されど服飾師の夢を見る

「おい、お前ら帰るぞ」

 大人しくなった椚高の生徒を一瞥し、陣野が啓介たちに声をかける。ズンズンと大股で土手を登り、停めてあった軽トラックの荷台に啓介と直人の自転車を積み込み始めた。白い軽トラのドア部分には『陣野酒店』と大きく表記されている。
 配達途中だったのかなとぼんやり考えていたら、直人に肩を掴まれた。

「啓介、顔殴られたのかよ。お前がやられるなんて珍しいな」
「あー。直人が木材で殴られそうになってたから、ちょっと気を取られて油断しちゃった」
「ごめん。俺のせいだな」
「違うよ」

 笑いながら啓介は首を振ったが、直人は申し訳なさそうに腫れた頬に触れ、もう一度「ごめん」と小さく呟いた。
 啓介の鼓動が、ほんの少しだけ早くなる。どくどく跳ねる心臓をなだめていると、「おい」と自転車を積み終えた陣野に手招きで呼ばれた。

「お前、直人の友達か? こんな細い腕で、よくあいつらと渡り合ったな。よし、気に入った。今日はうちで飯食っていけ」

 陣野が啓介の腕をまじまじと見ながらそう言った。ぽかんとして啓介は首を傾げたが、次第に笑いが込み上げてくる。

「あははは。直人のおとーさん、超面白いね。『気に入った』なんて、面と向かって言われたの初めて。僕、このまま帰ったら母親にめちゃめちゃ怒られるんで、ちょっと避難させてもらえると助かります」
「そうか。俺も『超面白い』なんて言われたのは初めてだ。そりゃ、そんなナリで帰ったら母ちゃんもビックリすんだろ。だったら今日は泊ってけ。明日にゃ腫れも、少しはマシになってんだろ」
「やったー! ありがとうございます、おとーさん」

 あっさり馴染んだ啓介に向かって、直人が呆れたように「お前、順応力すげーな」とこめかみの辺りを押さえた。
 結局、翌日には汚れの落ちきらなかったシャツと腫れの引かなかった頬を千鶴に気付かれ、散々小言を言われてしまったのだが。

 授業終了のチャイムを聞きながら、啓介は机に突っ伏してククッと肩を揺らした。何度思い出しても笑える。

「何一人で笑ってんだよ、気持ち悪ぃな」

 啓介の席までやってきた直人に頭をはたかれ、顔を上げた。

「直人のおとーさん思い出してた。だって、あんな漫画のキャラみたいな人、そうそういないよ? 椚高校の伝説の番長とか、面白過ぎるでしょ」
「酔って武勇伝語ることはあったけど、絶対盛ってると思ってたんだよなぁ。まさか本当だったとはね」

 言いながら、直人が啓介の頬をさする。

「腫れが引いて良かった」
「そうだね。僕の綺麗な顔にキズが残ったら、直人に責任とってもらうところだったよ」
「責任?」
「そー。僕をお嫁に貰ってもらわなきゃ」
「あっはっは。おー。いいぞ、嫁いで来い。親父も喜ぶしな」

 嫁に貰えと言われたんだから少しぐらい動揺すればいいのにと、啓介は口を尖らせた。

「なんでむくれてんだよ。今のは何て答えれば正解だったわけ? ホントお前の扱いムズカシイな」

 笑いながら頬をつねってくる直人の手を、啓介は不機嫌そうに払いのけた。鋭く睨んだところで直人は少しも怯まない。その場にしゃがみ込んで啓介の机に顎を乗せ、「ねーねー」と呑気に話を続ける。

「啓介、もう進路希望調査の紙、提出した?」
「ううん。まだ」
「どこ行くつもり?」
「直人は?」
「俺は県内の大学。お前もそこにしろよ」

 すぐに返事が出来ず、啓介は逃げるように視線を窓の外に移した。青々とした木がくっきりと濃い影を校庭に落としている。かなり日差しが強そうだ。そう言えば、毎朝時計代わりに付けているテレビが、梅雨は明けたと告げていたな。
 そんなことを考えていたら、机をバンバン叩かれた。

「話してる最中によそ見すんなっつーの。とりあえず俺と同じ進路書け」
「えー。まだもうちょっと悩んでたい。夏休み中に見学行こうと思って」
「どこ見に行くの?」

 啓介は直人の目を見たまま一拍置いて、「東京」とだけ答えた。直人が大きく息を吐き、先ほどの啓介を真似るように窓の外へ視線を逸らす。休み時間の賑やかな教室の片隅で、しばらく二人は黙ったままでいた。

 最近の直人は啓介が東京と口にするたび不機嫌になる。
 啓介の頭の中を、言い訳がぐるぐる駆け巡った。行きたい理由は死ぬほどあるが、直人はどれも納得してくれないだろう。

「お前さ、ホントは彼女いるだろ。彼女と一緒に東京の大学行く約束でもしたのかよ」
「は?」

 全く想定していなかった言葉に、啓介は本気で首を傾げた。
 きょとんとする啓介がとぼけているように見えたのか、直人は問い詰めるように机を指でトントン叩く。

「水臭いじゃん、言ってくれればいいのに。この前見ちゃったんだよね、お前んちの近くのスーパーで仲良く買い物してるところ」

 その一言で全てに合点がいった啓介は、脱力しながら教室の天井を仰いだ。

「……なるほど。僕と一緒にいた人ってさぁ、チョコレート色のゆるふわ髪じゃなかった? そんで、僕は荷物いっぱい持たされてたでしょう」
「うん、そう。結構可愛かった。あの啓介を荷物持ちに使うなんてスゲーって感動した」
「あーもう。だから嫌だったんだよね。恥っず」

 頭を抱えて呻く啓介を、直人が不思議そうに眺める。

「ん、どした? 内緒の恋人だったわけ?」
「違う、恋人じゃない。あれ母親」
「またまた、そんな見え透いたウソを」
「ウソじゃないって、今度会わせてあげる。近くで見たら僕と似てるよ。あーあ。母親と買い物とか、恥ずかしいとこ見られたの超ショック」

 啓介は突っ伏して、大袈裟に落ち込んで見せた。ひんやりした机は、赤く火照った頬を冷ましてくれて気持ちがいい。そのまま顔を横に向けたら、机に顎を乗せている直人と視線が合った。
 直人は手を伸ばし、啓介の目にかかる前髪を横に流しながらククッと笑う。

「そっか、彼女じゃなかったんだ。お前の母親ってスゲー若いな。でも偉いじゃん、荷物持ちするなんて」
「だってさぁ、半泣きで電話してくるんだもん。『車のつもりでいっぱい買っちゃったけど、自転車で来たこと思い出したから助けて』って。どーしょもないでしょ?」
「あはは。それでちゃんと助けに行ったんだ。お前にも人の血が流れてたんだなぁ」
「ねーそれどういう意味? まるで僕が冷たい人間みたいじゃない」

 啓介の前髪に触れていた指先を引っ込めながら、直人が口角は上げたまま静かに目を伏せる。

「冷たいじゃん。俺を置いて行っちゃうんだから」
「置いて行くって……」

 戸惑う啓介の言葉を掻き消すように「なんちゃって!」と、直人は明るく言い放った。

「見学いつ行くの? 俺もついて行こうかな」
「いいけど、見学の合間に髪切ったり服見たりするから、直人にはツマンナイかもよ」
「髪切るの? わざわざ東京で?」

 うん。と頷きながら、啓介は長く伸びた自分の前髪をひと摘まみする。

「いつも髪は表参道の店で切ってもらってる。だって、最前線で戦ってる人の技術をあんなに間近で見られる機会って、そうそうないじゃない」
「お前、美容師になりたいの?」
「違うけど、なんかゾクゾクするの。職人のオーラ」
「ふーん。俺にはわかんねぇから、やっぱ行くのやめとこ」

 あまり興味がないらしく、直人のリアクションは薄かった。本音を言えば東京へは一人で行きたかったので、啓介はこっそり胸を撫で下ろす。

 直人と会話をしているあいだ、無意識に机の中に手を差し入れて、ずっと未提出の進路調査票に触れていた。
 志望校の欄には書いて消した跡がある。

『東京服飾桜華(おうか)大学』

 日本で最高峰の服飾専門大学。
 高三になってからでは畏れ多くて躊躇するかもしれないが、今ならまだ、ちょっとした興味本位で志望校の一つに加えていたとしても許されるだろう。
 そんな軽い気持ちだったのに、実際にその大学名を記入した途端、憧れや夢のようにふわっとしていたものが、急に現実味を帯びてきた。

 服を作るのが好きだ。
 しかしそれが直ぐに職業に結びつくほど、甘くない世界だという事くらいわかっていた。

 既製品を「もっとこんな風だったらいいのに」と、自分好みにアレンジしたのがきっかけだったように思う。
 そのうち雑誌で見かけた気に入った服を、一枚の布から再現すようになった。

 初めの頃は理想と現実がかけ離れていて、実際に出来上がった服はとても着られるような代物ではなかったが、それでも知識を身に着け、工夫を凝らし、試行錯誤していくうちに、だんだんと理想と現実の溝が埋まり始める。
 そうなればますます服作りは楽しくなって、啓介は次第に服飾の世界にのめり込んでいった。

「いつか自分がデザインした服が店頭に並んで、それを誰かが手に取ってくれたら」

 それはただの憧れで、子どもが無邪気に夢想する気楽なものだ。「いつか」は所詮、「いつか」でしかなく、ただぼんやりと思い描く素敵な未来。
 それが進路として具体的に問われた瞬間、未来は遠いものではなくすぐそこまで迫っていたと気づき、夢が夢でなくなった。

 学問で言ったら東大。
 美術や音楽だったら藝大。
 服飾なら桜華大。そんな一流校。
 世界で活躍する日本人ファッション関係者の約七割は、桜華大の卒業生だと言う。

 怖いと思ってしまった。
 自分がどの程度で、才能があるのかないのか、実力が試されることも、他人から評価されることも。

 気付くと消しゴムを手にし、その文字を消していた。うっすら残る跡をまるでなかったことにするように、都内の適当な大学名で上書きする。
 逃げてしまったと言う痛みが、ペンを伝って胸にまで届いた。何か大事なものを手放してしまったような気がする。それでももう一度、桜華大と書く勇気が持てなかった。

「本気で東京の大学視野に入れてんの?」

 急に黙り込んで苦い表情をした啓介に、直人が勘ぐるような声色で問いかけた。啓介はゆっくり体を起こし、背もたれに体重を預けながら「わかんない」と首を振る。

「行けたらいいなと思うけど、実際は難しいってちゃんと解ってるよ。一人暮らしにかかる費用考えると頭痛いし、向こうに行って自分が凡人だって思い知るのもヤだし」
「だよなぁ。簡単には行けないよな」

 直人が肯定してくれたことで、啓介の言い訳が説得力を持ってしまう。嫌だなと思うと同時に、体が沈んでいくような感覚に陥った。
 この先いつも、何かを諦めながら生きていかねばならないのだろうか。
「何とかなる」と能天気でいられるほど子どもではないが、だからといって不条理を全て受け入れられるほど大人でもない。

「でも、通えないってわかってんのに見学行くのも、なんつーか、辛くない?」
「まぁ、まだ二年生だしさ。好奇心で見に行くだけだよ。買い物のついでって感じ」

 自分で放った言葉で自分自身を納得させた。
 夏休みに入って早々、啓介は表参道を上機嫌で歩いていた。
 ショーウィンドウに自分の姿を映し、カットしたばかりの髪を満足そうに横目で見る。

 オーバーサイズの白いカットソーに、アンクル丈の黒いワイドパンツ。足元は踵からつま先までヒールの高さが同じプラットホームサンダルで、黒いエナメル素材に映える銀色のスタッズが気に入っていた。
 好きな服を着て好きな街を歩くのは気分がいい。
 最先端の文化を発信しているという自負とプライドが街全体から伝わってきて、それがとても心地よかった。

 そのまま歩いて目的地である私立大に辿り着く。進路調査票で桜華大を消した跡に上書きした大学だ。
 正門をくぐり、キャンパスまで続くイチョウ並木に圧倒された。受付で参加証を提出し、そのまま奥に進む。受付と併設するテントには赤本やら運動部のグッズやらが販売されていて、商魂たくましいなと感心した。

 青々と茂った木々の隙間からこぼれる日差しを眺めていたら、都会のど真ん中にいると言う事を忘れそうになる。案内する在校生も見学に来た受験予定の生徒らも、誰もが皆、高揚しているように見えた。
 夏の匂いで満ちたキャンパスを、啓介はぐるっと見回す。ここに通えたら良いなと思う一方で、このキャンパスに馴染んでいる自分の姿はまるで想像できなかった。
 それは上京が難しいからというような現実的な問題ではなく、単純に「自分には似合ってないな」という感覚的なものだ。

 来たばかりだけど、もう帰ろうかな。そう思って来た道を戻ろうとした時、背後から肩を叩かれた。

「ねえ、キミ高校生? 一人で来たの? 心細いでしょう、案内してあげるよ」

 振り返ると、なんとも爽やかそうな青年が満面の笑みを浮かべて立っていた。必要ないと思った啓介は首を横に振って見せたが、青年は諦めずになおも食い下がる。

「そう言わずにさ。あ、もうお昼は済ませた? ここの学食有名なんだよ。一緒にランチでもどうかな。ご馳走するよ」
「いえ、結構です」

 啓介が声に出して断ると、明らかに動揺したように青年は目を泳がせた。

「えっ、あれっ。声低いね。もしかしてキミ、男の子?」

 青年の口から放たれた言葉で、ああ、ナンパだったのかと理解した。
 そう言えば今日は化粧をしているし、チョーカーで喉仏も隠れている。カットしたばかりとは言え、男にしてはまだ髪は長い方だろう。くるぶしまであるワイドパンツは、スカートに見えるかもしれない。
 女性と見間違えられるのも無理はないかと納得しつつ、小さくため息を吐いた。
 男かと聞かれて直ぐに頷けない自分がいる。

 青年は品定めするように、改めて啓介の爪先から頭のてっぺんまで粘っこい視線を這わせた。服の中までスキャンされているような感覚が不快でたまらず、その場から離れるために踵を返す。

「紛らわしいカッコすんなよ。おとこおんな」

 背後から聞こえた声を無視して立ち去ると言う選択肢もあったのだが、啓介は立ち止まることを選んだ。
 舌打ちと共に吐き出された毒が、足元からじわじわ這い上がって来る。
 こんな悪意に蝕まれるのは、まっぴらごめんだ。

「アンタが勝手に絡んできたんでしょ。僕は好きな格好してるだけ。ほっといて」

 気付くと手を伸ばして青年のシャツを掴んでいた。そのまま襟首を捻り上げると、体が浮いた青年が苦しそうに顔を歪ませる。啓介が華奢なので、無意識のうちに性格まで大人しいと思い込み、油断していたのだろう。

 手を離すと青年は、ヘナヘナと腰を抜かしたようにその場に座り込んだ。それを冷たく見下ろして、啓介がフンと鼻で笑う。これ以上関わるのは時間の無駄だと言わんばかりに、啓介は髪をかき上げ何事もなかったかのように駅に向かって歩き出した。

 普段なら声を掛けられても立ち止まることはないのだが、大学の構内なので油断してしまった。
 体の中の空気を入れ替えるように、啓介は大きく息を吸って吐く。せっかく髪を切って気分良く過ごしていたのになと、いじけたくなった。

 このまま歩いて渋谷に行こうか。お気に入りのショップを巡れば、そのうち気持ちも上がるだろう。
 それとも。
 歩きながらふと、桜華大(おうかだい)に行ってみようかという気持ちが湧いた。
 確か桜華も今日はサマーオープンカレッジを開催していたはずだ。事前予約が必要かどうかまでは調べていないが、もし入れなくても大学の周辺を見て回るだけで気分転換になるかもしれない。

「受験する気はないけど、他のコがどんな服を着てるのか気になるし。ちょっと見るだけ」

 誰に咎められる訳でもないのに、いちいち言い訳してしまう自分が少し可笑しかった。
 渋谷から電車に乗り、三つ目の駅で降りる。入り組んだ駅構内で少し迷った後、ようやく桜華大の最寄り出口を見つけ、ひとまず安堵した。あとは幹線道路をひたすら真っ直ぐ進むだけなのだが、道路沿いに立つ「いかにも都会的なビル群」という同じような景色が続き、自分がどれくらい歩いたのか距離感がわからなくなる。

 ようやく桜華大に辿り着いた啓介は、正門の手前から中の様子を伺った。
 受付らしきものは見当たらず、啓介と同じような年頃の生徒らで構内は賑わっている。「それじゃあ遠慮なく」と思いながら、敷地内に足を踏み入れた。

 あの人の着ているブラウス良いな。
 あのピアスカッコいいな。
 あんな髪色にしてみたいな。

 すれ違う人を目で追っているだけでもわくわくする。
 服飾博物館に手芸用品店と見紛うほどの購買部。実用的な資料や図集、ファッション雑誌まで所蔵している充実した図書室。
 都会の一等地に広がるキャンパスは、まるで一つの街のようだった。それも、自分の好きなものばかりが詰め込まれた街。
 どこを見ても「いいな」という感想が出てくる。

 しばらくウロウロしていたら、大音量の音楽が漏れ出る建物の前に辿り着いた。中を覗いてみたかったが、扉の前に立つドア係の生徒に「今、ショーの真っ最中で扉が開けられないんです。一区切りするまでお待ち下さい」と告げられ、啓介は素直に頷く。

 しかし次の瞬間、今まさに「開けられない」と言われた扉が内側から開かれて、啓介は驚いて身を引いた。
 中から飛び出してきたのはパンツスーツを格好よく着こなした四十代くらいの女性で、一目見て「何かトラブルが起きたのかな」と思わせるような、血の気のない真っ青な顔をしていた。

 今にも駆けだしそうな勢いの女性は、啓介を見るなり目を見開いて動きを止めた。それはまるで猛獣が獲物を捉えたような視線で、啓介は本能的に後ずさる。
 啓介が後ろに下がった分だけ、女性はヒールをカツカツ鳴らしながら距離を縮めてきた。壁際に追い詰められ、啓介は(おのの)きながら首を振る。

「なになになになに。僕なんにも悪いコトしてないよ」
「あなた、ここの生徒じゃないわね。受験生?」

 受験する気はないが、色々説明するのも面倒なのでとりあえず「はい」と頷いた。

「ヒールのないサンダルでこの身長なら、175か6センチってとこかしら。まぁ、今日のステージなら充分ね。ちょっと来て。協力して欲しいことがあるの」
「は?」

 女性は啓介の手首を掴み、問答無用で歩き出す。真っ青だった顔色は、いつの間にか血色が戻っていた。何の説明もないまま、啓介は引きずられるようにしてホールに足を踏み入れる。

 まず最初に目に飛び込んできたのは、暗い客席の海に浮かぶ島のようなランウェイと近未来的なネオン照明。テクノミュージックの重低音が、腹の奥まで響く。
 軽快なウォーキングのモデルが、はつらつとした笑顔を振りまいていた。カラフルな衣装は、どことなくハンバーガーショップの制服を連想させる。

「大事なことを聞き忘れていたわ。ねぇ、あなたどこかの事務所に所属していたりする?」
「事務所って?」
「モデル事務所」

 そんなわけあるかと思いながら、首を横に振った。

「良かった。それなら問題ないわね。急ぎましょう、もう時間がないの」

 女性は啓介を連れたまま、バックステージへ続く暗幕をくぐる。明らかに部外者は立ち入れないような空間で、何人ものスタッフが慌ただしく動き回っていた。その間を縫うようにして進み、真剣な表情で話し合っている二人の女性の元へ駆け寄る。

「お待たせ、笹沼さん。連れて来たわ」
「緑川先生! こんなに早く戻ってくれると思わなかった。もう、自分で着て出ようかと……」
「他の子の衣装の準備は済んでいるの?」
「はい。他は完璧」
「そう。じゃあ早く、この子を仕上げちゃいましょ」

 言いながら緑川が、啓介のカットソーに手を掛けた。
「本当はこの場で脱いでほしいけど、抵抗あるわよね。向こうにある控室で、このシャツとスカートに着替えてきてくれないかしら。なるべく早く、出来れば五分以内で。無理を言っているのは百も承知だけど、とにかく準備をしながら説明させて」

 緑川が差し出した衣装に視線を落とす。
 白いブラウスと不規則にプリーツの入った黒いロングスカートは特殊なデザインで、一目で既製品ではないと解った。恐らくこの中の誰かの作品なのだろう。
 啓介は真剣な表情の緑川と目を合わせ、次にその背後にいる笹沼と、もう一人の女性に視線を向けた。彼女たちも祈るような目でこちらを見ている。

「さあ、早く」
「ううん」

 首を振った啓介に、緑川が「お願い」と懇願する。啓介は再び首を横に振り、勢いよく自分の着ていたカットソーを脱ぎ捨てた。

「違う、嫌だって言ってんじゃない。説明されなくても、なんとなく状況はわかるよ。一秒でも惜しいんでしょ? だったらここで着替える」

 緑川の手にあった白いブラウスを奪い取り、袖を通して黙々とボタンを留めた。

「ありがとう」

 笹沼は一瞬だけ泣きそうに顔を歪めたが、自分の頬をピシャリと叩いて切り替えた。着替え終えた啓介の衣装をチェックしながら、取っ手のついた大きなケースから針と糸を取り出す。

「里穂、立ったままでメイクできる? スカートのプリーツ調整したいから、座られると困る」
「踏み台に乗るから大丈夫。ねぇキミ、今からウィッグ付けるから、ネット被せて髪の毛潰すよ。せっかく綺麗にセットしてあるのにゴメンね。後でちゃんと元に戻してあげるから」
「いいよ別に。ところで、これってお姉さんたちのコレクションなの?」

 啓介は身を委ねながら、里穂と呼ばれたヘアメイクらしき女性に尋ねた。

「これはねぇ、桜華大名物の学生コンテスト。学園内コンペで勝ち残った七人が、順位を競うショーなの。今回のテーマは『制服』でね、それぞれ五着ずつ制作して審査して貰うんだ。今キミの足元でスカート直してる彼女が、勝ち残った七人のうちの一人よ。私はヘアメイクで手伝ってるの」
「なるほどねぇ」

 先ほど「ハンバーガーショップの制服みたいだ」と思ったのは、あながち間違いではなかったらしい。納得しながら、次に浮かんだ疑問を啓介は口にする。
 
「この衣装を着る予定のコはどうしたの?」
「衣装に着替える寸前に、貧血で倒れちゃってさ。今日のために無理なダイエットしてたみたい。その上、極度の緊張で……練習はしてたんだけど、何しろモデルもここの学生だから素人同然だしね。そんなワケで、緑川先生に急遽代わりを探してもらったの」

 作業の手を止めないまま、今度は笹沼が答えた。

「いい子を捕まえられて良かったわ。じゃあ、私は客席に戻るわね。慌てないでと言っても無理だろうけど、落ち着いて。笹沼さんなら大丈夫よ」

 緑川は笹沼の肩を励ますように叩き、足早にバックステージからフロアへ戻っていく。その姿を見送りながら、啓介は気まずそうに頬を掻いた。

「あのさ。今更なんだけど、僕ここの生徒じゃないよ。部外者が出ちゃっていいの?」
「あぁ、うん。それは全然問題ない。みんな外部の人に交渉する時間もコネも無いから、友達や後輩に頼んでるだけ。だから本音を言うと、結果オーライかな。プロのモデルさんに出て貰えるんだから。まぁ、一時はどうなるかと思ったし、倒れちゃった子には申し訳ないから大きな声じゃ言えないけどね」

 笹沼の言葉を聞いて、啓介は「ん?」と首を傾げる。

「僕、プロじゃないんだけど。てゆーか、そもそもモデルなんて初めて」
「えっ、嘘でしょ⁉ さっきの脱ぎっぷり、ステージ慣れしてるんだと思ってた! ウォーキング練習なんてしてる時間ないよ、どうしよう」

 笹沼が悲鳴のような声を上げ、作業の手を思わず止めた。
 ふいに流れていたランウェイミュージックの曲調が変わり、笹沼と里穂が同時に顔を見合わせる。

「ヤバイ、前のチーム始まっちゃった。笹沼、もう他に方法ないもん。後はこの子を信じて運を天に任せよう」
「キミ、カラコン付けたことある? これ入れちゃって」
「鏡見ないでやったことない」
「大丈夫、大丈夫、頑張って。ほら、早く」

 里穂に急かされながら、手渡された真っ赤なカラーコンタクトを目に入れた。
 里穂は啓介が元々施していたメイクの上から強めにアイラインを入れ、付けまつ毛を目尻に足す。最後に濃い色で口紅を塗り直すと、満足そうに頷いた。

「よしよし、時短の割には完璧。ねぇ笹沼、あと十分もないよ、間に合いそう? 靴のサイズは合うかな」
「元々倒れちゃったモデルの子に、メンズサイズ調整して履いてもらってたから問題ない。中の詰め物取っちゃって。それで多分いける」

 ジャケットを啓介に羽織らせながら、笹沼が黒いコンバットブーツを顎で示した。それから啓介の袖口を見て、顔をしかめる。

「ブーツは大丈夫そうだけど、袖はやっぱり長さが足りないや。困ったな」

 苛立ったように爪を噛んで、笹沼が考え込む。啓介は両手をぷらぷら振りながら、「じゃぁさ」と口を開いた。

「幅広のレースを袖の内側に両面テープで貼りつけちゃえば? これ軍服のイメージでしょ。多分、女の子が着る予定だったから、可愛くなり過ぎないようにハード目なデザインにしたんだろうけど、僕が着たら不愛想な感じになっちゃうよ。可愛いとカッコイイを両立するつもりなら、甘めな要素足した方が良いと思う」
「……あんた、ここの学生じゃないんだよね。受験生? デザイナー志望?」

 息を呑んだ笹沼が、一拍置いた後に訊ねた。返答に困りながら、啓介が曖昧に首を振る。

「まだ、決めてない」
「そう。じゃ、この学校に来ないで。デザイナーも目指さないで」
「は? なんで」
「あんた、強敵になりそうだから嫌だ」

 子どもみたいな言いがかりに、啓介は片眉を上げた。

「ハハッ。僕みたいな素人の高校生まで警戒すんの、笑える。ライバルは一人でも少ない方がいい? ちょっとビビり過ぎなんじゃない」
「あんたはまだ、スタートラインにも立ってないからね。怖いもんナシなの羨ましいわ」

 睨み合う啓介と笹沼の間に、里穂が慌てて割って入る。

「ちょっと時間ないんだから、本番前に険悪になるのやめて。私は舞台袖で他の子の最終チェックしながら待機するけど、二人とも喧嘩しないでよ。笹沼、その子はラストルックでいいのね?」
「うん、お願い。袖を足したら直ぐに行く」

 笹沼は大きな裁縫ケースから幾つかレースを取り出して、袖口に当ててどれにするか吟味し始めた。腕を差し出しながら、啓介は「ラストルックってなに?」と問いかける。

「今回私は五着の衣装を作ったの。で、ショーの最初に登場する一着目の衣装が『ファーストルック』、締めの五着目が『ラストルック』つまりあんたは、トリってこと」

 使用するレースを決めた笹沼が、布用の両面テープを貼り付けていく。その手は僅かに震えていた。強気だった笹沼の緊張に気づいた啓介が、驚きながら声を上げる。

「ねぇ、震えてんじゃん。大丈夫? 顔も真っ青だよ。なんでそんな怖いのに、コンテストなんか出ようと思ったの」
「うるっさいな。私も昔は、自分で応募したくせに本番で引くほど緊張してる先輩見て、『何やってんの』って思ったよ。でもさぁ、実際結果出して注目されたら、怖くなるんだよ。千人以上いるアパレルデザインコースの生徒の中から選ばれた時は、夢みたいって浮かれてたのに。でもすぐに、『甘ったれんな』って現実にぶん殴られた」

 笹沼が舌打ち混じりに言い捨てた。小柄で可愛らしい見た目に反して、中々に口が悪い。今まで蓄積してきた不安や不満を一気に解放するように、啓介相手にまくし立てた。

「コンテストの出場権を獲得して舞い上がってたけど、準備してると嫌でも思い知るじゃん。あのコ私より上手いなとか、私ってホントは才能ないんじゃないのとか。しかもさぁ、優勝だ準優勝だなんて一喜一憂しても、しょせん大学内のハナシで、ここってまだ井戸の中なんだって気づいちゃって。気が遠くなるよね。この後、大海に放り出されるのかと思うとゾッとする」
 笹沼は震えながらも作業の手を止めない。痛々しくて見ていられないと思いつつ、啓介は目を逸らせずにいた。

 奇妙な既視感があった。
 進路調査票に書いた桜華大の名を、怖気づいて消した自分の姿と重なる。
 ふわふわした憧れが、急に具体的な進路となって圧し掛かってきた。あの時感じた恐怖の先に、この人はいるんだ。現実を突きつけられた怖さを克服して先に進んでも、また新しい恐怖と戦わなければならないのか。

「気持ちが解る」など、口が裂けても言えない。先ほど笹沼が言った通り、自分はまだスタートラインにすら立てていないのだから。
 その代わりに啓介は、純粋な疑問をぶつけてみることにした。それはもしかしたら、とても残酷な問いかもしれない。それでも先を行く人の答えが欲しくて、身勝手だと自覚しつつも躊躇いがちに口を開いた。

「どうしてそれでも止めないの。これからも、続けるの?」
「続けるよ」

 軽くいなされるか怒鳴られるかの二択を予想していた啓介は、笹沼が「続ける」と即答したので絶句した。

「続けるって言うか、多分、やめられないって言う方が正しいのかな。頼まれた訳でもないのに、作りたい服が後から後から湧いてくるの。だから、きっと作っちゃう。そうすると誰かに見て欲しくなって、こうやってコンテストに挑戦しちゃうんだろうな。馬鹿だよね。でもさ、まだ『服作りが趣味です』って言うには、私の野心は生々しいの」

 笹沼の本音を聞きながら、息を止めて唇を噛み締めた。そうしていないと今度は、叫び出してしまいそうだったから。自分の内側から、制御できない感情が湧き上がる。
 例えようがなかった。
 怒りや嫉妬にも似ているし、歓喜にも似ている。

「茨の道だよね。私もまだまだ入り口を覗いたくらいで、なのにこんな有様。でも、この道を進んだからこそ会える仲間がいるような気がしてさ。だから、まだもう少し進みたい。これで答えになってる? さてと、出来上がったよ。さぁ、行こう」

 笹沼の震えはいつの間にか収まっていた。晴れ晴れとした表情で舞台袖に向かって歩き出す。その背中を眩しそうに見つめ、啓介は「ありがとう」と告げた。

「ねぇ、教えて。今の僕に何ができる? あなたの足を引っ張りたくない」
「あんた、質問ばっかりだねぇ。いいよ。今はもう、その服着てくれただけで八割満足。あとの二割はそうだなぁ、転ばないでランウェイ行って戻ってきたら、もう充分」

 再び会場内に流れる音楽が変わる。
 その瞬間、笹沼の表情が引き締まり、「始まった」と小さく呟いた。

「良かった、間に合った!」

 舞台袖に到着した笹沼と啓介の姿を見た里穂は、泣き出しそうな顔で出迎えた。もう既に二人目が舞台に出ていて、かなりギリギリだったのだなと胸を撫で下ろす。笹沼が、啓介の背中に手を当てた。

「私が背中を押したら舞台に出て。大丈夫、あんた向いてるよ、こういうの。あんたが抱えてるモヤモヤしたやつをさ、置いてくるつもりで行っといで」

 大きく息を吸った。
 少しの間を置いて、笹沼がそっと啓介の背中を押し出す。
 その手は驚くほど優しかった。

 不思議な高揚感に包まれる。
 まるで暗い海に船出するような気分だ。
 白くてまっすぐ伸びているこの舞台の先は、どこに続いているのか見当もつかない。痛みと引き換えに進み続けるのかと思うと眩暈がする。

 それでも、誓いを立てるような気持で一歩一歩踏みしめた。

 どれだけ進んでも、どこにも辿り着かないかもしれない。
 才能のある者たちが、更に努力を積み重ねて戦う世界。
 誰の目にも留まらないかもしれない。
 凡庸な自分に絶望するかもしれない。
 必死にあがいても溺れるかもしれない。
 そんな姿を笑われるかもしれない。
 一人寂しく朽ち果てるかもしれない。

 だけど。
 それがどうした。

「望むところだ」
 挑戦状を叩きつけてやろうと思った。
 誰かに対してではなく、他ならぬ自分自身に。
 まだ今は、それが精一杯。
 でもいつかは世界を相手取ってみたい。

 ランウェイでスキップしたら怒られるだろうかと考えながら、啓介は最後の最後まで笹沼がこだわって調整していたスカートのプリーツに視線を落とした。
 どうせなら、ステージ上で綺麗に見せてあげよう。
 啓介は歩きながらスカートを摘まみ上げ、ヒラリと大きく広げたあと手を離す。ふんわりと揺れるシルエットに、会場からため息が漏れた。

 やがてランウェイの先端に辿り着き、そう言えばここで何かした方が良いのだろうかと首を傾げる。スポットライトは眩しかったが、客席にいる人の顔は案外よく見えた。
 ぐるりと会場を見渡した後、目の前に座る最前列の若い女性客と目が合った。顔の前で祈るように手を組み、一心にこちらを見つめている。

 熱心に見入ってくれるのは有難いと思いながら、お礼の代わりに投げキッスを送った。その瞬間、彼女を中心とした客席の辺りから甲高い悲鳴がいくつも上がり、啓介の方が驚いてしまう。
 鏡を見ていないので自分の姿を確認出来ていないが、あの反応を見るに、良い仕上がりになっているのだろう。
 少々調子に乗り過ぎたかもしれないと心の中で舌を出し、そのままくるりと踵を返した。「ふざけ過ぎ」と笹沼に叱られるかもしれないが、転ばなかったんだから上出来だ。
 舞台袖に戻ると、口元に手を当てて肩を震わせる笹沼に出迎えられた。泣いているのかと思ったら、どうやら声を出して笑いたいのを堪えているらしい。

「お疲れ様。あんたやっぱり凄いや、パフォーマンスまですると思わなかった。それに、勘もいいし。プリーツを綺麗に見せてくれて嬉しかったよ。そう言えば、まだちゃんとお礼を言ってなかったね。引き受けてくれてありがとう。おかげで助かった」
「どういたしまして。僕も楽しかった。あとね、僕、この大学受けることにしたから」

 啓介が胸を張って正面から笹沼を見据える。笹沼は「へぇ」と口角を上げた。

「あんた、今何年生?」
「高二」
「残念。あんたが入学する時に、私は卒業しちゃってる。桜華祭で直接対決してみたかったな」
「社会に出ればいくらでも勝負の場はあるでしょ。僕が大学を卒業するまで、ちょっとだけ待っててよ。絶対に負けないけどね」
「おーおー。大口叩くじゃん。せいぜい頑張んなよ。返り討ちにしてやるからさ」

 言いながら笹沼が左手を差し出した。意図が解らず、啓介は不思議そうにその手を見つめる。

「なんで左手?」
「右手の握手は『武器を持ってません』ってアピールで友好の証。左手はその逆で決闘の申し込みの宣戦布告。ま、諸説あるから絶対そうとは言い切れないけど。という訳で、私たちは左手で握手をしよう」
「へぇ、面白いね。覚えとこ」

 啓介は楽しそうに、左手で笹沼の手を握り返した。