その時、色が見えた。

 闇から目覚めた瞬間、冷たい現実が肌を覆った。気がつくと、学校の廊下に立っていた。静寂の中で、どこからか微かに聞こえるざわめきと、足音の反響。蛍光灯の白い光が、天井から無機質に降り注いでいる。
 反射的にポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示された時間に目を凝らす。文化祭当日、昼前。アニムトゥムとの記憶も途絶えてない。
 
 涼くんは今、どこにいるのだろうか?彼が無事であることを、今すぐ確かめなければならないという強迫観念が胸を支配する。焦りを押し殺しながら、短いメッセージを打ち込む。
「今どこにいる?」
 指先が画面をタップするたび、心臓の鼓動が一段と速くなる。しばらくすると、涼くんからの返信が表示された。
「教室にいるよ」
 その一文に目を通した瞬間、心に張り詰めていた緊張の糸が一気に弛む。よかった、彼は無事だ。少なくとも今のところは。少しでも早く彼の姿を確認したいという思いに駆られて、教室へと足を向けた。廊下を進むたびに、文化祭のざわめきが次第に近づいてくる。
 教室に到着すると、彼は受付の椅子に腰掛けていた。表情はぼんやりとしていて、まるで異世界に漂う船のように不安定だ。
「お疲れさま、涼くん」
 私の声に、彼はゆっくりと顔を上げた。
「お疲れさま。と言っても座ってるだけだから、疲れはないんだけど」
「おやおや閑古鳥が……」
 部屋に視線を投げた時、激しく肩をすくめた。教室は生徒や父兄で溢れ、賑やかな笑い声があちこちから聞こえてくる。そこに違和感を覚えたのは、まさにその瞬間だった。以前の世界では、この教室は閑散としていたはずだ。まるで、運命の捻れがこの場所に影を落としているかのように。
 何かがおかしい。もしかしたら、涼くんの死は既にこの瞬間にも迫っているのかもしれない。チャンスだ!彼が命を落とすのはもっと先のことだと考えていたが、もしこの日を無事に乗り越えられれば、彼は生き延びるかもしれない。
 彼の顔を伺いながら、周囲を警戒するように目を走らせた。今のところ、人がたくさんいる事以外変わった様子は見受けられない。それでも、涼くんの安全を守るためには、彼のそばにい続けるしかないだろう。
「ここで一緒に受付をしていようか?」ごく自然な口調で提案してみる。
 しかし、涼くんは首を横に振った。
「いや、ちょっとお腹空いたんだ。屋台を見に行かない?何か食べようよ」
 彼の言葉に、一瞬ためらったが、彼の意志の強さを感じ取ると、やむを得ずその提案に頷いた。彼をひとりにするわけにはいかない。
「仕方ないか。じゃあ、私と一緒に行こうか」
 次の受付当番の日菜と交代し、私達は連れ立って運動場の方へ向かった。秋の空気が肌に触れると、屋台から漂う香ばしい匂いが空腹をそそる。
 今のところ、周囲に特に大きな変化はなさそうだし、不審な人影もない。涼くんも体調は良さそうだ。
 喧騒の中で、チョコバナナを咥えたままの蓮太郎くんの姿を見つけた。彼は大きく手を振りながら、口を開かずに「ヨォ」と声をかける。
「何してるのよ、チョコバナナ咥えたまんまで……行儀がわるいよ」
 彼に尋ねたが、ただ肩をすくめただけで、特に答えようとはしなかった。涼くんの様子を伺いながら、一計を案じた。
「ねぇ蓮太郎くん、焼きそばを2つ買ってきてくれる?」
 今、涼くんと離れるわけにはいかない。
 彼は露骨に眉をひそめ、口からチョコバナナを抜いた「はあ?なんで俺がそんなことをしなきゃならないんだよ」
「いいから、お願い。あと十パックしか残ってないんだから」
「……いや、なんでそんなこと知っとるん?」
 彼の疑問が口をついて出た瞬間、焼きそば屋の方から叫び声が響く。
「焼きそば、残り十パックです!」
 蓮太郎くんは驚きと疑念の表情を浮かべながら、私を見つめた。そして、面倒臭そうに首を横に振りつつも「マジか、あーもう、仕方ねぇな」と言いながら、焼きそば屋へ向かっていった。
 蓮太郎くんには申し訳なかったが、涼くんとそのままベンチに腰を下ろした。周囲を見回しながら、不安を抑えつつ、彼に話しかける。
「いい天気ね、今日は。夏も終わっちゃったから、ちょっと寂しいけど、空気が澄んでて気持ちいよね」
「ねえ桜井さん」彼が訝しげな目をこちらに向けている。言葉にならない疑問を抱え込んでいるかのように、その視線が鋭く私を捉えていた。
「なんだか今日様子が変じゃない?目つきが怖いというか、どこか緊張してるような……」
「そう?絶好調に機嫌いいよ」
 努めて軽い口調で返したが、彼は私の表情を読み取ろうとしているようだった。わずかに微笑みを浮かべ、彼の不安を打ち消そうとした。
 それからしばらくして、蓮太郎くんが焼きそばを両手に持って戻ってきた。
「ほれ、焼きそば。ったく人使い荒いな、お前は……」
 彼は不満げに眉をひそめたまま、焼きそばのパックを私達に差し出した。
「ねえ、焼きそばを買うときに変な人とか、見かけなかった?」
 念のために尋ねてみたが、彼は呆れたようにため息をついた。
「強いて言うなら、俺の目の前にいる奴が今のところ一番変だな」
 彼の言葉に、わずかに拳を握りしめたが、今はそれどころではないと深呼吸をして力を抜いた。不審者がいなかったのなら、それでいい。とにかく、今は涼くんの身に危険が及ばないよう見守るしかないのだ。

「とりあえず、腹ごしらえしようか」
 焼きそばのパックを開け、一口食べてみる。柔らかな麺とソースの風味が口の中に広がり、僅かに安堵の気持ちが胸の奥に広がっていった。
 私達はゆっくりと焼きそばを食べながら、静かに文化祭の喧騒に耳を傾けた。
 焼きそばを一口、また一口と噛みしめるたびに、微かな違和感が頭の片隅に湧き上がってくる。屋台の騒がしい声と行き交う生徒たちのざわめきの中で、涼くんがふと箸を止めて顔をしかめた。
「なんか、これ……変な味がするような……」
 彼が呟いたその一言に、心は弾かれたように動揺した。涼くんの顔を見つめる。何を言っているの?そんなはずない。焼きそばはちゃんと先に毒見した。それなのに、急にどうして。
「そんなことないよ、美味しいってば。お店の味そのままって言ってたじゃない」
 努めて明るい口調を保ちながら、箸を口元に運ぶ。しかし、涼くんの表情は晴れないままだ。彼は少しずつ焼きそばを食べ進めていたが、眉間には深いしわが寄り、額には汗が滲んでいた。彼の頬が、じわじわと蒼白に染まっていく。
「涼くん、ねぇ……大丈夫?」
 問いかけると、彼はわざとらしく、そして力なく笑顔を作る。
「大丈夫……だよ。なんでもないから……」
 だが、その声はどこか虚ろで、喉を詰まらせるような乾いた響きを持っていた。蓮太郎くんも彼の様子に気づき、顔を覗き込みながら心配そうに声をかける。
「おい、涼。お前、顔色が真っ青やんか?本当に大丈夫とや?」
「うん……、平気、だから」
 涼くんは無理やり言葉を搾り出すように笑う。しかし、その瞬間、彼の呼吸が突如として荒くなり、喉を押さえながら激しく咳き込み始めた。咳の音は徐々に苦しげに変わり、まるで喉の奥に見えない手が入り込み、息を絞り出そうとしているかのようだった。
「涼くん……苦しいの?涼くん!」
 パニックになりながら、彼の背中をさすり続けた。しかし、涼くんの様子は悪化する一方だ。彼の唇が次第に紫色に変わり、手足が痺れるかのように震え始める。瞳は焦点を失い、遠くを見つめるような虚ろな表情を浮かべていた。
「ねぇしっかりして……!」
 私の声は、冷たい風にかき消されるかのように頼りなく、届くことのない響きを放つ。蓮太郎くんは周囲のざわめきに向かって大声を張り上げた。
「誰か、保健の先生を呼んでくれ!それと救急車を!」
 ざわざわとした人波が後退し、まるで私達を取り囲む結界が形成されたようだった。涼くんはその場に膝をつき、ついには前のめりに倒れ込んだ。
「駄目、駄目よ……!」
 彼の身体を支えながら必死に呼びかけ続ける。だが、彼の反応は次第に鈍くなり、瞳の奥の光が薄れていくのを感じる。涼くんの体温がじわじわと下がっていくような気がして、冷たい汗が背筋を伝って流れ落ちた。
 そのとき、保健の先生が駆けつけ、慌ただしく応急処置を施し始めた。涼くんの手を握りしめながら、先生の動きを見つめることしかできなかった。自分は無力なカカシだった。
「……重度のアナフィラキシーショックかもしれない。救急車は?」
「もう呼んでます!すぐくると思います!」
 蓮太郎くんの声がどこか遠くから聞こえる。その声を耳に入れながら、どうしてこんなことになってしまったのかを考えていた。
「ごめん……ごめんね……」
 知らず知らずのうちに、口から何度も同じ言葉が漏れていた。目の前で意識が遠のいていく涼くんを前に、私の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じる。
 救急車のサイレンの音が耳を刺すように響き渡る。涼くんの身体は担架に乗せられ、救急隊員の手で運び出されていく。その一連の動作を、ただ呆然と見つめていた。何度も過去をやり直してきたのに、まただ、また彼を救えなかった。
 せっかく、今回は彼を救えるチャンスだったのに。
 膝を折った瞬間、身体はもはや己を支えることすら叶わず、失意に縛られたまま、その場に崩れ落ちた。
 
 その日の夜、涼くんは病院で亡くなった。自室の暗がりで、力なくベッドに横たわりながら天井を見上げた。
 私が、彼の死を早めてしまったのかもしれない。涼くんを救うどころか、彼を死に追いやってしまったのでは。退院する日に涼くんは亡くなるはずだった。でも、今回はそれよりもずっと早かった。自分が時間遡行を繰り返してきたことで、何か歯車が狂ってしまったのではないか——そんな考えが、頭から離れなかった。
 私が積み上げてきたものは、砂上の楼閣に過ぎず、ひと吹きの風で消え去ってしまった。呆然としたまま、天井を見上げた。彼のいない世界は、どこか冷たく、どこまでも遠く感じられた。ふと彼の声が耳を掠めた気がした。しかしそれは、遥か遠くへ失われた存在の残響が幻として甦ったに過ぎない。彼はもう、手の届かない場所へと旅立ってしまったのだ。私の手の中から、再び消えてしまったのだ。

 それからというもの、空虚な生活を送った。レアリエス肺症候群を患い、入院した。たまに蓮太郎くんがお見舞いに来てくれたりして、涼くんとの思い出を語る日々が続いた。
 その内、レアリエス肺症候群は影を潜め、いよいよ退院の日が近づいてきた。そうだ、退院の日。あの世界では涼くんは交通事故で亡くなった。思い出したくはなかった。でもまだだ、まだ終わってない。またアニムトゥムに会わなければ。
 気がつくとアールデコ調の椅子に座ったまま俯いていた。毎度この世界に来る時は、ふわりとして心地よい不思議な感覚に囚われる。現実世界のふつふつした気持ちが晴れ、まるで別の人格になったかのように心が温かくなる。
 正面を向くと、アニムトゥムがカップに注がれた紅茶を飲んでいた。私の目の前にも同じものが置かれていた。
「久しぶりね由衣、元気だった?」
 いつものように可愛らしい、お人形さんのような笑顔。
「ううん、今は心身ボロボロだよ。病気は治ったから後は頑張って体力を戻すだけだね」
「そう、それは何よりだわ。それはそうと……」アニムトゥムはカップを置いて、私の胸あたりをじっと見ている。
「そのワンピースかわいいわね。水色でシンプルな感じ、私は好きよ」
 着ている服が自分の普段着である事に今更気づいた。
「ふふ、いいでしょ。セシルマクビーの限定ものなのよ。誕生日にお父さんにおねだりして買ってもらったの」
「セシルマクビー?そんなお高めなブランド品を高校生が着てるの?ませてるわね……由衣って箱入り娘なのね」
「さすが神様、ブランド品にも詳しいんだね」
「なんでも知ってるわ。でも知ってるだけよ。私の住む世界にはこれしか無いからね」そう言いながらアニムトゥムは自分のワンピースの袖を摘んだ。
「前から気になってたんだけど、アニムトゥムってずっとその服だよね。それ一着しかないの?」
「ちょっと聞き捨てならないわね。もしかして馬鹿にしてる?ちゃんと数着あるし、洗濯だってしてるわよ」
 彼女が白いワンピースをせっせと洗濯し、干している姿を想像するとおかしくなってきた。
「かわいい、アニムトゥム」
「何よ!神様だって洗濯くらいするわ。失礼しちゃうわほんと」
「ごめんごめん」
 
 彼女と私のカップが空になった頃、今回の涼くんの死亡の経緯を説明した。
「なるほどね、今度はアナフィラキーショックか」腕組みをしながら彼女は唸る。
「焼きそばだから、多分小麦粉か、ソースに含まれていた何かだと思う。でも以前の一年間の旅の時は美味しいって言いながら完食してたわ。これってもしかして……」
「そうね、あなたは賢い子だから察しがついてるとは思うけど、小さな運命の捻れ。時間遡行を繰り返した事によるもの。何度も繰り返すうちに、涼の体に変化があったとしても不思議じゃないわ」
「やっぱりそうなのね……」両手を頭の上に置いた。
「きっと私のせいね」
「いえ、数ある分岐点の一つを選んだだけよ、気にしないで。行き着く先は一緒だわ」
「あぁ、もう涼くんを救う手立てはないのかな」
 アニムトゥムは無言のまま立ち上がって体を背にした。
「あなたに、言っておくことがあるわ」表情は見えないが、神妙な声色だった。
「聞くまでもないけど、あなたはまた涼を救う旅に出るのよね?」
「もちろんよ。言うまでもないけど」
「そっか。そうだよね。でも……」俯きながらアニムトゥムは続けた。
「本当に申し訳ないけど、もう時間遡行の旅は……次で最後なの」
「どういうこと?」
「力を使いすぎたのよ……もう私のこの力の灯火は消えかかろうとしてるわ」
「そんな……」
 沈黙が二人の間にゆっくりと降り積もり、全ての音を呑み込んでいくかのように深まっていった。
「次の旅でもし、涼を救えなかったら。もう次はないわ。あなたに、それを受け入れる覚悟はあるかしら?」彼女は振り返り、私を見つめる。
「涼くんの、死を受け入れろってことだよね。どうかな。自信はないよ。それでも」
 突きつけられる現実。しかし選択肢はなく、迷うまでもない。残っている一つをすくい上げるだけだ。
「……それでも、もう一度、最後に涼くんを救いに行きたい」
「可能性はゼロにほぼ等しいのよ。そしてもし失敗した時、あなたが絶望する姿を見たくないわ」
「でも、このまま可能性だけを残して諦めたら、私はこの先後悔する事になるわ」
「止めても無駄よね。分かってはいたけど……」
 ただ無言で、彼女の青い瞳の奥をじっと見つめたまま動かなかった。アニムトゥムは微かに瞼を伏せ、ため息をつくように、ふっと息を吐き出した。その吐息が、何かを諦めるかのように空気の中で静かに消えていった。
 「わかったよ、由衣。じゃあ……もう一度だけ、あなたにその時間をあげよう。これが本当に最後。次はどの時間に飛ばせばいい?」
「そうね、どこがいいかしら」
入学式?校外学習?水族館?いや、どれも違う。
「じゃあ一年間の旅の時の世界線。日付は退院の日の前日がいいかな。時間をかけても運命の収束を避けられないなら、死の直前で全力を出してみるわ!」
「……わかった、気をつけてね。きっと一生の中で一番長い一日になると思うわ」そう言って彼女は背を向け、風の中に消えていった。
 
 目を覚ますと、私は涼くんの死の前日、退院前の病室にいた。目の前には再び彼が生きている時間が広がっていた。
 もう一度過去へと戻ってきた。これが最後のチャンス。涼くんの死を回避するためには、何としてでも慎重に、しかし大胆に行動しなければならないと決意を固める。病室の窓から外を見つめると、空はどこまでも広がり、青空に浮かぶ彩雲がゆっくりと動いている。ベッドに横たわっている私の心が、まだどこか不安げな表情を浮かべていた。
 スマートフォンを手に取る。待ち受け画面に映る日付が、退院の前日であることを示していた。もう何度も繰り返してきた時間遡行。しかし、この時間の重みは感じられない。ただ、一つだけ違うのは、今回が本当に最後ということだ。私は息を整えた。

「今から、いつものミスドで会おう」
 その短いグループメッセージを涼くんと蓮太郎くんに送信した。いつもなら、すぐに返事が返ってくる涼くんからの返信が、少し遅れて届く。「大丈夫なの?無理しないほうがいいんじゃないかな」彼の心配は当然だ。退院前日にこんな無理をしてもいいのかという疑問は、私自身にもあった。しかし、もうためらうことはできない。
 少しして、蓮太郎くんからもメッセージが届く。「桜井、本当に大丈夫か?明日退院なんだろ?」
 彼らの言葉に、少し口元が緩んだ。いつも心配してくれる二人。彼らに心配をかけるわけにはいかないが、それでも、今回は絶対に失敗できないという強い意志を持って「大丈夫だよ」と返信した。

 ベッドからすくっと起き上がり、クローゼットの扉を開ける。長期間の入院生活のせいで、体が重い。大量の鉛を肩に担いでいるかのようだ。筋肉は衰え、動きが鈍くなっているのがわかる。
 お気に入りの水色ワンピースを取り出し、手に取る。
「今日は大切な日なんだから、気合い入れないとね……」
 そう自分に言い聞かせ、ワンピースに袖を通してジャケットを羽織る。鏡の前に立ち、艶を失った髪を撫でつけて整えた。洗面台に顔を近づけ、冷たい水でぱしゃりと洗う。その瞬間、冷水が瞼を引き締め、感覚が一気に研ぎ澄まされる。現実がまざまざと目の前に迫り、今この瞬間を強く意識させた。鏡越しに自分を見つめると、瞳がいつもより深く赤く輝いている。まるで何かを確かめるように、その目をじっと見つめ続ける。
 どんな犠牲を払ってでも、私が救うんだ……絶対に。
 口に出して言わなくても、心の中でそう強く念じる。その瞳には、今まで何度も失敗し続けてきた時間の痕跡が刻まれていた。
 着替えを済ませ、ナースステーションへ向かった。外出届を提出し、看護師に簡単に説明する。
 「今日は少し外出してきます。あまり遠くには行かないので、大丈夫です」と微笑んで言う。看護師は少し心配そうな顔をしたが、何も言わずに受け取ってくれた。心配させたくないけれど、これも必要な手順だ。
 病院を出た瞬間、凍てつく冬の空気が肺を突き刺すように流れ込んできた。寒さで体が縮こまるのを感じながらも、歩みを止めることなく前へ進み、電車に乗るために最寄りの駅を目指した。
 
 電車内はいつも通りだ。乗客たちが座席に座り、静かに揺れる。流れるように過ぎていくの外の景色を見つめながら、自分の心の中にある不安を押し込めようとする。退院前日にこんな無理をしても大丈夫だろうか。
 短い距離を歩いただけなのに、いつの間にか肩で息をしていた。足元がふらつくほどではないが、身体が重く、疲労感がじわりと全身に広がっていくのを感じた。
 「……やっぱり、入院生活のせいかな」
 そうつぶやきながら、自分の手を見つめた。かすかに震えていた。

 西鉄春日原駅で電車を降り、改札を抜けると、そこにはいつもの街並みが広がっていた。その街並みを一瞥し、心を落ち着けながら、涼くんと蓮太郎くんが待っている場所へと足を進める。この道を何度歩いたことだろう。そして、何度同じ場所に向かったことだろう。これからもそれが同じものであるために、私は守らなければならい。周囲に何か危害なるようなモノ、人がいないかを無意識に経過していた。

 午前十一時を少し回った頃、私達はいつもの大型商業施設のミスタードーナツに集まった。休日の午前中とはいえ、店内は思ったよりも混雑している。壁際の席に座り、店内のざわめきを背景に、いつものように注文を済ませた。私はいつものカフェオレ、涼くんはオールドファッション、蓮太郎くんはポン・デ・リングを頼んだ。普通の、何の変哲もない日常の風景だ。けれど、心の奥底にある拭いきれない不安のせいで、気持ちは重く沈み続けていた。
 体調は、思った以上に悪かった。体力がまだ回復していないことはわかっていたけれど、それ以上に、この緊張感が全身に影響を及ぼしているのかもしれない。汗がじっとりと背中に染みてくるのを感じながら、視線を下に落とした。
「桜井さん、やっぱり顔色が悪いよ。本当に大丈夫?」
 涼くんが、心配そうにこちらを見ている。
「ええ……少し疲れてるのかもしれない。でも大丈夫だから」
 そう言って笑ってみせたが、声に力が入らなかった。
「本当に無理しなくてよかぞ、桜井。もししんどいんやったら、今日はここで終わってもいいしさ、病院まで送るか?」
 蓮太郎くんも、その大きな手で私の肩を優しく叩くが、私は小さく首を振った。二人とも、心配してくれているのがよくわかる。でも、今日はこの時間がどうしても必要なんだ。
「ありがとう。心配してくれて。でも、今日はちゃんと話しておきたいことがあるの。だから、少しだけ付き合ってくれないかな?」
 その言葉に、二人も重い表情を浮かべたが、黙ってうなずいてくれた。
「二人とも、驚かないで聞いて欲しいの……」
 私が今置かれている状況を、告白する事にした。それは死へと着実に向かう彼の運命を理解してもらう為には必要な事だった。これまでずっと避けてきた話題だ。でも、協力してもらうためにも今こそ打ち明けなければならないと思った。
「実は……私、何度も過去に戻っているの」
 彼らは明らかに困惑していた。少しの沈黙の後、涼くんが眉をひそめる。
「過去に戻る?」
「ええ、信じられないと思うけど……私は涼くんが死ぬたびに、過去に戻って、何とかその運命を変えようとしてきたわ。でも、何度やっても同じ結果になってしまうの」
 言葉が詰まりそうになるのをこらえながら続けた。
「ちょっと!ちょっと待てって桜井。そんな話、現実じゃありえんやろ?SFの世界じゃあるまいしさ……」
 蓮太郎くんが笑いながら言ったが、その声には微かに不安が混じっていた。
「仮にそうだとしても、涼が死ぬなんて……信じられん」
「そうだよ、桜井さん。そんなこと……本当なの?」
 涼くんも困惑している。深く息を吸い込んで、静かに彼らの目を交互に見つめる。
「本当のことなの。私は何度も繰り返してきた。そして、涼くんがどうしても死んでしまう運命に収束していくの。だから、今回は特に気をつけて欲しいと思って、今こうやって告白したの」
 これまでの事を全て話した。何度も時間遡行をしたこと。前回はアナフィラキシーショックで亡くなったこと。アニムトゥムの事。そしてこれが最後の時間遡行の旅である事。
「この世界では、君は明日、交通事故で命を落とす事になってる。でも私が今こうやって君たちに会って話した事で、またどこかで運命が捻れてしまうの。だから今この瞬間、君の死因は変わってしまったわ」
 顔の前で組んだ手に力が入る。
「助かる可能性は限りなくゼロに近い。それでも何とかして阻止したい。その為にはあなた達の協力が必要不可欠なの」
 私の言葉は店内のざわめきの中で消えていくように感じた。
 二人とも、しばらく沈黙していた。
「……桜井さんがそう言うなら」涼くんが重い口を開いた。
「僕は、信じるよ」そう言って、こちらを真っ直ぐに見つめた。
「どんなことでも気をつけるよ。絶対に。約束する」
 彼の言葉に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
「全て信じてるわけじゃないが……でも、わかった。俺もやれることは全部やるわ」
 さっきまでテーブルの上を何度か指で叩いていていた蓮太郎くんも同じように頷いた。
「ありがとう」
 二人に向かって感謝の気持ちを伝えたが、その背後にはまだ不安が残っていることを自覚していた。涼くんが無事でいる事はこれからの彼らの行動にかかっている。さらに一歩踏み込んだ話をすることにした。
「もう一つお願いがあるの、涼くん。今日と明日だけじゃなくて、ここ数日間は特に気をつけてほしい。できるだけ、一人で行動しないで。特に夜道や交差点、後は食べるものにも注意してほしいの」
「わかったよ。何か危険があるなら、ちゃんと注意するよ」
 涼くんは真剣な表情でそう言った。彼がここまで真剣に受け止めてくれるのは、少し意外だった。けれど、その言葉に救われる気持ちもあった。
「蓮太郎くん。明日まで入院しなくちゃいけないから、それまで私は涼くんに関われない。だから今日は涼くんを家まで送ってくれないかな?そしてその後もできるだけ一緒にいてほしいの。周囲に何か危険なものがないか、変な人がいないか。家に戻るまでは周囲を警戒して欲しいの。そして涼くんに少しでも異変が出たら直ぐに救急車を呼んで。退院次第、私も合流するわ」
 蓮太郎くんは、頭を掻きながら頷いた。
「わかったよ。涼をちゃんと家まで送るし、数日間はなるべく一緒に過ごすようにするわ。涼のこと、ちゃんと守るけん」
 蓮太郎くんはそう言って、私を安心させるように微笑んだ。彼のその言葉に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとう。二人とも、本当にありがとう」
 深く息を吐き、テーブルに手を置いた。疲れもピークだ。その時、涼くんがポケットからスマホを取り出して画面を観た。
「桜井さんの体調もかなり気になるし、僕も身の安全を確保しときたいから、今日はここで解散しようか」
 涼くんのその言葉に、私達は頷き、ミスタードーナツを後にした。今日、そして明日、何も起こらないことを祈りながら。

 大型商業施設の入口で彼らを見送った。自転車を押して歩いていく涼くんと蓮太郎くんが駅の方面へ歩いていく。いつも通りの姿が、なんとなく心を落ち着かせてくれる。だけど、心の奥底には何かが引っかかっていた。何度も繰り返した記憶。
 顔を横にブンブンと振る。いや、今回は……今回こそは絶対にうまくいく。
 「電車はきついから、タクシーに乗ろうかな……」
 体力が限界に近づいていることを感じて、病院までタクシーを使うことにした。無理をすれば、また体調を崩しかねない。これからの事もある。今日は安全策を取るのが賢明だとわかっていた。
 丁度目の前の通りを一台のタクシーが横切ろうとしていたので、手を挙げてタクシーを止めた。運転手が後部座席のドアを開け、私を乗せようとしている。座席に腰を下ろそうとしたその瞬間、遠くから響く声が私を外に引き戻した。
「おい!涼!」
 蓮太郎くんの叫び声だった。背筋が凍りつくような、あまりに突発的で、恐ろしい声。声がした方向を見ると、全身が硬直した。涼くんが自転車を倒して地面にうずくまっていた。蓮太郎くんが涼くんの肩を揺すり、何かを叫んでいるが、言葉は遠く、内容は理解できない。
「また……?そんな……」
 息を飲んだ。急に体が重くなり、足が動かなくなった。けれど、次の瞬間には走り出していた。
 涼くんが苦しんでいる。助けに行かなければ。もう絶対に死なせない!
「涼くん!」
 声を出しながら、彼の元へ走る。だがその距離がやたら遠く感じる。すぐに息が切れ、足がもつれてその場に転んでしまった。這いつくばる先の涼くんの姿が小さくなったり大きくなったりして、現実感が薄れていく。
 最後の力で立ち上がり駆け寄ると、彼は苦しそうに顔を歪め、両手で自分の胸を鷲掴みにしている。顔は真っ青で、呼吸は荒く次の瞬間には息が止まってしまいそうだった。私は何をするべきか、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
「涼くん、大丈夫?しっかりして!ゆっくり息をして!」
 涼くんの肩を掴んだ。彼の体は重く、力が入らない。蓮太郎くんはスマートフォンを握りしめ、救急車を呼んでいた。焦りを隠せない声が、スマートフォンの向こう側へと響き渡っていくのが耳に残った。
 涼くんの目は遠くを見つめ、焦点が合っていないのがわかった。彼の手を掴んだが、その手は冷たく、震えていた。
「……お願い、しっかりして!こんなのって……」
 何度も喚いたが、彼の呼吸は乱れ、声が出せない。
 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。「救急車、もうすぐ来るぞ!」
 蓮太郎くんの言葉は、何の安心感も与えなかった。起こってほしくない現実が一歩ずつ近づいてくる。
 どうしてこんなことが起こるの?どうしていつもこうなるの?今度こそは過去を変えられると思った。涼くんを守るために、何度もやり直した。それでも、運命は変えられないの?涼くんを守るために、何度も何度も過去を遡ったのに。
 涼くんの目が閉じられた瞬間、自分の中にある無力感の塊に押しつぶされた。どうしても救えない命。それが彼の運命だという無情な現実が、私の心を容赦なく粉々に打ち砕き、ひび割れた破片が静かに胸の中へと崩れ落ちていく。
「どうして……ねえ!どうして!お願いだから……もうこれが!最後なの!お願いだから!」
 私は誰に懇願しているのだろう。涼くんの心臓に?蓮太郎くんでもない、周囲の人でもない、アニムトゥムや他の神様でもない。ただその魂の底から上がってくる叫びだけが冷たい風に流されていった。
 体は少しずつ冷たくなり、私の腕の中で小さくなっていくように感じた。力が完全に抜けた涼くんの肩に顔をうずめ、名前を呼び続ける。
 彼はもう呼吸をしていなかった。
 それを見た蓮太郎くんは、涼くんと私を引き離し、心臓マッサージを始めた。その様子を、地べたにへたり込んだまま、ただ茫然と見つめるしかなかった。身体が鉛のように重く、動くこともできず、視線だけがその場に縫いとめられていた。
 胸を何度も押し下げるたび、「ふっ、ふっ」と蓮太郎君の短い息遣いがかすかに聞こえ、その音が私の耳を掠めていく。
「頼む、頼むよ神さん……」涼くんの胸に圧をかける両手に雫がひとつ、またひとつと落ちた。
「涼が、お前になにかしたかよ!頼むって!信じるけん!助けてくれよこいつを!頼むよ!」心臓マッサージをしながら空にむかって叫んだ。
 
 サイレンの音は次第に大きくなり、救急車が現実のものとなって近づいてくる。しかし、その音はまるで私を遠ざけるかのようだった。もう間に合わない。そんな予感が胸に響く。
 救急車が止まり、救急隊員が駆け寄ってきた。涼くんはすぐに担架に乗せられ、酸素マスクをつけられた。蓮太郎くんが救急隊員に状況を説明している。ただ、その光景を呆然と見つめる。
「桜井!お前は病院に戻れ。俺は涼に付き添う」
 蓮太郎くんが叫んだ。その言葉に、反論することもできなかった。彼の真剣な表情を見て、自分の無力さを痛感した。
「……うん、わかった」
 小さく頷き、救急車が去っていくのを見送った。サイレンの音が次第に遠ざかり、あたりは静かになった。
 二台の自転車と私だけが、そこに残されていた。結局、あれだけの事があったのに涙ひとつ溢れる事はなかった。
 私は、失敗したのだ。
 通夜に向かう途中、道は思った以上に静かだった。澄んだ空気が冷たく肌にまとわりつき、吐く息は白く、周囲の風景はどこかぼんやり遠く感じられ、現実感がどこか欠けている。風は止み、夜空には星がなく、曇った空が私達を静かに見下ろした。歩くたびに、やけに靴の音が響く。
「桜井、ほんとに体調は大丈夫や?」
 蓮太郎くんが小さな声で尋ねる。顔は疲れ切っていて、いつもの彼とは違う。目の下にはくっきりとしたクマがあり、髪も乱れている。昨日からまともに眠れていないのは明らかだ。彼の心配を少しでも和らげようと微笑みを返そうとしたが、口元はうまく動かない。
「うん、なんとかね。でも、蓮太郎くんこそ眠れてないみたいだね。顔に疲れが出てるわ」
「……まぁな。涼のことが頭から離れんくてな……」
 蓮太郎くんの声はいつになく低かった。普段の陽気な彼とはまるで別人みたいで、その変わりように胸が痛む。けれど、それは私も同じ。涼くんがもういないという事実。受け入れるなんて、到底無理だ。
「私もそう……目を閉じても涼くんとの思い出が頭の中を駆け回るの。何度も目が覚めちゃう。でも……それでも通夜に行かないわけにはいかないよね」
「ああ……そうやな」
 蓮太郎くんはそれ以上言葉を続けず、しばらく沈黙が続く。通夜に向かう道がこんなに長く感じられるとは。
 通夜の会場に着くと、そこは静寂に包まれていた。小さなボリュームのクラシックとやわらかなお線香の香りが館内に流れる。親族や友人たちが集まり、低く囁き合う声が微かに耳に届いた。多くの人々が彼の死を悼んでいる。涼くんの死に対して何も言えないまま、ただその現実を受け止めようとしている。
 私達は、順番に焼香の列に並んだ。会場の奥には、涼くんの遺影が飾られている。
 遺影はいつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべている。その笑顔が、今後二度と私達に向けられることはない。写真越しに見るその顔は、どこか温かく、まだ生きているかのような錯覚を覚えるけれど、現実はあまりにも冷たい。
 涼くん…また助けられなかった。
 過去に戻った。それでも、結果は変わらなかった。何度繰り返しても、死を避けることはできなかった。すべてが無駄足に終わった。
 蓮太郎くんもまた、何も言わずに遺影を見つめていた。彼の顔には深い悲しみが刻まれている。その沈黙は、かえって胸に深く突き刺さる。
 焼香を終えた私達は、廊下に設けられたソファーに腰を下ろした。手には来客用にふるまわれた老舗和菓子屋さんの小さな饅頭があったが、それをただ見つめ続ける。空気は重く、まるで時間が止まってしまったかのようだ。沈黙が流れ、何も言葉が出てこない。
「桜井、無理してないか?」
 蓮太郎くんが口を開く。彼の声は、どこか不安げだった。私が体調を崩していることを気にかけているのだろう。彼の視線が私に向けられているのを感じるが、その視線に応えられなかった。
「ううん、体を押してでも来てよかったと思ってる。蓮太郎くんも、私も、涼くんと最後まで一緒にいたんだから、やっぱり、ね……」
 声がかすれていた。自分でも驚くほど弱々しい声。蓮太郎くんは饅頭の封を開け、かじりついた。彼の肩が小さく震えているのが見えた。
「俺さ、涼が……涼が死ぬなんて、今でも信じられねぇんだよ。どうしてあいつが……なんで助けられなかったんだって、ずっと考えとる」
 蓮太郎くんは拳を握りしめたまま、天井を見上げる。涼くんの死を自分のことのように苦しんでいる。それが痛いほど伝わる。
「病院に着いた時には、もう……」彼の目には涙が滲んでいた。
「お医者さんは手を尽くしたって言ってたんだけどさ、救急車に乗った時にはもう手遅れだったんだろうな……」
「そう……だったんだね」
 私にはわかっていた。何度過去に戻っても、何度やり直しても、結果は変わらなかった。私達にできることは、そもそも何もなかった。それが現実。
 蓮太郎くんが再び口を開いた。
「俺さ、どうしたら良かったんだろうな……。涼を助けられなかったって思うと、どうにもやりきれなくてさ……」
「私も同じだよ。気持ちがどうしてもあの時に戻ってしまうの」彼の背中をさすりながら続けた。
「でも、蓮太郎くん……もうこれ以上、自分を責めないであげて」
 私の声も震えていた。言葉にするたび、無力感が押し寄せてくる。
 蓮太郎くんの肩が再び震え、彼は俯いたまま拳を握りしめる。
「うう……」 
 蓮太郎くんは目を閉じ、再び言葉を失った。涼くんの死が私達に何をもたらすのか、今はまだ答えが出ない。
「涼くんは、どう思っていたんだろうね」
 その言葉が自然と口をついて出た。蓮太郎くんはゆっくりと目を開き、まっすぐと床を見つめていた。
「さぁな……けど、あいつはお前の事をずっと気にかけとった……病気がよくなったと聞いた時、それはもう嬉しそうに跳ね上がってたぜ」
 蓮太郎くんの声は弱々しくも、そこには確かな思いが込められていた。
 「その気持ちを持ったまま死んだとすれば、あいつ少しは幸せだったんかもな。そう信じたいし、そうであってくれないと俺の心が壊れちまいそうだ」
 
 通夜を終えた後、足取りを重くしながら建物の外に出た。何もかもが遠い過去の出来事のように感じたが、現実はまったく逃げられないほど近く、重たい。蓮太郎くんは少し後ろをついてきて、何も言わずに私の横に並んだ。ふと背後から誰かが私達を呼ぶ声が聞こえた。
「桜井さん、中村君」
 その声に振り返ると、そこには涼くんのお母さんが立っていた。彼女の表情は静かだったが、その瞳には計り知れない深い悲しみが宿っている。
「……少しお時間いいですか?」私は「はい」と小さく頷く。
「今日は……来てくれてありがとう」お母さんはそう言って、軽く頭を下げる。
 どう返事をすればいいのかわからず、ただ「いえ……」と俯きながら小さく応えた。蓮太郎くんもまた小さく頭をさげる。
「実はね、涼が亡くなった原因だけど、お医者さんから急性心筋梗塞だったって聞かされたの……いちばん傍にいてくれたあなた達には伝えておかなくちゃと思って」
 その言葉に胸が締めつけられる。どうしても抗えない力が働いていたということが、今さらながらに突きつけられる。
「涼は、元々心臓が悪かったんすか?」
「ううん……小さいころから病気をする子じゃなかったし、心臓が悪いなんて診断、今まで受けた事なかったわ。だから、あの子がこんなにも早く逝ってしまうなんて……とても……」お母さんは震える声で続けた。
 涼くんの死は、避けられない結末のように、運命が手を引いていた。それを何度も時間遡行で変えようとしたが、結局はその収束には逆らえなかったのだ。今度は「急性心筋梗塞」という形で。
「ああいう性格だから、友達もなかなか出来なかったの。あなたたちがいてくれたことが、あの子にとって大きな支えだったと思います。本当に、ありがとうね。それと、涼の部屋に絵が残っていたの。これ、観てくれないかしら」
 そう言いながら、お母さんは手に持っていた大きなエコバックから一枚のキャンバスを取り出した。
「これを一生懸命描いていたの……あの子の形見としてこれ、受け取ってくれないかな?」
 彼女の言葉に、何も返すことができなかった。震える手でそのキャンバスを受け取る。それは、彼がずっと取り組んでいた清水円山展望台の風景画だった。平野に広がる草木や空に浮かぶ雲、すべてが細部まで丁寧に描かれている。
「いいんですか?お母さんにとって、とても大切なものじゃ……」
「いいのよ。私よりあなた達が持っていてくれた方が、きっとあの子も喜ぶわ」
 彼が最後に残した作品。魂の一部がそこに宿っているようだ。
「ありがとうございます……大事にします」
 蓮太郎くんは、黙ったままキャンバスを見つめていた。

 帰り道、キャンバスの入ったエコバックを肩にかけて歩いていた。冷たい風が頬に触れるたび、現実がどんどん迫ってくるのを感じる。それでも彼の絵が残されていることが、私達にとって、ほんの僅かではであるけど唯一の救いだ。
「なあ、桜井。三人で描いた絵を並べて飾ってみないか?お前も描き終えたんだろ?」
 不意に口を開いた彼の声には、どこか前向きな響きを感じる。悲しみに打ちひしがれている今でも、彼は何かを残そうとしている。
「そうだね……涼くんもそれを楽しみにしてると思うわ」
「明日部室に集合な。今日は疲れたろうから、早めに休めよ」
 遺作を私達の絵と並べて飾ることができれば、少しでも彼の存在を感じられるかもしれない。私達が描いた風景と、彼が描いた風景が、また一つの世界としてつながる。そんな気がした。
 
 自室にこもり、立てかけた風景画を見つめた。草花の描写が細かく、空には小さな雲が漂っている。私が撮ったあの写真と見まごう程、完成された絵だった。彼がどれだけこの絵に心を込めて描いたのか、その筆致から伝わってくる。
 ベッドの上に横たわり、ラッコのぬいぐるみを抱きしめた。涼くんはもういない、それが現実だ。これから彼が死んだという事実を受け入れていかなければならない。ならないのだけど。
 もう、終わったんだ。全てが。
 手から力が抜け、ぬいぐるみがベッドから落ちた。まぶたが重くなり、目の前がだんだんと暗くなる。眠りに落ちる前、もう一度だけ絵を見つめた。彼がそこにいるかのような静かな絵だった。
 朝は静かで、空気が凍りつくように張り詰めていた。静まり返る廊下に二つの足音が鳴る。運動部の掛け声だけが遠くからかすかに響いてくる。普段は賑やかなこの場所も、今はひっそりと静まり返っていた。
 部室の扉を開けると、そこには絵を描くための道具が無造作に置かれ、空っぽのキャンバスが寂しげに佇んでいた。
「この一年、色々ありすぎて、すごく長く感じたな」と、机に散乱したアクリルガッシュの絵の具を一つ拾い上げ、蓮太郎くんが呟く。その声にはどこか哀愁が漂っていた。言葉の奥に秘められた感情が、まるで遠い記憶を引きずるかのように響く。
「そうだね……長い一年だった気がする」窓の外を眺めながら、手持ちぶさたの手を後ろに組む。
 私達は一緒に過ごした日々を振り返りながら、黙って思い出の中に沈んでいった。この一年が遠い過去のように感じられる。
「放課後、ミスドに行ってよく話したよね」蓮太郎が急に笑みを浮かべた。
「スパイシーチリマヨ・チョコクランチって、あの変なドーナツ、覚えとる?」
「もちろん。涼くんが最初に見つけて教えてくれたんだよね」
 何もかもがただ平穏で、穏やかで、そして楽しかった。当時の何気ない日々の一瞬が、いつの間にか心の中で宝物のように輝きだしていることに気づく。
「校外学習で写真をたくさん撮ったよな」
「うん、水族館にも行ったよね。大水槽が凄い綺麗だったわ」
「どれもさ、あいつがおったな」蓮太郎くんの声が少し沈む。
 二人の思い出には、常に彼の姿があった。何をしていても、どこにいても、そこにあった彼の存在。絵を描く時間も、放課後の会話も、全てが彼との共有された時間。そして、その時間は今、永遠に過去のものになってしまった。
 
 二、三言葉を交わした後、部室にイーゼルを立てた。蓮太郎くんの絵を左に、私の絵を右に。そして、涼くんが描いた「清水円山展望台の風景画」を真ん中に立てかける。
 その瞬間、絵の裏から茶封筒がひらりと落ちた。
「何だろう、これ……」封筒を拾い上げる。
「さあ……?」蓮太郎くんもそれを見て驚いた顔をした。
 封筒を開けると、中からは折り畳まれた一枚のルーズリーフの紙が出てきた。それは涼くんが私達二人に宛てた手紙だった。
「桜井さんと蓮太郎へ」
 手紙というよりは、台本に近い。彼は口下手だから、きっと私達の前でこれを読もうとしたのだろう。
 その冒頭部分をじっと見つめ、言葉が詰まった。目を当てることができず、そのまま蓮太郎くんへ封筒ごと渡す。
 彼は一読した後「……そっか、そうやったんやな」と呟いた。
「俺が読もうか?」
 私は小さく頷いた。それは、ほんのわずかな身振りだが、精一杯の返事を込めたつもりだった。
 蓮太郎くんは、一呼吸おいて、そのルーズリーフに書いてあった涼くんの台詞を読み上げ始める。
 
 桜井さんと蓮太郎へ。
 二人に伝えておきたいことがあります。まず、僕がこうして絵を描く事を続けられたのは、二人のおかげです。美術部に入った後、自分が井の中の蛙だった事に気づき、すごく落ち込みました。でも君達の絵に触れ、君達と一緒に過ごすうち、絵を描く楽しさが僕の中に広がったんだ。二人は僕にとって、特別な存在です。
 蓮太郎、最初、僕は君の事が苦手だった。どこか威圧的で、僕の性格とは合わないと思ってた。でも、それは僕の勘違いだった。本当にごめん。君はどんな人にも分け隔てなく接して、楽しく、明るく過ごそうとしてるだけなんだと気付いた時、僕は急に恥ずかしくなった。何より君に嫌な思いをさせていたのではと考えた時、すごく後悔したんだ。最初から変な色眼鏡かけていなければ、君と早くから仲良く話せていただろうし、君ももっと楽しい時間が過ごせたんじゃないかと思う。ごめんなさい。君は、バカをやっても一緒に笑ってくれる本当にいいやつだ。時には助けてくれて、時には叱ってくれて、本当に感謝しています。これからも僕の友達として、いや、こういうとちょっと恥ずかしいけど親友として付き合ってくれたら嬉しいな。

「そんな、当たり前やろ……バカたれが……」瞬きをしない彼のまっすぐな目には涙が溜まり、やがて頬に涙の線が幾重にも重なっていった。少しの沈黙の後、彼は続きを読み始めた。
 
 桜井さん、君はいつも明るくて、僕がどんなに塞ぎこんでいる時でも、その笑顔で元気づけてくれた。僕と蓮太郎と口喧嘩した時も、すっと間に入ってくれたよね。イタズラ好きだけど、僕達を包み込んでくれる君の存在は、さんさんと照らしてくれる太陽みたいだ。そんな君が僕は好きです。でも君が病気と知った時、すごく不安になったんだ。ほの暗い世界を毎日歩いていた。君が死ぬんじゃないかと考える度に、いっそ代わりに僕が死にたいくらいだった。君を勇気づけなくてはと思うようにはしてたんだけど、逆に君からずっと励まされてばっかりだったね。ごめんよ、君が一番辛いはずなのにね。僕に出来る事はこの絵を描き上げる事だと思った。描き上げれば君はきっと喜んでくれるって。アニムトゥムの話を聞いた時、僕は信じたよ。だからきっと良いメッセージを運んでくれるに違いないって思いながらこの絵を描いた。君の苦しみや辛さを僕に背負わせてくれとお願いしたんだけど、その必要はなかったみたいだね。退院の知らせを聞いた時、僕はアニムトゥムに感謝したよ。願いが届いたんだって。退院おめでとう、桜井さん。
 この三人で描いた風景画、並べて観たら絶対素晴らしいものになると思う。それをこれから観れると思うとすごく楽しみです。ありがとう、蓮太郎、桜井さん。こんな僕の友達でいてくれて。これからもよろしくお願いします。

 蓮太郎くんが読み終わると、部室の中には静寂が戻った。
 涼くんの言葉を胸に刻み込んでいく。静かに手紙を閉じ、蓮太郎くんはしばらく無言でその場に立ち尽くしていた。
 涼くんの残した拙い言葉は、私達にとってあまりにも大きく、そして温かい贈り物だった。彼がここにいない今でも、その存在は確かにここにある。
 喉の奥が詰まり、体中の筋肉に力が入らない。呼吸さえもままならないほどに。
「蓮太郎くん……」
 ひとつ、ふたつ、ほろほろと涙が頬を伝い、小さく震えながら、消え入りそうな声で呟く。
 交通事故で命を落とした事を知った時も、心臓を掴み苦しみながら亡くなった時も、一粒たりとも流すまいと必死にこらえていたはずなのに。
「私ね、もう……だめかもしれない……」
 蓮太郎くんは頷く。そしてそれ以上、何も言わなかった。
 
 意思に反して体が動き出す。両手で目を覆い、ぐっと力を込めて押しつけた。
 「ううう……」声にならない呻きが鼻から漏れ出し、次の瞬間、全身の力が一気に抜け、膝が床へと崩れ落ちる。そして、慟哭が喉を突いて溢れ出した。
「ああああああああ!ああああああああああああ!ああああああああああああ!」
 ダンゴムシのように小さく丸まった体が、額を床に押し付け、駄々をこねる子どものように感情を全身でぶつけていた。理性は「泣くな」と叫んでいたが、体にその声は届かず、今まで閉じ込めていたすべてが、せきを切ったかのように、一斉に噴き出していく。
 彼を失ったことがどうしようもなく悲しく、彼を救えなかった自分に腹正しく、彼を慕っていたのに伝えられなかった事が自分が口惜しく、彼のいない人生を歩まなければいけない現実が耐えがたい。
 感情という波が押し寄せるダムは、今、この瞬間に決壊した。

 膝を地に突き、部室の床に手をついたはずなのに、何故か白い砂を掴んでいた。その白い砂を強く握りしめる。彼を救えなかったことへの無力感が、今でも心に重くのしかかる。指の隙間からこぼれ落ちる砂の感触とともに、風の音が虚しく響き、髪とワンピースの裾が小刻みに揺れた。
 時間はとうに意味を失い、ただ空虚な沈黙だけが支配している。その中で、肺に詰まっていた息を細く漏らすように吐き出し、少しずつ心の重みを手放した。
 ゆっくりと体を起こし、辺りを見渡す。白い砂丘と青い空、どこまでも続く不思議な風景。現実とは思えない場所。再び「アニムトゥムの世界」に戻ってきた。

 緑陰に包まれた木の下、アニムトゥムが陽射しの中で眩しそうに目を細めながら、こちらへ向けて手を振っている。その仕草に応えるように、足元の砂を感じ取りつつ、ゆっくりと彼女の方へと歩を進めた。
「由衣……」
 彼女の瞳は、いつもと変わらず澄んでいて、でもその奥には悲しみが宿っている。
「また会えたね……といっても今度は数日ぶりか」
 彼女に微笑みかけた。彼女も静かに微笑んでいる。
 テーブルの上にはクッキーの皿が置かれていた。ばらついていた配置が少しなおしながら、それをこちらに向けて差し出す。
「今回はクッキーを焼いてみたの。味見したんだけど、これまたバッチリに仕上がってるわ!」
「……ありがとう」と言い、クッキーに手を伸ばす。
 そのクッキーをじっと見つめた。半分がチョコレートがコーティングされており、ビターな香りがした。
「その顔を見る限り、ダメだったみたいね」と、アニムトゥムが静かに口を開く。
 彼女をじっと見つめた。その言葉が現実を突きつける。同じ失敗を繰り返したのだ。
「アニムトゥム、確認だけど、本当に……これで本当に最後なの?」
 声が自然に漏れる。思い出すと心が締めつけられる。もう次はないとわかっていることなのに、藁にすがる思いで訊ねた訊ねる。
「ええ、これが最後。もう、力は残っていないの。ごめんなさい……もう由衣の力になれそうに無い」
 アニムトゥムは淡々と話しながらも、どこか申し訳なさそうだ。しかしその姿に、胸の中で少しだけ怒りが湧いた。
「それなら……私はこれからどうすればいいの?どうやって生きていけばいいの!ねえ?」
 怒りを向ける方向が間違ってる。それは分かっているはずなのに。でも何もかも無駄だったとしたら、私はこれから何を信じればいいの?
「……涼の死を受け入れて、前に進んでいくしかないわ」
「そんなの……できるわけない!無理よ!無理に決まってる!」顔を大きく左右に振る。
 私の声は震えていた。目の前のアニムトゥムに問いかけるように言葉を続ける。
「由衣、大丈夫よ。それはきっと時間が解決してくれるの。今はつらいけれど、いつか……」「時間が解決しても!」アニムトゥムの言葉を遮った。
 「時間が解決しても今の私は……もう、ボロボロで、何も考えられないんだよ。涼くんは死んでしまったし、私はすぐにでも壊れそうなの」
 その言葉に、アニムトゥムは少し目を細めてから応えた。
「そうね、今のあなたには、とっても難しいことかもしれない。でも、それでも、少しずつでもいいから進んでいくしかないの」
 その言葉が現実を締めつける。進むしかない?そんな簡単にできるわけがないじゃない。目の前で彼が命を落として、何もできなかった私がどうやって前に進めと?
 
 長い沈黙が私達の間に流れる。
「ごめんなさいアニムトゥム。本当にごめんなさい。わたし、言い過ぎてしまったわ」
「ううん……いいのよ。気にしないで」彼女は私の前に来て、頭をさすってくれた。
「私は全然気にしてないわ。大丈夫よ」
 風が吹き抜け、砂が少しだけ舞い上がる。ただその静寂と彼女の優しさを受け止めていた。
 アニムトゥムがゆっくりと顔を上げ、こちらを見つめる。
「由衣。この旅を最後に、あなたはここに来ることはもうないと思うわ」彼女は椅子に座り直した。
「……もう二度と?どういうこと?もうアニムトゥムには会えないってこと?」
「そうなるわね、だから今、あなたに伝えなければならないことがあるの。あなたがここに戻ってくる度に言わなければいけないとは思ってた」
 アニムトゥムの声は静かだったが、いつもとは違う重みを感じる。
 疑問を抱きながらも、アニムトゥムの次の言葉を待った。
「最初にこの砂丘の世界に来たのは、実はあなたではないの」
「……え?」その言葉が耳に入った瞬間、戸惑った。最初にここへ来たのは私ではない?じゃあ、誰が……?
「あなたがよく知っていて、そして最近亡くなった人」
 最近、亡くなった……まさか!
「そう、涼なの」
 混乱の中に落ちた。涼くんがこの世界に来た事がある。しかも私より前に。なぜ?
「涼は、あなたを救うためにこの世界に来て、そして時間を遡行していたの」
「私を……救うために?」
 アニムトゥムはゆっくりと頷いた。彼女の言葉はあまりに現実味がなく、その意味を受け入れることができなかった。
「元々は涼ではなく、運命の収束に巻き込まれていたのはあなたなの、由衣。あなたは死ぬ運命だったの」一呼吸おいてアニムトゥムは続けた。
「涼は、あなたの死を回避するために、何度も時間遡行を繰り返していたのよ。その回数はあなたの旅の比じゃないわ。何百、何千回とね。一度でも旅をすれば、精神はそれに耐えられないだろうに。彼の行動は常軌を逸していると言ってもよかった」
「そんな……涼くんが……」
「その中には、勿論あなたが『レアリエス肺症候群』で死ぬという未来もあった」
 涼くんが何度も時間を遡っていた。私のために。その事実に、言葉を失った。
「それじゃ、あなたが力が使えなくなったのって……」
「そう、涼が繰り返し時間遡行を行った結果、私の力の使用回数もほぼ限界に達したの。あなたと初めて会った頃にはせいぜい残り10回が限度だった」
 静寂が包む。両手を組み、俯きながら訪ねた。
「彼はどうしてそんなに……アニムトゥムもそんなになるまでどうして彼に付き合ったの?」
「あなたと一緒よ。彼は、どうしてもあなたを救いたかったのね。それが彼の唯一の願いだった。私は……そうね、なんでかしら。きっと彼の想いに呼応しちゃったのかも。彼が諦めるその時まで、私も付き合おうと思ったの。でも涼は最後まで諦めなかったわ」
 アニムトゥムは、少しだけ微笑んで話を続けた。
「予想以上に、運命の収束の力は強力だったわ。どれだけ時間を遡っても、結局運命は変わらなかった。でも、あの子は最後の旅でトリガーを見つけたの」
 アニムトゥムの言葉に釘付けになった。
「あの子は収束を逃れる方法を見つけたの。そして、あなたを救った。由衣、あなたは涼のおかげで死を免れたのよ」その言葉が、現実感を伴わず胸に響いた。
「でも……涼くんが……」
「そう。それが問題だった。あなたを救った瞬間に世界の線が捻れてしまったの。代償と言ってもいいわ。今度は涼に死ぬ運命が訪れたの。その事は彼も知らないままだったでしょうね」
「涼くんは、どうやって私を救ったの?何を変えたの?それさえ知っていれば、彼を救えたかもしれないのに!」
 彼女はテーブルに肘をつき、額を添えた。
「それは、私にもわからないわ。彼が何を見つけ、どうやって収束の呪縛を解き放ったのかは、私達には知る由もない。でも確かに、彼はあなたを救った。そしてその結果、世界の線が変わり運命の捻れが生じた。願いを叶えたあの子は、全ての旅の記憶を消してほしいとお願いしてきた。そりゃそうよね、辛すぎる記憶だもの。そしてこの世界に訪れることは、二度となかった」
 感情の整理がつかなかった。涼くんが私のために、そんなにも重い犠牲を払っていたなんて。彼が私のために旅を繰り返した結果、私が生き残り、今度は彼が死ぬ運命になった。
「涼くんが……私を助けて、その代わりに彼が……」
「じゃあ……」両手をぎゅっと握りしめた。「どうして、涼くんを救う旅に私を出したの?」
 アニムトゥムを見つめながら問いかけた。「もしこんなことになるなら、私が死ぬ運命なんて放っておけばよかったのに!こんなに辛い思いをするなら、私が最初から死んでればよかった!」
 言葉が口をついて出た瞬間、胸の中に重い痛みが広がった。それでも、心の奥底に潜んでいた感情が、抑えられなくなっていた。
「そんな悲しいこと、言わないで……」アニムトゥムの声は柔らかく、しかし芯のある響きを帯びていた。
「由衣、忘れないで。今のあなたの命には彼の魂と想いがこもっているの。それをないがしろにすることは、彼の存在と行動を否定することになるわ」
 アニムトゥムの言葉に、息を詰まらせた。涼くんが私に命を与えたのだという事実が、再び心の中で重くのしかかる。彼の命が私の中にある……そのとおりだと思った。
「でも……私はどうすればいいの?」絞る声で問いかける。「これからどう生きればいいのか、わからない」
 アニムトゥムは、暫く瞳を閉じた。そして、ゆっくりと開け、私を見つめながら語り始めた。
「私はずっと考えていたの。どうして私にこんな力が宿っていたのか。最初は辛い運命を変えるための力だと思っていた。でも、少し違うことに気づいたの。それはね、由衣。この力は人の運命を変えるためではなく、悲しみを乗り越えるためなんじゃないかと思うの」
 その言葉は私の中にしんとした静寂をもたらした。
 死の悲しみを乗り越えるため……命を救う為ではなく、自分自身の悲しみと向き合うため。
「人には不平等が平等に与えられているけれど、もう一つ平等に与えられているもの、それが死よ。そして、身の回りの人が亡くなった時、誰もがそれを乗り越えなければならないの」
 アニムトゥムの言葉が心に響く。死は避けられない現実だということ。それはみんなに与えられている平等なものだということ。涼くんも、そして私も。解ってはいた、でも心では理解していなかった。
「涼も由衣もそれを乗り越えることができなかった。だからここに来たのよ。納得できる死。理にかなった死。静かに見送ることのできる死。結果は一緒でも原因の違いや視点を変える事で見えてくるものもあると思うの。どういう結末であっても、それを受け入れる為の旅だと私は思うわ」
 アニムトゥムの言葉は、受け入れたくない真実だ。それでも、その意味は理解できるような気がした。涼くんも私も、相手の死を認めたくはなかった。抗いたかった。避けられるものならそうしようとした。それを繰り返し、どこかでつく踏ん切りこそが人の死を乗り越える為の最初の一歩なのだろう。
「でも、涼は死を回避するという運命も想定外のイレギュラーを引き当ててしまった。彼はあなたを救い、その結果、世界が変わってしまった。何度旅をしても由衣の死を乗り越えられなかったあの子が悪いわけじゃない。責める事もできない。どういう結果であれ、由衣を救えた事実は、あの子にとって救いになったんじゃないかしら。そう想わないと涼にとっても由依にとっても辛すぎるわ。そして由衣、時間遡行の力が使えない今、あなたはこれから先の人生を納得いくまで生き続ける。どんなに時間がかかっても必ず乗り越える。その結果こそが唯一あなたの心を救う手立てだと、私は思ってるわ」
 アニムトゥムの言葉を聞きながら、自分の中で少しだけ何かが変わっていくのを感じていた。涼くんが私を救ったという事実は、重く、痛みを伴う。それでも、その事実と同時に、心の中に小さな温かい火が灯るような感覚があった。
 涼くんが、私のために……
 その言葉は、私の中で何度も繰り返される。嬉しいようで悲しいような言葉にできない感情。
「これはあなたに対する恋心でもなく、愛情ともまた違う。そのもっと先にある名づけようのない感情、と言うべきかもしれない」と、アニムトゥムは静かに微笑んだ。
 私は彼女を見つめた。その言葉は心に深く刻まれるものだった。彼の信念と願いと行動が、私の命を救い、彼の想いそのものを救ったのだ。
 
「……ありがとう、アニムトゥム。私に教えてくれて。涼くんを救おうとしてくれたのね」
 「涼は本当に強い魂だったわ。彼の選択を尊重してあげて。未来はこの砂丘のように真っ白だから、あなた自身もきっと乗り越えられるわ」彼女は穏やかな微笑みを浮かべて手を差し出してきた。
 私はその手を取って立ち上がり、最後の質問を口にした。
「でもアニムトゥム。これが最後だなんて言わないで。またここに遊びに来てもいいかしら?」
 アニムトゥムは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに優しくそして無邪気な笑顔を浮かべた。
「もちろんよ。いつでもいらっしゃい!紅茶とクッキーをたくさん用意して、待っているわ」
 視界を覆い尽くす光の波が通り過ぎると、やがて何も見えない暗闇が静かに訪れた。
 
 どれくらいの時間、こうして泣き続けていたのだろう。時間の感覚も、場所の感覚も失っていた。気づけば美術室の机でうつ伏せになっていた。
 胸の中に溜め込んでいたすべての感情。吹き出していった後の心は、空気が抜けた風船のように何も残っていなかった。
 ふと、突然カーテンがふわりと揺れた。そして部室の窓から心地よい風が吹き込んできて、私の髪を優しく撫でていった。よく見るとその風には何かしらの色が載っているように見えた。注視すると、それは草原を思わせる青々とした緑色だった。風が肌に触れ、心をすり抜けるたびに、感情が吹き出した後の無数の傷に染み渡り、徐々にその痛みが和らいでいくのを感じた。
「涼くん……?」ぼんやりと、誰に言うでもなく呟いた。
 風に乗ってきた一枚の枯葉が、ふわりと中を舞い、まるで何かに導かれるように涼くんの絵の前に滑るように落ちた。蓮太郎くんと私は、同時にその光景を追いかけた。
 そして、不思議なことが起こった。涼くんの鉛筆画に、まるで透明なレイヤーが一枚ずつ重ねられていくかのように、色が徐々に載り始めた。草木の緑は淡くも鮮烈に広がり、空の青は透き通るような澄んだ色彩で描かれていく。その変化を前に、思わず目を見張ってしまった。

「色が、見えるわ……」

 絵の中の色は、次第にパステル調に変わり、絵本のような温かみを帯びていった。その中に、私の水彩画のような柔らかい色が混ざり合い、さらにその上から蓮太郎くんの極彩色が鮮やかに重なっていった。色と色が踊り出すようにして、キャンバスの上を自在に滑っていく。
 涼くんが、この世界に生き続けているような、そんな錯覚さえ感じるほどだった。
 同じものが見えているであろう蓮太郎くんがぽつりと呟いた。
「涼……これなんやな、お前が言っとったのは」 
 
 その色の踊りはしばらく続いた。そして徐々に消えていき、気づいた時には静かで穏やかな鉛筆画へと戻っていた。
 現実へと戻ってきた後も、しばらく呆然としていた。心は空っぽだった。内に渦巻いていた粘り気のある感情のすべてを、あの風がさらっていってしまったかのように思えた。
 空いた穴が彼との思い出で一つ、また一つと埋められる。その度にさらさらと湧き水のような感情が、心の中に静かに生まれ出てくるのを感じた。
 冬の十勝平野は、雪が果てしなく広がる広大な白の海原だった。少しだけ開けた窓に手をかざしてみると、開けると冷たさが皮膚にしみわたる。風は冷たいが、重くはない。空気は澄み切っていた。青空には、遠くに薄雲が漂い、その下に低く広がる山並みが見えている。雪の匂いと乾燥した風が、頬を撫でながらすり抜けていった。

 私は運転席の横に座り、フロントガラス越しにその風景を見つめていた。母はハンドルを握り、静かに車を走らせている。振り返ると絵里がチャイルドシートにちょこんと収まっている。厚手の防寒具に包まれ、まるで小さなパンダのように愛らしい姿だ。

「そろそろ着くわよ、由衣」母が穏やかに言った。
「うん、分かった」そう頷いた時、目の前に広がる清水円山展望台の入り口が見えてきた。

 車を路肩に停めると、エンジン音が静かに消えた。
「お疲れ様、お母さん」
 下車して、後部座席のドアを開けた。チャイルドシートのシートベルトを外し、小さな彼女をそっと抱きかかえると、絵里は少し眠そうに目を細めた。
「お母さんはどうする?」
 母は深く息を吐き、ハンドルに手を置いたまま、疲れた表情で見上げた。
「私は車の中で少し休んでるわ。あなたたちだけでいってらっしゃい」
「わかった。おばあちゃんは少しお休み。じゃあ絵里、二人で行こうね」絵里に話しかけ、彼女をしっかりと抱きしめた。寒さでお餅のような頬が桃色になり、その柔らかい温もりを胸に感じた。

 坂を登る途中、ふと懐かしい記憶が蘇ってきた。高校生の頃、三人でここの絵を描いた事を思い出す。
「寒いね、絵里」自分の手に暖かい息を吐き、彼女の頬を優しく撫でた。絵里は少し眠そうな顔をしていたが、私の声を聞いてかすかに「あぅ……んまま……」と返事をした。
 
 やがて誰もいない展望台に着いた。目の前には、私達を包み込むような一面の雪景色が広がっていた。
「すごい……」
 私、蓮太郎くん、そして涼くん。あの時描いた風景画がそのまま、今こうして眼前に広がっている。その白さと比例するように空気は冷たく、張り詰めた静けさが漂っている。
 
 「寒いね、絵里。大丈夫?」もう一度彼女に声をかけた。彼女の小さく、餅のような頬は赤く染まっていて、指でさすると、ひんやりしていた。
 「ごめんね……そろそろ行こうか」

 その瞬間、ふわりと風が吹き抜けた。冬の風なのに、どこか温もりを帯びているようで、そのまま身を風に委ねるように、そっと目を閉じた。風が髪を優しく揺らし、まるで誰かがそっと肩に手を添えたかのような、柔らかな感触が広がった。
「……涼くん?」
 その瞬間、まるで彼とすれ違ったような感覚に襲われた。彼の姿は見えなかったけれど、その存在を強く感じた。何も言わずに、ただ通り過ぎていったような、そんな感覚。
 やがて静かになり、目をゆっくり開けた。遠くに見える山並みの向こうには、まだ青空が広がっていた。その風景を眺めながら、心の中でそっと囁いた。
「久しぶりね……」誰にも届かないその言葉は、風に乗ってどこかに消えていった。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

エラーが発生しました。

この作品をシェア