殴られた腕はジンジン痺れるように痛むが、顔はどうやら無事のようだ。ホッとしながら息を吐くと、今度は腹の底から怒りが湧いてくる。
来週は撮影があるというのに、もし腫れ上がったり傷が残るようなことになれば、どれだけの人に迷惑がかかるか。
少し青ざめたような直人を睨みながら、啓介はゆっくり立ち上がる。
「お前さァ、なんなの? 確かに黙ってたのは悪かったかもしんないけど、それって殴られる程のこと? 思うんだけど、言っても言わなくても、こんな展開になってた気がするよ」
本当は今すぐにでも掴みかかって殴り返したいところだが、万が一にも怪我をする訳にはいかない。啓介は刺すような視線で牽制しながら、じりじりと後ずさった。その表情を見た直人が、ははっと感情のこもっていない笑い声をあげる。
「その目。雑誌に載ってた啓介のまんまだ。きっと誰も気付かないんだろうなぁ、アレがお前だって。ま、お前と喧嘩したことあるヤツは『似てるな』くらいは思うかもしんねーけど。でも、そんな奴らはリューレントなんか買わねぇから、やっぱり誰も気付かないか。あーあ。カッコよく写ってるなぁ。いいねぇ、華やかで順風満帆な未来が約束されてて」
足元に落ちた雑誌を拾いあげ、パラパラめくって直人は頭を振った。手にした雑誌から気だるそうに視線を上げ、無表情のままそれを再び投げ捨てる。
あえて神経を逆撫でするような行為に、啓介は歯噛みした。挑発に乗らないよう深呼吸しながら、気持ちを落ち着けるために空を見上げる。
もう、いつ雨粒が落ちてきてもおかしくないような鉛色の雲が、風に流され頭の上を横切っていった。夏にしては吹く風がどこかひんやりしていて、ついでにこの場の空気も少し冷ましてくれないかと願う。
「ほんとムカつき過ぎて吐きそう」
顔をしかめた直人が、みぞおちの辺りを大袈裟に抑えた。当てつけのような仕草に、啓介は呆れながら冷めた目を向ける。
「なんで直人がそこまで怒るのか、全然わかんない。そんなに僕が東京に行くの、面白くない?」
「俺だってわかんねぇよ」
予想外の返答に、啓介は思わず「は?」と聞き返した。苛立ったように両手で自分の髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、うわずった声で叫ぶ。
「わかんねぇから、ここに来たんだよ! なぁ、教えてくれよ。なんで俺、こんなにアタマきてんの? お前が遠くへ行っちゃうの、なんでこんなに嫌なんだよ。おかしいだろ、俺。ブランド物の服なんて少しも興味ないのに、お前が読んでる雑誌買ってみたりしてさ。理解したかったんだよ。お前のことなら、何でも知ってたかった。でも全然ダメだ、お前のこと一つもわかんねぇ。それがホント、もどかしくて気持ち悪くてイライラすんだよ」
直人の目は当惑の色を見せていた。本人自身も抱えているものの正体が解らず、手に負えなくてどうにも出来ないようだ。
「直人、それって……」
「こんなの、まるで恋煩いみたいって思っただろ? でも、それとも何か違ぇんだよ。でも、絶対に違うとも言い切れなくて、わけわかんねぇの。お前には理解できねぇだろうけど」
「ううん。多分、僕それ解かる」
その持て余した感情に、よく似たものをこちらも抱いているのだから。
好きか嫌いかの二択で問われれば、迷わず好きだと答えるだろう。尊敬や親しみや身内に感じるような情、それらを全部ひっくるめての「好き」だ。
ただ厄介なことに、そこには少しの甘美も含まれている。
だからと言ってこれを「恋愛感情なのか」と問われると、途端に解らなくなってしまう。その甘美は膨大な感情の中のほんの一部で、アイスクリームで言ったらバニラエッセンスのようなものだ。ほんの数滴程度の存在で、全体で見れば占める割合はとても小さい。それなのに、困ったことに甘い香りの主張は慎ましいとは言い難いく、時折り脳を混乱させる。
「恋じゃない」と言った傍から「やっぱり待って」と、もう一度答えを探し始めたくなってしまうのだ。
――延々と。
啓介が「解る」と口にしたのを、同情や慰めと受け取ったのかもしれない。直人はどうせ解かりっこないと、半ば諦めたように嗤った。
「テキトーなこと言ってんじゃねぇよ」
「適当じゃないってば」
どう言えば伝わるのだろうと、啓介はもどかしくて自分の着ているシャツを皺になるほど握り締めた。脳をさらけ出して思考を読んで貰えたら、どれほど楽か。文を組み立てようとしてもどの単語もしっくりこなくて、選んだ端から捨てていく。
懸命に言葉を探し、酸欠の金魚のように口を開いたまま直人を見た。直人の目は睨んでいてもどこか縋るようで、ジッと啓介の次の言葉を待っている。
啓介は大きく息を吸って呼吸を整えた。例え伝わらなくても、考えていることを片っ端から喋っていこう。
そう覚悟を決めて声を出そうとした矢先、背中に小石のような硬いものがコツンと当たった。それは頭に、肩に、頬に降り注ぎ、啓介は頭上でガラスでも割れたのかと慄いて身を縮める。
「うわッ。マジかよ」
目の前の直人も、手をかざして同じように身をすくめていた。咄嗟に状況が理解できず立ち尽くしていると、一際大きく雷鳴が轟いた。バラバラと空から落ちてくる冷たい塊が容赦なく体を打ち付けてきて、啓介はたまらず悲鳴を上げる。
「い、いった。痛い痛い!」
「啓介、こっち」
直人に腕を引かれ、啓介はアパートの階段の下に身を滑り込ませた。ビー玉よりも大きい氷の粒が、次から次へ落ちてくる光景に目を丸くする。カツンカツンと弾けるような音が辺りに響いて、啓介も直人も少しのあいだ呆気に取られた。
「なにこれ、雪じゃないよね」
「あぁ、雹だな」
「真夏なのに氷が降ってくるなんて、おかしくない?」
「何言ってんだ、雹は夏の風物詩だぞ。俳句の季語にもなってんだから」
へぇ。と感心しながら、啓介はアスファルトに叩きつけられて砕ける氷を見つめる。
「雹が夏の季語だなんて知らなかった」
「じーちゃんが俳句好きでさ、いつの間にか俺まで詳しくなっちまった。じゃあ、雹のこと氷雨って言うのも知らないだろ」
「うん、初めて聞いた。氷雨って、冬に降る冷たい雨のことじゃないの?」
驚くような声をあげた啓介の反応が期待通りだったのか、直人は満足気に鼻を鳴らした。ほんの数分前まで掴み合いの喧嘩をしていたと言うのに、いつの間にか穏やかな空気が流れ始める。
「氷雨って書いて『ひょうう』って昔は読んだらしいよ。夏の季語だけど、辞書引くとお前のイメージ通り、初冬の冷たい雨とか霙とも書いてあってさ。氷雨は冬の季語としてもアリって言う人もいて、賛否両論ぽいんだよね」
それを聞いて改めて雹を見ると、なんとも複雑な気持ちが湧いた。目の前で粉々に砕けていく氷を、思わず自分に重ねてしまう。
「夏と冬、正反対なのに同じ季語ってややこしいね。雹に霙かぁ……。雨にも雪にもなれなくて、中途半端な僕みたい」
吐き出した息が微かに震えて、それを誤魔化すように啓介は小さく咳払いをした。溶けだした氷でアスファルトが濡れ、埃っぽい匂いが辺りに漂う。
少しの沈黙の後、直人が何かに気付いたように「あ」と短く声を発し、降り注ぐ雹の中へと走って行った。何をするのかと見ていたら、投げ捨てた雑誌を拾って再び啓介の隣に戻ってくる。
「あー。ちょっと濡れちった」
着ているTシャツに表紙を擦りつけて拭い、直人は改めて啓介の載っているページを開いた。気恥ずかしくて啓介が目を逸らすと、「ごめんな」と直人の沈んだような声が聞こえてくる。徐々に雨へと変わりつつある雹に目線を向けたまま、啓介は尋ねた。
「何に対してのゴメンなの。殴ったこと? 雑誌を目の前で捨てたこと?」
「全部。……ホントはさ、啓介が俺に何か言おうとしてたのも気づいてた。でも、なんでだろうなぁ。聞きたくなかったんだよね。東京に行ったら、お前がお前でなくなっちゃう気がしてさ。多分、きっと俺は寂しいんだな」
言いながら自分でも納得したような口ぶりだった。
寂しいと素直に吐露した直人に対し、啓介も今の気持ちを包み隠さず打ち明ける。
「あのね、さっき『解かる』って言ったのは本心だよ。僕も似たようなもんなの、直人に対する感情。側にいてくれたら心強いし、僕も直人の支えになりたい。でも別に、直人と恋愛したいわけじゃないんだよね。矛盾してて上手く言えないんだけど、それでも直人に恋人ができて楽しそうにしてたら、僕は物凄く嫉妬すると思う。僕は縛られたくないし自由でいたいのに、直人には僕を一番にしてて欲しいの。僕ってズルイでしょ」
今までもやもやしていたものを声に出してカタチにしたら、なんだか随分楽になった。聞いている方の直人もポカンとしていたが、啓介の言葉の意味を徐々に理解したのか、むず痒そうに首筋を掻く。
「あぁ、うん。まあ、だいたい同じか。俺もお前も」
「そ。大体おんなじ」
脱力するように、二人で同時に大きく息を吐いた。すっかり天気は雨模様に変わり、雷鳴はいつの間にか遠ざかっている。
しばらく互いに無言で空を眺めていたが、沈黙が続いても気まずさは皆無だった。むしろ流れる時間が心地良いくらいで、肩が触れるか触れないか程の距離にいる直人の気配と静かな雨音を、啓介はこっそり胸に刻む。
いつか進む道の先で途方に暮れた時、今日の出来事は灯りとなって自分を温めてくれるような気がした。
「雨にも雪にもなれなくて、中途半端って言うけどさぁ」
唐突に直人が口を開く。どうやら先ほど啓介がこぼした言葉を、ずっと考え込んでいたらしい。照れ隠しなのか、直人はこちらを見ずに真っ直ぐ前を向いたままだった。
「雹ってレアで超良いじゃん。氷の塊のまんま地上に降りるぜ! って強い信念感じるし、何かカッコいいよ。あと、問答無用で攻撃的なところは確かにお前っぽい」
いつもより早口な上に独特な表現で、啓介は思わず吹き出してしまう。ケラケラ子どものように声を上げて笑いながら、啓介は首を傾げた。
「僕ってそんなに攻撃的かなぁ」
「敵認定したら容赦ないだろ。いつもふわふわしてっから、初めて喧嘩してるの見た時『ギャップすげぇ』ってびびったぞ」
「あはは。これからは、喧嘩売られても買わないようにしなきゃ。直人、ボディーガードよろしくね」
「おう。まかせとけ」
頼まれてすぐに答えを返した直人が胸を張る。それから視線をやや下げて、手の中にある湿って表紙が少し歪んだリューレントを見た。
「来月もこの雑誌に載るの?」
「それには載らないけど、ブレイバーって新しい雑誌の方では毎月出番があると思うよ」
「じゃあ毎月買おっかな、その雑誌。……ところで、他の奴にも話すのかよ、この仕事のこと」
「まさか。バレないためにメイクしてんだから、誰にも言わないよ。この先もずーっと。知ってるのは直人だけ」
「そっか」
嬉しさを隠しきれないというように、直人の口元が緩む。啓介は綺麗な弧を描く唇に人差し指を当て、「二人だけの秘密ね」と目を細めた。直人が息を呑み、片手で顔を覆う。
「お前、時々めちゃくちゃ可愛いよな」
「時々ぃ? いつも可愛いでしょ」
「いや、まぁ。なんつーか、たまに理性吹っ飛びそうであぶねーんだよ」
今日の直人はあけすけな上に饒舌だ。啓介が調子に乗って「ほうほう、それで?」と揶揄うように身を寄せたら、頭を掴まれ押し戻された。
「近いっつーの。お前との距離は今のままが一番いい気がするから、別にどうもしねえよ」
「ふーん、そっか。僕もまぁ、その意見には賛成だけど」
そうして再び二人並んで、弱まってきた雨を眺める。直人は雑誌を濡れないようにTシャツの中に潜り込ませ、服の上からそれを押さえた。
「んじゃ、帰るわ」
啓介が返事をするよりも先に階段の下から飛び出して、倒れた自転車を起す。ペダルに足をかけて漕ぎ出した瞬間、直人がこちらを振り返った。
「啓介、お前は中途半端なんかじゃねぇよ。俺、応援してっからな!」
それだけ言うと勢いよくペダルを踏み込んでスピードを上げた。啓介も雨の中へ駆け出し、離れていく背中に向かって叫ぶ。
「ありがとう!」
直人は振り返らなかったが、きっと聞こえただろう。
やっぱりこれは恋だったかもしれないなぁと思いつつ、この感情の正体は暴かないまま、胸の奥の箱に鍵をかけて大事に仕舞っておくことにした。
雲の切れ間から、スポットライトのような光が差している。
雨もじきに止むだろう。
虹でも出たら最高なのになと、啓介は空に向かって両手を伸ばした。
二度目の撮影場所も、前回と同じ博雅出版の自社スタジオだった。今回は緑川の付き添いは無かったが、一度来ているので迷うこともなく無事にたどり着く。
始発に揺られてここまで来た啓介は、欠伸を噛み殺しながらスタジオに足を踏み入れた。
どうやらとっくに撮影は始まっていたようで、既にモデルたちは流行を取り入れつつも個性的なコーディネートに身を包み、カメラの前に立っている。モデルの参加人数も多く、スタジオ内は活気に満ちていた。
おそらく彼らは都内近郊に住まいがあり、かなり早い時間の招集にも応じることができるのだろう。
羨ましいなぁと思いつつぼんやりモデルたちを眺めていたら、カメラを構える加勢を見つけた。眠くて重かった瞼が一気にパチリと開く。
目の端で啓介を捉えたのか、加勢がカメラを降ろしてニタリと口角を上げた。
「よお、名無し。眠そうだな」
「今、思いっきり覚めた」
「そりゃよかった。今日も期待してるぞ、前回よりもイイの頼むな」
それだけ言うと、加勢は再びレンズを撮影中のモデルに向けた。「期待している」という言葉が、ミシリと音を立ててのしかかる。簡単に言ってくれるよな、と思いながら更衣室へと向かうと、ドアの前で倉持が待っていた。倉持は啓介に気付き、嬉しそうに手を振る。
「おはようございます、梅田君。朝早くて大変でしたよね。今度から前泊にしましょうか。もし電車が遅延したら、撮影に間に合わない可能性もありますもんね。前日から都内に居れば、早朝からの撮影にも参加できますし」
先ほど早くから来ていたモデルたちを羨ましく思っていた啓介は、心の中を読まれたようで何だか気恥ずかしくなった。それでもその申し出は有難かったので「お願いします」と素直に答える。すると、倉持の背後からひょこっと永遠が顔を出した。
「なになに、お兄さん今度から前泊? それなら私の家においでよ!」
永遠が目を輝かせながら啓介の手を取り、思い出したように「あ、おはよう。今日もよろしくね」と天使のような笑顔を見せる。
永遠もまだ私服のままで、目玉のイラストが散りばめられた個性的なTシャツに黒のデニム、腰にはグレーのタータンチェックのシャツを巻いていた。
中性的な永遠のイメージから勝手に可愛い系の私服を想像していた啓介は、永遠の全身に目を走らせ、意外そうな顔をする。シンプルだがある意味とても男子っぽい装いだ。ただ、身に着けているアクセサリーも含めてとてもセンスが良く、垢抜けている。
「もうっ。お兄さんってば」
永遠のコーデに想いを巡らせていた啓介は、結果的に問いを無視した形になっていたらしい。気付けば永遠が、頬を大きく膨らませていた。
「え。永遠どうしたの?」
「どうしたのじゃないでしょ。私の話し聞いてた?」
そう言えば何か言われた気がする。啓介が首を傾げると、永遠の頬は益々膨らんだ。そんなやり取りを見かねた倉持が、二人の背中を叩きながら更衣室へと押し込める。
「ほらほら、話の続きは着替えながらね。松永さーん! 今日もよろしくお願いします」
言いながら倉持は、松永に向かって深々とお辞儀した。それに習い、啓介も永遠も「お願いします」と頭を下げる。
「こちらこそよろしくお願いします。二人とも今日は表紙の撮影もあるし、シーン別に何度か衣装を変えるけど頑張ってね。それじゃ、まずはこれを着てくれるかな」
それぞれに衣装を手渡され、早速着替え始める。用意された衣装はリューレントの時と違い、学生でも手が届く親しみやすいブランドだった。松永も今日は手袋は付けておらず、少しだけホッとする。
「さっきの話だけど。次の撮影の時は、前日からうちに泊まりなよ」
永遠がシャツのボタンをとめながら啓介を見る。うーんと唸りながら、啓介もトロンとした生地のシャツを羽織った。
「僕さぁ、プライベートの空間に誰かいるの苦手なんだよね。落ち着かないじゃない。だから永遠んちじゃなくて、どっかホテル取ってもらう」
にべもなく断る啓介に、永遠が挑むような笑みを浮かべる。
「お兄さん、そんなにあっさり断っちゃって良いの? 今まで私が溜め込んだ、選りすぐりのコーデの切り抜き見たくない? ノートでもう、ニ十冊以上あるんだ。あとね、廃盤になっちゃった雑誌もいっぱいあるよ。それからそれから、私の持ってる服も興味あるでしょ。女の子の服も男の子の服も、どっちもたくさんあるよ。二人でコーデし合って遊ぼうよ」
それはどれも夢のような提案で、啓介の顔がパッと輝く。
「なにそれ、すっごく楽しそう!」
「でしょでしょ?」
「じゃあ僕も、描き溜めたデザイン画もって行こうかな」
「わぁ、絶対持ってきて!」
手を叩きながらはしゃいでいると、永遠の背後から突然ぬッと手が伸びてきた。啓介が驚いて手の主を見ると、そこにはニンマリと笑う快がいる。快は永遠の首にじゃれるように腕を回して肩を組んだ。
「いいな、それ。面白そう。じゃ、その日は俺も永遠んち行くわ」
「えぇ。快くんも来るの?」
永遠に邪険に扱われても、快晴はお構いなしで胸を張る。
「当たり前だろ。俺は海外コレクションの動画持って行ってやるよ。ミラノにパリ、ニューヨークにロンドン。お袋が特等席で撮ったショーだぞ。興味あるだろ?」
そう問われた瞬間、「ある!」と啓介と永遠の声が重なった。
他のモデルたちはスタジオ内で撮影中か待機中なので、更衣室は現在三人の貸し切り状態だ。それでも快が加わると、部屋は途端に賑やかになる。
「きっと次の撮影も日曜だろうな。名無しの通ってる高校って公立? 土曜は学校あんの」
「ある時とない時がある」
「名無しの家って遠いんだろ。学校終わってからだと、永遠の家には何時に来れんだよ」
快は衣装に着替えながら、啓介に向かって高圧的に質問を続けた。
加勢から名無しと呼ばれるのもどうかと思っていたが、快にまで連呼されるとさすがに腹が立つ。啓介は「さぁ」とだけ答えて、これ見よがしにムッとした表情を作った。そうすると、快も負けじと同じように眉をしかめる。
「何だよ。名無しで間違ってねーだろ。イヤならさっさと名前決めろよ」
「別に。僕なにも言ってないじゃん」
「だったらムカつく顔すんな」
「は? ムカつく顔してんのはそっちでしょ」
睨みあって一歩も譲らない啓介と快の間に、永遠が「もー!」と憤りながら割って入る。
「何ですぐケンカしちゃうかな。二人とも大人でしょ。仲良くね」
「大人じゃねぇよ」
「中二から見たら、高二は充分オトナだよ」
年下に注意されるのはさすがにバツが悪いようで、快はそれ以上何も言わずに背を向けた。啓介はその背中に向かって心の中で舌を出す。気分を変えるように鏡に映る自分を眺めてみたが、どこかしっくりこなくて「うーん」と唸った。
「ねぇ、永遠。今日のコーデもアレンジして良いと思う?」
話しかけられた永遠は啓介の隣に並び、鏡の中を覗き込んだ。
「黒いサスペンダー付きの七分丈ボールパンツに、ストライプのシャツとリボンネクタイかぁ。凄く似合ってるけど、どこを変えたいの?」
「リボンネクタイ。あと、これにベストを合わせたい」
結んだ襟元のリボンを解きながら啓介が答えると、永遠は手を顎に軽く添えて「ふむふむ」とうなずいた。いつの間にか背後に来ていた快が、啓介の肩越しに尋ねる。
「リボンやめて何を代わりにすんだよ」
「ゴーグルが欲しいなって思ってる」
「頭の中のイメージはどんな?」
「スチームパンク」
答えると同時に快が大きく舌打ちをした。鏡に映る快の表情がみるみる曇る。その瞬間啓介は「今日は勝ったかもしれない」と少しだけ高揚した。快は明らかに不機嫌そうで、親指の爪を噛みながら一点を見つめ何か思案している。恐らく啓介の提案したコーディネートに嫉妬し、対抗するための組み合わせを必死に脳内で描いているのだろう。
――きっと、快に嫉妬した自分もあんな顔をしているんだろうな。
高揚したのも束の間、鏡の中の自分と快を見比べ、勝ち負けに囚われてばかりいることにほんの少し嫌気がさした。
「ねぇお兄さん。今日も真由ちゃんがアイテムいっぱい用意してくれてるだろうから、ゴーグルがあるか聞きに行こうよ」
袖を引かれ、啓介は鏡から永遠へ目線を移す。少しだけ不安そうな顔をしていて、永遠なりに啓介と快との間に流れる空気を感じ取り、気を使っているのかもしれないと思うと申し訳なくなった。
「そうね。行こうか」
永遠の頭を軽く撫でてやると、強張っていた表情が和らぐ。啓介の腕に絡みついてクスクス笑う永遠は、子猫が喉を鳴らしているようで可愛い。
「俺も行く」
更衣室を出る二人の後に、仏頂面の快も続いた。
スタジオでは順調に撮影が進んでいるようで、白いスクリーンの前でモデルたちがポーズを取っていた。何度かシャッターが切られると、スタイリストがモデルの元に寄って髪や服を整える。その様子を少し離れた場所から真由が腕を組んで見守っていた。
「真由ちゃん、ちょっといい? 今日も衣装、少しアレンジしたいんだけど」
永遠が声をかけると、真由は笑顔でそれに応える。衣装が掛ったラックに向かって歩き出し、おいでおいでと手招きした。
「いいわよ。実は今日もキミたちならやってくれるかなーって期待してたんだ。で、何が必要?」
「僕はゴツめのゴーグルと、ベストが欲しい」
「俺はファーのストール」
リクエストを聞きながら、真由が「そうねぇ」とアイテムをいくつかピックアップする。
「一応、ここにあるのは全部掲載許可はもらってるから自由に使っていいよ。ベストだとこんなのはどう? ファーは多めにあるから好きなの選んでね。ゴーグルはさすがに持ってきてないけど……あ、松永くん!」
モデルの衣装チェックを終えた松永が、「はぁい」と離れた場所から返事をした。
「松永くん、今日もバイクで来てる? キミのゴーグルカッコ良かったよね。ちょっと梅田くんに貸してくれないかな」
「ええ、構いませんよ。すぐに取ってきますね」
ありがとうございますと啓介が頭を下げると、松永は気にするなと言う風に笑って軽く手を振った。真由が腕時計をチラリと見てから「よし」とうなずく。
「そろそろキミたちもメイクしなきゃね。五分後にメイクルームに来てくれるかな。私は先に行って準備してるから」
言いながら既に歩き始めている真由は、メイクの担当者に声をかけながらメイクルームへ消えていった。残された啓介たちは、手早く目当ての品を吟味する。
「凄いよね、さすがレギュラー。私だったら提案されたコーデを変える勇気ないや」
「私も。何か余裕って感じだね」
囁くような声が聞こえ、啓介は思わず振り返った。
会議室で使うような長机とパイプ椅子が置いてあり、そこに座っていた待機中のモデルが、慌てたように目を逸らす。悪意とまでは行かないが、値踏みされているような気配は感じられた。
ぐるりと辺りを見回して、そこで初めて啓介は、自分たちが周囲から観察されていたことに気が付いた。
「お兄さんはさぁ」
光沢のある素材のベストを啓介にあてがいながら、永遠が静かに口を開く。
「リューレントで堂々と単独でページを飾ったでしょ? そんな扱い、この場にいる誰も経験したことないの。つまりね、お兄さんはここでナンバーワンってことなんだ。あの瞬間、ブレイバーの絶対的なエースになったんだよ」
「……絶対的な、エース」
思いがけない言葉を聞いて、啓介は噛み締めるように呟いた。永遠の口調はやけに大人びていて、実感がこもっている。
「今のところ私たちだけなんだよ、ブレイバーと専属契約してるの。他のモデルさんは次も呼ばれるかわかんないし、呼ばれたって小さなワンカットしか載らないこともザラなんだ。だからさ、どうしたって羨ましいって思われちゃうよね。憧れと嫉妬の目で見られちゃう。お兄さんは特に」
永遠から向けられる眼差しは、憂いと慈愛に満ちていた。既にモデルとして活躍していた永遠には、これから啓介の身に降りかかる事柄が、ある程度予測できてしまうのかもしれない。労わるような潤んだ瞳で見上げられ、啓介は「そう」と小さく相槌を打った。油断していると、その目に飲み込まれそうになる。
まだ幼さの残るあどけない永遠は、それでも確かに清廉な色気を放っていて、やはり『魅せる側の人間』なのだなと強く感じた。
「心配してくれてありがとうね、永遠」
桃のように瑞々しい永遠の頬を指の背で撫でると、永遠は目を細めてその手に擦り寄った。自分によく懐いている小動物のようで愛らしく、抱きすくめたい衝動が一瞬湧く。
「俺は認めてないけどな」
視界の端に映っていた快がゆらりと動き、永遠から引き剥がすように啓介の手を掴んだ。こちらを睨みつける快の青い瞳は冴えていたが、掴まれた手はとても熱い。
「すぐに俺が一番だって、みんなに知らしめてやる。お前は束の間のトップの座、せいぜい味わっておけよ」
「……トップとか別に興味ないけど、快に追い抜かれるのは面白くないね。悪いけど、簡単には譲らないから」
掴まれた手を払いのけ、啓介は永遠が見繕ってくれたベストを受け取りさっさとメイクルームに向かって歩き出した。振り払われて行き場を失くした手を握り締めて、快が叫ぶ。
「待てよ名無し、逃げんな!」
「名無しじゃないし、逃げてもいない」
いい加減にしろと思いながら、啓介は快を振り返った。ネクタイの代わりにファーを首に巻きつけている快は、相変わらずセンスが良くて余計に苛つく。ついでに周りを見回すと、まだ暑さの残る季節だと言うのにどのモデルも真冬の装いだった。
アパレル業界は季節を先取りするのが常なので、それは当たり前ともいえるのだが、夏と冬が同時に存在するこの空間がとても奇妙に感じられた。
――夏と冬。
脳裏に空から唐突に降って来た氷の塊が浮かびあがり、その瞬間、閃いた。
「決めた。僕の名前、氷雨にする」
「ヒサメ?」
「そ。氷の雨って書いて氷雨」
不思議そうに問い返した永遠に、啓介が深くうなずく。快は軽く笑い飛ばしたあと、挑むような目で啓介を見た。
「氷雨? ずいぶん寒々しい名前だなぁ。それなら俺は、景気よく『快晴』に名前を変更しよっかな。俺は晴れでお前は雨だ。未来を暗示してるみたいでイイだろ」
快の挑発的な視線を迎え撃つように、啓介は口の端を上げて胸を張る。
「ただの雨じゃないんだよ、氷雨って。でも、まぁそうね。雨でも晴れでも何でもいいよ。どっちにしたって僕は望む未来を手に入れるから」
ふふん、と鼻を鳴らして啓介は再び歩き出す。永遠がなぜか膨れっ面をしながら付いてきた。
「『刹那』って名前は快くんダメって言った癖に。自分はお揃いっぽい名前なんて、ズルイよ」
「じゃあ永遠も名前変えてみる? 曇天とか雪とか風とか」
「ヤダ」
ますます不機嫌そうに口をギザギザに歪ませて永遠が立ち止まるので、啓介もつられて足を止めた。
「お兄さ……じゃなくて、氷雨くんの『望む未来』って何?」
「そうねぇ」
いつになく真剣な目でこちらを見る永遠に、少し困りながら啓介は視線を上へ逸らす。天井に張り巡らされた照明用のパイプや配管は、まるで迷路のようだった。
「自分が作った服を、誰かが着たいと思ってくれたら幸せだよね」
「じゃあ、自分のブランドを立ち上げるのが夢なんだ」
「うーん。そうなんだけどねぇ」
改めて言葉にされると、何だか少し違うような気もした。天井を見上げたまま、「ああ、そっか」と啓介が笑う。
「仲間も欲しいな。一緒に秘密基地を作ってそこにずっと籠っていたくなるような、わくわくする仲間。迷路みたいにねじれまくってる道でも、頑張って進んでたらいつか会える気がする」
「仲間ならもういるだろ。俺と永遠」
不貞腐れたような声を出す快に、啓介は「快って仲間だっけ?」と本気で首を傾げた。
「名無し、お前そーゆーとこだぞ。ほんっと腹立つなぁ。仲間だろ? そんで暫くは、永遠の家が秘密基地な」
「名無しじゃなくて氷雨だってば」
「じゃあ俺のことも快晴って呼べよ」
再びにらみ合う二人の背中を、永遠が軽くたたきながら溜め息をつく。
「まぁまぁ。ブレイバーを盛り上げる仲間には違いないんだしさ、今は力を合わせようよ。いつか大人になった時、ねじれまくった迷路を進んだ先でも、ずっと三人でいられたら良いね」
「氷雨の行く道は悪天候そうだなァ。嵐に巻き込まれて溺れるなよ」
「快晴の行く道だって。太陽に負けて干からびないようにね」
牽制するような視線を送り合い、そのあと三人同時に吹き出した。
ひとしきり笑い合ったあとで、快晴が急に神妙な顔をする。
「でもさ。俺らはきっと、この先ずっと注目され続けるんだろうな。及第点じゃ誰も納得してくれない。みんなの予想の上を行くものを生み出し続けなきゃ、あっという間に見向きもされなくなる。……氷雨、お前は怖くないのか」
快晴の表情は心細そうだったが、同時に啓介と言う存在を心強く思ってもいそうだった。
「怖い」
珍しく素直に同意を示した啓介は、無意識に自分の手のひらを見つめる。
「みんなが求める以上のことを、モデルとしてもデザイナナーとしても示し続けなきゃいけないなんて、そんなこと出来るのかって震えそうになるけど。でもきっと僕は、誰からも求められなくなっても作り続けると思う。この先ずっと、自分自身と戦い続ける覚悟は決めたから」
――それに、千鶴の仇もとらなきゃね。
心の中でそう付け足して、啓介はふふっと微笑んだ。
「氷雨くんと快晴の作る服、楽しみだなぁ。もし二人がブランドを立ち上げたら、雑誌の編集になった私が必ず取材に行くからね!」
三人それぞれの思い描く夢を心に刻む。
言うほど容易くないことは百も承知だ。
きっと順風満帆とは程遠い。
それでも。
嵐の旅路も上等だと、啓介は天を睨んだ。
土砂降りの雨の中、びしょ濡れでも笑い飛ばして前へ進もう。
いつか必ず、望む未来を手に入れるために。
~ fin ~