんのアトリエで間違いないですかな? 失礼ですがあなたは……」
「あ、あたし、牧瀬香里奈と言います。その……堂嶋さんの……弟子?」
初対面の相手にする質問ではない。
「昨日から向こう、堂嶋さんはこちらには来てませんか?」
「え? あ、はい。昨日……、昼ごろに電話があって、そのまま帰られました。それからは、何の連絡もありません……けど……なに
が、あったんですか?」
「……はい。昨夜、堂嶋哲郎さんが、○○総合病院から娘、堂嶋梨花の遺体を持って姿を消しました。遺体は本来死後すぐに適切な処理を行い、遺体管理局が……あ、いや、人肉調理師の方にこんな説明をする必要もありませんね」
なにを言っているのかまるで分らなかった。
聞きたいことは山ほどある。
「あ、あの……梨花ちゃんの遺体って……おっしゃいました?」
「は、はあ……聞いておられませんか?」
あたしは黙って肯く。
「昨日、堂嶋梨花さんはマンションのベランダから落下して死亡しました。ベランダの手すりの位置は高く、事故の可能性はありません。それにベランダの内側には足踏み台に使われたと思われる椅子があったことから、自殺であったと断定しています。
病院に運ばれ面会に来ていた堂嶋氏は遺体とともに姿を消しました。雨の中娘をの遺体を連れ出したのではないかとみて捜査をしています。娘、梨花さんの遺体は頭蓋骨裂傷以外には目立った外傷もなく、まだ幼い子供であったことからその食料としての価値は高く、当局に収められるべきその遺体を持ち逃げしたことは窃盗罪に当たり……」
淡々と事件の経緯を語る刑事の言葉に頭の中は真っ白になっていった。
「――心当たりはありませんか?」
その言葉を聞いたところまでは憶えている。その後、意識をすっかり失ってしまったあたしが、質問に答えたのかどうかはわからない。
意識が戻ったのは一時間ほど過ぎた頃。アトリエの椅子をくっつけて作った簡易ベッドのうえで横になっていた。体の上に、刑事の着ていたトレンチコートがかけられている。アトリエの中には先程のノッポの刑事が一人で立っている。トレンチコートは当然着ておらず、腕を組み、革靴のつま先をトントンと鳴らしながら何かを考え込んでいる様子だ。窓の外ではちびの刑事が制服の警察官相手に指示を出しながら、携帯電話でも、その向こう側の様子を聞きつつせわしなく過ごしている。
立ち上がり、コートを折りたたみながらノッポの刑事に近づいていく。
「気が付かれましたか?」
「はい……あの……その後、堂嶋さんは……」
まだ少しだけボーっとした頭を抱え、気を失う前に何があったのかを思い出しながら話を続ける。にわかには信じがたいような話だ。
「まだ、見つかっていません。今、必死で探しているところです。あと、申し訳ありませんが、あなたにはまだ帰っていただくわけにはいきません。被疑者とあなたが共犯だという可能性を捨てきれませんし、いずれここに連絡があるかもしれません。それまで、申し訳ありませんが我々と行動を共にしてもらうようになります」
優しい言葉を使ってはいるが、その内容は厳しいものだ。嫌疑はあたしにも向けられており、いわばここに軟禁されている状態だということだ。加えて、堂嶋さんのことを『被疑者』と呼んだことが気に障る。堂嶋さんは堂嶋さんであり、堂嶋梨花の父親と呼ばれることはあっても、被疑者などと呼ばれる筋合いはない。
しかし、そんな気持ちはぐっとかみ殺す。
「あ、コーヒー……でも、淹れましょうか?」
アトリエとは言うものの、普通の人からすればここはキッチンであるに違いない。当然コーヒーを入れるくらいのセットは整っているが、刑事たちが自らお茶を入れようとした痕跡はないのは当然と言えば当然だ。あたしが気を失っているというのであれば他人の家に勝手に上り込んでいるようなもの。
「何人……いらっしゃるんですかね……」
「あ、いえいえ、そんなのはおきになさらずに」
形式ばったその言葉を無視して、おおきめのサイフォンでまとめてペーパドリップで落とす。ひとりひとり丁寧にネルドリップで落としてやる必要なんてない。
淹れたてのコーヒーに口をつけた刑事は、「いや、さすがにプロのいれるコーヒーと言うものは違いますな。わたしらが普段飲んでいるのとはまるで違う」などとつまらないお世辞を言う。違いなんてあるものか。一番安いコーヒーをこだわることなく機械で淹れた
だけのコーヒーだ。
しばらくの間、あたしはその刑事と世間話をした。堂嶋さんのことについて何らかの情報を聞き出すためのものだろう。当たり障りのない質問ばかりだったが、堂嶋さんに変な疑いがかからないように気を遣いながら言葉を選んだ。
夕方までにおおきめのサイフォンで五度以上コーヒーを淹れなおした。二人の刑事のほかは入れ替わりで次々といろんな刑事が訪れる。全部で何人いたかはわからないが、皆、何の遠慮もなくコーヒーを飲んでいく。少しばかりお腹は減っていたが、彼らの食事を作ってやったりはしなかった。ちびの刑事がどこかのコンビニで買ってきたお弁当が配られ、アトリエの電子レンジで温め直して食べた。
ノッポはあたしとの話に区切りがつくたびにアトリエの外に出て携帯電話で誰かに連絡を取った。ひょっとするとあたしとの会話の中からなにがしかのヒントを見つけだし、捜査に反映させていたのかもしれない。
夕方頃になったノッポの携帯電話の会話、
「そうか、ごくろうだった」
短い返事をして電話を切ったノッポは、あたしのもとにやってきて、
「今日は、帰っていただいて結構です。先程、堂嶋哲郎の身柄を確保しました」
「あの……堂嶋さんはどこに……」
「それはまた、あらためてご連絡させていただきます」
翌日、警察署で一日中事情聴取が執り行われ、あたしに共犯の嫌疑がかけられていないということがわかった。堂嶋さんは事件当日、病院で遺体となった娘、梨花ちゃんの遺体を担いで病院を抜け出し、東京郊外のキャンプ場に車を止め、そこから登山道へと上がっていった。台風が到来する中、子供の遺体を担いだままで登頂した堂嶋さんは、翌日、山頂で梨花ちゃんの遺体を胸に抱いていたところを警察によって確保された。堂嶋さんは遺体と共にドライアイスも持って登山しており、暑い夏の日に一日放置されていたにもかかわらず、梨花ちゃんの遺体は腐敗することもなくきれいな状態で無事確保されたという。
あたしが堂嶋さんと面会できたのは、さらに翌日の午後のことだった。なかなか着馴れないリクルートスーツに身を包み、留置所の入り口を抜けて、ガラス戸越しに堂嶋さんと顔を合わせる。彼の顔は憔悴しきっている。目は落ちくぼみ、覇気がなく、無精髭も数日分しっかりと伸びている。うつむいて、目を合わせようとしない。
あたしは、まるで堂嶋さんに初めてであったかのような口ぶりで彼にあいさつをする。
「わたくし、人肉調理師の牧瀬香里奈と申します。この度、故堂嶋梨花さんの遺体調理の担当をさせていただくことになりました――」
何度も聞き覚えたそのフレーズを、まるで試験官に言って見せるかのように披露する。言葉の意味は、初めて自分の口にして重みを知った。堂嶋さんが知らないはずのない人肉調理に関するひととおりの説明を淡々とこなしながら、堂嶋さんが奥さんに対してそうしていた時のことを思いだす。こうして、形式どおりの言い方をしなければとてもまともではいられなくなるのだ。
通常、業務の上で説明することのなかった、『たとえ罪を犯し、服役中であっても遺族が故人の体を食べる権利は変わらない』と言う旨を説明したのち、調理の希望を聞いたが、堂嶋さんは何も言ってはくれなかった。それどころか、あたしの顔を見ても表情一つ変えることなく、どんな些細な言葉でさえもかけてはくれなかった。
堂嶋さんは、すでに死んでいるに等しかった。生きている意味を完全に失ってしまったと思い込んでいる彼に、生きている自分を感じる必要すらない。
「それでは、すべてこちらにお任せする。と言うことでよろしいですか?」
返事はない。
「それではこちらの方にサインを」
用紙を取り出すが、直接手渡すことはできない。ひとまず看守に渡し、ガラスの向こう側の堂嶋さんに手渡される。堂嶋さんはうつむいたまま、用紙には目もくれなかった。
「堂嶋さん!」
思わず、素に戻って声を張り上げるが、やはり堂嶋さんは身動き一つしなかった。
しばらくして、看守に無理やりペンを掴まされ、半ば強引にサインをさせられた。本人の意思のまったく感じられない、読み取ることもできないようなきたない文字でサインをされた用紙を受け取り、一礼をしてその場を立ち去った。
翌日、あたしは調理のために拘置所へと赴いた。逮捕された堂嶋さんは検察質問のため、警察署から留置所へと移送されていた。堂嶋さんに面会する余裕も与えられないままあたしが通されたのは拘置所の調理室だった。施設の割には小さな設備で、自由に使っていいとのことだった。調理室自体はとても清潔に手入れされていて、調理設備もオーブンやフライヤーと言った最低限のものはそろっていた。一見すれば、これと言った問題点は見当たらない。しかしこの調理室には手鍋や小さなフライパン、ソースパンのようなものは一切ない。どれも大きな鍋やフライパンばかりで、小回りの利く道具は何もない。ここは料理を作る場所ではなく、人間のエサを準備する場所なのだとわかった。人間が最低限生きていくために必要な餌を効率よく準備するための施設なのだと。いや、それもいたしかたのないことなのかもしれない。ここで作られた餌を食べるのは罪を犯した人間、あるいはその嫌疑がかけられている者なのだ。その者達に生きる権利と食べる権利が与えられているだけ充分だ。健全で善良に生き、ひとを愛し、子を産み育てた人間が生きる権利を失うことに比べれば、十分すぎるほどの処遇だと言える。本来、生きる価値など無く、餌にならなければならない人間と言うのは、ひとを愛することもできず、子を産み、育てる必要もない、あるいはその権利を放棄した人間の方ではないのかとも思えてしまう。
しかし、それを言い出せば、人類の選択が間違いだったということになる。
我々人類は、その種の存続のため、新たなルールを作り、それを守ることで生きながらえるという知恵を持っている。たとえそのルールが本質的に間違っているとしても、ときにルールとは正義さえも凌駕する。
あたしは、キッチンのストーブに火を入れる。フライパンはアトリエから一枚、持参してきてよかったと思う。堂嶋さんが永年使い続けた鉄のフライパンだ。鉄板の芯まで熱の通ったそのフライパンは、すでに油がなじんでいて、ほんのわずかな油脂を入れて加熱するだけで焦げ付くことはない。
小さな発泡スチロールの蓋を開き、中から緩衝剤にくるまれている肉の塊を取り出す。
小さな、きれいな円柱型の肉の塊は、ほんのりと薄ピンク色に染まり、その中央には、真っ白で無垢な骨の断面が見える。
あたしが遺体管理局に申請したのは、梨花ちゃんの上腕部の輪切りだ。初めて出会った時、その白くて柔らかい、女性らしさの際立つ上腕筋に噛みつきたいと言う衝動があった。それを実現するためのエゴと言うわけではないが、その断面を実際に見るとどうなっているかと言うことには興味があったことは否めない。
こうして断面で見ると、人間の皮膚の皮と言うものは意外と分厚い。たぶん文明的な人間が、野生動物のように外から噛みつき、この皮膚を食いちぎって中の肉を食べるのは無理なのではないかと思う。皮膚と肉との間にペティナイフを先端から差し込み、向こうまで貫通させると、そのナイフを下にして、まな板とナイフで皮膚を挟み込むようにして上から圧を掛ける。ゆっくりとナイフを手前に引きながら、円柱型の肉がタイヤを転がすように動かす。くるりと一周したところで肉と、輪っか状に切り取られた皮膚とに分かれる。
皮膚の取り除かれた上腕部に塩胡椒をしっかりとふり、熱したフライパンに乗せる。底が焦げ付かないように初めは少し油脂を馴染ませるようにフライパンをゆするが、その後はなるべく一点から移動させないようにする。片面を七割焼いて裏返し、反対を二割焼く、余熱でちょうど芯まで加熱するように心掛ける。中央の骨の髄液が沸騰して、真っ白だった骨をピンク色に染める。焼きあがった肉は、白いお皿の中央に置き、それで完成。
今日は、ソースも付け合せもなければパンもスープもない。ただ、炎で焼かれた娘の腕があるだけだ。堂嶋さんは、この食事を味わおうなんてまるで思ってなどいない。堂嶋さんが必要なのは……
食事の場所は、無機質で何もない四角い部屋が用意された。そこには小さなテーブルと椅子が二つあるだけで、あとのほかには何もない。テーブルの真ん中に立った一枚の皿が置かれ、一方の椅子にドレス姿に着替えたあたしが座る。以前に堂嶋さんと人肉料理店に行くために新調された、背中の大きく開いた青いドレスだ。あれ以来、一度も袖を通す機会がなかった。
やがて、堂嶋さんがその部屋に訪れた。昨日より一日の時間を過ぎたが、その姿は十年ほど憔悴したように見える。
向かいの椅子に座り、看守が部屋を離れ、二人きりになる。堂嶋さんは、テーブルの上に置かれたみすぼらしい料理を見つめる。何も言わない。
「さあ堂嶋さん。召し上がってください。――冷めないうちに……」
「……」
「食べないんですか?」
「これは……」
「いいですか、耳をふさがないでちゃんと聞いてくださいね。これは、梨花ちゃんの腕の肉です。シンプルに、塩胡椒で焼いただけのものです」
――シンプル。その言葉で形容するにはいささかみすぼらしすぎる料理だ。今の堂嶋さんに必要なのは、美味しい料理ではない。すでに娘は死んでしまって、これっぽっちの肉の塊になってしまったのだと認識することだ。
梨花ちゃんの死を受け入れること、それが堂嶋さんにとって必要なことだ。
「さあ、堂嶋さん。召し上がってください……」
「……僕が、娘の肉を本当に食べたいなんて思ってるわけじゃないだろ……」
「ええ、わかっています。でも、食べなきゃいけないんです……
梨花ちゃんの死を受け入れるためにも……
梨花ちゃんも、今の堂嶋さんと同じことを考えていたんですよ、きっと……
だから、おかあさんの肉をどうしても食べられなかった。
お母さんの死をどうしても受け入れることが出来ずに、その事実自体か逃げ出してしまった。
その結果……梨花ちゃんはどうなりました?
家族の死を受け入れるのはきっととてもつらいことなのでしょう。でも、それを受け入れないと、今度は堂嶋さんが死んでしまうことになるんです」
「……構わないさ。僕には……もう、生きる理由なんて残されていない。妻を失い、子を失い、僕はこれから生きていくことに何の意味もなくなってしまったよ。
時々思うんだ。もしあの時、献体になったのが妻ではなくて僕の方であったのならば、梨花は僕の肉を食べ、今もなお生き続けていたんじゃないかって……
――次の世代に命をつなぐ。それこそが人間が生きることの意味だと僕は思っている。自分と言う存在が、今ここにあったということを証明するために、その遺伝子をつないでいくことこそが生物の生きる意味であり、その意味を失ってしまった以上、僕に生きる意味なんてないんだよ。いっそのこと自分の体を献体にでも差し出した方がいい。こんな僕でも、誰かの食べ物になることでぐらいならその存在価値もあるだろう」
「なにを……言っているんですか……」
あたしは少しだけ、憎しみのこもった口調で答えた。
「堂嶋さんに生きる価値がないなんて、勝手に決めないでください。堂嶋さんの、今までしてきた仕事で、いったいどれだけの人が幸せになれたと思っているんですか? これから先、どれだけの人を幸せにできると思っているんですか?
自分に生きる意味がないなんて、勝手なこと言わないでください。生きる意味がないなんて思うのなら、それを捜すために生きるでもいいじゃないですか。そんなこと自分で勝手に決めないでください!」
「で、でも、僕は……」
「生きて! ください……」
あたしは思わずその場で立ち上がった。次の瞬間、テーブルの上に置かれた皿の上にある、梨花ちゃんの腕の肉を手でわしづかみにして、それを自分の口元に運ぶ。
弾力のあるその肉にしっかり歯を立てて固定し、手で引きちぎるようにしてむさぼった。
口の中で、堅くてい生臭い味が全体に広がっていく。それでも、まだ幼い彼女の肉は成人の筋肉に比べればまだまだやわらかい方だ。飲みこむためには何度も何度も咀嚼しなくてはならない。
はっきり言って、美味しい肉だとは言えない。高いお金を払ってまで食べるような料理なんかでは絶対にない。それでも、ひとがその肉を食らうのには理由がある。肉を食べるという行為は、その生き物の死を乗り越えて生きて行かなくてはならない使命が存在する。肉を食べたぶん、その肉に対して、その生物の命を預かり、これから先まだまだ生き続けることを誓うという儀式なのだ。
命を食べないという理由で、ベジタリアンと言う考え方もあるが、それはひとつの意味では生きることに責任を取らないという意味でもある。すべての生き物が生きるためには必ずほかの生き物を犠牲にする必要があり、その覚悟を決めるために人は肉を食べるのだ。
何度も何度も咀嚼をし、ようやく口の中でやわらかくなりはじめた梨花ちゃんの肉を、あたしはそのまま飲みこんだ。肉が食道を通り、胃の中へと落ちていく。梨花ちゃんの体の一部が自分の体の一部となり、彼女の死を乗り越えて自分が生きていくことを誓う。
「次は、堂嶋さんの番です!」
あたしは手に握った梨花ちゃんの肉を堂嶋さんへと差し出す。
「食べてください! 食べるということは、生きるということです!」
うつむいたままの堂嶋さんはそれを受け取ろうとはしない。
ここまで来てもやはり覚悟が決められず、うじうじとしている。
「さあ」
肉をわしづかみにした自分の手をさらにもう一歩、押し付けるように差し出す。
気迫に押された堂嶋さんが、いよいよその手に握られた肉を凝視する。いや、正確にはその肉を掴んでいるあたしの手。あたしの指にはめられた指輪を見ている。
「すっかり、無くしたものだとばかり思っていた…… どうして香里奈君がこれを……」
「奥さんから、いただきました……。形見として」
堂嶋さんの奥さん、真希さんが献体となる直前、あたしに形見として託したその小さな袋の中には、一本の指輪が入っていた。シンプルなデザインのその指輪が、堂嶋夫妻の結婚指輪だということぐらいは考えなくたってわかる。彼女がどういう気持ちで、この指輪をあたしに託したのか。
『あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん』
あの時、真希さんはいつかこのような日が来ることを予測して、その時に堂嶋さんの支えになってほしいということを言っていたのだろうか。
あるいはもっと、あたしの根の部分を、あの時彼女はすべて見抜いていたのかもしれない。
「奥さんは、あたしにすべてを託してくれました。だからあたしは、何としてでも堂嶋さんを生かさなくちゃいけないんです。真希さんは、堂嶋さんがこれから先も、ずっと強く生き抜くことを期待して、いや、信じていたはずです。
だから……さあ……」
あたしから差し出された肉を、堂嶋さんはそっと両手でやさしくつつみこむように受け取る。その目には、うっすらと涙が滲んでいる。
堂嶋さんは、そのまま両手で肉を口へと運ぶ。
黙ったまま、堂嶋さんは何度も何度も肉をかみしめ、そして飲みこんだ。
しばらくの沈黙の後、堂嶋さんは少しだけ落ち着きを取り戻した。そして、肉の残り全てを平らげる。骨をしゃぶり、肉の一辺も残さないようにきれいに食べつくした。
「堂嶋さん。ひとつうかがってもいいですか?」
「なんだ?」
「味、おいしかったですか?」
「……………」
「あたしの作った料理、美味しかったですか?」
「おいしいわけがない」
「落第……ですね」
「あたりまえだ。大体なんだこの焼き加減は、片面に熱が入りすぎて肉がパサついている。胡椒を先にふってあったにもかかわらず、こんなに強く焼いてしまったんじゃあせっかくの胡椒の風味が飛んでしまっている。今まで何を勉強してきたというんだ。
いいか、肉の調理はたった一回、食べる側も、食べられる側もたった一回しかチャンスがないというのに、その大切な一回をこんないい加減な料理を作るようでは人肉調理師としてやっていけるわけがない」
「……そうですか……それは……よかった……です……」
「よかった?」
「いつも通りの堂嶋さんのダメ出しが聞けて良かったです。それに、落第したから、あたし、まだしばらくは独立して仕事を受けるわけにはいかないみたいです……
たった一回の料理を台無しにしてしまったあたしは、これから一生かけて梨花ちゃんと堂嶋さんに償いをしなければいけないし、明日からも堂嶋さんにしっかり指導してもらうことになりそうです……」
「指導? 残念だけど、僕にはその資格はもうないよ……」
「そ、そんなことないです。堂嶋さんは、あすからまた、現場に復帰することになります。まだ、報告聞いてませんか?」
「報告?」
「堂嶋さん、不起訴になったみたいです」
「不起訴? な、なぜ?」
「そ、それは……」
それは、あたしからの口添えがあったということがひとつある。あの日、刑事に堂嶋さんの行方について聞かれた時、ついうっかりあたしは本当のことを言ってしまった。もしかすると、山に登ったのかもしれないと。言ったあたしはすぐにしまったと思った。堂嶋さんが梨花ちゃんの遺体を持ち出したというのならば、あたしはそれを手助けするべきではなかっただろうかと。
苦し紛れにあたしはすぐに言葉をつづけた。
『人肉を最もおいしく下処理するためには高原に咲くハーブに漬け込むのが最良だと言っていました。それをとりにいたのではないでしょうか』
もちろん、そんなことは全部嘘っぱちだ。しかし、料理知識のない刑事がその話を鵜呑みにしたとしておかしくはないだろう。ただでさえ一人娘が死んだのだ。料理人として、その娘を最も最高の形で食べたいと思うのは当然のことだろう。
奇しくも堂嶋さんはあたしの言った通り、梨花ちゃんを担いで山に登っていたのだが、その時に腐敗防止のためにドライアイスを一緒に持って登ったということが功をなした。
検事は、堂嶋哲郎は堂嶋梨花の遺体を持ち逃げしようとしたわけではないという判断を下した。
あるいは、検事はすべてお見通しだったかもしれない。その検事は、二か月後に息子が十歳の誕生日を迎え、自らが献体となることが決まっていると話していた。たった一度の自分の体を使った料理を家族にふるまうチャンスに、最高の料理人がいないなんてことを避けたかっただけなのかもしれない。今回の件で借りのできた堂嶋さんが、彼の調理を断るなんてできるわけがないだろう。
もちろんあたしは、そんな事実をいちいち堂嶋さんに説明したりなんかはしない。
ただ一言。
「堂嶋さんを、必要としている人がたくさんいるっていうことです」 と、説明しておいた。
「もちろん。あたしもその一人です」と補足をしておく。
短い食事を終えたあたし達は手続きを済ませ、留置所を後にする。
外に出ると、容赦なく降り注ぐ夏の太陽がアスファルトを溶かして陽炎をつくっている。死んでしまった人間自体はもうどこにもいない。後になって思えばその人間が生きていたこと自体が、陽炎のごとく、本当に存在していたかどうかさえ分からなくことがある。
しかし、今の自分が生きていること自体が、誰かが生きてきたことの証明なのだろう。
足取りのおぼつかない堂嶋さんがきょろきょろとあたりを見わたした。
「堂嶋さん……」
あたしが言った。
「なんだい?」
となりにならんだ堂嶋さんはこちらを向くでもなく、まっすぐと前を、あたしと同じ方向を向いたまま答えた。
その方が都合がいい。正面を向きあって、こんなこととても言えない。
「堂嶋さん。あたしと子供をつくりませんか?」
「え……、な、何を……」
「堂嶋さんは、妻も子もいない世の中ならば、生きていても仕方がないなんて言いましたよね?
それって、あたし的にはちょっとショックだったんです。
あたしは結婚なんてしていなければ、子供だって産んでいない。だとしたら、あたしなんて生きている意味がないってことになります」
「い、いや、そういう意味で言ったんでは……」
「はい…… わかっていますよ。あたしだって、妻や子供がいない人が生きている意味ないなんて思っていません。さっきあたしがそれを堂嶋さんに言ったばかりです。
でもですね、堂嶋さんいそれを言わせるくらいに、子供をつくることって素晴らしいことなのかなって思うわけです。
だったら、あたしもそれを経験してみたい…… そう思うんですよ。
だって、たった一度の人生なんだから、そんなに素晴らしいもの、経験したいじゃないですか」
「でも、世間は子供をつくることに対してやさしくはない。命を、捨てる覚悟がいるんだ……」
「たしかにそうですね。あたしだって、正直死にたいなんて思っていません。でも、生きている意味なんてない。死にたいと思っているくらいの人がいるなら、それはそれでちょうど都合がいいかなと……」
「それが……僕だっていうことだね……」
「堂嶋さんは、生きる意味もないみたいに考えているみたいですけど、生きる意味がないなら意味をつくればいいんですよ。真希さんや、梨花ちゃんは、この世に子孫を残すことが出来なくなってしまいました。でも、彼女たちは堂嶋さん、あなたの体の一部になっているはずです。だからこそ、今のその体で子孫をつくるんです。
堂嶋さんの子供をあたしが産んで、その10年後に堂嶋さんが献体になればいいんですよ。それが、一番無駄がないです。
堂嶋さんの体は、あたしが責任を持って料理して、あたしと子供でおいしく食べてしまいます。
これって、すてきな提案だと思いませんか?」
「素敵かどうかはさておき……
ひどい殺し文句だと思うよ、僕は……
だが、一つ言っておくが、君の腕ではまだまだ僕を満足に調理することはできないだろう。だから、その答えは今のところ保留にしておくよ」
「わかりました。それじゃああたし、しっかり訓練をして、立派な人肉調理師になって見せますよ。そしたらその時、あたしのために、食料になってくださいね」
「ああ、考えておく……」
「あ、それと……」
「まだ、なにかあるのか?」
「はい。あたしが堂嶋さんとの子供を産みたい理由って、何も堂嶋さんが死にたがっているからってだけじゃあないですよ。
あたし、堂嶋さんとじゃなきゃ、駄目だなって思うんです。子供をつくるのなら、堂嶋さんの子じゃなきゃ嫌だなって……」
――ねえ、堂嶋さん……
――もしかして、これが〝愛〟っていう感情ですかね?
真希さんが献体となってから、堂嶋さんは一層無口になった。
依然、半人前の料理人であるあたしの修行は続いているわけだが、堂嶋さんの口数が減った分、あたしが教えてもらえる内容も減ってしまった。たとえ料理の話であっても、堂嶋さんは饒舌に語らなくなった。加えて、娘の梨花ちゃんも体調がすぐれないらしい。母親に似て心臓が悪いことは聞いていたが、その症状は目に見えて悪化してきている。
この一カ月の間で、二度発作を起こした。
堂嶋さんは出向がない日は定時で仕事を上がるようになり、あたしは毎日一人残って練習をする日々を繰り返しているが、やはり一人でする練習では身につくものはたかが知れていると言いたいが、それでも本来ならば、今頃すでに堂嶋さんはこの世になく、あたしはひとり立ちしていなければならなかったことを考えれば、奇しくもこの時間さえ真希さんに与えられたということになる。
その日は、今年初の台風が列島を直撃して、朝から激しい雨が降り注いでいた。出向の予定もなく、ちいさなアトリエで堂嶋さんとふたり料理の訓練をしていた。倉庫のような簡素なつくりのアトリエの天井や壁を激しい雨がたたき、せっかくのパッヘルベルのカノンの演奏に余計な楽器が加わることになった。
「堂嶋さん。あたし、今日は一人で練習をしておくので、帰っていただいても大丈夫ですよ。梨花ちゃん、きっとさびしがっていると思います」
小学校は台風の影響で休校になっている。元より、梨花ちゃんは最近、学校に行かずに家に引きこもるようになっているということだったが……
堂嶋さんは、あたしの言葉を聞いて、少し迷っていたようだ。いつものまじめで融通の利きにくい堅物の堂嶋さんならば、あたしがそんなことを言ったところで変えるなんて洗濯をすることはなかっただろう。
にもかかわらず、あたしがそんなことを言い出したのは、堂嶋さんが迷ったのは、それだけ最近梨花ちゃんの様子がおかしいと感じていたからだ。
そして、その迷いに堂嶋さんが結論を出すことはなかった。
アトリエの備え付けの電話のベルが鳴り、堂嶋さんが素早く電話に出る。
「――はい。――はい。――わかりました。すぐにうかがいます」
無言で返事だけを繰り返していた堂嶋さんがコックコートの上に一枚、薄手のジャケットを羽織ると、
「すまないが、今日は帰るよ。香里奈君も、雨が少し落ち着いたタイミングを見て帰った方がいい」
そう言ってアトリエを出た。
あたしはひとりアトリエで過ごし、雨は午後になっても衰えることはなく、夕方になってさらに激しさを増した。あたしは寮へ一本電話を入れ、今日は帰れないことを寮母に告げた。激しい雨の中、アトリエで一晩を過ごした。
目を覚ましたのは翌朝六時ごろで、カウンター席に突っ伏したまま眠りに落ちていたようだ。
昨夜の雨の激しさがまるで夢であったかのような静けさに違和感を覚え、カーテンをあけて窓の外を見た。朝日が差し込み、澄み切った空から黄色い太陽がその光線を辺り一面の水たまりに反射して、それはキラキラと光り輝く幻想的な世界に見えた。
そこに、赤い、人工的な照明がひとつ、ふたつ……
水たまりに反射してせっかくの景色を台無しにしてしまう。朝早いこともあって気を使っているのだろうか、赤い照明こそくるくると品のない回転をしているにもかかわらず、サイレンの音は消しているようだ。黒と白のツートンカラーの車両がそろって水たまりをしぶきをあげながらやってきて、アトリエの前で停車する。
前の車両からスーツ姿の男が二人、禿げたノッポと出っ歯のちびが降りてくる。禿げたノッポがスーツの上に着ているトレンチコートは夏にもかかわらず、厚手の素材で、まるで彼らの制服であると言わんばかりの印象だ。後ろの車両からは、防弾ベストを着た警察官が二人。
アトリエの入り口を開けて出迎えたあたしに、先頭の禿げたノッポが「わたくし――」と、常套句を言いながら、菊の装飾の施された黒い手帳を見せる。そこまでしてくれなくてもそのくらいはわかる。
「どうか……したんですか?」
「こちらは、堂嶋哲郎さんのアトリエで間違いないですかな? 失礼ですがあなたは……」
「あ、あたし、牧瀬香里奈と言います。その……堂嶋さんの……弟子?」
初対面の相手にする質問ではない。
「昨日から向こう、堂嶋さんはこちらには来てませんか?」
「え? あ、はい。昨日……、昼ごろに電話があって、そのまま帰られました。それからは、何の連絡もありません……けど……なに
が、あったんですか?」
「……はい。昨夜、堂嶋哲郎さんが、○○総合病院から娘、堂嶋梨花の遺体を持って姿を消しました。遺体は本来死後すぐに適切な処理を行い、遺体管理局が……あ、いや、人肉調理師の方にこんな説明をする必要もありませんね」
なにを言っているのかまるで分らなかった。
聞きたいことは山ほどある。
「あ、あの……梨花ちゃんの遺体って……おっしゃいました?」
「は、はあ……聞いておられませんか?」
あたしは黙って肯く。
「昨日、堂嶋梨花さんはマンションのベランダから落下して死亡しました。ベランダの手すりの位置は高く、事故の可能性はありません。それにベランダの内側には足踏み台に使われたと思われる椅子があったことから、自殺であったと断定しています。
病院に運ばれ面会に来ていた堂嶋氏は遺体とともに姿を消しました。雨の中娘をの遺体を連れ出したのではないかとみて捜査をしています。娘、梨花さんの遺体は頭蓋骨裂傷以外には目立った外傷もなく、まだ幼い子供であったことからその食料としての価値は高く、当局に収められるべきその遺体を持ち逃げしたことは窃盗罪に当たり……」
淡々と事件の経緯を語る刑事の言葉に頭の中は真っ白になっていった。
「――心当たりはありませんか?」
その言葉を聞いたところまでは憶えている。その後、意識をすっかり失ってしまったあたしが、質問に答えたのかどうかはわからない。
意識が戻ったのは一時間ほど過ぎた頃。アトリエの椅子をくっつけて作った簡易ベッドのうえで横になっていた。体の上に、刑事の着ていたトレンチコートがかけられている。アトリエの中には先程のノッポの刑事が一人で立っている。トレンチコートは当然着ておらず、腕を組み、革靴のつま先をトントンと鳴らしながら何かを考え込んでいる様子だ。窓の外ではちびの刑事が制服の警察官相手に指示を出しながら、携帯電話でも、その向こう側の様子を聞きつつせわしなく過ごしている。
立ち上がり、コートを折りたたみながらノッポの刑事に近づいていく。
「気が付かれましたか?」
「はい……あの……その後、堂嶋さんは……」
まだ少しだけボーっとした頭を抱え、気を失う前に何があったのかを思い出しながら話を続ける。にわかには信じがたいような話だ。
「まだ、見つかっていません。今、必死で探しているところです。あと、申し訳ありませんが、あなたにはまだ帰っていただくわけにはいきません。被疑者とあなたが共犯だという可能性を捨てきれませんし、いずれここに連絡があるかもしれません。それまで、申し訳ありませんが我々と行動を共にしてもらうようになります」
優しい言葉を使ってはいるが、その内容は厳しいものだ。嫌疑はあたしにも向けられており、いわばここに軟禁されている状態だということだ。加えて、堂嶋さんのことを『被疑者』と呼んだことが気に障る。堂嶋さんは堂嶋さんであり、堂嶋梨花の父親と呼ばれることはあっても、被疑者などと呼ばれる筋合いはない。
しかし、そんな気持ちはぐっとかみ殺す。
「あ、コーヒー……でも、淹れましょうか?」
アトリエとは言うものの、普通の人からすればここはキッチンであるに違いない。当然コーヒーを入れるくらいのセットは整っているが、刑事たちが自らお茶を入れようとした痕跡はないのは当然と言えば当然だ。あたしが気を失っているというのであれば他人の家に勝手に上り込んでいるようなもの。
「何人……いらっしゃるんですかね……」
「あ、いえいえ、そんなのはおきになさらずに」
形式ばったその言葉を無視して、おおきめのサイフォンでまとめてペーパドリップで落とす。ひとりひとり丁寧にネルドリップで落としてやる必要なんてない。
淹れたてのコーヒーに口をつけた刑事は、「いや、さすがにプロのいれるコーヒーと言うものは違いますな。わたしらが普段飲んでいるのとはまるで違う」などとつまらないお世辞を言う。違いなんてあるものか。一番安いコーヒーをこだわることなく機械で淹れた
だけのコーヒーだ。
しばらくの間、あたしはその刑事と世間話をした。堂嶋さんのことについて何らかの情報を聞き出すためのものだろう。当たり障りのない質問ばかりだったが、堂嶋さんに変な疑いがかからないように気を遣いながら言葉を選んだ。
夕方までにおおきめのサイフォンで五度以上コーヒーを淹れなおした。二人の刑事のほかは入れ替わりで次々といろんな刑事が訪れる。全部で何人いたかはわからないが、皆、何の遠慮もなくコーヒーを飲んでいく。少しばかりお腹は減っていたが、彼らの食事を作ってやったりはしなかった。ちびの刑事がどこかのコンビニで買ってきたお弁当が配られ、アトリエの電子レンジで温め直して食べた。
ノッポはあたしとの話に区切りがつくたびにアトリエの外に出て携帯電話で誰かに連絡を取った。ひょっとするとあたしとの会話の中からなにがしかのヒントを見つけだし、捜査に反映させていたのかもしれない。
夕方頃になったノッポの携帯電話の会話、
「そうか、ごくろうだった」
短い返事をして電話を切ったノッポは、あたしのもとにやってきて、
「今日は、帰っていただいて結構です。先程、堂嶋哲郎の身柄を確保しました」
「あの……堂嶋さんはどこに……」
「それはまた、あらためてご連絡させていただきます」
翌日、警察署で一日中事情聴取が執り行われ、あたしに共犯の嫌疑がかけられていないということがわかった。堂嶋さんは事件当日、病院で遺体となった娘、梨花ちゃんの遺体を担いで病院を抜け出し、東京郊外のキャンプ場に車を止め、そこから登山道へと上がっていった。台風が到来する中、子供の遺体を担いだままで登頂した堂嶋さんは、翌日、山頂で梨花ちゃんの遺体を胸に抱いていたところを警察によって確保された。堂嶋さんは遺体と共にドライアイスも持って登山しており、暑い夏の日に一日放置されていたにもかかわらず、梨花ちゃんの遺体は腐敗することもなくきれいな状態で無事確保されたという。
あたしが堂嶋さんと面会できたのは、さらに翌日の午後のことだった。なかなか着馴れないリクルートスーツに身を包み、留置所の入り口を抜けて、ガラス戸越しに堂嶋さんと顔を合わせる。彼の顔は憔悴しきっている。目は落ちくぼみ、覇気がなく、無精髭も数日分しっかりと伸びている。うつむいて、目を合わせようとしない。
あたしは、まるで堂嶋さんに初めてであったかのような口ぶりで彼にあいさつをする。
「わたくし、人肉調理師の牧瀬香里奈と申します。この度、故堂嶋梨花さんの遺体調理の担当をさせていただくことになりました――」
何度も聞き覚えたそのフレーズを、まるで試験官に言って見せるかのように披露する。言葉の意味は、初めて自分の口にして重みを知った。堂嶋さんが知らないはずのない人肉調理に関するひととおりの説明を淡々とこなしながら、堂嶋さんが奥さんに対してそうしていた時のことを思いだす。こうして、形式どおりの言い方をしなければとてもまともではいられなくなるのだ。
通常、業務の上で説明することのなかった、『たとえ罪を犯し、服役中であっても遺族が故人の体を食べる権利は変わらない』と言う旨を説明したのち、調理の希望を聞いたが、堂嶋さんは何も言ってはくれなかった。それどころか、あたしの顔を見ても表情一つ変えることなく、どんな些細な言葉でさえもかけてはくれなかった。
堂嶋さんは、すでに死んでいるに等しかった。生きている意味を完全に失ってしまったと思い込んでいる彼に、生きている自分を感じる必要すらない。
「それでは、すべてこちらにお任せする。と言うことでよろしいですか?」
返事はない。
「それではこちらの方にサインを」
用紙を取り出すが、直接手渡すことはできない。ひとまず看守に渡し、ガラスの向こう側の堂嶋さんに手渡される。堂嶋さんはうつむいたまま、用紙には目もくれなかった。
「堂嶋さん!」
思わず、素に戻って声を張り上げるが、やはり堂嶋さんは身動き一つしなかった。
しばらくして、看守に無理やりペンを掴まされ、半ば強引にサインをさせられた。本人の意思のまったく感じられない、読み取ることもできないようなきたない文字でサインをされた用紙を受け取り、一礼をしてその場を立ち去った。
翌日、あたしは調理のために拘置所へと赴いた。逮捕された堂嶋さんは検察質問のため、警察署から留置所へと移送されていた。堂嶋さんに面会する余裕も与えられないままあたしが通されたのは拘置所の調理室だった。施設の割には小さな設備で、自由に使っていいとのことだった。調理室自体はとても清潔に手入れされていて、調理設備もオーブンやフライヤーと言った最低限のものはそろっていた。一見すれば、これと言った問題点は見当たらない。しかしこの調理室には手鍋や小さなフライパン、ソースパンのようなものは一切ない。どれも大きな鍋やフライパンばかりで、小回りの利く道具は何もない。ここは料理を作る場所ではなく、人間のエサを準備する場所なのだとわかった。人間が最低限生きていくために必要な餌を効率よく準備するための施設なのだと。いや、それもいたしかたのないことなのかもしれない。ここで作られた餌を食べるのは罪を犯した人間、あるいはその嫌疑がかけられている者なのだ。その者達に生きる権利と食べる権利が与えられているだけ充分だ。健全で善良に生き、ひとを愛し、子を産み育てた人間が生きる権利を失うことに比べれば、十分すぎるほどの処遇だと言える。本来、生きる価値など無く、餌にならなければならない人間と言うのは、ひとを愛することもできず、子を産み、育てる必要もない、あるいはその権利を放棄した人間の方ではないのかとも思えてしまう。
しかし、それを言い出せば、人類の選択が間違いだったということになる。
我々人類は、その種の存続のため、新たなルールを作り、それを守ることで生きながらえるという知恵を持っている。たとえそのルールが本質的に間違っているとしても、ときにルールとは正義さえも凌駕する。
あたしは、キッチンのストーブに火を入れる。フライパンはアトリエから一枚、持参してきてよかったと思う。堂嶋さんが永年使い続けた鉄のフライパンだ。鉄板の芯まで熱の通ったそのフライパンは、すでに油がなじんでいて、ほんのわずかな油脂を入れて加熱するだけで焦げ付くことはない。
小さな発泡スチロールの蓋を開き、中から緩衝剤にくるまれている肉の塊を取り出す。
小さな、きれいな円柱型の肉の塊は、ほんのりと薄ピンク色に染まり、その中央には、真っ白で無垢な骨の断面が見える。
あたしが遺体管理局に申請したのは、梨花ちゃんの上腕部の輪切りだ。初めて出会った時、その白くて柔らかい、女性らしさの際立つ上腕筋に噛みつきたいと言う衝動があった。それを実現するためのエゴと言うわけではないが、その断面を実際に見るとどうなっているかと言うことには興味があったことは否めない。
こうして断面で見ると、人間の皮膚の皮と言うものは意外と分厚い。たぶん文明的な人間が、野生動物のように外から噛みつき、この皮膚を食いちぎって中の肉を食べるのは無理なのではないかと思う。皮膚と肉との間にペティナイフを先端から差し込み、向こうまで貫通させると、そのナイフを下にして、まな板とナイフで皮膚を挟み込むようにして上から圧を掛ける。ゆっくりとナイフを手前に引きながら、円柱型の肉がタイヤを転がすように動かす。くるりと一周したところで肉と、輪っか状に切り取られた皮膚とに分かれる。
皮膚の取り除かれた上腕部に塩胡椒をしっかりとふり、熱したフライパンに乗せる。底が焦げ付かないように初めは少し油脂を馴染ませるようにフライパンをゆするが、その後はなるべく一点から移動させないようにする。片面を七割焼いて裏返し、反対を二割焼く、余熱でちょうど芯まで加熱するように心掛ける。中央の骨の髄液が沸騰して、真っ白だった骨をピンク色に染める。焼きあがった肉は、白いお皿の中央に置き、それで完成。
今日は、ソースも付け合せもなければパンもスープもない。ただ、炎で焼かれた娘の腕があるだけだ。堂嶋さんは、この食事を味わおうなんてまるで思ってなどいない。堂嶋さんが必要なのは……
食事の場所は、無機質で何もない四角い部屋が用意された。そこには小さなテーブルと椅子が二つあるだけで、あとのほかには何もない。テーブルの真ん中に立った一枚の皿が置かれ、一方の椅子にドレス姿に着替えたあたしが座る。以前に堂嶋さんと人肉料理店に行くために新調された、背中の大きく開いた青いドレスだ。あれ以来、一度も袖を通す機会がなかった。
やがて、堂嶋さんがその部屋に訪れた。昨日より一日の時間を過ぎたが、その姿は十年ほど憔悴したように見える。
向かいの椅子に座り、看守が部屋を離れ、二人きりになる。堂嶋さんは、テーブルの上に置かれたみすぼらしい料理を見つめる。何も言わない。
「さあ堂嶋さん。召し上がってください。――冷めないうちに……」
「……」
「食べないんですか?」
「これは……」
「いいですか、耳をふさがないでちゃんと聞いてくださいね。これは、梨花ちゃんの腕の肉です。シンプルに、塩胡椒で焼いただけのものです」
――シンプル。その言葉で形容するにはいささかみすぼらしすぎる料理だ。今の堂嶋さんに必要なのは、美味しい料理ではない。すでに娘は死んでしまって、これっぽっちの肉の塊になってしまったのだと認識することだ。
梨花ちゃんの死を受け入れること、それが堂嶋さんにとって必要なことだ。
「さあ、堂嶋さん。召し上がってください……」
「……僕が、娘の肉を本当に食べたいなんて思ってるわけじゃないだろ……」
「ええ、わかっています。でも、食べなきゃいけないんです……
梨花ちゃんの死を受け入れるためにも……
梨花ちゃんも、今の堂嶋さんと同じことを考えていたんですよ、きっと……
だから、おかあさんの肉をどうしても食べられなかった。
お母さんの死をどうしても受け入れることが出来ずに、その事実自体か逃げ出してしまった。
その結果……梨花ちゃんはどうなりました?
家族の死を受け入れるのはきっととてもつらいことなのでしょう。でも、それを受け入れないと、今度は堂嶋さんが死んでしまうことになるんです」
「……構わないさ。僕には……もう、生きる理由なんて残されていない。妻を失い、子を失い、僕はこれから生きていくことに何の意味もなくなってしまったよ。
時々思うんだ。もしあの時、献体になったのが妻ではなくて僕の方であったのならば、梨花は僕の肉を食べ、今もなお生き続けていたんじゃないかって……
――次の世代に命をつなぐ。それこそが人間が生きることの意味だと僕は思っている。自分と言う存在が、今ここにあったということを証明するために、その遺伝子をつないでいくことこそが生物の生きる意味であり、その意味を失ってしまった以上、僕に生きる意味なんてないんだよ。いっそのこと自分の体を献体にでも差し出した方がいい。こんな僕でも、誰かの食べ物になることでぐらいならその存在価値もあるだろう」
「なにを……言っているんですか……」
あたしは少しだけ、憎しみのこもった口調で答えた。
「堂嶋さんに生きる価値がないなんて、勝手に決めないでください。堂嶋さんの、今までしてきた仕事で、いったいどれだけの人が幸せになれたと思っているんですか? これから先、どれだけの人を幸せにできると思っているんですか?
自分に生きる意味がないなんて、勝手なこと言わないでください。生きる意味がないなんて思うのなら、それを捜すために生きるでもいいじゃないですか。そんなこと自分で勝手に決めないでください!」
「で、でも、僕は……」
「生きて! ください……」
あたしは思わずその場で立ち上がった。次の瞬間、テーブルの上に置かれた皿の上にある、梨花ちゃんの腕の肉を手でわしづかみにして、それを自分の口元に運ぶ。
弾力のあるその肉にしっかり歯を立てて固定し、手で引きちぎるようにしてむさぼった。
口の中で、堅くてい生臭い味が全体に広がっていく。それでも、まだ幼い彼女の肉は成人の筋肉に比べればまだまだやわらかい方だ。飲みこむためには何度も何度も咀嚼しなくてはならない。
はっきり言って、美味しい肉だとは言えない。高いお金を払ってまで食べるような料理なんかでは絶対にない。それでも、ひとがその肉を食らうのには理由がある。肉を食べるという行為は、その生き物の死を乗り越えて生きて行かなくてはならない使命が存在する。肉を食べたぶん、その肉に対して、その生物の命を預かり、これから先まだまだ生き続けることを誓うという儀式なのだ。
命を食べないという理由で、ベジタリアンと言う考え方もあるが、それはひとつの意味では生きることに責任を取らないという意味でもある。すべての生き物が生きるためには必ずほかの生き物を犠牲にする必要があり、その覚悟を決めるために人は肉を食べるのだ。
何度も何度も咀嚼をし、ようやく口の中でやわらかくなりはじめた梨花ちゃんの肉を、あたしはそのまま飲みこんだ。肉が食道を通り、胃の中へと落ちていく。梨花ちゃんの体の一部が自分の体の一部となり、彼女の死を乗り越えて自分が生きていくことを誓う。
「次は、堂嶋さんの番です!」
あたしは手に握った梨花ちゃんの肉を堂嶋さんへと差し出す。
「食べてください! 食べるということは、生きるということです!」
うつむいたままの堂嶋さんはそれを受け取ろうとはしない。
ここまで来てもやはり覚悟が決められず、うじうじとしている。
「さあ」
肉をわしづかみにした自分の手をさらにもう一歩、押し付けるように差し出す。
気迫に押された堂嶋さんが、いよいよその手に握られた肉を凝視する。いや、正確にはその肉を掴んでいるあたしの手。あたしの指にはめられた指輪を見ている。
「すっかり、無くしたものだとばかり思っていた…… どうして香里奈君がこれを……」
「奥さんから、いただきました……。形見として」
堂嶋さんの奥さん、真希さんが献体となる直前、あたしに形見として託したその小さな袋の中には、一本の指輪が入っていた。シンプルなデザインのその指輪が、堂嶋夫妻の結婚指輪だということぐらいは考えなくたってわかる。彼女がどういう気持ちで、この指輪をあたしに託したのか。
『あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん』
あの時、真希さんはいつかこのような日が来ることを予測して、その時に堂嶋さんの支えになってほしいということを言っていたのだろうか。
あるいはもっと、あたしの根の部分を、あの時彼女はすべて見抜いていたのかもしれない。
「奥さんは、あたしにすべてを託してくれました。だからあたしは、何としてでも堂嶋さんを生かさなくちゃいけないんです。真希さんは、堂嶋さんがこれから先も、ずっと強く生き抜くことを期待して、いや、信じていたはずです。
だから……さあ……」
あたしから差し出された肉を、堂嶋さんはそっと両手でやさしくつつみこむように受け取る。その目には、うっすらと涙が滲んでいる。
堂嶋さんは、そのまま両手で肉を口へと運ぶ。
黙ったまま、堂嶋さんは何度も何度も肉をかみしめ、そして飲みこんだ。
しばらくの沈黙の後、堂嶋さんは少しだけ落ち着きを取り戻した。そして、肉の残り全てを平らげる。骨をしゃぶり、肉の一辺も残さないようにきれいに食べつくした。
「堂嶋さん。ひとつうかがってもいいですか?」
「なんだ?」
「味、おいしかったですか?」
「……………」
「あたしの作った料理、美味しかったですか?」
「おいしいわけがない」
「落第……ですね」
「あたりまえだ。大体なんだこの焼き加減は、片面に熱が入りすぎて肉がパサついている。胡椒を先にふってあったにもかかわらず、こんなに強く焼いてしまったんじゃあせっかくの胡椒の風味が飛んでしまっている。今まで何を勉強してきたというんだ。
いいか、肉の調理はたった一回、食べる側も、食べられる側もたった一回しかチャンスがないというのに、その大切な一回をこんないい加減な料理を作るようでは人肉調理師としてやっていけるわけがない」
「……そうですか……それは……よかった……です……」
「よかった?」
「いつも通りの堂嶋さんのダメ出しが聞けて良かったです。それに、落第したから、あたし、まだしばらくは独立して仕事を受けるわけにはいかないみたいです……
たった一回の料理を台無しにしてしまったあたしは、これから一生かけて梨花ちゃんと堂嶋さんに償いをしなければいけないし、明日からも堂嶋さんにしっかり指導してもらうことになりそうです……」
「指導? 残念だけど、僕にはその資格はもうないよ……」
「そ、そんなことないです。堂嶋さんは、あすからまた、現場に復帰することになります。まだ、報告聞いてませんか?」
「報告?」
「堂嶋さん、不起訴になったみたいです」
「不起訴? な、なぜ?」
「そ、それは……」
それは、あたしからの口添えがあったということがひとつある。あの日、刑事に堂嶋さんの行方について聞かれた時、ついうっかりあたしは本当のことを言ってしまった。もしかすると、山に登ったのかもしれないと。言ったあたしはすぐにしまったと思った。堂嶋さんが梨花ちゃんの遺体を持ち出したというのならば、あたしはそれを手助けするべきではなかっただろうかと。
苦し紛れにあたしはすぐに言葉をつづけた。
『人肉を最もおいしく下処理するためには高原に咲くハーブに漬け込むのが最良だと言っていました。それをとりにいたのではないでしょうか』
もちろん、そんなことは全部嘘っぱちだ。しかし、料理知識のない刑事がその話を鵜呑みにしたとしておかしくはないだろう。ただでさえ一人娘が死んだのだ。料理人として、その娘を最も最高の形で食べたいと思うのは当然のことだろう。
奇しくも堂嶋さんはあたしの言った通り、梨花ちゃんを担いで山に登っていたのだが、その時に腐敗防止のためにドライアイスを一緒に持って登ったということが功をなした。
検事は、堂嶋哲郎は堂嶋梨花の遺体を持ち逃げしようとしたわけではないという判断を下した。
あるいは、検事はすべてお見通しだったかもしれない。その検事は、二か月後に息子が十歳の誕生日を迎え、自らが献体となることが決まっていると話していた。たった一度の自分の体を使った料理を家族にふるまうチャンスに、最高の料理人がいないなんてことを避けたかっただけなのかもしれない。今回の件で借りのできた堂嶋さんが、彼の調理を断るなんてできるわけがないだろう。
もちろんあたしは、そんな事実をいちいち堂嶋さんに説明したりなんかはしない。
ただ一言。
「堂嶋さんを、必要としている人がたくさんいるっていうことです」 と、説明しておいた。
「もちろん。あたしもその一人です」と補足をしておく。
短い食事を終えたあたし達は手続きを済ませ、留置所を後にする。
外に出ると、容赦なく降り注ぐ夏の太陽がアスファルトを溶かして陽炎をつくっている。死んでしまった人間自体はもうどこにもいない。後になって思えばその人間が生きていたこと自体が、陽炎のごとく、本当に存在していたかどうかさえ分からなくことがある。
しかし、今の自分が生きていること自体が、誰かが生きてきたことの証明なのだろう。
足取りのおぼつかない堂嶋さんがきょろきょろとあたりを見わたした。
「堂嶋さん……」
あたしが言った。
「なんだい?」
となりにならんだ堂嶋さんはこちらを向くでもなく、まっすぐと前を、あたしと同じ方向を向いたまま答えた。
その方が都合がいい。正面を向きあって、こんなこととても言えない。
「堂嶋さん。あたしと子供をつくりませんか?」
「え……、な、何を……」
「堂嶋さんは、妻も子もいない世の中ならば、生きていても仕方がないなんて言いましたよね?
それって、あたし的にはちょっとショックだったんです。
あたしは結婚なんてしていなければ、子供だって産んでいない。だとしたら、あたしなんて生きている意味がないってことになります」
「い、いや、そういう意味で言ったんでは……」
「はい…… わかっていますよ。あたしだって、妻や子供がいない人が生きている意味ないなんて思っていません。さっきあたしがそれを堂嶋さんに言ったばかりです。
でもですね、堂嶋さんいそれを言わせるくらいに、子供をつくることって素晴らしいことなのかなって思うわけです。
だったら、あたしもそれを経験してみたい…… そう思うんですよ。
だって、たった一度の人生なんだから、そんなに素晴らしいもの、経験したいじゃないですか」
「でも、世間は子供をつくることに対してやさしくはない。命を、捨てる覚悟がいるんだ……」
「たしかにそうですね。あたしだって、正直死にたいなんて思っていません。でも、生きている意味なんてない。死にたいと思っているくらいの人がいるなら、それはそれでちょうど都合がいいかなと……」
「それが……僕だっていうことだね……」
「堂嶋さんは、生きる意味もないみたいに考えているみたいですけど、生きる意味がないなら意味をつくればいいんですよ。真希さんや、梨花ちゃんは、この世に子孫を残すことが出来なくなってしまいました。でも、彼女たちは堂嶋さん、あなたの体の一部になっているはずです。だからこそ、今のその体で子孫をつくるんです。
堂嶋さんの子供をあたしが産んで、その10年後に堂嶋さんが献体になればいいんですよ。それが、一番無駄がないです。
堂嶋さんの体は、あたしが責任を持って料理して、あたしと子供でおいしく食べてしまいます。
これって、すてきな提案だと思いませんか?」
「素敵かどうかはさておき……
ひどい殺し文句だと思うよ、僕は……
だが、一つ言っておくが、君の腕ではまだまだ僕を満足に調理することはできないだろう。だから、その答えは今のところ保留にしておくよ」
「わかりました。それじゃああたし、しっかり訓練をして、立派な人肉調理師になって見せますよ。そしたらその時、あたしのために、食料になってくださいね」
「ああ、考えておく……」
「あ、それと……」
「まだ、なにかあるのか?」
「はい。あたしが堂嶋さんとの子供を産みたい理由って、何も堂嶋さんが死にたがっているからってだけじゃあないですよ。
あたし、堂嶋さんとじゃなきゃ、駄目だなって思うんです。子供をつくるのなら、堂嶋さんの子じゃなきゃ嫌だなって……」
――ねえ、堂嶋さん……
――もしかして、これが〝愛〟っていう感情ですかね?