風が教室の窓から吹き込み、カーテンがふわりと持ち上がる。あまりにも心地よくて、どうやら少し眠っていたようだ。
 あたりを見回すと新学期が始まったばかりの教室で、まだ少し落ち着かない雰囲気が漂っている。一つ上の卒業生が去った後の教室、見知った顔がちらほらいるクラスメイト、二年次からそのまま繰り上がった担任の先生。すべてが見慣れてるはずなのに、どこか新鮮さすら感じさせる。三年生になった僕達は、あと一年でこの場所を離れるんだと、ふとした瞬間に思い知らされ、ほんの少しだけもの寂しい。
 その新学期早々、僕の隣になったのは、中村蓮太郎だった。美術部で顔を合わせているが、正直なところ、その関係は仲が良いとは言えない。彼の社交的だが、その自信満々な態度は、僕の性格とどうにも相容れなかった。蓮太郎と目を合わせぬように、机の上の教科書をぼんやりとパラパラめくり続ける。指先はページをめくる動きを繰り返しているが、そこに意識はなく、ただ手持ち無沙汰を誤魔化しているだけだった。
 
「おはよう!」
 打ち上げ花火でも上がったかのような元気な声が教室の入り口から響く。声が聞こえた方向を見ると桜井さんが笑顔でこちらに向かって手を振っている。彼女の明るい表情は教室の空気を一瞬で変える力があるが、彼女の事を知らない生徒は肝を抜かれた事だろう。席順が描かれた黒板に視線をやった後、せかせかと小走りで移動しながら、そのまま僕の前の席に座った。桜井さんは僕と蓮太郎が隣同士になっているのを見て、目を大きくして爛々と輝かせた。
「あら〜、涼くんと蓮太郎くん、お隣同士なんだね。フフッ!仲良しで何より!」
 無邪気な言葉に、僕は口角の端を上にひくつかせ苦笑いを浮かべる。彼女には僕達の微妙な関係がどう見えているのだろうか。わざとか……とは思いつつも、きっと何も気にしていないのだろう。僕達だけに限らず、誰に対しても壁を作らない彼女は、僕達の間に漂うどんよりとした緊張感など、どこ吹く風といったところだ。
「仲良しかどうかは、まあ、追々わかるっちゃないと?」
 蓮太郎は僕を細めで見ながら冗談めかして答えたが、その声はどこか挑発的な響きだ。桜井さんはウンウンと首を縦に振り、満面の笑みを浮かべている。その和やかな空気を壊さないように、声を潜めて、静かに乾いた息を胸の奥から吐き出した。
 桜井さんが僕たちの間にそっと立つと、それまで停滞していた空気に色が差し込み、言葉が呼び水となるように、会話が柔らかく生まれていく。しかし話題は彼女の日常でほんの些細なことだ。購買に売っている好きなパンのランキング、服に飛んだ醤油のシミの効果的な落とし方、通学路にいるブチ猫に対してアプローチしてもすぐ逃げられてしまう等、延々と彼女が喋り、蓮太郎が相槌を打つ。質問されると僕が一言二言返す。正直、どうでもいい内容に朝から胃もたれがする。よくまあ毎日これだけ話題を消化しているのに話のネタが尽きないものだ。

 僕と蓮太郎、そして桜井さんの出会いは高校一年の春、美術室だった。
 当時の二年生、三年生による部活紹介が済んだ後、美術部に入部希望の新一年生が美術室へ集められた。三人ともそれぞれ別のクラスだったが、それぞれ中学校の頃から美術部であったために、そのまま高校でも同じ部活動を継続させた。
 当時は自信で溢れていた。中学三年生の時、県が主催の絵画コンクールで銀賞を取ったのだ。自分の絵が認められた事に気持ちは高揚していたのだろう。特に自信があったのは鉛筆画。誰にも負けないと自負し、この腕にかかれば石膏デッサンも風景画も描けないものはなかった。
 それがどうだ。高校で部活動を始めてからというもの、井の中の蛙とはこの事だろう。先輩たちはたった一、二歳しか変わらないというのに、校内どころか県内トップレベルの画力と言ってもいい。模写の技術は勿論のこと、水彩でも油絵でもそれぞれの得意分野を確立し、各々の内側に持つ世界をそのまま現実世界へ具現化する技術を持っていた。現役で国公立の芸大に受かるんじゃなかろうかという人が一人や二人じゃない。
 そして蓮太郎と桜井さんである。同い年のこの二人の技術からしたら、僕の絵なんて素人同然で霞んで見える。
 そんな部員たちの洗練された技術を前に、さもありなん、僕の自信はプレパラートを指で砕くかの如くパラパラと砕け散った。
 それからというもの、意識せず寡黙な雰囲気を醸し出すようになり、クラスに友人と言える友人もできず、放課後は黙々と絵を描く二年間だった。
 
 入部当初から蓮太郎は社交的で誰にでも話しかけるような性格だが、その博多弁が原因なのか、それとも他に何か理由があるのか、当たりが強く感じる。とにかく不感症で他人に興味が湧かない性格の僕とは馬が合わないのは当然といえば当然だろう。桜井さんという潤滑油が僕たちの間に入ってくれるおかげで、大きな喧嘩をすることもなく、彼との関係をなんとかここまで維持できてきたと言える。
 桜井さんは僕とは対照的に、誰に対しても明るくフレンドリーに接し、僕のような無口な人間に対しても、そのスタンスを変えずに話しかけてくれる。時折、しょうもないイタズラを仕掛けられて辟易することもあるが、その整った顔立ちとのギャップで、すべてを帳消しにしてしまう。特にあのヘーゼルアイ。つまり、ブラウンとグリーンが絶妙に混ざり合った宝石のような澄んだ虹彩に見つめられると、すべてのノーがイエスに変わり、黒が白に変わってしまうのだ。だから、彼女の目には抗えない恐ろしさがある。いつも廊下ですれ違う時、周囲は複数人の友達で溢れていた。これならクラスで人気者になるのも頷ける。
 二年次もそれぞれ別々のクラス。そして三年次、とうとう三人が同じクラスで揃い踏みした。しかも蓮太郎とは隣の席、桜井さんはその前という絶妙な配置になったところで今に至る。あぁ、早く席替えしてくれないかな。

 ふと、彼女が「二人は将来何かやりたい仕事とかある?」と問うてきた。僕の肩が少し反応する。
 「うーん」と唸り、僕と蓮太郎はまるで示し合わせたかのように、同じ姿勢で頭を垂らしていた。
「私は……」机に肘をつき顎を掌に預けた彼女の横顔を見つめた。
「将来はアートに関わる仕事がしたいな」
 いつもの瑣末な話題の時にみせるキラキラした目とは違い、その瞳の奥が少しだけ滲む。これは悲しみだろうか。しかし真剣な眼差しには違いない。その将来がどれだけ難しいことかを承知の上で、それでも自分の夢に向かって努力している姿勢が眩しく見える。その話を聞きながら、その少しだけ悲しそうな瞳の先の想いが気になっていた。
 彼女の突然の問いに、戸惑った。将来……、親からも同じ質問をされる度に、迷う選択肢すら持ち合わせていない事にげんなりする。このまま時間が流れていけばいずれ見つかると思っていたし、それ以上のことを求められても困る。だけど彼女の瞳は真剣で、何も答えないわけにはいかない。
「……僕は、まだわからないかな。ただ、君みたいに好きなことを仕事にできたらいいな、とは思ってる」
 その言葉は、自分でもどこか借り物のような感覚があった。彼女はニコニコしながらウンウンと頷いた。彼女は僕の答えに特に意見をするわけでもなく、ただそれを受け入れてくれた。
 蓮太郎は黙って桜井さんと僕のやり取りを見ていたが、何か言いたげな表情を浮かべている。彼のやり方はいつだって同じだ。僕に向かっては遠回しな嫌味を繰り返すくせに、彼女の前では絶対に棘のある態度を見せることはない。それがなんとなく癪に障ったが、彼女がいる手前、何も言えないわけで。
 彼女は僕と蓮太郎の顔を交互に見つめた。
 「涼くんも蓮太郎くんも、いい未来が見つかるといいね。そして涼くん、眉間にシワがよってるぞ!」
 そう言いながら、彼女は僕の肩に触れた。その手の感触は温かく、柔らかく、でもどこか儚い感じがした。彼女が僕達にとってどれだけ大切な存在か、こういう何気ない瞬間に気づかされる。
 だけど、この時の理解していなかった。その価値を。

 ホームルームを知らせるチャイムが鳴り響き、桜井さんは「また後でね……」と言って黒板の方に体を向けた。
 これから訪れる一年がどういうものになるんだろう。何となく考えてみる。少なくとも、このままの調子なら退屈とは程遠い日々を過ごせるのだろう、とぼんやりした期待を抱く。
 僕たちの短くて、密な一年は、新学期という始まりの合図をもって、ゆっくりと歩みを進め始めた。春風が窓を揺らし、桜の花びらが舞い込み、ありふれた日常が続いていく。でも、その日常は少しずつそして確かに変わっていく。