牧瀬香里奈の休日


 カーテンの隙間からこぼれる光で目を覚ます。

 目覚ましをセットしていない休日の朝は体が可能な限り寝ようと決めているがさすがにそろそろ限界のようだ。

 ボロい学生寮の一室は湿気がたまり暑苦しさを感じる季節になってきた。寝返りを打って汗に濡れたシャツが風に当たると少し冷たくて心地いいが、またすぐに生あたたくなって気持ち悪くなってしまう。太陽はすでに真上近くまで昇り、四月末の連休の室内をいやおうなく温め続けている。諦めて布団を出たあたしはシャツを着替え、寮の一階の食堂兼調理室へと降りていく。

 30畳ほどもある大きな食堂はよく言えば寮内のリビングルーム、正確に言うなら談話室を兼ねているが、いつもと違ってシンと静まり返っている。

 もちろん今の時間がいつもの朝食時間よりも明らかに遅いということもあるが、言うなればすでに昼食時間にだって近い。そもそもこの場所はいつなんどきだってそれなりの人数がいるのが普通だ。にもかかわらずそうでないというのは今日が世に言うゴールデンウィークというものなのだからだろう。

 あたしが住むこの寮は、本来都内の調理学校へ通う生徒のために用意されている学生寮だ。あたしも調理学校へ通い始めた際にこの寮に住むようになり、卒業したにもかかわらずいまだもってここに住み着いたままだ。
だがこれは決して違反などではない。

この寮には全部で30人以上が住んでおり、その大半は言うまでもなく調理学校の生徒なのだが、その卒業生も希望者は5年間まで住んでいいことになっているため、卒業後もここに居座り続けるものは少なくない。
コックという仕事は基本的に勤務時間こそ長いが、その初任給は驚くほどに安い。そのため一人暮らしを始めたくてもできないというものも少なくないが、それとは別に〝入居者はこの寮の食堂と調理場を自由に使ってよい〟という条件が魅力だというものもいる。
調理学校を卒業してプロのコックになったとはいえ、職場ではまだまだ見習い程度の仕事しかさせてもらえない新人のうちは、料理をしたくてもお店の大切な食材や道具を自由に使わせてもらうことなどできるわけもなく、こうして大きな設備で自分の自由に料理できる場所というのはありがたい。せっかく教えられた仕事も実践を踏まえなければ身につかない。
したがって、たとえ休日であってもこの調理場はいつだってコックと調理学校の学生とが何らかの作業をしていてしかるべきだが、いかんせん今日はゴールデンウィーク期間中。普通のコックは言うまでもなく仕事で、むしろなかなか休みを取りにくい期間ではあるし、学生たちもほとんどはアルバイトをしていて、言わずもがなその内容は飲食店でのアルバイトだ。したがってそんな日の、こんなお昼時に暇をもてあましているようなコック(&コック見習い)ほとんどいない。あたしのような公務員調理師を除いては……。

お腹が減ったなと思いつつ、調理場の方へと入ったところで二人の学生が食堂へとやってきた。二年生の斉藤さんと菊池さんだ。無口な斉藤さんと賑やかな菊池さん、大体二人組というのはそういう組み合わせが都合がいいのかも知れない。あたしと堂嶋さんのように。

「あー、牧瀬先輩だー。こんにちわー。今からお昼ですかー」

 と駆け寄ってくる菊池さん、斉藤さんはその隣で黙って会釈をする。

 ――『お昼ですか』と聞かれて少しだけ恥ずかしくなる。こっちは朝食のつもりでいた。簡単にオムレツでも作って食べようと卵を割ったところで菊池さんが、

「ねー、牧瀬せんぱーい。あたし達のも作ってくださいよー」

 とおねだりをする。斉藤さんはそんな菊池さんに図々しいと抑制するが、菊池さんは、

「えー、だって牧瀬先輩って人肉調理師なんだよー、超エリートだよー、牧瀬せんぱいのゴハン、たべたくなーい?」

 と斉藤さんを説き伏せる。さすがにそうまで言われるとこっちも断るわけにもいかない。

「まあ、簡単なものでいいなら」

と、少し気取って安請け合いする。「やったあー」と喜ぶ菊池さんを横目に密かに闘志を燃やす。かわいい後輩学生に人肉調理師(見習いだけど)の実力というものを見せてやる。


せっかく割った卵を無駄にはしたくないので、おひるごはんはオムライスをつくることにした。もちろん、簡単なおひるごはんとしてつくるものなので極めて簡単なつくりかたで造る。

まず、三人分のお米を炊かなくてはならないので、無洗米2合をフライパンに入れる。そこにごく少量のサラダオイルと塩胡椒、それに顆粒タイプのコンソメを小さじ一杯加える。フライパンを火にかけ、全体にサラダオイルが馴染み、米が少し温かくなりはじめると顆粒のコンソメが溶けだす。そのタイミングで火からおろして炊飯ジャーに入れる。冷たい水400mlを注いで軽く混ぜ合わせ、その上に塩胡椒をした鶏もも肉を一切れ入れて早炊きモードでスイッチを入れる。

大体10分もあれば炊き上がる。たとえ蒸らし時間がなくてまだ芯が残っていても最後に炒め合わせるころには火が通っているだろう。お米にあらかじめサラダオイルがなじませてあるので炊飯ジャーで炊いても粘ることがなく、炊きあがりの状態ですでにパラパラに仕上がる。

その間にソースを用意する。鍋に赤ワインを注ぎ、煮詰めたところで水とブロック状のハヤシライスの元を入れる。沸騰させて全体にとろみがついたところでダイスカットしたトマトの水煮と焼き肉のたれを少量加えてひと煮立ちさせてソースの出来上がり。
フライパンでミルポワ(玉ねぎ、人参、セロリなどの香味野菜の粗みじん切り)をバターで炒める。炊き上がったチキンライスの上の鶏肉を取り出して、ミルポワと同じ大きさに切り、フライパンに入れて一緒に炒めたら、フライパンの火を強火にして、トマトケチャップを加える。ケチャップが沸騰してから炊飯ジャーのチキンライスを入れて手早く炒め合わせる。
ケチャップはあらかじめ加熱、沸騰させておくことで仕上がりのケチャップライスがべたつかなくなり、余計な酸味も和らいでまとまった味に仕上がる。ケチャップライスはオムレツを焼く前にお皿に盛りつけておく。

フライパンにサラダオイルを敷き、オムレツを焼く。オムレツは一人前につきMサイズの卵2個と塩胡椒、それに少量の生クリームを加えて軽く混ぜ合わせておく。フライパンに入れた玉子は初め素早くかき混ぜ、固まりかけたところでフライパンの先端の方へまとめる。あとはフライパンを左手で持って(右利きの場合)空中で玉子の入った先端が下になるように斜めにする、右手で握り拳をつくり、フライパンを握った手首を軽くトントンとたたく。無理に巻こうとしなくても叩く手の角度さえ正しければオムレツは勝手に形が整っていく。いざ、慣れてしまうとこんなに簡単なことはない。

オムレツをケチャップライスの上に乗せ、ナイフで切りこみを入れるとオムレツは真ん中から二つに割れ、ドーム型に盛られたケチャップライスを包み込む。上からソースをかけて出来上がりだ。米を炊きはじめてから、大体20分もあれば完成する。
食堂へ運んで三人で食べ始める。菊池さんも斉藤さんも、無条件で絶賛してくれた。そりゃあたしかに、文句を言われてもどうかと思うし、それなりに自信もある。だけど、きっと堂嶋さんならなにがしかの指摘(アドバイス、ということにしておこう)があるのが普通だ。そのせいか無条件の絶賛というものに、なんだか少しだけ物足りなさを感じてしまう。

「牧瀬先輩はゴールデンウィーク、いつまで休みなんですか?」

 菊池さんがオムライスを口いっぱいに頬張り、もごもごしながら聞いてくる。

「うん、一応は暦通り休みかな……」

 と言って少しだけ申し訳なく思う。他のコックの子たちは当然休みなんてない。あってせいぜい交替で1、2日あるくらいだ。菊池さん達もローテーションで今日、アルバイトがたまたま休みでしかない。

「いいなあ。あたしも人肉調理師目指そうかなー」

「アンタの成績じゃ無理に決まってるでしょ」

 菊池さんの発言に斉藤さんがツッコミを入れる。しかし、いいなあと思われている時点でなんだかこうしてここでのんびり過ごしている自分が悪いことをしているように感じる。

「あ、でもオンコールがあれば休みでもすぐに出勤しなきゃいけないんだけど……」と、言うのはせいぜい苦し紛れの言い逃れか。今も自分がこうしているあいだにも同期が現場であくせく働いて経験と技術を向上させているのかと思えば、自分だっていつまでもうかうかはしていられないのかもしれない。今でこそ首席で卒業のエリートだが、のんびりしていたのではすぐにでもみんなに追い抜かれてしまうだろう。結局、技術仕事なのだから資格なんて言うものには何の価値もない。ただ、努力の先に成長があるだけだ。それはおそらくどこまで努力しても決して完成なんてすることのない努力。

「牧瀬先輩、恋人とかいないんですか?」と、次々に質問攻めにあう。

「いないわよ……」

「えー、もったいないですー。牧瀬せんぱいって美人だしー、絶対いくらでもいるじゃないですかー」

「でも……、でも、あたしはあまり恋人って作りたいと思わないのよね」

「えー、なんでですかー。まさか、仕事が恋人とかいうんじゃないですねー」

「ううん。そうじゃなくて、あたしはなんて言うか……その、愛だとか恋だとかよくわからないのよね。大体なんでそんなことしなくちゃいけないのかって。だって結婚して子供産むなんて、自分と旦那さんのどっちかが死ななくちゃいけないってことなんだよ。そこ
までのリスクを背負ってまでするほどのものなのかなーって」

「せんぱーい、むずかしく考えすぎですよー。なにも子供をつくるまで考えなくてもー、ただ何となく一緒にいるだけでうれしいって感情、あるじゃないですかー。それに、えっちすると気持ちいいじゃないですか」

「え、えっちって……菊池さんそんなことしてるの? もし子供が出来たらどうするのよ!」

「い、いや、そんなこと気にしなくてもいいじゃないですか。その時はその時で堕ろせばいいわけだし」

「お、堕ろすって、そんな簡単なことじゃないじゃない。妊娠しているっていうことはそれだけで命なのよ。それにそんなことをすれば母体にだって影響があるかもしれない。もしかしたら二度と子供が産めない体になるかもしれない」

「うーん、でも、法的に堕胎は認められてるし、てか、国としてもそれを推奨してるわけでしょ? そうなると、やっぱりあんまり罪の意識ないのよね。それにわたしだって子供を産んで死にたくなんかないし、むしろ子供が産めない体になるって、その方が都合がいいんじゃないですか? それとも牧瀬先輩はいつかは子供を産みたいんですか?」

「え……そ、それは……どう……なんだろう……」

「それに、ひとを好きになるってとっても素敵なことですよ。子供を産んではいけないからと言って、ひとを好きになる権利までは放棄する必要はないと思いますよ」

「た、たしかにそれは……」それはそうなのかもしれない。が、素直に認めてはいというのも悔しい。

「牧瀬先輩、誰かいい人いないんですか? 仕事が恋人なんて淋しいですよ。あ、それとも仕事場に恋人がいるとか?」
 仕事場に恋人、と言われて頭の中に堂嶋さんの姿が浮かぶ、いや、それは仕方のないことだ。恋人でも何でもないが、そもそも職場には堂嶋さんとあたししかいないのだ。他の大きなレストランとは違う。それに……

「だいたいあの人は結婚しているわけだし……」

言葉に出ていた……

「あは、誰ですか、そのあの人というのは?」

「ち、ちがうちがう。そ、そんなんじゃないのよ!」

「うーんでも、さすが既婚者はやめた方がいいですよ」

「だからそんなんじゃないって!」

「既婚者を好きなっても、絶対に幸せな結末は迎えられないですから」

「え、どういうこと?」

「だって、そうじゃないですか。今は子供を産まない人がほとんどなので、結婚だってしない人が大半ですよ。それなのに結婚しているっていうことはふたりはそれなりに愛し合っているということか、あるいは互いに相手を独占することを宣言しているわけです。そこに入っていくのはなかなか危険が伴いますし、結婚して子供がいるなんて言うのは最悪です。その子が十歳になった時点で半分の確率でその人は死んでしまうわけでしょ? 残りの半分の確率は、相手に死を押し付けたという証拠です。なんだか、その方が怖くないですか?」

「それは、ちょっと極論かも……」

「でもですね、少なくともその相手と子供をつくった場合、やっぱりこっちに死を押し付けてくる可能性は高いんじゃないですかね? そして何より最悪なのは、子供がいて、その子供が十歳になった時に死ぬことになっている男性の子供を産んだ時です。その子供を産んだ時点で、十年後に死ぬのは自分で決定です。その頃に父親はもう死んでるわけですから」

「うーん、そういうこと…… いままで考えたことなかったな。結婚するつもりもなかったんだけど」

「その相手、その牧瀬せんぱいの好きな人は、子供はいるんですか?」

「子供……いるのかな? そういえば聞いたことなかったけど……って、だから、別に堂嶋さんは好きな人でも何でもないんだってばっ!」

「あー、牧瀬せんぱい、顔、まっかですよ」

 と、後輩にさんざんにからかわれてしまう。

「まあ、恋人はともかく、せっかくの連休なんですから、一度故郷に帰ってみるというのはどうですか? 結構普通のサラリーマンなんかだと、このタイミングで田舎に帰省する人は多いみたいですよ」

「ああ、そういえば菊池さんに言ったことなかったのかな。あたし、両親がいないんだよね。いわゆる、脱献孤児ってやつ」

「ああ、すいません。あたし、そんなこと知らずについ……」

「ううん、いいのよ、ぜんぜん気にしてないから。あたしは生まれた時からそうなのであって、それが普通だし、なんとも思ってないのよ」


 ――脱献孤児、というのは親が子供を産んだ後、その子を孤児院に送りつけて姿をくらますという状態だ。妊娠して子供を産んだものの、献体になるのが嫌でひっそりと産んで姿をくらます親というのが世の中にはいて、珍しいことでも何でもない。両親としては自分で育てなくてもこの世のどこかに自分の子供が生きていると思うことだけでもうれしいという理由から、脱献をするそうだが、もし、どこかでDNA判定でもうけて発覚してしまえば当然重罪となることは言うまでもない。あたしの育った孤児院では割と多いケースだ。みんな親の顔なんて知らないし、兄弟はたくさんいる。それが当たり前の中で過ごしたのだからあまりなんとも思ってはいない。それよりもかわいそうなのは片親しかいない家庭で、十歳になった時点でたった一人の親が献体となって孤児となり、孤児院にやってくる献体孤児の子供の方がよっぽどかわいそうだった。慣れない環境にたった一人放りこまれ、親の死を受け入れて生きて行かなくてはならない。

 それに比べてあたしたち脱献孤児は、両親はどこかで生きているかもしれないという希望が持てるだけ救いようがある。まあ、実際みんなは両親なんてはじめから存在していないと思っているわけだけれども……


――そういえば……帰っていないな。あたしの実家ともいえる場所……

今頃ママ(孤児院の寮母をそう呼んでいた)はどうしているだろうかと気にかかることはある。しかし、別れ際が別れ際だけに今更会いに帰るというのは少しばかり気まずい。元々血もつながっていなければ、自分の本籍がそこにあるわけでもない。だからその孤児院はただ単にあたしが子供のころに過ごした場所でしかない。書類の上では……


中学、高校と思春期の頃、あたしはやはり普通の家庭の子と同じように、ちょっとした反抗期を迎えてしまった。今になってみればいったい何が原因だったのかもよくわからないけれど、とにかくあたしはママと何かにつけて対立するようになっていた。最終的にはほとんど口もきかなくなり、高校を卒業すると同時に飛び出してきた。

今から考えてみれば自分は本当に子供だったんだと思う。つまらないことでいちいちママにあたって、暴言を繰り返していた……ように思う。今なら素直に謝ることができるかもしれない。けれど……やはりなんだか気まずいという気持ちもある……


「ごちそうさまでした」

 と、一人考え込んでいるあたしをよそに、菊池さんと斉藤さんはいつの間にかオムライスを平らげていた。

「さすがは人肉調理師ですね。やっぱわたしたちとはレベルが違います!」

「そんな、ほめ過ぎよ。このぐらいすぐにつくれるようになるわ」

「……じゃあ、また今度つくり方教えてください。きっとカレシに作ってあげると喜ぶと思うんですよね。わたしのカレシ、オムライス好きなんで!」

「そうね、きっと喜ぶと思うわ。きっと菊池さんがつくったら、あたしなんかよりもよっぽど喜ぶと思うわ。だって、料理は愛情っていうものね」

「ですよね。でも、それプロを目指すわたし達が言うのはずるいかもです。なんだか〝愛情〟という言葉に逃げて、努力を怠っているみたいですもん。
 あ、別に牧瀬せんぱいが努力してないっていう意味でゃないですよ。わたしたちなんかよりもすごい努力してきたの知ってますから! ただ、やっぱ好きな人のために料理を作る方がやる気でますけどね。美味しいものを食べてもらおうって思うからこそ努力も辞さないってキライはあります。そういう意味で、料理は愛情なのかもしれないです」

 そんなことを言いながら菊池さん達は部屋に戻って行った。午後からどこかに出かけるらしい。
 あたしも午後から出かけよう……

 せっかくだから、一度あの孤児院に帰ってみることにしようと思う。せっかくコックになったのだから、みんなにあたしの作った料理を食べてもらうというのもいいかもしれない。ともかく、帰るなら帰るで何らかの口実くらいは作っておかなければならなかった。

 昼過ぎに寮を出て、老舗の和菓子屋で手土産を買う。ちょっとした高級品だがそこは仕方がない。少なくとも今はお給料をもらったばかりで金銭的にはいくらか余裕がある。思えばこれが初任給で買ったはじめての品物かもしれない。世間一般で、初任給で親になにかをプレゼントするという話を聞いたことがあるが、自分のこの手土産こそが正にそれなのかもしれないと思い当たる。実際には血のつながった親ではないし、それが老舗和菓子屋のおやつというのもどうかと言いたいところではあるが、あたしの職業が〝食べ物〟にまつわる職業なだけに、これはこれでおあつらえ向きかもしれない。

 電車とバスを乗り継いで二時間とちょっと。乱立するビル群はもうどこにも見当たらず、代わりにあたり一面の田畑が広がる。わずかな市街地も今となっては随分と荒廃が進み、ほとんどゴーストタウンと化している。食人法以来、都市部を除いた地域は急激な人口減少に移行し、地方自治体の運営は立ちいかなくなっていった。関東平野大部分は替わりに人のいなくなった土地を農地化して、大規模農法で食料生産を開始し、食料自給率を上げることに成功した。かつて食糧生産国として国益をあげていたアジア諸国は世界規模の食糧価格の高騰で利益を上げるようになっており、この大規模農法が日本国内の台所事情を支えてくれたと言っていい。

 しかし、働き手の少ない現状での大規模農法はその作業の多くを機械に頼り、効率化するしかなかったため、作物の品質は低下させてしまった。

 バスを降りて幼少期を過ごした街並みを歩く。数年ぶりに訪れる町並みではあったが、自分が知っている町よりもまた更にすたれているのがわかる。そして街並みを少し外れたところに見えてくる建物〝家族庭園 橘〟。あたしが育った孤児院だ。

 孤児院とはいえ、正確に言うなら孤児院でも何でもない。本来孤児院とは、昭和7年に救護法において設立された孤児を預かる施設のことを指し、のちに児童福祉法によって児童養護施設となった。しかし、孤児のほとんどいなくなった近代で児童養護施設は実質として親の虐待や生活困窮を理由に一時的に児童を預かる場所としての役割が多くなった。そして食人法設立以来、子供の数は劇的に減り、その施設の必然的に閉鎖されていくようになった。しかしその一方で、別の問題が浮上し始めた。脱献孤児の問題だ。

 政府は人手が足りないことを理由にすぐにこれに対応することもせず、脱献孤児の数は増えていく一方だった。

 そんな中、日本のあちこちでそういった子供の里親を名乗り出てくる親もまた増えてきた。〝自分が産まなければ献体する必要もない〟里親制度は、また新たな家族の形でもあった。中でも特に多くの子供をまとめて里親になる者もおり、そういった施設を俗語で〝孤児院〟という言い方をするようになった。

 あたしの育った〝家族庭園 橘〟もそんなひとつで、あたしが小さいころには実に20人近くもの里親となっていた。

 橘の里親、通称ママは本名を『橘 柚子』。30歳で結婚をして、娘が一人いた。早くに旦那さんを病気で亡くしてしまうが、当時はまだ食人法もなく、娘の清美さんはすくすくと育っていった。清美さんは27歳で結婚した。奇しくもその年は政府が食人法を制定した年だ。しかし、母の愛を一身に受けて育った清美さんはやはり自分もまた子を産み育てることに迷いはなかったという。いずれは自分が献体になることも覚悟でこの世に我が子を産み落とした。

 その子が2歳の時、父親の運転する自動車の事故で父子は共にこの世を去った。

 夫と子とを同時に失った清美さんと、孫を失った柚子さんは深く悲しみに沈んだが、やがて活力を取り戻し、食人法の制定により、出生率が劇的に下がったために廃園となった保育園を買い取り、家族庭園、橘を開園した。脱献孤児のあたしがその園に引き取られたのは物心がついて間もなくのことで、橘で最初の子供だった。あたしは柚子さんをママ、清美さんをちいママと呼んだ。園児は次々に増えていき、あたしの知る限り、多い時で20人くらいはいたと思う。ママとちいママはあたし達を分け隔てなくどの子も皆、我が子のようにかわいがってくれたが、おそらくあたしのことは、きっとほかの子よりもより深くかわいがってくれていたと思う。たぶんあたしが、事故でなくなったちいママの本当の娘、せとかちゃんと同い年だったからだろう。あたしのことを自分の娘の身代わり、いや、自分の本当の娘だと信じて育ててくれていたような気がする。そしてあたしが十歳になった時、ちいママは献体としてこの世を去った。当然、血の繋がっていないあたしはちいママを食べる権利を持ってはいない。そして多分ママも、ちいママを食べてはいないと思う。それらしい光景を見たこともなければ、そんな話すら聞いてもいない。
 

 家族庭園、橘の立派な表札がかかった門の前にあたしは立ち、フェンスの向こうで遊ぶ子供たちを眺めながら、インターフォンを押すべきかどうかを悩んでいた。今更どんな顔をして合えばいいのかがわからなかった。

「あの……わたくし、牧瀬香里奈と申します。以前こちらの施設でお世話になったことがあり……」

 小さな声で呟きながら、今からはなすべき言葉を考えながら練習をしてみる。やっぱり少し堅苦しいだろうか…… まずは過去のことを謝る所から始めるべきか…… 迷うながらもインターフォンの呼び出しボタンの前で人差し指を出したままで考え込んでいた。園庭の子供たちがはしゃぐ声が静かな街並みに響く。子供の何人かがあたしの方に振り向いたように感じた。

「あー、ママだー」

 と、誰かが叫ぶ声が届くと同時にすぐ真後ろから声をかけられた。

「香里奈ちゃん、そんなところに突っ立って何してるの? 早くお入りなさい」

 慌てて振り返るあたしの真後ろにママ、橘柚子が立っていた。もう80近い年齢のはずだが、まだ背筋はまっすぐにのび、陽射帽を目深にかぶり、もんぺ姿の作業着で立っていた。手に持った網かごには大量の野菜が詰められている。おそらく園の裏手にある自家農園で栽培された野菜だろう。泥だらけの顔は真っ黒に日焼けしており、深いしわが幾重にも走るその姿は記憶の中のままとまるで変っていない。思わず「お元気そうで」とつぶやく。

「あたりまえじゃないの」と言って、「さ、早く」と入口を指差す。

 あたしはフェンス脇の格子の隙間に手を突っ込み、半回転ひねって見えないところにある格子のストッパーを器用に回す。日中にこの園の入り口の格子に鍵がかけられていることはまずない。ストッパーは手を伸ばせば簡単に外せる。外側からはそのストッパーがどこにあるのかは見えないので部外者がストッパーを外すのは容易ではないだろうが、この園に長いこと住んでいる者なら誰だって簡単に外すことができる。

 結局あたしは堅苦しいあいさつも、謝罪の言葉もないままに園内に入っていくことになった。入口のすぐわきにある水道ですぐさまに収穫したばかりの野菜を洗い、簡単に皮をむいたりの処理をする。何も言わずにそれを手伝うのは昔と一緒だが、気付いてくれているだろうか。今のあたしはプロになっていて、あのころに比べて格段に手際が良くなっていることを。作業はあっという間に終了して、調理場へと運びこんでから、その隣のママの部屋へと移動する。『園長室』という表札はそこがかつて保育園だったころからずっと貼られたままの表札で、今ではすっかり黄ばんでぼろくなっている。主に事務仕事をするためのママの部屋を園長室と呼ぶ人は誰もいなかった。あくまでもそこは『ママの部屋』でしかなかった。

「香里奈、ちょっとお茶入れてよ」

 とママは何事もなかったように、まるで昨日も当たり前のようにあたしをそうやって使ってきたように指示を出す。かつてのあたしもそれを当たり前のようにこなしてきたから、やり方はわかる。すっかり古くなったコーヒーメーカーで、メモリよりも少し薄めに落とす、ママのコーヒーの好みも覚えている。まるでこの場所はずっと時間が進まない場所のようにすべての物の配置もあの頃のまま何も変わらない。

「すっかり見違えたわ。立派になったのね」

「ママは全然変わっていない」

 ようやくそれらしい挨拶をかわしながら、「はい」と紙袋に入った手土産の和菓子を手渡す。都心の高級老舗和菓子店。紙袋に堂々とロゴが入っているにもかかわらず、中を除いて確認しながら、「まあ、高級品!」と声を上げる。大きい箱に入ったどら焼きだが、ここの子供たちみんなで食べればあっという間になくなってしまうだろうけれど。

「だいじょうぶなの? こんなに高価なものを」

 と言うママに対し、あたしは少し得意気な表情で答える。

「まあ、初めての給料と言うやつね。高価は高価ではあるかもしれないけれど気にしないで、あたし、国家公務員なんだから」

 まるで、この園を飛び出す頃にあんなにぎくしゃくしていた事実を、謝ってもいなにのにまるで忘れ去ってしまっているかのような素振りで話すあたし。国家公務員と言う言葉だけでママには通じるだろう。それがかつてあたしが語っていた夢を実現したということを。

「そう、じゃあ、本当になったのね。人肉調理師に」

「まあ、実はまだ見習いなんだけどね」

「それでもすごいわ。料理人の中ではエリートなんでしょう? 人肉調理師なんて」

「まあ、それはそうだけど」

「さすがはわたしの娘ね。鼻が高いわ」

 相変わらず、〝孫〟ではなく、〝娘〟と言い切るのが厚かましくていい。
 それからしばらく話し込んで、これまでの空白の数年間を埋めて行った。
会話の中で、最近では子供が少なくなってきたことを嘆いていた。子供は国の宝よ。と言う言葉は昔から相変わらずママの口癖だ。最近ではあまり献体孤児すらもいなくなってきて、里親を捜してここにたどり着く園児も少なくなってきているようだ。決して子供を捨てる親が減ってきたというわけではない。ただ単に子供を産もうとする親がいなくなっているのだ。この園にはルールがあり、どんな園児も18歳を過ぎて高校を卒業すればこの園を立ち去らなくてはいけない。それは決して追い払うわけでもなければ縁を切るわけでもない。自立できる年になったら自立して、次の孤児を受け入れる場所を開けてやると言うことだ。自立してもこの園はいつまでも孤児たちの故郷であり、いつでも遊びに帰ってきたらいいとママは言っていた。一度はもう帰らないつもりで出て行ったあたしだったが、こうして帰ってきて本当によかったと思った。

 陽が少し西に傾きかけた頃、ママは立ち上がり、「ご飯、食べていくでしょ」と言った。
 あたしはそこまでの予定はなかった。挨拶を済ましてすぐに変えるつもりだったが、つい、里心が出てしまい、「はい」と答える。
 立ち上がるママを抑えて、

「ねえ、ママ。今日はあたしがつくるわ。とってもおいしいものを作ってあげる。あたしプロなんだから」

 ママは鼻で笑った。

「バカ言ってるんじゃないよ。そんな余計な事してくれるんじゃない。香里奈はわたしの手伝いさえすればいいんだよ。いいかい。わたしの喜びを奪わないでおくれ」

 ――そうだった。ママの喜びは、子供たちみんなに自分の手料理をつくって食べさせることだったと思い出す。ちょっとプロになったからと言ってあたしも少しばかり調子に乗ってしまった。ママの、悦びを奪ってはならない。

 昔から、ママの作る料理のお手伝いをするのがあたしの役割だった。一度に約20人分の料理。嫌でも料理がうまくならないわけもない。今から思えば、これがあったからあたしは調理学校を首席で卒業できたのかもしれないし、そもそもがコックになりたいなんて考えには至らなかったかもしれない。

 今日の晩御飯のおかずは肉じゃが。肉じゃがとは言っても、お金がないから牛肉は買えない。替わりに豚バラ肉を使うので味が弱い。そこで砂糖を多めに使うのだが、それがかえってしつこい味付けになる。いもの面取りは横着するので出来上がりには少し煮崩れして、出汁に煮崩れたいものざらざらの食感が残る。色味のためのきぬさやも最終的に一緒に煮込んでしまうので、仕上がりの色はきれいな緑ではなく、くすんで茶色っぽくなっている。

 正直言ってあまり出来のいい肉じゃがだとは言い難い。むしろこれをプロの料理人であるあたしが手伝ってこの仕上がりだという事実は褒められたものではないだろう。しかし、それはママの言うとおりの作り方でやるのだから文句も言えまい。

 しかしながら、十人以上の子供たちとテーブルを囲み、『いただきます』の号令の後の食べるこの肉じゃがの美味いことと言ったらないだろう。それは子供たちの笑顔のせいだろうか。あるいは幼少期から何度も繰り返し食べさせられてすり込まれた味付けに対する郷愁かもしれない。おふくろの味と言えばそれまでのことかもしれない。

 と、そこでふと思い至った。今まで自分には両親はいないとばかり思い込んできたのだが、それはまったく違っていたのだ。あたしにとっての親は、誰が何と言おうとママでしかない。先日のあゆみさんと瓜生さんに対しても偉そうなことを言っておきながら、何でそんな簡単なことに今まで気が付かなかったのだろうか。家族なんてものが血のつながりだけで出来上がるわけではないということを。

 食事が終わり、団らんが始まるころになり、あたしもそろそろ帰る準備をしなければと思っていたころ、ママはおもむろに「今日は泊まっていくんだろ?」と切り出す。あたしが帰るつもりだということを言い出すよりも早く、壁の古い時計を眺めながら「もう、バスはないよ」と言う。

 まだ時間は夕方8時前だ。いくらなんでもそんなことはと思いながらも、たしかにあの街並みのすたれようではそれも仕方のないことかもしれないと感じた。「おじゃまじゃなければ」と言って子供たちと一緒にお風呂に入り、小さな子供を寝かせつける。数年前の高校生時代にもここで同じようなことはしていたが、その頃は自分が〝姉〟だという認識だった。しかし、今こうして社会人になって同じことをすると、なぜか自分が〝母親〟になったような気がする。結婚もしていなければ、今まで恋人のひとりですら作ったことがないというのに。

 小さな子を寝かせつけて、ママの部屋に向かう。あたしの寝る部屋はないので、そこにママが布団を用意してくれているらしかった。

 部屋へと入ったあたしをママはにんまりと笑いながら手招きをした。

「アンタももう、大人になったんだろ」

 そう言うママの手にはかわいらしい焼酎の瓶が握られている。夜になるとママが一人でこっそり、部屋で晩酌をしていることは以前から知っていた。いつもひとりで静かにグラスを傾けるしぐさを、あたしは少し離れた場所からなんとなく眺めていたのだ。

 ママはうれしそうだった。今夜は晩酌の相手がいるのだ。18歳になると自立するというルールのあるこの孤児院ではママの晩酌の相手はいつになっても現れない。だからあたしは格好の餌食と言うわけだ。もしかすると本当はあの時、まだバスはあったのかもしれない。けれども晩酌の相手欲しさにママが嘘をついたというのは十分に考えられることだ。ママの性格ならばよくわかっている。なにせあたしはママの娘なのだから。

 『胡麻焼酎 紅乙女』ママの手に持っている焼酎の銘柄だ。麦と米麹をベースに、その名の通りごまを加えて蒸留しているらしい。二つ並べたグラスにそれぞれ半分の高さまで焼酎を注ぎ、電気ポットで沸かしたお湯を注ぐ。沸騰したてのお湯は少し熱すぎだ。焼酎の湯割りには適さないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。熱い湯を注ぐと、あたり一面に胡麻の香気がふわっと広がる。猫舌なあたしはふうっ、ふうっと息を吹きかけて冷ます。そのたび胡麻の香りが辺りを包む。熱い湯割りを恐れながらにすするように飲む。胡麻独特の香りが広がる。麦焼酎では味わえないクセががある。

「クセの強いお酒ですね」

「まるでわたしみたいだろ?」 

 そういえばどこかで聞いたことのあるような言葉だ。酒飲みの人間と言うやつはどうしてこんなにに自分の性格と酒の味とを結びつけたがるのだろう。

「もう少し、飲みやすいのはない? あたしには少し強すぎるかもしれない」

「なあに、馴れてしまえばどうってことないさ。大体さ、『このお酒、飲みやすくっておいしーい。まるで水みたいに飲めちゃうー』
(少し馬鹿にしたように若い子の声色を真似て言う)なんてやつはさ。水を飲んでりゃいいんだよ」

 なんて極論なんだろう。

 しばらく昔話をしながら、あたしはのみにくい焼酎を舐めた。ママは顔を赤らめてうなだれる。少し酔いが回ってきているようだ。それでもなんだか楽しそうに見える。

実はずっと、こうして晩酌に付き合ってくれる相手が欲しかったんじゃないだろうか。ちいママは、ここでこうしてママの晩酌を相手していたんだろうかなどと感慨にふける。

すっかり酔っぱらったママは、うなだれてうつむいたまま、静かに話す。

「香里奈、あのねえ……あんたには言っておくよ……」さっきまでの陽気なテンションより、ワントーン落としたような口調、あたし
に向かって話すというよりは、うつむいてそのまま地面に言葉を転がり落とすような言い方。あたしが聞いてなければ聞いていないでその方が都合がいいみたいに、はっきりとした言葉にはならない、言いよどんだような口調でママは言った。

「わたしねえ。どうやら癌が出来ちまっているらしい……もってあと半年くらいなんだとよ……」

 あたしはこういう時、どんな言葉をかけてやればいいのかを知らない。たとえ知っていたところでそれを上手に話すだけの自信もない。

「もうこんだけ生きりゃあ思い残すこともないんだけどね。残されたあの子たちがどうなるのかを考えると少しね……」

 実質ママにはたくさんの子供はいるが、血を受けた実の子がいるわけではない。ママの死後、この園がどうなるのかはわからない。それに園を残すことが出来ても肝心の里親がいなければ子供たちは路頭に迷うだけだ。

 それだけじゃない。血縁関係者のいないママにはまた別の問題も残される。あたしは職業柄、そのことが気になった。

「ねえ……ママの遺体は誰が食べることになるの? このままだと、誰にも食べてもらえなくなっちゃうじゃない」

 その言葉に、ママは少し眉をしかめた。しかし、あたしはそんなことを気にもせずに、言葉を続けてしまった。

「少し前に仕事であったお客さんなんだけど、血縁関係のない子だけど、食べる権利を認められている子もいたわ。養子縁組が成立していればその子に食べる権利が与えられるのよ。あたし、思うんだけどママはここの園の子たち、みんなに食べてもらうべきなんじゃないかと思うの。調理はもちろんあたしがするわ。だから……」

 ママは必死にしゃべるあたしの唇に、自分の人差し指を立てて添える。口角は上がっているが、眼は笑っていない。その笑っていない眼には覚えがあった。

 あれはあたしが中学生のころ、人肉が食べたいあまりに将来人肉調理師になりたいと言った時のことだ。何の悪意もなく、ただただあたしは人肉を食べてみたいという言葉をママの前で語っていると、ママは突然眼光をとがらせ、

「そうかい、そんなに人肉を食べたけりゃあとっととどっかへいって人間を捕まえて食べりゃあいいさ」

 と言われた。あたしはママの突然の冷たさに戸惑い、どうすればいいのかもわからなくなり、おそらく怒りに任せてママに対して何か暴言を吐いたように思う。今となっては何を言ったかなんて覚えていない。
ただ、おそらくその頃からママとあたしの仲は悪くなったんだと思う。それからほとんど口を利かなくなり、中学を卒業すると全寮制の高校に進学し、調理学校へと進んだ。

あたしが小学四年生のころ。次々に誕生日を迎えて10歳になっていく友達は皆、両親のどちらかが献体になり、その肉を食していった。中には祖父母や親せきの肉を食べたことがあるという子もいたが、ほとんどの子供たちはたいてい初めて人肉を食べることになる。初めのうちは泣いていたり、悲しんでいる子が多かった。まだ食べたことのない子供の中には、友達が親を食べたことを気持ち悪がり、罵ったり冷やかす者もいたが、やがてクラスの大半がその経験を経ていくたび、むしろ食べたことがないというものの方が立場は低くなっていった。食べたことのない子を囲み、食べたことがある子たちが、いかにその味が素晴らしいものかを語る。
人肉を食べるということはその当時の子供たちにとって、大人になるための一つの通過儀礼だった。

あたしには血のつながった両親はいないが、ちいママのことを本当のおかあさんのように思っていた。当時、ちいママが献体になるということは聞いていたし、もしかしたら自分も食べさせてもらえるんじゃないかと胸躍らせて待っていた。
しかし、あたしはちいママを食べさせてはもらえなかった。おそらくママも食べてはいないんじゃないかと思う。その事についてママの口から何かを語られることはなかった。

学校では、「お前はみなしごだからどうせ食べたことないんだろ」と馬鹿にされた。
あたしは皆に、ちいママを食べたと嘘をついた。その事で皆はあたしを仲間だと受け入れてくれるようになったが、心の中では常に後ろめたさがついて回った。その後友達と人肉を食べた感想を言いあうような機会があればいつも決まってあやふやな言葉でやり過ごし、周りの言葉にやたらと調子を合わせながらうなずくだけだった。

――いつかは本当に人肉を食べたい。

それがあたしの夢になっていた。


「その事は言わないでおくれ。わたしは誰かに食べてもらいたいなんて思っちゃあいないだよ」

 あたしの唇に人差し指を重ねたママは静かに、諭すようにそういった。

「そういやむかし、人肉を食べたいって言ったあんたと口論になったこともあったねえ」

 と、ママはその時の話を持ち出す。

「悪く思わないでおくれ。あの頃はわたしもまだ、ちゃんと心の整理が出来ていなかったんだよ。別にあんたたちの世代が悪いわけじゃあない。けどね、あたしがまだ若かったころには人を食べるなんて習慣はなかったからさ、どうしてもなじめなかったし、自分が誰かを食べたいとか、食べてもらいたいなんて言う感覚はないんだよ。それにね。あの頃はまだ、食人法なんてものに憤りさえ覚えていたのさ。あんな法律がなければ娘は、清美は死ななくてもよかったんじゃないかってね……
 わたしは今、老いて死を間近に控えている。死ねばすべてが消えて何もかもが終わりになるが、せめて自分の遺伝子を継いだ子供がこの世に生き続けてくれるのならばまだ死にようってものがあるさ。だけどね。自分の遺伝子を継ぐ者がいなくなってからのこの十年間、ずっと死ぬことが怖くて怖くて仕方がなかったんだよ。そりゃあねえ、香里奈。わたしはあんたをはじめ、ここにいるすべての子供たちを自分の子供のように思ってかわいがっているけどねえ、やっぱり自分の遺伝子を継いだ本当の子っていうのはやっぱり特別なんだよ。香里奈も、自分の子供を持てばわかるようになる……」


 ――自分の子供を持てばわかるようになる。


 ママのその言葉は衝撃的だった。あたしは自分がいつか子供を産むなんて考えたこともなかったし、子供を持てばわかるなんて……それでは子供を持たなければずっとママのその気持ちはわからないっていうことじゃないか……

 あたしはそれ以上何も言えなくなってしまった。ママの涙を初めて見たせい……と言うのもある。ママはすっかり酔ったふり(たぶんふりだと思う)をして、すっかりうなだれて布団にもぐりこむ。あたしは電気を消して、ママに背中を向けて眠りに落ちた。

「また、帰ってくるから」

 翌朝朝食を終えた後、余計な話は何もせずにママに別れを告げた。ママも昨日のことは何も言わなかった。酔った勢いで言ってしまい、何も覚えていないことにしているのかもしれない……

『また帰ってくる』と言った言葉の気持ちは本当だ。そんに遠くないし、いつでも帰ってこられる。できるならばもっと頻繁に帰ってくるべきだ。ママとこうして話していられるのはそれほど多くはないのだから。でも、その一回一回が残り数回の何分の一かだなんて決して考えてはいけない。そんなことをすればきっとあたしはママと思い切り本音で話せなくなってしまうだろう。あたしはこれから先、ここに帰ってくるたび、なるべく自分のことを話そうと思う。この世からママの遺伝子はなくなったとしても、そのママの意思を受け継いだ存在が、今日もまたこの空の下で生き続けているんだということを伝えるために。

 ママは血の繋がっていない子供たちはやはり血のつながっている子供とは違うと言っていた。あたしにはそれがどういうことなのかはわからないが、血がつながってさえいればそれでいいというのも違うと思う。あたしを捨てた親は、この空の下のどこかで今も生き続けているかもしれない。そして自分の子がどこかで生き続けてくれているだろうと期待しているのかもしれない。しかし、あいにくだがあたしはそんな両親を自分の親だとは思っていない。遺伝子以外は何も受け継いでいないのだから。

 結局あたしの親は、ママとちいママしかいない。その事を、わかってもらうために、ここにはあと何度か帰ってくるだろう……


 帰りのバスの中で携帯電話に着信があり、見ると相手は堂嶋さんだった。連休中に連絡と言うことは、緊急の仕事が入ったのかもしれない。

「はい、もしもし……」

「あ、ああ。香里奈君……。休みのところ、申し訳ないんだが……」

「いえ、大丈夫ですよ。仕事……ですか?」

「あ、ああ。うん。今日、これからなんだけど時間大丈夫かな?」

「こ、これからですか?」

「あ、いや、無理ならいんだ。別に僕一人でも問題ないんだ。ただ、ちょっと食事に出かけるだけだし」

「あ、なんだ。デートの誘いですか?」

「デ、デー……、い、いや、そういうわけじゃなく……」

 わかってて言った。こういう態度をとると堂嶋さんは少し動揺する。それがわかるようになってから、つい、からかい半分でやってしまう。本当に困った弟子だ。

「仕事で、人肉を扱っているというお店に食事に出かける。もちろん経費で落ちるから気にしなくていい」

 なんて素晴らしい仕事なのだろうか。人肉を扱うお店と言えば超高級店だ。しかもそれが経費で落ちるなんて、一体どういう仕事なのだというのだろう。これをみすみす断る手はない。しかし……

「実は今、都心から少し離れているんです。今、帰っている途中なのですが、そちらの方に到着するのは昼過ぎになると思います」

「昼過ぎか……」

 堂嶋さんはひとり呟いて、しばらく間をおいて続けた。

「だったら、今日晩はどうだろう? その方がゆっくり時間もとれるだろうし」

「はい。もちろんそれでよければ」

 食事は夜からと言うことで話がまとまった。集合はアトリエではなく、直接堂嶋さんのアパートに来てほしいということだった。後でメールで地図を添付された。そこから堂嶋さんの自家用車で現地に向かう。

 昼過ぎに都心へと帰ってきたあたし。まだ、夜の食事には時間がある。そこであたしは街に出かけ、ドレスを調達することにした。人肉料理店と言えば超高級店。あたしがふだん着ているようなラフな格好で行くわけにはいかない。それにもう、社会人なので、いつ、いかなる時にこういった衣装が必要になるかわからない。

 あたしは、ライトブルーの、背中の大きくあいたドレスを購入した。少しばかり恥ずかしいが、いつまでも子供と言うわけではない。このぐらい、あたしだって着こなして見せる。

 夕方になり、予定の時間よりも早く到着できるようにと心がけて堂嶋さんの住むマンションへと向かう。

 予想はしていたが、なかなかに立派なマンションだ。高級物件、と言うわけではないだろうが、エントランスなんてものがあるだけであたしが住むようなボロい寮とは比べ物にならない。言われた通りの部屋に行き、部屋の前のドアチャイムを鳴らす。中から出てきたのは堂嶋さんではなく、色の白い、目の吊った奇麗な女性だった。ふわりとした前髪を横にならし、ヘアピンで簡単にまとめるその額からは堂々たる自信が満ち溢れているようだ。肌の白さは普通の白さではない。まるで日光に当たることを否定して生きているかのように尋常無く白い。〝白魚のような〟と言う表現があるが、まさにその通りだ。白魚は本当は白いんじゃなくて透明だ。釜揚げすれば本当に白色になるが、そうでない限り、その色は無色透明で、彼女の肌はそれに近い。もし、彼女が死んで、あたしが調理する機会があるのならば、その体を一度茹でてみたいと思った。本当に白く濁るのかどうかを確かめたい。堂嶋さんとはどこをどう切り取ってもまるで真反対な印象を受ける。

「あらあなた、牧瀬香里奈さん?」

「あ、は、はい」

「いらっしゃい。主人なら、さっきから待ってるわよ。どうぞ中のほうへ」

 〝主人〟と言う言葉を聞いてすこしだけドキリとした。堂嶋さんに奥さんがいることをすっかり忘れていたということもあるのだが、どこかしら彼女の言う〝主人〟と言う言葉には、あたしに対する対抗心が少しばかりあったのではないかと思うのはうぬぼれだろうか。

それにしても堂嶋さんいはもったいないくらいにきれいな女性だ。いったいどんな裏ワザで彼女の心をとらえたのか、そこのところをまた改めてじっくり聞きたい。

彼女はあたしを室内へといざなうために、そのアーモンド形の目の中を、黒い眼球をとてもゆっくりと移動させて室内へと向ける。言葉はなくともその眼球だけでいくつもの言葉を語る。


玄関を入って通路の奥、ダイニングと一体になった広めのリビングのカウンターテーブルに肘をついたまま、シャンパンのグラスを傾ける堂嶋さんはあたしの格好を見るなり、思わず息をのんで目を丸くした。それは新調したドレス姿のあたしがあまりにも魅力的で……と言うわけではなさそうだ。ドレスアップしているあたしに対し、堂嶋さんは黒いポロシャツとジーンズというえらくカジュアルな格好だった。

シャンパンのグラスを持ったまま、微動だにしない堂嶋さんの隣のカウンター席に腰を下ろす奥さんはその旦那さんの耳元で「あなたがちゃんと説明しないからよ」とつぶやく。

「あはははは」と照れたように笑う堂島さんが説明をする。「実は今から行く料理店は高級レストランなんかじゃないんだ。どうも噂で、人肉を提供しているという噂の焼肉屋があってね、僕らはそれを調査に行く。そのお店は人肉を取り扱う資格を持っていないし、当然人肉調理師も常駐していないお店だ。もし、本当に人肉を提供しているのならば当然違法行為で、摘発しなければならないだろう。それにもし、それが正規のルートを経由していない人肉を使っているとなればそのルートの先に大きな闇市場が絡んでいるかもしれない」

「闇市場? どういうことですか?」

「つまり、政府が管理していない人肉を使用しているかもしれないということは、どこかで食肉用としての人身売買が行われているということだよ。そうなればこれは大きな人権問題だ。だからなるべく目立たないようにした方がいい。特に……そんなに派手な服装はちょっと……」

 それならそうと、もっと早くに言っておいてほしかった。こんな時に堂嶋さんの朴訥な性格が恨めしくなる。

「ねえ、こっちにいらっしゃい」と、奥さんがあたしの手をとった。冷えた魚のようにとても冷たくて、絹のようにしなやかで、シフォンケーキのようにしっとりした手だ。あたしをリビングの隣の部屋へと連れて行く。そこは奥さんの衣裳部屋で、あたしはそこで奥さんの普段着を借りて着替えることにしたのだ。幸い身長も同じくらいで都合がよかった。カジュアルなシャツとパンツを借りてきた。丈もちょうどぴったりだったが、どういうわけかウエストだけが少し苦しい。でもそこはお腹を無理に引っ込めて無理矢理にはくことにした。くるしくて穿けないなんて、プライドが邪魔して言えるわけがない。自前のドレスは折りたたんで紙袋に入れて渡してくれた。
 
 ダイニングに戻り、まだ予約の時間まで時間があるからと、カウンター席へと座った。堂嶋さんを挟んで、左側が奥さん。右側にあたしだ。

「あの、今日は奥さんもご一緒されるんですか?」

「ううん、わたしは今日はご遠慮させていただくわ。だから二人で楽しんできて。それに子供も寝ているから、誰かがここには残らなきゃいけないでしょ」

 奥さんは堂嶋さんの隣でシャンパングラスを片手につまらなそうにつぶやいた。子供がいるという事実をさらりと流す。それについてあたしがなにかを質問する間を与えないほどに堂嶋さんが言葉をつなぐ。

「それに妻は、人肉を食べるのが苦手でね」

「そう、なんですか……」

「だって人肉ってね、なんだかいやじゃない? 牧瀬さんはそんなこと考えたことない?」

「あ、あたしは別に……」

「わたしも別にね、家族の肉なら食べられないこともないのよ。だって身内だからいまさらっていうのはあるし……でも、あったこともない他人の肉となるとなんだか気持ち悪いかなって思うのよ」

「あ、ああ。ま、まあ、妻はその……少し潔癖なところがあるんだ……少し」

「でも、ベジタリアンなんかよりはぜんぜんまともでしょ? だってベジタリアンの人は肉なら何でも食べないっていうくらいなんだから……
 ほら、ベジタリアンのひとってさ、すぐにかわいそうだとか生き物を食べるなんてっていうでしょ? でも、あれっておかしいと思わない? だって植物だってみんな生きているのよ。それなのに食べてはいけないのは動物だけだなんて、命を平等に扱っていないのとおんなじことでしょう?」

 たしかにそれはひとつあると思った。植物でも動物でも命の価値が同じであるというのならば、植物だけを食べていいなんて言うのは道理にかなっていない。つまり、りんごをひとつ齧るのと、人間を一人食べることは、業の深さは同じと言うことだ。だからすべての生き物は生きるために食べるというすべての行為に対し、その業をかぶって行かなくてはならないはずだ。ベジタリアンと言う考え方は、植物をいのちから除外することによって、その業から抜け出そうとする行為にも見える。
しかしそれを言うならば、どうせ一つの命を食べるという業を背負うのなら、小さなりんごをひとつ齧るより、一人の人間を食べることの方が、過食部分の多さと言う点で、効率が良い。一つの命で賄える食料が全然違うわけだ。その場合、一人の人間が成長するまでに必要な食糧、即ち命の量まで計算に入れてはならない。そんなことをしていてはきりがないだろう。それに、命を食べることに嫌悪するというのなら、畢竟答えはおのずと知れてくる。さっさと自分を食料として献体することだ。これ以上命を食べる必要もなく、自分の命で多くの食料が得られ、それが次の命へとつながっていく。

「まあ、なんにせよ」と、堂嶋さんが会話に入ってくる。「自分がどう受け取るか、と言うことに尽きるんだよ。動物っていうのは動くから、どうしても生き物と言う感じがして食べにくいというだけだ。ベジタリアンだってそんなことくらいは理解している。我々だって動物の肉が食用として精肉加工された状態で手元に届くから、食料として食べやすいが、目の前に歩いている豚を捕まえて、その腹を裂いて食べろと言われれば少しくらいの抵抗もあるだろう。反対に想像力の豊すぎる人からすれば、リンゴを木からもいで丸かじりする光景は少々残虐に映っているのかもしれない」

「ああ、でもですね、堂嶋さん」と、あたし。「植物は食べられることでに繁殖する性質を持っているじゃないですか。蜜を吸ってもらったり、果実を食べてもらったりすることで子孫を遠くに繁殖させる能力を持っています。でも、動物は違う。動物は繁殖するために食べられることを自ら望んだりはしない。食べられたくないと思って逃げることが動物の習性。だからベジタリアンの人は自ら食べられたいと願う植物は食べて良しとして、食べられたくないと逃げる動物は食べてはいけないという結論になるんじゃないかしら」

「でも、その理屈ではベジタリアンは植物の茎や葉や、根菜なども食べられなくなる。尤も、そう考える真正のベジタリアンもいないわけではないけれどね。
 しかしまあ、皮肉を言ってしまえば、豚は人間に食べられるという性質によって、野生から守られ、意図的に繁殖、品種改良を繰り返されることになる。その結果、豚の個体数は野生で生き続けるよりも格段に個体数を増やすに至っている。種の繁栄が生物の本懐なら豚は食べられることによってその本懐をなしたともいえるんじゃないだろうか」

「それが、幸せなことかどうかは考え物ですけど……」

「ともかく……」と、そこに奥さんが言葉を挟む。「あなた達は物事を難しく考え過ぎよ。料理人っていうのはいちいちそんなことまで考えて料理を作っているわけ? 要するにおいしければいいのよ。食べて、そのことによって癒されたり、幸せになれればいいのよ。すべての生き物はどのみちいつかは死んでしまうわけだし、せっかくならおいしく食べてもらうのが一番の幸せなのよ。牧瀬さん、あなたも少しリラックスして考えた方がいいんじゃない?」
 と、言って、堂嶋さんの陰からあたしの方に目を向ける。――リラックス。と言う言葉を自分で言ったからか、その時初めて気が付いたようだ。

「あら、今まで気が付かなかったわ。ごめんなさい」と言って立ち上がり、あたしの前にグラスを置いて、シャンパンを注ぐ。

「あ、ありがとうございます」

 と言ってグラスを手に持った。しかし堂嶋さんがそのグラスをすかさず奪い取り、中身を一気に飲み干してしまった。

「そろそろ出発しようか」

 そう言って、奪ったグラスの代わりに、あたしの手に鍵を差し出した。見慣れた国産車のロゴが入った車のキーだ。そういえば現地へは車で行くと言っていた。そのくせ堂嶋さんはあたしがここに来たときにはすでにシャンパンのグラスを傾けていたのだ。あたしを直接ここまで来させたのはこのためだったのかと気づく、車で送迎するのは堂嶋さんではなく、あたしの方だ。まあこれも、弟子の仕事の一つなのだとあきらめるしかない。

 堂嶋さんが一足先にマンションの部屋を出て、それを追ってあたしも部屋を出る。玄関まで見送りにきてくれる奥さんに対し、振り返ってもう一度服を借りたお礼を言う。奥さんは「そんなことを気にしなくていい」と言いながらあたしの耳元で、かすれるような声で囁いた。女同士あるにもかかわらず、耳の奥へと届くそのこそばゆい声に色香を感じる。


「あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん」

 なんだって彼女はその時いきなりあたしのことを『香里奈さん』なんて下の名前で呼んだのだろう。ついさっきまでは『牧瀬さん』と呼んでいたはずだ。しかしその時のあたしはそれを特別気にするでもなかった。ただ何となく、それに引っかかっただけのこと。

 移動中の車の中で、不満を漏らすようにつぶやく。

「堂嶋さん。子供がいたんですね。なんで今まで教えてくれなかったんですか?」

 言いながら、なんだか自分の発言が堂嶋さんの不倫相手みたいだなと思う。

「別に、隠していたわけじゃないさ。聞かれなかったから言わなかっただけだよ。それに、余計な心配をさせる必要もないかと思って……」

「余計な心配だなんて……」

 ――余計な心配。

 その子供のせいで、いつかは両親のどちらかが献体にならなければならないという心配。
 それをあたしがしなければならないということは――。

「堂嶋さん……」

「ん?」

「一つ聞いていいですか?」

「答えられることなら」

「どうして、結婚して子供を産もうなんて考えたんですか?」

「どうして? そんなことに、理由なんて必要なのかな。結婚して、子供を産むというのは、ごく当たり前の衝動だと思うのだが」

「あたしからしてみれば、そんなこと普通じゃないですよ。だって、子供を産めばその親のどちらかは死ななければいけないんです
よ。それなのに、そこまでして子供を産みたいって理由が、あたしにはよくわからないんです。そりゃたしかに子供はかわいいかもしれませんけど、何も命を捨ててまで欲しいものかと言うのはちょっと……」

「いのちを捨てて、と言うのは少し違うかもしれないな。どちらかと言えば、自分の命を無駄にしないために……」

「……どういうことですか? それじゃまるで真逆の意味じゃないですか?」

「どういうことと言われてもね……。まあ、そのうちわかる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。その感情を言葉にするのは少し難しいな。
 ねえ、牧瀬君。カマキリのオスは、何でメスと交尾したがるのかな?」

「カマキリの交尾? それは、新手のセクハラですか?」

「ははは。カマキリのオスはね、メスと交尾すると、その交尾の最中、メスに頭から齧られるんだ。頭がなくなった状態でオスはさらに交尾をつづけ、メスに卵を産ませるんだ……」

 頭の中でその映像を想像し、気持ちが悪くなった。

「な、何でそんなことを……」

「メスが卵を産んで育てるということはね、とても労力のかかることなんだ。だから発情期のメスはその体に栄養を蓄えるため、たとえ相手が同胞のオスであっても、捕食して栄養を蓄えようとするんだ。
 無論。食べ物が豊富に確保される状態であればそこまでのことはしないさ。でもね、自然界の生存競争と言うものはそんなに甘いものじゃない。食べ物が足りなければ同胞を食べてでも栄養を蓄え、子孫を反映させなくてはならないんだ。メスはそれをわかっているからオスを食べ、オスはそれをわかっているからメスに食べられる……」

 堂嶋さんはそれっきり、感慨にふけって何も話さなくなった。

 あたしが聞きたかったのはきっとそういうことじゃない。なんで、そこまでして子孫を残さなきゃいけないのか……と言うことだ。

 その後、車を走らせること約30分。都内23区を少し外れたとある場所。都心からそう遠く離れていないにもかかわらずあたりは街灯も少なく閑散としている。車を止めて繁華街を歩くが、その半数近くはシャッターが閉まっているというありさまだ。かつては都心のベッドタウンとして人気のあったこのあたりも、人口減少があった今となってはすっかり老人だらけのさびれたエリアになった。まるで古い映画でも見ているかのように町並みはレトロな商売の店が目立つ。そんな繁華街からさらに一本路地を入り、いかにも胡散臭さがにじみ出る焼き肉店が、今時珍しいピンクのネオン管に照らされる看板で営業していた。『ヒカリゴケ』と言う店のロゴが一文字づつ順番に消えては点き、最後にヒカリゴケの文字全体がちかちかと点滅をする。確かにこんなお店にパーティードレスで入ったならさぞ浮いてしまうことだろう。

「なんでこんな場末なんでしょうね。さすがにこれじゃあお客さんも集まりにくいんじゃないですかね」

 あたしのつぶやきに堂嶋さんは半分笑いながら答える。

「たぶんそうでもないさ。むしろこういう場末であるほうが周りを気にせず入りやすいというものだろう。やはりそれなりに後ろめたさも感じる食材ではあるからね。特にこの町にの住人の多くを占める老人たちからしてみれば、若いころに人肉を食べるなんてことはとんでもないタブーだったわけだし、最近の若い子のように十歳の時に親を食べる習慣もなかった。だからこそ尚更一度は食べてみたいというのもあるのだろう。まあ、冥途の土産にと言うやつだ。あの世に金は持って行けないし、遺産を残してやる子孫もなくなってきたというのが現状だ。あるうちに使った方がいい」

 そう言われて、ママの言葉を思い出す。

『自分が誰かを食べたいとか、食べてもらいたいなんて言う感覚はないんだよ』

 まあ、それはきっと人それぞれなんだろう。そういえば、仏教、真言宗の総本山の高野山には路地裏にひっそりと一軒の焼肉屋があるという話を聞いたことがある。
 高野山に住んでいるのはそのほとんどが全国から修行のために集まった僧侶ばかりで、当然修行中の身であるため、基本的に食肉は認められてはいない。しかし、その路地裏の焼肉屋さんは毎日大繁盛しているという。

 怪しげなドアを開け、中に入ると外装とは一転、きれいな内装で、白シャツ、黒ベストのギャルソンが出迎えてくれた。店内はすべて個室となっており、あたし達は小さな個室に通された。中央には大理石のテーブルがあり、その中央がくりぬかれて焼き肉の網がかかっている。網の下には空洞になっており、厨房で用意された備長炭がそこにはめ込まれるという仕組みになっている。ギャルソンがメニューと一緒に、バインダーに挟まれたアンケート用紙のようなものを置いて行く。注文が決まったら、席に備え付けのボタンを押してほしいとの旨を告げ、注文時にそちらの誓約書にサインをしてほしいとのことだった。

 アンケート用紙ではなく、誓約書のようだった。そこには、当店で食べた料理について、一切の口外をしない事、どんなものを出されても一切のクレームをつけないという内容だった。堂嶋さんはさっと目を通した後、すぐにサインをして脇にどかす。メニューを広げて吟味する。

 メニューには、その名を見てもすぐにぱっとイメージのわかない言葉が並ぶ。

 月夜、さくら、もみじ、かしわ、ぼたん、ざくろ……一見して焼肉のメニューではなさそうではあるが、たしかにいくつかは肉の名前として覚えのあるものもある。あたしの頭に浮かぶはクエスチョンマークを読み取った堂嶋さんが説明を入れてくれた。

「植物の名前は、それぞれが何の肉かを表している。江戸時代、徳川綱吉が生類憐みの令を発令した際、公に食肉することを禁じられた町民はその肉の名を植物の前で呼ぶようになった。月夜はうさぎ、柏は鶏、桜が馬で、牡丹は猪、紅葉が鹿だ」

 説明を聞きながらメニューをなぞり、それぞれがなんに肉なのかを頭の中で整合させていく。堂嶋さんの説明の中で唯一何であるのかを語られていない植物が柘榴。それがいったいなんであるのかをここで口に出すのは無粋と言うものだろう。柘榴の名のつく肉だけが金額がべらぼうに高い。他のメニューとは桁がひとつちがう。しかしそれでもちょっと無理をすれば庶民でも手が出るぎりぎりのラインと言うところだろう。

 ボタンを押して店員を呼んだ堂嶋さんは誓約書を店員に渡すと、迷うことなく柘榴のメニューだけをひととおり注文する。頭でざっと計算するだけでも恐ろしい金額になりそうだ。

 ひととおり注文をして、ギャルソンが個室を出て、再び部屋にふたりきりになると、堂嶋さんは注文の品が届くまでにちょっとした話をしてくれた。

「香里奈君は台湾素食(たいわんすーしー)と言うのを知っているかい?」

「寿司?ですか」

「スーシーだ。菜食のことを指す。台湾は人口の一割がベジタリアンと言う菜食国家でもあり、台湾で主に食べられるベジタリアン料理をそう呼ぶ。この料理、他国のベジタリアン料理とは少し違い、味付けも結構しっかりしていて、肉食派の人が食べても違和感を感じないほどにしっかりとした味わいだ。それにそのもっとも特徴的なのは、所謂もどき料理だ」

「もどき?」

「そう、台湾素食では湯葉やグルテンを使って様々なもどき料理を作る。見た目がまるで海老だったり、ウナギだったりと言うものだ。これがなかなか見事な技術で、ちょっと見ただけではホンモノのウナギと区別がつかなかったりする」

「……なるほど、それは結構な皮肉ですね」

「ああ、その通りだ。本当の菜食主義なら、わざわざ手のかかるそんなものをつくる意味なんてないんだ。本当はウナギやエビが食べたくて食べたくて仕方がないが、食べてはいけないという意思の方を優先して、替わりに偽物を食べて我慢しているということだ」

「……結局、食べ物に対して、それに向き合う人間が何を考えるか、なんですね……」

 そして会話にひと段落が付くタイミングを待っていたかのように(あるいは本当に待っていたのかもしれない。この個室のどこかに盗聴器でもしかけていて、部屋の外でそれを聞いていたということだって考えられなくはない)〝ざくろ肉〟が運ばれてくる。赤身の肉を中心に、見ただけではどこの肉なのかよくわからないような内臓肉。
 程よく熱せられた金網にざくろ肉を乗せると、白い煙とともに、じゅーっと言う音が響き香ばしいにおいが立ち込める。否が応でも口の中に唾液があふれる。

 片面を十分に焼き、裏返してからはなるべく焼きすぎないうちに食べた方がいいという堂嶋さんの言うとおりに、まだ中心が半生くらいの状態で網からとり、甘辛いたれに絡めて口の中に運ぶ。思っていたよりもずいぶんと弾力の強い肉だ。脂肪分もあまりなく少しぱさぱさしている。血と鉄を思わせる癖の強い匂いがする。味は確かに濃厚だが、正直言ってあまりおいしい肉だとは思えない……

 そして堂嶋さんは、そんなあたしの顔を見ながらこちらの気持ちを見透かしたように言う。どこかにあたしの気持ちがテロップで表示でもされているのだろうか。

「人肉なんて言うのはね、舌で味わうものじゃなく、心で味わうものだ。本来食べて、美味しい肉なんかじゃないんだよ」

 ――だから、あたしたち人肉調理師の仕事は特別なんだ。と言う意味でも聞き取れる。美味しいと、舌で感じさせるのではなく、心で感じさせる料理を作らなければならないという意味なんだろう。現に堂嶋さんの作る人肉料理は、いつもそうして作られてきた事実をあたしは見てきた。

「でも、それなのになんで好んで他人の肉を食べたがる人がいるんでしょう? 自分とは縁のない人間の肉なんて心で味わうのって難しくないですか? タブーだとわかって食べにくるこの町の老人たちと言い、大金をはたいて人肉を食べたがる世界のセレブリティと言い……」

「優越感、と言うのも一つあるだろう。他者を食べることによって、その相手よりも自分が優秀な存在であることを誇示したいのかもしれない。だからこそ人肉はあえて高価で取引される」

「要するに、高いからいいってことですね。美味しものが高いというわけではなく、それだけ価値のあるものだからいいということ」

「そうだな。レストランにしても、価格の高いお店がおいしいというわけではないだろう? 安い大衆食堂でもおいしい店はいくらでもあるし、高級レストランでもおいしくないお店はいくらでもある。しかし、高級レストランではそれなりに高価な食材を使っているし、サービスや環境も整っている。それらすべてを含めて考えれば、高級レストランにはたとえ味が悪くてもそれなりの料金が高いだけの価値はある。ほとんどの場合において」

「ほとんどの場合において……」

 それからあたしたちは時間をかけて、すべての柘榴肉なるものを食べた。正直、味がおいしいとは言えなかったが、その食事の材料となった生物の未来を食べた。と考えるならばその料理にはいくらお金を払ってでも足りないほどの価値を感じたし、だからこそ食べ残すなんてことはとんでもないことだと思ったからだ。

 これは、どんな料理に対しても言えるかもしれない。食べるという行為が、他の生き物を捕食する行為である限り、その生物の未来の時間を食べていることのは変わりない。その時間を奪っておいてそれを食べ残すということがいかに不道徳な行為かしれたものではない。

 帰り道の車内、あたしは堂嶋さんに「ごちそうさまでした」とお礼を言った。お会計の金額はびっくりするような金額だった。調査と言う名目の食事なので、最終的には税金で食べたことになるのかもしれないけれど、「あたし、多分これから先もあんな高級な料理を食べることなんてないと思います」

「そうか……」と、堂嶋さん。助手席から窓の外を眺め、何かを考えているようだ。

「申し訳ないが……今日のアレは、人肉ではないな……」

「え、そうなんですか?」

「ああ、いくらなんでもあの肉は固すぎる。おそらく猿かゴリラか、と言ったところだろう。まあ、柘榴肉と書かれているだけで、人肉かどうかを明記しているわけではないので、違法と言うわけではないのだろうが……、まあ、むしろ本当に人肉を出されれば、それこそ違法行為で、当局に連絡する必要があったんだがな」

「つ、つまり、あのお店はそのまま放置、と……」

「ん、まあ、報告だけはしておくが、当局が摘発するかどうかは怪しいな。なにせ公務員の仕事ってのは縦割りだからな。管轄がちがうんだよ」

「な、なんだか腑に落ちませんね。高いお金を払っているのに……」

「ま、いいんじゃないか? 知らなければ人肉を食べたという満足感は得られるわけだし、本物の人肉を食べるとなると、あんな金額じゃあきかないからな」

 ――正直。少しだけ驚いた。まさか料理に対していつも誠実な堂嶋さんの口から、よもやそんな発言が出るとは思ってもみなかった。

「あの……もしかして、なにかに対して怒っています?」

「ああ……怒っているさ……」

「……」

「わざわざ人肉を好んで食べようとするなんてな……自業自得なんだよ……」


 その時の堂嶋さんは、少し怖かった。それは人肉を食べたいという想いでこの職業を選んだあたしを全否定してしまう発言。そしてそれ以前に堂嶋さんは人肉調理師だ。

「何を、そんなに怒っているんですか?」

「怒っているわけじゃないさ。虚しいだけさ。
 香里奈君…… 君に、言っておかなければならないことがある」

「なんですか、あらたまって……」

「来月……、娘が十歳の誕生日を迎えるんだ……」

 来月で十歳。子供がいることは聞いていたが、まさかそんなに大きい子供だとは思っていなかった。家で寝ていると聞いていたので、てっきりまだ小さい子だと思っていた。

「来月、僕は献体になる……。香里奈君、僕を調理してくれないか……」