暫く進むと鉄骨造りの二階建てアパートが見えてくる。築十五年にしては洒落た外観で、啓介はこの住まいを気に入っていた。2DKの間取りは、母親との二人暮らしには充分な広さだ。

 玄関のドアを開けると、部屋の奥からミシンの音が聞こえてきた。服を作るのが好きな母親は、縫製工場に勤めながらも休日にまで楽しそうに裁縫をしている。趣味が高じて自作の服をネットで販売しているが、評判は上々らしい。

「啓ちゃん、おかえりなさーい」

 ダイニングキッチンと隣り合った母親の部屋のドアは、いつも開けっ放しになっている。
 冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出した啓介に気付き、母親は手元へ視線を落としたまま声を掛けた。型紙や裁断途中の布が広がった足の踏み場もない部屋に向かって、啓介は「ただいま」と返事をする。
 ひと段落してミシンから顔を上げた母親は、啓介を見るなりギョッとした。

「やだ啓ちゃん、なにその血! 怪我したの?」
「あ」

 返り血で汚れていたことをすっかり忘れていた啓介が、気まずそうに目を逸らす。

「えーと、うん。へーき、へーき。これ僕の血じゃないし」
「えっ、じゃあ誰の血なの? なんで他人の血が啓ちゃんのシャツについてんの」
「ちょっと色々ありまして……喧嘩、みたいな?」

 色々詮索されたら面倒臭いなと思いながら、手にしたグラスから麦茶を口に含んだ。

「喧嘩って誰と。もしかしていじめられてるの? 学校に抗議の電話してあげようか」

 大真面目な母親の言葉に、啓介は思わず口の中に入っていた麦茶をシンクに吹き出した。しばらく咳き込んた後、涙目で母親を睨む。

「ねぇ、絶対やめてよ、そんなこと。高二にもなって喧嘩に母親が出てくるとか、恥ずかし過ぎてムリ」
「高二とか関係ないでしょ。可愛い息子が血まみれのシャツ着て帰ってきたら、ビックリするじゃない」

 頬を膨らませる母親は、実年齢以上に幼く見える。
 もとより、十九歳で啓介を産んだ母親は実際にまだ若く、姉に間違われることも度々あった。啓介はやれやれと首を振りながら念を押す。

「とにかく、千鶴は余計なコト絶対にしないで」
「えーっ、本当に大丈夫なの? ヘンなことに巻き込まれてない?」
「巻き込まれてないし、これからはもっと気を付けるから大丈夫」

 心の中で「多分」と付け加えた。
 また絡まれることはあるかもしれないが、出来るだけ無視しよう。最悪喧嘩になったとしても、返り血にさえ気を付ければ問題ない。