校外学習の日、バスの中はどこか浮ついた雰囲気で満ちていた。行き先は隣の市の自然公園。目的地は特に目を引く場所ではなかったが、教室から離れて外へ出られるというだけで、生徒たちはみな心が弾み、車内はその高揚感に支配され、途切れることのない会話の波が広がる。
 三週間後に行われる文化祭において、クラスの生徒がそれぞれ描いた風景画を教室に飾る予定であり、今回の校外学習の目的はその資料や題材を集めるためだ。そんな事のためにバスを出すなんて、我が校は器が広いらしい。
 窓際の席に座り、隣に座る桜井さんを感じながら、流れていく外の風景を簡単にスケッチしていた。座席は窮屈で、バスが揺れるたびに彼女と肩が軽く触れ合う。そのたびに、彼女の長い髪から漂う香りがふわりと顔の周囲に広がり、まるで大きなわたがしが浮遊するように、ほのかに甘く柔らかな余韻を残していく。その香りが鼻先をかすめる度に気もそぞろで、外の風景に集中できない。蓮太郎が横に座ってくれた方がまだマシだった。

「うわ!ちょっと見てよ。あの山、変わった形してる!」
 指さす前腕が、うつむく僕の顔面とスケッチブックの間に割り込んでくる。彼女が指す方向に視線を向けたが、その山が一番低いという事以外は周囲の山々との差異がよくわからない。
「……本当だね。面白い形だ」
 曖昧に答えて、またスケッチブックに視線を戻した。
 彼女の目の中にはその山の景色がきらきらと輝いて映っているのだろう。理解はできないけど。
「……ちょっと!君、本当に観てた?」
「観てたよ、あの一番低い山でしょ?でも他の山と、さほど違いはないと思うんだけど」
「よく観てよ、あの山!なんかゴリラっぽくない?こう、ほら、あれが顔の部分で。あっちが体。寝転んで遊んでるみたい」
「……ゴリラ……ゴリラ?」
 山はどうみても山でしかないわけだが。
「そう、ゴリラが寝そべっているようにみえると思わない?」
「そうかな……よくわからないな」どこがどうゴリラに見えるのか、頭の上に疑問符が飛び出てきた。
「…………」
「涼くんはさ、さては見ているだけで観てないな」どこか誇らしげに彼女は腕を組む。
「何それ?トンチかナゾナゾみたいなもの?」
「ううん、そうじゃなくて。因みに絵を描く時に一番必要な技術って何だと思う?」
「……観察力、かな」いささか自信は欠けていたが、まぁこれが正しい答えだろうと、自分を納得させた。
「そうそう、だから君のそのスケッチも十分すぎるくらいあの山を模写できてるとおもうよ。でもほんの少しだけでいいから視点を変えるの。想像力って言った方がいいかな。そうすると人には見えないものを描くことができるのよ」
「人には見えないもの?」いよいよ彼女が何を言っているのかわからなくなった。
「例えばリンゴを描く時も赤色をベースにして、類似の暖色系でグラデーションを描いていくでしょ?でもさそれって目に映っているものをそのまま描いてるだけじゃない。でもリンゴは赤だけじゃない、緑や青の線だってあるんだから……」
 彼女の描く絵を思い出す。確かにたくさんの色が使われていた。葉っぱに赤、空に紫。近くでみれば、なぜこんなところにこんな色がと疑問に思っても、遠目でみれば全体がまとまっている。それは生命が息遣いをそのまま切り取った一枚の写真のようだった。
「桜井さんの目に映るものと、僕の目に映るものは違うのかな」
 鉛筆を握りしめたまま、じっと自分のスケッチブックを見つめる。絵を描いていたはずなのに、そこに描かれたものが、単なるの線の集合体のようで肩を落とした。
「そうかもね、証明することはできないけど」
「……桜井さんの目が欲しいな。どうしたらそこまで見えるようになるんだろう」
 少し笑いを含みながら、彼女は静かに首を振る。
「ううん、これは目じゃなくて、心の話だと思う。無理やり観ようとしないで。なんというかこう、えっと……フフッ、私にもどう説明したらいいかわかんないや」
「それが桜井さんの絵の上手さに繋がっているのかな。君が描く絵を見る度に感心しちゃうから」
「あら!そう言われると恥ずかしいな、私は私が上手だなんて思ってないけど。でも頑張れば見えない空気や風だって絵具で表現できるんじゃないかな。そういえば……」
 彼女は何かを思い出したように、顎にそっと手を当てながら、ゆっくりとバスの天井を見上げた。
「私のお婆ちゃんが言ってた。風や空気はいつも透明だけど、心が動いた時や潤った時、それが緑色に見えるんだって」
 風が緑色に見える?さすがに現実味がないな。
「どういう事だろう。悟りの境地にでも至ったらそう見えるって事なのかな」
「さあね。少なくとも私は見た事ないわ。お伽話の類ね、きっと。お婆ちゃんそういう話好きだったから」肩をすぼめる仕草の中に、彼女は微かな笑みを忍ばせている。その笑顔はまるで、心の奥に潜む感情をそっと覆い隠すベールのようだった。
 先ほどの山を凝視していると、星々に線を引いて星座を形作るように、視界にゴリラの輪郭が表れてきた……ような気がした。
 
「なあ、俺たちさ、自由時間どげんする?二人とも、どこか行きたい所あるや?」
 同じ班の蓮太郎が前の席から体を乗り出してくる。彼の声はいつもと変わらず元気で、周囲の空気を一瞬で明るくするかのような力を持っている。その反面、僕はその問いかけに対して考える間もなく、ただ答えを濁すだけだった。
「僕はどこでもいいよ。二人に任せる」
「えー、それじゃあ展望台に行こうよ!あそこからの景色、絶対きれいだと思うんだ。間違いないよ!」
 桜井さんの提案に、蓮太郎は即座に「よしゃ!じゃあ決まりやな!」と賛成した。特に異論はなく、ただ二人についていくことにした。蓮太郎はこちらを向いたまますぐにスマートフォンを取り出してアプリで道順を確認し、桜井さんは周辺の施設を検索している。
 生まれた頃から福岡に住んでいるが、この辺は来たことがなかったな。
 行先である米ノ山展望台を調べてみた。どうやら隠れた映えスポットらしい。インスタグラムを開いてみると、バイク乗りたちが切り取った瞬間の風景がずらりと並び、写真一枚一枚からその場所の秘める魅力がにじみ出ている。
 
 目的地の場所周辺に差し掛かる。大型バスを停められる駐車場は頂上付近には用意されていなかったため、バスは麓のお寺に隣接する広々とした駐車場に停車した。
 僕ら含め生徒たちは下車し、駐車場の空いたスペースに全員が座った。
「ここからは各自自由行動。集合時間は守れよ。特に中村、天気がいいからって、外で寝るんじゃないぞ」
「……はいはい。わかってますって」バツの悪そうな表情を浮かべ、蓮太郎は頭を掻きながら、何か言い淀むように口を開く。
 松本先生の「解散」の一声が響き渡ると、生徒たちは一斉に立ち上がって四散した。まるで蜘蛛の子が広がるように、瞬く間にその姿は見えなくなり、それぞれが自由を手にしたように好き勝手な方向へと姿を消していく。
 指定された集合場所から少し離れた展望台を目指して、僕達三人は歩き始めた。

 森の中の小道を抜け、ゆるやかな坂道を上っていく。木々の隙間から射し込む柔らかな日差しが、点々と地面に光の斑点を描き出す。桜井さんはその自然の気配を余すことなく味わうように、ゆっくりと深呼吸しながら歩き、蓮太郎はふと足を止めてはスマートフォンを構え、その一瞬の美しさを切り取っていた。
「なんかさ、こういうとこ来るとすごいワクワクするよね。空気がすっと入ってくる感じ。マイナスイオンっていうのかな?」
 桜井さんは高揚した声をあげながら、目を輝かせて周りの景色を見つめている。彼女にとって、今この瞬間が特別な体験であり、見えるものすべてが新鮮な驚きなのだろう。返事をしなかったが、それでも彼女が楽しんでいる様子を見て、微かな安堵の気持ちが胸の内に広がった。
「確かにな。福岡だけじゃなくて、色々な自然を見てみたいよな。阿蘇とか九重とか……」腕組みをしたまま、彼は一人で「ウンウン」と頷き続けている。
「海外にも行ってみたかー!涼はどげん?こういう景色とか見て、なんか行きたい場所とか思いつかんと?」
 突然、蓮太郎が問いかけてきた。彼の顔には期待と興奮が入り混じり、まるで光を帯びているかのように生き生きとした表情が浮かぶ。その感情は遠い星の煌めきのように、どこか現実味のないものに思えた。
「別に特には……。今のところどこかに行きたいとか、そういうのはないかな」
 以前、桜井さんと話していたとき、話題に上った北海道のことを言いかけたが、なんだか気恥ずかしくて結局その言葉は胸の中に押し込める。
 その答えに対し、蓮太郎は少し困ったような笑みを浮かべ、桜井さんはそのやり取りを静かに見つめている。彼女は蓮太郎の理想主義的な一面と、僕の現実的な態度の双方を、同じ重さで受け入れ、大切に思っているのだろう。その穏やかな表情が、僕たちの間に漂う微妙な均衡をそっと守っているように見えた。

 やがて展望台に着くと、そこから見える景色は期待以上のものだった。青空がどこまでも広がり、博多湾や天神の街を含めた福岡の景色が一望できる。桜井さんはカメラを取り出し、何度もシャッターを切っていた。その瞳の中には、この景色のすべてが写り込んでいるようだ。
「ねぇ涼くん、この景色、なんかすごいよね。写真じゃ全部は伝わらないかも……」
 彼女が楽しそうに言いながら肩をバンバン叩いてくる。
 痛い。
「まあ、きれいだとは思うけど……ちょっと歩きすぎて疲れたから感動も半減かな」
 乾いて詰まるような返答に、彼女は少しだけ寂しそうに見えたが、すぐにまた笑顔を浮かべた。蓮太郎はそんな僕達を見て、「涼はマイペースやな」と笑った。
「夜景とかだと、また違って綺麗なんだろうね」
「涼くんは、昼の景色と夜の景色どっちが好き?」
「そうだな、どちらかと言えば夜の景色かな。光の一つ一つをみて、その人口の光の下に人の営みがあると思うとなんか感慨深い」
「ふむふむ、確かに涼くんはそっち好きそうだね。でも私は断然昼の景色だなぁ。お日様の光をいっぱい浴びて、深呼吸して、そして目にいっぱいの大パノラマを見るの。そうしたら体がふわっと浮く感じがしてすごく気持……」
 突然の事だった。桜井さんは両手で口を押さえ、咳をし始めた。最初は軽やかだった咳が、ひとつ、またひとつと重なり、次第に苦しそうな音を立てて深くなっていく。その様子は、今にも嘔吐してしまうのではないかと思うほど激しく、その咳は激しく、彼女の身体を揺さぶっている。
 動揺しながらもしゃがみ込む彼女の背中を上下に摩っていると「どうしたん桜井?大丈夫や?」と異常をみつけた蓮太郎が駆け寄ってきた。
 彼女は片手でオーケーサインを出しながらも、肩を大きく動かし、咳と咳の間に震えている。
 辛そうな表情をしているのに、目は鋭く、まるで別人のようだった。光の加減だろうか。ヘーゼルアイの瞳が、牡丹のように赤くなっているように見えた。

 咳はしばらく続いたが、彼女が持参していた吸入器で薬を吸い込むと、次第にそれは落ち着いていった。胸に手を当てながら大きく深呼吸をし、無事に災難が通過していったのを確認する。
「はあ…………死ぬかと思った。まぁこれくらいじゃ人は死なないんだけど」
 眼球は真っ赤に腫れていたものの、いつの間にか表情はいつもの笑顔に戻っている。
「桜井さんって喘息持ちなの?」
「ううん、私喘息は持ってないわ。でもたまにこういう咳が出るんだけど。大したことはないよ」
「いや、大したことあるやろ。酷い咳やったけん、バリ心配したんやけど…………」
「ごめんごめん、二人ともそんなに心配しないで。久しぶりにおいしい空気を吸ったから、体がびっくりしちゃったのかもね」
「テンション上げすぎやろ」と蓮太郎は笑った。
 桜井さんを気遣って休憩をした後、僕達は展望台から見える景色の写真を撮ったり、スケッチブックにラフを起こしたりしながら順調に資料を増やしていく。
 喘息は持ってない?じゃぁ一体なんなんだろう。勘ぐりすぎだろうか。ガムが靴底にペタッと張り付くように、心の隅に一抹の不安を覚えたが、顔に出さないように努めた。