秋が深まり、空気がキンと張り詰める。病院へ向かう道すがら、落ち葉がひらひらと舞う歩道を、ゆっくりと歩いていた。風に踊る葉が足元に積もり、靴底で踏みしめるたびに、乾いた音を奏でている。
桜井さんの面会が可能になったという知らせを受け取ったとき、ようやく会えるのだという安堵感が、心の奥底から湧き上がり、静かに心を満たしていった。
病院へ向かうのはこれが何度目だろうか。エントランスは人の出入りが頻繁に繰り返され、車椅子を押す人、外来で来た人たちが入り交じっている。エレベーターに乗り、数階のボタンを押す。扉が閉まると、緊張感が体に戻ってきた。エレベーターが静かに動き出し、心臓の鼓動が少しずつ早くなるのを感じる。目的の階に着くと、廊下を歩きながら病室の番号を確認し、深呼吸をしてドアをノックした。
「どうぞー!」
彼女の声が、薄いドア越しに聞こえた。ドアを開けると、ベッドに座る桜井さんが窓の外を眺めていた。振り返る彼女の顔には少し疲れの影が残っていたが、それでも以前よりは顔色がいい。
「来てくれたんだね!涼くん」
「うん。顔色良くなってきたね、ちょっと安心したよ」
手に持っていたドーナツとカフェオレの袋を差し出した。「これ、いつものミスドのやつだけど、食べられるかなと思って持ってきた」
「わあ、ありがとう!」
何度も繰り返してきたはずのやり取りなのに、久しぶりだと逆に新鮮さを感じてしまうのは不思議なものだ。
「いただきます」と言ってドーナツの袋を嬉しそうに開け、中から取り出したフレンチクルーラーを手にして頬張る。窓から差し込む秋の日差しが、淡い光の中に季節の移り変わりを感じさせ、静かにその存在を主張していた。
ドーナツを食べながら、僕達はしばらくぶりの会話を始めた。何気ないやり取りが、どこか懐かしく感じられた。桜井さんはカフェオレを一口飲みながら、袋の中に新商品のフライヤーが入っていることに気づいた。
少し笑いながら「ああ、そうだ。『スパイシーチリマヨ・チョコクランチ』が、ついにレギュラー商品になるってさ。びっくりだろ?」
桜井さんは目を丸くして驚いたような表情を浮かべた。「え、本当に?それ、前に話してたやつでしょ?あんな変なドーナツが本当にレギュラー化なの!」
「僕も最初は嘘だと思ったけど、本当に陳列棚の目立つところに置かれててさ」
「もう、信じられない!涼くん……もしかして買ったの?」
カバンの中からもう一袋取り出した。
「……まさか」と彼女は眉毛を八の字にした。
「一個だけ買ってみたんだ。試しに一緒に食べてみようよ」
袋からは、赤色と白色のチョコレートでコーティングされた、一見おめでたいようなカラフルなドーナツが出てきた。
彼女は笑いながら、手に持ったフレンチクルーラーを皿の上に戻した。
「うわぁ……ねぇ、涼君も後で絶対食べてよね」スパイシーチリマヨ・チョコクランチを受け取り、くんくんと匂いを嗅いだ。
「罰ゲームの香りがするんだけど、本当に大丈夫これ?」
「心配しないで、僕も後を追うから」
「絶対だからね。うう、じゃあ、いただきます!」
一口かじった彼女は、ゆっくりと目を閉じ、しばらくその味を確かめるように静かに味わっていた。瞼の奥で、彼女の目が左右に動いているのがわかる。
「……どう?どんな味?」
「えっとね……甘いね。うーん、スパイスの辛さもチリの酸味も特に感じな…………あ!いや待って!辛い!」
彼女は飛び跳ねた後、カフェオレを一口飲んだ。
「やっぱり凄い味なんだね」悶絶する彼女からドーナツを受け取る。
「でも、意外と嫌いじゃないかも。ささ、涼くんも食べてみてよ」
「では……お言葉に甘えまして……」
一口かじってみた。確かに、甘味と辛味と酸味が口の中に広がり、それぞれが三つ巴の喧嘩をしているようでなんとも言えない味わいだった。
アリ寄りのナシなのか、ナシ寄りのアリなのか。いや、そういう事すらどうでもよくなるくらい口の中が混沌としてきた。一つだけ確かなのは、マヨネーズは余計という事だ。
「本当に不思議な味だね。これはこれでアリかもしれないと最終的に思えてしまうのが謎だね」
「でしょ?いやあミスド、侮れないなあ」
桜井さんは声を出して笑い、「じゃ、あとはお願い」と言いながら、皿に置かれたフレンチクルーラーへ改めて手を伸ばした。これの残り、僕が全部食べるのか。
桜井さんはドーナツを食べ終えると、少しだけ真剣な表情になった。
「涼くん、聞いて欲しいんだけど……実はさ、最近新しい薬を始めたの」
そういえば桜井さんのお母さんと会った時にそんな事を言ってたな。
「そうなんだ。病気の原因は分かったの?」
「ううん、原因まだ分かってはないけど、でもその新しい薬でレアリエス肺症候群の症状が少しずつ落ち着いてきてるの。咳も前よりは少なくなったし、呼吸も楽になってきた気がするよ。まだ油断はできないけどね」
「よかった、本当に。少しでも良くなってるなら安心したよ。顔色がよくなってると思ったのはそのおかげなんだね」
「お医者さんも慎重に診てくれてるけど、まだまだ長期戦になるって言われた。完治には遠いけど、こうして調子が良くなってるのを肌で感じると、気持ちも楽になるよ」
桜井さんは少し微笑んで、外の景色を眺めた。病院の中で過ごす日々はきっと退屈で、自由に動けないもどかしさがあるだろう。それでも、彼女は自分のペースで、少しずつ病気と向き合いながら過ごしている。
「油断はできないけど、こうして日々を過ごせること自体がありがたいと思ってるんだ」
彼女の言葉に、静かに頷いた。
「そうだ。私もね、清水円山展望台の風景画、描いてたんだ」
桜井さんのその声には確信と少しの誇りが含まれていた。彼女は病院で過ごし治療で苦しんでいる時でも、絵と向き合っていたことに驚く。
「本当に?どんな風に描いてるの?ちょっと見せてよ」
彼女がどんな視点で、どんな色を使って、どんな風景を描いているのか、想像が膨らむ。彼女の目に映る清水円山展望台は、僕が見ているものとはまったく違うのだろう。色彩や形、風景の奥にある何かが、彼女の独特な感性で捉えられているに違いない。
「ふふーん、まだ見せられないよ。退院してからのお楽しみ」
まぁ、それもそうか。
彼女は長い髪を人差し指でくるくると巻いていた。
「涼くんも蓮太郎くんも、それぞれ違う調子で描いてるだろうし、それがどんな風に見えるのか、私も楽しみなんだ」
「蓮太郎の絵も楽しみだな。いつも迫力があって感情が込められてるから」
そう言うと、桜井さんは微笑んで頷く。
「そうだね。蓮太郎くんの描く絵って、何かこう……私たちとは違うアプローチだけど、感情の波みたいなものを感じるよね」
その言葉に、同意した。蓮太郎の絵は確かに感情の奔流が込められている。僕達が描く静かな風景とは対照的でありながら、どこか共鳴するものがある気がした。
「三つの絵が並んだら、きっとすごいものになるよね」
「そうだね。退院したら、また三人でその絵を見比べよう」
桜井さんの目は遠くを見つめるように、未来を描いていた。その未来を信じたいと思った。
少しの間、雑談をしていた。どこかで聞いた新しい音楽や、SNSでバズっている犬の話。普通の会話がどれだけ心地よいものか、久しぶりに実感していた。
でもふと、先日の夢の話を思い出してしまった。それを言葉にしようかどうか迷ったが、結局、思い切って口に出した。
「面会できなかった間、君が……死んじゃう夢を見たんだ」組んだ手に力が入った。
「え、夢で?私が?」
桜井さんは驚いたように僕を見たが、すぐに小さく笑った。
「そっか、涼くんの夢の中で、私は死んじゃったんだ」
曖昧に頷き、夢の内容を簡単に説明した。桜井さんが病気で亡くなり、その現実をどう受け止めようとしたのか。その夢の感触があまりにも生々しかったため、胸の中にはまだその影が残っていた。
「でも気にしちゃだめよ、それは夢だから。前に約束したじゃない、私は死なないよ……」
桜井さんは優しい口調でそう言って、僕の肩に手を振れた。不安に思っているのを察したのか、彼女は肩をすくめて笑顔を作る。
「ほら、現実の世界では新しい薬も効いてるし、病状も落ち着いてきてる。きっと退院も近いんだよ。だからそんなに悲しい顔をしないで」
彼女の言葉に少し安心した。夢の感触が完全に消えることはなかったが、それも時間が解決してくれると思えた。
「でも、人って平等にいつかは死ぬのよ。もちろん、私はこの病気では死んだりしないけど、それでも私たち誰しもいつかはその時が来る。突然ってこともあるし……私が見送る立場だとしたら、とても耐えられないだろうな。皆にそういう思いをさせてたと思うと、なんだか申し訳ないわ」
その言葉は、彼女が淡々と受け止めていることを物語っていた。彼女は自分の病気や人生を、もう一歩引いた視点、いやどこか第三者のように捉えているようだった。時折見せる彼女の達観した雰囲気に少しの疑問と少しの怖さを感じていた。
桜井さんの面会が可能になったという知らせを受け取ったとき、ようやく会えるのだという安堵感が、心の奥底から湧き上がり、静かに心を満たしていった。
病院へ向かうのはこれが何度目だろうか。エントランスは人の出入りが頻繁に繰り返され、車椅子を押す人、外来で来た人たちが入り交じっている。エレベーターに乗り、数階のボタンを押す。扉が閉まると、緊張感が体に戻ってきた。エレベーターが静かに動き出し、心臓の鼓動が少しずつ早くなるのを感じる。目的の階に着くと、廊下を歩きながら病室の番号を確認し、深呼吸をしてドアをノックした。
「どうぞー!」
彼女の声が、薄いドア越しに聞こえた。ドアを開けると、ベッドに座る桜井さんが窓の外を眺めていた。振り返る彼女の顔には少し疲れの影が残っていたが、それでも以前よりは顔色がいい。
「来てくれたんだね!涼くん」
「うん。顔色良くなってきたね、ちょっと安心したよ」
手に持っていたドーナツとカフェオレの袋を差し出した。「これ、いつものミスドのやつだけど、食べられるかなと思って持ってきた」
「わあ、ありがとう!」
何度も繰り返してきたはずのやり取りなのに、久しぶりだと逆に新鮮さを感じてしまうのは不思議なものだ。
「いただきます」と言ってドーナツの袋を嬉しそうに開け、中から取り出したフレンチクルーラーを手にして頬張る。窓から差し込む秋の日差しが、淡い光の中に季節の移り変わりを感じさせ、静かにその存在を主張していた。
ドーナツを食べながら、僕達はしばらくぶりの会話を始めた。何気ないやり取りが、どこか懐かしく感じられた。桜井さんはカフェオレを一口飲みながら、袋の中に新商品のフライヤーが入っていることに気づいた。
少し笑いながら「ああ、そうだ。『スパイシーチリマヨ・チョコクランチ』が、ついにレギュラー商品になるってさ。びっくりだろ?」
桜井さんは目を丸くして驚いたような表情を浮かべた。「え、本当に?それ、前に話してたやつでしょ?あんな変なドーナツが本当にレギュラー化なの!」
「僕も最初は嘘だと思ったけど、本当に陳列棚の目立つところに置かれててさ」
「もう、信じられない!涼くん……もしかして買ったの?」
カバンの中からもう一袋取り出した。
「……まさか」と彼女は眉毛を八の字にした。
「一個だけ買ってみたんだ。試しに一緒に食べてみようよ」
袋からは、赤色と白色のチョコレートでコーティングされた、一見おめでたいようなカラフルなドーナツが出てきた。
彼女は笑いながら、手に持ったフレンチクルーラーを皿の上に戻した。
「うわぁ……ねぇ、涼君も後で絶対食べてよね」スパイシーチリマヨ・チョコクランチを受け取り、くんくんと匂いを嗅いだ。
「罰ゲームの香りがするんだけど、本当に大丈夫これ?」
「心配しないで、僕も後を追うから」
「絶対だからね。うう、じゃあ、いただきます!」
一口かじった彼女は、ゆっくりと目を閉じ、しばらくその味を確かめるように静かに味わっていた。瞼の奥で、彼女の目が左右に動いているのがわかる。
「……どう?どんな味?」
「えっとね……甘いね。うーん、スパイスの辛さもチリの酸味も特に感じな…………あ!いや待って!辛い!」
彼女は飛び跳ねた後、カフェオレを一口飲んだ。
「やっぱり凄い味なんだね」悶絶する彼女からドーナツを受け取る。
「でも、意外と嫌いじゃないかも。ささ、涼くんも食べてみてよ」
「では……お言葉に甘えまして……」
一口かじってみた。確かに、甘味と辛味と酸味が口の中に広がり、それぞれが三つ巴の喧嘩をしているようでなんとも言えない味わいだった。
アリ寄りのナシなのか、ナシ寄りのアリなのか。いや、そういう事すらどうでもよくなるくらい口の中が混沌としてきた。一つだけ確かなのは、マヨネーズは余計という事だ。
「本当に不思議な味だね。これはこれでアリかもしれないと最終的に思えてしまうのが謎だね」
「でしょ?いやあミスド、侮れないなあ」
桜井さんは声を出して笑い、「じゃ、あとはお願い」と言いながら、皿に置かれたフレンチクルーラーへ改めて手を伸ばした。これの残り、僕が全部食べるのか。
桜井さんはドーナツを食べ終えると、少しだけ真剣な表情になった。
「涼くん、聞いて欲しいんだけど……実はさ、最近新しい薬を始めたの」
そういえば桜井さんのお母さんと会った時にそんな事を言ってたな。
「そうなんだ。病気の原因は分かったの?」
「ううん、原因まだ分かってはないけど、でもその新しい薬でレアリエス肺症候群の症状が少しずつ落ち着いてきてるの。咳も前よりは少なくなったし、呼吸も楽になってきた気がするよ。まだ油断はできないけどね」
「よかった、本当に。少しでも良くなってるなら安心したよ。顔色がよくなってると思ったのはそのおかげなんだね」
「お医者さんも慎重に診てくれてるけど、まだまだ長期戦になるって言われた。完治には遠いけど、こうして調子が良くなってるのを肌で感じると、気持ちも楽になるよ」
桜井さんは少し微笑んで、外の景色を眺めた。病院の中で過ごす日々はきっと退屈で、自由に動けないもどかしさがあるだろう。それでも、彼女は自分のペースで、少しずつ病気と向き合いながら過ごしている。
「油断はできないけど、こうして日々を過ごせること自体がありがたいと思ってるんだ」
彼女の言葉に、静かに頷いた。
「そうだ。私もね、清水円山展望台の風景画、描いてたんだ」
桜井さんのその声には確信と少しの誇りが含まれていた。彼女は病院で過ごし治療で苦しんでいる時でも、絵と向き合っていたことに驚く。
「本当に?どんな風に描いてるの?ちょっと見せてよ」
彼女がどんな視点で、どんな色を使って、どんな風景を描いているのか、想像が膨らむ。彼女の目に映る清水円山展望台は、僕が見ているものとはまったく違うのだろう。色彩や形、風景の奥にある何かが、彼女の独特な感性で捉えられているに違いない。
「ふふーん、まだ見せられないよ。退院してからのお楽しみ」
まぁ、それもそうか。
彼女は長い髪を人差し指でくるくると巻いていた。
「涼くんも蓮太郎くんも、それぞれ違う調子で描いてるだろうし、それがどんな風に見えるのか、私も楽しみなんだ」
「蓮太郎の絵も楽しみだな。いつも迫力があって感情が込められてるから」
そう言うと、桜井さんは微笑んで頷く。
「そうだね。蓮太郎くんの描く絵って、何かこう……私たちとは違うアプローチだけど、感情の波みたいなものを感じるよね」
その言葉に、同意した。蓮太郎の絵は確かに感情の奔流が込められている。僕達が描く静かな風景とは対照的でありながら、どこか共鳴するものがある気がした。
「三つの絵が並んだら、きっとすごいものになるよね」
「そうだね。退院したら、また三人でその絵を見比べよう」
桜井さんの目は遠くを見つめるように、未来を描いていた。その未来を信じたいと思った。
少しの間、雑談をしていた。どこかで聞いた新しい音楽や、SNSでバズっている犬の話。普通の会話がどれだけ心地よいものか、久しぶりに実感していた。
でもふと、先日の夢の話を思い出してしまった。それを言葉にしようかどうか迷ったが、結局、思い切って口に出した。
「面会できなかった間、君が……死んじゃう夢を見たんだ」組んだ手に力が入った。
「え、夢で?私が?」
桜井さんは驚いたように僕を見たが、すぐに小さく笑った。
「そっか、涼くんの夢の中で、私は死んじゃったんだ」
曖昧に頷き、夢の内容を簡単に説明した。桜井さんが病気で亡くなり、その現実をどう受け止めようとしたのか。その夢の感触があまりにも生々しかったため、胸の中にはまだその影が残っていた。
「でも気にしちゃだめよ、それは夢だから。前に約束したじゃない、私は死なないよ……」
桜井さんは優しい口調でそう言って、僕の肩に手を振れた。不安に思っているのを察したのか、彼女は肩をすくめて笑顔を作る。
「ほら、現実の世界では新しい薬も効いてるし、病状も落ち着いてきてる。きっと退院も近いんだよ。だからそんなに悲しい顔をしないで」
彼女の言葉に少し安心した。夢の感触が完全に消えることはなかったが、それも時間が解決してくれると思えた。
「でも、人って平等にいつかは死ぬのよ。もちろん、私はこの病気では死んだりしないけど、それでも私たち誰しもいつかはその時が来る。突然ってこともあるし……私が見送る立場だとしたら、とても耐えられないだろうな。皆にそういう思いをさせてたと思うと、なんだか申し訳ないわ」
その言葉は、彼女が淡々と受け止めていることを物語っていた。彼女は自分の病気や人生を、もう一歩引いた視点、いやどこか第三者のように捉えているようだった。時折見せる彼女の達観した雰囲気に少しの疑問と少しの怖さを感じていた。