牛フィレ肉と亜由美フォアグラのソテー・ロッシーニ風


 朝8時30分。人肉調理師(見習い)であるあたし、牧瀬香里奈はいつも通り調理指導者である堂嶋哲郎のアトリエへ出勤する。一般の料理人とは違う、この人肉調理師と言う特別な職業はレストランに勤務しているコックとは少し違い、毎日常にお客様のもとで調理するわけではない。

まず、管理局からの連絡があり、その情報をもとに遺族のもとに出勤することになり仕事に取り掛かる。つまりそれは、ひとが死んだことを意味するわけで、本来ならば仕事がないことこそが好ましいと言える。しかし、それで成り立つ仕事と言うものはない。ひとはいつか必ず死ぬもので、ひとが死ぬからあたしたちの仕事が存在する。

 そして、誰も人が死んでいない平和な日は、こうしてアトリエに出勤して料理の訓練、研究に時間を費やすのだ。そして現在、堂嶋さんはあたしと言う見習いの指導も請け負っているので、特に指名がない限り、他の調理師に比べるとあまり仕事を回されないらしい。ただでさえ、人肉調理師の数が足りていないとささやかれている昨今、実に悠長なことだ。

 なればこそ、あたしは一刻も早く一人前の人肉調理師として認められるようになり、遺族に素晴らしい料理が提供できるようになるため、日々の努力を惜しむわけにはいかない。

 あたしがアトリエへと出勤した時、決まって堂嶋さんは先に出勤している。そしてカウンター席に座ってのんびりと音楽を聴いているのだ。音楽は大体がクラシック音楽だ。カウンターの椅子に座り、目を瞑って音楽に聞きほれている。たぶん友達にいると、少しだけうっとうしいタイプの人間だろう。本人いわく、この狭くて床も壁もコンクリートの打ちっぱなしと言うアトリエでは音がうまく反射してくれるらしいのだ。大体何日かは同じ曲を聴いて、飽きてきたころにちがう曲に変えるという生活習慣なのだということに気付き始めた、四月の中ごろの出来事だった。

「あ、今日はまた違う曲になってますね」

 昨日まで連続で数日間ドヴォルザークを聞かされていたが、今日からはまた違う曲になっている。知らない曲だ。

「これ、なんていう曲ですか」

「ロッシーニの泥棒かささぎと言う曲だ。演奏時間がちょうど十分くらいで、パスタをゆでる時間にちょどいい」

「はあ、今日はパスタを茹でるんですか?」

「いや、別にそういう話をしているわけじゃない。でも、ほら、この曲を聴いていたら突然妻から電話がかかってきて、それっきりもう家に帰ってこなくなる気がするんだよね」

「なんの……話をしているんですか」

「いや、別に……なんでもない」

「あれ、それより妻って、堂嶋さん、結婚してたんですか?」

「ああ、してるよ」

「へえ、そうなんですか……」

 と、一応返事だけはしておく。別段そのことに興味はない。ただ、こんな変わった人と結婚しているという奥さんも奥さんで随分風変わりな人なんだろうなと想像してみた。

「ところで堂嶋さん。ロッシーニって……作曲家の名前ですか? 変な名前ですよね。なんだか料理の名前みたいです」

「……あのね、香里奈君。たぶんそれは君の持っている認識の方が間違っていると思うよ。普通、ロッシーニと言えば作曲家の方だ。料理名だと思うのは単に君が料理以外に興味がないからに過ぎない。良かったら君も芸術と言うやつに少しばかり触れてみるのも悪くないかもしれないな。コックなんて言う職業は基礎さえ学べばあとはセンスの問題だからね。そのセンスを磨くという意味でも芸術に触れてみるというのもいいだろう。現に料理人の多くはそう言った分野の趣味を持っている人が多い。その点においてもこのロッシーニと言う人物はもっとも有名な人物だと言えるんじゃないかな」

「そんなに有名なんですか、その作曲者」

「ああ、ロッシーニはイタリア、ボローニャ出身の音楽家で、特にオペラの分野ではとても有名だ。イタリアのモーツアルトと言う異名を持ち、ショパンも彼の曲の大ファンだったいう。特に浮たち、弾むようなクレッシェンドを好んで使い、ロッシーニクレッシェンドとも呼ばれるが、晩年はあまり作曲活動をしなくなり、どちらかと言えば美食家として名をはせるようになった。香里奈君の言っている料理の名前、と言うのは美食家である彼、ロッシーニにちなんでつけられた名前だ」

「え、じゃあ、音楽のロッシーニと料理のロッシーニっておんなじ人のことなんですか?」

「ああ、そうだよ。晩年のロッシーニは音楽よりも食に興味が移っていて、レストランなんかも経営している。音楽でも『アンチョビ』とか、『ロマンティックなひき肉』など、料理にちなんだ曲を多く作曲するようになった」

「ロマンティックなひき肉って……完全に病んでますね」

「取りつかれている。といいた方がいいかな。ロッシーニは肥満で死んだとも言われているが、その年は76歳で、当時としてはかなりの長寿だと言えるだろう」

「好きなもの食べて長生きしたって、そりゃあ幸せな人生だったんでしょうね。ところでロッシーニ風って、とくに有名なのは牛フィレ肉とフォアグラとトリュフの組み合わせが有名ですよね。でも、フォアグラって大体鴨とかガチョウでしょ。それなのに牛肉っていうのはどうなんだろうって…… ほら、欧米では日本と違って一つのお皿に肉と魚を混ぜてしまうことを嫌ったりするじゃないですか。なのにそこはあまり気にならないのかなって」

「たしかにね。その事もあって肉は鴨肉を使うというコックだってそれなりにいるさ。でもまあ、美味しければなんだっていい。そういうことだ」

「そう言うところは日本人の方が神経質かもしれないですね。親子丼とか、別に玉子なんてどんな料理にだって使うものなのに、あえてそこが親子であることを強調したがるなんて、ホント神経質だと思います」

「ロマンティック……なんだよ」

「ちなみにあたしはサーモンのお刺身といくらで造る〝鮭親子丼〟が大好きです」

「なら僕は、美人の母子を同時に愛でるという親子どんぶりに一票」

「あ、それ完全にセクハラですから。後で管理局に報告しときますね」

 などとくだらないことを言いながら仕事を始める。お昼ご飯をつくるのはあたしの仕事なので、今日の昼ごはんは親子丼にしようと思った。

 
  訓練課程の日のあたしの朝は、野菜などの下ごしらえから始まることが多い。じゃがいもの皮をむいたり玉ねぎをみじん切りにしたり、エビの殻をむいて背わたを取ったりというどこにでもあるような雑用をする。そしてそれを簡単な下ごしらえにするのだ。オニオングラタンをつくるために玉ねぎをあめ色にいためたり、マッシュポテトをつくったり、クリームコロッケをつくったりと言う作業だ。その日はあめ色玉ねぎを20kg、マッシュポテトを30kg、カニクリームコロッケを500個作った。これらの仕事は近隣のホテルからまわしてもらうのだ。通常の来客がない人肉調理師は普段、訓練をすると言っても実践を踏まえることがあまりない。だからこうして堂嶋さんが近隣のホテルから仕事を回してもらい、それをこなしていく。ホテルとしても面倒な雑務が多少なりとも減ればありがたい。これはまあwin,wⅰnの関係だと言えるだろう。それらの雑務をこなしているあいだ、指導監督となる堂嶋さんはその様子を隣でじっと見つめている。プレッシャーは半端ではない。気になったところはその都度アドバイスや指導が入る。昼過ぎごろにはひととおりの作業が終わり、堂嶋さんはそれら下ごしらえをした材料をホテルへと配達する。この間にあたしは二人分の昼食をつくるのだ。 

 しかし、これはこれでひとつの訓練でもある。ホテルから請け負う仕事はほとんど毎日同じような作業で、それを繰り返し行うことによって普通のひとでは気が付かないような些細な違いにまで気づくようになり、その誤差をより少なくするために小さな変化をつけることで統一するという技術が身に付く。それに対し、昼食、所謂まかないをつくるという行為は常に新しいことに挑戦し、幅広い技術を身につけることにつながる。そして何より、その食事は間違いなく師匠である堂嶋さんが食べるということだ。食べる相手は間違いなくプロ中のプロであり、その相手に食べさせるということが新人コックにとってどれだけの指導になり、また、どれだけのプレッシャーになることか……

 堂嶋さんは毎日、あたしのつくったものを一口食べ、かならず一度難しい顔をする。そうして一呼吸置き、かならず何をどうするべきだという指示を与える。とりあえず今のあたしの目標は堂嶋さんが一口食べ、何のアドバイスももらえない日をつくるということだ。つまりそれは何一つ文句の言いようのないものをつくるということ。果たしてそれが可能かどうかはわからないが、何らかの目標をもって毎日を過ごすことは大事なことだと思っている。

 今日のおひるごはんは親子丼なので、まずはご飯を炊くところから始める。ただし、ご飯は土鍋を使って炊くものとする。

 まず、あらかじめ言っておくが、これは決して土鍋で炊くごはんがおいしいからと言う理由ではない。美味しいご飯を炊きたいならば自分の好みに合った炊飯ジャーを捜すことをお勧めする。それがどんなに高いものであっても、だ。

 時として炊飯ジャーと言う家電は驚くほど高額であったりする。たかだかご飯を炊くための機械がなんでそんな金額になるのかという人もいるだろう。ものによって10万円を軽く超える。しかし、これはたかだかご飯を炊く機械ではないのだ。炊飯ジャーと言う家電は、日本人が主食としているご飯を、〝最もおいしい形で提供するための道具〟なのだ。

 それに高いとはいえ、毎日茶碗二杯のご飯を食べる人ならば、年間で約700杯、その炊飯ジャーを7年使いつづければ約5000杯。たとえ10万円の炊飯ジャーだとしても一杯あたりたったの20円だ。もしこれが4人家族の場合、4分の1の5円になる。どんなに格安の大衆食堂でもこんな金額では仕事を請け負ってなどくれない。それをボタンたった一つでおこなってくれるというのだ。だから少しばかり高くても炊飯ジャーにはお金をかけるべき……

 いや、すっかり話がそれた。それほどまでに炊飯ジャーを崇拝しているあたしがなぜ、土鍋でご飯を炊くか、と言うことなのだが、結局のところこれも訓練だからだ。正直言って土鍋でご飯を炊くのは少しばかり難しい。ほんのわずかな火加減で思いもよらぬ失敗をすることだってあるのだ。要するに、この失敗が必要と言える。失敗には必ず何か理由がある。状況を研究し、なぜ失敗したのか、どうすれば失敗しないのかを日々学ぶことで技術は上昇する。それがたったボタン一つで完璧なご飯を炊いてしまえば、そこから学べることはあまりにも少ない。

 ちなみにあたしは土鍋でご飯を炊くとき、ごく少量の塩とサラダ油を加えて炊く。こうすると米が少しだけつやがあり、ご飯の粒が立つ。ご飯同士の粘りが少し和らぐ。もちろんこれは好みの問題もあれば、お米の品種による差異もある。しかしこの方法は炊飯ジャーでも同じように差が出るので、興味がある人は試してもらいたい。

 と、結局再び話がそれているのだ。お米を愛するあまり、つい話がそれてしまう。

 まず、米を研ぐ。大体3回くらい研ぐわけだが、実は最初に加える水を米は一番よく吸い込むので、水にこだわりがある人ははじめの一杯だけでもいい水に変えてみるといいだろう。ただし、水は絶対に軟水に限る。日本の米は軟水で育つので、当然軟水でなければ馴染まない。へんなこだわりでヨーロッパの山奥で取ってきたような硬水を使っても、水道水ほどおいしいご飯が炊けることはない。水は日本の軟水を使い、できるならば米の産地付近の水を使うというのが粋と言うものだろう。3回くらい研いだ水を捨て、そこに塩とサラダ油を加えて軽く混ぜ合わせ、水を入れる。米1合に対して水220ml位がいいと思う。ここに加える水はできるだけ冷たい水が好ましい。これは、一度冷えたデンプンが温度を上昇する際に糖化して、ご飯が甘く炊き上がるからだ。
まず、はじめは高火力で沸騰させる。中火に落として約5分、今度はごくとろ火で5分、最後にもう一度強火にして5分(この時間の調整でおこげの量を自在にやつれる)たったら火を止める。10分むらしてからふたを開け米を底からひっくり返しておく。一見手間がかかっているようで一度馴れてしまうと意外と簡単にできる。

ご飯が炊きあがり、お味噌汁も準備できて、堂嶋さんも帰ってきて食卓の前に座った。ここまで来て初めて親子丼をつくり始める。そうしないと意味がない。

酒とみりんを合わせて火にかけ、沸騰したらひと口大に切った鶏肉を入れる。液体がある程度に詰まったところで醤油とだし、それに一度湯通しをした玉ねぎのスライスを加える。全体に火が通り、ほどよく煮詰まったタイミングで溶き卵を入れる。溶き卵とは言っても、本当に解きほぐしてはいけない菜箸で二、三度かき混ぜるだけにしておいて黄身と白身、それに混ざり合った玉子の三種類が存在するようにする。これを鍋に加え、すぐにその上に刻んだ長葱を加える。煮詰まったなべ底で玉子が加熱され過ぎないように鍋を軽くゆすり、半生状態で仕上げる。卵黄、卵白はそれぞれ加熱によって凝固する温度が違うので半生状態に見える玉子は部分的に固まっていたり、まだ生であったり、その中間であったりする。さまざまな玉子の過熱状態が混ざり合うことで親子丼はシンプルにして無限の可能性を秘めた究極のどんぶりとして仕上がるのだ。ああ、本当ならばこんなに簡単な説明ではほとんど何も伝えきれないことが悔しい。できることなら作り方だけで一冊の本が仕上がってしまうほどに熱く語りたいが、親子丼はスピード勝負である。そんな時間をかけてしまえばすっかり冷めてしまうのだ。それでは玉子の無限の触感が……

と、まあ、あたし完璧な状態で堂嶋さんの前に完璧な親子丼を提供したのだ。

しかし……そこで不運にもアトリエの電話が鳴るのだ。

「あ、先に食べていてください!」とあたしは声をかける。電話にはあたしが対応し、兎にも角にも完璧な状態の親子丼をどうにか堂嶋さんに食べてもらいたかったのだ。

 しかし、なんとまあどういうことなのだろうか。中年のおっさんのくせにやたらと動きの素早い堂嶋さんは素早く席を立ちあがり、あたしよりも先に電話に出てしまう。

 咎めることはできない。ここは堂嶋さんのアトリエだし、その電話はどう考えたって堂嶋さんあての電話なのだ。あたしが出たところですぐに堂嶋さんにとりつがなくてはならいので結果は同じことだろう。

 電話の相手は管理局らしく、どうやら仕事の依頼のようだ。

 ――見習いの指導で大変だろうけど…… と言う声が受話器の向こうから聞こえてくる。

「いえ、実戦を積ませなければ成長しにくいですから、構わず入れてください」

 と、堂嶋さんは対応する。詳しい場所説明やら状況の説明やらで話は長引く。その間、完璧に仕上げられていた親子丼はどんどんと(駄洒落じゃない)冷めていく。卵は余熱で固まりすぎてしまい、ご飯はつゆを吸い過ぎてしまう。料理と言うものは本当においしい期間と言うものは実に短く、大概の料理人は一番おいしい状態で提供できるようにタイミングを計り、時間配分を計算して料理を仕上げる。にもかかわらず、提供されてすぐに食べてもらえないというのは、美味しく食べられる時間を通り過ぎてしまうことで、料理人にとってこれほど悲しいことはない。ツイッタ―だの、インスタなどといいながら写真を撮り続けるばかりで、いっこうに食べてもらえない料理には心底同情してしまう。

 電話を終えた堂嶋さんは「今日の午後のレッスンは中止だ。仕事が入った」と伝えた。

 予定ではゼラチンやカラギナンなどの凝固剤がその種類による性質の違いを座学を踏まえて実践で学ぶということを予定していたが、それはまた繰り越しになった。今回の仕事が終わる、2、3日後になるだろう。

 仕事場は都心から少しばかり離れた郊外のベッドタウンだ。移動には電車を使う。昼食をとった後すぐに出発して面談を行う予定になっている。すぐにでも出発しないと帰りが遅くなってしまいそうだ。堂嶋さんは親子丼をなかばかき込むようにして胃袋に収め、面談の準備に取り掛かった。冷めた親子丼に対する意見は何もない。確かに一言も文句を言わせないことが目標ではあったが、こんなのは違う。


 今回の遺族、瓜生照実(うりゅうてるみ)は現在18歳。3月に高校を卒業したが、進学、就職はせず、自宅で家事手伝いをしている。家事手伝いとはいえ、実際に家事をしている様子はない。要するにニートである。彼の住居は都内の分譲マンション、八年前に献体した父、和幸から相続した物件だ。

 エントランスに警備員の立つそれなりに立派なマンションの入り口で部屋番号803を呼び出し、「先程ご連絡をいたしました人肉調理師の堂嶋です」とインターフォン越しに名乗ると、瓜生氏は何も答えず黙ってエントランスのセキュリティーロックを解除した。エレベーターで八階に上がり、部屋の前のインターフォンを鳴らすとやはり無言でロックは解除され、中からジャージ姿で、ボサボサの髪の若い男性が出てきた。この男が瓜生照実で間違いないのだろう。その男、瓜生さんは挨拶をするあたし達と目を合わせることすらせず、視線を部屋の中へと反らした。

 ――中に入れ。たぶんそういう意味なのだろう。

「失礼します」と言って中に入り、「このたびはご愁傷さまでした。まずは故人にご挨拶を」と申し出たが、「や、別にいーよ。そういうの。ここにいるわけでもないから」と冷たくあしらわれた。「それよりさ、さっさと決めて帰ってくんない? 俺だって忙しいんだから」

 と、無機質な反応。あまり歓迎されている様子ではない。

 立派なマンションであるにもかかわらず、室内は随分と散らかっている。しかしゴミ屋敷と言うほどではない。おそらく故人、瓜生照実の母、瓜生亜由美が生きていた三日前までは彼女が家の掃除をしていたのだろう。おそらくそれ以後、整理整頓される様子もなく散らかしほうだいにされている。と言う感じだ。四人掛けのダイニングテーブルの一角に瓜生さんがまず座り、その向かいの二席にあたし達が腰かける。テーブルの上には食べ散らかした後のコンビニの弁当のパックのごみやら、空のペットボトル、スナック菓子の袋が散乱している。瓜生さんの座っている椅子の正面だけいくらか物が乗っていないスペースがあるくらい。おそらくはいつもその場所に座ってコンビニで買ってきたものを食べて過ごしているのだろう。テーブルの下にもゴミがいくつか散乱し始めている。このまま放っておけば近い将来ゴミ屋敷になるのは必然だ。

「では、手短にお伺いします」

堂嶋さんはやや控えめに、落ち着いた口調で話し始める。

「まず、瓜生さんの食べ物に好き嫌いはありますか」

「いや、べつにないね。なんだって食うよ」

「そうですか。では、瓜生さんと故人との間にあった、なにか思い出深い出来事などはありますか?」

「ふっ」と、瓜生さんは小さく鼻で笑った。「ねえよそんなもん。大体さ、あいつとは別に親子でも何でもねーんだしさ。思い出なんて聞かれても困るって。所詮親父の金目当てで結婚しただけの女でさ、よーするに遺産受け取った後、仕方なしに子供の俺の身の回りの世話してただけのカンケーだよ。だからさ、別に思い入れなんてねーの。任せるよあんたにさ。あんたプロだろ。なんかうまいもん食わせてよ。それでいーわ。じゃあ、そーいうことで、もう帰ってもらっていーかな?」

「かしこまりました。では、すべてこちらにお任せするということで?」

「ああ、それでいーよ。全部任せるわ」

 あまりにも短すぎる面談だったが、本人にこだわりもなく、すべて任せるというのならば仕方ない。あたしたちは席を立ちあがり、その場を立ち去ることにした。

「それでは食事は明日の夜20時と言うことでよろしいですか?」

「ああ、わかった」

「それでは明日、仕込みもあるため、夕方17時くらいにお伺いします。台所を使わせていただくようになりますがかまいませんか?」

「ああ、いーよ。好きに使ってくれ」

「かしこまりました。それでは本日はこれで」

 そう言ってふりかえり、あたし達が瓜生さんの家を出ようとした時、「あ、ちょっとまって」瓜生さんがあたし達を呼び止めた。

「これってさ、何食べてもタダなんだよね」

「はい。これは献体いただいた遺族の方に対する〝恩赦〟ですので、御代をいただくことはございません」

「だったらさ、せっかくなんで、とびきり贅沢なものを食わせてよ」

 
 マンションを後にしたあたしたちは予定よりもずいぶん早くに終わってしまった面談に少しばかり時間をもてあましてしまった。すべて任せると言われても何をすればいいのかもわからないあたしたちはとりあえず近くの喫茶店に入り、そこで明日の料理を相談することになった。

 改めて監理局から送られてきた資料に目を通して、瓜生さんと故人について調べてみる。
 
 今回のゲスト、瓜生照実は18歳のニート。父、瓜生和幸は生前小さいながらもイタリア雑貨の輸入、販売を行う会社、アルジェを立ち上げ、わずかばかりの財を成した。その頃に知美と言う女性と一度目の結婚をして、瓜生照実を出産した。その時点で10年後、両親のどちらかが食料として献体されることになるのだが、その時点で両親の間でどちらが献体になるかは決められていなかった。しかし、照実が生まれて間もないころ、母知美は突然姿をくらませた。近年、こういった出来事は特に珍しいことではない。子供が欲しいと言って出産こそしたものの、自分が献体になることが怖くなって姿を消す者は特に珍しいことではない。両親のうち片方がいなくなった場合、必然的のもう片方が献体になることは言うまでもない。つまり、瓜生家の場合、こういったいきさつで必然的に父、和幸が献体となった。今から八年前、照実が10歳の時の出来事である。

 しかし、父、和幸は再婚をしていた。もしかすると自分が献体の後、10歳で孤児となる息子のことを気遣ってのことなのかもしれない。その時の再婚相手、亜由美が今回の故人である。照実が8歳、再婚相手のその時亜由美はまだ若干19歳だった。当時夜の仕事をしていた亜由美は自身が働くそのお店で瓜生和幸と出会い、二人はたちまち恋に落ち結婚したという。添付された資料を見る限りでも、この亜由美と言う女性はとても美しい女性だ。

 しかし結婚生活は短く、二年後には父和幸は献体となり食料となった。生前に会社は売却されており、そのわずかな遺産で血の繋がっていない母子、照実と亜由美は二人で暮らすこととなった。しかし、それもつかの間、いつまでも続くわけのないわずかばかりの遺産に不安を抱いていた亜由美は知識がないにもかかわらず、いわれるがままに資産運用を試みてその大半を失ってしまった。貧しい生活を余儀なくされた母子が再びまっとうな生活をするために、亜由美は再び仕事をするよりほかに道はなかった。とはいえ、他にこれと言った特技のなかった亜由美が仕事として選んだ仕事はやはり以前と同じ夜の仕事だった。
亜由美は財産を失ったことに対し、自分の責任だと感じており、夜通し働きその生活を支えた。必然、まだ幼かった照実は日中ひとりで過ごし、義理の母亜由美と顔を合わせることができるのは、亜由美が仕事から帰宅した朝の時間だけだった。
そんな生活が約八年間続き、息子照実が高校を卒業したのがつい先日のこと。しかし照実はは進学もしなければ就職さえまったくする気配を見せなかった。そんな矢先、突然母、亜由美は自らを献体すると当局に連絡を入れてきた。

 ――人間の肉は高額で取引される。

 母、亜由美の献体のおかげで、息子照実にはまだしばらくの間仕事をせずに暮らしていけるだけの恩賞金が与えられるようになる。
 おおよそこれが、管理局からの資料から読み取った瓜生家のいきさつだ。

「こ、これってあまりにも……」

 それから先の言葉は、口にするとあまりにも残酷なことのように思え、言葉にして発することはできなかった。これではまるで、遺産を失ってしまったお詫びに、義理の息子が楽をして過ごすお金をつくために自分の体で弁償したみたいではないか。にもかかわらず、あの照実と言う息子の態度は一体なんだというのだ。血もつながっていない母親がその身を犠牲にしているにもかかわらず、まるで感謝している様子もない。それを考えると、あの照実と言う子に対し、腹が立って仕方がない。

「ところで堂嶋さんは、どんな料理を作るのか考えはあるんですか」

「さすがにね、ただ贅沢なものが食べたいと言うだけだし、この資料を読んだくらいでは何がいいのか判断しかねるね。香里奈君ならどんな料理を作る?」

「そうですね。あたしなら、骨付きのすね肉を赤ワインで煮込んだ料理にするかもですね」

「ほう、それはまたどうして?」

「すね肉って、ナイフとフォークだとどうしても食べにくいじゃないですか。だからどうしてもその肉にかじりつくようになるでしょ? すねを齧って生きていくあの子にはお似合いじゃないかしら。それに煮込み料理なら骨の髄までエキスとして出てくるから、まさに骨の髄まで絞りつくすと言った感じです」

「なるほど。確かにわからないでもないかな。ところで牧瀬君、もしかして随分腹を立てている?」

「もしかしなくても腹を立てています」

「まあ、気持ちがわからなくもないが、単純に判断するのはどうかと思う。もう少し、いろいろ調べてから料理を決めた方がいいと思う」

「調べてからと言われても……本人が何も言おうとしないので、この資料から推測するしかありませんよ」

「まあ、どうせまだ時間はあるんだ。ちょっと寄ってみようじゃないか」

 堂嶋さんはそう言って席を立った。いったいどこへ寄ろうというのだろうか。

 しばらく道を歩いて路地の裏通りに入り、あまり雰囲気のいい場所とは言えない道を歩く。やがてたどり着いたのは艶やかなネオンがしつこく彩るうす汚れた雑居ビルの前だった。

「ちょっとここに寄って行こう」

「え、な、何を考えているんですか、こんなところに……」

 と言いかけたところで、堂嶋さんは管理局から受け取った資料を片手に握ってそれをあたしに向けた。

「故人、亜由美さんが働いていた店だ。ここで少し話を聞いて行こう」 

 その言葉を聞いて少しだけ安心した。今回の故人、瓜生亜由美さんは雑居ビルの二階、〝チェネレントラ〟と言うお店でフロアーレディーとして働いていたという情報が管理局の資料には書かれている。ちなみに〝チェネレントラ〟とは、あの意地の悪い継母で有名な〝シンデレラ〟をモチーフにしたオペラのタイトルだということを堂嶋さんが教えてくれた。同じ継母でも亜由美さんとは大違いだと思い、なんだか皮肉めいたものを感じる。

 店内は薄暗く、まだ時間も早いということもあり閑散としていた。お客さんはどうやらあたしたちだけみたいである。ベロア生地のソファーの席に通され、暇を持て余したフロアースタッフたちがその席に押し寄せる。その数四人。たったふたりの客にスタッフが四人とは、明らかにサービスの過剰供給だとも思ったが、ふと思い至ってはっとした。そういえば今回の仕事だってそうだ。たった一人
の食事にあたし達二人がかりだ(とはいってもあたしは単なる見習いなのだが)。

 ソファーにははじめあたしと堂嶋さんは二人並んで座っていたが、フロアーレディーはその間を割って二人も入り込んでくる。なんてぶしつけなのだろう。

「今日はご夫婦でお越しなんですか」

 と言うスタッフの言葉に、どうしてこれだけ年が離れているのに夫婦に見えるのだろうと不思議に思うが、そういえば亜由美さんも旦那さんとはずいぶん年が離れていたのだと思いだす。この業界では歳の離れた夫婦はあたりまえなのだろうか。

「ははは、彼女は妻でも何でもないよ」

 と言う堂嶋さんの言葉には少しイラッとする。確かに夫婦ではないが、〝なんでもない〟関係と言うわけではないだろう。しかもなんだかすごくへらへらとしている。いつもは朴訥な堂嶋さんだが、どうにも妙にご機嫌で浮足立っている。なんだかとっても腹が立つ。そもそも仕事でここに来ているのではなかっただろうか。

「あの、あたしたち、今日は別に遊びに来たというわけではないんです!」

 少しだけ語気を強めて言った。

「え、なんだかこの子こわーい。もしかしてちょっと嫉妬してるのかな?」

「ははは、そんなんじゃないよ。別に彼女はなんでもないんだから。香里奈君。まあ、そんなに固くならなくてもいいよ。今日やらなければならない仕事はとりあえず終わったんだ。今日は電車で移動しているから気にすることもない。君も一杯飲めよ」

 そう言いながらグラスを差し出す堂嶋さん。二度目の〝なんでもない〟にさらに腹が立つ。

「ところで堂嶋さん」と、間にふたりいるフロアーレディーを押しのけ、堂嶋さんの耳元に近づいてささやきかける。「まさかこれ、経費じゃないですよね」

 睨み付けるあたしに堂嶋さんは少したじろいだ。

「さすがにそういうわけにはいかないよ。まあ、お金は僕が出すんだから君も気にしないで少し飲みなよ。ここはいったん仕事のことは忘れて……」

 ――仕事のことは忘れて……

 どうやらすっかりこの人は仕事をするつもりがないらしい。ただ単に遊びたいだけなのだ。大体この人は結婚をしているのではなかっただろうか。それなのにこんなとこでお酒を飲みながらデレデレしているのは浮気ではないのか? まったく。所詮男と言う生き物はろくでもないやつばかりだ。

それに、これが仕事ではないというのならばあたしがここにいる必要だってないのではないか?

「あの……堂嶋さん? 仕事じゃないならあたし、もう帰ってもいいですか?」

「あ? ああ、それはもちろんかまわないよ。明日の朝のことはまたあとでメールしておくよ」

 顔がにやけている。むしろあたしはここにいない方が都合がいいみたいだ。

「じゃあ、おつかれさまです」

 つっけんどんないいぐさでその言葉を残して立ち去った。

 その後、明日の朝8時にアトリエに出勤するようにとの連絡があったのは深夜の2時を過ぎた頃だった。まさかこんな時間まで遊びほうけていたのではあるまいか? そう思うと今日、何度目かもわからい虫唾が走り、なかなか落ち着いて眠りにつくことができなかったが、布団をかぶって無理矢理に寝た。

おかげで次の日の朝も気分はやはり乗らなかった。
朝の8時少し前にアトリエに到着した時、堂嶋さんはすでに準備に取り掛かっていた。昨日遅くまで起きていたことは間違いないだろうがあまり疲れのたまっている様子もなく、いつもの通りケロッとしていた。年寄りは朝が早いのだ。

カウンターの上には管理局から届いた例の発泡スチロールが置かれている。前回、アベルさんの右手の時よりも一まわり小さい箱だ。そういえば昨日は頭にきてメニューの相談を何もしないで帰ってしまった。堂嶋さんはあれから一人の今日のメニューを決めたのだろう。少しだけ申し訳ないことをしたと反省した。

「あの……堂嶋さん、昨日はその……すいませんでした」

「ん? いや、別に謝る必要は何もない。必要な仕事はもうあれで終っていたからね。後の仕事は、まあ、何というかオプションだ。僕の単なるおせっかいのためだよ」

 スナックで女の子とお酒を飲むのがオプション……と、そんなことは思っても口には出さない。

「それで……料理は決まったんですか」

「ああ、決まったよ」

「これ……ですね?」

 と、言いながら監理局から届いた発泡スチロールを手に取る。

「中、見てもいいですか?」

「もちろん」

 前回以上に厳重に保冷材に包まれた中に、とても小さな何かが包装紙にくるまれている。その包装紙をはがすと中から何やら白っぽい、内臓のようなものの一部が出てきた。それはとても小さくカットされたものだ。大きさは大体一辺10cm位の三角形をした、厚さ1cmほどの物体が2枚。

「あの……これは……」

「フォアグラだよ」

「フォアグラ?」

「そう、亜由美さんのフォアグラ。今回の料理は牛フィレ肉とフォアグラのロッシーニ風をつくる」

 ロッシーニ風…… 牛フィレ肉のステーキにフォアグラのソテーを添えてトリュフの香りの赤ワインソースで仕上げる。確かに、瓜生さんの言っていた「とびきり贅沢な料理」と言う点において申し分がないだろう。

「それにしても…… 亜由美さんのフォアグラって…… 人間のフォアグラって存在したんですか? フランスなんかでも、フォアグラを持つガチョウの飼育方法が残酷すぎるとか言って動物愛護団体とか騒ぎ立てたことがあったみたいですけど……」

「まあ、動物愛護団体なんてものはなんにでもクレームをつけなくちゃ納得できない人たちの集団だからね。文化も、知識も、道徳だってろくに持ち合わせていない人間じゃなきゃ勤まらないのさ。
それはともかくとして、フォアグラっていうのはいわゆる脂肪肝のことだ。あんまり運動もせずに、コレステロール値の高いものを食べ続けると肝臓の細胞に脂肪分が蓄積していく。そしてやがて肝臓がまったくもって脂肪の塊になった状態が脂肪奸だ。寿命の短いガチョウがこの状態になるにはかなり食に恵まれた生活でなきゃこうはならない。しかし、人間となればどうだろう? 現代文明の中ではそれほど運動する必要なんてないし、食には恵まれた生活をしている。寿命だって長いから肝臓に脂肪だって蓄積しやすいだろう。
実は人間の肝臓は結構な割合でフォアグラ化しているものなんだよ」

「そ、そうなんですか……」と、言いながら、自分のお腹の真ん中あたりをさすってみる。確かにあたしはあんまり運動をしているとは言えない。それに職業柄、随分と恵まれた食生活だってしているだろう。しかし……

「で、でも、脂肪奸って結構肥満体の人がなるイメージなんですけど、亜由美さんって、データを見る限りじゃあそんなに太っている様子でもないみたいですし、歳だって結構若いです。普通に考えて彼女が脂肪肝だなんて考えにくいですよ。それなのに管理局に〝肝臓〟を注文したところで、それでフォアグラが来るなんてあまりにも都合が良すぎると思うんですが……」

「うん、まあね。それに関してはもちろんそれなりの自信があったんだよ。昨日あのスナックに行って、話を聞く限り。僕は亜由美さ
んが脂肪肝だったということにかなりの確信が持てたんだ」

「病院にでも、通ってたんですか?」

「いや、そういうわけじゃないよ。たぶん本人だってあんなになっているなんて思ってもいなかったんじゃないのかな。ただ、亜由美さんんは夜の仕事をしていたし、それなりの人気があったわけだ」

「お店の人気ナンバーワンだって言ってましたね」

「ああ、それなりにたくさんお酒も飲んでいた。それなのに彼女はとてもスリムな体型を維持していたんだ」

「見えないところで、だいぶ苦労していたんじゃないでしょうか?」

「そうなんだよ。ただでさえお酒の飲み過ぎは肝臓の機能を低下させる。ただでさえ太りやすくなるのは必然だ。彼女はそれを補うためにかなりの強引な食事制限を繰り返ししていたらしい。それに加え、夜の仕事と言う時間の不規則な生活はどれをとっても脂肪肝の原因となり得る。それに亜由美さんは近年、激しい肩こりに悩まされていたという。僕はこの話を聞いて、亜由美さんは脂肪肝に違いない確信したんだ」

「うーん、なるほど。確かに堂嶋さんは昨夜、一応仕事もしていたんですね」

「一応とは失礼だな。僕はちゃんと仕事をしていたんだよ」

「ふーん、そうなんですねー」あたしはジト目で堂嶋さんを見る。「でも、堂嶋さんも少しはお酒を控えた方がいいかもしれませんよ。贅沢な食生活、運動不足、昨日晩だってあまり規則正しい生活とは言いにくいみたいですから。それに、もう若くもないです。そろそろいろんな生活習慣病が厄介になってくる頃ですよ。あたしはそろそろフォアグラ化がだいぶ進行しているんじゃないかとみています」

「ははは、そりゃあ参ったなあ。まあでも、それはそれでいいことじゃないか。食べてもらう時、どうせなら美味しいフォアグラになっていた方が親切と言うものだ」

「肉は……あまりおいしそうではなさそうですもんね、堂嶋さんは」

「ははは、まいったなあ」
 
 メニューも決まったことで、気持ちを引き締めて仕事に取り掛かる。あたしが担当するのはパン、サラダ、スープ、それに付け合せだ。ロッシーニの付け合せと言えば何と言ってもマッシュポテトだ。コックによっては焼いた牛フィレ肉の上にマッシュポテトをこんもりと盛り付けて、その上にフォアグラのソテーを乗せると言う人も少なくない。それほどまでにマッシュポテトとロッシーニの組み合わせは相性が良いのだ。

 マッシュポテトはまず、じゃがいもの皮をむき、薄くスライスをする。塩を加えた水で身が崩れ始める直前まで茹で、ざるに開けて水を切る。鍋に牛乳、生クリームと茹でたじゃがいもを加えて、ナツメッグをすりおろす。火にかけて沸騰させ、軽く水分を飛ばしてから、ムーランか裏ごしをしてもう一度火にかける……と言うのが一般的ではあるが。今日は裏ごしをせず、そのまま鍋の沸騰させ、それを泡立てで強引に砕くように混ぜ合わせていく。裏ごしをすれば口当たりが滑らかで、まるでソースのようなマッシュポテトができるが、この方法だとキメが粗く、ゴロゴロとした口当たりになる。ソースとしてなじみにくくはあるが、食べ応えのある付け合せになる。

パンはロッシーニの味を邪魔しないようにシンプルなバゲットを焼く。そしてロッシーニは高カロリー、高脂肪な料理なので、スープはきのこのポタージュにする。きのこ類に含まれる多糖類の一種、きのこキトサンは脂肪分解酵素リパーゼの働きを抑制し、脂肪燃焼を促進させる働きも期待できる。

玉ねぎとシメジ、シイタケ、マッシュルームなどを炒めてブイヨンを加え、ミキサーで細かく砕いてから裏ごしして、牛乳を加え、塩こしょうで味を調える。粗挽きの黒胡椒を仕上げに加えるとアクセントに良い。

サラダは通常のグリーンサラダに入り大豆、りんご、くるみを加えてあえる。どれも脂肪の吸着を抑制する効果が期待できる。
それらひととおりをあたしが準備しているあいだに堂嶋さんは朝から仕込んでいたフォン・ド・ボー(仔牛のだし汁)を八時間かけて完成させ、赤ワインソースのベースを完成させた。

ひととおりの準備を終えたあたしたちはそれらをひとまとめにした大きな荷物を抱え、アトリエを出発した。仕上げは現地に到着してから行う。

途中、ひいきにしている肉屋に寄り、注文をしていた牛フィレ肉を受け取った。とてもおいしそうな肉だった。牛フィレ肉の中でも最も膨らんだ、わずか数人分しか取れない希少部位、シャトーブリアンだ。ほどよくサシが入っており、しっかりとした赤身、脂っこくなくて、歯ごたえも一番やわらかい。西洋料理ではステーキとして供する時、最も好まれる部位だ。さらに今回は、岡山県産の千屋牛を用意した。

移動は電車を使う。首都圏近郊であれば特別に荷物が多いわけではない場合、電車の方が移動が早い。時間は昼過ぎということもあり車内は空いていた。時間の節約もあり、昼食は車内で済ませる。駅の売店で買ったサンドイッチだ。玉子のサラダとハムときゅうりチーズのサンドイッチがセットになったもの。あまりおいしいとは言い難いがそれも仕方がない。今回の食事は生きるためのエネルギー補給として食べる。すべての食事が幸福をもたらすための嗜好品とは限らない。あまりうまいとは言えないサンドイッチをほおばりながら、今からつくるであろう料理に想いを馳せる。それだけで自然と口には唾液がたまり、サンドイッチがいくぶんうまく感じることができる。

なにせ最高級クラスのステーキだ。不味いはずがない。最近では日本にとどまらず、世界中のトップクラスのレストランでも、メイン料理はwagyuの料理が人気だと聞いている。日本人としてはそのことを少しばかり誇らしく思っているあたしは、電車の中で黙ってサンドイッチを食べている堂嶋さんにそれとなく言ってみた。

すると堂嶋さんは少しだけ表情を曇らせ、サンドイッチを食べる手を止めた。

「そうだな。せっかくだから中止になった座学の代わりに牛肉について少しだけ語っておこう」

と、さっきまで無言だった堂嶋さんは今日も饒舌モードに突入する。

「まず、香里奈君がさっき言った、世界のレストランでwagyuが人気だと言ったこと、それについては間違いではない。だがしかし、その〝wagyu〟が、日本で言う〝和牛〟と同じものとは限らないんだ」

「どういうことですか?」

「日本で言う和牛とは、〝国産牛〟の中でも黒毛和牛を代表とした日本古来からの食用牛肉の四種、あるいはその四種どうしの掛け合
わせの、純血な和牛のことを指す。それに対し、海外で人気を博している〝wagyu〟とは、日本古来からの和牛に血統を由来する牛。という解釈になる」

「和牛に血統を由来する牛? それだと、日本の和牛と何が違うんですか?」

「つまり、〝その牛の先祖に日本の和牛が存在する〟と言うことだ。かつて研究のため渡米した日本の和牛とその精子をアメリカのアンガスビーフと掛け合わせて生まれたアメリカ産wagyuをはじめ、オーストラリア産のwagyuと言うのもたくさん存在する。海外のレストランの多くで用いられているwagyuと言うのはこういった品種で、われわれ日本人が考えている和牛とは少し違う。もちろん、これらのwagyuがそれなりに美味いことは言うまでもないが、やはり国産の和牛と比べると少しばかり品質は落ちる」

「で、でもなんでそんなことになるんですか? だってwagyuって、日本の牛、と言う意味でしょ?」

「それを知っているのは日本人ぐらいさ。もちろん海外でも日本語を勉強したことがあるならば〝和〟と言う漢字が日本を意味する言葉だということは知っている。しかし、アルファベット表示した〝wagyu〟が、日本の牛だという意味とまでは思わない。現に世界の一般的なイメージでは、wagyuは、オーストラリアの牛肉だと思っている人が大半だ」

「それって、日本的にはまずくないですか?」

「もちろん、好ましい状況とは言えないな。そこで日本政府は海外に輸出する国産和牛に日本の国旗マークを入れ、〝japanease wagyu〟と表示するようになった。このことで、いざ食べ比べてもらえば日本の和牛がいかにおいしいものかをアピールできるようになった。しかし、それと同時に〝wagyu〟が、日本に由来する牛肉だということを認識してもらうことは絶望的になった。なにせ〝japanease wagyu〟だ。普通に考えれば完全に意味が重複している」

「うーん、難しい問題ですね」

「そうだな。なにせ商品名としての表記はあまりにもややこしすぎて、表記を見たからと言ってその実態を判断するのは難しい。
ところで牧瀬君、さっき言ったように和牛が日本古来の牛の品種だということは理解していると思うが、〝国産牛〟とはいったいなんなのかわかるかい?」

「え……それは……要するに、日本の牛肉で、和牛ではない品種の肉、と言うことですよね?」

「でも、それもそうとは限らないんだ」

「え? だって国産牛ですよね?」

「〝国産牛〟と言うのは日本で一番長く育ち、日本国内で精肉された牛肉のことだ。つまり、オーストラリアで生まれ、生後半年でアメリカに渡り一年をすごし、そのあとで日本で二年間飼育された牛肉は精肉されると〝国産牛〟と言う表記になる」

「え……でも、それじゃあ……」

「法律がそうなっているのだから仕方がない。もちろん、多くの肉屋で売られている国産牛のほとんどが純粋に日本生まれ日本育ちの牛肉だが、もちろん例外もある。ただ、それを区別して表記する必要もまたないということだけだ。さらに言えば交雑和牛と言った牛肉まで存在する。これは成長は遅いが味の良い和牛の良さと、成長の速い他の牛肉を掛け合わせることで、それなりにおいしくて成長の早い牛肉が生まれる。実際、育成方法こそ違うが、この品種が外国産和牛に一番近い品種だと考えてもいいかもしれない」

「うーん、もう何が何だか……」

「まあ、結局のところ、食べて美味ければ何でもいいわけだが……調理法云々でその差をある程度縮めることはできるだろう。たとえば今回のロッシーニ風、これはステーキの上にフォアグラと言う脂肪が乗るわけで、実際にはそれほど脂ののった和牛を使う必要性はあまりない。もっとサシの少ない牛フィレ肉を使っても、牛フィレ肉自体とてもやわらかい肉だし、フォアグラを乗せるならば脂肪分だって補える。むしろ和牛の方がロッシーニには向いていないと考えることだってできるだろう」

「でも、それなのに何で今回は和牛の、しかも千屋牛なんてすごい肉を使うんですか?」

「だってそれは、〝とびきり贅沢な料理〟と言う注文だからね」

「でも……それだけではないですよね。こんなことを言うのは生意気なんですけど、あたし、だんだん堂嶋さんの料理がわかってきたような気がするんです」

「そうか……まあ、そういうことならもう少し突っ込んで言っておこう。千屋牛は岡山県新見市で生産されるブランド牛で、日本最古の蔓牛と言われる竹の谷蔓の子孫で、最も歴史のある品種だ。しかし、千屋牛は元来小型で小産な牛だから、せっかくのその品種を広く伝えることは難しかった。しかし、太田辰五郎という農夫があえてこれに質の良い但馬牛を交配させた。当時としては画期的な手法ではあったが、それは同時に伝統的な千屋牛に傷をつけたともいえる。しかし、その後の手厚い飼育の成果もあり、その子孫は見事に繁栄し、美食家で有名な北大路魯山人も絶賛する牛肉となった」

「あ、なるほど、そういうことですね。つまり千屋牛はその血統だけがすべてではないと」

「そう言うことだ。千屋牛を仕上げたのはその血統だけに頼るものではなく、それを育成した酪農家がいて初めて出来上がったものだということだ」

「瓜生照実は血の繋がっていない母、亜由美さんがいてこその存在。その事を料理で伝えようというわけですね。それにロッシーニ風はその料理自体が見事な〝他人丼〟であるということ」

「まあ、だいたいそういうことだ」

「そう言えば魯山人って、本当は陶芸家なんですよね?」

「ああ、だけど世間的には美食家としての方が有名なのかもしれないな」

「なんだかロッシーニみたいですね」

「そうだな。やはり芸術と料理はどこかで通じるものがあるのだろう。ピカソだって随分と美食家だったそうだ。洋菓子のエクレアはピカソのために作られたと言われている」

「芸術かあ…… あたしはそういうの、ぜんぜんわからないんですよね」

「無理にわかる必要もないさ。美術館にでもいって、ただ何となく何かを感じさえすればいい。それだけできっと何か得られるものもあるかもしれない」

「でも、行ったことないんでなんだか不安なんですよね。堂嶋さん、もしよかったら今度あたしを美術館に連れて行ってくれませんか?」

「え……ぼ、僕が……」

「いけませんか?」

「い、いや……だめではないけれど……」

 そして煮え切らない堂嶋さんはそれっきり朴訥モードへと突入した。電車の窓の外の、別に面白くもなんともない街の景色を眺めながらボーっとしていた。町並みは、無慈悲な速度で通り過ぎていく。


 瓜生家に到着したのは予定の時間の夕方五時の少し前、相変わらず無愛想な態度で家の中のキッチンに通された。

「瓜生様、本日は急なことではありますが、ゲストがもう一名増えることになりますがかまいませんか?」

 ――もう一名? そんな話は聞いていなかった。〝急なこと〟と言うくらいだから、堂嶋さんだってはじめから聞いていたわけではないのだろうけれど、だとしてそれは一体誰なんだろう? あたしには想像もつかない。

「もう一名? まさか、うちの母親だとかいいだすんじゃないだろうな? だったら断る。あったこともないような人間だ。そんな奴とは一緒に食事をしたいとは思わない」

「はい、瓜生さんの血のつながった母親ではございません。もし、その方が現れたとしても、その方には亜由美さんの体を食べる権利はありません」

「じゃあ、誰なんだ?」

「亜由美さんの親族の方です」

「親族? そんなのがいたのか? 母親は去年亡くなったって聞いていたけど」

「はい。今回のもう一人のゲストは亜由美さんの妹、荘厳美沙(そうげんみさ)さんです」

「荘厳って言ったら、あの人の旧姓だよな。妹が、いたのか……聞いたことなかったな」

「はい。わたしも知りませんでした。昨日、亜由美さんの元職場に行って初めて美沙さんの話を聞きました。調べたところ、たしかに血縁関係があり、今回、この食事に参加する権利があると判断し、本人の意思を確認したところ、ぜひとも参加したいとのことでした」

「ふーん、そうか。まあ、あの人の妹ってんなら仕方ないだろう。別にかまわないさ。どうせタダってことには変わりないんだからさ」

「かしこまりました。では、こちらに来るように連絡を入れておきます」

 それだけの会話を交わしたきり、再び瓜生さんは奥の部屋にこもり、姿を現さなかった。
 それにしても…… 堂嶋さんは昨日の夜、あのスナックではしゃいでいただけかと思っていたが、彼女の遺族を見つけてくるなんて、ちゃんと仕事をしていたんだなと気づいた。少しばかり軽蔑してしまって、その事には謝っておいた方が良いのだろうか……

 それにしても、なぜ亜由美さんの妹は、今回の食事にあらかじめ招待されていなかったのだろうか……

 あたしたちは夕食の準備に取りかかった。食事の予定時間まではあと二時間ほどある。実際、ほとんどの準備はアトリエで用意してきたのでやることと言ってもほとんどない。とりあえずあたしはこのきたない家をかたづける所から始めなくてはならない。果たしてこんなことがコックの仕事なのかと言いたくもなったが、よくよく考えてみれば普通のコックはお客さんが来る前に店の掃除をしているわけで、それを考えれば致し方のないことだとあきらめがつく。さて、堂嶋さんと言えば、まだ食事には時間があるというにもかかわらず、早速オーブンを加熱しはじめ、千屋牛のフィレ肉に塩で下味をつけ始めた。あたしはそっと傍により、何事なのかを訪ねた。

「牛肉のステーキはそろそろ調理を始めた方がいい」

「え……今から焼くんですか?」

「そうだ。牛肉をステーキとして焼くとき、両面を高火力でこんがりと焼く。その事で牛肉特有の香気が上がり、各段にうまくなる。薄切りのステーキであれば直前から焼きはじめてもいいだろう。だけど、今回のような極分厚いステーキの場合、直前になって焼きはじめると、表面を焼いた時点で真ん中はまだまだ生焼けだ。かといって真ん中に火が入るまで焼くと外側は焦げ付いてしまうだろう。ごくまれにステーキは中が生の方がいいと言う人もいるけれど、生の牛肉は理屈的に考えてもうまくもなんともない。牛肉の脂の融点は豚肉の脂よりもはるかに高く、口の中の温度ではうまく溶けない。だからその脂身はある程度の温度以上にしておく必要がある。かといって焼きすぎれば当然固くなり、身も縮んで脂身が流れ出てしまう。

 ステーキの理想的な焼き方と言うのは、表面をしっかり、カリッとなるまで焼き、その内側全体がほどよく熱が入り、全体が赤ではなくロゼ、ピンク色に染まった状態にすることだ。この状態の肉はちゃんとある程度の過熱がされており、口に入れた時にその脂身が一気に口の中で溶けだし、ジューシーでうまい。

この状態をつくるために表面を焼いた後、オーブンで焼いて調整するという方法もあるが、高温のオーブンに入れればやはり外側ばかり火が入りすぎてしまうし、低温のオーブンだとせっかくこんがりと表面を焼いたにもかかわらず、内側からにじんでくる肉汁でカリッと焼けた表面がべたつく」

「え、じゃあどうすれば……」

「ようするに、最後仕上げで両表面をカリッと焼いた時点で、中心部がきれいなピンク色に焼きあがるようにしてやることだ。
 これをするため必要なのは、まず、フライパンで焼きはじめるまでの間に、肉の中心部の温度を調整してやるということだ。
 やや、薄いくらいのステーキならば、冷蔵庫ではなく、あらかじめ常温に置いておくだけでいいだろう。冷蔵庫から出したばかりの肉を焼いたなら、両表面がこんがり焼けた時点で、肉の中心部はようやく生ぬるくなった程度の、いわば生の状態になる。しかし、あらかじめ常温に置いておくことでスタート時点の温度が違うため、両表面を焼きあげた時点で中心部がちょうどロゼで仕上げることができる。

 しかし、今回のように極分厚いステーキではそれでもまだ真ん中は生の状態になるだろう。つまり、あらかじめもっと中心部の温度を上げておく必要がある。

 そこで、ステーキを約一時間前くらいの時間から低温で焼きはじめるという方法だ。オーブンの温度は70℃くらいがいいだろう。フライパンで焼きはじめる時点であらかじめ中心温度が60℃くらいになるのが望ましい。しかし、低温で長時間焼いてしまうため、そのままオーブンに入れてしまうと水分が飛んで乾いてしまう。だから塩で下味をつけた後、あらかじめ同じ牛肉の牛脂を溶かして塗っておくといい。あるいはふたなどをかぶせておいてなるべく水分が飛んでしまわないようにしておくでもいいだろう」

 そうして堂嶋さんは余熱を掛けたオーブンに牛肉を入れた。

 それから約一時間後、牛肉はほどよく温まり、表面が少しだけ小さくなったような印象を受ける。オーブンからは取り出さない。ここで冷めてしまってはまるで意味がなくなってしまう。あくまでフライパンで焼きはじめる直前までそこに入れておく方が望ましい。

 それまでに掃除を終わらせ、テーブルをセッティングしたあたしはサラダとパンとスープとを調理して仕上げの準備を始める。

 インターフォンが鳴り、マンション一階のロビーに到着したもう一人のゲスト、がコールする。

「はじめまして、壮厳美沙と言います。本日、こちらでの食事会に招待され、ただいま到着しました」

 なんとなく言葉を選び、それなりにまとまった言い方をしているが、その声はあまりにもあどけない、まだ幼い少女の声が、玄関先に響く。

 エントランスのドアを開け、指示に従って部屋に到着した少女、壮厳美沙ちゃんはとても可愛らし少女だった。「は、はじめまして!」と先程エントランスのインターフォン越しと同じ挨拶を繰り返す。「そ、荘厳美沙です。あ、亜由美おねいちゃんの……そ、その……妹です!」

「おねいちゃんの妹? 変な日本語だな。そんなに緊張しなくていい」

 瓜生さんは不愛想ながらも美沙ちゃんに優しい声をかける。本人なりには緊張を解こうとしてあげようと思っているのだろう。
こうしてみれば確かに、写真の姉、亜由美さんの面影を感じる。少なくとも、全くの無関係の人物の狂言というわけではないだろう。

「ずいぶん若いな。何歳だ?」

「あ、あの……きゅ、九歳です…… そ、その……おねいちゃんとは年が離れていて……」

「妹がいるなんて聞いたことなかったぞ……」

「は、はい……あたしはずっと……おばあちゃんと一緒に住んでいたので……」

「ふーん、まあ、そういうことなら構わないが…… 俺は瓜生照実、君とは……甥とおばさんの関係になるのか?」

「お、おばっ!」

「ははは、まあ、そんなことを気にするな。たいした問題じゃない」

 その瞬間、初めて瓜生さんが美沙ちゃんに対し、優しい表情を見せた。この人は、こんな表情だってできるのだと改めて知った。もしかするとさっきまでは美沙ちゃんの緊張をほぐそうとしていたのではなく、自分自身の緊張をほぐそうとしていたのかもしれない。あるいはその両方か。

「それでは、ゲストもそろわれたようなので、そろそろ料理の仕上げをしてよろしいですか?」

 堂嶋さんがほほ笑み、料理の最後の仕上げを行う。

 あたしがスープとパンとを温め直し、サラダを盛り付けているあいだに堂嶋さんが料理を仕上げる。煙が上がるほどに熱した鉄のフライパンに牛フィレ肉を並べる。一分もたたない間に裏返す。この時点で片面はうっすらと焦げ色が付き、表面一層だけが固くなり、それ以上、内側からあふれ出ようとする水分を閉じ込める。反対側も一分ほど焼いてお皿へと盛り付ける。肉の中心部はまだ半生だろうが、オーブンの中で70℃くらいにまで温められている肉は、余熱だけできれいに全体をピンク色に焼きあげる。

 続いて亜由美さんのフォアグラだ。フォアグラはほとんど脂肪の塊なので、熱を加えれば液体となって溶けだしていく。つまり、フライパンの上で焼きつづければやがてわずかな絞りかす程度しか残らなくなる。そのため、牛肉とは逆に冷蔵庫で焼く直前まで保存し、塩をして薄く中力粉をまぶしたら、先程と同じく熱したフライパンに油を多めに敷き、両表面だけをカリッとなるようにしっかりと焼く。表面を固めて、余熱で溶けたその内側の脂肪分が出てこれなくするのだ。これは人のフォアグラも鴨のフォアグラも同じだ。

 しっかりと焼いたフォアグラはお皿の上のステーキに乗せ、上から黒胡椒を振りかける。牛肉してもそうだが、焼く前に胡椒を振っても、高温で焼かれるステーキやフォアグラの場合、熱で風味のほとんどが消えてしまうので意味がない。

 そして仕上げにソースをかける。牛肉を焼いたフライパンにマデイラワインを注ぎ、デグラッセ(フライパンの上に残った肉の焦げ付きを液体に溶かす)する。煮詰めたところにフォンドボーとバターを加えて煮詰め、刻んだ黒トリュフを加えて軽く煮詰めてステーキにかける。温めたマッシュポテトを添えて完成だ。

 和牛肉の香ばしいフレーバー、フォアグラのとろけるような香味、それにトリュフのことなった三種の香りがまじりあい、食卓は言葉にできない香りに包まれる。あたたかいうちに召し上がりたいところだ。しかし、堂嶋さんはまだ食事を始めるようには言わない。 

 荷物の中からリーデルのワイングラスを取り出し、瓜生さんの前に置く。赤ワインを取り出しソムリエナイフで抜栓する。瓜生さんの前に置かれたグラスにワインを注ぎながら、堂嶋さんはワインの説明をする。

「こちらのワインはフランス、ブルゴーニュのものです。食事の前にひとつだけ……

 瓜生さん、ワインの接ぎ木についてはご存知ですか?」

「接ぎ木? いや、知らないな。初めて聞く言葉だ」

「はい。接ぎ木と言うのはその名の通り、植物の幹に別の幹をつないでふたつの植物の特性を合わせる栽培のことを言います。
 ブルゴーニュのワインには千年以上もの歴史がありますが、19世紀ごろにアメリカから様々な植物の輸入が始まった際に、一緒にフィロキセラという害虫を輸入してしまいました。フランスのブドウの木はこの害虫に対する抵抗力を持っていなかったため、たちまち絶滅の危機の瀕してしまいます。そんな時にフランスのブドウの木を救ったのはアメリカワインの樹でした。アメリカの樹木は、このフィロキセラと言う植物に対する抵抗力を持っていたので、アメリカのブドウの木の上にフランスワインの気を挿し木することでフランスワインは絶滅の危機を逃れたのです。フランスの伝統ワインは、血統の違うアメリカのブドウの助力の陰で今尚栄光を誇っているのです。これは、素晴らしいことだと思いませんか?」

 ワインを注ぎ終えた堂嶋さんは瓜生さんににこやかにほほ笑んだ。なるほどそういうことか。たとえ根がアメリカのブドウの樹でも、その上に育つ気がフランスの樹なら、出来上がるブドウの品種もフランスのブドウだ。たとえ実母が誰であれ、その先を育てたのが亜由美さんなのであれば、照実さんはやはり亜由美さんの子供だ。今日揃えられた料理もワインもすべて、違う血統同士で助け合ったものだらけと言うわけだ。つまり、血のつながらない母親に育てられた瓜生さんも、亜由美さんのおかげで今があるのだと伝えたいのだろう……


――しかし……

「あの……堂嶋さん? 瓜生さんはまだ未成年ですけど……」

「ん? でも、18歳にはなったんだろう?」

「あの…… もしかしてですけど…… お酒は20歳になってから。ですよ?」

「え……20歳? いつから?」

「えっと…… たぶんずっと前からです」

 ――この人、本気で言っているのだろうか? 堂嶋さんは少し戸惑った様子で手に持ったボトルをながめる。あたしはさらに追い打ちをかける。

「さすがに公務員が未成年にお酒を進めるのはちょっと……」

「そ、そうだな…… しかし……もったいないな。栓を開けてしまった……」

 彼は再びボトルをながめる。あたしはワインのことはあまり詳しくないが、〝ジュヴレ・シャンベルタン〟というラベルの貼られたそのワインはそれなりに高価なものなのかもしれない。

「折角だからそのワインはお二人で飲んでくれればいい。俺たちはまだ未成年なんだから」と、瓜生さん。「よかったら一緒に座って食事に参加してくれないかな」

「し、しかし、私たちは……」

「それはないだろ? 俺と美沙ちゃんは初対面なんだし、何を話しをしていいかもわからない。こんなところに連れてきた責任を取って食事に参加してくださいよ。
それに……早く食事を始めよう。彼女の熱が……冷める前に……」

 それもそうだと、すぐさま食事を開始した。瓜生さんと美沙ちゃんが並んで座り、その向かいにあたしと堂嶋さんが座る。あたし達のグラスに赤ワインが注がれ、瓜生さんたちのペリエと乾杯をする。

 あたしはその赤ワインに口をつける。香りもさることながら、その味わいはピノノワールとは思えないほどに力強い。一口飲んだだけで鼻から奥の方へと抜ける香りがいつまでも続く。

 その向かいで、瓜生さんがロッシーニにナイフを入れる。フォアグラと牛フィレ肉とをまとめて一口大にカットして、二つを重ねたまま口へとほうりこむ。

 瓜生さんは目を瞑り、決して固いはずのないそれを何度も何度も口の中でかみしめていた。『親子でもなんでもない。関係ない』と言っていた彼とは思えない味わい方だ。それほどまでにその料理は美味いのか? いや、そういうことなんかではない。人肉料理は舌ではなく、心で味わう料理だ。

 口の中で咀嚼を終えた瓜生さんはいつまでたっても目を開かないのが、その目に涙をため込んでいるからだと気づくまで少しの時間がかかった。涙が零れ落ちるから、目が開けられないのだ。しかし、そんな彼の我慢もむなしく、隣で食事をする美沙ちゃんがすっかり涙ぐむ。

「こ、これで、お、お、お姉ちゃんと会えないからってさみしがらなくていいんだよね。お姉ちゃんはこれから先、ずっとアタシと一緒にいるんだから……」

 美沙ちゃんの目から大粒の涙が零れ落ち、ステーキのソースに想定していなかった塩味がたされる。我慢が出来なくなったとなりの男の頬にも一筋の涙がつたう。

 これは一体どういうことなのだ? 今まで思ってきたイメージとずいぶん違う。
 しばらくして気を取り直した瓜生さんは一心不乱に料理をむさぼるようにして平らげた。

 食事が終わり、ナイフとフォークとを置いた瓜生さんは静かに言った。

「ごちそうさまでした」

 用意していたナプキンで口を拭う。

「お役に立てれば幸いです」

 堂嶋さんの言葉に一度肯き、瓜生さんは言葉を続ける。

「見事なハーモニーですね。俺は料理のことはよくわからないけれど、あんたの伝えたいことは理解できたよ……いや、そんなことは初めからわかっていたんだよな…… あの人が俺の本当の意味での母親であるってことだって理解してた。でも、俺はだからこそ、そのことを否定したかったんだ…… なあ、堂嶋さん。アンタ、俺の気持ちに気付いてたんだろ?」

「……」堂嶋さんは何も言わない。

「まあ、いいさ。俺は美沙ちゃんに会ってすべてわかったよ」そう言って隣に座る幼い少女を見つめる。美沙ちゃんもその相手を見つめかえす。

「俺はさ、てっきりあの人が俺を残して自ら自殺したんだと思っていたんだよ。だから彼女が許せなかった。親父のことしか見ていなかったのかよって腹が立ったんだ。
でも、そうじゃなかったんだな。彼女はどのみち死ななきゃならない存在だった。だからその時が来る前に先に自分から死ぬことを選んだんだ……
なあ、そうだろ? 堂嶋さん?」

「……」

「これだけは教えてくれよ。美沙ちゃんは……彼女の産んだ娘なんだろう?」

 その言葉を聞いて、堂嶋さんは一度美沙ちゃんの方を見た。目を向けられた美沙ちゃんは気まずそうに視線を足元に落とした。

 少しの沈黙が続き、堂嶋さんが「そうです」と答えた。

「彼女、荘厳美沙は確かに亜由美さんの血のつながった娘です。おっしゃる通り、来月彼女が十歳になれば必然的に亜由美さんは当局が引き取り、食料献体することになっていました。ですのでそうなる前に、自ら献体を希望して出頭したのです。そうすることによって亜由美さんは美沙ちゃんと言う娘がいることをあなたに知られないようにしたのでしょう。今回私は美沙ちゃんと言う実の娘がいるということを聞き、おせっかいかとは思いましたが彼女と口裏を合わせ、亜由美さんの妹、ということでここにお連れしました」

 その言葉を聞き、瓜生さんは大きくため息をついた。ボサボサの髪をひっかきながらも、その言葉に納得したようだ。

「そう……だから彼女はこの家にいなかったんだよ。朝のうちにオレの身の回りの準備だけを済ませると、どこへともなく姿を消した。せっかく俺が高校を卒業して、ずっと家にいれば彼女と一緒に過ごす時間が増えると思っていたのに、彼女はやることだけをやったらどこかに出かけていた。学生の時は、彼女は昼の間は家にいると勝手に思い込んでいたのに、それはすっかり間違いだった。俺に隠れて娘に会いに行っていたんだ。おかげで彼女は深夜をまわって遅くに家に帰ってきても、俺と一緒に時間を過ごすのは朝の時間しかなかったんだ……」

 愚痴るようにつぶやいた後、申し訳なさそうに義理の兄を見つめる美沙ちゃんの頭を瓜生さんは慌てて撫でる。

「別にお前のことわるいって言ってんじゃないんだよ。ただ、そうならそうと言ってくれればよかったんだよ…… それなら俺だって無駄なことしなくても済んだんだ。高校を卒業して、普通に就職して、お前を家に引き取って一緒に過ごせばよかっただけのことだ」

 ――と、さっきから瓜生さんの言っている言葉にずっと違和感を感じる。
 それでは、それではまるで瓜生さんは…… 亜由美さんのことが、一人の女性として好きだったみたいではないか。そして、そんな彼女と少しでも一緒にいる時間をつくりたくて、彼は普通に就職をしなかったと……

「亜由美さんには、亜由美さんなりの事情もあったのでしょう」堂嶋さんは空になったワイングラスに自分でワインを注ぎ、言葉を続ける。「美沙ちゃんのことは、お父さんの和幸さんも知らなかったようです。美沙ちゃんの父親は誰なのかはっきりしないそうです。ですから、無条件で献体は彼女自身ということに。それでも亜由美さんは美沙ちゃんを産むことを決め、出産の直後に和幸さんと恋に落ちました。二人は結婚することになりましたが、和幸さんにはそのことを告げなかったようです。おそらくそれは、和幸さん自身が献体となりこの世を去ったのち、亜由美さんも数年後にこの世を去らなければならないことを告げることができなかったのでしょう。そうなれば照実さんは再び一人になってしまうから、そのことを和幸さんが気にかけるのではないかと思ったのではないかと思います。
 亜由美さんは実家である荘厳家に美沙ちゃんをあずけ、瓜生家と二重生活を行っていました。しかし、亜由美さんの母親が亡くなり、家には美沙ちゃんひとりが残されることになりました。そして亜由美さんは自分の献体後、美沙ちゃんを孤児院に入れる段取りまですべて完了させてから、当局に献体として出頭しました」

「そうか……まったく。ほんとにダメな女だな、彼女は……」

 あきれる瓜生さんの袖を美沙ちゃんが掴み、涙ながらに訴える。

「お、おかあさんのこと、わるく言わないで…… アタシのたった一人の家族なんだから……」

 しかし、瓜生さんはそんな美沙ちゃんの頭に握りこぶしで軽く拳骨をおとす。

「まったく…… お前も母親に似てバカな子だ…… お前の家族は……かあさんだけじゃないだろ? 俺のことを忘れなよな。俺は……お前の兄貴なんだぜ……」

「ぐすん」と、美沙ちゃんは涙を抑える。

「なあ、堂嶋さん。その孤児院の話はキャンセルできるんだろ?」

「はい。問い合わせてみたところ、何の問題もないようです」

「ふっ……なんだ、俺が何を言い出すのかまでとっくにお見通しか…… まあ、いいさ。これで俺も…… ひとりぼっちにならなくて済む……」

 ――まったく。何たる茶番だ。なにも知らなかったのはあたしだけ…… もう、みんなで勝手にやってろと言いたかったが、やはり堂嶋さん。彼はさらにもう一手考えていた。


「ですが、まだもうひとつ、大きな問題が……」

「な、なにが……」

「彼女を引き取るにもあなたには定職というものがない。ちゃんと収入もないような方が子供を引き取ることは法律で認められません……」

「そ、それを言われるとな……」

「そこで……」と、堂嶋さんはさらに鞄から一枚のチラシを取り出した。カラーで印刷された華やかなチラシだ。どこかのレストランのものらしく、きらびやかな料理やケーキの写真が並んでいる。「こちらのお店で調理師を募集しています。私の知りあいが経営しているお店でとても信頼できるレストランです。どうでしょう? こちらで働いていただけるようなら、美沙ちゃんの身元引き受けの後見人にもなってくれるとのことですが……」

「まったく。あんたという人はどこまで…… まあ、いいさ。どうせ断る理由もない。俺がこうしてニートやる意味さえなくなっちまったんだし、ちゃんと仕事しなくちゃあな。それに、俺もあんたみたいになりたい……そう思ったよ。だから、コックになるというのもアリちゃあ、アリかな……」

「ありがとうございます……」

 と、話は全て一件落着。まるで蚊帳の外だったあたしは最後に捨て台詞……くらいはさせてもらいたかった。

「あ、瓜生さん。ひとつだけいいですか?」

「うん? なに?」

「あたしは瓜生さんよりも年上なわけですし、瓜生さんがコックになるというのならあたしは先輩になるわけです。だから次に会う時は……敬語でお願いしますね」

「……はい。すいません」

 そして一通りの片づけを終えて、あたしたちは玄関先に立つ。堂嶋さんが腰を折り、最後に別れの挨拶をする。

「――それでは、瓜生家にこれから先の、さらなる繁栄があらんことを」


 帰り道の電車の中、あたしと堂嶋さんは並んで座り、空いた電車の中で静かにゆられていた。駅に着くなりちょうど到着した電車に飛び乗り、そういえば昼からろくに食べていなかったことを思いだしたが、今更もう遅い。すきっ腹にワインを流し込んだせいで少しばかり酔いが回り足取りも重く、あたしたちは倒れ込むように座席についたのだ。
窓の外はすっかり暗く、ながめてもあまり景色が見えない。窓に映るのはあたし達の電車の中の風景ばかりだ。窓に映るあたしたちの背景に、色とりどりの街のネオンが映りこむ。

 窓の中のそんなあたしたちの姿を自分で見つめ、この二人の姿は周りから見てはたして恋人同士に見えるのだろうかなんてことを考えてみる。

 ――いや、やっぱりどうにもそうは見えないと結論づいた後、少しだけふたりの間の空間を詰めてみる。
 そんなタイミングで、ぐうぅぅぅぅとお腹が鳴り、頬を赤く染めて隣に座る人の様子を見上げてみる。そんな時に気の利いた言葉の一つでもかけられるような男じゃないことくらい知っている。恥ずかしさを紛らわせるために急いで何か話題を捜す。

「そう言えば堂嶋さん……」せっかくのこんな機会だし、どうしても理解できないことを聞いてみることにした。「なんで亜由美さんはそうまでして、美沙ちゃんのことを隠し続けたんでしょうか? そりゃあたしかに旦那さんに内緒にしていたので、っていうのはわかるんですけど、旦那さんがなくなったのってもう、八年も前のことでしょ。どこかで照実さんに打ち明けてもよさそうなものなのに……」

「どうだろうな…… 僕には女心というものはよくわからない。そこにどういう意味合いがあったのか…… それは香里奈君の方がわかるんじゃないかな」

「うーん……女心……ですか……」

 ――正直、そうは言われてもあたしは女心だとか、愛だとか恋というものがよくわからない。それはもしかするとあたしに両親がいないということに原因があるのかもしれない。両親の愛を受けて育っていないからそういうことがわからない……のかもしれない。

 瓜生さんは亜由美さんに対して、母親としてではなく、女性としての愛を感じていた。その二つの違いは一体何なのだろう。あたしにはそれがわからない……

 と、そこであたしはふとしたことに気づいてしまう。

「堂嶋さん、よくよく考えてみればこれって、逆親子どんぶりですよね? 瓜生親子は二人して亜由美さんのことを愛していた……」

「そう言えなくもないかな……でも、実はそれだけじゃあない。あのスナックで僕が聞いた限りの話では、どうやら亜由美さんの方も照実さんに対して親子とは別の好意を持っていたらしい。もしかするとそれは成長するにつれて、愛する旦那さんの面影を見出すことに過ぎない代替行為なのかもしれないが、その気持ちが確かに存在し、照実さんとどう接していいのか戸惑っていたという話だ。あるいはその想いがあるからこそ、二人の生活の間に、娘の美沙ちゃんにはいってきてほしくなかったのかもしれない」

「なんですかそれは? それじゃあまるっきり親子どんぶり、ってことじゃないですか……
 あ、もしかして瓜生さんが美沙ちゃんを引き取るなんて言い出したのも、もしかしてまだ幼い美沙ちゃんに亜由美さんの姿を見出していたのかも……親子どんぶりのお替りっていうことですね……」

「あ……お、親子……どんぶり……」

 と、堂嶋さんは何かを思い出したようにつぶやいた。

「なんですか?」

「い、いや、そういえば……言い忘れていたなと思って……
 昨日の親子どんぶりのことなんだけどね」

「あ、は、はい……」

「たとえばもう少し鶏肉を大きく切って、それに切れ目を入れておく。それを軽く煮ることでもう少し触感のメリハリが出せると思う……」

「あ、は、はい……」

「それ以外は……まあ、とても、いい出来だった……と、思う」

「あ、ありがとうございます……」

「そ、それと……」

「ま、まだ何かあるんですか?」

「い、いや、そういうわけではないんだが…… そ、その……悪かったな……せっかくの料理を冷めるまで食べてやれなかったこと……」

「……そんなこと……気にしなくていいですよ……」

「あ、ああ……」

 そして、再び堂嶋さんは朴訥に黙り込んでしまった。揺れる電車の中で、無言のまま時間は過ぎていく。
 すきっ腹に飲んだワインのせいか、少しばかり眠くなってきた。重くなった頭を少し傾けたら、ちょうどそこにいいかんじの枕代わりの何かがあった。こんなことをしたら堂嶋さんは怒るだろうか。まあ、その時はその時で酔ったせいにすればいい。

 目を閉じて、少しだけ夢を見ることにする……