通夜に向かう途中、道は思った以上に静かだった。澄んだ空気が冷たく肌にまとわりつき、吐く息は白く、周囲の風景はどこかぼんやり遠く感じられ、現実感がどこか欠けている。風は止み、夜空には星がなく、曇った空が私達を静かに見下ろした。歩くたびに、やけに靴の音が響く。
「桜井、ほんとに体調は大丈夫や?」
 蓮太郎くんが小さな声で尋ねる。顔は疲れ切っていて、いつもの彼とは違う。目の下にはくっきりとしたクマがあり、髪も乱れている。昨日からまともに眠れていないのは明らかだ。彼の心配を少しでも和らげようと微笑みを返そうとしたが、口元はうまく動かない。
「うん、なんとかね。でも、蓮太郎くんこそ眠れてないみたいだね。顔に疲れが出てるわ」
「……まぁな。涼のことが頭から離れんくてな……」
 蓮太郎くんの声はいつになく低かった。普段の陽気な彼とはまるで別人みたいで、その変わりように胸が痛む。けれど、それは私も同じ。涼くんがもういないという事実。受け入れるなんて、到底無理だ。
「私もそう……目を閉じても涼くんとの思い出が頭の中を駆け回るの。何度も目が覚めちゃう。でも……それでも通夜に行かないわけにはいかないよね」
「ああ……そうやな」
 蓮太郎くんはそれ以上言葉を続けず、しばらく沈黙が続く。通夜に向かう道がこんなに長く感じられるとは。
 通夜の会場に着くと、そこは静寂に包まれていた。小さなボリュームのクラシックとやわらかなお線香の香りが館内に流れる。親族や友人たちが集まり、低く囁き合う声が微かに耳に届いた。多くの人々が彼の死を悼んでいる。涼くんの死に対して何も言えないまま、ただその現実を受け止めようとしている。
 私達は、順番に焼香の列に並んだ。会場の奥には、涼くんの遺影が飾られている。
 遺影はいつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべている。その笑顔が、今後二度と私達に向けられることはない。写真越しに見るその顔は、どこか温かく、まだ生きているかのような錯覚を覚えるけれど、現実はあまりにも冷たい。
 涼くん…また助けられなかった。
 過去に戻った。それでも、結果は変わらなかった。何度繰り返しても、死を避けることはできなかった。すべてが無駄足に終わった。
 蓮太郎くんもまた、何も言わずに遺影を見つめていた。彼の顔には深い悲しみが刻まれている。その沈黙は、かえって胸に深く突き刺さる。
 焼香を終えた私達は、廊下に設けられたソファーに腰を下ろした。手には来客用にふるまわれた老舗和菓子屋さんの小さな饅頭があったが、それをただ見つめ続ける。空気は重く、まるで時間が止まってしまったかのようだ。沈黙が流れ、何も言葉が出てこない。
「桜井、無理してないか?」
 蓮太郎くんが口を開く。彼の声は、どこか不安げだった。私が体調を崩していることを気にかけているのだろう。彼の視線が私に向けられているのを感じるが、その視線に応えられなかった。
「ううん、体を押してでも来てよかったと思ってる。蓮太郎くんも、私も、涼くんと最後まで一緒にいたんだから、やっぱり、ね……」
 声がかすれていた。自分でも驚くほど弱々しい声。蓮太郎くんは饅頭の封を開け、かじりついた。彼の肩が小さく震えているのが見えた。
「俺さ、涼が……涼が死ぬなんて、今でも信じられねぇんだよ。どうしてあいつが……なんで助けられなかったんだって、ずっと考えとる」
 蓮太郎くんは拳を握りしめたまま、天井を見上げる。涼くんの死を自分のことのように苦しんでいる。それが痛いほど伝わる。
「病院に着いた時には、もう……」彼の目には涙が滲んでいた。
「お医者さんは手を尽くしたって言ってたんだけどさ、救急車に乗った時にはもう手遅れだったんだろうな……」
「そう……だったんだね」
 私にはわかっていた。何度過去に戻っても、何度やり直しても、結果は変わらなかった。私達にできることは、そもそも何もなかった。それが現実。
 蓮太郎くんが再び口を開いた。
「俺さ、どうしたら良かったんだろうな……。涼を助けられなかったって思うと、どうにもやりきれなくてさ……」
「私も同じだよ。気持ちがどうしてもあの時に戻ってしまうの」彼の背中をさすりながら続けた。
「でも、蓮太郎くん……もうこれ以上、自分を責めないであげて」
 私の声も震えていた。言葉にするたび、無力感が押し寄せてくる。
 蓮太郎くんの肩が再び震え、彼は俯いたまま拳を握りしめる。
「うう……」 
 蓮太郎くんは目を閉じ、再び言葉を失った。涼くんの死が私達に何をもたらすのか、今はまだ答えが出ない。
「涼くんは、どう思っていたんだろうね」
 その言葉が自然と口をついて出た。蓮太郎くんはゆっくりと目を開き、まっすぐと床を見つめていた。
「さぁな……けど、あいつはお前の事をずっと気にかけとった……病気がよくなったと聞いた時、それはもう嬉しそうに跳ね上がってたぜ」
 蓮太郎くんの声は弱々しくも、そこには確かな思いが込められていた。
 「その気持ちを持ったまま死んだとすれば、あいつ少しは幸せだったんかもな。そう信じたいし、そうであってくれないと俺の心が壊れちまいそうだ」
 
 通夜を終えた後、足取りを重くしながら建物の外に出た。何もかもが遠い過去の出来事のように感じたが、現実はまったく逃げられないほど近く、重たい。蓮太郎くんは少し後ろをついてきて、何も言わずに私の横に並んだ。ふと背後から誰かが私達を呼ぶ声が聞こえた。
「桜井さん、中村君」
 その声に振り返ると、そこには涼くんのお母さんが立っていた。彼女の表情は静かだったが、その瞳には計り知れない深い悲しみが宿っている。
「……少しお時間いいですか?」私は「はい」と小さく頷く。
「今日は……来てくれてありがとう」お母さんはそう言って、軽く頭を下げる。
 どう返事をすればいいのかわからず、ただ「いえ……」と俯きながら小さく応えた。蓮太郎くんもまた小さく頭をさげる。
「実はね、涼が亡くなった原因だけど、お医者さんから急性心筋梗塞だったって聞かされたの……いちばん傍にいてくれたあなた達には伝えておかなくちゃと思って」
 その言葉に胸が締めつけられる。どうしても抗えない力が働いていたということが、今さらながらに突きつけられる。
「涼は、元々心臓が悪かったんすか?」
「ううん……小さいころから病気をする子じゃなかったし、心臓が悪いなんて診断、今まで受けた事なかったわ。だから、あの子がこんなにも早く逝ってしまうなんて……とても……」お母さんは震える声で続けた。
 涼くんの死は、避けられない結末のように、運命が手を引いていた。それを何度も時間遡行で変えようとしたが、結局はその収束には逆らえなかったのだ。今度は「急性心筋梗塞」という形で。
「ああいう性格だから、友達もなかなか出来なかったの。あなたたちがいてくれたことが、あの子にとって大きな支えだったと思います。本当に、ありがとうね。それと、涼の部屋に絵が残っていたの。これ、観てくれないかしら」
 そう言いながら、お母さんは手に持っていた大きなエコバックから一枚のキャンバスを取り出した。
「これを一生懸命描いていたの……あの子の形見としてこれ、受け取ってくれないかな?」
 彼女の言葉に、何も返すことができなかった。震える手でそのキャンバスを受け取る。それは、彼がずっと取り組んでいた清水円山展望台の風景画だった。平野に広がる草木や空に浮かぶ雲、すべてが細部まで丁寧に描かれている。
「いいんですか?お母さんにとって、とても大切なものじゃ……」
「いいのよ。私よりあなた達が持っていてくれた方が、きっとあの子も喜ぶわ」
 彼が最後に残した作品。魂の一部がそこに宿っているようだ。
「ありがとうございます……大事にします」
 蓮太郎くんは、黙ったままキャンバスを見つめていた。

 帰り道、キャンバスの入ったエコバックを肩にかけて歩いていた。冷たい風が頬に触れるたび、現実がどんどん迫ってくるのを感じる。それでも彼の絵が残されていることが、私達にとって、ほんの僅かではであるけど唯一の救いだ。
「なあ、桜井。三人で描いた絵を並べて飾ってみないか?お前も描き終えたんだろ?」
 不意に口を開いた彼の声には、どこか前向きな響きを感じる。悲しみに打ちひしがれている今でも、彼は何かを残そうとしている。
「そうだね……涼くんもそれを楽しみにしてると思うわ」
「明日部室に集合な。今日は疲れたろうから、早めに休めよ」
 遺作を私達の絵と並べて飾ることができれば、少しでも彼の存在を感じられるかもしれない。私達が描いた風景と、彼が描いた風景が、また一つの世界としてつながる。そんな気がした。
 
 自室にこもり、立てかけた風景画を見つめた。草花の描写が細かく、空には小さな雲が漂っている。私が撮ったあの写真と見まごう程、完成された絵だった。彼がどれだけこの絵に心を込めて描いたのか、その筆致から伝わってくる。
 ベッドの上に横たわり、ラッコのぬいぐるみを抱きしめた。涼くんはもういない、それが現実だ。これから彼が死んだという事実を受け入れていかなければならない。ならないのだけど。
 もう、終わったんだ。全てが。
 手から力が抜け、ぬいぐるみがベッドから落ちた。まぶたが重くなり、目の前がだんだんと暗くなる。眠りに落ちる前、もう一度だけ絵を見つめた。彼がそこにいるかのような静かな絵だった。