周は良雄から話を聞いた時からずっと考えていることがある。否、咲良に告白された時からだ。それはどれだけ考えたって答えの出ないもので、正解もきっとどこにもないものだ。けれどこうやって悩んでしまうのは、その事柄が他人からしてみれば好奇の対象となってしまうからだ。

 人と違うというのは当たり前のようでいてそうではない。個々の個性の違いはあれど、大抵の人は一般的な「正解」のルートを歩いていけると思う。その一般的な正解から外れさせしなければ、他人は余程のことがない限り人に干渉しない。だけど一度外れてしまうと人は簡単に残酷になれる。

 当たり前が大勢であればあるほど、ルートから逸れた人は攻撃に合う。それがこの狭い田舎社会なら、なおさら。
 周は咲良に告白されてからそのことを無意識に考えていた。自覚はしていなかったけれど「男同士で付き合う」という事柄に対して無意識に危機感を抱いていたのだ。それが以前授業中に書いた簡略的な将来設計図に×を入れた時に感じた漠然とした恐怖だ。未知に対する恐怖と同時に、周は他人からの目に恐怖したのだ。

 そしてその恐怖は規模はどうであれ現実に襲ってきた。無慈悲に、残酷に、容赦無く、考え無しな行動と言動となって咲良を攻撃した。そして周もその片鱗を受けた。咲良の気持ちに応えるということは、この悪意に晒され続ける覚悟をしなくてはならないということだ。

 そこまで考えて、周は鼻で笑った。
 そんな覚悟、とっくの昔に出来ているじゃないか。


 ───


「フミさん、おはよう」
「ああおはよう、咲良なら海だよ」
「だよねぇ」

 お盆が近づく八月の中旬、朝。周は咲良の家に来ていた。港から近い、少し入り組んだ場所に建っているその家はかつて民宿だったこともあり外観は立派な日本家屋だ。その家の前に置いてある鉢植えにボールに汲んだ水を大雑把にあげているフミを見て周は声を掛ける。

 すると返ってきた言葉は想定通りだったが、やはり肩透かしを食らった気分になって小さく溜息を吐いた。「何かあったのかい」ぱしゃぱしゃと植木鉢に水を掛けながらフミが周を見ないまま問いかける。トメもフミも、多くを語らずとも雰囲気だけで何かを察してくれるところがある。これが年の功というやつなのかなと思いながら周は少しだけ重たい口を開いた。

「……咲良、元気?」
「腑抜けだよあの子は」
「え、ふぬけ?」
「なぁんでもないフリをしてるけどねえ、あんなのすぐわかるさ。生きてきた歴が違うんだ」

 ぱしゃりと最後の植木に水をあげたフミが曲がった腰を拳で叩きながら背筋を伸ばす。伸ばすといっても、もう完全に真っ直ぐになりはしない。少し猫背気味などこからどう見てもおばあさんなのに、眼光の鋭さはそこいらの漁師にだって負けはしないのにその目が周を見て、ほんの少しだけ和らいだ。

「あんたにはいつも迷惑ばっかり掛けてるねえ」
「…ぇ?」
「今回もどうせ咲良が拗ねてるんだろう? あんたが中学卒業した時みたいにさあ」

 そう言われて思い出したのは中学校の卒業式の日だ。お祝い事の日はとりあえず焼肉をするという決まりがある南家はその日も咲良たちを呼んで大騒ぎだった。けれど咲良だけが始終浮かない顔をしていて、そのあと周の部屋に来た咲良がこう零したのだ。

「卒業とかしないで」

 周はそれは流石に無理だしもう卒業したと言ったら咲良が拗ねて帰ってしまったのだ。あの時ばかりは周もぽかんとしてしまってなんの対策も打てなかったけれど、翌日フミから「謝りに行かせる」と電話があったのだ。そして謝りに来た咲良だったけれどその顔があんまりにも不満そうで笑ってしまったのを思い出す。

「…あったね、そんなこと」
「今度は何に拗ねてるんだか。大方あんたのことだろうけどねえ」
「……当たらずとも遠からずってやつかも」
「そうかい。今日の昼過ぎには帰ってくるだろうけど、うちで待っとくかい?」
「ううん、大丈夫」

 周は首を振った。そしてそのままじっとフミを見る。
 一番古い記憶の中にいるフミの背は曲がっていなかったし、トメと同じように周よりも視線が高かった。けれど今は周の方が背が高く力も強い。それでも周の中ではいつだって咲良の手を引いて歩いているしっかりとしたおばあさんだった。周の家で寝てしまった咲良をおんぶして帰った姿も見たことがあるし、我儘ばかりで言うことを聞かない咲良の耳を引っ張って引き摺るパワフルな姿だって見た。

 咲良は周だけが咲良を大事にしていると言ったけれど、それだけは大きな間違いだ。咲良のことを誰よりも考えて、咲良のことを誰よりも愛しているのは絶対に間違いなくこの人だ。

「フミさん」

 真っ直ぐに出したつもりの声は少し震えていた。
 また鋭い目が周を捉える。ああ、少し瞼が重たくなっているけれど、咲良の目はフミに似ているのだとわかると少しだけ緊張が和らいだ。

「……おれ、もしかしたら咲良の人生めちゃくちゃにしちゃうかもしれない」

 数秒、無言の時間が続いた。フミはただ真っ直ぐ周を見て、周も目を逸さずにそのままでいる。糸が張り詰めたような緊張の中、それを崩したのはフミだった。

「……あんたにめちゃくちゃにされるなら、あの子も本望だろうさ」

 何かを悟っているようなそんな笑顔だった。フミが笑う時は大抵豪快に大きく口を開けるものか、それとも悪巧みをしたような口角を上げるものだ。だから今浮かべているような柔らかな笑顔を、周は見たことがなかった。フミはそのまま軒先の植木鉢に視線を向けた。白い花が落ちて、実る準備を始めた南天の木がそこにはあった。

 周はその木に覚えがあった。なぜならその木は父の優と咲良と三人で母の日のプレゼントとして選んだものだからだ。けれどそれは二人がまだ小学生だった頃の話で、あれからもう随分と年が経っている。けれどその南天は今も瑞々しい緑の葉を茂らせ、冬になると鮮やかな赤い実をつける。大事にされている木だと、周は思った。
 フミは南天をそっと優しく撫でる。細くて日に焼けた手の甲には皺と太い血管が目立っていた。その撫で方を周は見たことがある。それも随分と昔だけれど、周はその手の動きを鮮明に覚えていた。

「…大丈夫さ、アタシは」

 あの時周が掛けた言葉を今度はフミが口にした。自分にも周にも言い聞かせるようなその小さく掠れた声に、周は唇を噛んでただ頷くことしか出来なかった。