蟷螂の料理人


 都内の某所。繁華街の喧騒から少しだけはなれた路地裏には、そこが都会のド真ん中とは思えないほどに静かで穏やかな場所がある。子供のころずっと田舎で育ったあたしは、都会はとても住みにくく、どこに行ってもコンクリートに囲まれた無機質のジャングルだとばかりに考えていた。しかし、実際に住んでみると、意外と静かな場所がおおく、緑もあることに気付く。それらのスペースは、土地代の高い都心部では非効率な存在のように感じるが、それでもこれだけの場所が確保されているということは、それだけ人間と言う生き物が効率だけを機械的に追い求めては過ごせない生き物だという証拠だ。

 コンクリートで作られた無機質の小川の淵に植えられた柳の木を眺めながら歩き、あたしは小さな倉庫のような場所にたどり着く。ポケットの中から取り出した鍵束に、自分の寮の部屋や自転車の鍵と一緒にま止められている鍵をひとつ取り出して鍵穴に差し込む。

 カチャリと軽快な音を立ててサムターンが廻る。

 コンクリートが打ちっぱなしの部屋の中に、そのアトリエの主である堂嶋さんの姿はない。いつもかかっているクラッシックの音楽もなければ電気だってついてやしない。

 そこはまるであたしの知っているいつものアトリエとは全く別のもののように感じる。

 先日、堂嶋さんと一緒に食事に出かけ、その帰り道で想わぬ告白を受けた。堂嶋さんはもうじき献体となり、食料となってしまう。

 あたしは、堂嶋さんの体を料理するという大役を命じられ、それと同時にこのアトリエの鍵を預かった。堂嶋さんの死後、このアトリエはあたしに継いで欲しいとのことだった。

 思えば初めて堂嶋さんに出会った日、あたしが料理学校を卒業したばかりの新米だということを知った堂嶋さんは随分と気落ちしていたように見えた。あれはおそらく、そこに来た見習いが誰であろうと、その料理人に自分の体を料理してもらうことが決まっていたからなのだろう。あたしだって、せっかくの自分の体を料理するものが、素人同然の新米だと言われれば気分を悪くしてしまうだろう。

 だから今のあたしは少しでも技術を向上させなくてはならない。だから今日もこうしてアトリエでひとり、技術訓練をしようと思ってここに来たのだ。本来今日は休日で、通常の訓練はない。

 もしかすると計算高い堂嶋さんのことだ。あたしに前もってアトリエの鍵を渡したのは、あながちそうすることを暗に指示していたのかもしれない。

 あたしはオーブンに火を入れ、いつもの通りに訓練を開始する。堂嶋さんはいないが、やるべきことは頭に叩き込んでいる。必要なのは繰り返し訓練することだ。料理に必要なのは、とどのつまりレシピでもなければ食材でもない。愛情だと言われればそうかもしれないが、少なくとも今のあたしにとってはまだその段階ではない。もっとその前の、基礎の訓練だ。基礎の技術力は繰り返しの訓練でしか身につかないし、それがなければどんな料理を作ってもたかがレベルが知れている。逆を返せば、基礎技術さえあればどんな料理をどんなレシピで作ってもおいしく作ることができる。あたしは同じ作業を繰り返しこなし、そのすべてを味見しながら何がどう変わっていくのかを確認した。

 訓練に人肉を使うことは当然できない。そのかわりに豚肉を使って練習をする場合が多い。人間の肉はその部位の形や肉質などが豚肉に近い。まあ、言ってしまえば味的には猪の方が近いのだが、豚肉であればスーパーなんかでも比較的にいろんな部位が手に入りやすく練習しやすいので都合がいい。特に豚の内臓は人間のそれと特に似ている。大きさ、肉質共に似ているのでとてもいい練習材料になる。

 昼過ぎごろになると、今度はさすがにお腹がいっぱいになって、せっかく作った料理の味見をするのもしんどくなってきた。おそらく大きなレストランで働けば、それだけたくさんの味見をしなくてはならないだろうし、毎日繰り返すとなればそれなりに大きな胃袋も必要になるのだろう。そんな丈夫な胃袋をつくるのも一つの訓練なのかもしれない。友人のバーテンダーなどは週末の忙しい日ともなると、仕事終わりにはすっかり酔っぱらっているという。わずかティースプーン一杯の味見とはいえ、100杯を超えるカクテルを作り、味見をしながら1日走り回っていれば酔いもまわるらしい。

 いよいよもって味見も苦しくなったところで、ついにはうなだれて椅子にへたり込んでしまう。練習として重要視している豚肉は作って味見までしたが、ついでに練習をした魚料理まではなかなか味見をする気にはなれない。せっかくの魚がその身を食材として呈してくれたのに、作るだけ作って食べないのは失礼だが、さすがにくるしい……
その時、不意にアトリエのドアが開き、突然の来客があった。

「やれやれ、こんなに食べ残してしまって…… 食材がもったいないじゃないか……」

 アトリエに入ってきた堂嶋さんは躊躇することなくキッチンの方へと向かい、あたしの食べ散らかした料理の山を見る。その姿はいつもの堂嶋さんとは少しばかり印象が違うように感じるのは休日で、いつものコック服姿でないの当然だが、ノーネクタイではあるが、オックスフォードシャツにツイードのジャケットと言ういつもよりはややフォーマルな格好のせいだろう。

 堂嶋さんの目の前には、あたしが先程調理したスズキのポワレが5切れ、一つの楕円のお皿に並べられている。そのどれもが半分だけあたしが食べ残した残骸だ。

 堂嶋さんは、せっかくの恰好に似つかわしくない手づかみで、その料理を端から順につまんでいく。わずか数十秒でそのすべてを平らげる。

「3番目と5番目が正解だ」と堂嶋さん。「全体を通して裏返すのが少し早いようだ。皮目を6で焼き、内側を2で焼く。余熱で最後の1を焼く。何度も言っているだろう?」

「は、はい……頭では分かっているんですけど……」

「もう少し、フライパンに入れる油は多くていい。もう少し加熱してから焼きはじめればうまくいく」

「はい。ありがとうございます」

 結局、休日にしても堂嶋さんのアドバイスをもらわなければならない羽目になる。横に置いてあるあたしの口洗い用(味見をした口の中をリセットするための)のペリエの瓶を手にとり、その中身をグイッと全部飲み干した堂嶋さんは、スズキをつまんで汚れた指先をキッチンタオルでしっかりと拭き取りながら、

「さて、昼飯も食ったところだし、少し出かけようか」と言った。

「あたしも……ですか?」

「ああ、僕が生きているうちに、約束だけは果たしておかないとな」

「約束……ですか?」

「美術館に連れてく……という約束をしていただろう」

「あ、あれ……本気にしてたんですか……」

「本気じゃなかったのか? なんだ、それなら別にいいんだが……」

 そう言って踵を返そうとした堂嶋さんのひじを後ろから咄嗟に捕まえ、

「本気です。本気でした……。すぐに用意するので少しだけ待っていてください……」

 と言いながら、恐る恐るその手をそっと放す。思わず堂嶋さんのひじを掴んだあたしの指は、料理の脂で少し汚れていた。堂嶋さんの一張羅(勝手にそう思い込んでいるが)に脂の染みが付いた。

 向かった美術館は、堂嶋さんのアトリエから歩いてすぐの場所にある小さな美術館だった。商業ビルの6階にある。美術館と言うよりは画廊と言った規模だったが、こんなに近くにあるなんて知りもしなかった。おそらくこの場所にしたのはきっとその日、そこで開催されたイベントが料理をテーマにした絵画展だったからだろう。その日は料理をテーマにした新進気鋭の作家たちの作品と、ゴヤの贋作展だった。。展示されているものはほとんどが油彩画で、あたしは油彩画と言うものを間近でちゃんと見るのは初めてだった。思えばよく行く病院のロビーだったり、ちょっと高級なレストランの壁であったりと、あるにはあったはずなのに、わざわざ近づいてじっくり見ることを今までしなかったのはなぜだろうと思い知らされた。油彩画と言うものは、近くで見ると意外と立体なのだ。絵は二次元だと思っていたのは美術の教科書の中の絵しか見たことがなかったせいで、近づいてみるとこれが意外と立体的だ。確かに飛び出してきそうと言えば飛び出してきそう。

 中でもあたしの興味を一番に引きつけた絵は、写実的な技法で描かれた絵画で、横幅150㎝くらいある大きな絵で、右下にいる翼の生えた子供、おそらく天使だろうが、彼の放つ弓矢が次々と逃げ惑う人間たちを射抜いている姿が描かれ、その背面では悪魔たちが、天使の仕留めた人間を鍋で茹でたり、燃え盛る炎であぶったり、巨大なナイフとフォーク(いや、これはきっと鉈だ)で食べたりしているという絵だ。その凄惨な絵に思わず見惚れてしまったが、しばらく見ているうちにいくつかどうしても気になる部分が出てきた。隣で見ていた堂嶋さんも、おおよそあたしと同じ意見を持っていたようだ。

「この悪魔、人肉調理の資格は持っていないな」

「はい。いくらなんでも調理法が雑すぎです。この、悪魔が食べている肉だって、明らかに焼きがあまい色ですよ。それに、人間を下茹で無しで煮るなんて、きっと灰汁がすごいです」

「そうだな、それにこの炎であぶっている人間だが、こんな激しい炎であぶったところで、表面が真っ黒に焦げるだけでほとんど熱が入らないな。もっと食材は大切に扱うべきだ」と、堂島さんも少しばかり怒っている様子だった。

「よし、せっかくだからこっちも見て行こう」

 堂嶋さんはあたしより、少しだけ浮かれ気味で隣の展示室の方へと移動する。ゴヤの贋作展が開かれている。

「贋作展って、ニセモノ……ってことですよね?」

「レプリカ、と言った方がいいのかな。絵の構図を考え、最初に描いたのはゴヤかもしれないが、その絵を見て、その絵そっくりに描いた、本物の贋作だ。モチーフだけを真似たオマージュと言うものもあるけれど、贋作の方がオリジナルの書き手であるゴヤに対する敬意はより強く感じるかもしれないな」

「でも、ニセモノなんですよね?」

「それを言えば、料理のほとんどはニセモノってことになるんじゃないか? 今ある料理のほとんどは先人である誰かが考案したもので、僕達料理人はそのレプリカやオマージュをつくり続けているに過ぎない。それら先人のすべてが料理の世界における偉大な芸術家だと言っていい。アントナン・カレームの言った『新たな料理法を見つけることは、新たな星を見つけることより有意義だ』と言う言葉にはうなずける」

「そう言われてみれば、たしかに料理は芸術の一つと言えるかもしれませんね。欧米なんかでは有名な料理人はそれなりに芸術家として優遇を受けているみたいですけど、有名なコックの名前ってそれほど残っているわけでもないし、料理を作って受け取る金額は他の芸術家のようにとんでもない金額になったりしないんですよね。料理に著作権があるわけでもないし……」

「まあ、すべての芸術家に対しても言えることかもしれないけれど、料理人の発明はお金を儲けることが目的じゃないよ。より多くの人にその味を知ってもらうということだ。小説家が多くの印税を受け取ることを目的で書いているのではなく、より多くの人に読んでもらいたいと思っているのと同じようにね。結果として、その料理が高額で取引されないのは、料理と言う存在が後に残せない、その場限りの芸術だからだよ。一度つくり、一度食べてしまえばそれで終わり、楽譜も原稿も、その作品さえも後の世代へ残すことはできない。だから料理人は同じ作品を何度も何度も繰り返し作り続けなくてはならない。そのために技術が必要だ」

「……はい。身につまされます」

 くだらない会話をなるべく小さな声で囁き合いながら、ゴヤの贋作を見て回る行為は、その作者に対して少しばかり失礼なことなのかもしれない。コックがつくった料理が、冷めていくのを気にせずにおしゃべりばかりに華を咲かせる人たちと同じ行為かもしれないと考えれば、少し心が痛む。

 2枚並べられた同じ構図の女性の絵はとても有名だから知っている。(着衣のマハと、裸のマハだ)しかし、なぜ、こんな2枚を仕上げたのかはわからない。まず、着衣のマハを先に描いて、そこから彼女の裸を念写するように書いたのか、まさか大それた間違い探しの絵を描いたわけではないだろう。

 しばらく並べられた絵を見てはいるが、何をどう感じればいいのかはやっぱりよくわからない。贋作とは言われても、こんなところに展示されるほどの贋作はやはり素晴らしい出来で、本物の価値と何がどう違うのか、あたしにはよくわからない。それは単にコレクターたちの金銭的価値の違いなのか、あるいはあたしにはまだ理解の及ばない違いが存在しているのかわからない。しかし、そんあたしでも、どの絵が好きか、その絵に対して自分がどう思うのかくらいならそれなりに意見はある。その点においても、やっぱり芸術と料理とは似ているのかもしれない。

 そんななか、一枚の絵があたしの足を思わず止めた。それはあまりにも恐ろしい、狂気じみた絵だった。

「我が子を食らうサトゥルヌス」

 堂嶋さんが、説明するかのようにその絵のタイトルを教えてくれた。髪を振り乱した男が人間を頭からくらいつている。その両目は眼球をむき出して、猟奇じみた表情をしている。『我が子を……』と堂嶋さんが言ったが、なぜ、この男は我が子を食べようとしているというのだろうか。

「サトゥルヌスは――」と、堂嶋さんが説明をしてくれる。「――はギリシャ神話で言うところのクロノスで、いずれ我が子が自分を滅ぼすという預言を恐れ、その恐怖のあまり猟奇化して自分の子供たちを食べていくというエピソードがある。これと同じ構図の絵をルーベンスも描いている。食人習慣のなかった当時としてはかなり衝撃的な絵だったんじゃないかな」

「食人習慣のある現代でも、十分衝撃的ですよ。この絵は。せめて、せめてちゃんと料理して食べてあげるべきです。こんな、こんな頭から丸かじりするなんて……」

「そうだな。猟奇じみてでもなければこんなことはできないさ。自分の子供くらうなんてな……」

 その絵の衝撃さゆえか、すっかり意気消沈してしまったあたしは言葉少なに美術館を出る。ポケットから携帯電話を確認した堂嶋さんは、美術館で電源を切っているあいだに連絡が入っていたらしく、留守番電話に録音されたその内容を少し離れた場所で聞いていた。その表情が、みるみるうちに青ざめていくのがわかる。通話が終わり、携帯電話をポケットにしまった堂嶋さんがこちらへやってきて、「すまないが、ちょっと急用ができた」と言った。その表情は、〝急用〟で済ませるような物事ではないということぐらいはすぐにわかる。

「あの……どうしたんですか」

「ま、真希……妻が、倒れて救急車で運ばれたらしい。い、今から病院に……」

「あ、あたしもいきます!」

 あたしがついていったところで、一体なんになるというのだろうか。しかし、突然のことにどう対応していいのかわからず、あたしはそう言った。目の前で動転している堂嶋さんをほおっては置けないと思ったのかもしれない。病院の集中治療室の前で堂嶋さんは医師からの説明を受けていた。部外者であるあたしはあまり立ち入ったことを聞いてはいけないと少し離れた場所から見ていたが、堂嶋さんと医師とは互いに見知った間柄のようだった。こういったこともどうやら珍しいことではないように思えた。

 ひととおりの説明を受けた堂嶋さんは、少しだけ表情を穏やかにして、(あるいは無理にそうしているのかもしれない)あたしに言った。

「特に大した問題ではないよ。ちょっと体調を崩しただけみたいだ。妻は、以前からあまり体が丈夫ではないんだ。こういうことも初めてではない。命に別状もなく、しばらくすれば目を覚ますようだから、香里奈君は今日のところは帰ってくれてだいじょうぶだよ。明日は、予定通りに出勤するから」

 そう言われたのでは、あたしにできることはもうない。その日は家に帰り、翌日、いつもよりも少しだけ早くに出勤した。


 堂嶋さんは、いつもとほぼ同じ時間に出勤してきた。

「昨日はごめん。心配を掛けたね。あの後妻も意識を取り戻し、今日の朝にはもう家に帰ってきたよ。さあ、そんなわけで今日もしっかり仕事を開始しようかあ」

 無理に明るく振るまおうとしているのがわかる。病気もそんなに心配する必要もなく、退院したということも嘘ではなさそうだが、明らかに昨日までの堂嶋さんとは違う、今にも壊れてしまいそうな影がある。何事もなく、コックコートに着替える後姿がかえって痛々しい。

「なにが……あったんですか……。なにもなかったなんてことは、ないんでしょう? あたしにだってそれくらいはわかります」

 余計なことを聞いてしまった。堂嶋さんは、片方だけ袖を通したコックコートをそのままに動きを止めた。

「……いい、知らせだよ」

 背中を向けたまま、静かに言う。

「……どうやら僕は……死ななくてもいいらしい……。僕は、献体にはならない……」

「それってつまり……」

 堂嶋さんは再び動きを再開して、宙ぶらりんになったもう片側のコックコートを持ち上げ、両手の袖を通し終え、静かにうつむいたまま前のボタンをとめはじめる。

「昨日、妻と話し合った。来月、娘が十歳の誕生日を迎えた時に献体になるのは、妻ということになった……」

 堂嶋さんの足元、コンクリート打ちっぱなしの床に水滴の粒が落ち、ゆっくりと地面に涙の染みが広がっていく。

『あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん』

 奥さんの言っていた言葉が頭の中で繰り返される。あの時、奥さんは既にそうすることを決めていたに違いない。
 堂嶋さんの奥さん、堂嶋真希は、生まれつき心臓に病巣を抱えていた。しかし、発達する医療にも限界と言うものがあり、彼女の体はすでに限界に近いということだった。 

 もうどの道ながくは生きられない。だから献体となるのは自分の方だと主張した。

「それでも初めから自分が献体となる約束だった」と、堂嶋さんは言ったのかもしれない。しかし、そんなことをすればいずれ両親をともに失い、娘は孤児になってしまうと言われれば、それ以上の反論はできなかっただろう。

「僕はね……正直に言うと、その時にほっとしてしまったんだよ……」

 贖罪の念を、絞り出すように彼は言った。

「彼女に死んでほしいなんてこれっぽっちだって思っていない。僕の身代わりに彼女が献体になることを僕は望んでいない。たとえ一日でも長く、僕より生きていてほしい。これは僕のエゴかもしれないが、僕は彼女のいない人生なんて、一日だって生きていたいとは思わない……
 それなのに、彼女が献体になると言い出した時、僕はホッとしてしまったんだ。
 僕は……死にたくはない……
 たとえ一日だって長く生きていたいんだ。
 少しでも長くこの世界と関わっていたいし、僕がいなくなった後の世界がどうなっていくのかが見ていたいと思っている……
 この世界から僕がいなくなって、いつか誰も僕のことを覚えていなくなる日が来ることがことが怖いし、僕が死ぬことで妻のことを思いだせなくなってしまうこともいやなんだ。
 僕は死にたくなんかないし、 
 妻にだって死んでほしくなんかない……
 この世界には、救いの道なんてどこにもないんだ……」

 数日後、いつも通りに出勤をして、いつもの通りの準備をしているとき、いつもよりも少しだけ遅くにやってきた堂嶋さんは、A4サイズのコピー用紙に印刷され、端をクリップを止めた資料を眺めながら言った。

「今日は午後から、被献者と料理の打ち合わせがある」

そう言って資料をカウンターの淵に置く。
献体となる者が、事前に人肉調理師と打ち合わせをするということは珍しいことではない。事故による急死などではない限り、病気などで余命をまじかに控えている者や、特に子を持ち、その子が十歳になり、親が献体となる場合は献体者が死を間近に控えている場合でも健常な場合が多いため、料理の打ち合わせに本人が参加するということは珍しくはない。最近ではあたしも積極的に実践を踏まえるようになり、こうして事前の打ち合わせに参加することも多くなってきた。そしていつも思うのが、この献体者本人に会う時と言うのが一番精神的に辛い。自分の死後、あたしがどう料理するつもりなのかを根掘り葉掘り聞く者も多ければ、中には自暴自棄気味で何も意見を言ってくれないかと思えば、「では、こちらにすべてお任せでよろしいですか」と聞いたとたん、急にあれこれと注文を付ける人だっている。もちろん、人生に一度きりのことではあるが、決して本人が食べるわけではないというのに……
いや、本人が食べるわけでもないからこそ、こだわるのか……
ともかく、この時が一番神経を使う。相手は生きている人間だ。死んでしまって口がきけなくなった肉塊を調理している方がよほど気が楽だなどと言ってしまうのは果たして罰当たりだろうか。
数分後に、作業の流れでカウンターの近くに言った時に資料に軽く目を通す。

「堂嶋さん、これ……」

「ああ……」

 堂嶋さんはわかっていると言わんばかりに眉一つ動かすことなく返事をした。
 資料に記載されている。献体者氏名には、〝堂嶋真希〟と書かれている。住所は都内の郊外、あたしの携帯の着信メールの中には、それと同じ番地が記載されている。

 午後になり、コック服から正装のスーツに着替えて車で移動する。駐車場は、マンションの住居者用のスペースではなく、来客用の駐車場へ置く。
 玄関のエントランスホールで来客用のインターフォンへ向かい、自分の部屋番号を押した堂嶋さんは、インターフォン越しの奥さん、堂嶋真希さんに向かって挨拶をする。

「わたくし、人肉調理師の堂嶋と申します――」

 いつも通りのあいさつに奥さんが答える。

「お待ちしておりました。部屋の方へお越しください」

 エントランスホールの自動ドアが開き、堂嶋さんがあたしの前を歩き、馴れた足取りでエレベータへと向かう。まるでママゴトでもしているようだ。
 エレベータを待つ間、あたしは堂嶋さんに訪ねる。

「なんで自分のカードキーで入らないんですか? 自分の家ですよ」

「まあ、それは確かにそうなんだがな。これはひとつの……そう、儀式みたいなものなんだ。僕はこうしていつも通りの儀式としてのルーティンをこなしていつものように仕事をこなす。
 たぶんそうしないと今日はまともではいられなくなりそうだからね」

 ――ピンポーン。と、クイズに正解したかのように音が鳴り、エレベータが到着してドアが開く。それから堂嶋さんは無言で、妻の待つ我が家へと向かう。
 マンションの、自分の部屋の前に立った堂嶋さんは、やはりいつもと同じようにドアチャイムを押し、「わたくし、人肉調理師の――」といつもの通りの挨拶をこなす。
 内側からとを開けた真希さんは、「あなた、おかえり」と堂嶋さんに受け答える。「香里奈さんもいらっしゃい」そう言ってドアを大きく開き、室内へといざなう。優しく微笑む彼女の表情からは、もうじきこの世を去らなければならないという無念の曇は感じさせない。ただただ、その事実を受け入れ、運命のままにゆだねることを承諾しているようにしか見えない。
 ダイニングテーブルへと通され、冷蔵庫を開ける真希さんが「あなた、ビールでいい?」と聞いてくるが、堂島さんは「いえ、今はまだ仕事中ですので」と、あくまで儀式的形式を逸脱しないように行動する。
 四人掛けのダイニングのテーブルの下座にあたしと堂嶋さんが座り、向かいの席に真希さんが座る。

「梨花ー」

 真希さんが家の奥に向かって呼ぶ。それほど大きな声ではないが、透き通っていて、よく響く声だ。
 呼ばれて奥の方から小さな女の子がおずおずと無言でやってくる。梨花と呼ばれたその女の子は、母親にたがわず透き通るような色白の少女で、もうすぐ十歳になるという割には比較的小柄でやせっぽちな子供だ。まん丸でとても大きな眼球が印象的で表情に笑顔はなく、はじめに一度あたしを睨めつけるように見て、それから堂嶋さんを見た。

「父さんがそこに座っているのって、変……」

 とつぶやく。
 普段の堂嶋さんが家にいる時には座る場所の定位置があり、今座っている場所はきっとその場所ではないのだろう。そうすることで、家の中にいる普段の自分と一線を引くことにしているのかもしれない。
 空いている真希さんの隣へ梨花ちゃんが座ったことを確認した堂嶋さんが、いつもの通りに名刺を取り出して挨拶をする。

「それでは、この度の――」

 と堂嶋さんがはじめる挨拶に、いよいよ真希さんは吹き出した。

「ゴメン、ごめん。でも、あまりにも他人行儀過ぎてなんだかおかしくって――。ねえ、どうにかもう少しだけ普通どおりにできない?」

 緊張感のない真希さんの対応に、さすがの堂嶋さんも弱ってしまった様子だ。

「わ、わかったよ。こ、これでいいのかな」

 わざとらしくにネクタイの首元を少し緩め、大きくため息をついた。
 少しばかりざっくばらんにはなったものの、それでも少しだけ堅い言い回しの堂嶋さんは、人肉調理にあたる説明を形式どおりにこなし、誓約書を取り出す。空欄に対象者の指名を確認しながらかき込んでいく。
 
 献体者、堂嶋真希
 調理責任者、堂嶋哲郎 
調理補助、牧瀬香里奈
記入事項を読み上げながら確認を取っていく。

「それでは、この度の食者が堂嶋哲郎、および堂嶋梨花の二名で間違いありませんね」

 妻の顔を見ながら説明する堂嶋さんに真希さんは「はい」と言ってうなずく。

「では、こちらの方にサインを――」

 ペンを執った真希さんが署名欄にサインをしようとしたところで、一旦手を止めた。

「ねえ、あなた。この食者の中に香里奈さんの名前って入れられないのかな?」

「え……」

「ほら、香里奈さんって、もうほとんど家族みたいなものでしょ。わたしも、せっかくだから香里奈さんにも食べてもらいたいわ。ね、いいでしょ?」

 アーモンド形の目の中を、眼球だけをこちらにスライドさせて、あたしを見る。

「ねえ、食べて行ってくれるでしょ?」

 まるで今晩の食事に付き合ってほしいくらいに軽いノリであたしを誘う。

「残念ですが――」堂嶋さんはやや機械的な口調で答える。「牧瀬さんは堂嶋家の戸籍に関係がありません。したがって今回の食事に
同席することは――」

「もう、じれったいのね。どうして公務員ってのはこうも融通がきかないのかしら。どうせ調理するのがあなた達なんだから、出来た料理を一緒に座って食べて行けばいいだけのことでしょ? 別に誰かに告げ口なんてしないわよ。他に誰かがいるわけでもないし」

「ま、まあ、そういうことくらいなら……」

「そう、それじゃあ決まりね。よろしくね、香里奈さん」

 彼女はそういうことで納得したようだった。あたしは食べるとは言ったおぼえもないが、とにかくそういうことになったらしい。

「それでは、この度の調理法なんですが――」

「ねえ、梨花。あんたはおかあさんのこと、どんなふうにして食べたい?」

 真希さんが娘に対する質問に、娘の梨花さんはしばらくむすっとして何も答えなかった。

「黙ってたんじゃわからないじゃない……」

 その言葉を聞いたとたん、梨花ちゃんはテーブルをバンッ! とたたいて立ち上がった。

「アタシ、母さんなんて食べたくないに決まってるじゃない!」

「え、なに? あなたもしかしてお父さんのこと食べたかったの?」

 意地悪そうに娘に詰め寄る母に対し、梨花ちゃんは母親をキッと睨み付けた。

「とうさんもかあさんも、食べたいなんて思ってないわよ! そんなことわかりきってるじゃない! それなのに何よみんなして! もう、勝手にすればいいんだわ!」

 梨花ちゃんはテーブルを離れ部屋の奥に閉じこもってしまった。
 さすがに真希さんもまいったなと言う表情を浮かべる。

「料理の内容については、全部あなたにお任せするわ。あなたの腕は信頼しているし、あなたの愛してくれたわたしだもの。あなたのしたいようにするのが一番よ」

 そう言ってにっこりとほほ笑む。あたしは、自分がここにいてはいけないような気がして目をそらす。

「どんな料理になるのかしら。楽しみだわ…… あ、でもわたしはそれを見ることもできないし、食べることもできないのよね。なんだか複雑だわ……」

 どこまでが冗談で、どこまでが本気で言っているのかもよくわからない。彼女の本心がどう考えているのかは、部外者であるあたしにはまるで分らなった。

 正直なことを言えば、今何を考えて、どんな気持ちなのかを聞いてみたいとは思ったが、さすがに今ここでそれを聞くことなんてできるわけもなかった。

 その日の面談はそれで終了し、その時の真希さん気持ちは永遠にわからないままで終ることになる。

 あたしが次に真希さんと対面したのは、食材となってからの姿だった……

 昨日、堂嶋さんのマンションの一室で、妻、堂嶋真希さんの送別会が行われた。

 日中、お世話になった人をたくさん呼んで、簡単なパーティーを行う。みんなからの送別の言葉を受けた真希さんが、今度は集まったみんなに感謝の言葉と、真希さんからみんな、それぞれに形見の品を手渡しでプレゼントしていく。

 太ることも、健康のことも気にしなくてもいい、好きなものを好きなだけ食べ、お酒をいくら飲んでも構わない人生最後の一日を彩る最高のパーティー。皆が解散した後、堂嶋さんと奥さんの二人でささやかな時間をすごし、睡眠薬を飲んで安らかに眠りに落ちる。
 遺体が存在しなくなった現代において、死後の告別式や葬式にはそれほどの価値が見いだせなくなり、献体としてこの世を去る人たちには近年、送別会というスタイルが人気だ。

 真希さんからは是非、あたしにも出席してほしいとのことだったが、あたしはそれを断った。それと言うのも、堂嶋さんに出席しない方がいいと言われたからだ。あたし達人肉調理師はその翌日、その人物の体を調理しなければならない。その直前のパーティーに参加してしまうと、生前影を引きずりすぎて調理に支障をきたすことがあるという。
今回、その咎を堂嶋さんが逃れることは不可能で、どうしても逃れられない苦悩が襲ってきた時に、それを代行する人間が必要だという。それがあたしだ。だからあたしは送別会には参加しなかった。
朝、アトリエに到着した堂嶋さんの目は腫れていた。昨夜に別れを済ませ、奥さんの遺体は遺体管理局のもとへと送り届けられた。堂嶋さんがアトリエに到着する少し前、管理局から希望部位の切除が終わったので取りに来てほしいとの連絡があった。
到着早々そのこと告げると、「わかった」と短く言葉を切って、すぐに管理局へ出発する準備を始めた。アトリエから管理局まではそんなに離れていないので堂嶋さんが一人で受け取りに行く。あたしはその間留守番をするということになった。
堂嶋さんが出発する直前、

「ああ、そうだ」

 と、堂嶋さんはポケットから小さな包みを取り出した。プレゼント用の小さなラッピングバッグに包まれたものをあたしに差し出した。

「妻から預かった。君に受け取ってほしい形見だそうだ」

「え、あたしにですか? 中身は、なんなのでしょう?」

 質問を投げかけながらも、躊躇なく両手でそのプレゼントを受け取る。

「聞いたが、妻は答えてはくれなかった。あまり高価なものではないのでそんなに気にしなくていいとは言っていたが……」

「は、はい……そうですか……では、ありがたくいただくことにします」

 堂嶋さんが、アトリエを出発してから、あたしは真希さんから受け取った小包の包装を解いた。中から、さらに小さなサテン生地の巾着が出てくる。巾着のひもを解き、中にあったものを取り出す。それを見た時、あたしの胸はとてもきつく締め付けられるような思いがした。

 ――真希さんは、一体なんでこんなものをあたしによこしたんだろう。

 締め付けられる胸がバクバクと激しく脈動し、なぜ自分がそんな気持ちにならなければならいのかを考えたが、そんなことがあたしにわかるわけがない。

 それを再び巾着にしまいこんだあたしはポケットに突っ込み、すべてを見なかったことにした。

 しばらくして堂嶋さんが、小ぶりな発泡スチロールを抱えて帰ってきた。アトリエのカウンターの上にそれを置き、あたしと向かい合わせで囲んだその発泡スチロールの蓋を外す。中から保冷材として入れられていたドライアイスの白い煙が堂嶋さんを包む。緩衝剤のシートにくるまれた中の物体を両手で丁寧に取り出した堂嶋さんは、シートをはがしていく。中から、赤黒い臓器の一部が出てきた。

「堂嶋さん。それは、」

「これはね。彼女の、心臓だよ」

 真希さんの心臓、と説明されたそれは、おおよそあたしの想像する心臓の形とは少しだけ違うと感じた。手のひらにのりきるくらいのサイズのそれは紡錘型をしている。その生々しい内臓の塊から管が飛び出て、その先には直径三センチほどの鈍い銀色に光る金属の塊がついている。それが、ペースメーカーのラジエーターだということくらいはすぐに予想がついた。真希さんは体が丈夫ではないということは聞いていたので、心臓にペースメーカーが埋め込まれていたとしてもなんら驚くことではない。むしろその事よりも、それが付いたままのこの状態で食材として堂々とよこしてくる管理局のずさんな仕事の方が信頼がおけない。

「これは彼女の右心房と右心室の一部だよ」と堂嶋さんは言う。「ほかの部分には病巣もあって、食べても大丈夫なのはこれだけだったらしい。まあ、これだけあれば充分さ。なにも腹いっぱいに食べるようなものでもないからな」

 無理にはにかんでニヒルに笑って見せるその姿はどこか自虐的にも見える。
 しかし、なるほどそう言われてみれば納得も出来そうだった。右心房と右心室と言われたその部分と、もうひとつ同じような塊、左心室と左心房があったならたしかにそれは《ハート形》に見えるのかもしれない。

 堂嶋さんの手の上に乗るそれは、いわばそのハート形の片割れだ。右心房は全身を巡る温かい血液をその場に集め、肺へと送って生きるための呼吸に替える。心臓の筋肉は脳からの命令を受け付けることなく、自動脳で動き続けるが、真希さんの心臓は自ら動くことを放棄し、ペースメーカーの力に頼らなければならなくなっていた。

「どんな料理を考えているのか、うかがってもいいですか?」

「あまり、妻の心臓をあれこれいじって調理するのではなく、なるべくシンプルに仕上げたいと思っているんだ……」そう言って堂嶋さんは心臓を手のひらに乗せたまま、棚の引き出しから金属の細長い棒を取り出して反対の手に握る。「――だから、彼女の心臓はブロシェットにしようと思うんだ」

「ブロシェット――。と、いうことは、串焼きのハツ、みたいなものですか?」

「そうだな。確かに見た目の形としては確かに串焼きに似ているのかもしれないが、ブロシェットと串焼きとでは、調理の法則としてはまるで違う。串に刺して外側から加熱していく串焼きに対し、ブロシェットは金属の串を使う。金属の串は加熱することにより熱くなり、肉を貫通したその中心部から加熱する調理器具ともなるんだ。だからブロシェットは比較的大きな肉の塊でも焦げてしまう前に中まで加熱することができる。少し焦がして香ばしくカリカリとした食感を楽しむ串焼きに対して、ブロシェットはふっくらとした仕上がりになるのが特徴だ」

 いつもほど饒舌ではないが、たしかに料理について熱く語ってくれる堂嶋さんは健在だ。その事実に、少しだけホッとする。
 
 まずは心臓の肉の下処理をする。心臓は内臓肉ではあるが、血管や血合いの多い心室部分に比べ、心房の部分は比較的に筋肉質な部位だ。臓物独特の血なまぐささはあるものの、スジ肉やレバーとはあきらかに違う、噛めば噛むほどに味わいの出てくるしっかりとした歯ごたえは他の部位では替えがたいものがある。脂肪分はごく少なめで、たんぱく質に、鉄分、ビタミンが豊富で美容に最適だ。
 心臓肉はナイフで切り込みを入れて内側を開く。ところどころにある血管は丁寧にナイフで切り開き、ところどころにある血合いを流水の下であらって流す。
 食べやすい大きさにカットする。串焼きであれば3センチぐらいがいいだろうが、今回はブロシェットなので4センチくらいの大きめのカットにする。心臓肉は焼くととても縮みやすいので、仕上がり予定の大きさよりもやや大きめにカットした方がいいだろう。しかし、縮めばその分食べた時の食感もかたくなるので、なるべく固くならないように、一切れ一切れに数本ずつ切れ込みを入れておく。

たっぷりの塩でごしごしと洗うように揉んでは流水で流すことを三回くらい繰り返したのち、約30分ほど冷水につけておく。臓物の匂いが苦手な人は一晩くらいつけておくとあまり匂いが残らない。牛乳につけておくというのも効果ありだが、今回堂嶋さんは、なるべく真希さんの持ち味を活かしたいと言うので、漬け込みの時間は短めにしておいた。
水を切った心臓肉は、キッチンペーパーで丁寧に水分を取り除き、塩胡椒と乾燥ハーブをミックスしたもので味付けをする。それを、金属の串にさす。心臓肉に金串を突き刺すという行為は、天使が恋の矢でハートを射抜く姿を連想させる。朴訥な堂嶋さんが、いかにあの真希さんのハートを射止めたのかは想像に難い。こう見えて、意外と恫喝な態度をとったりなどと言うようなことをしたりするのかもしれないなと思い、美術館で見たあの絵画を思い出す。逃げまどう人間の心臓を弓矢で打ち抜く天使の姿。いや、堂嶋さんにかぎってまさかそんなことはないだろうを想像を振り払う。

心臓肉と、野菜は交互に刺す。焼いた時の肉汁を野菜が吸ってくれるからだ。突き刺す野菜は好みのもので構わない。今回はパプリカ、シイタケ、マッシュルーム、カボチャを使う。どれも真希さんの好きだった野菜らしい。
補足だが、焼き鳥などの小さい串焼きの場合、基本的に串の先から順番に食べるので、そのことを計算に入れて食べたい順番の逆に刺すのが良い。特に一番先端の肉を最初に食べることになるので、味付けは先端に行くほどしっかりとしておく方が良い。後で食べる肉の方が薄味にしておくことで全体を通して食べた時に飽きが来ない。
しかし、今回のように大きなブロシェットではあまり考える必要はないだろう。金属の串は、あくまで調理するための道具であり、実際に食べる際、ほとんどの場合、一度串から外して食べることになるからだ。しかし、雰囲気を楽しみたいならそのままかじりつくと言うのもいいだろう。
 堂嶋さんが一通りの下準備をしているあいだに、あたしはサンドウィッチとサラダをつくり、具の入っていないコンソメスープを魔法瓶の水筒に入れた。堂嶋さんは準備したブロシェットをラップにくるみ、クーラーボックスにしまう。

「じゃあ、そろそろ出発しようか」


 ピクニックとハイキングの違いは、その最終的な目的が食事をとるかどうかという点になる。その点で言えばこれはピクニックだ。堂嶋さんと、真希さんは若いころに一度だけ一緒にピクニックに出かけたことがあったという。堂嶋さんは若いころに頻繁に登山をしていたらしいのだが、元々があまり体の丈夫ではない真希さんと一緒に登山をすることはかなわない。せいぜい近隣のハイキングコースを巡るのが精いっぱいだった。オートキャンプ場のあるハイキングコースを一周してバーベキューをした二人はその後の堂嶋さんからのプロポーズで結婚することになった。「また一緒に来ようね」とささやき合った二人だったが、娘の梨花ちゃんを出産した際に、さらに体を壊してしまった真希さんが二度とキャンプ場に足を運ぶことはなかったという。

 キャンプ場へと向かう車を運転するのは堂嶋さんだった。クーラーボックスにワインが入れてあるので帰りの運転はきっとあたしになるのだろう。
娘の梨花ちゃんも一緒に来るものだと思っていたのに、「なにがなんでもお母さんを食べたくなんかない」と言い張る娘をどうしても説得することが出来ず、あたしと堂嶋さんの二人きりになると知らされたのも移動の車の中だった。当初あたしは、真希さんに食べてほしいと言われていたにもかかわらず、彼女を食べることはお断りしようと決めていた。部外者のあたしがしゃしゃり出るのはふさわしくないという言葉は言い訳のために用意をしていたが、本心はそうではない。

その気持ちを言葉で表現するのはとても難しいが、なんというか、真希さんが自分の中で永遠に生き続けるということがどうにも心苦しかったのだ。彼女とひとつになりたくない。彼女と一緒にしてほしくはないという感情があった。しかし、なぜあたしがそのような気持ちになるのかについてはよくわからない。

しかし、車の中で堂嶋さんに一緒に彼女を食べてほしいと誘われた時、あたしは素直にそれを受け入れることにした。たぶんその理由は真希さんからの形見分けであんなものをもらったせいだ。あんなものをもらったのではいまさら彼女の申し出を断れるはずもない。それにあれがあたしに託されたことで、真希さんに対してどことなく抱いていた敵対心のようなものがスーッと消えてしまったのだ。
 
 キャンプ場に到着したのは午後二時を過ぎた頃。首都圏から一時間ばかりで到着したその場所は大自然に囲まれ、見渡す限りに人工建造物はキャンプ場の施設を置いて他にない。平日と言うこともあるのだろうが、天気がいいにもかかわらず来客はあたし達のほかには誰もいない。 たったこれだけの移動で都会の喧騒を離れ、非日常に浸れる場所があるというのにこれほどまでに閑散としているのは人口の急激的な減少によるものなのだろうか。それともそれほどまでに現代人はこう言った娯楽に興味を示さないほどに疲弊しているのだろうか。

 唯一出会った人間はキャンプ場の受付をしている老人で、キャンプ場の使用料を黙って受け取るだけで何も言葉を発しなかった。故に、ここはとても静かな場所だった。

 堂嶋さんが静かなエコカーのエンジンを切り、静かな景色はいっそう静かになる。
天高く、ごうごうと空のいびきのような音が鳴り響き、風がそよぎ、木々を揺らして葉の擦れる音が鳴る。遠くで鳥が二度啼き、そっれっきりまた静かになる。自分自身の心臓の音が聞こえる。どくどくどくと、ゆっくりと内側に響くその鼓動に、たしかに自分が生きていることを悟る。

 堂嶋さんとあたしの革靴が、静かに砂地を踏みしめる音とともにキャンプ場へと向かう。

 煉瓦でつくった備え付けのかまどがあるが、そこからさらにはなれた、なるべく自然の景色が良いところを捜して陣取る。堂嶋さんが手際よくバーベキューコンロを設置して炭をおこす。

 あたしがアウトドア用のテーブルとディレクターチェアを並べる。準備はほとんど無言のうちに行われる。レジャーを楽しむというよりは、儀式としての食事をする会場のセッティングを仕事としてこなしている感覚だ。

 準備を整え、炭の火が落ち着くのを待つ間、魔法瓶のコーヒーをプラスティックのカップに注ぐ。堂嶋さんはいつもの通りブラックで飲むが、あたしは苦いコーヒーが言葉の通り苦手だ。プラスティックのコーヒーカップに持参してきたコンデンスミルクのチューブを絞り、かき混ぜる。コンデンスミルクはその名の通りミルクに砂糖を加えて練り合わせることで保存性を高めたものだ。常温では腐りやすいミルクやかさばる砂糖を持ち歩くことに比べるとはるかに勝手のいいコンデンスミルクはアウトドアの基本装備。

 バーベキューコンロの中でぱちぱとぱちと音を立てて赤く燃える炭をじっと見つめながら、堂嶋さんは静かに語る。

「本当はね。娘の梨花に、ちゃんと母の心臓を食べさせたかったんだけどね」

 あたしは黙ったまま、その言葉の続きを待った。

「実は、娘の梨花も、生まれつき心臓が悪いんだ……
 妻は……自分と同じ病弱な娘が余計に愛おしかったようだ。まるで自分の分身を育てることで、自分の人生をもう一度繰り返そうとしているようだった。
 人は……多かれ少なかれ、後悔の一つや二つはあるだろう。もし、人生をやり直せたらと思うことだってあるかもしれない。しかし、子供を育てる親というものは、自分の子供を育てながら、傍観者として小学校入学や卒業、成人式なんかをもう一度繰り返すことができる。それは……子供を持つ者にしかできない楽しみだろう……」

「堂嶋さんは……梨花ちゃんに対して、なにかをかわりに成し遂げてもらいたいとか、そういう期待があるんですか?」

「……さあ、それはどうかな。梨花は、おんなのこだから自分の替わりの何かを期待するのは難しいけれど、娘に妻の替わりを期待しているのは確かだ。できることなら病弱な妻の代わりに、娘と一緒に山を登りたいと願ってはいたんだが……それも無理のようだ。妻と同じで心臓のよわい娘に登山はできない……」

「だから……梨花ちゃんに心臓を食べさせたかったんですか?」

「だから?」

「ほら、昔の迷信であるじゃないですか。自分の体に悪いところがある人が、健常者のその部位を食べることで健康になるって話……」

「ずいぶんと古い話を持ってくるんだな。確かに中世の時代ではそういう虐殺もあったと言うが……」

「ひどい……迷信ですよね」

「まあ、単なる迷信とも言い難いけどね。肝臓が悪い人はレバーを食べるといいし、動物のペニスなんかが精力剤として使われたりなんかするのも、要するにその部位がその栄養素を豊富に含んでいるから、と言う理由で、実際に、わずかではあるが効果があるとも言えるだろう。
でも、うちの娘にはそれはあてはまらない。なぜなら妻の心臓は健常者の心臓ではないからね。もしかしたら食べることで病気が感染するかもしれない」

「そ、そう……なんですか?」

「嘘だよ。そんなことがないように当局が検査をしてからこちらに引き渡しているんだ。だから、病巣に感染している危険がある部分は取り除かれる」

 それを聞いて、真希さんの心臓が切り刻まれてわずかな部位しか送られてこなかったことを思いだす。真希さんの心臓はそれほどまでに病巣に置かされていたのだろうか……

「でもね、人間の脳だけは絶対に食べてはいけない。これは、この仕事に就くにあたって何度も言われてきただろう?」

「はい。あたし、最初は人間の脳を食べないのは倫理的な理由だと思っていました」

「でも、そうじゃない。クールー病と言って、伝達性海綿状脳症やクロイツフェルト・ヤコブ病に似た、脳がスポンジ状になり、死に至る病気の原因となることから脳は食べてはいけないことになっている。以前に一時流行した狂牛病と言う病気もこれに近い症状だ。現時点で世界では豚やサルの脳を食べる文化もあるが、もしかするとこれらの文化には同じようなリスクが伴っているかもしれない。
 かつてヨーロッパを中心に反映していた古代人、ネアンデルタール人にはカニバリズム、いわゆる食人習慣があったらしい。儀式的な意味合いが強く、頭がい骨を割って脳を食べていたそうだが、ネアンデルタール人絶滅はこのことが原因ではないかという説もある。
 〝人間の想いを食べる〟と言う意味では、脳を食べることが最もそれに近い行為なのかもしれないが、その行為自体を神が許さないのかもしれない。そうなれば、ひとの心を食べるという意味で心臓を食べるのが一番なのだろう……」
 言い終わって、コンロの炭の火が落ち着いてきていることを確認した堂嶋さんは静かに網の上にブロシェットを乗せる。熱い炭にあおられて、串に刺さった心臓肉がキュッと縮む。炎によって熱せられた熱い金属の串が、貫通する心臓肉の中央に熱をつたえる。その光景を見つめていたせいだろうか、あたしの心臓の中央が熱くなる。炎で熱く熱せられた金属の串が心の真ん中を貫き通すように、心の真ん中がキュッと縮んでしまうようだ。

 そしてあたしと堂嶋さんは、焼きあがったばかりのブロシェットに食らいつく。串から外すことなく、熱くなった金属串でやけどをしないように軍手をはめたままの手で一人一本の串を持ち、その中心部分が最高に熱いうちに、熱いままで自分の体の中へと取り込む。それが弔い。

 真希さんが、あたしにどういう想いを託したのか、今となってはもうわからない。死人に口なしで、もはやそのことを直接聞くことはできないだろう。
 しかし、あたしなりの考えでその意思を継ぎたいと思っている。それは真希さん委託されたからだとかそういうことではない。きっと、あたし自身がずっとそうなることを望んでいたに違いない。真希さんはきっと、そのことに気付き、あたし自身に気付かせようとしたのではないかと思っている。

 堂嶋さんはどう思っているのだろう?

 おそらく堂嶋さんは、これから先もずっと永遠に真希さんのことを愛し続けるのだろう。

 死人に朽ち無し。美しい気持ちで離ればなれになった二人の想いがこの先衰えることはないのだろう。

 しかし……