アベルじいさん・右手のポトフ


 もう春だというのに、北陸の風はまだまだとても冷たい。ことのほかこのような山奥ともなると、まだ冬の装いだ。

 アスファルトに舗装されていない山奥の道はところどころに溶け切っていない雪の白さが目立つ。踏みならす土の地面の下にはまだ霜が張っていて、上を歩くとぱりぱりと音が鳴る。林の隙間をぬってやってくる風は容赦なくあたしの頬をかすめ、洗いざらしの肌がつんと突っ張る。

 あたしの初出張だというのにもかかわらず、直属の上司、堂嶋哲郎(どうじまてつろう)はずっと黙ったきりあたしの数歩前をもくもくと歩き続ける。

 もしかして何かに怒っているのだろうか。それとも単にあたしのことがキライなのかもしれない。初めて会って、自己紹介した時も少し不服そうな顔をした。

「まさか学校を出たばかりの素人が来るとは思っていなかったよ」
 
 彼はあたしに向かってそう呟いた。

 それにしても、いくらなんでも素人だなんてとても失礼な言い方だ。これでも通っていた料理学校ではトップの成績で卒業した。だからこそ国家公務員である〝人肉調理師〟の見習いとして就職ができたのだ。

 無論、いまだかつて人肉を調理したことはない。それはとても高価な食材で、学校の授業でおいそれと簡単に扱えるものではないし、それを扱うには特別な資格を取る必要がある。料理学校を卒業してプロの料理人になったところでそれを無許可で扱うことは固く禁じられているのだ。

 つまり、誰だってはじめは素人なのだ。それを懇切丁寧に教えるのが上司の仕事ではないのかと言ってやりたい気持ちもあったが、あたしだってそれを言うほど馬鹿じゃない。それに、我慢して仕事さえつづければ夢をかなえることができる。それも仕事と言う形でお金を払うどころか給料をもらいながら叶えることができるのだ。


 ――あたしは、人間を食べてみたい。

 人間は、とても高価な食材で一般人の口に入ることはめったにない。人間の死体は政府が高額で引き取り、極一部の富裕層の間でのみ食される幻の食材だ。

 しかし、それを取り扱うプロの料理人、〝人肉調理師〟となれば話は別だ。彼らは仕事としてその調理を担当する。当然、そこには味見も含まれる。まるで夢のような仕事だと言えるだろう。

 かつては熟練の調理師が国家試験を受けてようやく就職できる職業だったが、近年人肉調理師の数が不足がちで、一部の調理学校を首席で卒業した生徒には人肉調理師見習の資格が得られるようになった。それは、プロの人肉調理師の助手として仕事をし、指導調理師の許可が得られれば晴れて人肉調理師として独り立ちできるというシステムだ。

 あたしは人肉調理師になりたい一心で日々努力し、ついにその資格を得る一歩手前まで辿りついた。

「これからお世話になります。牧瀬香里奈(まきせかりな)です。よろしくお願いします」

「まさか学校を出たばかりの素人が来るとは思っていなかったよ」

あたしの指導調理師となった堂嶋哲郎はあたしの自己紹介に対し、開口一番そんな冷たい言葉を放った。

堂嶋哲郎はすらっと背が高く、まるで血が通っていないかのように白い肌の無機質な男性だった。目は虚ろで、どこを見ているのかときどきわからない。頬は少しこけていて、髪の毛には少しばかり白いものが混じる。三十代後半だとは聞いているが、四十を少し過ぎたくらいに見えなくもない。初めて出会った時は、人生に達観しているのか、あるいは生きる希望をすでに失っているというような印象を受けた。

三月の後半、インターンとして堂嶋さんに指導を受け、四月に初出勤してからも数日は彼のアトリエで訓練や道具の手入ればかりをする毎日だった。人肉調理師は人材不足だと聞いていたが、それほど毎日が仕事に追われると言う激務と言うわけではなさそうだ。しかし、同時にそれはなかなかすぐには人肉の味見にはたどり着けないということでもあった。

 数日後、彼のアトリエに電話がかかってきた。依頼者からの指名があり、直接現地に向かうことになった。
あたしの、本格的な初出勤である。

 現地は、まだ雪の残る北陸の山奥にある農村の一軒屋だった。身寄りのないあたしは都心の料理学校を卒業後、そのまま都心にある堂嶋さんのアトリエに所属するようになった。しかし、この職業は少しばかり特殊な職業で、指名があれば今日のように遠方へ出向くということも少なくないらしい。わざわざこんな遠方へ呼ばれるくらいだ。それはこの堂嶋と言う料理人がそれなりに知名度があるということなのだろう。

 人肉調理師にも大きく分けて二つある。

 ひとつは国家資格を取り、国家公務員として人肉調理師をこなし、退職した後で人肉レストランを開業している調理師で、言わずもがな人肉は超高級食材、その店の客層ともなれば特別なセレブばかり。いわば人肉調理師の花形ともいえる職業だ。
そしてもう一つの調理師とは、その名の通り国家公務員としての人肉調理師で、その対象は一般人である。
人肉を国家に提供した遺族に与えられる恩赦で、その専門料理人が遺族のもとに出向き、その遺体の一部を遺族に調理して提供するという特別な職業だ。

 堂嶋さんはこの国家公務員としての人肉調理師で、今回は北陸のとある人物からの特別な指名でわざわざこの地にまで足を運ぶことになった。

 その家は道路もろくに舗装されていない山奥の農村地で、一家はその農村地で農業を営んでいた。まかり間違っても裕福とは言えない家庭環境で、今回のように遺族が亡くなったと言うわけではない限り、人肉を口にすることはまずありえないだろう。
今回亡くなったのは芹沢アベル。七十四歳。生まれ故郷はフランスで、日本の農業を勉強するためにこの地にわたり、そこで出会った妻、小百合と恋におち、結婚に至る。妻、小百合は六年前に他界している。三人の子に恵まれ、ささやかながらも幸福な生涯に幕を下ろした。
 
 あたり一面畑と山とに囲まれたのどかな一軒家にたどり着いたあたしたちを出迎えてくれたのは芹沢ミッシェル四十三歳。フランス人ハーフということもあり、背も高く容姿端麗な人物だ。年のころはおそらく堂嶋さんと同世代なんだろうが、言うまでもなく芹沢さんの方がいくぶん若く見える。笑う時に寄る顔のしわが随分優しそうな印象を与える。
芹沢さんはあいさつ代わりに堂嶋さんにハグをして、続けてあたしにもそれをした。今まで男性と交際した経験のないあたしはその行為に少しばかり気恥ずかしい想いがあった。

「お久しぶりです。堂嶋さん」

 流暢な日本語(当然だ。日本で生まれて日本で育った)であいさつをしてくれた芹沢さんはかつて堂嶋さんと会ったことがある様子だった。聞けば、何でも六年前、アベルさんの妻、芹沢小百合さんが亡くなった時、彼女の調理を担当したのも堂嶋さんであったらしく、その時の料理にいたく感動したアベルさんは、ぜひとも自分の時も堂嶋さんにお願いしたいという遺言を残していたという。

「この度はご愁傷さまでした」と、堂嶋さん。「まずは故人にご挨拶を」

 芹沢さんはあたし達を奥の床の間に案内してくれた。簡素ながらもきれいに整えられた祭壇にアベルさんの優しそうな笑顔の遺影が出迎えてくれる。しかし遺体はそこにはない。

 昔の風習では人が死ぬとその遺体を何日かの間床の間に飾っておき、別れを惜しんだ後、燃やして灰にしたというが、人が人肉を食べる習慣を始めてからと言うもの、遺体はすぐに政府が引き取り、しかるべき処置(血を抜いて防腐処置を行い、冷凍あるいは氷温で貯蔵、熟成させる)を施すため、通夜や葬式に遺体そのものはない。替わりに故人が身につけていたものや愛用していたものを祭壇に飾る。魂は体を抜け出し、モノに移ると言われている。

 それら魂を鎮めるために香を焚くのだ。

 あたしと堂嶋さんとは祭壇の前に座り、生前一度もあったことのないその人物の魂に手を合わせる。アベルさんが亡くなってからのこの数日の間、この部屋では延々とお香がたかれ続けているのだろう。部屋と言う部屋のすべての物。襖や障子、畳のいぐさにまでそのにおいはしみついていて、目の前の煙を上げているそれ自体以外のいたるところから線香の匂いが漂ってくる。
あたしは正直この匂いが好きではない。死者は肉体を失ったので食べることができない。かわりに匂いを嗅ぐため、こうして良い香りを焚いてあげるらしいのだ。だからお供えするお菓子なんかもなるべく匂いが強いものを選び(匂いがよくかげるように包装などははがした状態にする)、その後、肉体のある遺族が食べることが望ましい。
肉体がなければ匂いだってかぐことができないのでは? なんてことは思っても決して口に出してはいけない。とにかく、食べることができないのだ。できことと言えば、生前使っていた体を食べてもらうということぐらいだ。

 霊前に手を合わせたあと、芹沢さんは居間へと案内してくれた。ミッシェルさんの奥さんの菫さんがお茶とお菓子を用意してくれる。奥さんはとてもきれいな人だった。やや切れ長の目の日本人で、少しばかり気の強そうな人だ。山奥で農業を営んでいるせいか、腕っ節はあまり細いとは言えないし、小奇麗なマダムとは言いにくい。しかし、もし彼女が都会でぬくぬくと過ごしたのならばきっとエリートサラリーマンに見初められてエレガントなマダムになったのではないかと思われる。

「今、兄弟たちもこちらへ向かっていますので、もう少しだけお待ちいただけますか」

という彼女の後ろから小さな女の子がひょいと顔を出す。とても可愛らしい子だ。母親譲りのきれいな黒髪に父親譲りの蒼い瞳。堂嶋さんのほうをしばらくみつめ、「あ、やっぱりどーじまさんだー」と叫ぶ。

「こら、」と言う母親の言葉に耳も貸さず、母親のうしろから出てきたその子は堂嶋さんの膝へと抱きつく。

「アネットちゃんかい? 大きくなったねえ。何歳になったの?」

 堂嶋さんはとても優しそうな声でそう言った。彼のそんな態度は初めて見たので少し驚いた。そしてそれ以上にもう、六年もの間会っていないはずのその女の子の名前を『アネットちゃん』と覚えていたことに驚いた。それほどに印象のある子だったのだろうか。

「えっとねえ、もう9歳になったよ」

「そうか、じゃああの時はまだ3歳か。よくおじさんの事覚えていたねえ」

「うん、アタシ、憶えてたよ。おじいちゃんが何度もどーじまさんの話してくれたしぃ、少し前にもおじいちゃん。もうじきどーじまさんに会えるよーって言ってた」

「うん、そうか……」

「ねえ、あそんでえ」

「なにして遊ぶ?」

「えっとねえ、お絵かき。アネットねえ、絵を描くのが得意なんだよー」

 そう言いながらアネットちゃんは堂嶋さんを一人どこかへ引っ張って連れていてしまった。

 入れ替わりに、ミッシェルさんが居間にやってくる。脇をすり抜けていく娘に「あんまり迷惑かけるんじゃないぞ」と娘に注意を促す。ミッシェルさんと奥さんはそろって向かいに座り、三人でお茶を囲った。ミッシェルさんは急須で入れたお茶の湯飲みを両手で抱え、スッとゆっくり口をつける。

「それで、香里奈さんはいつから堂嶋さんの助手に?」と質問をされた。

「実は、いつからと言うよりは、まだわたしはこの仕事に就いたばかりで。実は、今回こちらが初めてになるんです」

「そうですか。ではなぜこの仕事に?」

『仕事の味見として人肉を食べることができるからです。あたしは昔から人肉を食べることが夢でした』とはさすがに言えない。

「はい。食べることと生きることは繋がっています。ですから、食と命とを結びつけることに最も近いこの仕事にやりがいを感じて志望しました」

 と、料理学校の教師と話し合って決めたこのセリフを口に出したのは言った何度目だろうか。
しかし、ミッシェルさんがその言葉を聞くのは初めてだ。

「それは素晴らしい」

 と、純粋にお褒めの言葉をいただいた。そして、

「ならば、あなたは本当に素晴らしい師匠に恵まれました」

 ――師匠。とは、聞きなれない言葉だった。今まで単に〝上司〟としての感覚ではあったが、たしかにこの業界で言うなら〝師匠〟と呼ぶ方がかっこいいかもしれない。

「堂嶋さんは素晴らしい料理人です。亡くなった父も六年前より何度ともなくそれを繰り返し言っておりました。もちろん、わたしもそう思っています。どうかあなたが彼のような素晴らしい料理人になることをわたしも祈っていますよ」

「ありがとうございます」と、とりあえずは社交辞令的な挨拶をして、「ところで……」と続ける。「堂嶋さんはそれほどに素晴らしい料理人なのですか? 正直、いつもは基本的な技術指導をしてはくれているのですが、本格的に師匠の料理を拝見するのは今回が初めてで……」

「ははは、それはそうですね。いつもの練習の中では彼の仕事の素晴らしさはわかりにくいかもしれません。確かに彼の、堂嶋さんの料理の腕は確かです。かつてはそれなりに有名なレストランの料理長として働いていたくらいです。しかし、彼の素晴らしいところはその技術とは別のところにある」

「別のところ?」

「そうです。普通の人肉調理師は遺族たちの味の好みを聞き、それに見合った料理をふるまってくれるのです。しかし、彼は違う。彼の仕事は特別です。どう特別かと言うと……」

 ピンポーン。と、そこで玄関のチャイムが鳴る。

「どうやら弟たちが到着したようです。堂嶋さんの仕事は、見ればすぐにわかると思います。できればあなたにもそうなってほしいと思います」

 ミッシェルさんは席を立ち、玄関に到着した弟たちを出迎えに言った。

 居間に全員がそろう。ミッシェルさんとその奥さんの菫さん。それに娘のアネットちゃん。弟のラファエルと妹のガブリエル。これが今回のゲスト五人だ。それに料理人の堂嶋さんと助手のあたし牧瀬香里奈。

 七人で食卓を囲み、おもむろに堂嶋さんが口を開く。

「それではみなさん。故人、アベルさんについて話してもらえますか」

 優しく微笑みながら、彼はそういった。

「では、わたしから」とはじめに話し始めたのはミッシェルさんだった。「父は、とても優しい人でした。普段は頑固で、気難しい人だと思われがちでしたが、本当はとても優しい人物でした。それは、ここにいる誰もがそのことを知っている。それが何よりもの証拠ではないでしょうか。   

そして父は、母をとても愛していました。我々兄弟の誰もが母の腕に抱かれ、そしてその母を包み込んできたのが父でした」
故人アベルさんについての語らいは二時間ばかりに及んだ。本当はその場にいる誰もがその話を続けていたいと思っていたが、時間がいくらでもあるというわけではない。しかし、その時間で十分にアベルさんが皆に愛されていたか、アベルさんが皆を愛していたのかが理解できた気がする。

「では、次にアベルさんの仕事場を見せていただけますか?」

 アベルさんの仕事は農業だった。アベルさんの生まれ育ったフランスは華やかで洗練されたイメージを持たれがちだが、その産業のほとんどは農業と言う農業大国だ。祖国フランス農業を進歩させるため、アベルさんは日本へとやってきた。そして日本の農業を勉強する上でこの北陸に住む芹沢家にたどり着いた。

 日本の農業は生産量こそはそれほどではないが、その品質、技術力は共に世界中のあらゆる国を凌駕している。丹精を込めたきめ細やかな仕事は言うまでもなく、その品種改良こそにその神髄は隠されている。交配に交配を重ね、何十年と言う歳月を経ながら、何世代も引き続けることによってできたその苗こそが日本の農業の至宝だと言える。芹沢家の育てる野菜の素晴らしさにたどり着いたアベルさんは先代の主に頼み込み、ホームステイをしながら農業に従事した。そこで得た技術をフランスに持ち帰り、フランスの農業に貢献しては再び芹沢の家へと帰ってくるという生活がしばらく続いていた。

 おそらくその理由は芹沢さんの育てる野菜だけではなかったかもしれない。先代の芹沢家がもうひとつ、丹精を込めて育てた存在、娘の小百合さんにもまた惚れこんでいたのであろう。ついにはアベルさんも日本の地に深く根を張ることを心に決めた。

 三人の子に恵まれ、さらに多くの野菜の品種改良にも成功した。その野菜の栽培法はさらに息子のミッシェルさんが引き継ぐことになった。

 ミッシェルさんはあたし達に自らの、そしてアベルさんの農園を案内してくれた。山奥の急斜面に様々な野菜が栽培されている。それは決して野菜の栽培に適した場所とは言い難い。だからこそ野菜はその実の中に生きる力を強く宿し、その遺伝子を子孫へと伝える。だからこそこの地の野菜は美味いのだとミッシェルさんは語った。

 次にミッシェルさんはあたし達に彼の部屋を案内してくれた。そのうち片付けばならないのだろうと語っていたが、まだアベルさんがこの世を去ってから日も浅く、部屋は生前彼が生活していたころから何一つ片づけられていない状態だった。その書斎ともいえる彼の自室は彼の生前、子ども達、ミッシェルさん立は決して立ち入らなかったという。禁止されていたわけではない。ただなんというか、その小さいなへやには独特の匂いが立ち込めており、それがアベルさん自身をイメージさせる一つの匂いを形作っていた。その印象があまりにも強すぎるため、皆はこの小さな書斎をアベルさん専用のスペースだと思い込むようになったという。

 襖のさん(敷居)はいくぶん埃が詰まっている様子でうまく開かなかったが、おそらく本人以外が開けることもほとんどなかったであろうその場所は長いあいだそのままで放置されているらしかった。
襖を開けて部屋に入ると、たしかにそこには独特の匂いがあった。アベルさんは読書が趣味らしく、新旧さまざまな本が所せましく積み重ねられている。扱われている言語も日本語にフランス語、英語にドイツ語の本まである。もしかするといくつかのお宝が眠っているのではないかと思いたくもなる。稀覯本と言うものは時としてものすごい価値があるのだと聞く。しかし、もしかするとこの匂いは少しばかり査定に響くものだろうかとも疑ってしまう。
やにの匂いだ。本の装丁自体はそれほどいたんでいる様子はないが、紙自体は少しばかり黄ばんでいるように思える。書斎の卓袱台の上には革張りの装丁のフランス語で書かれた四巻だての『ドン・キホーテ』の三巻がページを開いたままでおかれており、そのわきの灰皿には溢れんばかりの煙草の吸殻が詰め込まれている。脇にはまだ半分ほども残ったスコッチウイスキーのボトルがあり、いつもそこに座っていたであろう人物の生活をしていた様子がそのまま見てとれる。アベルさんは酒とたばことをこよなく愛し、医者に健康のために少し控えるように度々言われていたが、その量を減らすことはなかったという。

『酒とたばこがあってのわしの人生じゃ。それがなければ残りの余生、何年生きたところでわしの人生ではない』

 それが彼が座右の銘のごとく繰り返し言っていた言葉らしい。結果、酒とたばこが死の直接的な原因ではなかったが、いくぶんそれをむしばんだことは間違いないだろう。しかし、そのことを彼は悔いている様子はない。

 堂嶋さんはそこに歩み寄り、ちゃぶ台の上に置いてあるスコッチウイスキーのボトルを手に取った。天井からぶら下がる照明にその深緑色の瓶を透かし、

「アードベックの15年、いい趣味をしているな」

 と、つぶやいた。まじめに仕事しているのだろうか……

「スコッチ、お好きなんですか」ミッシェルさんが言った。

「特にこのアードベックは素晴らしい。こんなに癖が強いのはアイラモルトの中でも他に例がない。アイラのモルトはその強い潮風のせいでピートに独特の海藻の匂いが加わる。それが癖となってアイラモルトを嫌う人もいるが、その良さに気付けばもう、他のものでは物足りなくなる」

 堂嶋さんは少し興奮しているようだった。

「よかったら持って行ってください」ミッシェルさんが言った。

「いいんですか?」

「うちには酒を飲む人がいないんです。こんなところにいつまでも置いていても仕方ありませんから」

「そうですか、そういうことならありがたくいただきます」

 堂嶋さんはうれしそうにそれを小脇に抱えた。
 その日の仕事はそれで終わりだ。
 あたし達は玄関を出たところで芹沢家の五人に見送られた。

「それでは明朝また伺います」

 と堂嶋さんは挨拶をする。

「うん、じゃーね。どーじまさんあしたもあそぼーね」

 とアネットちゃんが堂嶋さんの足にすり寄ってきた。堂嶋さんがその頭をポンポンと撫でる。
 するとアネットちゃんは少しばかりほおけて、堂嶋さんのその手を見つめた。

「どうしたのアネットちゃん?」

 あたしが腰をかがめて聞くと、アネットちゃんは呟いた。

「あのね、アタシね。おじいちゃんがそうやって頭をポンポン撫でてくれるのがとっても好きだったの…… おじいちゃん、もう……会えないんだね……」

 大きなグリーンの瞳の輝きが一瞬にしてぼやけた。あふれ出した涙を、小さなアネットちゃんは我慢するすべをまだ知らない。すぐに大きな声を出して泣き出してしまう。

 きっとこの子はつらかったんだろう。大好きなおじいちゃんが死んでしまったということがどういうことなのかわからない歳ではない。でも、周りの大人たちはまるでそのことが素晴らしいことのように、常に笑顔で笑っているから、自分もそうしなければならないと思っていたのだろう。そしてまだ若いアネットちゃんはこれから先、何度も何度もこうやって大事な人が失われていく経験を繰り返すのだろう。そうして人は少しづつ大きくなっていく。そうして人が死んでも笑って見送ってあげるすべを身につけていくのだ。その点において自分よりも先を歩くアネットちゃんを少しばかりうらやましく思う。

 あたしはアネットちゃんをぎゅっと抱きしめた。小さな体がその腕の中で小さく震えている。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。おじいちゃんは決しいなくなってしまったわけじゃないの。これから先、アネットちゃんと一緒に生きていくのよ。
 あした、おじいちゃん……食べようね……」

「うん……」

 アネットちゃんはそれからもうしばらく泣き続けた。


 芹沢家を出たあたし達は一度、自家用車で町へと向かう。料理に必要な材料があれば調達し、ホテルに一泊する。下ごしらえが必要な場合はその職業が持つ特別権利でホテルは調理場の一部を利用させてくれる。

 堂嶋さんはその内容を詳しくあたしに教えてくれないが、おそらくある程度のイメージは固まっていたのだろう。芹沢家を出て間もなく市の遺体管理施設に連絡を入れ、希望の部位を申告していた。少しばかり折り合いがつかないらしくしばらく揉めていたようだがどうにか話はまとまったようだ。

 今回町で堂嶋さんが調達したものは、アウトドアショップで購入した小型の七輪と桜のスモークチップだけだった。どうやら燻製をつくるつもりらしい。もちろんこれらは経費で賄える。国家公務員である我々の経費と言うのはもちろん国民の税金であり、なるべくなら無駄遣いはしない方がいい。

 最低限の調理道具と調味料とは持ち歩いてはいるが、今回のように遠方に出向く場合となれば、現地で打ち合わせの上料理のメニューを決めるこの業界では、すべての物を持ち歩いているわけでもなく、こうして現地で調達しないといけない場合もある。

 ホテルに到着したあたしたちはその足でホテルの調理場へと向かう。七輪は今日使う必要が無いらしく、車に積んだままにしてある。今からすぐに準備するべき仕事はないらしいが、明日の朝、早朝にこのホテルの厨房に遺体管理局からの荷物が届くようになっているし、明日の朝、厨房の一角を借りて仕込み作業を行うことになる。事前いそのことを料理長に伝えておく必要があった。

 改めてホテルのフロントへとまわり、チェックインの手続きを堂嶋さんが行う。そこは地方のホテルで立派なホテル。とまでは言いにくいが、単なるビジネスホテルよりはワンランク上のホテルだ。こんなホテルにチェックインしようとしているあたしと堂島さんは、知らない人から見れば夫婦で旅行に来ているように見えるのだろうか。いや、それにしては少しばかり年が離れすぎている。となると愛人とのお忍び旅行に見えるかもしれない。そんなことを考えながら周りを見てみると、だんだん全てのお客さんが愛人との不倫旅行に見えてきたりもする。これで露天風呂でもあるホテルなら最高なのになと考えてみたりする。

 そんなところへ堂嶋さんが少々困り果てたような顔でこちらへと歩み寄ってくる。

 あたしはそれを特に気にしていないと言いたげな、すました態度で待ち構えるのは、そうすれば周りの人から不倫旅行に見えるかもしれないと思ったからだ。

「申し訳ない。どうやら手違いで一部屋しか抑えられていなかったようだ。他に空いている部屋もないらしいので、僕は今からほかの宿を捜しに行く。香里奈君はここで宿泊してくれ」

 そう言ってフロントから受け取った鍵をあたしに渡し、そのまま玄関へ向かって歩き始める。
 一瞬、何が起きているのか把握できていなかったあたしは戸惑ってしまったが、事の次第に気づき、急いで堂嶋さんを呼びとめる。

「ま、待ってください! 今から部屋を捜すなんて、そんなの無理です。それに……
 それに部屋が一部屋しか取れてないって、手違いでも何でもありません。予約の電話を入れたのはあたしなんですから!」

「え……」

 立ち止まり、上半身をひねってあたしを見下ろす堂嶋さん。少し驚いた表情。

「だめ……でしたか?」

「い、いや……だめと言うよりは……」

「ほら、堂嶋さん。経費はなるべく節約した方がいいっていつも言っているじゃないですか。税金なんだからって…… すいません、気が付きませんでした。やっぱり、一人の方が落ち着いて寝られますよね……」

「い、いや、そういうことではなくて…… ぼ、僕は男であって、君は若い女性だ」

「そ、それだと、何か問題があるんですか?」

「な、ないわけがない……」

「別に同じベッドで寝ようって話じゃないんですよ。予約したのはツインベッドです」

「し、しかし、男女が一つの部屋で寝るというのは……」

「それ、考え方古いと思います。堂嶋さんは食人法以前の生まれなのであんまり感覚がないかもしれませんが、あたし達食人法以降の世代ではあんまりそういう感覚はないですよ。なにも男女間の関係がセックスでのみつながっていると考えているのは古い考え方だと
思います」

「セ、セック……だけって……」

「はい。あたしたちの世代ではそれほどセックスしたいって思っている人、少ないですよ……まだ、死にたくありませんし、リスク高すぎです!」

「い、い、いや、こ、声が……」

「あ、それとも堂嶋さん、あたしとセックスしたかったんですか?」

「い、いや、そういうわけじゃ……」

「じゃあ、問題ないと思います。今日は堂嶋さんもこのホテルに泊まりましょう」

「あ、ああ、か、香里奈君がそういうのなら……」

 そう言ってどうにか堂嶋さんを引き留め、同じ部屋に入ったが、やはり堂嶋さんは始終落ち着かないようだ。まだ時間は少し早いが、部屋にることに耐えられないのかすぐに食事に行くことにした。ホテル内にあるレストランで簡単な食事をとることにした。これと言ってたいした注文をしたわけでもなかったが、食後に料理長がわざわざテーブルまで挨拶に出てきた。先程厨房にあいさつに行ったので料理長はあたし達が人肉調理師だと知っている。だからわざわざ挨拶に出てきたのだろう。人肉調理師はすべてのコックの中でもエリート中のエリートだ。大きな高級リゾートホテルなんかではフリーの人肉調理師を雇っていて、人肉料理を提供するホテルもあるが、一般のホテルではなかなかそこまでのサービスは提供できない。そうなればやはり人肉調理師は彼らからすれば憧れの存在なのかもしれない。料理長は髪の毛も大半が白くなり、同じく立派なひげを蓄えた老齢な人物だった。それでも眼光はとても鋭く、おそらく厨房内でもそれなりに怖れられてはいるのだろう。しかし、自分よりはるかに年下である堂嶋さんに対してとても敬意を払っているように思われた。

 部屋に入り、室内に備え付けシャワーで汗を流した。まず堂嶋さんが先に浴びて、それからあたしがシャワーを浴びた。室内は暖房がとてもよく効いていて、シャワーで暖まったせいもあり、部屋では少しリラックスするためにコットンシャツ一枚で過ごした。もちろん、下着はつけている。しかし、堂嶋さんはそんなあたしの姿を見るなり、申し訳なさそうに部屋の隅っこの方で壁に向かって過ごすという始末だ。

男女が一つの部屋に入るとセックスしなきゃいけないものだと考えているらしい。


 ――まったく。これだから二〇世紀生まれは……

 ところでどうなんだろう? あたしがその時ふと考えたことだ。わからないことは上司に聞いてみるのが一番だ。

「そう言えば堂嶋さん、どうなんでしょう? もし、堂嶋さんが今夜あたしを襲って、あたしを妊娠させたとしたら、それは殺人罪になりますか?」

 堂嶋さんはその質問を聞いて少しむせ返った。変なことを聞いてしまっただろうか?
 少し間をおいてから、彼は相変わらず壁に向かって答えた。

「僕は、そのあたりの法律についてはよくわからない。だけど相手の同意が得られないまま相手を強姦し、妊娠させたのならば、それは殺人罪が適用される場合があるのかもしれない。無論、その場合生まれてくる子供のDNAを調べることで父親がその人物であるかどうかを確認する必要があるかもしれないし、とにかく時間がかかることだ。そうこうしているあいだに結果として子供を産まなければならなくなる。その場合、有罪が確定すれば食料になるのは父親の方だという判決になるかもしれないが、少なくとも誰かが死ななければならないという結論になる。

 あ、あの…… 言っておくが、僕は香里奈君を襲ったりはしない。だから、その……安心して寝てくれたらいい……」

「はい、大丈夫です。あたしも堂嶋さんに襲われるかもしれないなんて、これっぽっちも考えていませんから」

「そ、それは……喜んでいいこと……なのかな?」

「……でも、別にそういうことに興味がないってことではないんですよ。昔の本や映画なんかではそれがとても素晴らしいことだってよく言っているので、興味はあります。でも、それが命をかけてまですることなのかどうかはちょっと……」

「たしかにそれはそうかもしれない。時代が変われば考え方も変わってくる……か」


 ――霊長類における食料利用に関する法規――。通称『食人法』が制定されたのは今から約二十年前のこと。ちょうどあたしがこの世に生を受けたのと同じ年だ。

 紀元前八千年に五百万人だった世界の人口は西暦一九二七年に二〇億人を突破した。
 約一万年かけてようやく二十億の人口が増えたのだ。それからわずか八十年余りでその人口は七〇億を超えるようになる。一度増え始めた人口はとどまるところを知らない。ましてや食物連鎖の頂点に立つ人類がこのまま増え続けるようであれば、それだけの数を賄うだけの資源はおろか、食料を確保する事さえ難しくなる。それはこれまでの推移を計算すればわかるとおり、それほど遠い未来の話ではなかった。七十億を超えてから三十年もしないうちにその数は倍の一四〇億を超えるだろう。これは、地球で賄える食料の限界を超えている。人類は取り急ぎこの問題に着手する必要があった。

 が、人類がその事実を受け入れるには時間が少なすぎた。人類の滅亡はもう目の前である。人類は恒久的な繁栄を維持するために、もはや手段を選んでいる余裕はなかった。

 いわゆる食人法はそういった背景の中から生まれた最後の手段であり、希望だった。
 人類が来たる共食いによる無差別殺人を犯さないため、人を人としての尊厳を与えたうえで食料とし、且つ、速やかに人口を減らすための法律。

 まず、最も重要な点は人口を速やかに減らすということ。しかしまた、子を産み育てるという権利を人類から奪うことは許されない。しかし、その権利を与えたまま子を産むことに対しリスクを負わせるということは認められる。かつて中国が人口爆発を抑えるために子を産み、育てようとする者に重税を課した、いわゆる『一人っ子政策』のように。

 しかし、現在の人類はすでにこの方法ではたちいかない状況にあった。つまり、もっと高いリスクを負わせる必要があるということ。

 命を産むものは、命を失うリスクを課せられるということだ。

 もう一つの問題。食糧が不足しているという問題だ。つまり、足りないなら何かで補わなければならないということであり、増え続けて困っているものと言えば人類くらいだ。つまり、人肉を食すほど効率のいいものはない。しかし、そんなことが倫理的に許されるはずもない。ましてや食料とするために人類を栽培するなどということは決してあってはならないことだ。

 せめて食料とする人類に対し、人としての尊厳を守り、そのうえで食す必要があった。これは大変重要な問題であり、慎重を計って政府が管理しなければならないことだ。

 更にはこの人類を食すという選択をとることにより、万にひとつと言う状況に対し、全員で飢え死にするのではなく、共食いによる人類の保存の意識を芽生えさせるという目的があった。

 これらのことを踏まえ、国連とFAOとの合意によって打ち立てられた法案『食人法』が、世界基準として採択されるようになった。それは、簡単にまとめると次のようなことになる。


 子供を産んだ場合、その一〇年後。子供に最低限の自意識が芽生えるようになった頃に、子を儲けた両親のいずれかがその身を食料として献体することとなる。

 人間の死亡が確認された場合、速やかにその遺体は政府により処理、保存管理され、食料として再利用される。


 死後、食料再利用として政府が買い付けを行った遺体は解剖され、病巣などに犯された部分がないかを確認、切除を行い、食料として保存される。

 人肉はとても貴重で、一部富裕層の間で高値で取引される。それに従い遺族も遺体を国に献体することで多額の褒賞を得られるのだ。これは、人肉がそれだけ価値のあるもので、誰もが食べたい憧れの食材であることを認識させる狙いもある。

 そして遺体を献体した遺族にはその恩赦として、その遺体の希望部位を一か所だけ食する権利が与えられる。それに伴い、国家資格である人肉調理師の資格を持つ国家公務員の料理人が遺族の家(あるいは調理、食事の可能な施設)にうかがい、遺族の意見を踏まえつつ、料理として提供するサービスが始まった。

 それがあたしの職業、人肉調理師(見習い)だ。


 翌朝、ベッドで目を覚ましたのは午前四時だ。少しばかり早いが、今日が仕事の本番。少しばかり準備が必要なので早くに出発する必要がある。

 ホテルのロビーでフロントの受付の男性が、「遺体管理所より、堂嶋様宛の荷物が届いています。ホテル調理場にて保管しておりますので、ご出発前にお寄りください」と説明してくれた。

 一度ホテルのロビーから出たあたし達は裏手にまわり、レストランの厨房へと入った。まだ朝の早い時間だが、すでに何人ものコックが作業を開始していた。もし、あたしが首席で卒業できなければ人肉調理師見習いになどならず、こうして朝早くから夜遅くまでと言うコックならではの生活をしていたのだろう。それを考えるとなんてゆるい仕事をさせていただいているのだろうと自らを咎める。

「荷物を受け取りに来た」

 と告げると、それぞれに作業しているコックたちは一瞬凍りつき、一同にこちらに注視していることがわかった。昨日の料理長が仰々しく四〇センチ四方くらいの発泡スチロールを抱えてやってきた。その手は緊張のせいか少し震えている。

 堂嶋さんはその発泡スチロールを受け取り、お礼を述べた。

「あ、あの……」と、料理長。「差し出がましいようですが、もしよろしければその、下処理の作業を拝見させていただいてもかまいませんか?」

「ええ、特に問題はないと思います」

 そう言って堂嶋さんは箱を作業台の淵に置いた。厨房の遠くの方にいた他のコックたちも興味津々と集まってきた。
 堂嶋さんが発泡スチロールの蓋を開けると、中から白い煙が上がる。中には厳重にいくつもの保冷剤が入れられており、その真ん中に新聞紙にくるまれた塊がある。それを両手で大事そうに持ち上げ、新聞紙を包装をはがす。

 中から出てきたのは老齢でしわの寄った、大きな右手だ。血の気を失い青白く半開きの状態で硬直しているが、それは言うまでもなく手首のところからすっぱりと切り落とされた完全な右手だ。あたしはそれを食材として認識することはできなかった。それはまぎれもなく人間の体の一部で、背の高い堂嶋さんの手よりもさらに一回り大きい手、それはその手の持ち主の大きさを物語るに十分な大きさだ。

 皆、その手を見るなり「おお」だとか、「ああ」だとか感嘆の声を挙げたり、あるいは「ううぅ」と呻きに近い声を出すものなどさまざまだった。

「たしかに受け取りました。ありがとうございます」

 淡々と無表情でお礼を述べた堂嶋さんはそれを元の通り新聞紙にくるみ、厨房の隅へと移動する。そこでそのアベルさんの手を下ごしらえする必要がある。その作業自体、芹沢家に持ち込んでからおこなってもよいのだが、まだ、遺族の体の一部である感の強いその食材を芹沢家で切り刻んでいる姿を遺族が見た時に思うことだってあるかもしれない。その事を懸念して最低限の処理をその場でさせていたたくことにしたのだ。

 大きめのまな板の上にその右手を置いた。まず、ペンチを取り出して指先の爪をはがす。
親指の爪と肉との間にしっかりとペンチの先を喰い込ませ、しっかりと固定する。ペンチをひねり、側面からゆっくりとはがし、付け根、反対側の側面へとはがしていく。爪はいとも簡単に、恐ろしくきれいにはがれる。爪の剥された後の指先はほんのりとピンク色に染まり、老人の物とは思えないほどにつるつるとしたきれいな皮膚をあらわにした。続けて人差し指をはがし、次に小指をはがした。そこで堂嶋さんはペンチをあたしに差し出し、「やってみろ」と言った。

 正直、あまりやってみたいと思う仕事ではなかった。しかし周りを見れば若いコックたちがあたし達を作業を真剣な表情で見つめている。もちろん、あたしなんかに比べてコックの経験をしっかり積んできた先輩の料理人たちだ。彼らのうち何人かはいずれ人肉料理人になることを目指しているのかもしれない。あるいは単に料理の仕事と言うことに関し、その作業自体に興味があるだけなのかもしれない。替わりにやってみたい人がいるかを聞いたならばきっとほとんどの人が手を挙げるのだろう。しかしいずれにしても彼らが人肉の処理に手を出すことは法律で禁じられている。今、この場でそれができるのは資格を持っている堂嶋さんと、その見習いであるあたしだけだ。

 なればこそ、あたしは彼らの意思を尊重するためにもそれに挑む必要があった。

 左手で中指の付け根あたりをしっかりと押さえるように持つ。とても人間の物とは思えないほどに冷たかった。その手に伝わる感覚だけでなんだかそれがおもちゃのように感じてしまう。血の通った人間だと思わなければ少しだけ気分も和らぐというものだ。言われた通り、中指の爪の左端の方から奥へとしっかりペンチを差し込み、しっかりとグリップを握りしめる。あたしのために残された中指と薬指の爪は小指なんかよりも大きく、親指のように形が特殊でもない。あたしがやりやすいようにとその二本の指をわざわざ残しておいてくれたのだろう。手首をひねるとそれに従い硬直した指も持ち上がる。左手でしっかりと抑え込み、さらにひねりを加えると、爪は左端からゆっくりと剥がれはじめた。一度剥がれはじめた爪は右手のグリップに伝える力に比例して難なくはがれていく。ちょうど古くなったかさぶたをはがす時と同じようなものだ。最後に右側だけがつながった状態からはがす時に少しだけ力が必要だった。爪と指先とが完全に分離した瞬間に手のひらに伝わる感触に少しだけ快感を覚える。同じように薬指の爪を剥ぎ取り、ひとまずひと段落。それはたった一、二分の作業でしかなかったが、気が付くと額にものすごい量の汗をかいていた。今にもまな板の上に零れ落ちそうだった。

 人肉調理の仕事は、技術以上に恐ろしく精神に負担のかかる仕事なのかもしれない。あるいはそれは慣れることによって何とも感じなくなることなのだろうか。だとすると、この仕事を長く続けることは、代償として人として何かを失わなければならない仕事なのかもしれない。

 続いて、皮膚をはがす。

 皮膚は弾力が強く、そのうえ意外と分厚い。調理法によっては食べられなくもないが、あまり可食部として向いているとは言い難く、今回は剥いだ後に廃棄処分することになる。廃棄処分とはいえ、そのあたりのごみ箱に捨てるわけではない。元の発泡スチロールに先程の爪と一緒に収め、遺体管理業者に返却して供養してもらうことになるらしい。

 堂嶋さんはまず、手の甲の付け根部分。すっぱりと切断された手首部分にペティナイフの先端を差し込む。刃を上にし、肉を傷つけないように差し込むと、一気にその刃を中指の先端まで走らせる。青白い手の甲に一直線の裂け目が走り、中から薄紅色の肉が覗く。まるで左右から引っ張っているように間隔が開き、皮膚の先端は反って上へとめくれ上がる。

 ペティナイフを一度置いた堂島さんは右手に手術用のビニール手袋をはめ、めくれ上がった皮膚の端をしっかりとつかむと、指先に向けてしっかりと引っ張る。めりめりめりと音を立て、皮膚は一瞬にして剥がれる。まるで革の手袋を力任せに脱いだ時のように皮膚は裏返しになってはなれた。中から理科室の骨格標本のような赤い筋肉と白っぽい薄紅色の筋がはっきりと確認できる。手の形をした肉の塊がまな板の上に残る。こうなるとそれはすでに少しだけ食材っぽく見える。食べるための肉だと言われればさらに少し気が楽になるだろう。

 まず、牛刀を親指と人差し指の間にある盛り上がった筋肉、拇指対立筋に刃を入れ、それを切り裂くようにナイフを前後させて、親指を手首の付け根の方で切り離す。上手くナイフを入れれば手首の根元まで骨に引っかかることなく切り離せるのだが、最後、手首の部分の骨は大きくてしっかりしているので、牛刀の上に左手のひらを置き、抑えるように固定して全体重をかけて一気に切り落とす。切り離された親指は根元から一本の長い肉の棒となり、まるで初めからとても長い親指をしていたかのようにも見える。

 続いて、同様に今度は人差し指と中指との間にナイフを入れる。しっかりと手入れされ、切れ味の鋭いナイフは本来ある指の股を無視し、手首の手前まで割ける。最後に、手首の部分の骨は太くて丈夫なので体重をかけて切り落とす。数分もしないうちに五本の長い棒状の骨付き肉の棒が出来上がる。ひょっとしたら自分の出番もあるかもしれないと構えてはいたが、堂嶋さんは自分一人だけでその作業をこなした。フランスのゲランド産の塩をたっぷりとふりかけ、両手でマッサージをするように擦りこむ。タッパーにローズマリー、エスタラゴン、セージを枝ごとしっかりと敷き詰めた中に五本の肉棒を並べ、さらに上からもハーブをしっかりとかぶせて、オリーブオイルを少量たらしてふたを閉じた。これで下ごしらえは終了らしい。

 息を呑んで見つめていた周りのコックたちも「ふうー」と嘆息するもの、額に汗をかいているものと様々だった。一通りかたずけて荷物を抱え、芹沢家へと出発する。
 
 芹沢家に到着したのは午前七時を過ぎた頃。にもかかわらずミッシェルさんと奥さんの菫さんはすでに畑に出ていた。
 農家の朝は早い。夜が明ける前に起きて仕事の準備をする。植物は夜の間にその身に栄養をしっかりと蓄え、日が昇るとともにその栄養を使って一気に成長を開始する。したがって、一般的には夜が明けて成長を開始する直前に収穫するのが最も望ましいとされている。

 北陸地方の四月、午前七時ともなればその日の収穫はほぼ終わっており、市場への出荷の準備を始めている時間だ。
 ミッシェルさんは到着したあたし達とあいさつを交わし、収穫の終った野菜から、昨日のうちにお願いしておいた分を引き渡してくれた。そうして再び元の仕事に戻る。喪中とはいえ、仕事を空けるわけにはいかない。野菜は人間と同じ生き物で日々成長をしている。たとえその日がどんな日であろうと必ず一日分成長し、その日に収穫しなければもっとも最適な時期を一日ずらす。一日多く成長した野菜は当然その分食べごろを過ぎており、またその野菜が一日分長く成長したせいで他の野菜は予定量の栄養分が摂取できなくなってしまい、やはりその分理想的な作物に育たなくなってしまう。野菜は成長の過程で刈り取られなければならない時に刈り取られる必要がある。それが仲間の成長の糧となっているのだ。

 まず、庭先に出た堂嶋さんは昨日買ったばかりの七輪に炭を起す。初めのうちにしっかりと燃やし、火力が落ち着いて炭がくすぶり始めてからが使い時だ。炭が理想的な状態になるまでの間に堂嶋さんはホテルの厨房からもらってきた大きな横長の段ボールを取り出した。キャベツをモチーフにしたイラストと生産地が書かれている。八百屋がホテルに野菜を納品した際に置いて行った段ボールだ。縦四〇センチ、横六〇センチ、高さ三〇センチといったところか、その段ボールの横側面を切り抜き、抜いた面を地面にして立てておく。段ボールの蓋となるフラップ部分がちょうど観音開きの扉のようになる。これを七輪にかぶせて薫製室をつくるのだ。

 上部の両側面を貫通するように穴をあけ、そこになるべくまっすぐで長い木の枝を通す。これにS字フックを引っかければ簡単な燻煙室が出来上がる。五本のS字フックには先程塩漬けにされたばかりの指がぶら下げられる。ぶら下げられた指の根元に少しだけ飛び出ている骨の周りにしっかりとサラダオイルをしみ込ませる。次に七輪の隅の中にたっぷりの桜のチップを放りこむと香ばしい匂いとともに白い煙がもうもうと立ち上がる。段ボールで囲われた七輪はあっと言う間に白い煙に包まれる。ダンボールの内側につるされた五本の指が白い煙に包まれる。けむりを閉じ込めるように観音開きになったダンボールの蓋を閉じる。このまましばらく置いておくだけで燻製が出来上がることだろう。

 あたし達は再び家の中にキッチンに戻り、今度はその間に野菜の下ごしらえを始める。

 人参、蕪、牛蒡、じゃがいも、セロリ、縮緬キャベツ、エシャロット。どれも収穫したばかりの新鮮な食材だ。朝摘みの野菜は夜露をしっかりと内に含んでいてみずみずしい。

 牛蒡は表面をたわしでこすり、5センチくらいの長さに切って水につけ灰汁をとる、じゃがいもも皮をむいて少し大きめの乱切り、人参をシャトー(ラグビーボール型)に剥いて、蕪は面取り、セロリ、エシャロットもおおきめの乱切りにするだけだ。作業はあっという間に終わる。あたしだって料理学校を首席で卒業した身だ。これだけ準備すれば堂嶋さんがどんな料理をつくろうとしているのかは大体想像がつく。

「ポトフ……ですか?」

「……の、ようなものだな」

「あの指の燻製はソーセージですか?」

「見た目ではソーセージみたいになるだろうね。でも、腸に包んでいるわけでもなければ中身を練り合わせているわけでもない。だから骨付きベーコンといったところだな。本当は、はじめソーセージをつくりたかったんだよ。だから網脂(内臓の周りについている脂肪質。網状の脂肪と薄い膜でできており、食材を包んで焼くことによって中の肉汁やうまみが外のこぼれないようにする効果がある。これを使ってソーセージ《サルシッチャ》をつくったりもする)も欲しいって言ったんだが、管理局は申請できる食材は一部分だけだと言って出してもらえなかった。まったく。網脂くらい少し分けてくれてもいいだろうとは思うけどね。お役所仕事と言うのはなかなか融通が利かなくて困る。まあ、僕も今は公務員になるんだけどね。

 まあ、そんなわけでソーセージはあきらめたんだよ。市販の豚の網脂も考えたんだけど、やはりそれはアベルさんに対して不誠実な気がしてね。だから今回はベーコンにすることにした。タバコが好きで手放せなかったという話も聞いたからね。もう、死んだんだからいまさら健康もないだろ? だからしっかりと煙であぶってやるのもいいかななんてそんなことを想ったわけだよ」

 あたしは、そうやって説明してくれる堂嶋さんをずっと見つめていた。この人は……

「ああ、そういえば」と、堂嶋さんは続けた。「さっき香里奈君は〝ポトフ〟と言ったけれど、それは本当は間違いだ」

「そう言えば……、さっき、――のようなものって言ってましたよね」

「ああ、ポトフと言うのはフランス料理で牛肉と根菜とをブイヨンで煮込み、粒マスタードを添えて食べる料理のことを言う。これに似た料理で〝ポテ〟と言うフランス料理がある。これはポトフと違って豚肉、つまりベーコンやソーセージを使って作る料理で、一緒に煮込む野菜がポトフと違い、キャベツが加わるということが特徴だ。つまり、日本で一般的に言っているポトフと言うのは本来フランス料理で言うところの〝ポテ〟であり、ポトフとは別の料理だ。まあどちらもその名の由来は〝鍋〟をいみするPotからきているわけだが、日本では一般的にこの事実は認識されていないようなので今回の料理を〝ポトフ〟と呼ぶことに異を唱えるつもりはない。むしろポトフと呼んだ方がイメージがわきやすいため、あえてそう呼ぶべきなんだろうけれど、君も料理人のはしくれとして、そういった事実だけは認識しておいた方がいい。知っていてあえて使うことと知らずに使うことでは意味が少し違うからね」

 と、淡々と説明してくれる堂嶋さんをあたしはずっと黙ったまま見つめていた。その視線に違和感を憶えたのか、

「香里奈君、僕の顔になにかついてる?」と聞いてきた。

「いえ、そういうわけではないんですけど…… なんていうか……堂嶋さんって、料理の話になると急に饒舌になるんですね。す、少し、意外でした……」

「な、なにを言っているんだ。ぼ、僕は……」

 そう言ったきりそっぽを向いてしまった。顔を少し赤らめ、再び朴訥ないつもの堂嶋さんに戻る。なんだかすこしだけかわいい。

 午前十時。芹沢一家は少し早めの昼食をとっていた。少し早いとはいえ、仕事を始めたのは午前五時ごろ。それを一般にサラリーマンに当てはめたならそれでも少し遅いころだろう。簡単な塩のおむすびに自家製野菜の浅漬けだけと言う簡単な昼食だった。あたし達もちょうどひと仕事を終えて休憩をしているところだったので(とはいっても仕事は二日間かけて五人分の料理一食をつくるだけだ。ほとんどずっと休憩しているに等しい。公務員が給料泥棒と言われっるゆえんが少しだけわかる)あたし達に塩むすびをふるまってくれた。とてもシンプルではあったが、それはとてもおいしいおむすびに漬物だった。農家の人たちが普段からこんなにおいしいものを食べているだなんて正直少しショックだ。確かに手のかかった洗練された料理ではないかもしれないが、その必要がないほどに素材の質の良さが物を言う。こんな人たちを相手に自分達料理人はどうあるべきかなどと言うことを考えさせられてしまう。過剰に手を加えることで料理と呼んでいる自分たちの仕事が良い素材の前でいかに無力なまやかしなのかを考えずにはいられない。ならば、あたし達料理人は彼らに何を提供すればいいのかと。


 正午を過ぎた頃。外に置いてある段ボール製の燻製室を開けに行った。中からは桜のチップにいぶされた香ばしいにおいが立ち込めている。上部からぶら下がった指はこんがりと赤茶色に染まり、どこからどう見ても骨付きソーセージにしか見えない。

 純粋な気持ちで《おいしそう》。と思ってしまうのだ。
 そして、ここからが料理の本番である。朝の早い芹沢家は当然、夕食の時間も早い。午後四時に食事を開始するために逆算して、今ぐらいの時間から開始するのが最も適しているという判断だ。

 あたしが担当するのはパンとサラダ。パンは堂嶋さんのもとで働くようになり、ほぼ毎日のように作っている。料理はすべてにおいて基礎が重要だという堂嶋さんは毎日のようにあたしにパンを焼かせる。毎日焼いていれば、その日の気温や湿度で発酵や焼き上がりがどう違ってくるのかがわかってくる。ならばそれに合わせて多少の調整をしてやれば毎日同じ状態で焼き上げることができる。プロとして毎日同じ仕上がりをつくるために必要なのは、毎日同じレシピ、同じ造り方で造らない事。料理の仕上がりを左右する要因は数限りなく存在し、そのほとんどが作り手の意思でどうにかできることではない。気温や湿度、野菜の鮮度。魚などはおなじ魚でも個体によって大きさや味は全然違ってくる。それらを相手に同じものを同じようにつくろうとしては同じ仕上がりにならないのは当然である。だから、同じ仕上がりにしてやるため、作り手の意思で変えることのできるレシピや調理法でその誤差を修正する。堂嶋さんの口癖でもうすっかり覚えてしまった。

 今日は、料理との相性を考えてライ麦の入ったパン・ド・カンパーニュを焼く。芹沢家の台所はいつも作業をしている堂嶋さんのアトリエよりも気温が低い。だからパンに加える水の温度もいつもより4℃ほど暖かくしておく。発酵機はないので大きめの鍋に湯を沸かして粗熱を取り、ボウルに入れて濡れ布巾を掛けたパン生地を浮かべて蓋をしておく。まだ経験が浅いあたしは発酵の加減を時々確認しながら調整をすることになる。

 サラダは生野菜のサラダを用意する。メインとなるポトフが温野菜なので、食感に変化をつけるため生野菜のサラダにした。レタスを中心にルッコラや水菜などを加え、ラディッシュのスライスや、素揚げした蓮根や牛蒡を加えて食感のバラエティーを楽しむようにする。野菜はどれも芹沢家の自家製野菜だ。ドレッシングは控えめな味付けのフレンチドレッシングに少量のバルサミコ酢を加える。

 慣れた作業なのでそれほどの苦労はない。横目で堂嶋さんの作業を見る余裕は充分にある。もちろん、そうすることを前提とした仕事の役回りだ。見習いであるあたしの役目は、見て、習うことだ。

 堂嶋さんはおおきめの鍋にサラダオイルを敷き、鍋をしっかり加熱したところで五本の指の薫製を入れて軽く炒める。燻製にした肉を炒めると、とにかくとてもいい香りがする。少しスパイシーな香味がかった匂いだ。そこに取り出したのは……スコッチウイスキー。昨日、アベルさんの書斎から持ち出してきたアイラモルトのアードベックというウイスキーだ。それを、指を炒めた鍋の中に惜しげもなくたっぷりと加える。なるほど、酒とたばことを愛していたというアベルさんだからこそ、煙と酒で浄化しようというのだろう。熱い鍋の中に加えられたウイスキーは急激な温度の上昇で青い炎を上げて燃える。かつて、この国では死んだ人間は火葬と言って炎で燃やしたという。宗教的な理由だと言うが、おそらく本質的に言えば死んだ人間が再び動き出すという恐怖から逃れるためであろうと思う。それがいつのころからか燃やすことでその身についた穢れを浄化するという神聖な儀式となったのだろう。そして今まさに青い炎に包まれるアベルさんの指は浄化と言う名の火葬の儀式なのかもしれない。巻き上がる青い炎は台所を対流し、その室内にスモークのいぶした香りと海藻を思わせるアイラモルトのピートの香り。そしてアベルさんの肉が焼ける匂いとで包まれる。霊魂が匂いだけはかぐことができるというのならば、霊となって漂うアベルさんは今頃この匂いをどこかで嗅いでいるのだろう。そしてそのにおいに、何を思っているのだろうか。

 青い炎が消えたところで、下ごしらえをした根菜、じゃがいも、エシャロット、蕪、牛蒡、人参を加え、野菜だけで取ったブイヨン、ブイヨン・ド・レギュームを加える。しばらくしてふつふつと表面が波打ちはじめ、間もなく沸騰するであろうと思われる頃に火を極弱火にして、その温度を持続させるようにして煮込む。スープが沸騰してしまうとブイヨンが濁る。それを防ぐためなるべく沸騰しない温度で煮込むのだ。

 それから三時間余り、静かに煮込まれた野菜は煮崩れを起こさない。縮緬キャベツを加え、ひと煮立ちしたところでメインとなる具材を取り出し皿に盛りつける。
表面に浮いた少量の灰汁は卵白を使って引く。卵白を軽く泡立て、残りのブイヨンに加える。かき混ぜて静かに沸騰させると卵白に含まれるアルブミンが肉から出てくるアルブミンと結合し、卵白で包み込んで固めてしまう。ひき肉を加える方法などもあるが、なるべくアベルさん以外の肉は加えたくないので卵白だけで行う。これを濾すと、黄金色に輝く透明なスープが出来上がる。

「味見をしてみるか?」と、堂嶋さん。実はこの瞬間を待っていた。この瞬間のため、あたしは青春時代を棒に振り、日々料理の勉強に費やしてきたのだ。


 ――人肉を味わうために。

 あたしの目の前に用意されたのは……先程濾されたばかりの黄金のスープ。味見用の小さな器に少量注がれ、あたしの目の前に置かれた。どこまでも透明で蜂蜜のように美しい黄金色。こつんとテーブルに置かれた振動で器の中に波紋が広がり、器の淵にぶつかり跳ね返ってくる。その波が再び次の波とぶつかり、中心と外側へと向かう二つの波に変わる。その波の重なりこそがその味わいのハーモニーであり……と、言うか……これだけ?

「あ、あの……こんなことを聞くのは差し出がましいと思うのですが…… その……指の燻製の方は味見……できませんよね?」

「ははははは」と、声を出さずに笑う堂嶋さん。「ゲストは五人。指も五本だからね。さすがにそれは無理があるな。でも大丈夫。そのスープにはしっかりと指のうまみが溶けだしている。それだけでなく、野菜のうまみもすべてそのスープのために作られたようなものだ。それさえ味わえばすべてがわかるさ」

「は、はい……」

 とは、言いつつも。なんだか少しだけ騙されているような気がする。
 味見用の皿を手に持ち、顔に近づける。それほど調味料を加えた様子もなかったが、とてもスパイシーな香りがした。器に口をつけてすする。

 一瞬で、世界に色が添えられるような気がした。それはとても普通のポトフのスープとは違うものだった。スパイシーで少しの酸味、それのとても深いコクがある。そのコクの正体が燻製によるものなのか、アイラモルトによるものなのか、あるいはそれこそが人肉の出せるうまみなのか、経験の浅いあたしには上手く判断ができない。しかし、言うなればそれはそれらすべての複合であり、辛みや酸味、うま味とも違う味、人間味と言うものなのかもしれない。
アベルさんは癖の強い、頑固な性格だったと遺族の人は言っていた。その通り、このスープの味わいこそはまさにその通りだと言えるだろう。とても個性的でコクの強い、他に例のない味わいだと言える。
そして、器によそわれてから時間が経っているというにも関わらず、その温かさは喉元を過ぎても冷めることなく、たった一口で体全体を暖めてくれた。まるでアベルさんのその大きな手で抱きしめられたような、物理的ではない温かさを感じた。あたしが今まで味わったことのない、家族の暖かさ。そのスープは、その暖かさを秘めている。


――ひとは、たった一口味わっただけの料理で感動して涙を流すことだってあるのだ。その経験がある人間は、それだけでとても幸福な人生だと言えるだろう。


夕方の四時。芹沢家のいつもの夕食時間だ。決して広いとは言えないダイニングに遺族五人が全員そろう。自宅ではあるが、皆一同によそ行きのドレスに身を包んでいる。今日は特別な、お祝いの日なのだ。先にこの世を旅立った先祖と、一つになるという行事。
一昔前まではこういう席では喪服を着るのが当然だったらしい。しかし、現在の習慣では喪服を着るのはお葬式まで。先祖の食事会はハレの日として祝うべきとされ、今ではドレスアップが通常だ。おそらくは政府がこの食人習慣を肯定させるためであり、また、遺族がその席で請け負うべき贖罪を和らげるためでもあるのだと思われる。

あたし達は出来上がった料理を配膳し、食事の開始とともに席を外す。人肉調理師の仕事はあくまで人肉の調理であり、食事を見守るという義務はない。むしろ、その場に入るべきではないと堂嶋さんは言っていた。その食事は単なる食事と言うわけではなく、一族にとって儀礼的な食事でもあるし、故人との最後のお別れ(あるいは統合)の場でもある。部外者がいたのでは話にくい会話だってあるかもしれない。

あたし達はダイニングの隣の部屋の、台所へ移動して食事が終わるのを待つことになる。なにか給仕の用があるかもしれないので遠くへ行くわけにはいかない。離れた部屋のガラス越しにその食事の様子をうかがう。皆は今、そこでどんな会話を交わしているのだろうか。聞きたい気持ちもあるが、彼らにも守られるべきプライバシーだってある。家族が団らんで食事をする風景を眺め、思いをはせる。あたしには、ああやって一緒に団らんする家族すらいたことがない。そこでいったいどんな会話がなされるのかなんて、想像すらできなかった。

孫のアネットちゃんがスプーンを置いて、両手で指の燻製をスープ皿から掴み取る。しばらく見つめて、それからその指を口元へと運ぶ。アネットちゃんの小さな歯で挟まれた指肉はとても柔らかそうに、すっとほぐれて骨から身が剥がれる。アネットちゃんはしっかりと味わうように奥歯でかみしめる。「頭をポンポン撫でてくれるのがとっても好き」と言っていたその手の小指を、アネットちゃんはしっかりとかみしめ、しっかりと味わう。その瞳に、じわりと涙がにじむ。アネットちゃんはそれを必死で耐えようとするが、やはりどうにも耐えきれられず泣き出してしまったようだ。家族はそんなアネットちゃんをなだめる。きっとほかの家族だって本当は泣きたいんじゃないだろうか? そんなことも考えてみる。あたしには家族はいないのではっきりとは言えないが、やはりどんな理屈をつけようと家族を失うことは悲しいことで、涙を我慢するにはきっととてもしんどいことなのだろうと思う。それが小さな女の子ならなおのことだ。でも、どんな人も死から逃れることはできない。だからもっとも前向きな手段でそれを乗り越えなければならないのだ。おそらくこの食事会にはそういった儀式の意味が込められているのだろう。

ポン。と、後ろからあたしの肩に手が置かれた。堂嶋さんの手だ。あまりにも食事の風景を凝視してしまっていたあたしを咎めるためのものだろう。でも、大きくて温かい手だった。あたしは振り返り、芹沢家の食風景から目を反らした。

台所の対角線まで移動し、今のうちに簡単に食事をとっておくことにする。

余分に焼いたパンと、多めに作っておいたサラダ。当然、ポトフはない。

サラダは申し分なくおいしかった。あたしの腕がいいわけじゃない。野菜の質がいいのだ。ほとんど手の加えられていない生野菜のサラダにコックの実力はあまり関係しない。しかし、ライ麦の田舎パンもとてもいい出来だった。いつもとは違う環境で作ったパンだったが、その環境に応じて上手く対応できていた。

「今日のパンは今までの中で一番出来がいい」

 と、堂嶋さんも褒めてくれた。少し照れくさかった。照れくさいついでに、ちょっとばかり調子に乗ってみた。

「そ、その……そういう時は、そうやってほめる時は……頭をぽんぽんしてくれると……嬉しいです……」

「はあ?」

「だめ……ですか?」

「い、いや、別に……だめでは……ないけれど……」

「じゃ、じゃあ……おねがいします……」

「やれやれ」と、堂嶋さんは小さくつぶやいた。少し照れくさそうではあったが、それなりになれた手つきで頭を撫でてくれた。大きな手で、ごつごつしていた。それは家族のいないあたしには初めての体験で、アネットちゃんが言うほどそれほどいいものだとは思えなかった。

 でも……なんだろう? 少しだけ、胸の奥がざわついた。
 
 芹沢家の食事は一通り終わった様子だった。しかし、まだ団らんは続いている。思い出話にでも華が咲いただろうか。きっとまだまだ遅くなるんだろうなと思った。しかし、それが終わるのを黙って待つというのもコックの仕事のうちだと堂嶋さんは言った。堂嶋さんはかつて、人肉調理師の資格を取る前は自分で小さなレストランを経営していたという。閉店時間を過ぎても談話が終わらず、それに区切りがつくまでひたすら待つということもしばしばだったという。

 簡単な食事を終えたあたしたちもそこでしばらくの手持ちぶたさだった。堂嶋さんは料理に使い、それでもわずかに残ったアイラモルトのウイスキー、アードベックを持って来て、グラスに注いだ。それでもまだ少しボトルの中に残っている。

「香里奈君も、もう大人だろ?」と言い、もうひとつのグラスに残りを全部そそぐ。

「これもアベルさんへの手向けだ。君も付き合え」

「あ、あの……これって、そのまま飲むものなんですか? 氷とか、水で割ったりとかは……」

「もちろん、それは好みで構わないが、まあ、このまま飲む方が一番味わいがダイレクトに感じることができるからね」

 そう言ってグラスを手に持ち、くいっとグラスを傾ける。あまりに普通にそうするものだからそれが普通なのだろうとあたしもそれにならい同じように口をつけた。

 喉元を焼けるよう刺激と香味が走り、思わずむせ返ってしまった。

「こ、これって、こんなにつよいものなんですか!」

「ああ、だから言ったじゃないか。アイラモルト、特にこのアードベックは特別癖が強い酒だって、アベルさんにぴったりの酒だ」

「そ、そういう簡単な問題じゃないですよ、これは。こんなにつよいお酒、何でそんなに平気なんですか!」

「まあ、そういうものさ。のど越しは少しばかりきつくても、それはすぐに終わることだ。ウイスキーだけにとどまらず、多くの酒は
その先にこそ本当の味わいがある。ほら、少し気を静めてその余韻を味わってごらん……」

 言っている意味がよくわからなかった。が、それはほんのわずかな間のことだ。強いアルコールが喉元を通り過ぎて、その痛みがようやく収まり始めるころ、喉の奥の鼻腔の裏側でじわじわとウイスキーの香りが立つ。これは確かに、磯の香りだ。アイラ島が絶海の孤島でその醸造所が潮風にさらされているその情景が浮かんでくる。とても個性的な香りで、クセの強い……たしかに話で聞いたアベルさんのような味わいだ。正直、やはりあたしにはまだ早いが、こういうお酒のたしなみ方もあるのだということくらいは憶えておこうと思った。しかし、まだまだお酒の経験の浅いあたしにはいくぶんこのお酒は強すぎた。わずかに舐めたばかりのそのグラスを堂嶋さんに差し出した。彼はその二杯目のウイスキーもぺろりと飲みこんだ。

「堂嶋さんは、ウイスキーが好きなんですか?」

「酒なら何でも好きだ……と言えば軽蔑するかな? でも、ウイスキーっていうのはとても面白い酒だよ。当然、長期熟成すればその分価値が上がるというのは言うまでもないが、熟成が増すほどに味わいは深く複雑になっていくのに対し、口当たりの方はどんどん優しくまろやかになっていくんだ。それってなんだか人間みたいじゃないかな」

 ……なんて、少しはうまいことを言ったつもりなのだろうか。
まったく。普段は朴訥なくせに、料理と酒のことになると急に饒舌なる人だ。

しばらくして食事と談話とを終えたのち、あたしたちはテーブルその他の片づけを始めた。そこまでがあたし達人肉調理師の仕事だ。料理は当然、すべて平らげていた。それぞれの皿に残るのはアベルさんの指の骨のみ。指の骨にはほとんどまったくと言っていいほど身は残っていない。小さくて複雑な指の骨の周りにつく肉は丁寧に骨にしゃぶりつかない限り、こうまできれいに食べることはできないだろう。食卓の誰もがそれをいとわずにしたことに関して、これほど料理人冥利に尽きるものはないだろう。
堂嶋さんがテーブルのお皿を提げようとした時、アベルさんの末娘、ガブリエルさんが「あ、その骨」と言った。
「はい。かしこまりました」と、堂嶋さんは答えた。

 たったそれだけの会話で互いの意思は確認できたようだった。

 食器の上に残された指の骨を台所へ持ち帰った堂嶋さんは、鞄の中から陶器製の器を取り出した。直径8cm、高さ15cm位の白い円柱型で、同じく白い陶器製の蓋がついている。

「なんですか、それは?」

「これはね、骨壺と言うものだよ」

「骨壺?」

「以前、この国の文化では死者は火葬され、残った骨を骨壺に収めて埋葬していたんだ。昨今、ほとんどの遺体は国が引き取るのでこの風習はなくなったが、こうして骨を身近なところに保管しておきたいというものも少なくはない。だから僕たちはそれに対応するためにこうして骨壺を持ち歩いているのさ」

「ああ、なるほど、そういうことなんですね。あたし、昔から気になってたことがあるんです。学生時代、学校の先生が生徒になにかを挑戦させようとするとき、『骨は拾ってやるから』って言っていたんです。その時、あたしたちは『骨を拾うってなんなんだよ』って笑ったんです。要するにあれって、死んだ時は自分が食べてやるっていう意味だったんですね」

 その言葉に対し、堂嶋さんは少しだけ困った顔緒をして、そして優しく笑いながらこう言った。

「うーん、まあ当たらずしも遠からずといったところだな。当時は死者を食べる習慣はなかったわけだからね。でもまあ、死者を弔ってあげるという意味では同じ意味だと言えるだろう」

 堂嶋さんはそう説明をしながら食器の上の骨を平たいお皿に白い布を敷き、その上に並べた。

 ダイニングのテーブルに骨の乗ったお皿を置き、その隣に先程の骨壺を置く。堂嶋さんから全員に箸が配られる。一本は竹で一本は木の箸と言うちぐはぐな箸だ。初めは間違えているのかと思ったがそれで間違っていないらしい。ミッシェルさんはそのいかにも扱いにくそうな箸で骨を一本拾い上げ、そのつまんだ骨を隣にいる菫さんが同じようにちぐはぐな箸で受け取り、同じようにとなりのアネットちゃんんへ、続いてラファエルさん、ガブリエルさんと続き、最後にその骨は骨壺の中へと収められる。これは箸渡しと言う儀式らしく、あの世で渡ることになる三途の川を箸をかけて渡してあげようという、掛詞のような意味を持っているらしい。地域によっては男女がペアになって箸を一本づつもち、二人で骨を拾うなんて言う難易度の高いことをする場合もある。いずれにしても、死者に対し、尊厳を持って丁重に扱うということに関して一貫していると言えるだろう。

 骨壺に収められたアベルさんの指の骨は家の裏手にある祠のところに持って行った。祠には、目印として白い十字架が掲げられている。その下の地面を掘ると、そこには同じように白い骨壺が埋まっていた。話によれば、おそらくそれには奥さんの小百合さんの上腕骨が収められていると考えていいだろう。その隣に、アベルさんの指の骨の詰まった骨壺が収められた。

 あたし達、人肉調理師の仕事はこれで全てが終わった。遺族からは繰り返し何度もお礼を言われた。仕事をしてこれほど人に感謝をされる仕事は早々あるものではないだろう。荷物をまとめ、帰り際にミッシェルさん一家が見送りに来てくれた。最後にミッシェルさんは堂嶋さんに言った。

「この度は本当にありがとうございます。それで、次なんですが……」

「次、ですか」

「はい、ちょうど来年の今頃になると思います。アネットが十歳になるので次はわたしの番です。その時はまた、ぜひとも堂嶋さんにお願いしたいのです」

 堂嶋さんはその言葉に、少し驚いたような表情を一瞬浮かべたが、

「ありがとうございます。お気持ちはうれしいのですが、人肉調理師も現在人手不足です。あまり先のこととなると確実なお約束はできないのです。ですが、日にちが近づきましたら管理局へご一報ください。スケジュールが可能な限りで指名には応じるようにしてあります」

「わかりました。それではまた改めてお目にかかる日を……って、その時わたしはお目にかかることはできないんでしたね。ほんとに、この度はありがとうございました」

「お役にたてれば幸いです」

 そう言って堂嶋さんは少しはにかんだ。そして、去り際に最後、ひとことだけ言葉を添える。

「――それでは、芹沢家にこれから先の、さらなる繁栄があらんことを」


 ひととおりのあいさつを終え、さあ、出発と堂嶋さんが車のエンジンをかける。 
 そういえば……

「そう言えば堂嶋さん。さっきお酒飲みましたよね?」

「あ――」

 まったく。どういうわけかこの堂嶋さんと言う人はところどころ抜けているところがあるようだ。きっといつかお酒でとんでもない失敗をするんじゃないだろうかと考えてみたりする。

「いいです。あたし、運転しますから」

「君は、運転免許を持っているのか?」

「ええ、一応は……」

「そうか、それは助かる。香里奈君と一緒ならどこに行っても気兼ねなく酒が飲めそうだ」

 ――まったく。