土手を登りきり、啓介は両手を挙げて伸びをする。
遠くから「おーい」と言う声が聞こえ、啓介はそちらに目をやった。
「二人ともなにやってんの……って、うっわ、泥だらけ。ってか、もしかしてそれ血?」
自転車を漕ぎながら近づいてきたクラスメイトが、二人の姿を見るなり驚いて急ブレーキをかけた。甲高い音が鳴り響き、啓介は思わず耳を塞ぐ。
「もしかして、また啓介からまれたの?」
「そう、聞いてよ。僕、一人で帰ろうとしたらね、椚高校のヤツらがここで待ち伏せしてたの。これで三回目だよ、酷いでしょ?」
拗ねたように口を尖らせて、首を軽く傾ける。華奢な見た目と綺麗な顔のせいで、制服を着ていなかったら女子に見間違えられそうだ。クラスメイトは一瞬、啓介に見惚れたように息を呑んだが、ハッとして言葉を続けた。
「何でそんな絡まれるようになったんだよ」
「んー。初対面でいきなり、カラオケ行こって強引に誘われたんだよね。まぁ、全力で拒否したんだけど。それ以来、たまに絡んでくるようになっちゃった」
直人とクラスメイトが「うわぁ」と同時に顔をしかめる。同情めいた眼差しを向けられたが、啓介はにっこり微笑んだ。
「僕は可愛いからね。しょーがない」
「まぁ、そうだけどさぁ、気を付けろよ」
心配そうに啓介の肩を叩き、「じゃあ、またな」と、クラスメイトは自転車のペダルに足を乗せる。
「ばいばーい」
走り去る自転車に向かって、啓介は大きく手を振った。それから意味もなく辺りを見回し、山しかない風景に改めてうんざりする。
「ほんっと、いつ見ても代わり映えしない景色。あーあ、東京行きてー」
「行きゃいいじゃん」
「わかってないなぁ。遊びに行くんじゃなくて、住みたいんだよ。そんで、僕にしか出来ない仕事がしたいの」
「ふーん」
興味が無いと言うよりは、少し苛立ったような声のトーンだった。
北関東三県のうちの一つ。古くから織物で有名なこの町は、山と川に囲まれ、田舎と呼ぶに相応しい自然に恵まれていた。
かと言って不便かと聞かれればそんなこともなく、全国的に普及している飲食店や量販店は大体揃っていたし、小洒落た店も少数ではあるが存在する。なにより特急列車に乗れば、二時間余りで容易に都内に行くことも出来た。
普通に生活する分には全く問題ないのだが、なんとも中途半端で常に物足りなさを感じる。
啓介にとってこの町は、兎にも角にも退屈だった。
「あー。そっか」
無造作に停めた自転車のカゴに鞄を放り込みながら、ふいに気が付く。
「直人はこのチャリ見て、僕が高架下にいるってわかったのか」
「そうだよ。こんな土手の真ん中に唐突に停めてあったら、どうしたんだろって思うじゃん」
ぶすっとした表情で直人は自分の自転車にまたがると、啓介を待たずに漕ぎ出した。絡まれる度に喧嘩に応じてしまうことに腹を立てているのかと思い、啓介は直人に追いついて「ごめん」と告げる。
「心配してくれて、ありがとね。これからは、なるべく喧嘩しないようにするから怒んないでよ」
「喧嘩? あぁ、うん。ホント気を付けろよ」
「あれっ。怒ってる理由、喧嘩じゃないの?」
「は? 俺は別に怒ってないし」
いやいや、怒ってるでしょう。と、啓介は直人の自転車を足で小突いた。ぐらりと自転車が揺れて、直人は慌ててハンドルを切る。
「危ねぇな。ばーか」
「直人って口悪いよね」
「すぐに手と足が出るお前もどうかと思うけど。あと、自分のこと『僕』って言っても違和感ない見た目なのに、俺より喧嘩つえーとこもコワい」
「つまり僕は、強くて可愛くて最強ってこと? 直人、褒め過ぎぃ」
機嫌良さそうにケラケラ笑う啓介を横目に、直人は大きなため息を一つ吐いた。
「あのさぁ。前から思ってたんだけど、その女っぽいキャラ疲れねぇの?」
だらだらペダルを漕ぎながら、直人が呆れたような声色で言う。
直人に合わせるようにゆっくり並走していた啓介は、「は?」と顔をしかめ、次の瞬間、勢いよくスピードを上げて一人先に行ってしまった。
置き去りにされた直人はポカンとしたまま遠ざかる背中を眺めていたが、我に返り慌ててペダルを踏み込む。
「オイ、何だよ急に。啓介っ」
「先帰る。じゃーね!」
啓介は振り返って直人を睨み、すぐにプイッと前を向いてしまった。直人は舌打ちしながらも、更にペダルを漕ぐ足に力を込める。
「待てってば! 何で啓介は短時間でジェットコースターみたいに機嫌良くなったり悪くなったりすんだよ」
追いついた直人が啓介の肩を力任せに掴んだ。その拍子にバランスが崩れて自転車が傾き、啓介は「うわっ」と悲鳴を上げる。何とか転ばず持ちこたえ、漕ぐのを止めて惰性で走り続ける自転車の上で冷や汗を拭った。
「ちょっと、馬鹿なの? 走りながら引っ張んないでよ」
「じゃあ逃げんなって。なに、俺どの地雷踏んじゃったの。教えて」
「どーせ直人は僕のこと、こいつキャラ作って痛いなーとか思ってたんでしょ」
「そんなこと言ってねぇだろ」
また啓介が走り去らないように、直人は肩を掴んだまま諭すように言葉を続けた。
「お前が無理してんじゃねーかって、心配になっただけだよ。学校の人気者で皆からもそのキャラ求められてて、疲れるんじゃないかって」
「なにそれ」
鼻で笑った啓介は、直人から視線をそらした。幹線道路を走る車を眺めながら、さてどうしたもんかと思案する。「これが素だよ」と言ったら、直人はどんな顔をするだろう。
啓介の女性っぽい仕草や口調は、『キャラ』と言えばそれで全て片付けられた。小中高と、今まで茶化されることもなく平穏に過ごせてきたのは、見た目の良さと喧嘩が強かったお陰かもしれない。
女子に囲まれて賑やかに雑談をしていても、それで男子から妬まれることはなかった。啓介が「ガールズトークなの」と言って可愛らしく微笑めば、「お前は女子みたいなもんだもんな」と納得してくれる。
女子の方でも「啓介はみんなのもの」という暗黙のルールを作っているようだった。生徒同士で牽制し合い、抜け駆け出来ない状態なので、啓介が面倒な告白に煩わされることはない。
啓介の心と体の性別が一致しているのか、いないのか。
その辺は曖昧にぼかしたまま誰も直視せず、それこそ「そういうキャラ」としか思われていなかったとしても。
それでも今の状況は啓介にとって、とても楽で有難かった。
「別に無理してないよ」
本心だったが、高校から知り合った直人がどういう風に受け取ったかは、解らない。何となく「本当に?」と言いたげな視線を感じたが、啓介は気付かないフリをして川に架かる橋を無言で下った。相変わらず肩には直人の手が置かれたままで、頬を撫でる風は生暖かくて湿っぽい。
「今日バイトだよな。じゃ、また後で」
「うん、じゃあね」
橋を下り切り、分かれ道に差し掛かると直人が軽く片手を挙げた。啓介もそれに応えるように手を振る。
一人になっても先ほどまで直人の手が置かれていた肩が熱くて、それを振り切るように自転車を漕ぐ速度を上げた。
暫く進むと鉄骨造りの二階建てアパートが見えてくる。築十五年にしては洒落た外観で、啓介はこの住まいを気に入っていた。2DKの間取りは、母親との二人暮らしには充分な広さだ。
玄関のドアを開けると、部屋の奥からミシンの音が聞こえてきた。服を作るのが好きな母親は、縫製工場に勤めながらも休日にまで楽しそうに裁縫をしている。趣味が高じて自作の服をネットで販売しているが、評判は上々らしい。
「啓ちゃん、おかえりなさーい」
ダイニングキッチンと隣り合った母親の部屋のドアは、いつも開けっ放しになっている。
冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出した啓介に気付き、母親は手元へ視線を落としたまま声を掛けた。型紙や裁断途中の布が広がった足の踏み場もない部屋に向かって、啓介は「ただいま」と返事をする。
ひと段落してミシンから顔を上げた母親は、啓介を見るなりギョッとした。
「やだ啓ちゃん、なにその血! 怪我したの?」
「あ」
返り血で汚れていたことをすっかり忘れていた啓介が、気まずそうに目を逸らす。
「えーと、うん。へーき、へーき。これ僕の血じゃないし」
「えっ、じゃあ誰の血なの? なんで他人の血が啓ちゃんのシャツについてんの」
「ちょっと色々ありまして……喧嘩、みたいな?」
色々詮索されたら面倒臭いなと思いながら、手にしたグラスから麦茶を口に含んだ。
「喧嘩って誰と。もしかしていじめられてるの? 学校に抗議の電話してあげようか」
大真面目な母親の言葉に、啓介は思わず口の中に入っていた麦茶をシンクに吹き出した。しばらく咳き込んた後、涙目で母親を睨む。
「ねぇ、絶対やめてよ、そんなこと。高二にもなって喧嘩に母親が出てくるとか、恥ずかし過ぎてムリ」
「高二とか関係ないでしょ。可愛い息子が血まみれのシャツ着て帰ってきたら、ビックリするじゃない」
頬を膨らませる母親は、実年齢以上に幼く見える。
もとより、十九歳で啓介を産んだ母親は実際にまだ若く、姉に間違われることも度々あった。啓介はやれやれと首を振りながら念を押す。
「とにかく、千鶴は余計なコト絶対にしないで」
「えーっ、本当に大丈夫なの? ヘンなことに巻き込まれてない?」
「巻き込まれてないし、これからはもっと気を付けるから大丈夫」
心の中で「多分」と付け加えた。
また絡まれることはあるかもしれないが、出来るだけ無視しよう。最悪喧嘩になったとしても、返り血にさえ気を付ければ問題ない。
渋々納得した千鶴は、それ以上何も言わず手元に視線を戻した。
部屋には再びミシンの音が響く。
千鶴が使っているのは、プロも使用する「職業用ミシン」だった。厚手の布も難なく縫えるし、何と言っても縫い目が綺麗で家庭用ミシンとは仕上がりが段違いだ。
啓介も服作りにはかなりの興味を持っていて、千鶴のミシンを拝借することがよくあった。雑誌で気に入ったデザインの服を見つけては、自分なりに型紙におこして再現している。今度は何を作ろうかと思案しながら部屋に戻りかけた啓介を、千鶴が「ねえねえ」と呼び止めた。
「クリーニング屋の奥さんがね、バイト中の啓ちゃん見かけたらしくて、『相変わらずイケメンだね』って褒めてたよ。一緒に働いてる男の子もカッコ良かったって言ってたけど、今度うちに連れて来てよ、会ってみたい。啓ちゃんとどっちの方がイケメン?」
「はぁ? 僕に決まってんじゃん。てゆーか僕のこと『啓ちゃん』なんて呼んでるうちは、ぜってー会わせないけどね」
どうでもいい事で引き留められて、苛立ったように啓介は頭を掻いた。
「この呼び方嫌だった?」
「嫌に決まってんだろ」
「なんだか今日の啓ちゃんは、男の子の割合多めだねぇ」
千鶴の言葉にハッとする。「なるほど」と思いながら自室のドアノブを引いた。
いつもマイペースでぽわんとしているが、さすが母親なだけあって啓介自身よりも啓介のことをよくわかっているようだ。
「そっか、今日は男が強めの日なんだな」
殴り合いの喧嘩をしたせいだろうか。それとも、逆にそんな日だから喧嘩に応じてしまったのだろうか。少し考えて「どっちでもいいか」と血の付いたシャツを脱ぎ捨てた。バイトに行くまでは、まだもう少し時間がある。
ベッドにうつ伏せで倒れ込み、深く息を吐いた。自分の手が視界に入り、意味もなくパタパタと動かしてみる。随分節くれだってゴツゴツした指先だ。
「どっからどう見たって、男の手だよね」
この手が嫌で嫌で仕方ない日がある。
筋張った手だけでなく、喉仏も肩幅も、低い声も何もかも。
そんな日は女の子に生まれたかったと自分を呪う。クラスで女子と話しながら、鈴を転がすような高い笑い声と口元を覆う細い指に嫉妬した。
それが何日も続くこともあれば、すぐにケロッとして「男のままでもいいかな」なんて思えたりすることもある。
性別がグラグラと日ごとに揺れるのを、物心ついた頃からずっと繰り返していた。
「男の僕と女の僕が内側で同時に存在してるなんて、直人に言ってもわかってもらえないだろうなぁ」
例えば誰かに性別を問われたら、生物学的な特徴からすれば男なので「男」と答えるだろう。だけど男だと言った瞬間、とてつもない違和感に襲われるのだ。
男でもあるし女でもある。
なんなら、そのどちらでもないような気さえする。
こんな不安定な人間はこの世に他にもいるだろうかと、スマートフォンの検索画面を開き、結局やめた。打ち込むべき言葉が見つからない。キーワードを羅列すれば欲しい答えを得ることが出来るかもしれないが、それも少し怖かった。
「僕は僕だ……」
言い聞かせるように呟いた。
高架下で青春の一ページのような喧嘩をしてから約一カ月。啓介は相も変わらず平凡で退屈な毎日を送っていた。
正確には一度、椚高校の生徒にいつもの河川敷で待ち伏せされ、否応なしに大乱闘に巻き込まれたのだが、特に面白くもなかったのでそれはノーカンだ。
「いや、直人のおとーさんはちょっと面白かったかな」
教室の窓側の一番後ろという特等席で、啓介はこっそり思い出し笑いをする。
前回、三人では啓介に全く歯が立たなかった椚高の生徒らが、今度は節操なく頭数を増やし、高架下で待ち構えていた。直人が一緒の時で良かったと思いつつ、啓介はシャツを汚さないようにしなきゃと呑気に考える。
いつも通り一人ずつ沈めていけばいいと殴り合いを始めたのだが、流石に数が多くて圧された。一撃で仕留められず、手数が増えて体力を消耗させられる。
ニヤニヤしながら奴らが「さっさと剥いてヤッちまおうぜ」と言っているのを聞き、その意味を理解した瞬間、血の気が引いた。ただ単純に殴り倒されて終わりということではなく、袋叩きにあった後、さらに地獄が待っているらしい。
途中から啓介は、シャツの汚れを気にする余裕を失った。
息を切らして四方から伸びる腕をかわしながら、あまり力の入らなくなった拳を何とか振り下ろす。
しぶとく反撃を続ける啓介と地面に転がる仲間たちを見て、苛立ったようにリーダーと思しき男が「クソッ」と叫んだ。早々に決着を付けようとしたのかもしれない。河原から木材のようなものを拾いあげる姿が目の端に映り、啓介は流石に戦慄した。
その棒切れを持ったまま直人に近づく様子を目の当たりにし、啓介は顔面を殴打されるのも構わず「避けろ!」と叫ぶ。
「何やってるんだ!」
渾身の啓介の叫びすらも掻き消すような、野太い男の怒鳴り声が辺りに響いた。
空気をビリビリ震わせる迫力に、そこに居た者たちは思わず一斉に動きを止める。声のした方に視線を向けると、土手の上から仁王立ちでこちらを見下ろす男の姿があった。
逆光に浮かび上がるシルエットを見ただけでも、格闘技の経験者だろうと思わせるような体躯だ。誰もが「何者?」と警戒する中、直人だけが嫌そうに「マジかよ。親父」とこぼした。
「その制服、椚高だな。今のアタマはどいつだ。たった二人を相手にこんな大人数を用意したなんて、情けねぇ」
言いながらこちらに向かってくる直人の父親に、生徒達は身構える。
「誰だてめえ」
木材を手にしたまま、リーダー格の生徒が睨み返した。しかし直人の父親は、今にも殴り掛かってきそうな生徒を前にしても、少しも怯まない。
「お前ら椚に通ってんなら、一度くらい『陣野』って名前を聞いたことがあるんじゃねえか?」
「陣野って……まさか、あの」
明らかに顔色が変わった椚高の生徒を見て、直人の父親がニヤリと笑う。
「そうだ。俺があの陣野だ。あんまりみっともねぇことして椚の看板汚すなら、俺がお前らブッ潰すぞ」
低い声で凄まれて、椚高の生徒が震えあがった。陣野という人物は、彼らにとって特別な存在のようだった。そしてそれも納得してしまう程の気迫が、直人の父親から溢れている。
啓介は呆気にとられながらも、これで助かったと安堵する。ホッとしたせいか、殴られた頬が今更になって痛んできた。
「おい、お前ら帰るぞ」
大人しくなった椚高の生徒を一瞥し、陣野が啓介たちに声をかける。ズンズンと大股で土手を登り、停めてあった軽トラックの荷台に啓介と直人の自転車を積み込み始めた。白い軽トラのドア部分には『陣野酒店』と大きく表記されている。
配達途中だったのかなとぼんやり考えていたら、直人に肩を掴まれた。
「啓介、顔殴られたのかよ。お前がやられるなんて珍しいな」
「あー。直人が木材で殴られそうになってたから、ちょっと気を取られて油断しちゃった」
「ごめん。俺のせいだな」
「違うよ」
笑いながら啓介は首を振ったが、直人は申し訳なさそうに腫れた頬に触れ、もう一度「ごめん」と小さく呟いた。
啓介の鼓動が、ほんの少しだけ早くなる。どくどく跳ねる心臓をなだめていると、「おい」と自転車を積み終えた陣野に手招きで呼ばれた。
「お前、直人の友達か? こんな細い腕で、よくあいつらと渡り合ったな。よし、気に入った。今日はうちで飯食っていけ」
陣野が啓介の腕をまじまじと見ながらそう言った。ぽかんとして啓介は首を傾げたが、次第に笑いが込み上げてくる。
「あははは。直人のおとーさん、超面白いね。『気に入った』なんて、面と向かって言われたの初めて。僕、このまま帰ったら母親にめちゃめちゃ怒られるんで、ちょっと避難させてもらえると助かります」
「そうか。俺も『超面白い』なんて言われたのは初めてだ。そりゃ、そんなナリで帰ったら母ちゃんもビックリすんだろ。だったら今日は泊ってけ。明日にゃ腫れも、少しはマシになってんだろ」
「やったー! ありがとうございます、おとーさん」
あっさり馴染んだ啓介に向かって、直人が呆れたように「お前、順応力すげーな」とこめかみの辺りを押さえた。
結局、翌日には汚れの落ちきらなかったシャツと腫れの引かなかった頬を千鶴に気付かれ、散々小言を言われてしまったのだが。
授業終了のチャイムを聞きながら、啓介は机に突っ伏してククッと肩を揺らした。何度思い出しても笑える。
「何一人で笑ってんだよ、気持ち悪ぃな」
啓介の席までやってきた直人に頭をはたかれ、顔を上げた。
「直人のおとーさん思い出してた。だって、あんな漫画のキャラみたいな人、そうそういないよ? 椚高校の伝説の番長とか、面白過ぎるでしょ」
「酔って武勇伝語ることはあったけど、絶対盛ってると思ってたんだよなぁ。まさか本当だったとはね」
言いながら、直人が啓介の頬をさする。
「腫れが引いて良かった」
「そうだね。僕の綺麗な顔にキズが残ったら、直人に責任とってもらうところだったよ」
「責任?」
「そー。僕をお嫁に貰ってもらわなきゃ」
「あっはっは。おー。いいぞ、嫁いで来い。親父も喜ぶしな」
嫁に貰えと言われたんだから少しぐらい動揺すればいいのにと、啓介は口を尖らせた。
「なんでむくれてんだよ。今のは何て答えれば正解だったわけ? ホントお前の扱いムズカシイな」
笑いながら頬をつねってくる直人の手を、啓介は不機嫌そうに払いのけた。鋭く睨んだところで直人は少しも怯まない。その場にしゃがみ込んで啓介の机に顎を乗せ、「ねーねー」と呑気に話を続ける。
「啓介、もう進路希望調査の紙、提出した?」
「ううん。まだ」
「どこ行くつもり?」
「直人は?」
「俺は県内の大学。お前もそこにしろよ」
すぐに返事が出来ず、啓介は逃げるように視線を窓の外に移した。青々とした木がくっきりと濃い影を校庭に落としている。かなり日差しが強そうだ。そう言えば、毎朝時計代わりに付けているテレビが、梅雨は明けたと告げていたな。
そんなことを考えていたら、机をバンバン叩かれた。
「話してる最中によそ見すんなっつーの。とりあえず俺と同じ進路書け」
「えー。まだもうちょっと悩んでたい。夏休み中に見学行こうと思って」
「どこ見に行くの?」
啓介は直人の目を見たまま一拍置いて、「東京」とだけ答えた。直人が大きく息を吐き、先ほどの啓介を真似るように窓の外へ視線を逸らす。休み時間の賑やかな教室の片隅で、しばらく二人は黙ったままでいた。
最近の直人は啓介が東京と口にするたび不機嫌になる。
啓介の頭の中を、言い訳がぐるぐる駆け巡った。行きたい理由は死ぬほどあるが、直人はどれも納得してくれないだろう。
「お前さ、ホントは彼女いるだろ。彼女と一緒に東京の大学行く約束でもしたのかよ」
「は?」
全く想定していなかった言葉に、啓介は本気で首を傾げた。
きょとんとする啓介がとぼけているように見えたのか、直人は問い詰めるように机を指でトントン叩く。
「水臭いじゃん、言ってくれればいいのに。この前見ちゃったんだよね、お前んちの近くのスーパーで仲良く買い物してるところ」
その一言で全てに合点がいった啓介は、脱力しながら教室の天井を仰いだ。
「……なるほど。僕と一緒にいた人ってさぁ、チョコレート色のゆるふわ髪じゃなかった? そんで、僕は荷物いっぱい持たされてたでしょう」
「うん、そう。結構可愛かった。あの啓介を荷物持ちに使うなんてスゲーって感動した」
「あーもう。だから嫌だったんだよね。恥っず」
頭を抱えて呻く啓介を、直人が不思議そうに眺める。
「ん、どした? 内緒の恋人だったわけ?」
「違う、恋人じゃない。あれ母親」
「またまた、そんな見え透いたウソを」
「ウソじゃないって、今度会わせてあげる。近くで見たら僕と似てるよ。あーあ。母親と買い物とか、恥ずかしいとこ見られたの超ショック」
啓介は突っ伏して、大袈裟に落ち込んで見せた。ひんやりした机は、赤く火照った頬を冷ましてくれて気持ちがいい。そのまま顔を横に向けたら、机に顎を乗せている直人と視線が合った。
直人は手を伸ばし、啓介の目にかかる前髪を横に流しながらククッと笑う。
「そっか、彼女じゃなかったんだ。お前の母親ってスゲー若いな。でも偉いじゃん、荷物持ちするなんて」
「だってさぁ、半泣きで電話してくるんだもん。『車のつもりでいっぱい買っちゃったけど、自転車で来たこと思い出したから助けて』って。どーしょもないでしょ?」
「あはは。それでちゃんと助けに行ったんだ。お前にも人の血が流れてたんだなぁ」
「ねーそれどういう意味? まるで僕が冷たい人間みたいじゃない」
啓介の前髪に触れていた指先を引っ込めながら、直人が口角は上げたまま静かに目を伏せる。
「冷たいじゃん。俺を置いて行っちゃうんだから」
「置いて行くって……」
戸惑う啓介の言葉を掻き消すように「なんちゃって!」と、直人は明るく言い放った。
「見学いつ行くの? 俺もついて行こうかな」
「いいけど、見学の合間に髪切ったり服見たりするから、直人にはツマンナイかもよ」
「髪切るの? わざわざ東京で?」
うん。と頷きながら、啓介は長く伸びた自分の前髪をひと摘まみする。
「いつも髪は表参道の店で切ってもらってる。だって、最前線で戦ってる人の技術をあんなに間近で見られる機会って、そうそうないじゃない」
「お前、美容師になりたいの?」
「違うけど、なんかゾクゾクするの。職人のオーラ」
「ふーん。俺にはわかんねぇから、やっぱ行くのやめとこ」
あまり興味がないらしく、直人のリアクションは薄かった。本音を言えば東京へは一人で行きたかったので、啓介はこっそり胸を撫で下ろす。
直人と会話をしているあいだ、無意識に机の中に手を差し入れて、ずっと未提出の進路調査票に触れていた。
志望校の欄には書いて消した跡がある。
『東京服飾桜華大学』
日本で最高峰の服飾専門大学。
高三になってからでは畏れ多くて躊躇するかもしれないが、今ならまだ、ちょっとした興味本位で志望校の一つに加えていたとしても許されるだろう。
そんな軽い気持ちだったのに、実際にその大学名を記入した途端、憧れや夢のようにふわっとしていたものが、急に現実味を帯びてきた。
服を作るのが好きだ。
しかしそれが直ぐに職業に結びつくほど、甘くない世界だという事くらいわかっていた。
既製品を「もっとこんな風だったらいいのに」と、自分好みにアレンジしたのがきっかけだったように思う。
そのうち雑誌で見かけた気に入った服を、一枚の布から再現すようになった。
初めの頃は理想と現実がかけ離れていて、実際に出来上がった服はとても着られるような代物ではなかったが、それでも知識を身に着け、工夫を凝らし、試行錯誤していくうちに、だんだんと理想と現実の溝が埋まり始める。
そうなればますます服作りは楽しくなって、啓介は次第に服飾の世界にのめり込んでいった。
「いつか自分がデザインした服が店頭に並んで、それを誰かが手に取ってくれたら」
それはただの憧れで、子どもが無邪気に夢想する気楽なものだ。「いつか」は所詮、「いつか」でしかなく、ただぼんやりと思い描く素敵な未来。
それが進路として具体的に問われた瞬間、未来は遠いものではなくすぐそこまで迫っていたと気づき、夢が夢でなくなった。
学問で言ったら東大。
美術や音楽だったら藝大。
服飾なら桜華大。そんな一流校。
世界で活躍する日本人ファッション関係者の約七割は、桜華大の卒業生だと言う。
怖いと思ってしまった。
自分がどの程度で、才能があるのかないのか、実力が試されることも、他人から評価されることも。
気付くと消しゴムを手にし、その文字を消していた。うっすら残る跡をまるでなかったことにするように、都内の適当な大学名で上書きする。
逃げてしまったと言う痛みが、ペンを伝って胸にまで届いた。何か大事なものを手放してしまったような気がする。それでももう一度、桜華大と書く勇気が持てなかった。
「本気で東京の大学視野に入れてんの?」
急に黙り込んで苦い表情をした啓介に、直人が勘ぐるような声色で問いかけた。啓介はゆっくり体を起こし、背もたれに体重を預けながら「わかんない」と首を振る。
「行けたらいいなと思うけど、実際は難しいってちゃんと解ってるよ。一人暮らしにかかる費用考えると頭痛いし、向こうに行って自分が凡人だって思い知るのもヤだし」
「だよなぁ。簡単には行けないよな」
直人が肯定してくれたことで、啓介の言い訳が説得力を持ってしまう。嫌だなと思うと同時に、体が沈んでいくような感覚に陥った。
この先いつも、何かを諦めながら生きていかねばならないのだろうか。
「何とかなる」と能天気でいられるほど子どもではないが、だからといって不条理を全て受け入れられるほど大人でもない。
「でも、通えないってわかってんのに見学行くのも、なんつーか、辛くない?」
「まぁ、まだ二年生だしさ。好奇心で見に行くだけだよ。買い物のついでって感じ」
自分で放った言葉で自分自身を納得させた。