その時、色が見えた。

 絵具の匂いがふわりと鼻を突く放課後の美術室に足を踏み入れる。油絵具の甘やかな香り、アクリルのきりっとした匂い、鉛筆の削りかすが放つかすかな木の匂い。これらが織り成す空気の重なりが、かえって僕の心を落ち着かせてくれる。夕方の斜陽が窓から差し込み、部屋の中に長い影を落としている。部活の時間は、一日の中で最も心を静かにできるひとときだった。
 桜井さんは部室の椅子に座り、イーゼルに立てかけたキャンバスへ熱心に筆を走らせていた。
「……桜井さん、今日も来るの早いね」
 桜井さんに声をかけながら、自分の席に座った。彼女は筆を止めず、顔はキャンバスを向いたまま軽く頷いて笑った。
「そう言う涼くんだって早いじゃない。でも一番乗りでここにくるとなんだか落ち着くんだよね。静かで、まるでこの世界に自分だけしかいないみたいな……」
「……ごめん、だったら僕はお邪魔だったね」少しからかってみた。
 キャンバスから目を離した彼女はこちらを向き、その頬はぷっくりとむくれている。
「意地悪なこと言うのね、まったく!女子には優しくしないといけないって授業で習わなかったのかね?義務教育だよ!」
「それってどの科目で取り扱うの?国語?」少し口角を上げながら返す。
「えっと……うーん道徳、かな」
「そうなんだ、覚えておくよ。テストに出るかもしれないからね」
「ふふーん!残念でした!道徳はテストが実施されません!」
 なんなんだ、このやりとりは。
「……ごめん、ちょっとからかいすぎた」
 乾いたため息をつく頃には、彼女は笑いながらキャンバスに向き直り、また沈黙の時間が流れていった。
 
 運動部のランニングの掛け声と吹奏楽部の独練の音色だけが、風に乗ってかすかに聞こえるが、それ以外の音はしない。美術室は校舎の三階で、かつ一番奥にある為か、廊下を歩く生徒もいない。美術室はそういう場所だった。学校の喧騒から少し離れて、自分だけの時間を過ごせる。そんな場所があること自体、僕にとっても貴重だった。桜井さんも同じ気持ちでここにいるのだと思うと、少しだけ嬉しくなった。

 しばらくして、蓮太郎が遅れて現れた。彼はいつも通りの態度で、美術室に足を踏み入れるとすぐに桜井さんに声をかけ、キャンバスを覗き込む。
「お、桜井、なんかいい感じやん。今日は何ば描きよるん?」
 蓮太郎の声はいつも大きく、少しだけ周りを圧倒するような響きがある。桜井さんは笑顔で振り返り、体を斜めに傾けてキャンバスを彼に見せる。僕もそれに釣られて横目で彼女の絵を見た。
 空の透き通るような青、草原の瑞々しい緑、風に揺れる白いワンピースを着た白い髪の少女が遠くに描かれている。風が草を揺らしながら通り過ぎていく様子が、まるでその瞬間を切り取ったかのように伝わってくる。写真と見紛うくらい幾重の細い線で、とても水彩で描かれたとは思えない。
「まだ途中だけどね。春の草原を描いてるの。見てると気持ちが明るくなるような絵にしたいなって思って」
 蓮太郎はその絵をじっと見つめて、感心したように頷く。
「さすが桜井やな。俺にはこんな繊細なタッチは無理やな……」
 蓮太郎はそう言って僕に視線を向けた。
「でも、涼やったらこういう水彩画描け……ないか流石に」
 彼の言葉にはどこか棘があるようで、少し身構えてしまう。蓮太郎の言葉はいつもどこか上から目線で、それがどうにも引っかかる。桜井さんはそのやり取りを見て、少しだけ困ったように微笑んでいた。彼女は僕達の間に漂う微妙な空気を察しているのだろう。
 そうだ、蓮太郎と仲良くするって桜井さんと約束したばかりだ。落ち着け、僕。
「でもさ、涼くんの鉛筆画は本当に凄いよ。あんな緻密で繊細に描ける人今まで見た事ないもん。涼くんも蓮太郎くんも、そして私も、それぞれ違うところがあるからこそ面白いんじゃないかな」
 桜井さんの言葉はいつも僕達を包み、誰も否定することができない。そして彼女は誰かを否定することなく、その人の全てを受け入れる。
「ごめんな涼。別に悪気があって言ったんやなかったっちゃけどさ」
 合掌し、気まずそうな顔をしながら、蓮太郎も自分のキャンバスを準備し始めた。
「涼くん、完成したら見せてね」
 頷きながら自分のキャンバスに向きなおし、鉛筆を走らせる。新しい風景を描きたい。桜井さんの絵に触発されたのかもしれないが、彼女に見せたいと思う反面、それが本当に期待に応えられるものなのか自信は持てないままだった。

 僕は鉛筆画、蓮太郎は油絵、そして桜井さんは水彩画。それぞれが別々の画材を得意としていた。
 桜井さんの手は迷うことなく動き、キャンバスには次々と薄く鮮やかな色が重なっていく。桜井さんはまるで魔法使いのように、自分の思い描く世界を瞬く間に作り上げていくのだ。彼女が描く風景には、いつもどこか温かさと爽やかさ、そして静寂があって見ているだけで心が落ち着く。
 蓮太郎の筆はいつも早く、こちらも迷いがない。大きな筆で大雑把に描いているようにみえるが、粘りのある画材を重ねていくにつれて線が生まれる。抜群のコントラストと大胆な構図、それは観る者を圧倒するような強さを持っていた。そして何より楽しそうに描く姿はどこか羨ましくもあった。
 僕は鉛筆の硬さを使い分けながらハッチングしていく。練り消しで光を表現しながら徐々に立体的に対象を模写する。ここのパースが曲がっている、そこの影に矛盾があるといつも迷うものだから進捗が遅い。やはり、どこか引きずっているのだろうか。いつまでたっても彼らに追いつけないような気がしていた。

 「今日は何を描くの?」
 桜井さんが肩越しに覗き込んできた。筆を止めて、桜井さんの顔を見た。彼女は無意識だろうが、長い髪が僕の肩に少しかかり、息が当たるほどに顔が近い。すぐさま顔をキャンバスの方へ向き直した。
「まだ決めてないけど……桜井さんが今草原を描いてるから、同じように風景画を描こうかな」
 そう言うと、桜井さんは嬉しそうに笑った。彼女は自分のイーゼルにかけていた小さな何かを手に取り見せてきた。
「実はこの絵、この写真を参考にしたんだよ」
 手渡されたその写真には彼女が描いた絵と同じ風景が広がっている。
「すごい……まさかこれ、桜井さんが撮ったの?」
「ふふーん、そうよ!すごいでしょ?カメラの練習にどれだけ時間とお小遣いを費やしたことか……うぅ」と眉間を指で挟み、顔を横に振った。
「……でもこれ、福岡にこんな風景が撮れる場所なんてあったっけ?僕が知らないだけかな」
「……ううん、これはね、北海道で撮ったの」
 その時、彼女の目に微かに戸惑いのようなものが掠める。
「すごい壮大な景色と思わない?涼くんもぜひ行ってもらいたいなあ。直に観た方が感動するよ」
「でも旅行なんて滅多に行かないからなぁ。でもそこまで言うなら行ってみたい……かな」
「じゃあさ……私と一緒に行く?」彼女は宝石のようで、そして悪戯をする子供のような瞳で下から見上げている。
 突然の言葉に、首の筋がキュッと突っ張る。口がへのじになり、水槽のメダカのように目が泳ぎ始めた。
 「プクククッ!冗談よ、冗談!さっきのお返しでーす」
 桜井さんは、膝を叩きながら笑った。
 肩で震わせながら、人差し指で目に溜まった涙を拭っている彼女を見ながら僕は同じく肩を震わせる。悔しさで。
 蓮太郎に聞かれてるんじゃないかと彼に視線を移したが、彼はキャンバスに向かって筆を走らせていた。どうやら僕達の会話は耳に入っていないようだ。安堵。
 北海道の地名が出た時、垣間見た彼女の目の揺らぎが気になっていた。
「その北海道へは、旅行が目的で行ったの?」
「うん、それもあるんだけど……私は福岡生まれなんだけどさ、私のおばあちゃんが北海道に住んでたの。小さい頃はよく会いに行ってたのよ。もう亡くなちゃったんだけどね……だから北海道に行く回数も減っちゃったわ」
 お腹の前で手を組み、口を小さくへの字に曲げたその表情には、どことなく寂しさが漂っていた。言葉にならない哀しみの色が、その瞳には微かに映り込んでいる。
「……そっか、それは寂しいね」
「ううん、もう慣れちゃったよ。続きはまた今度話すね、長くなりそうだし……」
「……うん、わかった」
 その言葉を最後に僕達は自分のキャンバスに戻る。いつもの静かで、穏やかで、そして少しだけ緊張感がある美術室に戻った。蓮太郎は僕を横目で見ながら、いたずらっぽく口元を歪めたが、その笑みの裏に隠された言葉は、結局口をついて出ることはなかった。
 
 スピーカーから放送部が選曲したクラシックにのって下校を促す放送が流れ始めた。
 校外学習の日、バスの中はどこか浮ついた雰囲気で満ちていた。行き先は隣の市の自然公園。目的地は特に目を引く場所ではなかったが、教室から離れて外へ出られるというだけで、生徒たちはみな心が弾み、車内はその高揚感に支配され、途切れることのない会話の波が広がる。
 三週間後に行われる文化祭において、クラスの生徒がそれぞれ描いた風景画を教室に飾る予定であり、今回の校外学習の目的はその資料や題材を集めるためだ。そんな事のためにバスを出すなんて、我が校は器が広いらしい。
 窓際の席に座り、隣に座る桜井さんを感じながら、流れていく外の風景を簡単にスケッチしていた。座席は窮屈で、バスが揺れるたびに彼女と肩が軽く触れ合う。そのたびに、彼女の長い髪から漂う香りがふわりと顔の周囲に広がり、まるで大きなわたがしが浮遊するように、ほのかに甘く柔らかな余韻を残していく。その香りが鼻先をかすめる度に気もそぞろで、外の風景に集中できない。蓮太郎が横に座ってくれた方がまだマシだった。

「うわ!ちょっと見てよ。あの山、変わった形してる!」
 指さす前腕が、うつむく僕の顔面とスケッチブックの間に割り込んでくる。彼女が指す方向に視線を向けたが、その山が一番低いという事以外は周囲の山々との差異がよくわからない。
「……本当だね。面白い形だ」
 曖昧に答えて、またスケッチブックに視線を戻した。
 彼女の目の中にはその山の景色がきらきらと輝いて映っているのだろう。理解はできないけど。
「……ちょっと!君、本当に観てた?」
「観てたよ、あの一番低い山でしょ?でも他の山と、さほど違いはないと思うんだけど」
「よく観てよ、あの山!なんかゴリラっぽくない?こう、ほら、あれが顔の部分で。あっちが体。寝転んで遊んでるみたい」
「……ゴリラ……ゴリラ?」
 山はどうみても山でしかないわけだが。
「そう、ゴリラが寝そべっているようにみえると思わない?」
「そうかな……よくわからないな」どこがどうゴリラに見えるのか、頭の上に疑問符が飛び出てきた。
「…………」
「涼くんはさ、さては見ているだけで観てないな」どこか誇らしげに彼女は腕を組む。
「何それ?トンチかナゾナゾみたいなもの?」
「ううん、そうじゃなくて。因みに絵を描く時に一番必要な技術って何だと思う?」
「……観察力、かな」いささか自信は欠けていたが、まぁこれが正しい答えだろうと、自分を納得させた。
「そうそう、だから君のそのスケッチも十分すぎるくらいあの山を模写できてるとおもうよ。でもほんの少しだけでいいから視点を変えるの。想像力って言った方がいいかな。そうすると人には見えないものを描くことができるのよ」
「人には見えないもの?」いよいよ彼女が何を言っているのかわからなくなった。
「例えばリンゴを描く時も赤色をベースにして、類似の暖色系でグラデーションを描いていくでしょ?でもさそれって目に映っているものをそのまま描いてるだけじゃない。でもリンゴは赤だけじゃない、緑や青の線だってあるんだから……」
 彼女の描く絵を思い出す。確かにたくさんの色が使われていた。葉っぱに赤、空に紫。近くでみれば、なぜこんなところにこんな色がと疑問に思っても、遠目でみれば全体がまとまっている。それは生命が息遣いをそのまま切り取った一枚の写真のようだった。
「桜井さんの目に映るものと、僕の目に映るものは違うのかな」
 鉛筆を握りしめたまま、じっと自分のスケッチブックを見つめる。絵を描いていたはずなのに、そこに描かれたものが、単なるの線の集合体のようで肩を落とした。
「そうかもね、証明することはできないけど」
「……桜井さんの目が欲しいな。どうしたらそこまで見えるようになるんだろう」
 少し笑いを含みながら、彼女は静かに首を振る。
「ううん、これは目じゃなくて、心の話だと思う。無理やり観ようとしないで。なんというかこう、えっと……フフッ、私にもどう説明したらいいかわかんないや」
「それが桜井さんの絵の上手さに繋がっているのかな。君が描く絵を見る度に感心しちゃうから」
「あら!そう言われると恥ずかしいな、私は私が上手だなんて思ってないけど。でも頑張れば見えない空気や風だって絵具で表現できるんじゃないかな。そういえば……」
 彼女は何かを思い出したように、顎にそっと手を当てながら、ゆっくりとバスの天井を見上げた。
「私のお婆ちゃんが言ってた。風や空気はいつも透明だけど、心が動いた時や潤った時、それが緑色に見えるんだって」
 風が緑色に見える?さすがに現実味がないな。
「どういう事だろう。悟りの境地にでも至ったらそう見えるって事なのかな」
「さあね。少なくとも私は見た事ないわ。お伽話の類ね、きっと。お婆ちゃんそういう話好きだったから」肩をすぼめる仕草の中に、彼女は微かな笑みを忍ばせている。その笑顔はまるで、心の奥に潜む感情をそっと覆い隠すベールのようだった。
 先ほどの山を凝視していると、星々に線を引いて星座を形作るように、視界にゴリラの輪郭が表れてきた……ような気がした。
 
「なあ、俺たちさ、自由時間どげんする?二人とも、どこか行きたい所あるや?」
 同じ班の蓮太郎が前の席から体を乗り出してくる。彼の声はいつもと変わらず元気で、周囲の空気を一瞬で明るくするかのような力を持っている。その反面、僕はその問いかけに対して考える間もなく、ただ答えを濁すだけだった。
「僕はどこでもいいよ。二人に任せる」
「えー、それじゃあ展望台に行こうよ!あそこからの景色、絶対きれいだと思うんだ。間違いないよ!」
 桜井さんの提案に、蓮太郎は即座に「よしゃ!じゃあ決まりやな!」と賛成した。特に異論はなく、ただ二人についていくことにした。蓮太郎はこちらを向いたまますぐにスマートフォンを取り出してアプリで道順を確認し、桜井さんは周辺の施設を検索している。
 生まれた頃から福岡に住んでいるが、この辺は来たことがなかったな。
 行先である米ノ山展望台を調べてみた。どうやら隠れた映えスポットらしい。インスタグラムを開いてみると、バイク乗りたちが切り取った瞬間の風景がずらりと並び、写真一枚一枚からその場所の秘める魅力がにじみ出ている。
 
 目的地の場所周辺に差し掛かる。大型バスを停められる駐車場は頂上付近には用意されていなかったため、バスは麓のお寺に隣接する広々とした駐車場に停車した。
 僕ら含め生徒たちは下車し、駐車場の空いたスペースに全員が座った。
「ここからは各自自由行動。集合時間は守れよ。特に中村、天気がいいからって、外で寝るんじゃないぞ」
「……はいはい。わかってますって」バツの悪そうな表情を浮かべ、蓮太郎は頭を掻きながら、何か言い淀むように口を開く。
 松本先生の「解散」の一声が響き渡ると、生徒たちは一斉に立ち上がって四散した。まるで蜘蛛の子が広がるように、瞬く間にその姿は見えなくなり、それぞれが自由を手にしたように好き勝手な方向へと姿を消していく。
 指定された集合場所から少し離れた展望台を目指して、僕達三人は歩き始めた。

 森の中の小道を抜け、ゆるやかな坂道を上っていく。木々の隙間から射し込む柔らかな日差しが、点々と地面に光の斑点を描き出す。桜井さんはその自然の気配を余すことなく味わうように、ゆっくりと深呼吸しながら歩き、蓮太郎はふと足を止めてはスマートフォンを構え、その一瞬の美しさを切り取っていた。
「なんかさ、こういうとこ来るとすごいワクワクするよね。空気がすっと入ってくる感じ。マイナスイオンっていうのかな?」
 桜井さんは高揚した声をあげながら、目を輝かせて周りの景色を見つめている。彼女にとって、今この瞬間が特別な体験であり、見えるものすべてが新鮮な驚きなのだろう。返事をしなかったが、それでも彼女が楽しんでいる様子を見て、微かな安堵の気持ちが胸の内に広がった。
「確かにな。福岡だけじゃなくて、色々な自然を見てみたいよな。阿蘇とか九重とか……」腕組みをしたまま、彼は一人で「ウンウン」と頷き続けている。
「海外にも行ってみたかー!涼はどげん?こういう景色とか見て、なんか行きたい場所とか思いつかんと?」
 突然、蓮太郎が問いかけてきた。彼の顔には期待と興奮が入り混じり、まるで光を帯びているかのように生き生きとした表情が浮かぶ。その感情は遠い星の煌めきのように、どこか現実味のないものに思えた。
「別に特には……。今のところどこかに行きたいとか、そういうのはないかな」
 以前、桜井さんと話していたとき、話題に上った北海道のことを言いかけたが、なんだか気恥ずかしくて結局その言葉は胸の中に押し込める。
 その答えに対し、蓮太郎は少し困ったような笑みを浮かべ、桜井さんはそのやり取りを静かに見つめている。彼女は蓮太郎の理想主義的な一面と、僕の現実的な態度の双方を、同じ重さで受け入れ、大切に思っているのだろう。その穏やかな表情が、僕たちの間に漂う微妙な均衡をそっと守っているように見えた。

 やがて展望台に着くと、そこから見える景色は期待以上のものだった。青空がどこまでも広がり、博多湾や天神の街を含めた福岡の景色が一望できる。桜井さんはカメラを取り出し、何度もシャッターを切っていた。その瞳の中には、この景色のすべてが写り込んでいるようだ。
「ねぇ涼くん、この景色、なんかすごいよね。写真じゃ全部は伝わらないかも……」
 彼女が楽しそうに言いながら肩をバンバン叩いてくる。
 痛い。
「まあ、きれいだとは思うけど……ちょっと歩きすぎて疲れたから感動も半減かな」
 乾いて詰まるような返答に、彼女は少しだけ寂しそうに見えたが、すぐにまた笑顔を浮かべた。蓮太郎はそんな僕達を見て、「涼はマイペースやな」と笑った。
「夜景とかだと、また違って綺麗なんだろうね」
「涼くんは、昼の景色と夜の景色どっちが好き?」
「そうだな、どちらかと言えば夜の景色かな。光の一つ一つをみて、その人口の光の下に人の営みがあると思うとなんか感慨深い」
「ふむふむ、確かに涼くんはそっち好きそうだね。でも私は断然昼の景色だなぁ。お日様の光をいっぱい浴びて、深呼吸して、そして目にいっぱいの大パノラマを見るの。そうしたら体がふわっと浮く感じがしてすごく気持……」
 突然の事だった。桜井さんは両手で口を押さえ、咳をし始めた。最初は軽やかだった咳が、ひとつ、またひとつと重なり、次第に苦しそうな音を立てて深くなっていく。その様子は、今にも嘔吐してしまうのではないかと思うほど激しく、その咳は激しく、彼女の身体を揺さぶっている。
 動揺しながらもしゃがみ込む彼女の背中を上下に摩っていると「どうしたん桜井?大丈夫や?」と異常をみつけた蓮太郎が駆け寄ってきた。
 彼女は片手でオーケーサインを出しながらも、肩を大きく動かし、咳と咳の間に震えている。
 辛そうな表情をしているのに、目は鋭く、まるで別人のようだった。光の加減だろうか。ヘーゼルアイの瞳が、牡丹のように赤くなっているように見えた。

 咳はしばらく続いたが、彼女が持参していた吸入器で薬を吸い込むと、次第にそれは落ち着いていった。胸に手を当てながら大きく深呼吸をし、無事に災難が通過していったのを確認する。
「はあ…………死ぬかと思った。まぁこれくらいじゃ人は死なないんだけど」
 眼球は真っ赤に腫れていたものの、いつの間にか表情はいつもの笑顔に戻っている。
「桜井さんって喘息持ちなの?」
「ううん、私喘息は持ってないわ。でもたまにこういう咳が出るんだけど。大したことはないよ」
「いや、大したことあるやろ。酷い咳やったけん、バリ心配したんやけど…………」
「ごめんごめん、二人ともそんなに心配しないで。久しぶりにおいしい空気を吸ったから、体がびっくりしちゃったのかもね」
「テンション上げすぎやろ」と蓮太郎は笑った。
 桜井さんを気遣って休憩をした後、僕達は展望台から見える景色の写真を撮ったり、スケッチブックにラフを起こしたりしながら順調に資料を増やしていく。
 喘息は持ってない?じゃぁ一体なんなんだろう。勘ぐりすぎだろうか。ガムが靴底にペタッと張り付くように、心の隅に一抹の不安を覚えたが、顔に出さないように努めた。
 文化祭の時期になると、学校全体が普段よりも少しだけ華やかで浮き立つような雰囲気に包まれ、生徒たちはそれぞれのクラスや部活動で忙しげに行き交っていた。廊下の掲示板には、各クラスの出し物や部活の展示についての告知が所狭しと貼り出されている。
 そんな中、我がクラスも文化祭に向けて展示を準備していた。クラス全員分の絵を飾るという大変地味な展示なので、客入りは見込めなさそうだが、桜井さんが中心となって企画を進め、作品をどのように配置するかどのテーマで統一するかを考えていた。
 放課後の教室は、いつも以上に活気があった。机の上には画材が散らばり、生徒たちは各々の作品に取り組んでいる。桜井さんはその中を動き回り、絵が苦手な生徒にアドバイスをしたり、飾り付けのアイディアを出したりしている。彼女のエネルギーは無尽蔵で、ロボットかサイボーグか、はたまた昨今話題の生成AIか、そういう類のものなのではという少々SFが混じった想像をしていた。
 
「さてさて、涼くんはどんな感じ?」
 桜井さんが隣に来て、キャンバスを覗き込んできた。僕が文化祭用の作品として描いているのは、校舎の中庭をテーマにした風景画。以前の校外学習で撮った写真とスケッチを基にした空と木々をベースに、花壇に植えられた花、ベンチで会話する生徒、古びた校舎の壁に這うツタ。ありふれた日常だが、その静かな美しさを描きたかった。
「中庭だよ。あの場所、これといった特徴があるわけじゃないけど、妙に落ち着くんだ。だから、その感覚を表現してみたいと思って」
 僕の言葉を受けて、桜井さんはウンウンといつものように頷き「うん、いいね。涼くんらしいよ」と、心からの笑顔を見せてくれる。正直上手く描けるか不安だったが、桜井さんのたったその一言がその不安に染み込み、自分の絵も悪くないんじゃないかと、少しだけ自信が持てた。
 一方で、蓮太郎は一際大きなキャンバスに向かい、相変わらずの大胆なタッチで抽象画を描いていた。
「おい、涼、これ見てくれよ」
 蓮太郎の声が教室に響く。
 彼の作品は、あまりにも強烈な色彩を帯びていて、一見すると何を表現しているのかまるで掴めない。しかし、目を離さずじっくりと見つめていると、その中に彼なりのストーリーが息づいているのだろうと、ふと感じる瞬間がある。僕とは対照的なスタイルでありながら、その表現の自由さにどこか惹かれるものがあった。赤と黒を基調にした激しいラインが引かれ、まるで感情の奔流のようだった。
 一歩後ろに下がり、その全体を見渡した。それは見る者を圧倒する力がある。いつも直感的で、理屈よりも感覚を重視する。そんな彼の絵には、どこか混沌とした美しさがあるのだろう。到底真似できない表現力だった。もう一度、蓮太郎の絵の細かいところまで目を配り、その中に込められたものを探す。
「迫力が物凄いね、圧倒されてしまうよ。抽象的な心模様を描いているようだけど、でもどこか……風景のようにも見えるかな」
「なるほどな。確かにそういう捉え方もあるな。こういうのは観る人によって印象が全く違うけんねえ」
「ねえ蓮太郎、僕の鉛筆画も見てくれないかな」
「おう!よかぜ!」
 イーゼルに立てかけた描きかけの絵を蓮太郎に渡した。
「おお、良いやん!この校舎の陰影の付け方上手いな。花の描き込みも細けぇ……涼、最近レベル上がっとるやん」
「いや、君たちに比べたらまだまだだよ……」
「ははは!全くその通りやな……精進しろよ!」
 そんな素早い嫌味な返しに対し、目が半開きして大きなため息をついたが……僕は、心の内では笑っていた。
 桜井さんはそんな僕達のやり取りを見て、微笑んでいる。彼女は何も言わずに見守っているようだったが、その表情にはどこか満足そうだ。
 思えば、蓮太郎と流れるような会話をしたのはいつぶりだろう。いつも蓮太郎が声をかけてきても、空返事や相槌を打つのが常だったのに。いつも高圧的な態度をとっていると思っていたが、やはり誤解していたのだろうか。蓮太郎の社交的な性格、そして高みにある画力。どれも彼を羨ましく、どこかで嫉妬していた?
 どれも僕の思い込みで蓮太郎という人間を歪めて見ていたのかもしれない。ふと桜井さんとの会話を思い出す。
「……でも君はあの山をただの山とだけでしか見てないじゃない。でも少しだけ視点を変えるの。そうすると人には見えないものを描くことができるのよ……」
 このやりとりがきっかけにして、蓮太郎に対する心の氷塊がひたひたと溶け出すのを感じた。

「ねえ、二人とも。文化祭で一緒に展示するなら、美術部員だけは何か共通のテーマでやってみない?」
 桜井さんの突然の提案に、蓮太郎と顔を見合わせる。共通のテーマで展示することなど思いもよらなかったが、桜井さんの提案を聞いても、どうも前向きに捉えることができず、心の中で小さな抵抗感が芽生えた。
「例えば……そうだなぁ、三人で同じ場所を描いてみるとか。今、涼くんが描いてる中庭。同じ視点で、かつ違う画材で描いたら、面白い展示になるんじゃないかな」
 桜井さんの提案は、僕にとっては肩身が狭い。彼らの画力と僕のそれとでは、あまりにもかけ離れていて、一緒に展示したところで、果たしてうまくいくのだろうかという不安が拭えないからだ。
「使っている画材もそれぞれのレベルも違うから……その、一緒に並べるのは流石に無理があるんじゃ」
「何を恥ずかしがってるんだか。私はみんな違ってみんな良いと思うけどな。あれ?どっかで聞いたような言葉だね」
「金子みすゞだね。でも僕の絵だけが浮いて見えてしまうよ……」ツッコミと謙遜を一息で吐く。
「私は涼くんの絵、下手だなんて思ってないよ。十分上手だし、なんなら好き」
「いや、あの……そう言ってもらえるのは凄くありがたいけど……」
 照れ隠しのように腕を組み、顔を伏せた。目を合わせることができず、ただただ視線を足元へと向ける。
 桜井さんはそんな僕の心配を軽く受け流すかのように、「大丈夫!大丈夫だよ」と言い切った。
 蓮太郎は腕を組んで考えているようだったが、やがてニヤリと笑って頷く。
「面白そうやん。俺は賛成だ。じゃあ俺は今描いてるこれを、さっさと仕上げておくか」
 大きなため息をついた。体の奥に溜まった重たい感情が、空気と共にゆっくりと外へ押し出されていくような感覚。今日だけで何度ため息をついただろう。桜井さんはそれを勝手に快諾と受け止め満足げに微笑み、「じゃあ決まりだね!」と嬉しそうだった。

 文化祭の準備は場所を美術室へと移し、着々と進んでいく。放課後の美術室は、まるで小さなアトリエと化し、僕達はそれぞれの作品に没頭しながらも、少しずつ展示全体の形を作り上げていった。桜井さんが提案した「共通のテーマ」というアイディアは、僕達にとって新しい挑戦だったが、それが何かしらの形で成功することを願っていた。

 数日後、僕達は各々の作品を持ち寄り、イーゼルを3つ横に並べ、僕の絵を中心に向かって左側に蓮太郎、右側に桜井さんの絵を飾った。そこに生まれたのは不思議な統一感。桜井さんの描いた水彩画は明るく温かみがあり、蓮太郎の抽象画は力強く感情を表現していた。そして僕の描いた風景は、静かで穏やかだった。
「ほら、やっぱりいい感じになったじゃない!二人ともそう思うでしょ」
 桜井さんは満足げにそう言い、僕達の作品を見渡した。僕も蓮太郎も、桜井さんの言葉に頷くしかなかった。三人の絵は、 同じ視点で描いたからかどこかでつながっているように感じられた。
 彼らの絵と僕の絵を交互に観ていると、ふわっと風が吹いた。そしてその瞬間不思議な感覚に囚われた。
 僕の絵の上に、色が次々と重なっていく。桜井さんの色と蓮太郎の色が、互いにフェードを繰り返しながら、僕の描いた線をそっと包み込むように重なり合う。ときには色が混じり合い、予想もしなかった鮮やかな色が生まれ、絵をより一層華やかなものへと仕上げていく。
 桜井さんの優しさや、蓮太郎の大らかさ。彼らのそういった嬉しい、楽しい、心地が良い。そう表現するのが正しいかはわからないけど、僕の不感で渇いていた心に水のようなものが湧き出すのを感じる。
「色が……見える」
 自身の絵をまじまじと観て呟いた。そして彼らに視線を戻すと、桜井さんと蓮太郎は顔を見合わせ、首を傾げている。
「君たちには見えないの?」
「涼くんの絵に、色が載ってるの?」
「うん。いろんな色が混ざり合ってる。桜井さんと蓮太郎の色が……僕の絵に……不思議だな。心につっかえているものが溶けていくようだ」
「……そうなんだ」
 目を擦り改めて観ると、そこにはいつものタッチのモノトーンの絵があるだけだった。何だったのだろう、今の現象は。もっとこの不思議な魔法にかかっていたかったのだが、残念ながらその魔法が溶けてしまったらしい。
 桜井さんの方に振り返ると、太陽のような笑顔でこちらを見ている。
「これってさ、桜井さんが言っていた見えないものを観るというものの類かな」
「どうだろう……それは君にしかわらない事だけど、きっとそうかもね。それにしても涼くんの目もずいぶんと肥えてきましたなあ。ンフフ」
 彼女が何をそんなに嬉しそうにしているのか、全くわからないけど、彼女は自分の絵と僕の絵を交互に見比べ、しばらくすると満足げな表情を浮かべて静かに準備室へと消えていった。
 「これ、文化祭で絶対注目されるばい」
 自信満々の表情で蓮太郎が言い切る。僕もまた、同じ意見だ。

 屋上に向かう階段。足音がコツコツと反響する。文化祭の準備で教室が賑やかだったため、少し静かな場所で一息つくことにしたのだ。屋上から見える景色は遠くまで広がっている。学校の屋上は普段立ち入り禁止だが、文化祭の準備期間中は特別に許可が出ていた。
「こうやって屋上に来るのも、なんか新鮮やな」
 蓮太郎は購買で買った焼きそばパンの袋をカサカサと音を立てて開けた。隣にいる桜井さんは、細長いストローが刺さった紙パックのジュースをちびりと飲みながら、「そうね、滅多にここに来ないから」と軽く頷く。
 それにしても都市伝説との噂名高き焼きそばパンを持っている事が気に掛かる。
「蓮太郎、この時間によく焼きそばパン買えたね」
「ん?ああ、なんか昼休憩の時に、購買部のおばちゃんが商品棚にあげるの忘れとったらしい。今、棚は焼きそばパンで埋まってるぞ」
 都市伝説のバーゲンセールだ。今からでも買いに行こうかな。
「なるほどね、そいうこともあるんだ」
「一口、食べるや?」
「いや、いいよ。いつか自分の実力で勝ち取ってみせるから」
「はは、なんやそれ」
 屋上に吹く風が心地よい、こうした時間も悪くない。
 慌ただしい日々の中での、ささやかな息抜き。こういう何でもない会話ができる瞬間は大事だ。
「なあ、最近学校で面白いことあったか?」
 蓮太郎が突然問いかけてきた。蓮太郎はそうやって、ふと思いついたことを口にするタイプだ。少し考えてみたが、これといって特別な出来事は思い浮かばなかった。
「文化祭の準備で大忙しだからね。それ以外はいつもどおり……」
「そっか、いつもどおりか。ま、それも悪くないやろ。平和が一番」そういいながら焼きそばパンを一口頬張る。
「そいや俺は昨日、飼い犬に宿題食われたんやけどさ、先生に通じんかったんよね」
「ちょっと……またやってるの、蓮太郎くん」
 桜井さんが呆れたように笑い、つられて笑ってしまった。蓮太郎の話はいつも誇張されていて嘘と本当の判断がつかない。
「でもさ、犬に食べられるとかベタすぎない?それって実際にあった出来事なの?」
「いや、マジであるとって。今回は、いや今回も本当やけん。うちの犬、元気ありすぎて何でもかじるんよ。ちょっと目を離したらノートも教科書はぐちゃぐちゃ。もうほんとシャレならんっちゃけど」
「でも蓮太郎くんちの犬、元気で可愛いよね。この前見に行ったときも、めっちゃ走り回ってたよね。飼い主に似てきたのかしら……」
 桜井さんが楽しそうにそう笑うと、蓮太郎は「そうやろ」と誇らしげに頷く。確かに彼の家の犬は活発で人懐っこい性格をしている。名前は「ゴン太」。体は大きいのに、動きは妙に俊敏な雑種だった。
「じゃあ、次は涼くんちのペットの話でもしようか」桜井さんは屋上の柵にそっと背を預け、風を受け止めるように目を細める。
「生憎うちはペットがいないんだ。なんか毛が散るの嫌だってさ、母親が」
「そっかぁ、なんか意外。涼くんの家でも何か飼ってると思ったのに……」
 少し残念そうだったが、それでもすぐに気を取り直して「じゃあ、一緒に動物園にでも行こうか」と提案してきた。蓮太郎もその提案に「いいな、それなら涼も動物と仲良くなるチャンスやん」と乗っかってくる。
「動物園か……悪くないけど、正直動物に対して興味があるかと言われると微妙かな。後は、園内の臭いとかが強烈だし……」
「えー!動物って見てるだけで癒されるんだけどなあ……あ!そうだ!」
 彼女は手を鼓のようにポンと叩く。それと同時に頭上に豆電球が光ったようにも見えた……ような気がする。
「同じ動物でもお魚ならどう?マリンワールド!イルカやアシカのショーもあるんだよ!サメとかマンタとか、あと可愛い魚もたくさんいるし!楽しいと思うんだけどなあ」
「なるほどな、で、涼は気に入ったら水槽買って、魚の飼育デビューって流れやな」
 桜井さんの無邪気な発言に、やはり蓮太郎も乗っかり、そして僕は肩をすくめる。
 動物の次は魚か。
「なあ、文化祭終わってから予定組んで本当に行ってみるか?」
 蓮太郎が目を輝かせながら改めて提案する。桜井さんは僕の顔に向けて親指を立てて頷いた。こうして、僕達の屋上での休憩は次の約束を残して幕を閉じる。
 
 文化祭当日。学校の賑わいは最高潮だ。定番のお化け屋敷に、香ばしい香りを発する屋台群。メイド喫茶に茶道体験。
 そんな喧騒から離れた教室の一角、クラスの人数分の絵に囲まれ、入り口に設置された受付の椅子でぼんやりしていた。
 スマートフォンが震える。
「今どこにいる?」と桜井さんからのメッセージに、教室にいる旨を返信した。
 生徒の姿は一向にないが、招待された近隣の方や、先生、父兄がちらほら入ってくる程度。 あれだけみんな頑張ったのになぁ。そんな事を心でぼやいていると、桜井さんが入り口からひょっこり顔を出した。
「お疲れさま、涼くん」
「お疲れさま。と言っても座ってるだけだから、疲れはないんだけど」
「おやおや閑古鳥が鳴いておりますな、我がクラスの展示は……」口をへの字にして、ため息を吐いた。
「ぼちぼちかな。でも親御さんたちからは好評だよ。みんな上手だねって」
「そっか、それはよかった。ところで……」隣にある椅子へ座る。
「お腹空いたでしょ?一緒に校内を回らない?」
「え?」
 突然の誘いに一瞬背筋に緊張が走った。一緒に?二人で?
「あの……蓮太郎は?一緒じゃなかったの?」
「ううん、蓮太郎くんの姿は今のところ見てないな。色々な屋台を満喫している最中、という事は安易に想像できるけど。もしかしてお腹空いてない?」
「ううん。とても空いてる。そっか、じゃあもうすぐ当番が交代の時間だから……」
「了解!その辺で待ってるね!」
 言葉を言い切らないうちに、桜井さんは教室を小走りで出て行った。
 受付交代の時間が来て、同じクラスの吉田さんが軽い足取りで教室に入ってきた。どうやら彼女も文化祭を満喫してきたらしい。ほのかにソースの香りがする。
「お疲れさん、田中くん。交代の時間だよ」
「うん、わかった。あとはよろしくね、吉田さん」
「ねぇねぇ田中くん。廊下で由衣が待ってたよ。もしかして二人で屋台巡りするの?」
 彼女の大きくした目には、らんらんと輝く星が宿っている。嫌な予感。
「あ……えっと……誘われちゃって……」
「えーなになに!二人付き合ってるの?」
 僕は立てた人差し指を口に当てる。声が大きい!
「いや……そうじゃなくって……」
「ちょっと日菜!なに余計なこと言ってるの!」桜井さんが握り拳を作りながら廊下の窓から顔を出してきた。
「怖い怖い。ふふ、照れちゃって」
「照れてない!だいたいなんで日菜はいつもそうやって誰かと引っ付けたがるのよ」
「なんでって言われても困るけど。そうだなぁ、自分が恋愛するのは面倒だけど、人が恋愛してるのを見ると、ついつい応援したくなっちゃうのよね。キューピット的な?」
「だから違うってば!涼くんはお友達!」
 何だろう、そうあからさまに否定されると、それはそれで傷つく。
「まぁまぁここは私に任せて。二人は楽しんでらっしゃい!」
 吉田さんは僕と桜井さんの背中を押して教室から追い出す。振り返ると手を振って見送っている。
「全くあの子ったら。これだから恋愛至上主義女子は……」頭を抱えたまま、桜井さんはため息をひとつ吐き出した。「気にしなくていいよ」との桜井さんのフォローに小さく頷き、彼女の後ろをとぼとぼとついて歩いた。
 
 校舎を出た僕達は運動場へ向かった。教室でも飲食の屋台を出しているクラスはあるが、出店数が多い為、運動場にもテントが貼られていた。
「なにを食べようかな」と目線をあちこちに向けながら、彼女は足早に歩いている。心なしかその足取りは軽い。
「涼くんは何か食べたいものある?」振り向きながら訪ねてきた彼女の目は既に何を買うか決まっているようだ。
「桜井さんこそ、もう食べたいものが決まってるんじゃないの?」
「ばれた?察しがいいわね。私はね、焼きそばとクレープとりんご飴でしょ、みたらし団子にチョコバナナ……あとそれから」
「ちょ、ちょっとちょっと!ストップ!」
 どれだけ食べるんだこの人は。
「食べ過ぎって言いたいんでしょ?でもこういう時だからこそ、お腹いっぱい食べなきゃって思わない?」
「こういう時って、そこまで気合い入れて食べるものでもないでしょ。高校生のクオリティだよ、とびきり美味しいわけでもないでしょ」
「君ねぇ……」人差し指を左右に振り、「わかってないなぁ」をアピールしてくる。
「私たち、今高校何年生?」
「……三年生」
「そう!もうこれが最後の文化祭なんだよ!大人になった時、ふと思い出すの。あー、あの時のチョコバナナ、美味しかったなぁって。そういうの大事でしょ?これも思い出作りなの!」
「だからって別に満腹になる必要も……」肩をすくめながら、屋台が並ぶ方向を見る。
「いいの!で、涼くんは何を食べたいの?」
「じゃぁ、お昼を食べたいから、桜井さんと一緒の焼きそばを食べる事にするよ」
「焼きそば、好き?」
「ソースがね、好きかな。だからお好み焼きでもたこ焼きでもソースがかかってればなんでも」
 その時、「焼きそば残り十パックです!」という生徒の叫び声が焼きそば屋の方向から聞こえた。
 その声を耳にした瞬間、彼女は「やばっ!じゃあ、私が買ってくるね!」と叫びながら、その声のする方へと勢いよく駆けていく。
 よし、ここでゆっくりしよう。そう思い、渡り廊下脇に設置されたベンチへ腰を下ろそうとしたとき、不意に声をかけられた。
「お、涼やないか。一人か?」チョコバナナを咥えながら蓮太郎がこちらへ向かってきた。
「ううん、桜井さんが今焼きそばを買いに行ってる」
「そかそか。じゃあ俺も一緒に待つか」と言いいながら、彼は横に座った。
 二人で空を見上げていた。蓮太郎が足を組み直しながら「平和やなぁ……」と、どこか感慨深げに呟く。
 真上の空は透き通るように青い。遠くに入道雲が見えて初夏の空気を醸し出していた。丁度校舎の影にかぶさり、暑さを紛らわしてくれてた。
「で、最近どうよ」
「ん?またそれ?最近変わったことは特にないよ」
「そうやなくて、桜井とだよ。いや、ほら、あいつのこと好いとるんやろ?なんか進展はあったんかなって」
 どうしてこう吉田さんといい、蓮太郎といい、不要なお節介を焼いてくるのだろう。仮に惚れていたとしても放っておいてほしい。
「別に友達以上でも、以下でも……」
「なんや焦ったい奴やな……まぁいいや。命短し恋せよ乙女ってな」蓮太郎はそう言うとチョコバナナの最後の一口を頬張る。
「どうしてそう見られるんだろう。僕は彼女に対してそういう態度をとっているのかな」
「んー。お前はともかく、桜井はどうなんやろな。まんざらでもないんじゃね?」
「それはないね……きっと」
 取るに足らない話を続けていると、桜井さんが戻ってきた。
「よかった、間に合ったよ。はい、涼くんの分」とパックに入った焼きそばと割り箸を差し出してきた。
 「ありがとう」と言って代金を彼女に渡す。
 彼女はベンチに座り、自分の焼きそばを膝に置いた。
「蓮太郎くんもいたのね、焼きそば少しいる?私のだけど……」
「いらんいらん。もう十分に満喫したけん」蓮太郎はお腹をパンパンと叩き、満腹のアピールをしている。
「そっか、じゃあいただきます」髪をかきあげて焼きそばを啜る。
 数回咀嚼した後、彼女はカッと目を見開いた。
「これすごく美味しいよ。涼くんも食べてみて」
「いただきます」促されて一口啜った。
「確かに。高校生クオリティどころかお店に出ててもおかしくないな、美味しい」
「でしょ?これ商売できそうだね」

 思い出。桜井さんの言う通りかもしれない。喧騒と暑さ、ソースの香り。大人になったら彼女と同じように思い出して、この時間の事を懐かしむのだろうか。
 大野城市にある大型商業施設。その一角にミスタードーナツへ僕達は足を運んでいる。
 文化祭の打ち上げと称しているものの、むしろ常連とも言っていいくらいに頻繁にここへ寄り道をしているわけで。
 いつものように桜井さんが先導する形で席を決める。桜井さんはフレンチクルーラーとアイスカフェオレを注文。僕はオールドファッションとアイスコーヒーを頼み、壁際の四人用テーブル席に座った。先に注文を完了し着席していた蓮太郎はスマートフォンを手にしながらポン・デ・リングを無造作に口へ運んでいる。まるでピサの斜塔のようにポン・デ・リングが縦に五つ積まれているが、成長期とはいえ見てるだけで胃もたれしそうだ。
 店内は平日の午後とあって、特に混雑している様子はなく、僕達以外には数組の客がいるだけだ。外の明るい光がガラス越しに柔らかく差し込み、テーブルの上に影を落としている。壁には新商品が発売されることを告げるポスターが、隙間を埋めるように貼られ、その存在感を主張していた。
 
 桜井さんが顔を上げ、フレンチクルーラーを小さくちぎって頬張りながら、何気なく口を開く。
「文化祭、すごく楽しかったね」という発言と対照的に顔はがっかりしている。
「私たちの出し物はあまり人気なかったわけだけど……」
「食べ物やお化け屋敷には負けちゃうよね、流石に」
 アイスコーヒーを一口吸った、口の中に広がる苦味。
「でも終わってホッとしたよ。準備までは結構バタバタしてたし……」
「ほんとに。もう大変だったよ。でも、うちのクラスの展示、評判良かったみたいよ」桜井さんは満足そうに微笑んでいた。彼女の表情にはどこか誇らしげなものが混じっていて、その姿がいつも以上に印象的だった。
「実際、人に見られると緊張するよね。自分の絵を見られるのが、かなり恥ずかしかった」
「でも、あの展示アイデアはやっぱり良かったんじゃないかな。三人で同じ場所をそれぞれの視点で描くっていうの、観てくれた人は面白いって言ってたよ。特に涼くんの鉛筆画、すごくいいって」
「…………ありがとう。でも正直、僕はまだまだ実力不足って感じがする」
「そんなことないよ、涼くんの絵もすごく素敵だったよ。静かな雰囲気がちゃんと伝わってたし。改めて君は絵が上手なんだなって思ったよ。観てると元気出るもん」
 褒められることに慣れていなかったので、少しだけ気恥ずかしさを感じながらも、内心では嬉しかった。蓮太郎はスマートフォンをいじりながら、時折こちらを見ているが、電子書籍の漫画に夢中で特に会話に加わる様子はなかった。

「風景で思い出したんだけど、前に見せた写真と私のお婆ちゃんのこと、覚えてる?」
「覚えてるよ、北海道に住んでたんだよね」
 桜井さんは、ふと遠い目をしてから頷いた。
「うん。あの風景写真を観てたらお婆ちゃんが住んでた場所を思い出すの。お婆ちゃんはね、北海道で生まれたわけじゃないけど、アイヌの文化にはすごく詳しかったんだよ。小さい頃からずっと、アイヌの昔話やカムイの話を聞かせてくれてたの。たぶん、お婆ちゃんがいなかったら、私はそんなにアイヌのことを知ろうとしなかっただろうな」
 蓮太郎が読んでいた漫画や、授業での北海道の話題に関心を向けていたのはそういう事だったのか。
「アイヌの文化って、自然には神様が存在してるってやつだよね」
「そうそう、自然の中にはすべてカムイがいるんだよ。山も川も動物も植物も、全部がカムイ。だから、自然を大切にするっていうのがアイヌの考え方なんだ。お婆ちゃんはいつも、自然はただそこにあるんじゃなくて、みんな生きてるんだよって教えてくれてた」
 桜井さんは少し微笑んで、その思い出に浸っているようだった。彼女の言葉の端々には、お婆ちゃんへの敬愛の念がにじみ出ている。教えは単なる知識ではなく、生活様式と深く根付いた信念のようなもの。自然がただの景色や物体ではなく、生きている存在として捉えられているその考え方に、どこか新鮮さを感じていた。
「なんだか、存在しているもの全部がつながっている感じがするね。普通に生きていると忘れてしまうようなことだ」
「うん、そうなんだ。お婆ちゃんは自然の中で生きることがどれだけ大事かをいつも教えてくれたし、私もそれを信じてるんだ。」
 桜井さんは両手でカップを包み、カフェオレをゆっくりと飲んだ。
「カムイの中で、代表的な神様っているの?」
「いるよ。有名なのは生きたヒグマのキムンカムイ。カムイの中でも位の高い神様ね。他にも百神以上いるのよ。」
「百神!凄い大所帯だなあ」
「私もアイヌの言葉に詳しくないから、全て覚えているわけじゃないけどね」
「自然がたくさんある北海道ならではの考え方だよね。でもコンクリートばかりの福岡にカムイはいなさそうだな」
「どうだろう、探したらひょっこり現れるかもね」
「桜井さんのお気に入りのカムイはいるの?」
「いるよ。アニムトゥムカムイっていう神様なんだ」
 アニムトゥムカムイ。言い難い名前だな。
「お婆ちゃんが教えてくれたんだけど、アニムトゥムは風を司る神様で、時間を超えて自由に世界中を駆け巡るの。風が吹くときは、アニムトゥムが近くにいるって考えられてて、それがまた面白いんだよね。あとアニムトゥムは風の音や動きを通じて、人々にメッセージを送ると考えられているの。風が強く吹く時は警告や注意を促す意味があるかもしれないし、穏やかな風は祝福や成功の前兆と解釈するんだって」
「アニムトゥムカムイ……風の神様か。自由にどこへでも行けるって、なんだかすごく魅力的だな」
「そうだよね、私もそう思う。お婆ちゃんは、風が吹くたびに『アニムトゥムが挨拶してくれてるんだよ』って言ってたの。それがすごく好きでさ。だから私も、風を感じるたびにアニムトゥムのことを思い出すんだ」
 オールドファッションを一口かじりながら、桜井さんが信じているアニムトゥムについて考える。風という自然現象に神様の意思が宿るというその発想は、理解し難いものでありながらも、見えないものを観る感性に通じるところがあって、いつの間にかその話に引き込まれていた。
 
「でもね、ちょっと面白いことがあって。アニムトゥムについて調べようとしたんだけど、どこにも情報がないんだよね。インターネットで探しても、本を読んでも、アイヌの資料館に行った時も、アニムトゥムの名前は出てこなかった」
「え、そうなの?そんなに有名じゃない神様なのかな」
 スマートフォンで検索しても、確かにアニムトゥムカムイというキーワードが結果は一つも出てこない。
「ううん、たぶんね……アニムトゥムはお婆ちゃんが作った神様なんだと思う。お婆ちゃんはいつも、自分の中で新しい話を作ってたから、その中の一つがアニムトゥムカムイだったんじゃないかな」
 桜井さんは肩をすくめ、少し照れくさそうに笑った。
「でもね、私はそれでもアニムトゥムを信じてるんだ。お婆ちゃんが教えてくれたことは全部本当だと思うし、風が吹くたびにアニムトゥムが私たちを見守り、助けてくれるって」
 彼女にとって、祖母が創り上げた物語は、現実と地続きのものとして存在しているのだろう。その感覚はまだ十分に理解できていないけれど、桜井さんがアニムトゥムを信じていること、その確信は強く感じ取ることができた。
 話を聞きながら、知らず知らずのうちに、自然の中に神様を見出すという考え方に、ほんのわずかに惹かれている自分に気づく。
「アニムトゥムが本物かどうかなんて、実際には関係ないのかもね。大事なのは信じる気持ちなんだろうから」
 そう言うと、桜井さんは嬉しそうに頷いた。アニムトゥムの存在が彼女にとってどれだけ大切なものなのか、理解できた気がした。
 店内にさわやかな風が吹き抜け、テーブルの上のナフキンがふわりと舞い上がった。桜井さんはその風に微笑みながら、「フフ、小さなアニムトゥムが来たんだね」と呟いた。施設内の空調か、人が通った時にできる風だろうと野暮ったく思いつつも、同時にその風がただの偶然ではないように感じられた。自然と桜井さんの中にある信じる力が、目に見えない何かを僕達に伝えているような気がしてならない。
 彼女はただの話としてではなく、心の中でアニムトゥムを生きた存在として受け入れている。それが、彼女にとっての救いであり、優しさの源なのかもしれない。
 目には見えないけれど、感じられるもの。そんな神様が自分のそばにいると思えば、確かに心は軽くなるような気がする。
「実際にアニムトゥムを感じることができるってすごいな……僕にはちょっと難しいかもしれない」
「そうかな?風が吹いたとき、髪の毛が揺れたり、木々がざわめいたりするのって、全部アニムトゥムの仕業なんだよ。そう思うだけで、日常がほんのちょっとだけ特別になると思わない?」
「どこにでも行けるって聞くとちょっと憧れるけど、現実はそう簡単じゃないし」
「だね。現実は簡単じゃない。でも、信じることで少しでもその現実を変えられるんじゃないかなって思うの。自由なのよ。どこにでも行けるし、何にでもなれる。羨ましいなぁ……」

 施設内の客足が疎らになり、ドーナツ屋の客も僕達だけになった。
「ねえ、涼くん……例えばさ、大切な人が死ぬとするじゃない?」
 桜井さんは静かに問いかけた。その言葉は不意打ち過ぎて、一瞬言葉を失った。死後の世界について、特に考えたことはなかったし、ましてやそれを語ることすら避けてきた。
「で、時間を遡って相手を助けられる機会があるとしたら、どうする?」
「それってタイムスリップとか、タイムリープのようなSFの話?」
「そうそう。優秀な博士がタイムマシンを開発したら、愛する人の命を救う為、君はそれに乗る?」
 いつもの桜井さんと違う真剣な表情を見て、素直に考えを巡らせた。タイムマシンかぁ。
「そりゃあ、もちろん乗るさ。その類の映画は、結局最後には恋人も助かってハッピーエンドになるだろ?乗らない理由なんて、どこにもないじゃないか」
「映画、かぁ……」
 僕の答えに、何故か桜井さんは少し寂しそうに笑った。そして、静かに首を横に振る。
「そうね、それも一つの考え方だわ。でも、私は……乗らないかもしれないわ」
「どうして?せっかくのチャンスがそこにあるのに」
「だって、その死の原因が、絶対死んじゃうウィルスかもしれないし、調べてもわからないような原因不明の死かもしれない。愛する人の死を何度も見る事になるのよ?そんなの辛すぎない?」
 彼女がなぜそんな真剣に聞くのか要領を得なかったが、アイスコーヒーをストローで吸いながら考えてみた。
「だったら、僕は子供の頃に戻って猛勉強するかな。ウィルスの博士になって、事前にウィルスが蔓延するのを阻止するし、原因不明の死あってもそれを突き止めるまで、何度もタイムスリップするんじゃないかな」
 彼女はカップをトレイに戻し、椅子の背にもたれながら、ゆったりと天井を見上げていた。
「そうね、君はやっぱりそこまでやってくれる人よね……」
「とはいえ、相手にも死なないように努力をしてくれることを祈るね。仮に死んだとしても……そうだな、それこそアニムトゥムになってくれればいいんじゃない?だっていつも傍にいてくれるんでしょ?」
 冗談を含めて言ったつもりだったが、その一瞬、彼女の瞳が大きく見開かれ、驚きの表情が顔に浮かんだ。そしてすぐにいつもの笑顔へと切り替わる。
「そうね、私もそれに賛成かな。是非とも君も死なないよう努力してくれたまえ」
「待って待って!勝手に殺さないでくれるかな。……え?それ僕が死ぬ側なの?てっきり僕が君を……」
「え!なになに?『愛する』私を助けにきてくれるの?きゃあ!運命の王子様ね!さすが涼くん!必ず助けにきてよね!きっと惚れちゃうから!」
 急に早口になるので、両手を振りながら「いや、だから……架空の話であって……」という言葉も虚しくかき消されていく。また嵌められた。
 一頻りの早口も通り過ぎ、アイスカフェオレの最後の一口を飲んだあと、彼女はふっと息を吐き、軽く肩の力を抜いた。
「アニムトゥムカムイ。形を持たないけれど、誰かのそばにいられる。目には見えないけれど、感じてもらえる存在になれる、か……」
 ふと呟いた彼女のその言葉は、まるで自分の生き方や未来を投影しているようだった。
 そう言った後、彼女の瞳の奥にある何かがすっと引いていったような気がした。
「なんかそういう歌がなかったっけか?タイトル思い出せんけど……」
 蓮太郎が突然話に割り込んできた。どうやら漫画を読み終えたらしい。そして彼のトレイに積んであった大量のポン・デ・リングは忽然と消えていた。
「えっと何やったけ?お墓がどうのこうのってやつ」
「お墓の前で、泣かないでくださいっていう歌?」うろ覚えなのでタイトルも歌詞は出てこない。
「私、あの歌大好き!それこそアニムトゥムを表現しているような曲じゃない?わたしのーお墓のーまーえでー……」
「帰って歌詞を調べてみるか。じゃ解散やな」
 彼女の歌を華麗にスルーしながら、蓮太郎はそのまま店を出ようとする。
「ちょっと!少しくらい私の美声を聞いてくれてもいいじゃない!」
 土曜の朝、人で溢れる博多駅のコンコース。大きな電光掲示板には次々と列車の情報が表示され、その下では観光客や通勤客、そして僕達のような高校生たちがせわしなく行き交っている。約束の時間より少し早く着いた僕は、筑紫口側の二階にあるベンチへ移動し、人の往来を眺める。何も特別なことはない。特別なことはないが、いつもより少しだけ浮き足立ったような、自分でも説明しづらい感覚が心と体を揺らしていた。
 
「あ、いたいた。涼くん!」
 桜井さんの声が耳に飛び込む。振り向くと、いつもとは違う姿の桜井さんがそこに立っていた。風にそよぐ薄い水色のワンピースの裾、白のスニーカー、手に持った小さなリュック。普段の制服姿とはまるで別人のような彼女の姿に、言葉が出てこない。彼女の私服姿を見たのはこれが初めてだったからか。いや、もしかしたら、その姿があまりに愛らしくて、心がその印象に追いつかなかっただけなのかもしれない。
「私の恰好、そんなに変かな……」
「えっと、そうじゃなくて、ほらお互い私服で会うの初めてだからさ。なんというか、その……」
 桜井さんは照れくさそうに笑っていたが、その表情の奥に嬉しさが見え隠れしている。どう言葉を返そうかと考えていると、いつの間に到着していたのか、横から蓮太郎がすっと現れ、肩を叩いてきた。
「娘の花嫁衣裳を観た時のお父さんみたいやな」
 蓮太郎は悪戯っぽく笑い、その言葉に動揺を隠すように顔を逸らし「いや、別にそういうんじゃないけど……」と返すと、蓮太郎はますます楽しそうに笑った。桜井さんはそんなやり取りを見て、くすくすと笑う。
「じゃあ行こうか。今日は水族館だから、楽しみだね!」
 桜井さんが僕達の腕を軽く引っ張りながら、賑わう駅の中を歩き出す。彼女の明るい声は緊張を解きほぐし、その足は自然と前に進んだ。

 博多駅から香椎駅までは快速電車で移動し、そこで香椎線に乗り換えて海ノ中道駅へ向かう。電車の中はほどよく空いていて、窓際の席に座った僕達はゆったりと流れる景色を楽しんでいた。
 都市の風景が次第に緑に変わり、やがて遠くには博多湾の青が広がっていく。桜井さんは窓の外を眺めながら「今日は海水浴日和だね」と呟く。
「私たち、普段は学校と家の往復だから、こうして電車でどこかに行くのもいいよね」と体を社内の方へと向き直し、両足を小さく揺らしている。
「確かにな。自転車で行ける距離ばっかりやけん。電車に乗る機会も中々ないわな」
 蓮太郎はスマホで漫画を読みながらも、時折顔を上げては話しかけてくる。窓の外の風景に目をやりつつ、ふと桜井さんの無邪気な様子を横目で見て、自然と口元が緩んだ。
「涼くん、何か見つけたの?」
 彼女が突然こちらに振り向いたので、「……あ」と言葉に詰まった。でも景色にこれといった感想があるわけでもない。
「いや、まあ普通に……綺麗だな、と」目を泳がせながら曖昧に答える。「だよね。ああ、水着持ってきて泳ぎたかったなぁ」と桜井さんは少々残念気味だ。

 海ノ中道駅に着くと、マリンワールドまで徒歩でわずか5分。歩いている途中、桜井さんは歩道沿いに咲く花に目を留めたり、「ここも写真に撮っておきたいな」と道端に広がる景色を見ている。
「観光客みたいやな」と蓮太郎が笑ったが、桜井さんは「いいでしょ別に。こういうのも楽しいじゃん」と全く気にしていなかった。
 そして、巨大な水族館が姿を現した。白のアーチ状の建物が青い空に映え、入り口には大きな海の生物たちのポスターが掲げられている。
 僕達はチケットを購入し、入り口を抜けると、館内は水族館特有の涼しさと淡い照明に包まれていた。
「わくわくするなあ。どう?涼くん」
 桜井さんがそう言って目を輝かせた。
「いや、まだロビーだからなんとも。桜井さんは何度も来たことあるんでしょ?反応が初見の人みたいだけど」
「来るたびに展示内容とかは変わってるからね。それにこういう非日常の空間は何度来ても気持ちも昂るのよ」
 彼女の言葉に、蓮太郎も「そうやな。エアコン効いて涼しいし」と同意した。非日常ではない意見が飛び出したので苦笑いを浮かべながらも、この空間に心地よさを感じていた。
 最初に三人が向かったのは魚たちの展示エリア。色とりどりの魚たちが水槽の中を優雅に泳ぎ回り、その姿はまるで絵画のようだ。しかし、その美しい景色の背後から、蓮太郎の魚に関する雑学が何故かついてくる。
「この魚は、カワハギの仲間なんやけど、こいつらは意外と性格が荒いけん、他の魚と一緒にすると結構喧嘩するんよな」
「へえ、そうなんだ」
 桜井さんは蓮太郎の解説を興味深く聞いていたが、そのたびに少しずつ集中力が削がれていくのを感じていた。
「で、この次の魚がハリセンボンで……」
 蓮太郎はなおも続けた。その場の雰囲気を壊さないように頷きつつも、心の中で「静かにしてくれないかな」と思わずにはいられない。

 大水槽の前に立った時、その迫力に圧倒された。巨大なガラス板の向こうには大きなサメやエイ、そして群れを成して泳いでいる無数の小さな魚たち。光が水面で屈折し、まるで自分が海の中にいるような錯覚に陥る。
「すごいね、ほんとに海の中にいるみたい」
 桜井さんが感動しているのはすぐに分かった。彼女の目は大水槽に釘付けで、時折歓声を上げる子供たちと一緒に笑顔を浮かべていた。その景色に多少なりとも感動していたが、ふと感じた違和感を口にした。
「こんなに広くても、魚たちはここに閉じ込められてるって感じたりするのかな」
「こいつらは保護されとるけん、こうやって長く生きられるんやろ。自然の中やったら、もっと寿命も短くて、環境も過酷なはずやしな。絶滅を防ぐためには、こうやって守られることも必要なんやと思うよ?」
 確かに。蓮太郎の言葉には一理ある。桜井さんの表情には特に批判も賛同もなかった。ただ、二人の意見の交換を楽しんでいるようにも見えた。
 水槽の魚たちは静かに限られた空間を、でも自由に泳ぎ続けていた。

 大水槽を後にして、僕達はタッチプールのエリアへと向かう。子供たちの賑やかな声が響き渡り、浅いプールにはヒトデやナマコ、ウニといった海の生き物がゆっくりと動いている。その光景を見た桜井さんは、「触ってみたい!」と目を輝かせながら駆け寄った。
「わぁ、ヒトデって触ってみると結構硬いんだ」
 桜井さんが指先でヒトデをつついていると、蓮太郎がすかさず横に割り込んできた。
「で、これがナマコ。触ってみ、プニプニしとるけん」
 蓮太郎は自信満々にナマコを手に取ってみせた。彼の様子を見て「さすがにそれは……」と一瞬ためらったが、桜井さんは興味津々の顔で近づいてきた。しかし、実際に触れる寸前で手を止め、眉をひそめた。
「う……なんかヌメヌメしてそう……いやあ、ちょっとこれは無理かも」
「何や、怖いん?桜井でもそんなことあるんやな。ほら、触ってみぃ?」
 桜井さんが苦笑いしながら手を引っ込めたが、蓮太郎はニヤニヤしながら、からかっている。
「うーん……ナマコはちょっと……ね。」
「そんなこと言わんで、ほら!」
 蓮太郎がナマコをぐっと近づけてきたので、桜井さんは思わず後ずさりして「ちょっと!やめてよもう!」と声をあげた。 
 そのやり取りを見て笑いながら、「あんまり無理させるなよ、ナマコに」と一番の被害者を心配した。
「大丈夫大丈夫、ほら涼も触ってみらんや」
 今度は僕にナマコを差し出してきたので、仕方なく手を伸ばす。触れると予想通りの感触だったが、やはりこの柔らかさとヌメヌメ感には少し抵抗があった。
「うーん、これは……好き嫌い分かれる感じだな」微妙な顔で手を引っ込めた。
「やっぱり私もヒトデがいいかな。ナマコは見てるだけでお腹いっぱいです」
「かわいそうに。お前随分と嫌われちまったな」
 蓮太郎はナマコに話しかけながらを水に戻すと、桜井さんは、ほっとした表情でヒトデをもう一度手に取り、楽しそうにつついていた。

 タッチプールを離れた後、僕達はイルカとアシカのショーが行われる屋外の会場へと向かった。足を踏み入れると、涼しい風が頬を優しく撫で、遠くの水平線には光を反射してキラキラと輝く海が広がっている。観客席はほぼ満席で、子連れの家族やカップルたちが期待に胸を膨らませながら、次のショーの始まりを待っていた。
 桜井さんは「このために来たようなもんだよね!」と両手をすり合わせながら、やや興奮気味だ。
 ショーが始まると、イルカたちが音楽に合わせて水中を泳ぎ回り、ジャンプを繰り返した。そのたびに水しぶきが上がり、観客たちの歓声と拍手が響き渡る。彼女は手を叩きながら目を輝かせ、何度も「すごいね!」「かっこいい!」と声を上げていた。
「イルカってほんとにすごいんだな。こんなに高くジャンプできるなんて」
 蓮太郎が横から話に割り込んできた。
「イルカはさ、頭がいいけんトレーニングさえすれば何でもできるんよね。あれだけの技を覚えるのも、相当な努力が必要なんよ」
 相変わらずの知識披露がくどいのだが、桜井さんの手前特に何も言わなかった。
 続いてアシカが登場し、ボールを鼻で回したり、フラフープをくぐったりと、愛嬌たっぷりのパフォーマンスを披露した。桜井さんは大きな拍手を送り、「可愛い!萌える!」と何度も叫んでいる。
「アシカもすごいね。あんなに器用にバランス取れるなんて……」
 感心していると、蓮太郎がまたもや知識を披露してきた。
「アシカとアザラシの違いって知っとお?アシカはああやってあるけどアザラシは歩けないんよ。でさ、アザラシには耳がないけどアシカには耳が……」
 蓮太郎の話は既に右耳から入って左耳に抜ける状態だった。
 僕達はその後もショーを楽しみながら、たくさんの拍手を送り続ける。ショーが終わると、観客たちは一斉に立ち上がり、僕達もその波に飲まれるようにして席を立った。
 桜井さんは会場を見渡しながら「また見たいなあ」と呟く。その言葉に頷き、「また来ればいいよ」と言おうとしたが、彼女の悲しみとも寂しさとも言えない表情を見た時、その言葉は喉の先で止まった。

 最後はお土産コーナー。桜井さんは目を輝かせながら、棚に並ぶグッズを次々と手に取っては「これも可愛い!」「あ、こっちもいいなあ」と楽しそうに見て回っている。
「これとかどげん?定番やけどカクレクマノミのぬいぐるみとか」
 蓮太郎が手に取ったぬいぐるみを見せると、桜井さんは「うん、それも可愛いね」と頷きながらも、すぐに別のものに目を奪われた。
「見て、ダイオウグソクムシのぬいぐるみだって!これも可愛いかも」
 彼女がぬいぐるみを持ち上げた時、僕と蓮太郎は一瞬言葉を失った。
「いや桜井よ、それは……どうなん?」
 蓮太郎が呆れたように言うと、僕も「まあ、桜井さんらしいと言えばらしい……のかな?」と笑った。しかし桜井さんは全く気にせず、楽しそうにそのぬいぐるみを抱えていた。
「こういうのも可愛いと思うんだよね。なんか、見てると愛着が湧いてくるというか」
 最終的に桜井さんが選んだのは、小さなラッコのぬいぐるみだった。そのラッコは柔らかな毛並みと愛らしい表情が特徴で、桜井さんはそのぬいぐるみを嬉しそうに抱えていた。
「これにする!このモコモコ感、気に入りました!」
 僕と蓮太郎は「それならいいかも」とその選択に安堵の息を漏らす。
 
 その後、僕達はマリンワールドを後にして、帰りの電車に乗り込んだ。窓の外に目をやると、空は淡いオレンジと紫が溶け合い、水平線の向こうへとゆっくりと沈みゆく太陽が、名残を惜しむように世界を照らしている。
 疲れが出ていたけど、それがむしろ心地よい。桜井さんは先ほど買ったラッコのぬいぐるみを大事そうにバッグから取り出して、じっと見つめていた。
「今日はありがとう、二人とも。すごく楽しかった」
「そりゃよかった」と蓮太郎はスマートフォンを眺めながら軽く返事をした。
「でも涼くんが魚好きになってくれる事が本来の目的だったんだけどね……どうだった?」
「育てられるか自信はないけど、ちょっと飼ってみたいと思う。買うとしたらどんな魚がいいのかな」
「そうねぇ……ベタがいいんじゃないかな、綺麗だし他の魚よりも飼いやすいらしいから」
 スマートフォンで調べてみると、ヒレが優雅に長く、色とりどりの美しい魚が次々と表示される。
「なるほど、本当に綺麗だね。今度ペットショップに行ってみるよ」
「ふふ、よかった。水族館にいった甲斐があったわ」
 楽しい時間が終わるのはいつもあっという間で寂しいけれど、それでもまた次の約束があると思えば前向きになれる。
「またどこか行こうぜ。次は映える神社を巡ってみるか?」
 蓮太郎がそう言うと、桜井さんは「うん……いいね」と静かに頷く。
 博多駅に着くと、僕達はそれぞれの帰り道に向かって歩き出した。振り返ると、桜井さんはこちらを見て手を振っている。
「本当に……本当にありがとう!」
 まるで生涯の別れのような言葉に、戸惑いながらも手をふり返し、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
 
 そして、次の約束が果たされる事はなかった。
 夏休みが明けた後の放課後の廊下は、いつも通りの静けさに包まれている。開いた窓からは温かな風が漂ってきて、肌に優しく触れていった。その空間で2つの足音がコツコツと響いていた。ドアのノックと合わせて「失礼します」と言い、進路指導室に入る。すでに席について書類に目を通していた担任の松本先生の対面に、母と共に軽い会釈をして席についた。先生が書類から顔を上げて僕達に向かって微笑む。
「では、今から進路に向けた三者面談を行っていきます。」
「よろしくお願いします」僕と母は改めて軽く頭をさげた。
 書類を軽く机にたたき、先生は静かに質問を始めた。「先ず、お前の将来についてだが、何か考えていることはあるかな?」
 先生の口調は優しかったが、少しの圧力も感じられた。少し間を置いてから「その……まだ、決まっていません」と答えた。先生は少しだけ頭をかしげて、再び問いかけてきた。
「もう三年生だからね……そろそろ具体的な進路を考えていかないといけない時期なのはお前もわかっているよな?田中、何かやりたいこととか、夢とかないのかい?今、夢中になっているものでもいい」
 これまでに幾度となく、この質問を受けてきた。しかし、そのたびに答えを窮し、曖昧な言葉でごまかしてしまうことが多かった。桜井さんと蓮太郎の姿が頭をよぎる。桜井さんは自分の夢を語るとき、いつも迷いがなかった。
「アートに関わる仕事をしたい」そう話していた時の桜井さんの瞳には、確かな光が宿っていた。蓮太郎もまた、自分の描く絵に誇りを持ち、絵を描くことが彼の生きる理由だと言っていた。
「でも、まだと言うって事はある程度の方向性が決まってきてはいる。ということか?」
「……はい、正直、具体的に見据えているわけじゃないんですが……」
 慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと答えた。内にある不安と、何かを見つけたいという願いが拮抗し、心の中でせめぎ合っている。だが、確かに僕を突き動かしているのは、その感情だった。
「絵を描くことが……好きなんです。それに、もしできることなら、絵に関連した仕事ができたらと思っています」
 その言葉を口にすると、教室の空気が一瞬静まり返った。母は少し驚いた顔をしていた。胸の筋肉が僅かに緊張し、俯いた。先生も、僕の言葉を受け止めるようにじっと考え込む。そして、ふっと小さく微笑んで口を開いた。
「絵か……うん、それは素晴らしいことだ。好きは努力に勝るからな。でも、理解していると思うが絵の世界で食べていくのは簡単じゃないぞ。競争も激しいし、才能だけじゃやっていけないこともある」
 先生は慎重に言葉を選びながら話し続けた。その言葉の期待と現実の狭間にあるような響きを、真剣に受け止める。
「はい、わかってます。でも、自分の好きなことで戦ってみたいんです。たとえ難しくても、少しずつでもいいから……」
 僕の言葉に、先生は深くうなずいた。母をみると不安げな表情で僕を見ていた。それでも、自分の気持ちを伝えたことで、胸の緊張がほどける感じがした。
「……やりたいことがあるのはいいことだ」
 一呼吸おいて、先生は続けた。
 「田中がそう思っているなら、先生はそれを応援するよ。今は一つのスキルを延ばして、それを色んな方向に伸ばしていけば生きていける良い時代だ。ただ、何が起きるかわからないのが人生だから、他の選択肢も頭の片隅に考えておくといい。何かあった時に、備えておくのは大事だからな」
 先生の言葉は、暖かくも現実的だ。その言葉を胸に刻み込み、再び頷く。自分の見据える将来を話した事は、選択や決断の次のステップであり、それは少しの歩幅であっても、確実に前進をしたという事だ。
 「では、次に……」先生の言葉が続き、現在の成績の確認、推薦に関する連絡事項、家庭での過ごし方等を話した後、面談は終了した。
 進路指導室を出ると、深呼吸をして、少しだけ気持ちを落ち着かせた。教室へ戻ろうと歩き出したその足取りは、ここへ来た時よりもほんの少しだけ軽く感じられた。

 母と生徒玄関で別れ教室に戻ると、先に面談が終わった桜井さんと蓮太郎が机に並んで座り、談笑していた。窓から差し込む夕陽が、二人のシルエットを優しく縁取っている。桜井さんが振り返り、ぱっと明るい笑顔を見せた。
「おかえり、涼くん。どうだった?三者面談」
 桜井さんの質問に曖昧に笑って答える。
 「まあ、無難に終わったよ。進路について色々と話しはしたんだけど……ちょっとね」
 そう言うと、桜井さんは「……そっか」と共感の色を示してくれた。
 少し間を置いてから、今日の面談でのやり取りを二人に話し始めた。最初はうまく言葉にできなかったが、桜井さんと蓮太郎が真剣に聞いてくれているのを感じて、自然と話が続いた。
「結局のところ具体的に何も決まってなくてさ。ただ、絵に関わる仕事ができたらいいなって思ってる。まだまだ技術も浅いし、無謀だってわかってるけど、少しでもそっちに近づけたらなって」
 桜井さんは大きく頷いて「いいね、それすごく素敵だと思うよ!」と言葉が躍った。蓮太郎も「涼ならやれるって、俺が保証する」と肩を叩いてくれた。
 二人の言葉に救われた気がした。先生からの現実的なアドバイスも頭にあったが、やりたいことに向かって進む決意を新たにした。
「じゃあ、せっかく絵の道に進む事が決まったんなら、また一緒にやらん?同じ構図の3枚の絵」
 蓮太郎の提案に僕も桜井さんもすぐに「やろう」と乗り気になる。
「じゃあ、次はどこを描こうか。何かいい場所、ないかな?」
 そう尋ねると、桜井さんがスマホをいじりながら少し考えた後、「前に話した北海道の平野とかどう?」と提案し、スマートフォンに映る写真を見せてきた。
「これも桜井さんが撮ったの?」
「ふふーん、そうよ!すごいでしょ?スマホで撮ったんじゃないよ、ちゃんと一眼レフで撮ったんだから。カメラの練習にどれだけ時間とお小遣いを……」
「うん、その話は前に聞いたから……」彼女の言葉に被せると、彼女はあっけらかんとして続けた。
「あら、そうだっけ?まあいいや。でね、これは北海道にある清水円山展望台からの景色なんだけど、すごく綺麗な場所なのよ。空と大地が上下左右にずっと広がっていて、どこまでも続いてるの」
 その写真には、どこまでも澄んだ青空と、広大な平野、そして静けさを湛える山々が映し出されていた。僕達は、まるでその場にいるかのように、その景色に一瞬で引き込まれていった。
「これ、いいね。やってみようか」
 僕がそう言うと、蓮太郎も「決まりやな」と手を叩く。
「じゃあ、次回の部活からこれを描こうね!」と嬉しそうに宣言した彼女にまったをかけた。
「もう僕達、部活引退してるんだけど……」
「あ……そっか、そうだったね。じゃあどこで描こうかな……」
「なら各自自分の家で描いてこればよかろ?」
「うん!そうだね、そうしますか。じゃあこの写真、涼くん用と蓮太郎くん用に2枚プリントしてくるね」
 三人で同じ場所を描くのは、これで二度目だ。桜井さんの用意してくれた写真を基に、僕達はそれぞれの視点でその景色を描く。茜色に染まった窓越しの光が、まるで僕達の決意をそっと後押しするかのように、教室全体を包み込んでいた。
 桜井さんが学校を休み始めたのは、何の予兆もなく、突然の出来事だった。一日目は、ただの軽い風邪だろうと僕も思っていたし、桜井さんの友人たちも「どうせそのうち来るだろう」と、特に心配する様子もなかった。だが、二日、三日と桜井さんの席が空いたまま続くと、さすがにその空白が気になり始めた。一種間経つ頃にには、教室の空気が少し違って見えた。
 昼休みの弁当を開きながら、蓮太郎が箸で唐揚げをつつき、うつむいたまま口を開く。
「桜井……大丈夫なんやろうか」
「……どうだろう。四日も休むのって普通じゃないよね」
 僕達は同じ心配をしている。教室の片隅にぽつんと残された桜井さんの席を見ると、いつも元気だった彼女の存在感がどれほど大きかったのか改めて思い知らされた。周囲の生徒たちはいつもと変わらない日常を過ごしているが、僕達の中には一つの大きな穴がぽっかりと空いているような気がする。
「夕方にでも連絡してみるか?」
「じゃあ放課後、桜井さんにLINEしてみるよ」
 蓮太郎はうなずき、もう一度弁当に目を戻す。その小さなやりとりの中で、お互いに桜井さんが無事であることを祈っていた。何もないはずなのに、胸の奥がざわざわと落ち着かない。

 その日の夕暮れ時、スマートフォンが振動した。桜井さんからグループチャットにメッセージが届いていた。蓮太郎もその通知音に反応し、自分のスマートフォンを取り出すため、鞄の中に手を突っ込んでいた。
「桜井か?」
「うん。『今日、うちに来てくれない?』って」
 彼女から送られてきたメッセージは、短く、そしてシンプルだ。けれど、その端的な言葉の中に漂う灰色の重みが、胸に何かを予感させる。すぐに桜井さんの家に行くことを決めた。何かが起きたのだろう。それが何であるかは、想像の域を出ないが、桜井さんに会いたかったし、彼女の顔を見て話がしたかった。
「んじゃ、行こうぜ。とりあえず、顔を見に」
「そうだね」と応じて、僕達は自転車を押し出し、橙色の夕日が照らす街の中を駆け抜ける。長く伸びた影が、背中を追いかけるようにして、静かに道を進んでいく。
 
「二人ともいらっしゃい、中にどうぞ」
 桜井さんの家に到着すると、いつものように白いフェンス越しに桜井さんのお母さんが出迎えてくれた。彼女はリビングへと通してくれたが、その瞳には、かすかな暗い影がぽつりと揺れている。
 リビングに入ると、桜井さんが台所で来客用の飲み物を準備していた。少しだけ倦怠感があるのか、口角に力が入ってないようにも見えるが、それでもヘーゼルアイの綺麗な瞳と太陽のような笑顔で僕達を迎え入れてくれる。彼女の周りには、普段の彼女らしい穏やかな空気が漂っていた。
 テーブルの上には、数冊の本とペンケースが無造作に置かれていた。そしてテーブルの横にある大きなスーツケースが目に入る。
「久しぶりだね、と言っても一週間くらいか。私に会えなくて寂しかったでしょ」
 桜井さんの声には活気があり、彼女の明るい笑顔がリビングの空気を和ませていた。しかし、その笑顔とは対照的に、背後に控える大きなスーツケースが、何か良くないことを暗示しているように見えた。僕達は座布団に座り、机を囲んで向かいのソファに桜井さんが腰を下ろす。
「元気そうで何よりやん。よかった、本当に心配したばい」
 蓮太郎が机に用意された麦茶を一口含んだ。桜井さんは軽く頷き、右腕で力こぶを作った。
「ごめんね、心配かけちゃって。でも、ほら、私は元気だよ。大丈夫だから!」
 言葉にも力が込められていた。彼女が元気であることの安堵と、その背後に隠された何かを探ろうとする疑念が、未だ心の片隅で交錯していた。
「ところで桜井さん、そのスーツケース……旅行にでも行くの?」
 旅行。いやそうではないと確信しながらも、あえてその言葉を選んだ。桜井さんは一瞬視線を落とし、目を伏せたまましばらく沈黙したあと、ぽつりと答えた。
「ううん……違うの。この一週間、学校を休んでたのは、実は病院に入院してたからなの……」
 その言葉に一瞬、凍りついたように黙り込んだ。蓮太郎も同じように驚いた表情を浮かべていたが、すぐに言葉を絞り出す。
「そっか……でもここにおるってことはさ、もう退院してきたんやろ?」
 桜井さんは少しだけ首を横に振り、手元に視線を落とした。コップの中でくるくると回される小さなスプーンに、いつの間にか目を奪われていた。スプーンの動きに合わせて、液体が静かに波打ち、そのさざめきをただ見つめることしかできなかった。彼女のその動きは、何かを覆い隠そうとしているかのような気配をまとっている。まるで心の内を見せないために、無意識に作られた動作。
「ううん、明日また病院に戻るの。今日は荷物整理するために、一時帰宅してるだけ」
 彼女は、できるだけ明るく振る舞おうとしている。だが、その表情の奥に潜むものが、心に不安を呼び起こす。リビングの空気が少し重たくなり、時計の針の音だけが静かに響いていた。何かが起きているのは明白だったが、それを言葉にすることができずに、ただ桜井さんの次の言葉を待っていた。
「検査が全部終わってなくてさ。でもね、大したことないと思うから。すぐに戻るよ」
 桜井さんはそう言いながら、柔らかく笑う。その笑顔が本物なのか作りものなのか、わからない。
 短い沈黙の後、重い口を開けて尋ねた。
 「桜井さん、どういう病気なの?」
 彼女は少しの間考え込むようにして、深く息を吐いた。彼女はスプーンを回す手を止め、僕達の目を見た。彼女の瞳の奥には、知らない何かが見え隠れしていた。
「レアリエス肺症候群って言うんだ。聞いたこと……ないよね」
 僕と蓮太郎はお互いを見つめ、顔をしかめる。特定疾患に入るような有名な病気などは、ある程度知ってはいるが、そんな病名聞いたこともない。
 桜井さんの表情には、ふっと不安がよぎったように見えたが、すぐにそれは消えた。
 ふうっと大きな息を吐いた後、彼女は続けた。
「一年前くらいかな。私も最初、風邪だと思ってたんだけど、朝、学校の準備をしているときに咳が止まらなくなっちゃってね。ほら、校外学習の時のこと覚えてない?あの咳こみ。それで何かあるんじゃないかってお母さんが言うもんだから、病院に行ったの。そしてその病気の診断を受けたんだけど、最初はピンとこなくてさ」
「レアリエス肺症候群って……それ、具体的にはどんな病気なん?」
 蓮太郎の問いに、桜井さんは一度うなずいて答えた。
「簡単に言えば、肺がうまく働かなくなる病気なんだって。血が肺の中に溜まったり、炎症が起きたりして、呼吸がしにくくなるみたい。進行性だけどゆっくりだから、この一年普通の学校生活を送れていたの」
 桜井さんの説明は冷静だったが、その内容はどうにも重い。その説明を飲み込むのに時間がかかり、頭の中が混乱していた。そもそもあの元気の塊のような桜井さんが病気という事実が信じがたい。
「治療法とかは?その……何か治療できる薬とか、あるんでしょ?」
 焦りを隠せない問いかけに、桜井さんはゆっくりと首を横に振った。
「なんでこういう症状が出るのか、お医者さんも原因が特定できてないって言ってた。まだ治療法を探してる段階みたい。薬とかもいろいろ試してるけど、詳しい結果はまだわからないんだ。とりあえずはお医者さんに任せるしかないかな」
 その言葉を聞いて、再び黙り込んだ。言葉にならない感情がリビングを包み、桜井さんの淡々とした声だけが空間を満たしている。蓮太郎は眉間にシワを寄せ俯き、僕はただ桜井さんの顔を見つめていた。

 沈黙が続く中、蓮太郎が重い口を開いた。
「でもさ桜井、それって……治るんやろ?どのくらい入院するんか、わかっとるん?」
 桜井さんは肩をすくめた。
「今のところ、どのくらい入院するか期間は決まってないの。でも、大丈夫だよ。私は絶対に治すから」
 彼女の言葉に何とか頷いたが、その言葉に完全に安堵できるわけではない。彼女がどれだけ明るく振る舞っても、不安を完全に隠しきれるわけではない。この質問を投げかけることが許されるのかどうか、判断できない。けれど、それでもどうしても確かめなければならなかった。
「……死ぬ病気じゃ、ないんだよね?」僕の声は、自分でも分かるほどに震えていた。
 彼女はその問いに一瞬だけ視線を逸らした後、牡丹色の瞳で僕を真っ直ぐに見て微笑んだ……牡丹色?
「私は死なないわ、絶対に。風の神様になるのはもっと先。それよりも……」
 桜井さんの言葉は力強かった。その言葉に救われるような気がしながらも、それでもどこか遠くの存在のように感じられた。
「それよりも涼くん……君は……大丈夫?今、体の具合とか悪くない?」
 体の具合?僕の?
「うん……僕は元気だよ」
 なぜこのタイミングでそんな事を聞くのか理解できない。具合が悪いのは彼女の方なのに。しかしその真剣な瞳に気圧された。
「そうか……ううん、ならいいのよ。私みたいにならないように何か異変があったらすぐ病院に行ってね……」
 少しの沈黙の間、僕達はどういう顔をしていたのだろう。それをみた彼女は手をブンブンと振る。
「ちょっとちょっと!二人とも暗いよ!なんかごめんね、こんな話になっちゃって……そうだ、ドーナツ買ってきてたんだった。二人ともそれ食べて元気出してよ」
 桜井さんはそう言って、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。その笑顔にほんの少しだけだが、希望が見えた気がした。
「……僕達は、桜井さんが元気になるのを待ってるしかないね」
 ようやく言葉を絞り出した。それが正解なのかどうか確信が持てなかった。けれど、今の僕にはその言葉以外に、彼女に気持ちを伝える手段はなかったのだ。蓮太郎も頷いて彼女に言った。
「そやな。桜井、僕達はお前が戻ってくるのを待っとるけん、何も心配せんで、しっかり治療してこい」
「ありがとうね、二人とも」
 リビングの隅にあったスーツケースが、少しだけ小さく見えたのは、桜井さんの強さが僕にも伝わったからかもしれない。
 桜井さんが入院して以来、学校での時間はどこか空虚で、意味を失ったようだ。いつも賑やかだった昼休みも、彼女の声がないだけでどこかぼんやりとした印象になり、景色全体が淡く色褪せたように見える。教室の窓から見える景色も、何だか味気ない。何もかもが単調で、フラットで、ゴシックなものに感じられた。
「おいおい、お前はいつまでそんな感じでおるんか?」
 蓮太郎がいつもの焼きそばパンの袋をあけながら声をかけてきた。普段通りのその姿は頼もしくもあり、少し羨ましくもあった。
「そうかな?別にそんなつもりはないけど……」
「嘘が下手やな。桜井が入院してから、ずっと気にしとるのが顔に出とるって。そげん心配なら見舞いに行ってこりゃいいやん」
 蓮太郎は、僕の顔をじっと見ながら、軽く笑う。からかうのが好きな蓮太郎だけど、今は本気で心配してくれてるようだ。
「まあ……うん、そうかもしれないけど、桜井さんには迷惑かけたくないし……」
「お前が来てくれたら絶対に喜ぶんやけん。遠慮せんで行ってやりや、ほんとに面倒臭いヤツやな」
「わかったよ」
 蓮太郎の言葉に、少し迷ったが彼の言う通りだと思った。「じゃ」と立ち去る彼のその手に焼きそばパンは残っていなかった。
 彼女に会いに行けば、少しは気持ちが晴れるかもしれない。重い腰を上げ、桜井さんに会いに行く決心をする。

 数日後、蓮太郎の言葉に後押しされて、桜井さんが入院している病院を訪れた。新しく建てられた病院は、ガラス張りのエントランスが広がり、明るい陽射しが差し込んでいる。エレベーターに乗り、桜井さんの病室へ向かった。どうやら少し緊張しているようだ。個室のドアをノックすると、すぐに彼女の明るい声が返ってきた。
「どうぞー」
 扉を開けると、ベッドに座っている桜井さんが、満面の笑みで迎えてくれた。
「わー!涼くん、来てくれたんだね!元気?」
「うん、元気だよ。桜井さんも元気そうだね……」
「ふふーん、まあね。こうして来てくれるともっと元気になるよ。ありがとうね」
 手に持ったドーナツの袋をテーブルの上に置く。
「これ、ミスドのドーナツ。食べれそう?」そのまま、病室に設けられた丸椅子に座った。
「もちろんよ!嬉しい!流石涼くん、私の好みわかってますなぁ」
 彼女は「いただきます」と言って袋を開け、中からドーナツを取り出して嬉しそうに頬張った。その様子を見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。

 桜井さんとドーナツを食べながら、最近の日常の話をした。僕にとっては何気ない学校の話でも、少しでも彼女を元気づけられるならと、思いつく限りのエピソードを並べた。
「そういえばさ、この前蓮太郎がまた宿題忘れてさ、また『うちの犬が食っちまった』とか言ってたんだ。先生、真顔で『もう何度目だ?』って呆れてたよ」
「また?蓮太郎くん、懲りないね。せめて別の言い訳考えたらいいのに。で、先生信じてくれたの?」
「信じるわけないよ。でも蓮太郎は懲りもせず『いやマジっちゃけん!』って言い張ってた。結局、課題は補習でやらされてたけど。いよいよ蓮太郎自身が宿題を食べてると言う説が出てきたくらいだよ」
「ぷくくく!おもしろすぎる!そうかぁ、とうとう蓮太郎くんはヤギさんになったのね」
 その時の光景を思い浮かべながら、手で口を押さえて笑った。桜井さんも楽しそうに聞いてくれて、僕達は少しの間、その話で盛り上がった。
 ドーナツを一口かじった時、お店の陳列棚に見慣れないドーナツがあった事を思い出した。
「それにさ、最近ミスドで期間限定のドーナツが出たんだよ。『スパイシーチリマヨ・チョコクランチ』って名前で、なんか想像つかない味だけど、見た目だけは美味しそうだったんだよね」
「ねぇ涼くん……」彼女は訝しげな顔でこちらを見ている。
「それ、絶対嘘ついてるでしょ!」犯人をみつけた探偵かのように僕を指差している。
「いやいや、本当にあったんだって!最初はこんなの誰も買わないだろって思ってたんだけど、レジに並んでいたお客さんが買ってたんだよ、それも何組も……」
「本当かなぁ……ふふふ、でも面白いね。そっか、じゃあ今度外出したら、食べ……るわけないじゃない!そんな奇天烈ドーナツ」
 桜井さんは目を細め、次のドーナツに手を伸ばした。本当にその奇天烈ドーナツがあった事を彼女が信じてくれたどうかはわからないが、まぁいっかと手に持った缶コーヒーを一口含む。
 病室には穏やかな空気が流れていた。カーテン越しに差し込む午後の光が、静かな病室を優しく包み込み、夏の終わりの柔らかい風が吹いていた。外の世界は変わらずの日常が流れているけど、この部屋だけは時間が少しだけゆっくりと流れている。
「変な味のドーナツで思い出したんだけど、病院食って本当に美味しくないんだよ」と桜井さんが言った。
「そうだろうけど、患者の身体に合わせて作られてるんだから、健康にはいいでしょ?ちゃんと食べないと……」
「それは、そうなんだけど。全部薄味で、なんだか水っぽくて。毎日同じようなメニューで、飽きちゃうんだよね。だから、こっそり売店でカップラーメンを買って食堂で食べてるの。これくらいの楽しみはいいかなって」
「ばれたら怒られるんじゃない?」と呆れて尋ねる。
「たぶんね。でも、見つからなければ大丈夫。小さな反抗というか、自由を勝ち取るためには何よりも勇気と行動が必要なのよ」握りこぶしをつくる彼女。
 桜井さんはドーナツをかじりながら楽しそうに話す。カップラーメンの話をするたびに、手のひらでそっと笑みを隠すような仕草をしていた。まるで秘密を共有しているようで、その場にいるのが少しだけ特別な気分になった。
「あと個室とはいえ、病院内を移動するのは結構自由なんだよ。暇なときは外に散歩に行ってるんだ」
「外?病院の中じゃなくて?」
「うん、病院の敷地内なら大丈夫だって言われたから。朝一番に外の空気を吸うだけで、その日一日の気分が変わるよ」
「いい事だよ、退院した後の事も考えて体力つけておかないとだね。あ、この病院幽霊が出るって噂聞いたんだけど、あれ本当なのかな……」
「そうそう、お風呂場で白い服の髪の長い女性が手招きしてたってやつね。まあ、幽霊も話し相手がいなくて暇なのよ。私が相手してやってもいいんだけど、生憎私、そういう類のものは信じないタイプだからね」
袋に入っているドーナツが全てなくなり、砂糖で覆われた指をウェットティッシュで拭きながら彼女は尋ねた。
「そうだ涼くん……あの風景画、どうなってる?」
 彼女の目線が僕に注がれると、肩には突然プレッシャーという名の重りがのしかかってきた。
「スケッチブックにはラフを描いてるんだけど、どうも思ったようにいかないんだ。何度描き直しても、しっくりこない」頭を掻きながら、もどかしい気持ちを持て余すように視線を落とす。
「そっか。いいよ気にしなくて。大丈夫……涼くんにはちゃんと見えてるから。焦らずに進めてみて」
 彼女の言葉に頷いた。しかし、いざスケッチブックを開いてみると、手が止まってしまう。何度も描き直しては消し、また描き直しての繰り返し。キャンバスはいつまでも白いままで、その白さがむしろ僕の中にある迷いを映し出しているようだった。
 
 自室に戻ると、スケッチブックを広げて、鉛筆を走らせた。けれども、筆が進むたびに何かが足りないと感じてしまう。桜井さんが見ているであろう景色と、僕が見ている景色が重ならない。それがもどかしかった。
「もっと、こう……いや、違うか」「パースは、あってるよな……」
 独り言のように呟いては、線を消す。桜井さんの言葉が背中を押してくれているはずなのに、それでも手元は重いままだ。イーゼルに立てかけている白いキャンバスはまるで、迷いを吸い込むように広がっていた。
 桜井さんと会うたびに、彼女の期待に応えたいと思っていた。清水円山展望台の風景画を描き切る事が、今の僕にできる彼女への唯一の激励だった。
 
 その後も足繁く病院に通った。桜井さんはいつも明るく振る舞っていて、どうやら入院生活の中でもできる限りの楽しみを見つけているようだ。病院のカフェテリアで新しいデザートが出たことや、看護師さんが面白い人だったとか、そんな入院生活の些細な出来事が桜井さんの口からこぼれた。
 しかし、少しずつ変化が訪れた。最初はほんのわずかな違いだった。顔色も血の気が引き、少しの移動でも直ぐに肩を揺らすようになった。何より咳の回数が増えたように思える。それは、まるで波のようにじわじわと少しずつ、でも確実に迫ってきている。
 ある日病室を訪れたとき、桜井さんは呼吸器をつけてベッドに寝たまま小さく息を吐いていた。彼女の顔は笑顔だったが、目の下にはうっすらとクマができていて、その身体は一回り小さく見える。
「……ちょっと、疲れちゃったかな」
「無理しないで。ゆっくり休んで。今日はもう帰るよ」
「涼くん……ちょっと待って……」彼女が小さな声で呼び止めた。
「お願いがあるの。私の手を少しの間だけでいいから握ってくれないかな……」
 少し躊躇したが、彼女の希望に答えることにした。
 丸椅子をベッド横に移動させて腰を下ろし、手をそっと握った。細く、小さく、か弱い手。そのわずかに返される握力の小ささに、無力でしかなかった。
 時が経つにつれ、桜井さんの体力は少しずつ消耗し、僕達が共有する時間も、いつしか短く、静かなものへと変わっていった。かつて彼女が思い描いていた北海道の風景は、ゆっくりと遠ざかり、まるで手の届かない夢の中へ消えていくように感じられた。
 桜井さんの病状が悪化していく中、彼女を見舞うために蓮太郎と一緒に病院を訪れた。廊下に漂う消毒液の匂いが鼻をつき、そのたびに現実の重さを思い知らされる。桜井さんの姿を見るたびに、心がかんなで薄く削られていく感覚に囚われる。
 病室のドアをノックすると、「どうぞー」という桜井さんの弱々しい声が聞こえた。僕達が中に入ると、桜井さんはベッドの上で笑顔を作って迎えてくれた。呼吸器が彼女の口元を覆っていて、笑顔すらもどこかぼやけて見える。
「二人とも、来てくれてありがとう」彼女が息を漏らす度に、白くなる呼吸器のマスク。横になっていた彼女は電動のベッドを操作してゆっくりと体を起こした。
 蓮太郎がコンビニで買ってきたカフェオレを袋から取り出し、彼女に差し出した。
 目を輝かせる彼女を見て「そげん喜ぶようなもんかね」蓮太郎は照れ臭そうに鼻をかいた。
「そりゃ喜ぶよ、こういうちょっとしたことが嬉しいんだよ。病院のご飯、味気ないから」桜井さんはカフェオレを受け取ると、「後でいただくね」とベッドに備え付けられたテーブルに置いた。
「どう?具合は……」そう聞きながら、桜井さんの顔をじっと見つめた。彼女は軽く首を振る。
「うん、まぁ……ぼちぼちかな。今日は少し疲れてるけど、大丈夫だよ。こんな風にしてるけど、みんなが来てくれるのが一番の楽しみだから」桜井さんが言葉を紡ぐたびに、呼吸器から流れてくる空気の音が聞こえる。
「そっか、それならよかった」微笑んではいたが、その言葉は自分でも空々しく感じた。桜井さんの「大丈夫」は、まるで何度も練習したセリフのようで、何もかもが普通じゃないのに、それでも普通であるかのように振る舞っている姿が痛々しく辛かった。
「二人ともあんまり心配しないでね。こんなのすぐに治るから。だから、そんな顔しないでよ。ね?」桜井さんはそう言って、咳き込むのをこらえながら親指を立てた。その姿を見ていると、返す言葉を見つけることができなくて、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
 病院の外に出た時、蓮太郎が空を見上げた。「なんか、やりきれんな……」
「本当だね……僕達にできることがあればいいんだけど」小さくつぶやいた。蓮太郎がため息をつきながら肩をすくめる。
「できること、あるんかなぁ。俺、毎日手を合わせとるけど、神様なんておらんのやろうな……って考えてしまう」
「……そうかも」つぶやくように返した。神様に祈って何かが変わるとは到底思えなかった。だけど、それ以外に何ができるのか、まったくわからなかった。
「でもさ、涼。この理不尽を受け入れたらダメだと思わね?抗わないといけないよな……」
「……理不尽に抗う、か」その言葉に逞しさを感じた。

 スケッチブックを広げ、風景画のラフを再び描き始めた。けれども、どうしても納得できない。なぜ納得できないかが分からない。桜井さんが見ている風景と僕が見ている風景はまるで違う。彼女の期待に応えたいという気持ちはあるのに、その重圧が手を縛りつけている。
「くそっ……なんで……」意識せず声に出していた。無意識のうちにラフを縦に横にと破り捨てた。紙が破れる音が部屋の中に響き、黒い墨汁のような苛立ちと不安が部屋中に染み渡っていく。
 机の上には、破り捨てられたスケッチブックのページが散乱し、鉛筆も何本かが床に転がっていて、その光景がまるで心の中をそのまま映し出しているようだった。絵を描けば、彼女の病気がよく治るとでも?何をしても、どうにもならない。この無力感と焦りだけが膨れ上がっていく。
「……何してんだろうな、僕は」独り言のように口から漏れた言葉が、空虚に響く。桜井さんの為にできることなんて何もないのだ。彼女は毎日病気と戦っているというのに、ただ自分の苛立ちをどうにもできずに物にあたるだけ。情けなく、惨めだ。手を頭にやって、目を閉じた。桜井さんが笑顔で迎えてくれる姿が頭に浮かんでくる。彼女のために何かできることがあるはずだと思っているのに。どうしてこんなにも無力なんだろう。
 破れたスケッチブックを片手に立ち上がり、窓の外に視線を投げた。外の景色は静かで、何も変わらずにそこにあるのに、心の中では嵐のような感情が渦巻いている。
 床に落ちたスケッチブックと鉛筆を拾い上げながら「理不尽に抗う」という蓮太郎の声を思い出した。そして大きく頭を横にふり、頬を両手で叩き脳を鼓舞した。
 そうだ、諦めるわけにはいかない。

 翌朝、教室の窓際に座る僕の元にスマートフォンの通知音が響いた。画面を開くと、桜井さんからのメッセージがグループチャットに届いていた。蓮太郎と僕の二人宛てに短いメッセージが表示された。
「ごめんね、しばらく面会できなくなったの。体調が思ったよりも悪くて。少しの間、治療に集中するね」
 その文字列を凝視してから、ゆっくりと息を吐いた。蓮太郎も隣で画面を見つめていて、無言のままだった。教室のざわつきが一層響いてくるようで、その雑音が頭の中で反響した。
「……そっか、もうそんな感じか」彼の陽気な声はそこにはなく、重い空気だけが漂っていた。
 口を開こうとしたが、何も言えなかった。胸の奥を締め付けられるような感覚が喉まで侵食して、言葉が出てこなかった。思えば、桜井さんの元気そうな姿を見ても、それが一時的なものに過ぎないことを薄々気づいてはいたのだ。
「……あいつを守るカムイさんたちは、ちゃんと仕事しとるんかね」蓮太郎がポツリとつぶやいた。
 気持ちとは裏腹に彼女がいない教室に徐々に慣れつつある自分が嫌になった。

 その夜、ベッドに横たわりながら、普段の桜井さんの言葉や表情を思い出していた。彼女はいつも明るく振る舞っていたけれど、それがどれほどの忍耐を必要としたのか、想像もできなかった。僕達が不安にならないように、心配させないように、この一年、彼女はずっと気を張っていたのだ。
「……死ぬ病気じゃ、ないんだよね?」あの日、桜井さんの家での会話が頭に浮かんできた。あの時の彼女は、あまりに普通に答えてくれた。「私は死なないわ、絶対に。風の神様になるのはもっと先。」
 でも、その言葉が今は遠いものに感じられる。これまでの生活で桜井さんがいなくなるなんて、全く想像もしていなかった。ヒタヒタとそれが現実に詰め寄ってくる。そしてその現実を受け入れなければならない時がくる。
 不意に無念の涙が下瞼に溜まった。こんなにも情けなく、すぼらしい自分が嫌だった。昨日、諦めないと決心したはずなのに何もできないまま、ただうずくまることしかできなかった。自分はただの傍観者なのか。悔しさが頬を伝う。

 夢を見た。
 奇妙な感覚に包まれていた。そこには色とりどりの風景。極彩色になったかと思えば、絵本のようなパステルで描かれた優しい色にもなった。その中で時折現れる桜井さんの姿が薄く滲んで見えた。彼女は何も言わず、ただ微笑んでいる。
 何かを伝えたいのに、声が出ない。何とか声を出そうと喉をおさえ、叫んでみたがやはりだめだった。ただ手を伸ばして彼女に触れようとし、彼女も手を伸ばすが、その姿は次第に遠ざかっていった。
 場面が変わり、気がつくと自転車を全力で漕いでいた。冷たい風が顔を撫で、耳元をかすめる音が響く。足元から伝わるペダルの感覚が生々しく、夢の中でさえも僕の心臓は早鐘を打っていた。目指す病院が遠くに見えている。
「由衣が……もうすぐ……」
 桜井さんのお母さんの声が頭の中にこだまする。電話越しの声は震えていて、何かが大変なことになっていることを伝えていた。現実か夢かわからない感覚の中で、ただペダルを踏み続けていた。頭の中はぐちゃぐちゃで、冷静でいられるはずがなかった。
 病院に到着すると、自転車を乱暴に止め、そのまま駆け込んだ。エレベーターのボタンを何度も押し、やっとの思いで彼女の病室にたどり着いたが、その病室から出てきた看護師さんに制止され「ご家族以外の方は待合室でお待ちください」と促された。
 ソファーで待っていると、遅れて蓮太郎が到着した。
「桜井は……」
「……まだ、よく分からない」
 どれくらいの時間が経っただろうか。「ご友人の方もどうぞ」と看護師さんが病室に通してくれた。
 ドアを開けると、そこには桜井さんが静かに横たわっている。
「桜井さん……」
 彼女は目を閉じたまま、静かに横たわっていた。その姿は、まるで深い眠りに落ちているかのようで、今にも「おはよう」と柔らかな声で目覚めそうに見えた。
 彼女の手に触れ、その冷たさに息を呑む。現実感が一気に押し寄せ、締め付けられるような痛みが胸に走った。
「どうして……」
 声を絞り出すように言ったが、返事はない。ただ、静寂だけが病室を包んでいた。
 病室を出ると、廊下で蓮太郎が壁にもたれている。彼の顔は硬く、目はどこか虚ろだ。僕達は無言で目を合わせ、そのまま歩き出した。
 救急外来の出入り口から出たとき、寒さを含んだ強い風が肌に刺さる。何も言えない時間が続き、やがて蓮太郎が口を開いた。
「なあ涼……、俺たちさ、桜井のために、もっとできたことが……あったちゃなかか」
「わからない……」その言葉にどう答えればいいのか、見当もつかない。僕達に何ができたのか、それとも何もできなかったのか。今となってはどちらが正しいのかさえもわからない。ただ、彼女がいないという世界で、どうしようもなく立ち尽くしているだけだった。
 場面は変わり、スケッチブックを手に取り、無我夢中で鉛筆を走らせていた。桜井さんが描こうとしていた風景を何度も、何度も描いた。清水円山展望台の景色がスケッチブックの中に現れては消え、また現れる。そのたびに、桜井さんの声が聞こえる気がした。
「涼くん、焦らなくていいよ。見えてるはずだから」
 だけど、その言葉はいつしか風に乗って遠くへ消えていく。手は止まらず、ただ無心で描き続けた。何も考えず、ただ彼女のために描いた。自分が描くことで、彼女がまだここにいるような気がしたからだ。
 ふと、アニムトゥムの話を思い出した。あの時、桜井さんは「風の神様になれたらいいな」と笑っていた。彼女の言葉が頭の中を何度も繰り返し、反響している。これまで、その意味を真剣に考えたことはなかった。けれど、今になってその重みがずしりと心に迫ってきて、その意味を噛みしめていた。
「桜井さん、君は……本当に」
 呟きながら、最後の一枚を描き終える。スケッチブックは鉛筆の跡で埋め尽くされ、ページはくしゃくしゃになっていた。その絵が何を意味するのか、自分でもわからなかった。ただ、涙が止まらず、スケッチブックを抱えながらベッドに倒れ込んだ。
 
 涙を流しながら目が覚めた。ベッドの中で、夢ではない目の前の現実を確認する。そこには誰もいない。ただ、自分の息遣いと胸の痛みが残っていた。外の世界は朝日が昇り始めており、時折轍の音が遠くで聞こえた。夢の中での出来事が現実とどこかで繋がっているようで、その感覚から逃れることができない。
 桜井さんが本当にいなくなってしまう。その恐怖が頭の中をぐるぐると回り続け、ただ布団の中で震えていた。