絵具の匂いがふわりと鼻を突く放課後の美術室に足を踏み入れる。油絵具の甘やかな香り、アクリルのきりっとした匂い、鉛筆の削りかすが放つかすかな木の匂い。これらが織り成す空気の重なりが、かえって僕の心を落ち着かせてくれる。夕方の斜陽が窓から差し込み、部屋の中に長い影を落としている。部活の時間は、一日の中で最も心を静かにできるひとときだった。
桜井さんは部室の椅子に座り、イーゼルに立てかけたキャンバスへ熱心に筆を走らせていた。
「……桜井さん、今日も来るの早いね」
桜井さんに声をかけながら、自分の席に座った。彼女は筆を止めず、顔はキャンバスを向いたまま軽く頷いて笑った。
「そう言う涼くんだって早いじゃない。でも一番乗りでここにくるとなんだか落ち着くんだよね。静かで、まるでこの世界に自分だけしかいないみたいな……」
「……ごめん、だったら僕はお邪魔だったね」少しからかってみた。
キャンバスから目を離した彼女はこちらを向き、その頬はぷっくりとむくれている。
「意地悪なこと言うのね、まったく!女子には優しくしないといけないって授業で習わなかったのかね?義務教育だよ!」
「それってどの科目で取り扱うの?国語?」少し口角を上げながら返す。
「えっと……うーん道徳、かな」
「そうなんだ、覚えておくよ。テストに出るかもしれないからね」
「ふふーん!残念でした!道徳はテストが実施されません!」
なんなんだ、このやりとりは。
「……ごめん、ちょっとからかいすぎた」
乾いたため息をつく頃には、彼女は笑いながらキャンバスに向き直り、また沈黙の時間が流れていった。
運動部のランニングの掛け声と吹奏楽部の独練の音色だけが、風に乗ってかすかに聞こえるが、それ以外の音はしない。美術室は校舎の三階で、かつ一番奥にある為か、廊下を歩く生徒もいない。美術室はそういう場所だった。学校の喧騒から少し離れて、自分だけの時間を過ごせる。そんな場所があること自体、僕にとっても貴重だった。桜井さんも同じ気持ちでここにいるのだと思うと、少しだけ嬉しくなった。
しばらくして、蓮太郎が遅れて現れた。彼はいつも通りの態度で、美術室に足を踏み入れるとすぐに桜井さんに声をかけ、キャンバスを覗き込む。
「お、桜井、なんかいい感じやん。今日は何ば描きよるん?」
蓮太郎の声はいつも大きく、少しだけ周りを圧倒するような響きがある。桜井さんは笑顔で振り返り、体を斜めに傾けてキャンバスを彼に見せる。僕もそれに釣られて横目で彼女の絵を見た。
空の透き通るような青、草原の瑞々しい緑、風に揺れる白いワンピースを着た白い髪の少女が遠くに描かれている。風が草を揺らしながら通り過ぎていく様子が、まるでその瞬間を切り取ったかのように伝わってくる。写真と見紛うくらい幾重の細い線で、とても水彩で描かれたとは思えない。
「まだ途中だけどね。春の草原を描いてるの。見てると気持ちが明るくなるような絵にしたいなって思って」
蓮太郎はその絵をじっと見つめて、感心したように頷く。
「さすが桜井やな。俺にはこんな繊細なタッチは無理やな……」
蓮太郎はそう言って僕に視線を向けた。
「でも、涼やったらこういう水彩画描け……ないか流石に」
彼の言葉にはどこか棘があるようで、少し身構えてしまう。蓮太郎の言葉はいつもどこか上から目線で、それがどうにも引っかかる。桜井さんはそのやり取りを見て、少しだけ困ったように微笑んでいた。彼女は僕達の間に漂う微妙な空気を察しているのだろう。
そうだ、蓮太郎と仲良くするって桜井さんと約束したばかりだ。落ち着け、僕。
「でもさ、涼くんの鉛筆画は本当に凄いよ。あんな緻密で繊細に描ける人今まで見た事ないもん。涼くんも蓮太郎くんも、そして私も、それぞれ違うところがあるからこそ面白いんじゃないかな」
桜井さんの言葉はいつも僕達を包み、誰も否定することができない。そして彼女は誰かを否定することなく、その人の全てを受け入れる。
「ごめんな涼。別に悪気があって言ったんやなかったっちゃけどさ」
合掌し、気まずそうな顔をしながら、蓮太郎も自分のキャンバスを準備し始めた。
「涼くん、完成したら見せてね」
頷きながら自分のキャンバスに向きなおし、鉛筆を走らせる。新しい風景を描きたい。桜井さんの絵に触発されたのかもしれないが、彼女に見せたいと思う反面、それが本当に期待に応えられるものなのか自信は持てないままだった。
僕は鉛筆画、蓮太郎は油絵、そして桜井さんは水彩画。それぞれが別々の画材を得意としていた。
桜井さんの手は迷うことなく動き、キャンバスには次々と薄く鮮やかな色が重なっていく。桜井さんはまるで魔法使いのように、自分の思い描く世界を瞬く間に作り上げていくのだ。彼女が描く風景には、いつもどこか温かさと爽やかさ、そして静寂があって見ているだけで心が落ち着く。
蓮太郎の筆はいつも早く、こちらも迷いがない。大きな筆で大雑把に描いているようにみえるが、粘りのある画材を重ねていくにつれて線が生まれる。抜群のコントラストと大胆な構図、それは観る者を圧倒するような強さを持っていた。そして何より楽しそうに描く姿はどこか羨ましくもあった。
僕は鉛筆の硬さを使い分けながらハッチングしていく。練り消しで光を表現しながら徐々に立体的に対象を模写する。ここのパースが曲がっている、そこの影に矛盾があるといつも迷うものだから進捗が遅い。やはり、どこか引きずっているのだろうか。いつまでたっても彼らに追いつけないような気がしていた。
「今日は何を描くの?」
桜井さんが肩越しに覗き込んできた。筆を止めて、桜井さんの顔を見た。彼女は無意識だろうが、長い髪が僕の肩に少しかかり、息が当たるほどに顔が近い。すぐさま顔をキャンバスの方へ向き直した。
「まだ決めてないけど……桜井さんが今草原を描いてるから、同じように風景画を描こうかな」
そう言うと、桜井さんは嬉しそうに笑った。彼女は自分のイーゼルにかけていた小さな何かを手に取り見せてきた。
「実はこの絵、この写真を参考にしたんだよ」
手渡されたその写真には彼女が描いた絵と同じ風景が広がっている。
「すごい……まさかこれ、桜井さんが撮ったの?」
「ふふーん、そうよ!すごいでしょ?カメラの練習にどれだけ時間とお小遣いを費やしたことか……うぅ」と眉間を指で挟み、顔を横に振った。
「……でもこれ、福岡にこんな風景が撮れる場所なんてあったっけ?僕が知らないだけかな」
「……ううん、これはね、北海道で撮ったの」
その時、彼女の目に微かに戸惑いのようなものが掠める。
「すごい壮大な景色と思わない?涼くんもぜひ行ってもらいたいなあ。直に観た方が感動するよ」
「でも旅行なんて滅多に行かないからなぁ。でもそこまで言うなら行ってみたい……かな」
「じゃあさ……私と一緒に行く?」彼女は宝石のようで、そして悪戯をする子供のような瞳で下から見上げている。
突然の言葉に、首の筋がキュッと突っ張る。口がへのじになり、水槽のメダカのように目が泳ぎ始めた。
「プクククッ!冗談よ、冗談!さっきのお返しでーす」
桜井さんは、膝を叩きながら笑った。
肩で震わせながら、人差し指で目に溜まった涙を拭っている彼女を見ながら僕は同じく肩を震わせる。悔しさで。
蓮太郎に聞かれてるんじゃないかと彼に視線を移したが、彼はキャンバスに向かって筆を走らせていた。どうやら僕達の会話は耳に入っていないようだ。安堵。
北海道の地名が出た時、垣間見た彼女の目の揺らぎが気になっていた。
「その北海道へは、旅行が目的で行ったの?」
「うん、それもあるんだけど……私は福岡生まれなんだけどさ、私のおばあちゃんが北海道に住んでたの。小さい頃はよく会いに行ってたのよ。もう亡くなちゃったんだけどね……だから北海道に行く回数も減っちゃったわ」
お腹の前で手を組み、口を小さくへの字に曲げたその表情には、どことなく寂しさが漂っていた。言葉にならない哀しみの色が、その瞳には微かに映り込んでいる。
「……そっか、それは寂しいね」
「ううん、もう慣れちゃったよ。続きはまた今度話すね、長くなりそうだし……」
「……うん、わかった」
その言葉を最後に僕達は自分のキャンバスに戻る。いつもの静かで、穏やかで、そして少しだけ緊張感がある美術室に戻った。蓮太郎は僕を横目で見ながら、いたずらっぽく口元を歪めたが、その笑みの裏に隠された言葉は、結局口をついて出ることはなかった。
スピーカーから放送部が選曲したクラシックにのって下校を促す放送が流れ始めた。
桜井さんは部室の椅子に座り、イーゼルに立てかけたキャンバスへ熱心に筆を走らせていた。
「……桜井さん、今日も来るの早いね」
桜井さんに声をかけながら、自分の席に座った。彼女は筆を止めず、顔はキャンバスを向いたまま軽く頷いて笑った。
「そう言う涼くんだって早いじゃない。でも一番乗りでここにくるとなんだか落ち着くんだよね。静かで、まるでこの世界に自分だけしかいないみたいな……」
「……ごめん、だったら僕はお邪魔だったね」少しからかってみた。
キャンバスから目を離した彼女はこちらを向き、その頬はぷっくりとむくれている。
「意地悪なこと言うのね、まったく!女子には優しくしないといけないって授業で習わなかったのかね?義務教育だよ!」
「それってどの科目で取り扱うの?国語?」少し口角を上げながら返す。
「えっと……うーん道徳、かな」
「そうなんだ、覚えておくよ。テストに出るかもしれないからね」
「ふふーん!残念でした!道徳はテストが実施されません!」
なんなんだ、このやりとりは。
「……ごめん、ちょっとからかいすぎた」
乾いたため息をつく頃には、彼女は笑いながらキャンバスに向き直り、また沈黙の時間が流れていった。
運動部のランニングの掛け声と吹奏楽部の独練の音色だけが、風に乗ってかすかに聞こえるが、それ以外の音はしない。美術室は校舎の三階で、かつ一番奥にある為か、廊下を歩く生徒もいない。美術室はそういう場所だった。学校の喧騒から少し離れて、自分だけの時間を過ごせる。そんな場所があること自体、僕にとっても貴重だった。桜井さんも同じ気持ちでここにいるのだと思うと、少しだけ嬉しくなった。
しばらくして、蓮太郎が遅れて現れた。彼はいつも通りの態度で、美術室に足を踏み入れるとすぐに桜井さんに声をかけ、キャンバスを覗き込む。
「お、桜井、なんかいい感じやん。今日は何ば描きよるん?」
蓮太郎の声はいつも大きく、少しだけ周りを圧倒するような響きがある。桜井さんは笑顔で振り返り、体を斜めに傾けてキャンバスを彼に見せる。僕もそれに釣られて横目で彼女の絵を見た。
空の透き通るような青、草原の瑞々しい緑、風に揺れる白いワンピースを着た白い髪の少女が遠くに描かれている。風が草を揺らしながら通り過ぎていく様子が、まるでその瞬間を切り取ったかのように伝わってくる。写真と見紛うくらい幾重の細い線で、とても水彩で描かれたとは思えない。
「まだ途中だけどね。春の草原を描いてるの。見てると気持ちが明るくなるような絵にしたいなって思って」
蓮太郎はその絵をじっと見つめて、感心したように頷く。
「さすが桜井やな。俺にはこんな繊細なタッチは無理やな……」
蓮太郎はそう言って僕に視線を向けた。
「でも、涼やったらこういう水彩画描け……ないか流石に」
彼の言葉にはどこか棘があるようで、少し身構えてしまう。蓮太郎の言葉はいつもどこか上から目線で、それがどうにも引っかかる。桜井さんはそのやり取りを見て、少しだけ困ったように微笑んでいた。彼女は僕達の間に漂う微妙な空気を察しているのだろう。
そうだ、蓮太郎と仲良くするって桜井さんと約束したばかりだ。落ち着け、僕。
「でもさ、涼くんの鉛筆画は本当に凄いよ。あんな緻密で繊細に描ける人今まで見た事ないもん。涼くんも蓮太郎くんも、そして私も、それぞれ違うところがあるからこそ面白いんじゃないかな」
桜井さんの言葉はいつも僕達を包み、誰も否定することができない。そして彼女は誰かを否定することなく、その人の全てを受け入れる。
「ごめんな涼。別に悪気があって言ったんやなかったっちゃけどさ」
合掌し、気まずそうな顔をしながら、蓮太郎も自分のキャンバスを準備し始めた。
「涼くん、完成したら見せてね」
頷きながら自分のキャンバスに向きなおし、鉛筆を走らせる。新しい風景を描きたい。桜井さんの絵に触発されたのかもしれないが、彼女に見せたいと思う反面、それが本当に期待に応えられるものなのか自信は持てないままだった。
僕は鉛筆画、蓮太郎は油絵、そして桜井さんは水彩画。それぞれが別々の画材を得意としていた。
桜井さんの手は迷うことなく動き、キャンバスには次々と薄く鮮やかな色が重なっていく。桜井さんはまるで魔法使いのように、自分の思い描く世界を瞬く間に作り上げていくのだ。彼女が描く風景には、いつもどこか温かさと爽やかさ、そして静寂があって見ているだけで心が落ち着く。
蓮太郎の筆はいつも早く、こちらも迷いがない。大きな筆で大雑把に描いているようにみえるが、粘りのある画材を重ねていくにつれて線が生まれる。抜群のコントラストと大胆な構図、それは観る者を圧倒するような強さを持っていた。そして何より楽しそうに描く姿はどこか羨ましくもあった。
僕は鉛筆の硬さを使い分けながらハッチングしていく。練り消しで光を表現しながら徐々に立体的に対象を模写する。ここのパースが曲がっている、そこの影に矛盾があるといつも迷うものだから進捗が遅い。やはり、どこか引きずっているのだろうか。いつまでたっても彼らに追いつけないような気がしていた。
「今日は何を描くの?」
桜井さんが肩越しに覗き込んできた。筆を止めて、桜井さんの顔を見た。彼女は無意識だろうが、長い髪が僕の肩に少しかかり、息が当たるほどに顔が近い。すぐさま顔をキャンバスの方へ向き直した。
「まだ決めてないけど……桜井さんが今草原を描いてるから、同じように風景画を描こうかな」
そう言うと、桜井さんは嬉しそうに笑った。彼女は自分のイーゼルにかけていた小さな何かを手に取り見せてきた。
「実はこの絵、この写真を参考にしたんだよ」
手渡されたその写真には彼女が描いた絵と同じ風景が広がっている。
「すごい……まさかこれ、桜井さんが撮ったの?」
「ふふーん、そうよ!すごいでしょ?カメラの練習にどれだけ時間とお小遣いを費やしたことか……うぅ」と眉間を指で挟み、顔を横に振った。
「……でもこれ、福岡にこんな風景が撮れる場所なんてあったっけ?僕が知らないだけかな」
「……ううん、これはね、北海道で撮ったの」
その時、彼女の目に微かに戸惑いのようなものが掠める。
「すごい壮大な景色と思わない?涼くんもぜひ行ってもらいたいなあ。直に観た方が感動するよ」
「でも旅行なんて滅多に行かないからなぁ。でもそこまで言うなら行ってみたい……かな」
「じゃあさ……私と一緒に行く?」彼女は宝石のようで、そして悪戯をする子供のような瞳で下から見上げている。
突然の言葉に、首の筋がキュッと突っ張る。口がへのじになり、水槽のメダカのように目が泳ぎ始めた。
「プクククッ!冗談よ、冗談!さっきのお返しでーす」
桜井さんは、膝を叩きながら笑った。
肩で震わせながら、人差し指で目に溜まった涙を拭っている彼女を見ながら僕は同じく肩を震わせる。悔しさで。
蓮太郎に聞かれてるんじゃないかと彼に視線を移したが、彼はキャンバスに向かって筆を走らせていた。どうやら僕達の会話は耳に入っていないようだ。安堵。
北海道の地名が出た時、垣間見た彼女の目の揺らぎが気になっていた。
「その北海道へは、旅行が目的で行ったの?」
「うん、それもあるんだけど……私は福岡生まれなんだけどさ、私のおばあちゃんが北海道に住んでたの。小さい頃はよく会いに行ってたのよ。もう亡くなちゃったんだけどね……だから北海道に行く回数も減っちゃったわ」
お腹の前で手を組み、口を小さくへの字に曲げたその表情には、どことなく寂しさが漂っていた。言葉にならない哀しみの色が、その瞳には微かに映り込んでいる。
「……そっか、それは寂しいね」
「ううん、もう慣れちゃったよ。続きはまた今度話すね、長くなりそうだし……」
「……うん、わかった」
その言葉を最後に僕達は自分のキャンバスに戻る。いつもの静かで、穏やかで、そして少しだけ緊張感がある美術室に戻った。蓮太郎は僕を横目で見ながら、いたずらっぽく口元を歪めたが、その笑みの裏に隠された言葉は、結局口をついて出ることはなかった。
スピーカーから放送部が選曲したクラシックにのって下校を促す放送が流れ始めた。