三年生になってからの授業は、どこか実感が湧かないまま進んでいる。進路や受験といった言葉が重くのしかかるようになっても、それらはまだ漠然とした未来の一部でしかなかない。
 社会の授業が始まると、教室には静寂が訪れる。地図を指しながら淡々と話す平井先生の声が、まるで遠いさざ波のように聞こえる。クラスのほとんどの生徒が、この授業をひたすら耐え凌ぐだけの退屈な時間と感じているのは明白だった。窓の外から降り注ぐ柔らかな日差しが、かえって気だるさを増幅させ、まぶたを重くしていく。
 教科書を開いているふりをしながら、隣の蓮太郎の様子をちらりと見た。彼の頭はすでに机に突っ伏していて、耳を澄ますと静かな呼吸音も聞こえてくる。居眠りするのは彼の十八番で、この授業の時は特にひどい。蓮太郎は周囲の視線も気にせず、まるでこの教室が自分だけのものかのように深く眠っていた。
「まただね……蓮太郎くん」
 桜井さんがため息をつきながら囁く。しかし彼女の表情にはやわらかい笑顔が浮かんでいる。視線は蓮太郎に向けられていて、その目には少しの呆れと愛着が混ざり合っていた。
「まったく、毎度懲りないな。蓮太郎も」
 小声で返し、鉛筆の先で蓮太郎の耳元を軽くつついてみるが、まったく反応しない。かなり深い眠りの中にいるらしい。桜井さんは笑いを堪えながら、少しだけ体を乗り出して、蓮太郎の耳元で軽く「おーい」と囁いた。それでも彼は目を覚ますことなく、枕代わりにした教科書の上でまるで彫像のように微動だにしなかった。
 本当にしぶといな。
「どうしよっか……これ、起きないね」
「平井先生に気づかれる前に起こさないとな……」
 退屈という名の重たい空気が教室を覆い尽くす中で、僕たち二人だけは、その隙間でひそやかに楽しみを見つけているようだった。
 今日は北方領土に関する授業。日本がポツダム宣言を受諾した後の歴史や、ロシアによる不法占拠がなぜ起こったのか、現代の日本でどういう対策がなされているのか等、蓮太郎にとってこれ以上ない子守唄である。
 思ったより授業の進行が早かったのか、話題は寒冷地の農業だったり、アイヌ民族の扱い、札幌・ニセコの外国人観光客の事に話題が移った。
 退屈の色がクラス全体に染み渡り、桜井さんもきっとその一人だろうと決めつけていたが、彼女はなぜか授業に真剣な面持ちで耳を傾け、まるでその内容を一語一句逃さぬよう集中している。
 好きなのかな……北海道が。
 「北海道は先生が好きな場所でな。札幌や旭川もいいんだが……なぁ田中、北海道に行ったことあるか?」
 唐突な指名に動揺しながらも「…………いえ、ありません」と返事をした。
 「そうか、行ってみるといい。平野があるところなんか特にいいぞ、観光客も少ないし、壮大な景色を独り占めできるぞ。こういう時期は芝生なんかで昼寝してみるのもいいな。なぁ、中村」
 その瞬間、寝ていたはずの蓮太郎の肩がピクっと動く。ようやく彼が顔を上げ、黒板へと視線を向けたが、その瞳はまだ夢の中に漂うような茫漠とした色を宿しており、どこにも焦点を合わせることができずにいた。
 教室はクスクスと微笑が漏れ、蓮太郎は起立して照れたように鼻をかいて「さーせん」と囁くように返事をした。
 先生は溜息をつき、黒板に向き直ったタイミングで終鈴のチャイムが鳴った。終礼の声を皮切りに、ざわざわとした活気が波紋のように広がり、教室全体が息を吹き返した。
「おい涼、なんで起こさんやったん、先生に叱られたやん」
 無力感を込めるように肩をすくめ、乾いたため息を吐く。それはどこにも行き場のない感情の欠片を吐き出すような、虚ろな音。
「いや、桜井さんと一緒に何度か起こしたんだけどね……全然起きないから」
「そうだよ蓮太郎くん、今日は特に酷かったよ」
「そうか……それなら、ごめん」僕達の前で照れながら手を合わせる。
「いやさ、昨日夜に漫画本を読んどったんやけど、これが面白くてさ。夜中まで熟読しとったんよ」
「……ふーん」僕は興味が無いと言わんばかりの空返事をする。
「ねね、それってどんな漫画なの?」対照的に、桜井さんは興味津々のようだ。
「北海道に隠された金塊を元兵士が女の子と一緒に見つけ出すっていう話でさ。登場人物がヤバいやつしかいないし、バトルシーンもアツいし、なんならアイヌの文化も勉強できるし。って感じやな」
「へぇ……いいね、それ。私も読んでみようかな」桜井さんは人差し指の先を顎に触れさせながら、まるでその本の内容を想像するかのように呟いた。
 「お!よかね~、ある程度読み終わったらまとめて貸しちゃあよ。俺も全部読み終わってないけん、一緒に続きを考察していこうぜ!」親指を立てながら、蓮太郎の声量が一段階上がる。
「ありがとう、楽しみだな、じゃあ今度蓮太郎くんちへ取りに行くね」
「いやよかよ、何冊かに分けて学校に持ってきちゃあけん。それにしても意外やな。桜井、漫画とか読むったい。美術の参考書とか、カメラの実用書しか読まんのかと思いよった」
「え?何それ?撮り鉄みたいなオタクとでもいいたいの?」彼女の眉間にいくつものシワがよった。 
 蓮太郎は手を合わせながら「いやいや!ごめんごめん……」と平謝りをした。
 今日は謝ってばっかりだな、蓮太郎は。
「そりゃカメラの練習もしてるけどさ、こうみえて十七歳の可憐な女子高生なんですけど。漫画くらい嗜んでるよ、流石に」
 漫画で盛り上がっている二人を横目に見ながら、無言で机に肘をつき、窓の外を眺めていた。ここ数日、北海道の話題が多いのは何なのだろうと思ったが、特に気にすることでもないその疑問は一瞬で頭から泡のように消え、変わりに購買で買う昼食を何にするか、頭の中で巡らせていた。

 昼休憩のチャイム。それがスタートの合図となり、教室の男子生徒が勢いよく廊下へ飛び出していく。
 彼らが目指すのは購買部。昼休憩が始まると同時にお目当てのパンを求め、熾烈な生徒たちの戦いが始まる。そう、これは戦争なのだ。
 その飛び出した男子生徒の中に、当然のように蓮太郎が含まれているわけだが、当の僕はといえば廊下をゆっくりと歩きながら向かっている次第だ。
 小学生の頃から、運動や競技が得意ではない。並み居る強豪たちと互角に張り合えるほどのフィジカルを持ち合わせていない。今日も人気のない売れ残りのパンを買う羽目になるだろうが、慣れというのは怖いもので、特に不満はなかった。
 「いつもゆっくりだね」
 聞き慣れた声と一緒に、後ろから桜井さんがひょっこりと顔を出す。
「競争に参加しないと、好きなパン買えないでしょうに。求めよさらば与えられんってやつだよ」
 僕は廊下の掲示板に貼ってある半紙を指さした。そこには達筆な字で「廊下は走るな!」と書かれていた。
 彼女は「ふむ」と言った後、腰の後ろに手を組みながら話を続けた。
「因みに購買部のパンでどれが好き?」
「そうだなぁ……入学して以来一度も食べた事がない焼きそばパンかな。好きと言うより憧れかもね」
「ああ、私もその気持ちわかるなぁ。一度もお目にかかった事ないんだよね。一部の生徒の間ではあれは都市伝説じゃないかとも噂されてるからね」
「はは、確かにそうかも」思わず笑ってしまった。
「なんか、久しぶりに君が笑う顔をみたような気がする」と彼女は嬉しそうに目を細める。
「いつもは無表情というか、ポーカーフェイスっていうか。何考えてるんだろうっていつも思ってるよ私は。特に蓮太郎くんといる時は顕著だよね」
「そうかな……あまり意識はしてなかった。気をつけないと」
 階段を降りて渡り廊下を歩く。購買部まではもう少しだ。
「ねぇ、蓮太郎くんの事は好き?嫌い?」
 好きか嫌いかだなんて、極端だ。
「嫌いじゃないよ。ただ僕の性格とは合わないんじゃないかなとは思ってる。むしろ蓮太郎の方があまりよく思ってないんじゃないかな」
「ううん、そんなことないよ。分かってると思うけど、ほら、彼って大雑把な性格してるじゃない?思ってることなんでも口にしちゃうもんだから誤解を生んでるんだと思う」
 彼女は伏し目がちに、少し寂しそうな目を廊下へと向け、何かを探すようにじっと見つめていた。
「僕と蓮太郎の性格なんて真逆もいいところじゃない?」
「それを言ったら私と君も随分乖離してると思うよ。同じ性格の人間なんていないんだから。君がそっけない態度だと彼も気にしちゃうんじゃないかな。だからさ、仲良くしてあげて。そうしてくれると私は嬉しいな。ね?美女からのお願い」
 少しの間、静寂が二人の間を満たした後で、ゆっくりと口を開き、言葉を探るように声を発した。
「分かった。君が美女かどうかは横に置いといて、善処するよ」
「ありがとう、これで思い残すこともないわ」
 彼女は笑みを浮かべ、口元をほころばせる。
「なんか遺言みたいだね」
「ふふ、そうね。ところで……」彼女の瞳が、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされ、冷ややかな輝きを帯びている。
「聞き捨てならない事を言ったわね。私は可愛くないの?」
 いらない事を口走ってしまったと後悔した。
「いや、ほら自分で自分を可愛いと人前で言うのはちょっと……どうかなと、思うわけで」
「普段クラスメイトといる時にはそんな事言わないよ。痛い子って思われちゃう。でも君には……可愛いって思われたいじゃない?」
 冗談なのか本気なのか判断がつかないが明らかに前者だろう。その手は食わないぞ。
 そんな会話を続けているうちに、購買部の前に着いていた。販売窓口には生徒たちが押し寄せ、喧騒の渦を作り出している。その中を掻き分けるようにして、ふぅと大きな息を吐いた蓮太郎が姿を現した。
 手にはしっかりと、都市伝説がふたつ握られていた。