――幕間


 彼女は少しだけ考え、そして目を狐のように細めて笑いながら言った。

「アタシを食べてほしいかな!」

 僕はなんて答えていいのかもわからずに、その場で黙りこんでしまった。

「あ、ちがうちがう! そういう、エッチな意味で言ったんじゃなくて!」

「な、なんだそうなのか。もう少しで君をベッドの上で押し倒してしまうところだったよ」

「それはタイヘン! 見回りの看護師さんが来たとき、どういう言い訳をするつもり?」


 ――どう説明するも何も、そんなことをするわけがない。暗い空気になってしまわないようにと時折バカみたいにはしゃいでみせる彼女に合わせておどけているに過ぎないのだ。

「いくら食べても太らない体質だから」という言葉を口癖に、手当たり次第に身の回りの物を食べあさっていた彼女が功を制して料理人という職業を選び、それからわずか数年で《いくら食べても太れない》体に想い悩まされる状況を誰が予想しただろうか。

「でね、アタシは思うわけよ。アタシはアタシがいなくなった後の世界に、何が残せるんだろうって…… 
 アタシはもうじき死ぬ…… そして、子供もいないアタシはそれっきりなのかなって思うとやっぱり思うところがあるのよねえ。
その点、男ってのはうらやましいわ。たとえ死ぬ前でもやることさえやって受精させちゃえばどうにか遺伝子を残すことができるんだもの。でも、女はダメね。たとえ今すぐ受精しても、その子が生まれるまで生きていられないわ。それに、アタシの体の中じゃ、赤ちゃん育たないだろうし……」

――こんな時、彼女にかけてやる言葉がすぐに思い浮かぶような器用な人間だったならと思う。

 でも、そんな言葉はまるで思い浮かびやしない。

「僕の心に、君は生き続けるさ」なんて、そんな言葉はきっと思い浮かぶだけで最低のクズ人間なんだと思う。僕にできることは、せめて黙って彼女の手を握りしめることぐらいだった。

「君がアタシを食べて、君の中でアタシは生き続けることができる。そう考えることは許されないことなのかなあ?」

「ざんねんだけど…… この国の法律では人間の肉は食べてはいけないことになっているんだよ……」

「くっだらない法律ね。そんな法律なんて存在しない世界があればいいのに……」

「……」

「ねえ、もしそんな世界があったとしたならば、君はアタシのことを食べてくれるのかな?」

牧瀬香里奈の休日


 カーテンの隙間からこぼれる光で目を覚ます。

 目覚ましをセットしていない休日の朝は体が可能な限り寝ようと決めているがさすがにそろそろ限界のようだ。

 ボロい学生寮の一室は湿気がたまり暑苦しさを感じる季節になってきた。寝返りを打って汗に濡れたシャツが風に当たると少し冷たくて心地いいが、またすぐに生あたたくなって気持ち悪くなってしまう。太陽はすでに真上近くまで昇り、四月末の連休の室内をいやおうなく温め続けている。諦めて布団を出たあたしはシャツを着替え、寮の一階の食堂兼調理室へと降りていく。

 30畳ほどもある大きな食堂はよく言えば寮内のリビングルーム、正確に言うなら談話室を兼ねているが、いつもと違ってシンと静まり返っている。

 もちろん今の時間がいつもの朝食時間よりも明らかに遅いということもあるが、言うなればすでに昼食時間にだって近い。そもそもこの場所はいつなんどきだってそれなりの人数がいるのが普通だ。にもかかわらずそうでないというのは今日が世に言うゴールデンウィークというものなのだからだろう。

 あたしが住むこの寮は、本来都内の調理学校へ通う生徒のために用意されている学生寮だ。あたしも調理学校へ通い始めた際にこの寮に住むようになり、卒業したにもかかわらずいまだもってここに住み着いたままだ。
だがこれは決して違反などではない。

この寮には全部で30人以上が住んでおり、その大半は言うまでもなく調理学校の生徒なのだが、その卒業生も希望者は5年間まで住んでいいことになっているため、卒業後もここに居座り続けるものは少なくない。
コックという仕事は基本的に勤務時間こそ長いが、その初任給は驚くほどに安い。そのため一人暮らしを始めたくてもできないというものも少なくないが、それとは別に〝入居者はこの寮の食堂と調理場を自由に使ってよい〟という条件が魅力だというものもいる。
調理学校を卒業してプロのコックになったとはいえ、職場ではまだまだ見習い程度の仕事しかさせてもらえない新人のうちは、料理をしたくてもお店の大切な食材や道具を自由に使わせてもらうことなどできるわけもなく、こうして大きな設備で自分の自由に料理できる場所というのはありがたい。せっかく教えられた仕事も実践を踏まえなければ身につかない。
したがって、たとえ休日であってもこの調理場はいつだってコックと調理学校の学生とが何らかの作業をしていてしかるべきだが、いかんせん今日はゴールデンウィーク期間中。普通のコックは言うまでもなく仕事で、むしろなかなか休みを取りにくい期間ではあるし、学生たちもほとんどはアルバイトをしていて、言わずもがなその内容は飲食店でのアルバイトだ。したがってそんな日の、こんなお昼時に暇をもてあましているようなコック(&コック見習い)ほとんどいない。あたしのような公務員調理師を除いては……。

お腹が減ったなと思いつつ、調理場の方へと入ったところで二人の学生が食堂へとやってきた。二年生の斉藤さんと菊池さんだ。無口な斉藤さんと賑やかな菊池さん、大体二人組というのはそういう組み合わせが都合がいいのかも知れない。あたしと堂嶋さんのように。

「あー、牧瀬先輩だー。こんにちわー。今からお昼ですかー」

 と駆け寄ってくる菊池さん、斉藤さんはその隣で黙って会釈をする。

 ――『お昼ですか』と聞かれて少しだけ恥ずかしくなる。こっちは朝食のつもりでいた。簡単にオムレツでも作って食べようと卵を割ったところで菊池さんが、

「ねー、牧瀬せんぱーい。あたし達のも作ってくださいよー」

 とおねだりをする。斉藤さんはそんな菊池さんに図々しいと抑制するが、菊池さんは、

「えー、だって牧瀬先輩って人肉調理師なんだよー、超エリートだよー、牧瀬せんぱいのゴハン、たべたくなーい?」

 と斉藤さんを説き伏せる。さすがにそうまで言われるとこっちも断るわけにもいかない。

「まあ、簡単なものでいいなら」

と、少し気取って安請け合いする。「やったあー」と喜ぶ菊池さんを横目に密かに闘志を燃やす。かわいい後輩学生に人肉調理師(見習いだけど)の実力というものを見せてやる。


せっかく割った卵を無駄にはしたくないので、おひるごはんはオムライスをつくることにした。もちろん、簡単なおひるごはんとしてつくるものなので極めて簡単なつくりかたで造る。

まず、三人分のお米を炊かなくてはならないので、無洗米2合をフライパンに入れる。そこにごく少量のサラダオイルと塩胡椒、それに顆粒タイプのコンソメを小さじ一杯加える。フライパンを火にかけ、全体にサラダオイルが馴染み、米が少し温かくなりはじめると顆粒のコンソメが溶けだす。そのタイミングで火からおろして炊飯ジャーに入れる。冷たい水400mlを注いで軽く混ぜ合わせ、その上に塩胡椒をした鶏もも肉を一切れ入れて早炊きモードでスイッチを入れる。

大体10分もあれば炊き上がる。たとえ蒸らし時間がなくてまだ芯が残っていても最後に炒め合わせるころには火が通っているだろう。お米にあらかじめサラダオイルがなじませてあるので炊飯ジャーで炊いても粘ることがなく、炊きあがりの状態ですでにパラパラに仕上がる。

その間にソースを用意する。鍋に赤ワインを注ぎ、煮詰めたところで水とブロック状のハヤシライスの元を入れる。沸騰させて全体にとろみがついたところでダイスカットしたトマトの水煮と焼き肉のたれを少量加えてひと煮立ちさせてソースの出来上がり。
フライパンでミルポワ(玉ねぎ、人参、セロリなどの香味野菜の粗みじん切り)をバターで炒める。炊き上がったチキンライスの上の鶏肉を取り出して、ミルポワと同じ大きさに切り、フライパンに入れて一緒に炒めたら、フライパンの火を強火にして、トマトケチャップを加える。ケチャップが沸騰してから炊飯ジャーのチキンライスを入れて手早く炒め合わせる。
ケチャップはあらかじめ加熱、沸騰させておくことで仕上がりのケチャップライスがべたつかなくなり、余計な酸味も和らいでまとまった味に仕上がる。ケチャップライスはオムレツを焼く前にお皿に盛りつけておく。

フライパンにサラダオイルを敷き、オムレツを焼く。オムレツは一人前につきMサイズの卵2個と塩胡椒、それに少量の生クリームを加えて軽く混ぜ合わせておく。フライパンに入れた玉子は初め素早くかき混ぜ、固まりかけたところでフライパンの先端の方へまとめる。あとはフライパンを左手で持って(右利きの場合)空中で玉子の入った先端が下になるように斜めにする、右手で握り拳をつくり、フライパンを握った手首を軽くトントンとたたく。無理に巻こうとしなくても叩く手の角度さえ正しければオムレツは勝手に形が整っていく。いざ、慣れてしまうとこんなに簡単なことはない。

オムレツをケチャップライスの上に乗せ、ナイフで切りこみを入れるとオムレツは真ん中から二つに割れ、ドーム型に盛られたケチャップライスを包み込む。上からソースをかけて出来上がりだ。米を炊きはじめてから、大体20分もあれば完成する。
食堂へ運んで三人で食べ始める。菊池さんも斉藤さんも、無条件で絶賛してくれた。そりゃあたしかに、文句を言われてもどうかと思うし、それなりに自信もある。だけど、きっと堂嶋さんならなにがしかの指摘(アドバイス、ということにしておこう)があるのが普通だ。そのせいか無条件の絶賛というものに、なんだか少しだけ物足りなさを感じてしまう。

「牧瀬先輩はゴールデンウィーク、いつまで休みなんですか?」

 菊池さんがオムライスを口いっぱいに頬張り、もごもごしながら聞いてくる。

「うん、一応は暦通り休みかな……」

 と言って少しだけ申し訳なく思う。他のコックの子たちは当然休みなんてない。あってせいぜい交替で1、2日あるくらいだ。菊池さん達もローテーションで今日、アルバイトがたまたま休みでしかない。

「いいなあ。あたしも人肉調理師目指そうかなー」

「アンタの成績じゃ無理に決まってるでしょ」

 菊池さんの発言に斉藤さんがツッコミを入れる。しかし、いいなあと思われている時点でなんだかこうしてここでのんびり過ごしている自分が悪いことをしているように感じる。

「あ、でもオンコールがあれば休みでもすぐに出勤しなきゃいけないんだけど……」と、言うのはせいぜい苦し紛れの言い逃れか。今も自分がこうしているあいだにも同期が現場であくせく働いて経験と技術を向上させているのかと思えば、自分だっていつまでもうかうかはしていられないのかもしれない。今でこそ首席で卒業のエリートだが、のんびりしていたのではすぐにでもみんなに追い抜かれてしまうだろう。結局、技術仕事なのだから資格なんて言うものには何の価値もない。ただ、努力の先に成長があるだけだ。それはおそらくどこまで努力しても決して完成なんてすることのない努力。

「牧瀬先輩、恋人とかいないんですか?」と、次々に質問攻めにあう。

「いないわよ……」

「えー、もったいないですー。牧瀬せんぱいって美人だしー、絶対いくらでもいるじゃないですかー」

「でも……、でも、あたしはあまり恋人って作りたいと思わないのよね」

「えー、なんでですかー。まさか、仕事が恋人とかいうんじゃないですねー」

「ううん。そうじゃなくて、あたしはなんて言うか……その、愛だとか恋だとかよくわからないのよね。大体なんでそんなことしなくちゃいけないのかって。だって結婚して子供産むなんて、自分と旦那さんのどっちかが死ななくちゃいけないってことなんだよ。そこ
までのリスクを背負ってまでするほどのものなのかなーって」

「せんぱーい、むずかしく考えすぎですよー。なにも子供をつくるまで考えなくてもー、ただ何となく一緒にいるだけでうれしいって感情、あるじゃないですかー。それに、えっちすると気持ちいいじゃないですか」

「え、えっちって……菊池さんそんなことしてるの? もし子供が出来たらどうするのよ!」

「い、いや、そんなこと気にしなくてもいいじゃないですか。その時はその時で堕ろせばいいわけだし」

「お、堕ろすって、そんな簡単なことじゃないじゃない。妊娠しているっていうことはそれだけで命なのよ。それにそんなことをすれば母体にだって影響があるかもしれない。もしかしたら二度と子供が産めない体になるかもしれない」

「うーん、でも、法的に堕胎は認められてるし、てか、国としてもそれを推奨してるわけでしょ? そうなると、やっぱりあんまり罪の意識ないのよね。それにわたしだって子供を産んで死にたくなんかないし、むしろ子供が産めない体になるって、その方が都合がいいんじゃないですか? それとも牧瀬先輩はいつかは子供を産みたいんですか?」

「え……そ、それは……どう……なんだろう……」

「それに、ひとを好きになるってとっても素敵なことですよ。子供を産んではいけないからと言って、ひとを好きになる権利までは放棄する必要はないと思いますよ」

「た、たしかにそれは……」それはそうなのかもしれない。が、素直に認めてはいというのも悔しい。

「牧瀬先輩、誰かいい人いないんですか? 仕事が恋人なんて淋しいですよ。あ、それとも仕事場に恋人がいるとか?」
 仕事場に恋人、と言われて頭の中に堂嶋さんの姿が浮かぶ、いや、それは仕方のないことだ。恋人でも何でもないが、そもそも職場には堂嶋さんとあたししかいないのだ。他の大きなレストランとは違う。それに……

「だいたいあの人は結婚しているわけだし……」

言葉に出ていた……

「あは、誰ですか、そのあの人というのは?」

「ち、ちがうちがう。そ、そんなんじゃないのよ!」

「うーんでも、さすが既婚者はやめた方がいいですよ」

「だからそんなんじゃないって!」

「既婚者を好きなっても、絶対に幸せな結末は迎えられないですから」

「え、どういうこと?」

「だって、そうじゃないですか。今は子供を産まない人がほとんどなので、結婚だってしない人が大半ですよ。それなのに結婚しているっていうことはふたりはそれなりに愛し合っているということか、あるいは互いに相手を独占することを宣言しているわけです。そこに入っていくのはなかなか危険が伴いますし、結婚して子供がいるなんて言うのは最悪です。その子が十歳になった時点で半分の確率でその人は死んでしまうわけでしょ? 残りの半分の確率は、相手に死を押し付けたという証拠です。なんだか、その方が怖くないですか?」

「それは、ちょっと極論かも……」

「でもですね、少なくともその相手と子供をつくった場合、やっぱりこっちに死を押し付けてくる可能性は高いんじゃないですかね? そして何より最悪なのは、子供がいて、その子供が十歳になった時に死ぬことになっている男性の子供を産んだ時です。その子供を産んだ時点で、十年後に死ぬのは自分で決定です。その頃に父親はもう死んでるわけですから」

「うーん、そういうこと…… いままで考えたことなかったな。結婚するつもりもなかったんだけど」

「その相手、その牧瀬せんぱいの好きな人は、子供はいるんですか?」

「子供……いるのかな? そういえば聞いたことなかったけど……って、だから、別に堂嶋さんは好きな人でも何でもないんだってばっ!」

「あー、牧瀬せんぱい、顔、まっかですよ」

 と、後輩にさんざんにからかわれてしまう。

「まあ、恋人はともかく、せっかくの連休なんですから、一度故郷に帰ってみるというのはどうですか? 結構普通のサラリーマンなんかだと、このタイミングで田舎に帰省する人は多いみたいですよ」

「ああ、そういえば菊池さんに言ったことなかったのかな。あたし、両親がいないんだよね。いわゆる、脱献孤児ってやつ」

「ああ、すいません。あたし、そんなこと知らずについ……」

「ううん、いいのよ、ぜんぜん気にしてないから。あたしは生まれた時からそうなのであって、それが普通だし、なんとも思ってないのよ」


 ――脱献孤児、というのは親が子供を産んだ後、その子を孤児院に送りつけて姿をくらますという状態だ。妊娠して子供を産んだものの、献体になるのが嫌でひっそりと産んで姿をくらます親というのが世の中にはいて、珍しいことでも何でもない。両親としては自分で育てなくてもこの世のどこかに自分の子供が生きていると思うことだけでもうれしいという理由から、脱献をするそうだが、もし、どこかでDNA判定でもうけて発覚してしまえば当然重罪となることは言うまでもない。あたしの育った孤児院では割と多いケースだ。みんな親の顔なんて知らないし、兄弟はたくさんいる。それが当たり前の中で過ごしたのだからあまりなんとも思ってはいない。それよりもかわいそうなのは片親しかいない家庭で、十歳になった時点でたった一人の親が献体となって孤児となり、孤児院にやってくる献体孤児の子供の方がよっぽどかわいそうだった。慣れない環境にたった一人放りこまれ、親の死を受け入れて生きて行かなくてはならない。

 それに比べてあたしたち脱献孤児は、両親はどこかで生きているかもしれないという希望が持てるだけ救いようがある。まあ、実際みんなは両親なんてはじめから存在していないと思っているわけだけれども……


――そういえば……帰っていないな。あたしの実家ともいえる場所……

今頃ママ(孤児院の寮母をそう呼んでいた)はどうしているだろうかと気にかかることはある。しかし、別れ際が別れ際だけに今更会いに帰るというのは少しばかり気まずい。元々血もつながっていなければ、自分の本籍がそこにあるわけでもない。だからその孤児院はただ単にあたしが子供のころに過ごした場所でしかない。書類の上では……


中学、高校と思春期の頃、あたしはやはり普通の家庭の子と同じように、ちょっとした反抗期を迎えてしまった。今になってみればいったい何が原因だったのかもよくわからないけれど、とにかくあたしはママと何かにつけて対立するようになっていた。最終的にはほとんど口もきかなくなり、高校を卒業すると同時に飛び出してきた。

今から考えてみれば自分は本当に子供だったんだと思う。つまらないことでいちいちママにあたって、暴言を繰り返していた……ように思う。今なら素直に謝ることができるかもしれない。けれど……やはりなんだか気まずいという気持ちもある……


「ごちそうさまでした」

 と、一人考え込んでいるあたしをよそに、菊池さんと斉藤さんはいつの間にかオムライスを平らげていた。

「さすがは人肉調理師ですね。やっぱわたしたちとはレベルが違います!」

「そんな、ほめ過ぎよ。このぐらいすぐにつくれるようになるわ」

「……じゃあ、また今度つくり方教えてください。きっとカレシに作ってあげると喜ぶと思うんですよね。わたしのカレシ、オムライス好きなんで!」

「そうね、きっと喜ぶと思うわ。きっと菊池さんがつくったら、あたしなんかよりもよっぽど喜ぶと思うわ。だって、料理は愛情っていうものね」

「ですよね。でも、それプロを目指すわたし達が言うのはずるいかもです。なんだか〝愛情〟という言葉に逃げて、努力を怠っているみたいですもん。
 あ、別に牧瀬せんぱいが努力してないっていう意味でゃないですよ。わたしたちなんかよりもすごい努力してきたの知ってますから! ただ、やっぱ好きな人のために料理を作る方がやる気でますけどね。美味しいものを食べてもらおうって思うからこそ努力も辞さないってキライはあります。そういう意味で、料理は愛情なのかもしれないです」

 そんなことを言いながら菊池さん達は部屋に戻って行った。午後からどこかに出かけるらしい。
 あたしも午後から出かけよう……

 せっかくだから、一度あの孤児院に帰ってみることにしようと思う。せっかくコックになったのだから、みんなにあたしの作った料理を食べてもらうというのもいいかもしれない。ともかく、帰るなら帰るで何らかの口実くらいは作っておかなければならなかった。

 昼過ぎに寮を出て、老舗の和菓子屋で手土産を買う。ちょっとした高級品だがそこは仕方がない。少なくとも今はお給料をもらったばかりで金銭的にはいくらか余裕がある。思えばこれが初任給で買ったはじめての品物かもしれない。世間一般で、初任給で親になにかをプレゼントするという話を聞いたことがあるが、自分のこの手土産こそが正にそれなのかもしれないと思い当たる。実際には血のつながった親ではないし、それが老舗和菓子屋のおやつというのもどうかと言いたいところではあるが、あたしの職業が〝食べ物〟にまつわる職業なだけに、これはこれでおあつらえ向きかもしれない。

 電車とバスを乗り継いで二時間とちょっと。乱立するビル群はもうどこにも見当たらず、代わりにあたり一面の田畑が広がる。わずかな市街地も今となっては随分と荒廃が進み、ほとんどゴーストタウンと化している。食人法以来、都市部を除いた地域は急激な人口減少に移行し、地方自治体の運営は立ちいかなくなっていった。関東平野大部分は替わりに人のいなくなった土地を農地化して、大規模農法で食料生産を開始し、食料自給率を上げることに成功した。かつて食糧生産国として国益をあげていたアジア諸国は世界規模の食糧価格の高騰で利益を上げるようになっており、この大規模農法が日本国内の台所事情を支えてくれたと言っていい。

 しかし、働き手の少ない現状での大規模農法はその作業の多くを機械に頼り、効率化するしかなかったため、作物の品質は低下させてしまった。

 バスを降りて幼少期を過ごした街並みを歩く。数年ぶりに訪れる町並みではあったが、自分が知っている町よりもまた更にすたれているのがわかる。そして街並みを少し外れたところに見えてくる建物〝家族庭園 橘〟。あたしが育った孤児院だ。

 孤児院とはいえ、正確に言うなら孤児院でも何でもない。本来孤児院とは、昭和7年に救護法において設立された孤児を預かる施設のことを指し、のちに児童福祉法によって児童養護施設となった。しかし、孤児のほとんどいなくなった近代で児童養護施設は実質として親の虐待や生活困窮を理由に一時的に児童を預かる場所としての役割が多くなった。そして食人法設立以来、子供の数は劇的に減り、その施設の必然的に閉鎖されていくようになった。しかしその一方で、別の問題が浮上し始めた。脱献孤児の問題だ。

 政府は人手が足りないことを理由にすぐにこれに対応することもせず、脱献孤児の数は増えていく一方だった。

 そんな中、日本のあちこちでそういった子供の里親を名乗り出てくる親もまた増えてきた。〝自分が産まなければ献体する必要もない〟里親制度は、また新たな家族の形でもあった。中でも特に多くの子供をまとめて里親になる者もおり、そういった施設を俗語で〝孤児院〟という言い方をするようになった。

 あたしの育った〝家族庭園 橘〟もそんなひとつで、あたしが小さいころには実に20人近くもの里親となっていた。

 橘の里親、通称ママは本名を『橘 柚子』。30歳で結婚をして、娘が一人いた。早くに旦那さんを病気で亡くしてしまうが、当時はまだ食人法もなく、娘の清美さんはすくすくと育っていった。清美さんは27歳で結婚した。奇しくもその年は政府が食人法を制定した年だ。しかし、母の愛を一身に受けて育った清美さんはやはり自分もまた子を産み育てることに迷いはなかったという。いずれは自分が献体になることも覚悟でこの世に我が子を産み落とした。

 その子が2歳の時、父親の運転する自動車の事故で父子は共にこの世を去った。

 夫と子とを同時に失った清美さんと、孫を失った柚子さんは深く悲しみに沈んだが、やがて活力を取り戻し、食人法の制定により、出生率が劇的に下がったために廃園となった保育園を買い取り、家族庭園、橘を開園した。脱献孤児のあたしがその園に引き取られたのは物心がついて間もなくのことで、橘で最初の子供だった。あたしは柚子さんをママ、清美さんをちいママと呼んだ。園児は次々に増えていき、あたしの知る限り、多い時で20人くらいはいたと思う。ママとちいママはあたし達を分け隔てなくどの子も皆、我が子のようにかわいがってくれたが、おそらくあたしのことは、きっとほかの子よりもより深くかわいがってくれていたと思う。たぶんあたしが、事故でなくなったちいママの本当の娘、せとかちゃんと同い年だったからだろう。あたしのことを自分の娘の身代わり、いや、自分の本当の娘だと信じて育ててくれていたような気がする。そしてあたしが十歳になった時、ちいママは献体としてこの世を去った。当然、血の繋がっていないあたしはちいママを食べる権利を持ってはいない。そして多分ママも、ちいママを食べてはいないと思う。それらしい光景を見たこともなければ、そんな話すら聞いてもいない。
 

 家族庭園、橘の立派な表札がかかった門の前にあたしは立ち、フェンスの向こうで遊ぶ子供たちを眺めながら、インターフォンを押すべきかどうかを悩んでいた。今更どんな顔をして合えばいいのかがわからなかった。

「あの……わたくし、牧瀬香里奈と申します。以前こちらの施設でお世話になったことがあり……」

 小さな声で呟きながら、今からはなすべき言葉を考えながら練習をしてみる。やっぱり少し堅苦しいだろうか…… まずは過去のことを謝る所から始めるべきか…… 迷うながらもインターフォンの呼び出しボタンの前で人差し指を出したままで考え込んでいた。園庭の子供たちがはしゃぐ声が静かな街並みに響く。子供の何人かがあたしの方に振り向いたように感じた。

「あー、ママだー」

 と、誰かが叫ぶ声が届くと同時にすぐ真後ろから声をかけられた。

「香里奈ちゃん、そんなところに突っ立って何してるの? 早くお入りなさい」

 慌てて振り返るあたしの真後ろにママ、橘柚子が立っていた。もう80近い年齢のはずだが、まだ背筋はまっすぐにのび、陽射帽を目深にかぶり、もんぺ姿の作業着で立っていた。手に持った網かごには大量の野菜が詰められている。おそらく園の裏手にある自家農園で栽培された野菜だろう。泥だらけの顔は真っ黒に日焼けしており、深いしわが幾重にも走るその姿は記憶の中のままとまるで変っていない。思わず「お元気そうで」とつぶやく。

「あたりまえじゃないの」と言って、「さ、早く」と入口を指差す。

 あたしはフェンス脇の格子の隙間に手を突っ込み、半回転ひねって見えないところにある格子のストッパーを器用に回す。日中にこの園の入り口の格子に鍵がかけられていることはまずない。ストッパーは手を伸ばせば簡単に外せる。外側からはそのストッパーがどこにあるのかは見えないので部外者がストッパーを外すのは容易ではないだろうが、この園に長いこと住んでいる者なら誰だって簡単に外すことができる。

 結局あたしは堅苦しいあいさつも、謝罪の言葉もないままに園内に入っていくことになった。入口のすぐわきにある水道ですぐさまに収穫したばかりの野菜を洗い、簡単に皮をむいたりの処理をする。何も言わずにそれを手伝うのは昔と一緒だが、気付いてくれているだろうか。今のあたしはプロになっていて、あのころに比べて格段に手際が良くなっていることを。作業はあっという間に終了して、調理場へと運びこんでから、その隣のママの部屋へと移動する。『園長室』という表札はそこがかつて保育園だったころからずっと貼られたままの表札で、今ではすっかり黄ばんでぼろくなっている。主に事務仕事をするためのママの部屋を園長室と呼ぶ人は誰もいなかった。あくまでもそこは『ママの部屋』でしかなかった。

「香里奈、ちょっとお茶入れてよ」

 とママは何事もなかったように、まるで昨日も当たり前のようにあたしをそうやって使ってきたように指示を出す。かつてのあたしもそれを当たり前のようにこなしてきたから、やり方はわかる。すっかり古くなったコーヒーメーカーで、メモリよりも少し薄めに落とす、ママのコーヒーの好みも覚えている。まるでこの場所はずっと時間が進まない場所のようにすべての物の配置もあの頃のまま何も変わらない。

「すっかり見違えたわ。立派になったのね」

「ママは全然変わっていない」

 ようやくそれらしい挨拶をかわしながら、「はい」と紙袋に入った手土産の和菓子を手渡す。都心の高級老舗和菓子店。紙袋に堂々とロゴが入っているにもかかわらず、中を除いて確認しながら、「まあ、高級品!」と声を上げる。大きい箱に入ったどら焼きだが、ここの子供たちみんなで食べればあっという間になくなってしまうだろうけれど。

「だいじょうぶなの? こんなに高価なものを」

 と言うママに対し、あたしは少し得意気な表情で答える。

「まあ、初めての給料と言うやつね。高価は高価ではあるかもしれないけれど気にしないで、あたし、国家公務員なんだから」

 まるで、この園を飛び出す頃にあんなにぎくしゃくしていた事実を、謝ってもいなにのにまるで忘れ去ってしまっているかのような素振りで話すあたし。国家公務員と言う言葉だけでママには通じるだろう。それがかつてあたしが語っていた夢を実現したということを。

「そう、じゃあ、本当になったのね。人肉調理師に」

「まあ、実はまだ見習いなんだけどね」

「それでもすごいわ。料理人の中ではエリートなんでしょう? 人肉調理師なんて」

「まあ、それはそうだけど」

「さすがはわたしの娘ね。鼻が高いわ」

 相変わらず、〝孫〟ではなく、〝娘〟と言い切るのが厚かましくていい。
 それからしばらく話し込んで、これまでの空白の数年間を埋めて行った。
会話の中で、最近では子供が少なくなってきたことを嘆いていた。子供は国の宝よ。と言う言葉は昔から相変わらずママの口癖だ。最近ではあまり献体孤児すらもいなくなってきて、里親を捜してここにたどり着く園児も少なくなってきているようだ。決して子供を捨てる親が減ってきたというわけではない。ただ単に子供を産もうとする親がいなくなっているのだ。この園にはルールがあり、どんな園児も18歳を過ぎて高校を卒業すればこの園を立ち去らなくてはいけない。それは決して追い払うわけでもなければ縁を切るわけでもない。自立できる年になったら自立して、次の孤児を受け入れる場所を開けてやると言うことだ。自立してもこの園はいつまでも孤児たちの故郷であり、いつでも遊びに帰ってきたらいいとママは言っていた。一度はもう帰らないつもりで出て行ったあたしだったが、こうして帰ってきて本当によかったと思った。

 陽が少し西に傾きかけた頃、ママは立ち上がり、「ご飯、食べていくでしょ」と言った。
 あたしはそこまでの予定はなかった。挨拶を済ましてすぐに変えるつもりだったが、つい、里心が出てしまい、「はい」と答える。
 立ち上がるママを抑えて、

「ねえ、ママ。今日はあたしがつくるわ。とってもおいしいものを作ってあげる。あたしプロなんだから」

 ママは鼻で笑った。

「バカ言ってるんじゃないよ。そんな余計な事してくれるんじゃない。香里奈はわたしの手伝いさえすればいいんだよ。いいかい。わたしの喜びを奪わないでおくれ」

 ――そうだった。ママの喜びは、子供たちみんなに自分の手料理をつくって食べさせることだったと思い出す。ちょっとプロになったからと言ってあたしも少しばかり調子に乗ってしまった。ママの、悦びを奪ってはならない。

 昔から、ママの作る料理のお手伝いをするのがあたしの役割だった。一度に約20人分の料理。嫌でも料理がうまくならないわけもない。今から思えば、これがあったからあたしは調理学校を首席で卒業できたのかもしれないし、そもそもがコックになりたいなんて考えには至らなかったかもしれない。

 今日の晩御飯のおかずは肉じゃが。肉じゃがとは言っても、お金がないから牛肉は買えない。替わりに豚バラ肉を使うので味が弱い。そこで砂糖を多めに使うのだが、それがかえってしつこい味付けになる。いもの面取りは横着するので出来上がりには少し煮崩れして、出汁に煮崩れたいものざらざらの食感が残る。色味のためのきぬさやも最終的に一緒に煮込んでしまうので、仕上がりの色はきれいな緑ではなく、くすんで茶色っぽくなっている。

 正直言ってあまり出来のいい肉じゃがだとは言い難い。むしろこれをプロの料理人であるあたしが手伝ってこの仕上がりだという事実は褒められたものではないだろう。しかし、それはママの言うとおりの作り方でやるのだから文句も言えまい。

 しかしながら、十人以上の子供たちとテーブルを囲み、『いただきます』の号令の後の食べるこの肉じゃがの美味いことと言ったらないだろう。それは子供たちの笑顔のせいだろうか。あるいは幼少期から何度も繰り返し食べさせられてすり込まれた味付けに対する郷愁かもしれない。おふくろの味と言えばそれまでのことかもしれない。

 と、そこでふと思い至った。今まで自分には両親はいないとばかり思い込んできたのだが、それはまったく違っていたのだ。あたしにとっての親は、誰が何と言おうとママでしかない。先日のあゆみさんと瓜生さんに対しても偉そうなことを言っておきながら、何でそんな簡単なことに今まで気が付かなかったのだろうか。家族なんてものが血のつながりだけで出来上がるわけではないということを。

 食事が終わり、団らんが始まるころになり、あたしもそろそろ帰る準備をしなければと思っていたころ、ママはおもむろに「今日は泊まっていくんだろ?」と切り出す。あたしが帰るつもりだということを言い出すよりも早く、壁の古い時計を眺めながら「もう、バスはないよ」と言う。

 まだ時間は夕方8時前だ。いくらなんでもそんなことはと思いながらも、たしかにあの街並みのすたれようではそれも仕方のないことかもしれないと感じた。「おじゃまじゃなければ」と言って子供たちと一緒にお風呂に入り、小さな子供を寝かせつける。数年前の高校生時代にもここで同じようなことはしていたが、その頃は自分が〝姉〟だという認識だった。しかし、今こうして社会人になって同じことをすると、なぜか自分が〝母親〟になったような気がする。結婚もしていなければ、今まで恋人のひとりですら作ったことがないというのに。

 小さな子を寝かせつけて、ママの部屋に向かう。あたしの寝る部屋はないので、そこにママが布団を用意してくれているらしかった。

 部屋へと入ったあたしをママはにんまりと笑いながら手招きをした。

「アンタももう、大人になったんだろ」

 そう言うママの手にはかわいらしい焼酎の瓶が握られている。夜になるとママが一人でこっそり、部屋で晩酌をしていることは以前から知っていた。いつもひとりで静かにグラスを傾けるしぐさを、あたしは少し離れた場所からなんとなく眺めていたのだ。

 ママはうれしそうだった。今夜は晩酌の相手がいるのだ。18歳になると自立するというルールのあるこの孤児院ではママの晩酌の相手はいつになっても現れない。だからあたしは格好の餌食と言うわけだ。もしかすると本当はあの時、まだバスはあったのかもしれない。けれども晩酌の相手欲しさにママが嘘をついたというのは十分に考えられることだ。ママの性格ならばよくわかっている。なにせあたしはママの娘なのだから。

 『胡麻焼酎 紅乙女』ママの手に持っている焼酎の銘柄だ。麦と米麹をベースに、その名の通りごまを加えて蒸留しているらしい。二つ並べたグラスにそれぞれ半分の高さまで焼酎を注ぎ、電気ポットで沸かしたお湯を注ぐ。沸騰したてのお湯は少し熱すぎだ。焼酎の湯割りには適さないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。熱い湯を注ぐと、あたり一面に胡麻の香気がふわっと広がる。猫舌なあたしはふうっ、ふうっと息を吹きかけて冷ます。そのたび胡麻の香りが辺りを包む。熱い湯割りを恐れながらにすするように飲む。胡麻独特の香りが広がる。麦焼酎では味わえないクセががある。

「クセの強いお酒ですね」

「まるでわたしみたいだろ?」 

 そういえばどこかで聞いたことのあるような言葉だ。酒飲みの人間と言うやつはどうしてこんなにに自分の性格と酒の味とを結びつけたがるのだろう。

「もう少し、飲みやすいのはない? あたしには少し強すぎるかもしれない」

「なあに、馴れてしまえばどうってことないさ。大体さ、『このお酒、飲みやすくっておいしーい。まるで水みたいに飲めちゃうー』
(少し馬鹿にしたように若い子の声色を真似て言う)なんてやつはさ。水を飲んでりゃいいんだよ」

 なんて極論なんだろう。

 しばらく昔話をしながら、あたしはのみにくい焼酎を舐めた。ママは顔を赤らめてうなだれる。少し酔いが回ってきているようだ。それでもなんだか楽しそうに見える。

実はずっと、こうして晩酌に付き合ってくれる相手が欲しかったんじゃないだろうか。ちいママは、ここでこうしてママの晩酌を相手していたんだろうかなどと感慨にふける。

すっかり酔っぱらったママは、うなだれてうつむいたまま、静かに話す。

「香里奈、あのねえ……あんたには言っておくよ……」さっきまでの陽気なテンションより、ワントーン落としたような口調、あたし
に向かって話すというよりは、うつむいてそのまま地面に言葉を転がり落とすような言い方。あたしが聞いてなければ聞いていないでその方が都合がいいみたいに、はっきりとした言葉にはならない、言いよどんだような口調でママは言った。

「わたしねえ。どうやら癌が出来ちまっているらしい……もってあと半年くらいなんだとよ……」

 あたしはこういう時、どんな言葉をかけてやればいいのかを知らない。たとえ知っていたところでそれを上手に話すだけの自信もない。

「もうこんだけ生きりゃあ思い残すこともないんだけどね。残されたあの子たちがどうなるのかを考えると少しね……」

 実質ママにはたくさんの子供はいるが、血を受けた実の子がいるわけではない。ママの死後、この園がどうなるのかはわからない。それに園を残すことが出来ても肝心の里親がいなければ子供たちは路頭に迷うだけだ。

 それだけじゃない。血縁関係者のいないママにはまた別の問題も残される。あたしは職業柄、そのことが気になった。

「ねえ……ママの遺体は誰が食べることになるの? このままだと、誰にも食べてもらえなくなっちゃうじゃない」

 その言葉に、ママは少し眉をしかめた。しかし、あたしはそんなことを気にもせずに、言葉を続けてしまった。

「少し前に仕事であったお客さんなんだけど、血縁関係のない子だけど、食べる権利を認められている子もいたわ。養子縁組が成立していればその子に食べる権利が与えられるのよ。あたし、思うんだけどママはここの園の子たち、みんなに食べてもらうべきなんじゃないかと思うの。調理はもちろんあたしがするわ。だから……」

 ママは必死にしゃべるあたしの唇に、自分の人差し指を立てて添える。口角は上がっているが、眼は笑っていない。その笑っていない眼には覚えがあった。

 あれはあたしが中学生のころ、人肉が食べたいあまりに将来人肉調理師になりたいと言った時のことだ。何の悪意もなく、ただただあたしは人肉を食べてみたいという言葉をママの前で語っていると、ママは突然眼光をとがらせ、

「そうかい、そんなに人肉を食べたけりゃあとっととどっかへいって人間を捕まえて食べりゃあいいさ」

 と言われた。あたしはママの突然の冷たさに戸惑い、どうすればいいのかもわからなくなり、おそらく怒りに任せてママに対して何か暴言を吐いたように思う。今となっては何を言ったかなんて覚えていない。
ただ、おそらくその頃からママとあたしの仲は悪くなったんだと思う。それからほとんど口を利かなくなり、中学を卒業すると全寮制の高校に進学し、調理学校へと進んだ。

あたしが小学四年生のころ。次々に誕生日を迎えて10歳になっていく友達は皆、両親のどちらかが献体になり、その肉を食していった。中には祖父母や親せきの肉を食べたことがあるという子もいたが、ほとんどの子供たちはたいてい初めて人肉を食べることになる。初めのうちは泣いていたり、悲しんでいる子が多かった。まだ食べたことのない子供の中には、友達が親を食べたことを気持ち悪がり、罵ったり冷やかす者もいたが、やがてクラスの大半がその経験を経ていくたび、むしろ食べたことがないというものの方が立場は低くなっていった。食べたことのない子を囲み、食べたことがある子たちが、いかにその味が素晴らしいものかを語る。
人肉を食べるということはその当時の子供たちにとって、大人になるための一つの通過儀礼だった。

あたしには血のつながった両親はいないが、ちいママのことを本当のおかあさんのように思っていた。当時、ちいママが献体になるということは聞いていたし、もしかしたら自分も食べさせてもらえるんじゃないかと胸躍らせて待っていた。
しかし、あたしはちいママを食べさせてはもらえなかった。おそらくママも食べてはいないんじゃないかと思う。その事についてママの口から何かを語られることはなかった。

学校では、「お前はみなしごだからどうせ食べたことないんだろ」と馬鹿にされた。
あたしは皆に、ちいママを食べたと嘘をついた。その事で皆はあたしを仲間だと受け入れてくれるようになったが、心の中では常に後ろめたさがついて回った。その後友達と人肉を食べた感想を言いあうような機会があればいつも決まってあやふやな言葉でやり過ごし、周りの言葉にやたらと調子を合わせながらうなずくだけだった。

――いつかは本当に人肉を食べたい。

それがあたしの夢になっていた。


「その事は言わないでおくれ。わたしは誰かに食べてもらいたいなんて思っちゃあいないだよ」

 あたしの唇に人差し指を重ねたママは静かに、諭すようにそういった。

「そういやむかし、人肉を食べたいって言ったあんたと口論になったこともあったねえ」

 と、ママはその時の話を持ち出す。

「悪く思わないでおくれ。あの頃はわたしもまだ、ちゃんと心の整理が出来ていなかったんだよ。別にあんたたちの世代が悪いわけじゃあない。けどね、あたしがまだ若かったころには人を食べるなんて習慣はなかったからさ、どうしてもなじめなかったし、自分が誰かを食べたいとか、食べてもらいたいなんて言う感覚はないんだよ。それにね。あの頃はまだ、食人法なんてものに憤りさえ覚えていたのさ。あんな法律がなければ娘は、清美は死ななくてもよかったんじゃないかってね……
 わたしは今、老いて死を間近に控えている。死ねばすべてが消えて何もかもが終わりになるが、せめて自分の遺伝子を継いだ子供がこの世に生き続けてくれるのならばまだ死にようってものがあるさ。だけどね。自分の遺伝子を継ぐ者がいなくなってからのこの十年間、ずっと死ぬことが怖くて怖くて仕方がなかったんだよ。そりゃあねえ、香里奈。わたしはあんたをはじめ、ここにいるすべての子供たちを自分の子供のように思ってかわいがっているけどねえ、やっぱり自分の遺伝子を継いだ本当の子っていうのはやっぱり特別なんだよ。香里奈も、自分の子供を持てばわかるようになる……」


 ――自分の子供を持てばわかるようになる。


 ママのその言葉は衝撃的だった。あたしは自分がいつか子供を産むなんて考えたこともなかったし、子供を持てばわかるなんて……それでは子供を持たなければずっとママのその気持ちはわからないっていうことじゃないか……

 あたしはそれ以上何も言えなくなってしまった。ママの涙を初めて見たせい……と言うのもある。ママはすっかり酔ったふり(たぶんふりだと思う)をして、すっかりうなだれて布団にもぐりこむ。あたしは電気を消して、ママに背中を向けて眠りに落ちた。

「また、帰ってくるから」

 翌朝朝食を終えた後、余計な話は何もせずにママに別れを告げた。ママも昨日のことは何も言わなかった。酔った勢いで言ってしまい、何も覚えていないことにしているのかもしれない……

『また帰ってくる』と言った言葉の気持ちは本当だ。そんに遠くないし、いつでも帰ってこられる。できるならばもっと頻繁に帰ってくるべきだ。ママとこうして話していられるのはそれほど多くはないのだから。でも、その一回一回が残り数回の何分の一かだなんて決して考えてはいけない。そんなことをすればきっとあたしはママと思い切り本音で話せなくなってしまうだろう。あたしはこれから先、ここに帰ってくるたび、なるべく自分のことを話そうと思う。この世からママの遺伝子はなくなったとしても、そのママの意思を受け継いだ存在が、今日もまたこの空の下で生き続けているんだということを伝えるために。

 ママは血の繋がっていない子供たちはやはり血のつながっている子供とは違うと言っていた。あたしにはそれがどういうことなのかはわからないが、血がつながってさえいればそれでいいというのも違うと思う。あたしを捨てた親は、この空の下のどこかで今も生き続けているかもしれない。そして自分の子がどこかで生き続けてくれているだろうと期待しているのかもしれない。しかし、あいにくだがあたしはそんな両親を自分の親だとは思っていない。遺伝子以外は何も受け継いでいないのだから。

 結局あたしの親は、ママとちいママしかいない。その事を、わかってもらうために、ここにはあと何度か帰ってくるだろう……


 帰りのバスの中で携帯電話に着信があり、見ると相手は堂嶋さんだった。連休中に連絡と言うことは、緊急の仕事が入ったのかもしれない。

「はい、もしもし……」

「あ、ああ。香里奈君……。休みのところ、申し訳ないんだが……」

「いえ、大丈夫ですよ。仕事……ですか?」

「あ、ああ。うん。今日、これからなんだけど時間大丈夫かな?」

「こ、これからですか?」

「あ、いや、無理ならいんだ。別に僕一人でも問題ないんだ。ただ、ちょっと食事に出かけるだけだし」

「あ、なんだ。デートの誘いですか?」

「デ、デー……、い、いや、そういうわけじゃなく……」

 わかってて言った。こういう態度をとると堂嶋さんは少し動揺する。それがわかるようになってから、つい、からかい半分でやってしまう。本当に困った弟子だ。

「仕事で、人肉を扱っているというお店に食事に出かける。もちろん経費で落ちるから気にしなくていい」

 なんて素晴らしい仕事なのだろうか。人肉を扱うお店と言えば超高級店だ。しかもそれが経費で落ちるなんて、一体どういう仕事なのだというのだろう。これをみすみす断る手はない。しかし……

「実は今、都心から少し離れているんです。今、帰っている途中なのですが、そちらの方に到着するのは昼過ぎになると思います」

「昼過ぎか……」

 堂嶋さんはひとり呟いて、しばらく間をおいて続けた。

「だったら、今日晩はどうだろう? その方がゆっくり時間もとれるだろうし」

「はい。もちろんそれでよければ」

 食事は夜からと言うことで話がまとまった。集合はアトリエではなく、直接堂嶋さんのアパートに来てほしいということだった。後でメールで地図を添付された。そこから堂嶋さんの自家用車で現地に向かう。

 昼過ぎに都心へと帰ってきたあたし。まだ、夜の食事には時間がある。そこであたしは街に出かけ、ドレスを調達することにした。人肉料理店と言えば超高級店。あたしがふだん着ているようなラフな格好で行くわけにはいかない。それにもう、社会人なので、いつ、いかなる時にこういった衣装が必要になるかわからない。

 あたしは、ライトブルーの、背中の大きくあいたドレスを購入した。少しばかり恥ずかしいが、いつまでも子供と言うわけではない。このぐらい、あたしだって着こなして見せる。

 夕方になり、予定の時間よりも早く到着できるようにと心がけて堂嶋さんの住むマンションへと向かう。

 予想はしていたが、なかなかに立派なマンションだ。高級物件、と言うわけではないだろうが、エントランスなんてものがあるだけであたしが住むようなボロい寮とは比べ物にならない。言われた通りの部屋に行き、部屋の前のドアチャイムを鳴らす。中から出てきたのは堂嶋さんではなく、色の白い、目の吊った奇麗な女性だった。ふわりとした前髪を横にならし、ヘアピンで簡単にまとめるその額からは堂々たる自信が満ち溢れているようだ。肌の白さは普通の白さではない。まるで日光に当たることを否定して生きているかのように尋常無く白い。〝白魚のような〟と言う表現があるが、まさにその通りだ。白魚は本当は白いんじゃなくて透明だ。釜揚げすれば本当に白色になるが、そうでない限り、その色は無色透明で、彼女の肌はそれに近い。もし、彼女が死んで、あたしが調理する機会があるのならば、その体を一度茹でてみたいと思った。本当に白く濁るのかどうかを確かめたい。堂嶋さんとはどこをどう切り取ってもまるで真反対な印象を受ける。

「あらあなた、牧瀬香里奈さん?」

「あ、は、はい」

「いらっしゃい。主人なら、さっきから待ってるわよ。どうぞ中のほうへ」

 〝主人〟と言う言葉を聞いてすこしだけドキリとした。堂嶋さんに奥さんがいることをすっかり忘れていたということもあるのだが、どこかしら彼女の言う〝主人〟と言う言葉には、あたしに対する対抗心が少しばかりあったのではないかと思うのはうぬぼれだろうか。

それにしても堂嶋さんいはもったいないくらいにきれいな女性だ。いったいどんな裏ワザで彼女の心をとらえたのか、そこのところをまた改めてじっくり聞きたい。

彼女はあたしを室内へといざなうために、そのアーモンド形の目の中を、黒い眼球をとてもゆっくりと移動させて室内へと向ける。言葉はなくともその眼球だけでいくつもの言葉を語る。


玄関を入って通路の奥、ダイニングと一体になった広めのリビングのカウンターテーブルに肘をついたまま、シャンパンのグラスを傾ける堂嶋さんはあたしの格好を見るなり、思わず息をのんで目を丸くした。それは新調したドレス姿のあたしがあまりにも魅力的で……と言うわけではなさそうだ。ドレスアップしているあたしに対し、堂嶋さんは黒いポロシャツとジーンズというえらくカジュアルな格好だった。

シャンパンのグラスを持ったまま、微動だにしない堂嶋さんの隣のカウンター席に腰を下ろす奥さんはその旦那さんの耳元で「あなたがちゃんと説明しないからよ」とつぶやく。

「あはははは」と照れたように笑う堂島さんが説明をする。「実は今から行く料理店は高級レストランなんかじゃないんだ。どうも噂で、人肉を提供しているという噂の焼肉屋があってね、僕らはそれを調査に行く。そのお店は人肉を取り扱う資格を持っていないし、当然人肉調理師も常駐していないお店だ。もし、本当に人肉を提供しているのならば当然違法行為で、摘発しなければならないだろう。それにもし、それが正規のルートを経由していない人肉を使っているとなればそのルートの先に大きな闇市場が絡んでいるかもしれない」

「闇市場? どういうことですか?」

「つまり、政府が管理していない人肉を使用しているかもしれないということは、どこかで食肉用としての人身売買が行われているということだよ。そうなればこれは大きな人権問題だ。だからなるべく目立たないようにした方がいい。特に……そんなに派手な服装はちょっと……」

 それならそうと、もっと早くに言っておいてほしかった。こんな時に堂嶋さんの朴訥な性格が恨めしくなる。

「ねえ、こっちにいらっしゃい」と、奥さんがあたしの手をとった。冷えた魚のようにとても冷たくて、絹のようにしなやかで、シフォンケーキのようにしっとりした手だ。あたしをリビングの隣の部屋へと連れて行く。そこは奥さんの衣裳部屋で、あたしはそこで奥さんの普段着を借りて着替えることにしたのだ。幸い身長も同じくらいで都合がよかった。カジュアルなシャツとパンツを借りてきた。丈もちょうどぴったりだったが、どういうわけかウエストだけが少し苦しい。でもそこはお腹を無理に引っ込めて無理矢理にはくことにした。くるしくて穿けないなんて、プライドが邪魔して言えるわけがない。自前のドレスは折りたたんで紙袋に入れて渡してくれた。
 
 ダイニングに戻り、まだ予約の時間まで時間があるからと、カウンター席へと座った。堂嶋さんを挟んで、左側が奥さん。右側にあたしだ。

「あの、今日は奥さんもご一緒されるんですか?」

「ううん、わたしは今日はご遠慮させていただくわ。だから二人で楽しんできて。それに子供も寝ているから、誰かがここには残らなきゃいけないでしょ」

 奥さんは堂嶋さんの隣でシャンパングラスを片手につまらなそうにつぶやいた。子供がいるという事実をさらりと流す。それについてあたしがなにかを質問する間を与えないほどに堂嶋さんが言葉をつなぐ。

「それに妻は、人肉を食べるのが苦手でね」

「そう、なんですか……」

「だって人肉ってね、なんだかいやじゃない? 牧瀬さんはそんなこと考えたことない?」

「あ、あたしは別に……」

「わたしも別にね、家族の肉なら食べられないこともないのよ。だって身内だからいまさらっていうのはあるし……でも、あったこともない他人の肉となるとなんだか気持ち悪いかなって思うのよ」

「あ、ああ。ま、まあ、妻はその……少し潔癖なところがあるんだ……少し」

「でも、ベジタリアンなんかよりはぜんぜんまともでしょ? だってベジタリアンの人は肉なら何でも食べないっていうくらいなんだから……
 ほら、ベジタリアンのひとってさ、すぐにかわいそうだとか生き物を食べるなんてっていうでしょ? でも、あれっておかしいと思わない? だって植物だってみんな生きているのよ。それなのに食べてはいけないのは動物だけだなんて、命を平等に扱っていないのとおんなじことでしょう?」

 たしかにそれはひとつあると思った。植物でも動物でも命の価値が同じであるというのならば、植物だけを食べていいなんて言うのは道理にかなっていない。つまり、りんごをひとつ齧るのと、人間を一人食べることは、業の深さは同じと言うことだ。だからすべての生き物は生きるために食べるというすべての行為に対し、その業をかぶって行かなくてはならないはずだ。ベジタリアンと言う考え方は、植物をいのちから除外することによって、その業から抜け出そうとする行為にも見える。
しかしそれを言うならば、どうせ一つの命を食べるという業を背負うのなら、小さなりんごをひとつ齧るより、一人の人間を食べることの方が、過食部分の多さと言う点で、効率が良い。一つの命で賄える食料が全然違うわけだ。その場合、一人の人間が成長するまでに必要な食糧、即ち命の量まで計算に入れてはならない。そんなことをしていてはきりがないだろう。それに、命を食べることに嫌悪するというのなら、畢竟答えはおのずと知れてくる。さっさと自分を食料として献体することだ。これ以上命を食べる必要もなく、自分の命で多くの食料が得られ、それが次の命へとつながっていく。

「まあ、なんにせよ」と、堂嶋さんが会話に入ってくる。「自分がどう受け取るか、と言うことに尽きるんだよ。動物っていうのは動くから、どうしても生き物と言う感じがして食べにくいというだけだ。ベジタリアンだってそんなことくらいは理解している。我々だって動物の肉が食用として精肉加工された状態で手元に届くから、食料として食べやすいが、目の前に歩いている豚を捕まえて、その腹を裂いて食べろと言われれば少しくらいの抵抗もあるだろう。反対に想像力の豊すぎる人からすれば、リンゴを木からもいで丸かじりする光景は少々残虐に映っているのかもしれない」

「ああ、でもですね、堂嶋さん」と、あたし。「植物は食べられることでに繁殖する性質を持っているじゃないですか。蜜を吸ってもらったり、果実を食べてもらったりすることで子孫を遠くに繁殖させる能力を持っています。でも、動物は違う。動物は繁殖するために食べられることを自ら望んだりはしない。食べられたくないと思って逃げることが動物の習性。だからベジタリアンの人は自ら食べられたいと願う植物は食べて良しとして、食べられたくないと逃げる動物は食べてはいけないという結論になるんじゃないかしら」

「でも、その理屈ではベジタリアンは植物の茎や葉や、根菜なども食べられなくなる。尤も、そう考える真正のベジタリアンもいないわけではないけれどね。
 しかしまあ、皮肉を言ってしまえば、豚は人間に食べられるという性質によって、野生から守られ、意図的に繁殖、品種改良を繰り返されることになる。その結果、豚の個体数は野生で生き続けるよりも格段に個体数を増やすに至っている。種の繁栄が生物の本懐なら豚は食べられることによってその本懐をなしたともいえるんじゃないだろうか」

「それが、幸せなことかどうかは考え物ですけど……」

「ともかく……」と、そこに奥さんが言葉を挟む。「あなた達は物事を難しく考え過ぎよ。料理人っていうのはいちいちそんなことまで考えて料理を作っているわけ? 要するにおいしければいいのよ。食べて、そのことによって癒されたり、幸せになれればいいのよ。すべての生き物はどのみちいつかは死んでしまうわけだし、せっかくならおいしく食べてもらうのが一番の幸せなのよ。牧瀬さん、あなたも少しリラックスして考えた方がいいんじゃない?」
 と、言って、堂嶋さんの陰からあたしの方に目を向ける。――リラックス。と言う言葉を自分で言ったからか、その時初めて気が付いたようだ。

「あら、今まで気が付かなかったわ。ごめんなさい」と言って立ち上がり、あたしの前にグラスを置いて、シャンパンを注ぐ。

「あ、ありがとうございます」

 と言ってグラスを手に持った。しかし堂嶋さんがそのグラスをすかさず奪い取り、中身を一気に飲み干してしまった。

「そろそろ出発しようか」

 そう言って、奪ったグラスの代わりに、あたしの手に鍵を差し出した。見慣れた国産車のロゴが入った車のキーだ。そういえば現地へは車で行くと言っていた。そのくせ堂嶋さんはあたしがここに来たときにはすでにシャンパンのグラスを傾けていたのだ。あたしを直接ここまで来させたのはこのためだったのかと気づく、車で送迎するのは堂嶋さんではなく、あたしの方だ。まあこれも、弟子の仕事の一つなのだとあきらめるしかない。

 堂嶋さんが一足先にマンションの部屋を出て、それを追ってあたしも部屋を出る。玄関まで見送りにきてくれる奥さんに対し、振り返ってもう一度服を借りたお礼を言う。奥さんは「そんなことを気にしなくていい」と言いながらあたしの耳元で、かすれるような声で囁いた。女同士あるにもかかわらず、耳の奥へと届くそのこそばゆい声に色香を感じる。


「あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん」

 なんだって彼女はその時いきなりあたしのことを『香里奈さん』なんて下の名前で呼んだのだろう。ついさっきまでは『牧瀬さん』と呼んでいたはずだ。しかしその時のあたしはそれを特別気にするでもなかった。ただ何となく、それに引っかかっただけのこと。

 移動中の車の中で、不満を漏らすようにつぶやく。

「堂嶋さん。子供がいたんですね。なんで今まで教えてくれなかったんですか?」

 言いながら、なんだか自分の発言が堂嶋さんの不倫相手みたいだなと思う。

「別に、隠していたわけじゃないさ。聞かれなかったから言わなかっただけだよ。それに、余計な心配をさせる必要もないかと思って……」

「余計な心配だなんて……」

 ――余計な心配。

 その子供のせいで、いつかは両親のどちらかが献体にならなければならないという心配。
 それをあたしがしなければならないということは――。

「堂嶋さん……」

「ん?」

「一つ聞いていいですか?」

「答えられることなら」

「どうして、結婚して子供を産もうなんて考えたんですか?」

「どうして? そんなことに、理由なんて必要なのかな。結婚して、子供を産むというのは、ごく当たり前の衝動だと思うのだが」

「あたしからしてみれば、そんなこと普通じゃないですよ。だって、子供を産めばその親のどちらかは死ななければいけないんです
よ。それなのに、そこまでして子供を産みたいって理由が、あたしにはよくわからないんです。そりゃたしかに子供はかわいいかもしれませんけど、何も命を捨ててまで欲しいものかと言うのはちょっと……」

「いのちを捨てて、と言うのは少し違うかもしれないな。どちらかと言えば、自分の命を無駄にしないために……」

「……どういうことですか? それじゃまるで真逆の意味じゃないですか?」

「どういうことと言われてもね……。まあ、そのうちわかる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。その感情を言葉にするのは少し難しいな。
 ねえ、牧瀬君。カマキリのオスは、何でメスと交尾したがるのかな?」

「カマキリの交尾? それは、新手のセクハラですか?」

「ははは。カマキリのオスはね、メスと交尾すると、その交尾の最中、メスに頭から齧られるんだ。頭がなくなった状態でオスはさらに交尾をつづけ、メスに卵を産ませるんだ……」

 頭の中でその映像を想像し、気持ちが悪くなった。

「な、何でそんなことを……」

「メスが卵を産んで育てるということはね、とても労力のかかることなんだ。だから発情期のメスはその体に栄養を蓄えるため、たとえ相手が同胞のオスであっても、捕食して栄養を蓄えようとするんだ。
 無論。食べ物が豊富に確保される状態であればそこまでのことはしないさ。でもね、自然界の生存競争と言うものはそんなに甘いものじゃない。食べ物が足りなければ同胞を食べてでも栄養を蓄え、子孫を反映させなくてはならないんだ。メスはそれをわかっているからオスを食べ、オスはそれをわかっているからメスに食べられる……」

 堂嶋さんはそれっきり、感慨にふけって何も話さなくなった。

 あたしが聞きたかったのはきっとそういうことじゃない。なんで、そこまでして子孫を残さなきゃいけないのか……と言うことだ。

 その後、車を走らせること約30分。都内23区を少し外れたとある場所。都心からそう遠く離れていないにもかかわらずあたりは街灯も少なく閑散としている。車を止めて繁華街を歩くが、その半数近くはシャッターが閉まっているというありさまだ。かつては都心のベッドタウンとして人気のあったこのあたりも、人口減少があった今となってはすっかり老人だらけのさびれたエリアになった。まるで古い映画でも見ているかのように町並みはレトロな商売の店が目立つ。そんな繁華街からさらに一本路地を入り、いかにも胡散臭さがにじみ出る焼き肉店が、今時珍しいピンクのネオン管に照らされる看板で営業していた。『ヒカリゴケ』と言う店のロゴが一文字づつ順番に消えては点き、最後にヒカリゴケの文字全体がちかちかと点滅をする。確かにこんなお店にパーティードレスで入ったならさぞ浮いてしまうことだろう。

「なんでこんな場末なんでしょうね。さすがにこれじゃあお客さんも集まりにくいんじゃないですかね」

 あたしのつぶやきに堂嶋さんは半分笑いながら答える。

「たぶんそうでもないさ。むしろこういう場末であるほうが周りを気にせず入りやすいというものだろう。やはりそれなりに後ろめたさも感じる食材ではあるからね。特にこの町にの住人の多くを占める老人たちからしてみれば、若いころに人肉を食べるなんてことはとんでもないタブーだったわけだし、最近の若い子のように十歳の時に親を食べる習慣もなかった。だからこそ尚更一度は食べてみたいというのもあるのだろう。まあ、冥途の土産にと言うやつだ。あの世に金は持って行けないし、遺産を残してやる子孫もなくなってきたというのが現状だ。あるうちに使った方がいい」

 そう言われて、ママの言葉を思い出す。

『自分が誰かを食べたいとか、食べてもらいたいなんて言う感覚はないんだよ』

 まあ、それはきっと人それぞれなんだろう。そういえば、仏教、真言宗の総本山の高野山には路地裏にひっそりと一軒の焼肉屋があるという話を聞いたことがある。
 高野山に住んでいるのはそのほとんどが全国から修行のために集まった僧侶ばかりで、当然修行中の身であるため、基本的に食肉は認められてはいない。しかし、その路地裏の焼肉屋さんは毎日大繁盛しているという。

 怪しげなドアを開け、中に入ると外装とは一転、きれいな内装で、白シャツ、黒ベストのギャルソンが出迎えてくれた。店内はすべて個室となっており、あたし達は小さな個室に通された。中央には大理石のテーブルがあり、その中央がくりぬかれて焼き肉の網がかかっている。網の下には空洞になっており、厨房で用意された備長炭がそこにはめ込まれるという仕組みになっている。ギャルソンがメニューと一緒に、バインダーに挟まれたアンケート用紙のようなものを置いて行く。注文が決まったら、席に備え付けのボタンを押してほしいとの旨を告げ、注文時にそちらの誓約書にサインをしてほしいとのことだった。

 アンケート用紙ではなく、誓約書のようだった。そこには、当店で食べた料理について、一切の口外をしない事、どんなものを出されても一切のクレームをつけないという内容だった。堂嶋さんはさっと目を通した後、すぐにサインをして脇にどかす。メニューを広げて吟味する。

 メニューには、その名を見てもすぐにぱっとイメージのわかない言葉が並ぶ。

 月夜、さくら、もみじ、かしわ、ぼたん、ざくろ……一見して焼肉のメニューではなさそうではあるが、たしかにいくつかは肉の名前として覚えのあるものもある。あたしの頭に浮かぶはクエスチョンマークを読み取った堂嶋さんが説明を入れてくれた。

「植物の名前は、それぞれが何の肉かを表している。江戸時代、徳川綱吉が生類憐みの令を発令した際、公に食肉することを禁じられた町民はその肉の名を植物の前で呼ぶようになった。月夜はうさぎ、柏は鶏、桜が馬で、牡丹は猪、紅葉が鹿だ」

 説明を聞きながらメニューをなぞり、それぞれがなんに肉なのかを頭の中で整合させていく。堂嶋さんの説明の中で唯一何であるのかを語られていない植物が柘榴。それがいったいなんであるのかをここで口に出すのは無粋と言うものだろう。柘榴の名のつく肉だけが金額がべらぼうに高い。他のメニューとは桁がひとつちがう。しかしそれでもちょっと無理をすれば庶民でも手が出るぎりぎりのラインと言うところだろう。

 ボタンを押して店員を呼んだ堂嶋さんは誓約書を店員に渡すと、迷うことなく柘榴のメニューだけをひととおり注文する。頭でざっと計算するだけでも恐ろしい金額になりそうだ。

 ひととおり注文をして、ギャルソンが個室を出て、再び部屋にふたりきりになると、堂嶋さんは注文の品が届くまでにちょっとした話をしてくれた。

「香里奈君は台湾素食(たいわんすーしー)と言うのを知っているかい?」

「寿司?ですか」

「スーシーだ。菜食のことを指す。台湾は人口の一割がベジタリアンと言う菜食国家でもあり、台湾で主に食べられるベジタリアン料理をそう呼ぶ。この料理、他国のベジタリアン料理とは少し違い、味付けも結構しっかりしていて、肉食派の人が食べても違和感を感じないほどにしっかりとした味わいだ。それにそのもっとも特徴的なのは、所謂もどき料理だ」

「もどき?」

「そう、台湾素食では湯葉やグルテンを使って様々なもどき料理を作る。見た目がまるで海老だったり、ウナギだったりと言うものだ。これがなかなか見事な技術で、ちょっと見ただけではホンモノのウナギと区別がつかなかったりする」

「……なるほど、それは結構な皮肉ですね」

「ああ、その通りだ。本当の菜食主義なら、わざわざ手のかかるそんなものをつくる意味なんてないんだ。本当はウナギやエビが食べたくて食べたくて仕方がないが、食べてはいけないという意思の方を優先して、替わりに偽物を食べて我慢しているということだ」

「……結局、食べ物に対して、それに向き合う人間が何を考えるか、なんですね……」

 そして会話にひと段落が付くタイミングを待っていたかのように(あるいは本当に待っていたのかもしれない。この個室のどこかに盗聴器でもしかけていて、部屋の外でそれを聞いていたということだって考えられなくはない)〝ざくろ肉〟が運ばれてくる。赤身の肉を中心に、見ただけではどこの肉なのかよくわからないような内臓肉。
 程よく熱せられた金網にざくろ肉を乗せると、白い煙とともに、じゅーっと言う音が響き香ばしいにおいが立ち込める。否が応でも口の中に唾液があふれる。

 片面を十分に焼き、裏返してからはなるべく焼きすぎないうちに食べた方がいいという堂嶋さんの言うとおりに、まだ中心が半生くらいの状態で網からとり、甘辛いたれに絡めて口の中に運ぶ。思っていたよりもずいぶんと弾力の強い肉だ。脂肪分もあまりなく少しぱさぱさしている。血と鉄を思わせる癖の強い匂いがする。味は確かに濃厚だが、正直言ってあまりおいしい肉だとは思えない……

 そして堂嶋さんは、そんなあたしの顔を見ながらこちらの気持ちを見透かしたように言う。どこかにあたしの気持ちがテロップで表示でもされているのだろうか。

「人肉なんて言うのはね、舌で味わうものじゃなく、心で味わうものだ。本来食べて、美味しい肉なんかじゃないんだよ」

 ――だから、あたしたち人肉調理師の仕事は特別なんだ。と言う意味でも聞き取れる。美味しいと、舌で感じさせるのではなく、心で感じさせる料理を作らなければならないという意味なんだろう。現に堂嶋さんの作る人肉料理は、いつもそうして作られてきた事実をあたしは見てきた。

「でも、それなのになんで好んで他人の肉を食べたがる人がいるんでしょう? 自分とは縁のない人間の肉なんて心で味わうのって難しくないですか? タブーだとわかって食べにくるこの町の老人たちと言い、大金をはたいて人肉を食べたがる世界のセレブリティと言い……」

「優越感、と言うのも一つあるだろう。他者を食べることによって、その相手よりも自分が優秀な存在であることを誇示したいのかもしれない。だからこそ人肉はあえて高価で取引される」

「要するに、高いからいいってことですね。美味しものが高いというわけではなく、それだけ価値のあるものだからいいということ」

「そうだな。レストランにしても、価格の高いお店がおいしいというわけではないだろう? 安い大衆食堂でもおいしい店はいくらでもあるし、高級レストランでもおいしくないお店はいくらでもある。しかし、高級レストランではそれなりに高価な食材を使っているし、サービスや環境も整っている。それらすべてを含めて考えれば、高級レストランにはたとえ味が悪くてもそれなりの料金が高いだけの価値はある。ほとんどの場合において」

「ほとんどの場合において……」

 それからあたしたちは時間をかけて、すべての柘榴肉なるものを食べた。正直、味がおいしいとは言えなかったが、その食事の材料となった生物の未来を食べた。と考えるならばその料理にはいくらお金を払ってでも足りないほどの価値を感じたし、だからこそ食べ残すなんてことはとんでもないことだと思ったからだ。

 これは、どんな料理に対しても言えるかもしれない。食べるという行為が、他の生き物を捕食する行為である限り、その生物の未来の時間を食べていることのは変わりない。その時間を奪っておいてそれを食べ残すということがいかに不道徳な行為かしれたものではない。

 帰り道の車内、あたしは堂嶋さんに「ごちそうさまでした」とお礼を言った。お会計の金額はびっくりするような金額だった。調査と言う名目の食事なので、最終的には税金で食べたことになるのかもしれないけれど、「あたし、多分これから先もあんな高級な料理を食べることなんてないと思います」

「そうか……」と、堂嶋さん。助手席から窓の外を眺め、何かを考えているようだ。

「申し訳ないが……今日のアレは、人肉ではないな……」

「え、そうなんですか?」

「ああ、いくらなんでもあの肉は固すぎる。おそらく猿かゴリラか、と言ったところだろう。まあ、柘榴肉と書かれているだけで、人肉かどうかを明記しているわけではないので、違法と言うわけではないのだろうが……、まあ、むしろ本当に人肉を出されれば、それこそ違法行為で、当局に連絡する必要があったんだがな」

「つ、つまり、あのお店はそのまま放置、と……」

「ん、まあ、報告だけはしておくが、当局が摘発するかどうかは怪しいな。なにせ公務員の仕事ってのは縦割りだからな。管轄がちがうんだよ」

「な、なんだか腑に落ちませんね。高いお金を払っているのに……」

「ま、いいんじゃないか? 知らなければ人肉を食べたという満足感は得られるわけだし、本物の人肉を食べるとなると、あんな金額じゃあきかないからな」

 ――正直。少しだけ驚いた。まさか料理に対していつも誠実な堂嶋さんの口から、よもやそんな発言が出るとは思ってもみなかった。

「あの……もしかして、なにかに対して怒っています?」

「ああ……怒っているさ……」

「……」

「わざわざ人肉を好んで食べようとするなんてな……自業自得なんだよ……」


 その時の堂嶋さんは、少し怖かった。それは人肉を食べたいという想いでこの職業を選んだあたしを全否定してしまう発言。そしてそれ以前に堂嶋さんは人肉調理師だ。

「何を、そんなに怒っているんですか?」

「怒っているわけじゃないさ。虚しいだけさ。
 香里奈君…… 君に、言っておかなければならないことがある」

「なんですか、あらたまって……」

「来月……、娘が十歳の誕生日を迎えるんだ……」

 来月で十歳。子供がいることは聞いていたが、まさかそんなに大きい子供だとは思っていなかった。家で寝ていると聞いていたので、てっきりまだ小さい子だと思っていた。

「来月、僕は献体になる……。香里奈君、僕を調理してくれないか……」
――幕間


「ねえ、何で人間を食べてはいけないわけ?」

「なんでって……それはたぶん……」

「たぶん?」

「人が、食べるために人を殺してしまわないように……じゃないかな?」

「それはへんよ」

「へんかな?」

「だって、そもそもが殺人が罪であることは絶対なわけで、だったらわざわざ人肉食を犯罪にする必要ないわ。なにか特別な飢餓的状態に陥った場合にしたって、おそらくその場合は特別な措置として人肉を食べたとしても罪には問われないと思うわ。
 いいえ、そもそも、それほどの飢餓状態であるならば、たとえ後で罪になろうとも空腹を満たすための行為を選択したとして不思議ではないわ。
 人肉食が禁忌だという考え方は、結局のところ、文化的、宗教的な一つの観念でしかないわけよ。ひとは勝手に食人習慣を残虐な行為だと先入観だけで勝手に決めつけて、勝手に禁忌扱いしているだけなのよ」

「まあ、たしかにそう言われればそうかもしれない。中国をはじめ、世界のいたるところで近年までカニバリズムが行われていたという事実はあるし、縄文時代、日本の大森貝塚を発見したモースは縄文人がカニバリズムを行っていたと説いている」

「そう、所詮は文化の問題でしかないわけ。問題は、いざという時に人肉を食べることで生き延びるという選択肢を人類から奪ってはいけないんじゃないのかなってあたしは思うわけ。
 過酷な状況の中、人肉を食すことで生き残ることができたとしても、そのことで後生罪の意識にさいなまれなければならないというのはどうかと思うわけ。
 ましてやそれを行って生き延びた人間を、他人が非難することは絶対にあってはならないことだと思うわけ。
 生きるということは、他の生き物を食べるということなのだから……」

「……」

「ねえ……」

「……なに?」

「あたしのこと、食べてみたくなった?」

「エッチな意味でなら……いつだって食べたいと思ってるけど……」
蟷螂の料理人


 都内の某所。繁華街の喧騒から少しだけはなれた路地裏には、そこが都会のド真ん中とは思えないほどに静かで穏やかな場所がある。子供のころずっと田舎で育ったあたしは、都会はとても住みにくく、どこに行ってもコンクリートに囲まれた無機質のジャングルだとばかりに考えていた。しかし、実際に住んでみると、意外と静かな場所がおおく、緑もあることに気付く。それらのスペースは、土地代の高い都心部では非効率な存在のように感じるが、それでもこれだけの場所が確保されているということは、それだけ人間と言う生き物が効率だけを機械的に追い求めては過ごせない生き物だという証拠だ。

 コンクリートで作られた無機質の小川の淵に植えられた柳の木を眺めながら歩き、あたしは小さな倉庫のような場所にたどり着く。ポケットの中から取り出した鍵束に、自分の寮の部屋や自転車の鍵と一緒にま止められている鍵をひとつ取り出して鍵穴に差し込む。

 カチャリと軽快な音を立ててサムターンが廻る。

 コンクリートが打ちっぱなしの部屋の中に、そのアトリエの主である堂嶋さんの姿はない。いつもかかっているクラッシックの音楽もなければ電気だってついてやしない。

 そこはまるであたしの知っているいつものアトリエとは全く別のもののように感じる。

 先日、堂嶋さんと一緒に食事に出かけ、その帰り道で想わぬ告白を受けた。堂嶋さんはもうじき献体となり、食料となってしまう。

 あたしは、堂嶋さんの体を料理するという大役を命じられ、それと同時にこのアトリエの鍵を預かった。堂嶋さんの死後、このアトリエはあたしに継いで欲しいとのことだった。

 思えば初めて堂嶋さんに出会った日、あたしが料理学校を卒業したばかりの新米だということを知った堂嶋さんは随分と気落ちしていたように見えた。あれはおそらく、そこに来た見習いが誰であろうと、その料理人に自分の体を料理してもらうことが決まっていたからなのだろう。あたしだって、せっかくの自分の体を料理するものが、素人同然の新米だと言われれば気分を悪くしてしまうだろう。

 だから今のあたしは少しでも技術を向上させなくてはならない。だから今日もこうしてアトリエでひとり、技術訓練をしようと思ってここに来たのだ。本来今日は休日で、通常の訓練はない。

 もしかすると計算高い堂嶋さんのことだ。あたしに前もってアトリエの鍵を渡したのは、あながちそうすることを暗に指示していたのかもしれない。

 あたしはオーブンに火を入れ、いつもの通りに訓練を開始する。堂嶋さんはいないが、やるべきことは頭に叩き込んでいる。必要なのは繰り返し訓練することだ。料理に必要なのは、とどのつまりレシピでもなければ食材でもない。愛情だと言われればそうかもしれないが、少なくとも今のあたしにとってはまだその段階ではない。もっとその前の、基礎の訓練だ。基礎の技術力は繰り返しの訓練でしか身につかないし、それがなければどんな料理を作ってもたかがレベルが知れている。逆を返せば、基礎技術さえあればどんな料理をどんなレシピで作ってもおいしく作ることができる。あたしは同じ作業を繰り返しこなし、そのすべてを味見しながら何がどう変わっていくのかを確認した。

 訓練に人肉を使うことは当然できない。そのかわりに豚肉を使って練習をする場合が多い。人間の肉はその部位の形や肉質などが豚肉に近い。まあ、言ってしまえば味的には猪の方が近いのだが、豚肉であればスーパーなんかでも比較的にいろんな部位が手に入りやすく練習しやすいので都合がいい。特に豚の内臓は人間のそれと特に似ている。大きさ、肉質共に似ているのでとてもいい練習材料になる。

 昼過ぎごろになると、今度はさすがにお腹がいっぱいになって、せっかく作った料理の味見をするのもしんどくなってきた。おそらく大きなレストランで働けば、それだけたくさんの味見をしなくてはならないだろうし、毎日繰り返すとなればそれなりに大きな胃袋も必要になるのだろう。そんな丈夫な胃袋をつくるのも一つの訓練なのかもしれない。友人のバーテンダーなどは週末の忙しい日ともなると、仕事終わりにはすっかり酔っぱらっているという。わずかティースプーン一杯の味見とはいえ、100杯を超えるカクテルを作り、味見をしながら1日走り回っていれば酔いもまわるらしい。

 いよいよもって味見も苦しくなったところで、ついにはうなだれて椅子にへたり込んでしまう。練習として重要視している豚肉は作って味見までしたが、ついでに練習をした魚料理まではなかなか味見をする気にはなれない。せっかくの魚がその身を食材として呈してくれたのに、作るだけ作って食べないのは失礼だが、さすがにくるしい……
その時、不意にアトリエのドアが開き、突然の来客があった。

「やれやれ、こんなに食べ残してしまって…… 食材がもったいないじゃないか……」

 アトリエに入ってきた堂嶋さんは躊躇することなくキッチンの方へと向かい、あたしの食べ散らかした料理の山を見る。その姿はいつもの堂嶋さんとは少しばかり印象が違うように感じるのは休日で、いつものコック服姿でないの当然だが、ノーネクタイではあるが、オックスフォードシャツにツイードのジャケットと言ういつもよりはややフォーマルな格好のせいだろう。

 堂嶋さんの目の前には、あたしが先程調理したスズキのポワレが5切れ、一つの楕円のお皿に並べられている。そのどれもが半分だけあたしが食べ残した残骸だ。

 堂嶋さんは、せっかくの恰好に似つかわしくない手づかみで、その料理を端から順につまんでいく。わずか数十秒でそのすべてを平らげる。

「3番目と5番目が正解だ」と堂嶋さん。「全体を通して裏返すのが少し早いようだ。皮目を6で焼き、内側を2で焼く。余熱で最後の1を焼く。何度も言っているだろう?」

「は、はい……頭では分かっているんですけど……」

「もう少し、フライパンに入れる油は多くていい。もう少し加熱してから焼きはじめればうまくいく」

「はい。ありがとうございます」

 結局、休日にしても堂嶋さんのアドバイスをもらわなければならない羽目になる。横に置いてあるあたしの口洗い用(味見をした口の中をリセットするための)のペリエの瓶を手にとり、その中身をグイッと全部飲み干した堂嶋さんは、スズキをつまんで汚れた指先をキッチンタオルでしっかりと拭き取りながら、

「さて、昼飯も食ったところだし、少し出かけようか」と言った。

「あたしも……ですか?」

「ああ、僕が生きているうちに、約束だけは果たしておかないとな」

「約束……ですか?」

「美術館に連れてく……という約束をしていただろう」

「あ、あれ……本気にしてたんですか……」

「本気じゃなかったのか? なんだ、それなら別にいいんだが……」

 そう言って踵を返そうとした堂嶋さんのひじを後ろから咄嗟に捕まえ、

「本気です。本気でした……。すぐに用意するので少しだけ待っていてください……」

 と言いながら、恐る恐るその手をそっと放す。思わず堂嶋さんのひじを掴んだあたしの指は、料理の脂で少し汚れていた。堂嶋さんの一張羅(勝手にそう思い込んでいるが)に脂の染みが付いた。

 向かった美術館は、堂嶋さんのアトリエから歩いてすぐの場所にある小さな美術館だった。商業ビルの6階にある。美術館と言うよりは画廊と言った規模だったが、こんなに近くにあるなんて知りもしなかった。おそらくこの場所にしたのはきっとその日、そこで開催されたイベントが料理をテーマにした絵画展だったからだろう。その日は料理をテーマにした新進気鋭の作家たちの作品と、ゴヤの贋作展だった。。展示されているものはほとんどが油彩画で、あたしは油彩画と言うものを間近でちゃんと見るのは初めてだった。思えばよく行く病院のロビーだったり、ちょっと高級なレストランの壁であったりと、あるにはあったはずなのに、わざわざ近づいてじっくり見ることを今までしなかったのはなぜだろうと思い知らされた。油彩画と言うものは、近くで見ると意外と立体なのだ。絵は二次元だと思っていたのは美術の教科書の中の絵しか見たことがなかったせいで、近づいてみるとこれが意外と立体的だ。確かに飛び出してきそうと言えば飛び出してきそう。

 中でもあたしの興味を一番に引きつけた絵は、写実的な技法で描かれた絵画で、横幅150㎝くらいある大きな絵で、右下にいる翼の生えた子供、おそらく天使だろうが、彼の放つ弓矢が次々と逃げ惑う人間たちを射抜いている姿が描かれ、その背面では悪魔たちが、天使の仕留めた人間を鍋で茹でたり、燃え盛る炎であぶったり、巨大なナイフとフォーク(いや、これはきっと鉈だ)で食べたりしているという絵だ。その凄惨な絵に思わず見惚れてしまったが、しばらく見ているうちにいくつかどうしても気になる部分が出てきた。隣で見ていた堂嶋さんも、おおよそあたしと同じ意見を持っていたようだ。

「この悪魔、人肉調理の資格は持っていないな」

「はい。いくらなんでも調理法が雑すぎです。この、悪魔が食べている肉だって、明らかに焼きがあまい色ですよ。それに、人間を下茹で無しで煮るなんて、きっと灰汁がすごいです」

「そうだな、それにこの炎であぶっている人間だが、こんな激しい炎であぶったところで、表面が真っ黒に焦げるだけでほとんど熱が入らないな。もっと食材は大切に扱うべきだ」と、堂島さんも少しばかり怒っている様子だった。

「よし、せっかくだからこっちも見て行こう」

 堂嶋さんはあたしより、少しだけ浮かれ気味で隣の展示室の方へと移動する。ゴヤの贋作展が開かれている。

「贋作展って、ニセモノ……ってことですよね?」

「レプリカ、と言った方がいいのかな。絵の構図を考え、最初に描いたのはゴヤかもしれないが、その絵を見て、その絵そっくりに描いた、本物の贋作だ。モチーフだけを真似たオマージュと言うものもあるけれど、贋作の方がオリジナルの書き手であるゴヤに対する敬意はより強く感じるかもしれないな」

「でも、ニセモノなんですよね?」

「それを言えば、料理のほとんどはニセモノってことになるんじゃないか? 今ある料理のほとんどは先人である誰かが考案したもので、僕達料理人はそのレプリカやオマージュをつくり続けているに過ぎない。それら先人のすべてが料理の世界における偉大な芸術家だと言っていい。アントナン・カレームの言った『新たな料理法を見つけることは、新たな星を見つけることより有意義だ』と言う言葉にはうなずける」

「そう言われてみれば、たしかに料理は芸術の一つと言えるかもしれませんね。欧米なんかでは有名な料理人はそれなりに芸術家として優遇を受けているみたいですけど、有名なコックの名前ってそれほど残っているわけでもないし、料理を作って受け取る金額は他の芸術家のようにとんでもない金額になったりしないんですよね。料理に著作権があるわけでもないし……」

「まあ、すべての芸術家に対しても言えることかもしれないけれど、料理人の発明はお金を儲けることが目的じゃないよ。より多くの人にその味を知ってもらうということだ。小説家が多くの印税を受け取ることを目的で書いているのではなく、より多くの人に読んでもらいたいと思っているのと同じようにね。結果として、その料理が高額で取引されないのは、料理と言う存在が後に残せない、その場限りの芸術だからだよ。一度つくり、一度食べてしまえばそれで終わり、楽譜も原稿も、その作品さえも後の世代へ残すことはできない。だから料理人は同じ作品を何度も何度も繰り返し作り続けなくてはならない。そのために技術が必要だ」

「……はい。身につまされます」

 くだらない会話をなるべく小さな声で囁き合いながら、ゴヤの贋作を見て回る行為は、その作者に対して少しばかり失礼なことなのかもしれない。コックがつくった料理が、冷めていくのを気にせずにおしゃべりばかりに華を咲かせる人たちと同じ行為かもしれないと考えれば、少し心が痛む。

 2枚並べられた同じ構図の女性の絵はとても有名だから知っている。(着衣のマハと、裸のマハだ)しかし、なぜ、こんな2枚を仕上げたのかはわからない。まず、着衣のマハを先に描いて、そこから彼女の裸を念写するように書いたのか、まさか大それた間違い探しの絵を描いたわけではないだろう。

 しばらく並べられた絵を見てはいるが、何をどう感じればいいのかはやっぱりよくわからない。贋作とは言われても、こんなところに展示されるほどの贋作はやはり素晴らしい出来で、本物の価値と何がどう違うのか、あたしにはよくわからない。それは単にコレクターたちの金銭的価値の違いなのか、あるいはあたしにはまだ理解の及ばない違いが存在しているのかわからない。しかし、そんあたしでも、どの絵が好きか、その絵に対して自分がどう思うのかくらいならそれなりに意見はある。その点においても、やっぱり芸術と料理とは似ているのかもしれない。

 そんななか、一枚の絵があたしの足を思わず止めた。それはあまりにも恐ろしい、狂気じみた絵だった。

「我が子を食らうサトゥルヌス」

 堂嶋さんが、説明するかのようにその絵のタイトルを教えてくれた。髪を振り乱した男が人間を頭からくらいつている。その両目は眼球をむき出して、猟奇じみた表情をしている。『我が子を……』と堂嶋さんが言ったが、なぜ、この男は我が子を食べようとしているというのだろうか。

「サトゥルヌスは――」と、堂嶋さんが説明をしてくれる。「――はギリシャ神話で言うところのクロノスで、いずれ我が子が自分を滅ぼすという預言を恐れ、その恐怖のあまり猟奇化して自分の子供たちを食べていくというエピソードがある。これと同じ構図の絵をルーベンスも描いている。食人習慣のなかった当時としてはかなり衝撃的な絵だったんじゃないかな」

「食人習慣のある現代でも、十分衝撃的ですよ。この絵は。せめて、せめてちゃんと料理して食べてあげるべきです。こんな、こんな頭から丸かじりするなんて……」

「そうだな。猟奇じみてでもなければこんなことはできないさ。自分の子供くらうなんてな……」

 その絵の衝撃さゆえか、すっかり意気消沈してしまったあたしは言葉少なに美術館を出る。ポケットから携帯電話を確認した堂嶋さんは、美術館で電源を切っているあいだに連絡が入っていたらしく、留守番電話に録音されたその内容を少し離れた場所で聞いていた。その表情が、みるみるうちに青ざめていくのがわかる。通話が終わり、携帯電話をポケットにしまった堂嶋さんがこちらへやってきて、「すまないが、ちょっと急用ができた」と言った。その表情は、〝急用〟で済ませるような物事ではないということぐらいはすぐにわかる。

「あの……どうしたんですか」

「ま、真希……妻が、倒れて救急車で運ばれたらしい。い、今から病院に……」

「あ、あたしもいきます!」

 あたしがついていったところで、一体なんになるというのだろうか。しかし、突然のことにどう対応していいのかわからず、あたしはそう言った。目の前で動転している堂嶋さんをほおっては置けないと思ったのかもしれない。病院の集中治療室の前で堂嶋さんは医師からの説明を受けていた。部外者であるあたしはあまり立ち入ったことを聞いてはいけないと少し離れた場所から見ていたが、堂嶋さんと医師とは互いに見知った間柄のようだった。こういったこともどうやら珍しいことではないように思えた。

 ひととおりの説明を受けた堂嶋さんは、少しだけ表情を穏やかにして、(あるいは無理にそうしているのかもしれない)あたしに言った。

「特に大した問題ではないよ。ちょっと体調を崩しただけみたいだ。妻は、以前からあまり体が丈夫ではないんだ。こういうことも初めてではない。命に別状もなく、しばらくすれば目を覚ますようだから、香里奈君は今日のところは帰ってくれてだいじょうぶだよ。明日は、予定通りに出勤するから」

 そう言われたのでは、あたしにできることはもうない。その日は家に帰り、翌日、いつもよりも少しだけ早くに出勤した。


 堂嶋さんは、いつもとほぼ同じ時間に出勤してきた。

「昨日はごめん。心配を掛けたね。あの後妻も意識を取り戻し、今日の朝にはもう家に帰ってきたよ。さあ、そんなわけで今日もしっかり仕事を開始しようかあ」

 無理に明るく振るまおうとしているのがわかる。病気もそんなに心配する必要もなく、退院したということも嘘ではなさそうだが、明らかに昨日までの堂嶋さんとは違う、今にも壊れてしまいそうな影がある。何事もなく、コックコートに着替える後姿がかえって痛々しい。

「なにが……あったんですか……。なにもなかったなんてことは、ないんでしょう? あたしにだってそれくらいはわかります」

 余計なことを聞いてしまった。堂嶋さんは、片方だけ袖を通したコックコートをそのままに動きを止めた。

「……いい、知らせだよ」

 背中を向けたまま、静かに言う。

「……どうやら僕は……死ななくてもいいらしい……。僕は、献体にはならない……」

「それってつまり……」

 堂嶋さんは再び動きを再開して、宙ぶらりんになったもう片側のコックコートを持ち上げ、両手の袖を通し終え、静かにうつむいたまま前のボタンをとめはじめる。

「昨日、妻と話し合った。来月、娘が十歳の誕生日を迎えた時に献体になるのは、妻ということになった……」

 堂嶋さんの足元、コンクリート打ちっぱなしの床に水滴の粒が落ち、ゆっくりと地面に涙の染みが広がっていく。

『あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん』

 奥さんの言っていた言葉が頭の中で繰り返される。あの時、奥さんは既にそうすることを決めていたに違いない。
 堂嶋さんの奥さん、堂嶋真希は、生まれつき心臓に病巣を抱えていた。しかし、発達する医療にも限界と言うものがあり、彼女の体はすでに限界に近いということだった。 

 もうどの道ながくは生きられない。だから献体となるのは自分の方だと主張した。

「それでも初めから自分が献体となる約束だった」と、堂嶋さんは言ったのかもしれない。しかし、そんなことをすればいずれ両親をともに失い、娘は孤児になってしまうと言われれば、それ以上の反論はできなかっただろう。

「僕はね……正直に言うと、その時にほっとしてしまったんだよ……」

 贖罪の念を、絞り出すように彼は言った。

「彼女に死んでほしいなんてこれっぽっちだって思っていない。僕の身代わりに彼女が献体になることを僕は望んでいない。たとえ一日でも長く、僕より生きていてほしい。これは僕のエゴかもしれないが、僕は彼女のいない人生なんて、一日だって生きていたいとは思わない……
 それなのに、彼女が献体になると言い出した時、僕はホッとしてしまったんだ。
 僕は……死にたくはない……
 たとえ一日だって長く生きていたいんだ。
 少しでも長くこの世界と関わっていたいし、僕がいなくなった後の世界がどうなっていくのかが見ていたいと思っている……
 この世界から僕がいなくなって、いつか誰も僕のことを覚えていなくなる日が来ることがことが怖いし、僕が死ぬことで妻のことを思いだせなくなってしまうこともいやなんだ。
 僕は死にたくなんかないし、 
 妻にだって死んでほしくなんかない……
 この世界には、救いの道なんてどこにもないんだ……」

 数日後、いつも通りに出勤をして、いつもの通りの準備をしているとき、いつもよりも少しだけ遅くにやってきた堂嶋さんは、A4サイズのコピー用紙に印刷され、端をクリップを止めた資料を眺めながら言った。

「今日は午後から、被献者と料理の打ち合わせがある」

そう言って資料をカウンターの淵に置く。
献体となる者が、事前に人肉調理師と打ち合わせをするということは珍しいことではない。事故による急死などではない限り、病気などで余命をまじかに控えている者や、特に子を持ち、その子が十歳になり、親が献体となる場合は献体者が死を間近に控えている場合でも健常な場合が多いため、料理の打ち合わせに本人が参加するということは珍しくはない。最近ではあたしも積極的に実践を踏まえるようになり、こうして事前の打ち合わせに参加することも多くなってきた。そしていつも思うのが、この献体者本人に会う時と言うのが一番精神的に辛い。自分の死後、あたしがどう料理するつもりなのかを根掘り葉掘り聞く者も多ければ、中には自暴自棄気味で何も意見を言ってくれないかと思えば、「では、こちらにすべてお任せでよろしいですか」と聞いたとたん、急にあれこれと注文を付ける人だっている。もちろん、人生に一度きりのことではあるが、決して本人が食べるわけではないというのに……
いや、本人が食べるわけでもないからこそ、こだわるのか……
ともかく、この時が一番神経を使う。相手は生きている人間だ。死んでしまって口がきけなくなった肉塊を調理している方がよほど気が楽だなどと言ってしまうのは果たして罰当たりだろうか。
数分後に、作業の流れでカウンターの近くに言った時に資料に軽く目を通す。

「堂嶋さん、これ……」

「ああ……」

 堂嶋さんはわかっていると言わんばかりに眉一つ動かすことなく返事をした。
 資料に記載されている。献体者氏名には、〝堂嶋真希〟と書かれている。住所は都内の郊外、あたしの携帯の着信メールの中には、それと同じ番地が記載されている。

 午後になり、コック服から正装のスーツに着替えて車で移動する。駐車場は、マンションの住居者用のスペースではなく、来客用の駐車場へ置く。
 玄関のエントランスホールで来客用のインターフォンへ向かい、自分の部屋番号を押した堂嶋さんは、インターフォン越しの奥さん、堂嶋真希さんに向かって挨拶をする。

「わたくし、人肉調理師の堂嶋と申します――」

 いつも通りのあいさつに奥さんが答える。

「お待ちしておりました。部屋の方へお越しください」

 エントランスホールの自動ドアが開き、堂嶋さんがあたしの前を歩き、馴れた足取りでエレベータへと向かう。まるでママゴトでもしているようだ。
 エレベータを待つ間、あたしは堂嶋さんに訪ねる。

「なんで自分のカードキーで入らないんですか? 自分の家ですよ」

「まあ、それは確かにそうなんだがな。これはひとつの……そう、儀式みたいなものなんだ。僕はこうしていつも通りの儀式としてのルーティンをこなしていつものように仕事をこなす。
 たぶんそうしないと今日はまともではいられなくなりそうだからね」

 ――ピンポーン。と、クイズに正解したかのように音が鳴り、エレベータが到着してドアが開く。それから堂嶋さんは無言で、妻の待つ我が家へと向かう。
 マンションの、自分の部屋の前に立った堂嶋さんは、やはりいつもと同じようにドアチャイムを押し、「わたくし、人肉調理師の――」といつもの通りの挨拶をこなす。
 内側からとを開けた真希さんは、「あなた、おかえり」と堂嶋さんに受け答える。「香里奈さんもいらっしゃい」そう言ってドアを大きく開き、室内へといざなう。優しく微笑む彼女の表情からは、もうじきこの世を去らなければならないという無念の曇は感じさせない。ただただ、その事実を受け入れ、運命のままにゆだねることを承諾しているようにしか見えない。
 ダイニングテーブルへと通され、冷蔵庫を開ける真希さんが「あなた、ビールでいい?」と聞いてくるが、堂島さんは「いえ、今はまだ仕事中ですので」と、あくまで儀式的形式を逸脱しないように行動する。
 四人掛けのダイニングのテーブルの下座にあたしと堂嶋さんが座り、向かいの席に真希さんが座る。

「梨花ー」

 真希さんが家の奥に向かって呼ぶ。それほど大きな声ではないが、透き通っていて、よく響く声だ。
 呼ばれて奥の方から小さな女の子がおずおずと無言でやってくる。梨花と呼ばれたその女の子は、母親にたがわず透き通るような色白の少女で、もうすぐ十歳になるという割には比較的小柄でやせっぽちな子供だ。まん丸でとても大きな眼球が印象的で表情に笑顔はなく、はじめに一度あたしを睨めつけるように見て、それから堂嶋さんを見た。

「父さんがそこに座っているのって、変……」

 とつぶやく。
 普段の堂嶋さんが家にいる時には座る場所の定位置があり、今座っている場所はきっとその場所ではないのだろう。そうすることで、家の中にいる普段の自分と一線を引くことにしているのかもしれない。
 空いている真希さんの隣へ梨花ちゃんが座ったことを確認した堂嶋さんが、いつもの通りに名刺を取り出して挨拶をする。

「それでは、この度の――」

 と堂嶋さんがはじめる挨拶に、いよいよ真希さんは吹き出した。

「ゴメン、ごめん。でも、あまりにも他人行儀過ぎてなんだかおかしくって――。ねえ、どうにかもう少しだけ普通どおりにできない?」

 緊張感のない真希さんの対応に、さすがの堂嶋さんも弱ってしまった様子だ。

「わ、わかったよ。こ、これでいいのかな」

 わざとらしくにネクタイの首元を少し緩め、大きくため息をついた。
 少しばかりざっくばらんにはなったものの、それでも少しだけ堅い言い回しの堂嶋さんは、人肉調理にあたる説明を形式どおりにこなし、誓約書を取り出す。空欄に対象者の指名を確認しながらかき込んでいく。
 
 献体者、堂嶋真希
 調理責任者、堂嶋哲郎 
調理補助、牧瀬香里奈
記入事項を読み上げながら確認を取っていく。

「それでは、この度の食者が堂嶋哲郎、および堂嶋梨花の二名で間違いありませんね」

 妻の顔を見ながら説明する堂嶋さんに真希さんは「はい」と言ってうなずく。

「では、こちらの方にサインを――」

 ペンを執った真希さんが署名欄にサインをしようとしたところで、一旦手を止めた。

「ねえ、あなた。この食者の中に香里奈さんの名前って入れられないのかな?」

「え……」

「ほら、香里奈さんって、もうほとんど家族みたいなものでしょ。わたしも、せっかくだから香里奈さんにも食べてもらいたいわ。ね、いいでしょ?」

 アーモンド形の目の中を、眼球だけをこちらにスライドさせて、あたしを見る。

「ねえ、食べて行ってくれるでしょ?」

 まるで今晩の食事に付き合ってほしいくらいに軽いノリであたしを誘う。

「残念ですが――」堂嶋さんはやや機械的な口調で答える。「牧瀬さんは堂嶋家の戸籍に関係がありません。したがって今回の食事に
同席することは――」

「もう、じれったいのね。どうして公務員ってのはこうも融通がきかないのかしら。どうせ調理するのがあなた達なんだから、出来た料理を一緒に座って食べて行けばいいだけのことでしょ? 別に誰かに告げ口なんてしないわよ。他に誰かがいるわけでもないし」

「ま、まあ、そういうことくらいなら……」

「そう、それじゃあ決まりね。よろしくね、香里奈さん」

 彼女はそういうことで納得したようだった。あたしは食べるとは言ったおぼえもないが、とにかくそういうことになったらしい。

「それでは、この度の調理法なんですが――」

「ねえ、梨花。あんたはおかあさんのこと、どんなふうにして食べたい?」

 真希さんが娘に対する質問に、娘の梨花さんはしばらくむすっとして何も答えなかった。

「黙ってたんじゃわからないじゃない……」

 その言葉を聞いたとたん、梨花ちゃんはテーブルをバンッ! とたたいて立ち上がった。

「アタシ、母さんなんて食べたくないに決まってるじゃない!」

「え、なに? あなたもしかしてお父さんのこと食べたかったの?」

 意地悪そうに娘に詰め寄る母に対し、梨花ちゃんは母親をキッと睨み付けた。

「とうさんもかあさんも、食べたいなんて思ってないわよ! そんなことわかりきってるじゃない! それなのに何よみんなして! もう、勝手にすればいいんだわ!」

 梨花ちゃんはテーブルを離れ部屋の奥に閉じこもってしまった。
 さすがに真希さんもまいったなと言う表情を浮かべる。

「料理の内容については、全部あなたにお任せするわ。あなたの腕は信頼しているし、あなたの愛してくれたわたしだもの。あなたのしたいようにするのが一番よ」

 そう言ってにっこりとほほ笑む。あたしは、自分がここにいてはいけないような気がして目をそらす。

「どんな料理になるのかしら。楽しみだわ…… あ、でもわたしはそれを見ることもできないし、食べることもできないのよね。なんだか複雑だわ……」

 どこまでが冗談で、どこまでが本気で言っているのかもよくわからない。彼女の本心がどう考えているのかは、部外者であるあたしにはまるで分らなった。

 正直なことを言えば、今何を考えて、どんな気持ちなのかを聞いてみたいとは思ったが、さすがに今ここでそれを聞くことなんてできるわけもなかった。

 その日の面談はそれで終了し、その時の真希さん気持ちは永遠にわからないままで終ることになる。

 あたしが次に真希さんと対面したのは、食材となってからの姿だった……

 昨日、堂嶋さんのマンションの一室で、妻、堂嶋真希さんの送別会が行われた。

 日中、お世話になった人をたくさん呼んで、簡単なパーティーを行う。みんなからの送別の言葉を受けた真希さんが、今度は集まったみんなに感謝の言葉と、真希さんからみんな、それぞれに形見の品を手渡しでプレゼントしていく。

 太ることも、健康のことも気にしなくてもいい、好きなものを好きなだけ食べ、お酒をいくら飲んでも構わない人生最後の一日を彩る最高のパーティー。皆が解散した後、堂嶋さんと奥さんの二人でささやかな時間をすごし、睡眠薬を飲んで安らかに眠りに落ちる。
 遺体が存在しなくなった現代において、死後の告別式や葬式にはそれほどの価値が見いだせなくなり、献体としてこの世を去る人たちには近年、送別会というスタイルが人気だ。

 真希さんからは是非、あたしにも出席してほしいとのことだったが、あたしはそれを断った。それと言うのも、堂嶋さんに出席しない方がいいと言われたからだ。あたし達人肉調理師はその翌日、その人物の体を調理しなければならない。その直前のパーティーに参加してしまうと、生前影を引きずりすぎて調理に支障をきたすことがあるという。
今回、その咎を堂嶋さんが逃れることは不可能で、どうしても逃れられない苦悩が襲ってきた時に、それを代行する人間が必要だという。それがあたしだ。だからあたしは送別会には参加しなかった。
朝、アトリエに到着した堂嶋さんの目は腫れていた。昨夜に別れを済ませ、奥さんの遺体は遺体管理局のもとへと送り届けられた。堂嶋さんがアトリエに到着する少し前、管理局から希望部位の切除が終わったので取りに来てほしいとの連絡があった。
到着早々そのこと告げると、「わかった」と短く言葉を切って、すぐに管理局へ出発する準備を始めた。アトリエから管理局まではそんなに離れていないので堂嶋さんが一人で受け取りに行く。あたしはその間留守番をするということになった。
堂嶋さんが出発する直前、

「ああ、そうだ」

 と、堂嶋さんはポケットから小さな包みを取り出した。プレゼント用の小さなラッピングバッグに包まれたものをあたしに差し出した。

「妻から預かった。君に受け取ってほしい形見だそうだ」

「え、あたしにですか? 中身は、なんなのでしょう?」

 質問を投げかけながらも、躊躇なく両手でそのプレゼントを受け取る。

「聞いたが、妻は答えてはくれなかった。あまり高価なものではないのでそんなに気にしなくていいとは言っていたが……」

「は、はい……そうですか……では、ありがたくいただくことにします」

 堂嶋さんが、アトリエを出発してから、あたしは真希さんから受け取った小包の包装を解いた。中から、さらに小さなサテン生地の巾着が出てくる。巾着のひもを解き、中にあったものを取り出す。それを見た時、あたしの胸はとてもきつく締め付けられるような思いがした。

 ――真希さんは、一体なんでこんなものをあたしによこしたんだろう。

 締め付けられる胸がバクバクと激しく脈動し、なぜ自分がそんな気持ちにならなければならいのかを考えたが、そんなことがあたしにわかるわけがない。

 それを再び巾着にしまいこんだあたしはポケットに突っ込み、すべてを見なかったことにした。

 しばらくして堂嶋さんが、小ぶりな発泡スチロールを抱えて帰ってきた。アトリエのカウンターの上にそれを置き、あたしと向かい合わせで囲んだその発泡スチロールの蓋を外す。中から保冷材として入れられていたドライアイスの白い煙が堂嶋さんを包む。緩衝剤のシートにくるまれた中の物体を両手で丁寧に取り出した堂嶋さんは、シートをはがしていく。中から、赤黒い臓器の一部が出てきた。

「堂嶋さん。それは、」

「これはね。彼女の、心臓だよ」

 真希さんの心臓、と説明されたそれは、おおよそあたしの想像する心臓の形とは少しだけ違うと感じた。手のひらにのりきるくらいのサイズのそれは紡錘型をしている。その生々しい内臓の塊から管が飛び出て、その先には直径三センチほどの鈍い銀色に光る金属の塊がついている。それが、ペースメーカーのラジエーターだということくらいはすぐに予想がついた。真希さんは体が丈夫ではないということは聞いていたので、心臓にペースメーカーが埋め込まれていたとしてもなんら驚くことではない。むしろその事よりも、それが付いたままのこの状態で食材として堂々とよこしてくる管理局のずさんな仕事の方が信頼がおけない。

「これは彼女の右心房と右心室の一部だよ」と堂嶋さんは言う。「ほかの部分には病巣もあって、食べても大丈夫なのはこれだけだったらしい。まあ、これだけあれば充分さ。なにも腹いっぱいに食べるようなものでもないからな」

 無理にはにかんでニヒルに笑って見せるその姿はどこか自虐的にも見える。
 しかし、なるほどそう言われてみれば納得も出来そうだった。右心房と右心室と言われたその部分と、もうひとつ同じような塊、左心室と左心房があったならたしかにそれは《ハート形》に見えるのかもしれない。

 堂嶋さんの手の上に乗るそれは、いわばそのハート形の片割れだ。右心房は全身を巡る温かい血液をその場に集め、肺へと送って生きるための呼吸に替える。心臓の筋肉は脳からの命令を受け付けることなく、自動脳で動き続けるが、真希さんの心臓は自ら動くことを放棄し、ペースメーカーの力に頼らなければならなくなっていた。

「どんな料理を考えているのか、うかがってもいいですか?」

「あまり、妻の心臓をあれこれいじって調理するのではなく、なるべくシンプルに仕上げたいと思っているんだ……」そう言って堂嶋さんは心臓を手のひらに乗せたまま、棚の引き出しから金属の細長い棒を取り出して反対の手に握る。「――だから、彼女の心臓はブロシェットにしようと思うんだ」

「ブロシェット――。と、いうことは、串焼きのハツ、みたいなものですか?」

「そうだな。確かに見た目の形としては確かに串焼きに似ているのかもしれないが、ブロシェットと串焼きとでは、調理の法則としてはまるで違う。串に刺して外側から加熱していく串焼きに対し、ブロシェットは金属の串を使う。金属の串は加熱することにより熱くなり、肉を貫通したその中心部から加熱する調理器具ともなるんだ。だからブロシェットは比較的大きな肉の塊でも焦げてしまう前に中まで加熱することができる。少し焦がして香ばしくカリカリとした食感を楽しむ串焼きに対して、ブロシェットはふっくらとした仕上がりになるのが特徴だ」

 いつもほど饒舌ではないが、たしかに料理について熱く語ってくれる堂嶋さんは健在だ。その事実に、少しだけホッとする。
 
 まずは心臓の肉の下処理をする。心臓は内臓肉ではあるが、血管や血合いの多い心室部分に比べ、心房の部分は比較的に筋肉質な部位だ。臓物独特の血なまぐささはあるものの、スジ肉やレバーとはあきらかに違う、噛めば噛むほどに味わいの出てくるしっかりとした歯ごたえは他の部位では替えがたいものがある。脂肪分はごく少なめで、たんぱく質に、鉄分、ビタミンが豊富で美容に最適だ。
 心臓肉はナイフで切り込みを入れて内側を開く。ところどころにある血管は丁寧にナイフで切り開き、ところどころにある血合いを流水の下であらって流す。
 食べやすい大きさにカットする。串焼きであれば3センチぐらいがいいだろうが、今回はブロシェットなので4センチくらいの大きめのカットにする。心臓肉は焼くととても縮みやすいので、仕上がり予定の大きさよりもやや大きめにカットした方がいいだろう。しかし、縮めばその分食べた時の食感もかたくなるので、なるべく固くならないように、一切れ一切れに数本ずつ切れ込みを入れておく。

たっぷりの塩でごしごしと洗うように揉んでは流水で流すことを三回くらい繰り返したのち、約30分ほど冷水につけておく。臓物の匂いが苦手な人は一晩くらいつけておくとあまり匂いが残らない。牛乳につけておくというのも効果ありだが、今回堂嶋さんは、なるべく真希さんの持ち味を活かしたいと言うので、漬け込みの時間は短めにしておいた。
水を切った心臓肉は、キッチンペーパーで丁寧に水分を取り除き、塩胡椒と乾燥ハーブをミックスしたもので味付けをする。それを、金属の串にさす。心臓肉に金串を突き刺すという行為は、天使が恋の矢でハートを射抜く姿を連想させる。朴訥な堂嶋さんが、いかにあの真希さんのハートを射止めたのかは想像に難い。こう見えて、意外と恫喝な態度をとったりなどと言うようなことをしたりするのかもしれないなと思い、美術館で見たあの絵画を思い出す。逃げまどう人間の心臓を弓矢で打ち抜く天使の姿。いや、堂嶋さんにかぎってまさかそんなことはないだろうを想像を振り払う。

心臓肉と、野菜は交互に刺す。焼いた時の肉汁を野菜が吸ってくれるからだ。突き刺す野菜は好みのもので構わない。今回はパプリカ、シイタケ、マッシュルーム、カボチャを使う。どれも真希さんの好きだった野菜らしい。
補足だが、焼き鳥などの小さい串焼きの場合、基本的に串の先から順番に食べるので、そのことを計算に入れて食べたい順番の逆に刺すのが良い。特に一番先端の肉を最初に食べることになるので、味付けは先端に行くほどしっかりとしておく方が良い。後で食べる肉の方が薄味にしておくことで全体を通して食べた時に飽きが来ない。
しかし、今回のように大きなブロシェットではあまり考える必要はないだろう。金属の串は、あくまで調理するための道具であり、実際に食べる際、ほとんどの場合、一度串から外して食べることになるからだ。しかし、雰囲気を楽しみたいならそのままかじりつくと言うのもいいだろう。
 堂嶋さんが一通りの下準備をしているあいだに、あたしはサンドウィッチとサラダをつくり、具の入っていないコンソメスープを魔法瓶の水筒に入れた。堂嶋さんは準備したブロシェットをラップにくるみ、クーラーボックスにしまう。

「じゃあ、そろそろ出発しようか」


 ピクニックとハイキングの違いは、その最終的な目的が食事をとるかどうかという点になる。その点で言えばこれはピクニックだ。堂嶋さんと、真希さんは若いころに一度だけ一緒にピクニックに出かけたことがあったという。堂嶋さんは若いころに頻繁に登山をしていたらしいのだが、元々があまり体の丈夫ではない真希さんと一緒に登山をすることはかなわない。せいぜい近隣のハイキングコースを巡るのが精いっぱいだった。オートキャンプ場のあるハイキングコースを一周してバーベキューをした二人はその後の堂嶋さんからのプロポーズで結婚することになった。「また一緒に来ようね」とささやき合った二人だったが、娘の梨花ちゃんを出産した際に、さらに体を壊してしまった真希さんが二度とキャンプ場に足を運ぶことはなかったという。

 キャンプ場へと向かう車を運転するのは堂嶋さんだった。クーラーボックスにワインが入れてあるので帰りの運転はきっとあたしになるのだろう。
娘の梨花ちゃんも一緒に来るものだと思っていたのに、「なにがなんでもお母さんを食べたくなんかない」と言い張る娘をどうしても説得することが出来ず、あたしと堂嶋さんの二人きりになると知らされたのも移動の車の中だった。当初あたしは、真希さんに食べてほしいと言われていたにもかかわらず、彼女を食べることはお断りしようと決めていた。部外者のあたしがしゃしゃり出るのはふさわしくないという言葉は言い訳のために用意をしていたが、本心はそうではない。

その気持ちを言葉で表現するのはとても難しいが、なんというか、真希さんが自分の中で永遠に生き続けるということがどうにも心苦しかったのだ。彼女とひとつになりたくない。彼女と一緒にしてほしくはないという感情があった。しかし、なぜあたしがそのような気持ちになるのかについてはよくわからない。

しかし、車の中で堂嶋さんに一緒に彼女を食べてほしいと誘われた時、あたしは素直にそれを受け入れることにした。たぶんその理由は真希さんからの形見分けであんなものをもらったせいだ。あんなものをもらったのではいまさら彼女の申し出を断れるはずもない。それにあれがあたしに託されたことで、真希さんに対してどことなく抱いていた敵対心のようなものがスーッと消えてしまったのだ。
 
 キャンプ場に到着したのは午後二時を過ぎた頃。首都圏から一時間ばかりで到着したその場所は大自然に囲まれ、見渡す限りに人工建造物はキャンプ場の施設を置いて他にない。平日と言うこともあるのだろうが、天気がいいにもかかわらず来客はあたし達のほかには誰もいない。 たったこれだけの移動で都会の喧騒を離れ、非日常に浸れる場所があるというのにこれほどまでに閑散としているのは人口の急激的な減少によるものなのだろうか。それともそれほどまでに現代人はこう言った娯楽に興味を示さないほどに疲弊しているのだろうか。

 唯一出会った人間はキャンプ場の受付をしている老人で、キャンプ場の使用料を黙って受け取るだけで何も言葉を発しなかった。故に、ここはとても静かな場所だった。

 堂嶋さんが静かなエコカーのエンジンを切り、静かな景色はいっそう静かになる。
天高く、ごうごうと空のいびきのような音が鳴り響き、風がそよぎ、木々を揺らして葉の擦れる音が鳴る。遠くで鳥が二度啼き、そっれっきりまた静かになる。自分自身の心臓の音が聞こえる。どくどくどくと、ゆっくりと内側に響くその鼓動に、たしかに自分が生きていることを悟る。

 堂嶋さんとあたしの革靴が、静かに砂地を踏みしめる音とともにキャンプ場へと向かう。

 煉瓦でつくった備え付けのかまどがあるが、そこからさらにはなれた、なるべく自然の景色が良いところを捜して陣取る。堂嶋さんが手際よくバーベキューコンロを設置して炭をおこす。

 あたしがアウトドア用のテーブルとディレクターチェアを並べる。準備はほとんど無言のうちに行われる。レジャーを楽しむというよりは、儀式としての食事をする会場のセッティングを仕事としてこなしている感覚だ。

 準備を整え、炭の火が落ち着くのを待つ間、魔法瓶のコーヒーをプラスティックのカップに注ぐ。堂嶋さんはいつもの通りブラックで飲むが、あたしは苦いコーヒーが言葉の通り苦手だ。プラスティックのコーヒーカップに持参してきたコンデンスミルクのチューブを絞り、かき混ぜる。コンデンスミルクはその名の通りミルクに砂糖を加えて練り合わせることで保存性を高めたものだ。常温では腐りやすいミルクやかさばる砂糖を持ち歩くことに比べるとはるかに勝手のいいコンデンスミルクはアウトドアの基本装備。

 バーベキューコンロの中でぱちぱとぱちと音を立てて赤く燃える炭をじっと見つめながら、堂嶋さんは静かに語る。

「本当はね。娘の梨花に、ちゃんと母の心臓を食べさせたかったんだけどね」

 あたしは黙ったまま、その言葉の続きを待った。

「実は、娘の梨花も、生まれつき心臓が悪いんだ……
 妻は……自分と同じ病弱な娘が余計に愛おしかったようだ。まるで自分の分身を育てることで、自分の人生をもう一度繰り返そうとしているようだった。
 人は……多かれ少なかれ、後悔の一つや二つはあるだろう。もし、人生をやり直せたらと思うことだってあるかもしれない。しかし、子供を育てる親というものは、自分の子供を育てながら、傍観者として小学校入学や卒業、成人式なんかをもう一度繰り返すことができる。それは……子供を持つ者にしかできない楽しみだろう……」

「堂嶋さんは……梨花ちゃんに対して、なにかをかわりに成し遂げてもらいたいとか、そういう期待があるんですか?」

「……さあ、それはどうかな。梨花は、おんなのこだから自分の替わりの何かを期待するのは難しいけれど、娘に妻の替わりを期待しているのは確かだ。できることなら病弱な妻の代わりに、娘と一緒に山を登りたいと願ってはいたんだが……それも無理のようだ。妻と同じで心臓のよわい娘に登山はできない……」

「だから……梨花ちゃんに心臓を食べさせたかったんですか?」

「だから?」

「ほら、昔の迷信であるじゃないですか。自分の体に悪いところがある人が、健常者のその部位を食べることで健康になるって話……」

「ずいぶんと古い話を持ってくるんだな。確かに中世の時代ではそういう虐殺もあったと言うが……」

「ひどい……迷信ですよね」

「まあ、単なる迷信とも言い難いけどね。肝臓が悪い人はレバーを食べるといいし、動物のペニスなんかが精力剤として使われたりなんかするのも、要するにその部位がその栄養素を豊富に含んでいるから、と言う理由で、実際に、わずかではあるが効果があるとも言えるだろう。
でも、うちの娘にはそれはあてはまらない。なぜなら妻の心臓は健常者の心臓ではないからね。もしかしたら食べることで病気が感染するかもしれない」

「そ、そう……なんですか?」

「嘘だよ。そんなことがないように当局が検査をしてからこちらに引き渡しているんだ。だから、病巣に感染している危険がある部分は取り除かれる」

 それを聞いて、真希さんの心臓が切り刻まれてわずかな部位しか送られてこなかったことを思いだす。真希さんの心臓はそれほどまでに病巣に置かされていたのだろうか……

「でもね、人間の脳だけは絶対に食べてはいけない。これは、この仕事に就くにあたって何度も言われてきただろう?」

「はい。あたし、最初は人間の脳を食べないのは倫理的な理由だと思っていました」

「でも、そうじゃない。クールー病と言って、伝達性海綿状脳症やクロイツフェルト・ヤコブ病に似た、脳がスポンジ状になり、死に至る病気の原因となることから脳は食べてはいけないことになっている。以前に一時流行した狂牛病と言う病気もこれに近い症状だ。現時点で世界では豚やサルの脳を食べる文化もあるが、もしかするとこれらの文化には同じようなリスクが伴っているかもしれない。
 かつてヨーロッパを中心に反映していた古代人、ネアンデルタール人にはカニバリズム、いわゆる食人習慣があったらしい。儀式的な意味合いが強く、頭がい骨を割って脳を食べていたそうだが、ネアンデルタール人絶滅はこのことが原因ではないかという説もある。
 〝人間の想いを食べる〟と言う意味では、脳を食べることが最もそれに近い行為なのかもしれないが、その行為自体を神が許さないのかもしれない。そうなれば、ひとの心を食べるという意味で心臓を食べるのが一番なのだろう……」
 言い終わって、コンロの炭の火が落ち着いてきていることを確認した堂嶋さんは静かに網の上にブロシェットを乗せる。熱い炭にあおられて、串に刺さった心臓肉がキュッと縮む。炎によって熱せられた熱い金属の串が、貫通する心臓肉の中央に熱をつたえる。その光景を見つめていたせいだろうか、あたしの心臓の中央が熱くなる。炎で熱く熱せられた金属の串が心の真ん中を貫き通すように、心の真ん中がキュッと縮んでしまうようだ。

 そしてあたしと堂嶋さんは、焼きあがったばかりのブロシェットに食らいつく。串から外すことなく、熱くなった金属串でやけどをしないように軍手をはめたままの手で一人一本の串を持ち、その中心部分が最高に熱いうちに、熱いままで自分の体の中へと取り込む。それが弔い。

 真希さんが、あたしにどういう想いを託したのか、今となってはもうわからない。死人に口なしで、もはやそのことを直接聞くことはできないだろう。
 しかし、あたしなりの考えでその意思を継ぎたいと思っている。それは真希さん委託されたからだとかそういうことではない。きっと、あたし自身がずっとそうなることを望んでいたに違いない。真希さんはきっと、そのことに気付き、あたし自身に気付かせようとしたのではないかと思っている。

 堂嶋さんはどう思っているのだろう?

 おそらく堂嶋さんは、これから先もずっと永遠に真希さんのことを愛し続けるのだろう。

 死人に朽ち無し。美しい気持ちで離ればなれになった二人の想いがこの先衰えることはないのだろう。

 しかし……
死を受け入れるために


 真希さんが献体となってから、堂嶋さんは一層無口になった。

 依然、半人前の料理人であるあたしの修行は続いているわけだが、堂嶋さんの口数が減った分、あたしが教えてもらえる内容も減ってしまった。たとえ料理の話であっても、堂嶋さんは饒舌に語らなくなった。加えて、娘の梨花ちゃんも体調がすぐれないらしい。母親に似て心臓が悪いことは聞いていたが、その症状は目に見えて悪化してきている。

 この一カ月の間で、二度発作を起こした。

 堂嶋さんは出向がない日は定時で仕事を上がるようになり、あたしは毎日一人残って練習をする日々を繰り返しているが、やはり一人でする練習では身につくものはたかが知れていると言いたいが、それでも本来ならば、今頃すでに堂嶋さんはこの世になく、あたしはひとり立ちしていなければならなかったことを考えれば、奇しくもこの時間さえ真希さんに与えられたということになる。
 
 その日は、今年初の台風が列島を直撃して、朝から激しい雨が降り注いでいた。出向の予定もなく、ちいさなアトリエで堂嶋さんとふたり料理の訓練をしていた。倉庫のような簡素なつくりのアトリエの天井や壁を激しい雨がたたき、せっかくのパッヘルベルのカノンの演奏に余計な楽器が加わることになった。

「堂嶋さん。あたし、今日は一人で練習をしておくので、帰っていただいても大丈夫ですよ。梨花ちゃん、きっとさびしがっていると思います」

 小学校は台風の影響で休校になっている。元より、梨花ちゃんは最近、学校に行かずに家に引きこもるようになっているということだったが……

 堂嶋さんは、あたしの言葉を聞いて、少し迷っていたようだ。いつものまじめで融通の利きにくい堅物の堂嶋さんならば、あたしがそんなことを言ったところで変えるなんて洗濯をすることはなかっただろう。

 にもかかわらず、あたしがそんなことを言い出したのは、堂嶋さんが迷ったのは、それだけ最近梨花ちゃんの様子がおかしいと感じていたからだ。

 そして、その迷いに堂嶋さんが結論を出すことはなかった。

 アトリエの備え付けの電話のベルが鳴り、堂嶋さんが素早く電話に出る。

「――はい。――はい。――わかりました。すぐにうかがいます」

 無言で返事だけを繰り返していた堂嶋さんがコックコートの上に一枚、薄手のジャケットを羽織ると、

「すまないが、今日は帰るよ。香里奈君も、雨が少し落ち着いたタイミングを見て帰った方がいい」

 そう言ってアトリエを出た。
 あたしはひとりアトリエで過ごし、雨は午後になっても衰えることはなく、夕方になってさらに激しさを増した。あたしは寮へ一本電話を入れ、今日は帰れないことを寮母に告げた。激しい雨の中、アトリエで一晩を過ごした。

 目を覚ましたのは翌朝六時ごろで、カウンター席に突っ伏したまま眠りに落ちていたようだ。
昨夜の雨の激しさがまるで夢であったかのような静けさに違和感を覚え、カーテンをあけて窓の外を見た。朝日が差し込み、澄み切った空から黄色い太陽がその光線を辺り一面の水たまりに反射して、それはキラキラと光り輝く幻想的な世界に見えた。
そこに、赤い、人工的な照明がひとつ、ふたつ……
水たまりに反射してせっかくの景色を台無しにしてしまう。朝早いこともあって気を使っているのだろうか、赤い照明こそくるくると品のない回転をしているにもかかわらず、サイレンの音は消しているようだ。黒と白のツートンカラーの車両がそろって水たまりをしぶきをあげながらやってきて、アトリエの前で停車する。

前の車両からスーツ姿の男が二人、禿げたノッポと出っ歯のちびが降りてくる。禿げたノッポがスーツの上に着ているトレンチコートは夏にもかかわらず、厚手の素材で、まるで彼らの制服であると言わんばかりの印象だ。後ろの車両からは、防弾ベストを着た警察官が二人。
アトリエの入り口を開けて出迎えたあたしに、先頭の禿げたノッポが「わたくし――」と、常套句を言いながら、菊の装飾の施された黒い手帳を見せる。そこまでしてくれなくてもそのくらいはわかる。

「どうか……したんですか?」

「こちらは、堂嶋哲郎さんのアトリエで間違いないですかな? 失礼ですがあなたは……」

「あ、あたし、牧瀬香里奈と言います。その……堂嶋さんの……弟子?」

 初対面の相手にする質問ではない。

「昨日から向こう、堂嶋さんはこちらには来てませんか?」

「え? あ、はい。昨日……、昼ごろに電話があって、そのまま帰られました。それからは、何の連絡もありません……けど……なに
が、あったんですか?」

「……はい。昨夜、堂嶋哲郎さんが、○○総合病院から娘、堂嶋梨花の遺体を持って姿を消しました。遺体は本来死後すぐに適切な処理を行い、遺体管理局が……あ、いや、人肉調理師の方にこんな説明をする必要もありませんね」

 なにを言っているのかまるで分らなかった。
 聞きたいことは山ほどある。

「あ、あの……梨花ちゃんの遺体って……おっしゃいました?」

「は、はあ……聞いておられませんか?」

 あたしは黙って肯く。

「昨日、堂嶋梨花さんはマンションのベランダから落下して死亡しました。ベランダの手すりの位置は高く、事故の可能性はありません。それにベランダの内側には足踏み台に使われたと思われる椅子があったことから、自殺であったと断定しています。
病院に運ばれ面会に来ていた堂嶋氏は遺体とともに姿を消しました。雨の中娘をの遺体を連れ出したのではないかとみて捜査をしています。娘、梨花さんの遺体は頭蓋骨裂傷以外には目立った外傷もなく、まだ幼い子供であったことからその食料としての価値は高く、当局に収められるべきその遺体を持ち逃げしたことは窃盗罪に当たり……」

淡々と事件の経緯を語る刑事の言葉に頭の中は真っ白になっていった。

「――心当たりはありませんか?」

 その言葉を聞いたところまでは憶えている。その後、意識をすっかり失ってしまったあたしが、質問に答えたのかどうかはわからない。

 意識が戻ったのは一時間ほど過ぎた頃。アトリエの椅子をくっつけて作った簡易ベッドのうえで横になっていた。体の上に、刑事の着ていたトレンチコートがかけられている。アトリエの中には先程のノッポの刑事が一人で立っている。トレンチコートは当然着ておらず、腕を組み、革靴のつま先をトントンと鳴らしながら何かを考え込んでいる様子だ。窓の外ではちびの刑事が制服の警察官相手に指示を出しながら、携帯電話でも、その向こう側の様子を聞きつつせわしなく過ごしている。

 立ち上がり、コートを折りたたみながらノッポの刑事に近づいていく。

「気が付かれましたか?」

「はい……あの……その後、堂嶋さんは……」

 まだ少しだけボーっとした頭を抱え、気を失う前に何があったのかを思い出しながら話を続ける。にわかには信じがたいような話だ。

「まだ、見つかっていません。今、必死で探しているところです。あと、申し訳ありませんが、あなたにはまだ帰っていただくわけにはいきません。被疑者とあなたが共犯だという可能性を捨てきれませんし、いずれここに連絡があるかもしれません。それまで、申し訳ありませんが我々と行動を共にしてもらうようになります」

 優しい言葉を使ってはいるが、その内容は厳しいものだ。嫌疑はあたしにも向けられており、いわばここに軟禁されている状態だということだ。加えて、堂嶋さんのことを『被疑者』と呼んだことが気に障る。堂嶋さんは堂嶋さんであり、堂嶋梨花の父親と呼ばれることはあっても、被疑者などと呼ばれる筋合いはない。

 しかし、そんな気持ちはぐっとかみ殺す。

「あ、コーヒー……でも、淹れましょうか?」

 アトリエとは言うものの、普通の人からすればここはキッチンであるに違いない。当然コーヒーを入れるくらいのセットは整っているが、刑事たちが自らお茶を入れようとした痕跡はないのは当然と言えば当然だ。あたしが気を失っているというのであれば他人の家に勝手に上り込んでいるようなもの。

「何人……いらっしゃるんですかね……」

「あ、いえいえ、そんなのはおきになさらずに」

 形式ばったその言葉を無視して、おおきめのサイフォンでまとめてペーパドリップで落とす。ひとりひとり丁寧にネルドリップで落としてやる必要なんてない。

 淹れたてのコーヒーに口をつけた刑事は、「いや、さすがにプロのいれるコーヒーと言うものは違いますな。わたしらが普段飲んでいるのとはまるで違う」などとつまらないお世辞を言う。違いなんてあるものか。一番安いコーヒーをこだわることなく機械で淹れた
だけのコーヒーだ。

 しばらくの間、あたしはその刑事と世間話をした。堂嶋さんのことについて何らかの情報を聞き出すためのものだろう。当たり障りのない質問ばかりだったが、堂嶋さんに変な疑いがかからないように気を遣いながら言葉を選んだ。

 夕方までにおおきめのサイフォンで五度以上コーヒーを淹れなおした。二人の刑事のほかは入れ替わりで次々といろんな刑事が訪れる。全部で何人いたかはわからないが、皆、何の遠慮もなくコーヒーを飲んでいく。少しばかりお腹は減っていたが、彼らの食事を作ってやったりはしなかった。ちびの刑事がどこかのコンビニで買ってきたお弁当が配られ、アトリエの電子レンジで温め直して食べた。

 ノッポはあたしとの話に区切りがつくたびにアトリエの外に出て携帯電話で誰かに連絡を取った。ひょっとするとあたしとの会話の中からなにがしかのヒントを見つけだし、捜査に反映させていたのかもしれない。

 夕方頃になったノッポの携帯電話の会話、

「そうか、ごくろうだった」

 短い返事をして電話を切ったノッポは、あたしのもとにやってきて、

「今日は、帰っていただいて結構です。先程、堂嶋哲郎の身柄を確保しました」

「あの……堂嶋さんはどこに……」

「それはまた、あらためてご連絡させていただきます」

 翌日、警察署で一日中事情聴取が執り行われ、あたしに共犯の嫌疑がかけられていないということがわかった。堂嶋さんは事件当日、病院で遺体となった娘、梨花ちゃんの遺体を担いで病院を抜け出し、東京郊外のキャンプ場に車を止め、そこから登山道へと上がっていった。台風が到来する中、子供の遺体を担いだままで登頂した堂嶋さんは、翌日、山頂で梨花ちゃんの遺体を胸に抱いていたところを警察によって確保された。堂嶋さんは遺体と共にドライアイスも持って登山しており、暑い夏の日に一日放置されていたにもかかわらず、梨花ちゃんの遺体は腐敗することもなくきれいな状態で無事確保されたという。

 あたしが堂嶋さんと面会できたのは、さらに翌日の午後のことだった。なかなか着馴れないリクルートスーツに身を包み、留置所の入り口を抜けて、ガラス戸越しに堂嶋さんと顔を合わせる。彼の顔は憔悴しきっている。目は落ちくぼみ、覇気がなく、無精髭も数日分しっかりと伸びている。うつむいて、目を合わせようとしない。

 あたしは、まるで堂嶋さんに初めてであったかのような口ぶりで彼にあいさつをする。

「わたくし、人肉調理師の牧瀬香里奈と申します。この度、故堂嶋梨花さんの遺体調理の担当をさせていただくことになりました――」

 何度も聞き覚えたそのフレーズを、まるで試験官に言って見せるかのように披露する。言葉の意味は、初めて自分の口にして重みを知った。堂嶋さんが知らないはずのない人肉調理に関するひととおりの説明を淡々とこなしながら、堂嶋さんが奥さんに対してそうしていた時のことを思いだす。こうして、形式どおりの言い方をしなければとてもまともではいられなくなるのだ。

 通常、業務の上で説明することのなかった、『たとえ罪を犯し、服役中であっても遺族が故人の体を食べる権利は変わらない』と言う旨を説明したのち、調理の希望を聞いたが、堂嶋さんは何も言ってはくれなかった。それどころか、あたしの顔を見ても表情一つ変えることなく、どんな些細な言葉でさえもかけてはくれなかった。

 堂嶋さんは、すでに死んでいるに等しかった。生きている意味を完全に失ってしまったと思い込んでいる彼に、生きている自分を感じる必要すらない。

「それでは、すべてこちらにお任せする。と言うことでよろしいですか?」

 返事はない。

「それではこちらの方にサインを」

 用紙を取り出すが、直接手渡すことはできない。ひとまず看守に渡し、ガラスの向こう側の堂嶋さんに手渡される。堂嶋さんはうつむいたまま、用紙には目もくれなかった。

「堂嶋さん!」

 思わず、素に戻って声を張り上げるが、やはり堂嶋さんは身動き一つしなかった。
 しばらくして、看守に無理やりペンを掴まされ、半ば強引にサインをさせられた。本人の意思のまったく感じられない、読み取ることもできないようなきたない文字でサインをされた用紙を受け取り、一礼をしてその場を立ち去った。

 翌日、あたしは調理のために拘置所へと赴いた。逮捕された堂嶋さんは検察質問のため、警察署から留置所へと移送されていた。堂嶋さんに面会する余裕も与えられないままあたしが通されたのは拘置所の調理室だった。施設の割には小さな設備で、自由に使っていいとのことだった。調理室自体はとても清潔に手入れされていて、調理設備もオーブンやフライヤーと言った最低限のものはそろっていた。一見すれば、これと言った問題点は見当たらない。しかしこの調理室には手鍋や小さなフライパン、ソースパンのようなものは一切ない。どれも大きな鍋やフライパンばかりで、小回りの利く道具は何もない。ここは料理を作る場所ではなく、人間のエサを準備する場所なのだとわかった。人間が最低限生きていくために必要な餌を効率よく準備するための施設なのだと。いや、それもいたしかたのないことなのかもしれない。ここで作られた餌を食べるのは罪を犯した人間、あるいはその嫌疑がかけられている者なのだ。その者達に生きる権利と食べる権利が与えられているだけ充分だ。健全で善良に生き、ひとを愛し、子を産み育てた人間が生きる権利を失うことに比べれば、十分すぎるほどの処遇だと言える。本来、生きる価値など無く、餌にならなければならない人間と言うのは、ひとを愛することもできず、子を産み、育てる必要もない、あるいはその権利を放棄した人間の方ではないのかとも思えてしまう。
しかし、それを言い出せば、人類の選択が間違いだったということになる。

我々人類は、その種の存続のため、新たなルールを作り、それを守ることで生きながらえるという知恵を持っている。たとえそのルールが本質的に間違っているとしても、ときにルールとは正義さえも凌駕する。

あたしは、キッチンのストーブに火を入れる。フライパンはアトリエから一枚、持参してきてよかったと思う。堂嶋さんが永年使い続けた鉄のフライパンだ。鉄板の芯まで熱の通ったそのフライパンは、すでに油がなじんでいて、ほんのわずかな油脂を入れて加熱するだけで焦げ付くことはない。

小さな発泡スチロールの蓋を開き、中から緩衝剤にくるまれている肉の塊を取り出す。
小さな、きれいな円柱型の肉の塊は、ほんのりと薄ピンク色に染まり、その中央には、真っ白で無垢な骨の断面が見える。
あたしが遺体管理局に申請したのは、梨花ちゃんの上腕部の輪切りだ。初めて出会った時、その白くて柔らかい、女性らしさの際立つ上腕筋に噛みつきたいと言う衝動があった。それを実現するためのエゴと言うわけではないが、その断面を実際に見るとどうなっているかと言うことには興味があったことは否めない。

こうして断面で見ると、人間の皮膚の皮と言うものは意外と分厚い。たぶん文明的な人間が、野生動物のように外から噛みつき、この皮膚を食いちぎって中の肉を食べるのは無理なのではないかと思う。皮膚と肉との間にペティナイフを先端から差し込み、向こうまで貫通させると、そのナイフを下にして、まな板とナイフで皮膚を挟み込むようにして上から圧を掛ける。ゆっくりとナイフを手前に引きながら、円柱型の肉がタイヤを転がすように動かす。くるりと一周したところで肉と、輪っか状に切り取られた皮膚とに分かれる。
皮膚の取り除かれた上腕部に塩胡椒をしっかりとふり、熱したフライパンに乗せる。底が焦げ付かないように初めは少し油脂を馴染ませるようにフライパンをゆするが、その後はなるべく一点から移動させないようにする。片面を七割焼いて裏返し、反対を二割焼く、余熱でちょうど芯まで加熱するように心掛ける。中央の骨の髄液が沸騰して、真っ白だった骨をピンク色に染める。焼きあがった肉は、白いお皿の中央に置き、それで完成。

今日は、ソースも付け合せもなければパンもスープもない。ただ、炎で焼かれた娘の腕があるだけだ。堂嶋さんは、この食事を味わおうなんてまるで思ってなどいない。堂嶋さんが必要なのは……

食事の場所は、無機質で何もない四角い部屋が用意された。そこには小さなテーブルと椅子が二つあるだけで、あとのほかには何もない。テーブルの真ん中に立った一枚の皿が置かれ、一方の椅子にドレス姿に着替えたあたしが座る。以前に堂嶋さんと人肉料理店に行くために新調された、背中の大きく開いた青いドレスだ。あれ以来、一度も袖を通す機会がなかった。
やがて、堂嶋さんがその部屋に訪れた。昨日より一日の時間を過ぎたが、その姿は十年ほど憔悴したように見える。
向かいの椅子に座り、看守が部屋を離れ、二人きりになる。堂嶋さんは、テーブルの上に置かれたみすぼらしい料理を見つめる。何も言わない。

「さあ堂嶋さん。召し上がってください。――冷めないうちに……」

「……」

「食べないんですか?」

「これは……」

「いいですか、耳をふさがないでちゃんと聞いてくださいね。これは、梨花ちゃんの腕の肉です。シンプルに、塩胡椒で焼いただけのものです」

 ――シンプル。その言葉で形容するにはいささかみすぼらしすぎる料理だ。今の堂嶋さんに必要なのは、美味しい料理ではない。すでに娘は死んでしまって、これっぽっちの肉の塊になってしまったのだと認識することだ。

 梨花ちゃんの死を受け入れること、それが堂嶋さんにとって必要なことだ。

「さあ、堂嶋さん。召し上がってください……」

「……僕が、娘の肉を本当に食べたいなんて思ってるわけじゃないだろ……」

「ええ、わかっています。でも、食べなきゃいけないんです……
 梨花ちゃんの死を受け入れるためにも……
 梨花ちゃんも、今の堂嶋さんと同じことを考えていたんですよ、きっと……
 だから、おかあさんの肉をどうしても食べられなかった。
 お母さんの死をどうしても受け入れることが出来ずに、その事実自体か逃げ出してしまった。
 その結果……梨花ちゃんはどうなりました?
 家族の死を受け入れるのはきっととてもつらいことなのでしょう。でも、それを受け入れないと、今度は堂嶋さんが死んでしまうことになるんです」

「……構わないさ。僕には……もう、生きる理由なんて残されていない。妻を失い、子を失い、僕はこれから生きていくことに何の意味もなくなってしまったよ。
 時々思うんだ。もしあの時、献体になったのが妻ではなくて僕の方であったのならば、梨花は僕の肉を食べ、今もなお生き続けていたんじゃないかって……
――次の世代に命をつなぐ。それこそが人間が生きることの意味だと僕は思っている。自分と言う存在が、今ここにあったということを証明するために、その遺伝子をつないでいくことこそが生物の生きる意味であり、その意味を失ってしまった以上、僕に生きる意味なんてないんだよ。いっそのこと自分の体を献体にでも差し出した方がいい。こんな僕でも、誰かの食べ物になることでぐらいならその存在価値もあるだろう」

「なにを……言っているんですか……」

 あたしは少しだけ、憎しみのこもった口調で答えた。

「堂嶋さんに生きる価値がないなんて、勝手に決めないでください。堂嶋さんの、今までしてきた仕事で、いったいどれだけの人が幸せになれたと思っているんですか? これから先、どれだけの人を幸せにできると思っているんですか?
 自分に生きる意味がないなんて、勝手なこと言わないでください。生きる意味がないなんて思うのなら、それを捜すために生きるでもいいじゃないですか。そんなこと自分で勝手に決めないでください!」

「で、でも、僕は……」

「生きて! ください……」

 あたしは思わずその場で立ち上がった。次の瞬間、テーブルの上に置かれた皿の上にある、梨花ちゃんの腕の肉を手でわしづかみにして、それを自分の口元に運ぶ。

 弾力のあるその肉にしっかり歯を立てて固定し、手で引きちぎるようにしてむさぼった。
 口の中で、堅くてい生臭い味が全体に広がっていく。それでも、まだ幼い彼女の肉は成人の筋肉に比べればまだまだやわらかい方だ。飲みこむためには何度も何度も咀嚼しなくてはならない。

 はっきり言って、美味しい肉だとは言えない。高いお金を払ってまで食べるような料理なんかでは絶対にない。それでも、ひとがその肉を食らうのには理由がある。肉を食べるという行為は、その生き物の死を乗り越えて生きて行かなくてはならない使命が存在する。肉を食べたぶん、その肉に対して、その生物の命を預かり、これから先まだまだ生き続けることを誓うという儀式なのだ。
 命を食べないという理由で、ベジタリアンと言う考え方もあるが、それはひとつの意味では生きることに責任を取らないという意味でもある。すべての生き物が生きるためには必ずほかの生き物を犠牲にする必要があり、その覚悟を決めるために人は肉を食べるのだ。

 何度も何度も咀嚼をし、ようやく口の中でやわらかくなりはじめた梨花ちゃんの肉を、あたしはそのまま飲みこんだ。肉が食道を通り、胃の中へと落ちていく。梨花ちゃんの体の一部が自分の体の一部となり、彼女の死を乗り越えて自分が生きていくことを誓う。

「次は、堂嶋さんの番です!」

 あたしは手に握った梨花ちゃんの肉を堂嶋さんへと差し出す。

「食べてください! 食べるということは、生きるということです!」

 うつむいたままの堂嶋さんはそれを受け取ろうとはしない。
 ここまで来てもやはり覚悟が決められず、うじうじとしている。

「さあ」

 肉をわしづかみにした自分の手をさらにもう一歩、押し付けるように差し出す。
 気迫に押された堂嶋さんが、いよいよその手に握られた肉を凝視する。いや、正確にはその肉を掴んでいるあたしの手。あたしの指にはめられた指輪を見ている。

「すっかり、無くしたものだとばかり思っていた…… どうして香里奈君がこれを……」

「奥さんから、いただきました……。形見として」

 堂嶋さんの奥さん、真希さんが献体となる直前、あたしに形見として託したその小さな袋の中には、一本の指輪が入っていた。シンプルなデザインのその指輪が、堂嶋夫妻の結婚指輪だということぐらいは考えなくたってわかる。彼女がどういう気持ちで、この指輪をあたしに託したのか。

『あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん』

 あの時、真希さんはいつかこのような日が来ることを予測して、その時に堂嶋さんの支えになってほしいということを言っていたのだろうか。

 あるいはもっと、あたしの根の部分を、あの時彼女はすべて見抜いていたのかもしれない。

「奥さんは、あたしにすべてを託してくれました。だからあたしは、何としてでも堂嶋さんを生かさなくちゃいけないんです。真希さんは、堂嶋さんがこれから先も、ずっと強く生き抜くことを期待して、いや、信じていたはずです。
 だから……さあ……」

 あたしから差し出された肉を、堂嶋さんはそっと両手でやさしくつつみこむように受け取る。その目には、うっすらと涙が滲んでいる。

堂嶋さんは、そのまま両手で肉を口へと運ぶ。

黙ったまま、堂嶋さんは何度も何度も肉をかみしめ、そして飲みこんだ。

しばらくの沈黙の後、堂嶋さんは少しだけ落ち着きを取り戻した。そして、肉の残り全てを平らげる。骨をしゃぶり、肉の一辺も残さないようにきれいに食べつくした。

「堂嶋さん。ひとつうかがってもいいですか?」

「なんだ?」

「味、おいしかったですか?」

「……………」

「あたしの作った料理、美味しかったですか?」

「おいしいわけがない」

「落第……ですね」

「あたりまえだ。大体なんだこの焼き加減は、片面に熱が入りすぎて肉がパサついている。胡椒を先にふってあったにもかかわらず、こんなに強く焼いてしまったんじゃあせっかくの胡椒の風味が飛んでしまっている。今まで何を勉強してきたというんだ。
 いいか、肉の調理はたった一回、食べる側も、食べられる側もたった一回しかチャンスがないというのに、その大切な一回をこんないい加減な料理を作るようでは人肉調理師としてやっていけるわけがない」

「……そうですか……それは……よかった……です……」

「よかった?」

「いつも通りの堂嶋さんのダメ出しが聞けて良かったです。それに、落第したから、あたし、まだしばらくは独立して仕事を受けるわけにはいかないみたいです……
 たった一回の料理を台無しにしてしまったあたしは、これから一生かけて梨花ちゃんと堂嶋さんに償いをしなければいけないし、明日からも堂嶋さんにしっかり指導してもらうことになりそうです……」

「指導? 残念だけど、僕にはその資格はもうないよ……」

「そ、そんなことないです。堂嶋さんは、あすからまた、現場に復帰することになります。まだ、報告聞いてませんか?」

「報告?」

「堂嶋さん、不起訴になったみたいです」

「不起訴? な、なぜ?」

「そ、それは……」

 それは、あたしからの口添えがあったということがひとつある。あの日、刑事に堂嶋さんの行方について聞かれた時、ついうっかりあたしは本当のことを言ってしまった。もしかすると、山に登ったのかもしれないと。言ったあたしはすぐにしまったと思った。堂嶋さんが梨花ちゃんの遺体を持ち出したというのならば、あたしはそれを手助けするべきではなかっただろうかと。

 苦し紛れにあたしはすぐに言葉をつづけた。

『人肉を最もおいしく下処理するためには高原に咲くハーブに漬け込むのが最良だと言っていました。それをとりにいたのではないでしょうか』

 もちろん、そんなことは全部嘘っぱちだ。しかし、料理知識のない刑事がその話を鵜呑みにしたとしておかしくはないだろう。ただでさえ一人娘が死んだのだ。料理人として、その娘を最も最高の形で食べたいと思うのは当然のことだろう。
 奇しくも堂嶋さんはあたしの言った通り、梨花ちゃんを担いで山に登っていたのだが、その時に腐敗防止のためにドライアイスを一緒に持って登ったということが功をなした。

 検事は、堂嶋哲郎は堂嶋梨花の遺体を持ち逃げしようとしたわけではないという判断を下した。
 あるいは、検事はすべてお見通しだったかもしれない。その検事は、二か月後に息子が十歳の誕生日を迎え、自らが献体となることが決まっていると話していた。たった一度の自分の体を使った料理を家族にふるまうチャンスに、最高の料理人がいないなんてことを避けたかっただけなのかもしれない。今回の件で借りのできた堂嶋さんが、彼の調理を断るなんてできるわけがないだろう。

 もちろんあたしは、そんな事実をいちいち堂嶋さんに説明したりなんかはしない。

 ただ一言。

「堂嶋さんを、必要としている人がたくさんいるっていうことです」 と、説明しておいた。

「もちろん。あたしもその一人です」と補足をしておく。

 短い食事を終えたあたし達は手続きを済ませ、留置所を後にする。
 外に出ると、容赦なく降り注ぐ夏の太陽がアスファルトを溶かして陽炎をつくっている。死んでしまった人間自体はもうどこにもいない。後になって思えばその人間が生きていたこと自体が、陽炎のごとく、本当に存在していたかどうかさえ分からなくことがある。

 しかし、今の自分が生きていること自体が、誰かが生きてきたことの証明なのだろう。
 足取りのおぼつかない堂嶋さんがきょろきょろとあたりを見わたした。

「堂嶋さん……」

あたしが言った。

「なんだい?」

となりにならんだ堂嶋さんはこちらを向くでもなく、まっすぐと前を、あたしと同じ方向を向いたまま答えた。
その方が都合がいい。正面を向きあって、こんなこととても言えない。

「堂嶋さん。あたしと子供をつくりませんか?」

「え……、な、何を……」

「堂嶋さんは、妻も子もいない世の中ならば、生きていても仕方がないなんて言いましたよね?
 それって、あたし的にはちょっとショックだったんです。
 あたしは結婚なんてしていなければ、子供だって産んでいない。だとしたら、あたしなんて生きている意味がないってことになります」

「い、いや、そういう意味で言ったんでは……」

「はい…… わかっていますよ。あたしだって、妻や子供がいない人が生きている意味ないなんて思っていません。さっきあたしがそれを堂嶋さんに言ったばかりです。
 でもですね、堂嶋さんいそれを言わせるくらいに、子供をつくることって素晴らしいことなのかなって思うわけです。
 だったら、あたしもそれを経験してみたい…… そう思うんですよ。
 だって、たった一度の人生なんだから、そんなに素晴らしいもの、経験したいじゃないですか」

「でも、世間は子供をつくることに対してやさしくはない。命を、捨てる覚悟がいるんだ……」

「たしかにそうですね。あたしだって、正直死にたいなんて思っていません。でも、生きている意味なんてない。死にたいと思っているくらいの人がいるなら、それはそれでちょうど都合がいいかなと……」

「それが……僕だっていうことだね……」

「堂嶋さんは、生きる意味もないみたいに考えているみたいですけど、生きる意味がないなら意味をつくればいいんですよ。真希さんや、梨花ちゃんは、この世に子孫を残すことが出来なくなってしまいました。でも、彼女たちは堂嶋さん、あなたの体の一部になっているはずです。だからこそ、今のその体で子孫をつくるんです。
 堂嶋さんの子供をあたしが産んで、その10年後に堂嶋さんが献体になればいいんですよ。それが、一番無駄がないです。
 堂嶋さんの体は、あたしが責任を持って料理して、あたしと子供でおいしく食べてしまいます。
 これって、すてきな提案だと思いませんか?」

「素敵かどうかはさておき……
 ひどい殺し文句だと思うよ、僕は……
 だが、一つ言っておくが、君の腕ではまだまだ僕を満足に調理することはできないだろう。だから、その答えは今のところ保留にしておくよ」

「わかりました。それじゃああたし、しっかり訓練をして、立派な人肉調理師になって見せますよ。そしたらその時、あたしのために、食料になってくださいね」

「ああ、考えておく……」

「あ、それと……」

「まだ、なにかあるのか?」

「はい。あたしが堂嶋さんとの子供を産みたい理由って、何も堂嶋さんが死にたがっているからってだけじゃあないですよ。
 あたし、堂嶋さんとじゃなきゃ、駄目だなって思うんです。子供をつくるのなら、堂嶋さんの子じゃなきゃ嫌だなって……」

 ――ねえ、堂嶋さん……

 ――もしかして、これが〝愛〟っていう感情ですかね?
――終幕
 

「アタシはもうじき死んでしまうのに、何でいまさらながらにゴハンを食べているのかな? だってそうじゃない。アタシが今、こうやってゴハンを食べなければもっと長くいきられた命があるってことでしょう?」

「それを言うなら、僕だっていつかは必ず死ぬわけだし、君が今食べなかったことでもう少し生きながらえた命だっていつかはかならず死ぬさ。その時間がちょっと長いか短いかというだけの話」

「そう、ちょっと長いか短いかだけの話。アタシがこの世に何を残すでもなく死んでいったとしても、どうせ人類はいつかは消えていなくなる。自分の遺伝子だって同じことで、いますこしつなぐことができたとしても、どうせいつかは途絶えてしまうものなのよね。
 ちょっとだけ長いか、短いかだけの話……」

 僕は、それ以上は何も言わなかった。彼女は黙って、用意された残りの食事を全部平らげた。

「ふう、お腹いっぱい。お腹いっぱいになるとなんだか眠くなってきちゃったな。ゴハンもおいしかったし、今日はぐっすり眠れそう」

 ――ぐっすり眠れそう。

 それがまるで伏線だったかのように彼女はその夜、永い永い眠りについた。最後の最後まで、食べることを愛し、食べられることを祈りながらそっと、わずか二十年ばかりの人生に幕をおろし、あとには彼女の思い出だけが残された。

 彼女の体のすべては灰と化し、天高く昇っていった。

 僕は――

 彼女を食べてあげることができなかった。
 
 わずかに残された彼女の白い骨の一部にかじりつく。
 そのくらいのことはしてあげてもよかったのかもしれない。
 
 たしかに思い出だけは残ったが、子を産まずにこの世を去った彼女は、自らが存在していたという証拠を物質的に残すことはできなかった。

 僕は――

 僕はせめてもの贖罪に、彼女が存在していたという事実を、自分なりの方法で残せないかと考えてみた。

 彼女が、たしかにこの世に存在したという証拠を――

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