大野城市にある大型商業施設。その一角にミスタードーナツへ僕達は足を運んでいる。
 文化祭の打ち上げと称しているものの、むしろ常連とも言っていいくらいに頻繁にここへ寄り道をしているわけで。
 いつものように桜井さんが先導する形で席を決める。桜井さんはフレンチクルーラーとアイスカフェオレを注文。僕はオールドファッションとアイスコーヒーを頼み、壁際の四人用テーブル席に座った。先に注文を完了し着席していた蓮太郎はスマートフォンを手にしながらポン・デ・リングを無造作に口へ運んでいる。まるでピサの斜塔のようにポン・デ・リングが縦に五つ積まれているが、成長期とはいえ見てるだけで胃もたれしそうだ。
 店内は平日の午後とあって、特に混雑している様子はなく、僕達以外には数組の客がいるだけだ。外の明るい光がガラス越しに柔らかく差し込み、テーブルの上に影を落としている。壁には新商品が発売されることを告げるポスターが、隙間を埋めるように貼られ、その存在感を主張していた。
 
 桜井さんが顔を上げ、フレンチクルーラーを小さくちぎって頬張りながら、何気なく口を開く。
「文化祭、すごく楽しかったね」という発言と対照的に顔はがっかりしている。
「私たちの出し物はあまり人気なかったわけだけど……」
「食べ物やお化け屋敷には負けちゃうよね、流石に」
 アイスコーヒーを一口吸った、口の中に広がる苦味。
「でも終わってホッとしたよ。準備までは結構バタバタしてたし……」
「ほんとに。もう大変だったよ。でも、うちのクラスの展示、評判良かったみたいよ」桜井さんは満足そうに微笑んでいた。彼女の表情にはどこか誇らしげなものが混じっていて、その姿がいつも以上に印象的だった。
「実際、人に見られると緊張するよね。自分の絵を見られるのが、かなり恥ずかしかった」
「でも、あの展示アイデアはやっぱり良かったんじゃないかな。三人で同じ場所をそれぞれの視点で描くっていうの、観てくれた人は面白いって言ってたよ。特に涼くんの鉛筆画、すごくいいって」
「…………ありがとう。でも正直、僕はまだまだ実力不足って感じがする」
「そんなことないよ、涼くんの絵もすごく素敵だったよ。静かな雰囲気がちゃんと伝わってたし。改めて君は絵が上手なんだなって思ったよ。観てると元気出るもん」
 褒められることに慣れていなかったので、少しだけ気恥ずかしさを感じながらも、内心では嬉しかった。蓮太郎はスマートフォンをいじりながら、時折こちらを見ているが、電子書籍の漫画に夢中で特に会話に加わる様子はなかった。

「風景で思い出したんだけど、前に見せた写真と私のお婆ちゃんのこと、覚えてる?」
「覚えてるよ、北海道に住んでたんだよね」
 桜井さんは、ふと遠い目をしてから頷いた。
「うん。あの風景写真を観てたらお婆ちゃんが住んでた場所を思い出すの。お婆ちゃんはね、北海道で生まれたわけじゃないけど、アイヌの文化にはすごく詳しかったんだよ。小さい頃からずっと、アイヌの昔話やカムイの話を聞かせてくれてたの。たぶん、お婆ちゃんがいなかったら、私はそんなにアイヌのことを知ろうとしなかっただろうな」
 蓮太郎が読んでいた漫画や、授業での北海道の話題に関心を向けていたのはそういう事だったのか。
「アイヌの文化って、自然には神様が存在してるってやつだよね」
「そうそう、自然の中にはすべてカムイがいるんだよ。山も川も動物も植物も、全部がカムイ。だから、自然を大切にするっていうのがアイヌの考え方なんだ。お婆ちゃんはいつも、自然はただそこにあるんじゃなくて、みんな生きてるんだよって教えてくれてた」
 桜井さんは少し微笑んで、その思い出に浸っているようだった。彼女の言葉の端々には、お婆ちゃんへの敬愛の念がにじみ出ている。教えは単なる知識ではなく、生活様式と深く根付いた信念のようなもの。自然がただの景色や物体ではなく、生きている存在として捉えられているその考え方に、どこか新鮮さを感じていた。
「なんだか、存在しているもの全部がつながっている感じがするね。普通に生きていると忘れてしまうようなことだ」
「うん、そうなんだ。お婆ちゃんは自然の中で生きることがどれだけ大事かをいつも教えてくれたし、私もそれを信じてるんだ。」
 桜井さんは両手でカップを包み、カフェオレをゆっくりと飲んだ。
「カムイの中で、代表的な神様っているの?」
「いるよ。有名なのは生きたヒグマのキムンカムイ。カムイの中でも位の高い神様ね。他にも百神以上いるのよ。」
「百神!凄い大所帯だなあ」
「私もアイヌの言葉に詳しくないから、全て覚えているわけじゃないけどね」
「自然がたくさんある北海道ならではの考え方だよね。でもコンクリートばかりの福岡にカムイはいなさそうだな」
「どうだろう、探したらひょっこり現れるかもね」
「桜井さんのお気に入りのカムイはいるの?」
「いるよ。アニムトゥムカムイっていう神様なんだ」
 アニムトゥムカムイ。言い難い名前だな。
「お婆ちゃんが教えてくれたんだけど、アニムトゥムは風を司る神様で、時間を超えて自由に世界中を駆け巡るの。風が吹くときは、アニムトゥムが近くにいるって考えられてて、それがまた面白いんだよね。あとアニムトゥムは風の音や動きを通じて、人々にメッセージを送ると考えられているの。風が強く吹く時は警告や注意を促す意味があるかもしれないし、穏やかな風は祝福や成功の前兆と解釈するんだって」
「アニムトゥムカムイ……風の神様か。自由にどこへでも行けるって、なんだかすごく魅力的だな」
「そうだよね、私もそう思う。お婆ちゃんは、風が吹くたびに『アニムトゥムが挨拶してくれてるんだよ』って言ってたの。それがすごく好きでさ。だから私も、風を感じるたびにアニムトゥムのことを思い出すんだ」
 オールドファッションを一口かじりながら、桜井さんが信じているアニムトゥムについて考える。風という自然現象に神様の意思が宿るというその発想は、理解し難いものでありながらも、見えないものを観る感性に通じるところがあって、いつの間にかその話に引き込まれていた。
 
「でもね、ちょっと面白いことがあって。アニムトゥムについて調べようとしたんだけど、どこにも情報がないんだよね。インターネットで探しても、本を読んでも、アイヌの資料館に行った時も、アニムトゥムの名前は出てこなかった」
「え、そうなの?そんなに有名じゃない神様なのかな」
 スマートフォンで検索しても、確かにアニムトゥムカムイというキーワードが結果は一つも出てこない。
「ううん、たぶんね……アニムトゥムはお婆ちゃんが作った神様なんだと思う。お婆ちゃんはいつも、自分の中で新しい話を作ってたから、その中の一つがアニムトゥムカムイだったんじゃないかな」
 桜井さんは肩をすくめ、少し照れくさそうに笑った。
「でもね、私はそれでもアニムトゥムを信じてるんだ。お婆ちゃんが教えてくれたことは全部本当だと思うし、風が吹くたびにアニムトゥムが私たちを見守り、助けてくれるって」
 彼女にとって、祖母が創り上げた物語は、現実と地続きのものとして存在しているのだろう。その感覚はまだ十分に理解できていないけれど、桜井さんがアニムトゥムを信じていること、その確信は強く感じ取ることができた。
 話を聞きながら、知らず知らずのうちに、自然の中に神様を見出すという考え方に、ほんのわずかに惹かれている自分に気づく。
「アニムトゥムが本物かどうかなんて、実際には関係ないのかもね。大事なのは信じる気持ちなんだろうから」
 そう言うと、桜井さんは嬉しそうに頷いた。アニムトゥムの存在が彼女にとってどれだけ大切なものなのか、理解できた気がした。
 店内にさわやかな風が吹き抜け、テーブルの上のナフキンがふわりと舞い上がった。桜井さんはその風に微笑みながら、「フフ、小さなアニムトゥムが来たんだね」と呟いた。施設内の空調か、人が通った時にできる風だろうと野暮ったく思いつつも、同時にその風がただの偶然ではないように感じられた。自然と桜井さんの中にある信じる力が、目に見えない何かを僕達に伝えているような気がしてならない。
 彼女はただの話としてではなく、心の中でアニムトゥムを生きた存在として受け入れている。それが、彼女にとっての救いであり、優しさの源なのかもしれない。
 目には見えないけれど、感じられるもの。そんな神様が自分のそばにいると思えば、確かに心は軽くなるような気がする。
「実際にアニムトゥムを感じることができるってすごいな……僕にはちょっと難しいかもしれない」
「そうかな?風が吹いたとき、髪の毛が揺れたり、木々がざわめいたりするのって、全部アニムトゥムの仕業なんだよ。そう思うだけで、日常がほんのちょっとだけ特別になると思わない?」
「どこにでも行けるって聞くとちょっと憧れるけど、現実はそう簡単じゃないし」
「だね。現実は簡単じゃない。でも、信じることで少しでもその現実を変えられるんじゃないかなって思うの。自由なのよ。どこにでも行けるし、何にでもなれる。羨ましいなぁ……」

 施設内の客足が疎らになり、ドーナツ屋の客も僕達だけになった。
「ねえ、涼くん……例えばさ、大切な人が死ぬとするじゃない?」
 桜井さんは静かに問いかけた。その言葉は不意打ち過ぎて、一瞬言葉を失った。死後の世界について、特に考えたことはなかったし、ましてやそれを語ることすら避けてきた。
「で、時間を遡って相手を助けられる機会があるとしたら、どうする?」
「それってタイムスリップとか、タイムリープのようなSFの話?」
「そうそう。優秀な博士がタイムマシンを開発したら、愛する人の命を救う為、君はそれに乗る?」
 いつもの桜井さんと違う真剣な表情を見て、素直に考えを巡らせた。タイムマシンかぁ。
「そりゃあ、もちろん乗るさ。その類の映画は、結局最後には恋人も助かってハッピーエンドになるだろ?乗らない理由なんて、どこにもないじゃないか」
「映画、かぁ……」
 僕の答えに、何故か桜井さんは少し寂しそうに笑った。そして、静かに首を横に振る。
「そうね、それも一つの考え方だわ。でも、私は……乗らないかもしれないわ」
「どうして?せっかくのチャンスがそこにあるのに」
「だって、その死の原因が、絶対死んじゃうウィルスかもしれないし、調べてもわからないような原因不明の死かもしれない。愛する人の死を何度も見る事になるのよ?そんなの辛すぎない?」
 彼女がなぜそんな真剣に聞くのか要領を得なかったが、アイスコーヒーをストローで吸いながら考えてみた。
「だったら、僕は子供の頃に戻って猛勉強するかな。ウィルスの博士になって、事前にウィルスが蔓延するのを阻止するし、原因不明の死あってもそれを突き止めるまで、何度もタイムスリップするんじゃないかな」
 彼女はカップをトレイに戻し、椅子の背にもたれながら、ゆったりと天井を見上げていた。
「そうね、君はやっぱりそこまでやってくれる人よね……」
「とはいえ、相手にも死なないように努力をしてくれることを祈るね。仮に死んだとしても……そうだな、それこそアニムトゥムになってくれればいいんじゃない?だっていつも傍にいてくれるんでしょ?」
 冗談を含めて言ったつもりだったが、その一瞬、彼女の瞳が大きく見開かれ、驚きの表情が顔に浮かんだ。そしてすぐにいつもの笑顔へと切り替わる。
「そうね、私もそれに賛成かな。是非とも君も死なないよう努力してくれたまえ」
「待って待って!勝手に殺さないでくれるかな。……え?それ僕が死ぬ側なの?てっきり僕が君を……」
「え!なになに?『愛する』私を助けにきてくれるの?きゃあ!運命の王子様ね!さすが涼くん!必ず助けにきてよね!きっと惚れちゃうから!」
 急に早口になるので、両手を振りながら「いや、だから……架空の話であって……」という言葉も虚しくかき消されていく。また嵌められた。
 一頻りの早口も通り過ぎ、アイスカフェオレの最後の一口を飲んだあと、彼女はふっと息を吐き、軽く肩の力を抜いた。
「アニムトゥムカムイ。形を持たないけれど、誰かのそばにいられる。目には見えないけれど、感じてもらえる存在になれる、か……」
 ふと呟いた彼女のその言葉は、まるで自分の生き方や未来を投影しているようだった。
 そう言った後、彼女の瞳の奥にある何かがすっと引いていったような気がした。
「なんかそういう歌がなかったっけか?タイトル思い出せんけど……」
 蓮太郎が突然話に割り込んできた。どうやら漫画を読み終えたらしい。そして彼のトレイに積んであった大量のポン・デ・リングは忽然と消えていた。
「えっと何やったけ?お墓がどうのこうのってやつ」
「お墓の前で、泣かないでくださいっていう歌?」うろ覚えなのでタイトルも歌詞は出てこない。
「私、あの歌大好き!それこそアニムトゥムを表現しているような曲じゃない?わたしのーお墓のーまーえでー……」
「帰って歌詞を調べてみるか。じゃ解散やな」
 彼女の歌を華麗にスルーしながら、蓮太郎はそのまま店を出ようとする。
「ちょっと!少しくらい私の美声を聞いてくれてもいいじゃない!」