桜井さんが入院して以来、学校での時間はどこか空虚で、意味を失ったようだ。いつも賑やかだった昼休みも、彼女の声がないだけでどこかぼんやりとした印象になり、景色全体が淡く色褪せたように見える。教室の窓から見える景色も、何だか味気ない。何もかもが単調で、フラットで、ゴシックなものに感じられた。
「おいおい、お前はいつまでそんな感じでおるんか?」
蓮太郎がいつもの焼きそばパンの袋をあけながら声をかけてきた。普段通りのその姿は頼もしくもあり、少し羨ましくもあった。
「そうかな?別にそんなつもりはないけど……」
「嘘が下手やな。桜井が入院してから、ずっと気にしとるのが顔に出とるって。そげん心配なら見舞いに行ってこりゃいいやん」
蓮太郎は、僕の顔をじっと見ながら、軽く笑う。からかうのが好きな蓮太郎だけど、今は本気で心配してくれてるようだ。
「まあ……うん、そうかもしれないけど、桜井さんには迷惑かけたくないし……」
「お前が来てくれたら絶対に喜ぶんやけん。遠慮せんで行ってやりや、ほんとに面倒臭いヤツやな」
「わかったよ」
蓮太郎の言葉に、少し迷ったが彼の言う通りだと思った。「じゃ」と立ち去る彼のその手に焼きそばパンは残っていなかった。
彼女に会いに行けば、少しは気持ちが晴れるかもしれない。重い腰を上げ、桜井さんに会いに行く決心をする。
数日後、蓮太郎の言葉に後押しされて、桜井さんが入院している病院を訪れた。新しく建てられた病院は、ガラス張りのエントランスが広がり、明るい陽射しが差し込んでいる。エレベーターに乗り、桜井さんの病室へ向かった。どうやら少し緊張しているようだ。個室のドアをノックすると、すぐに彼女の明るい声が返ってきた。
「どうぞー」
扉を開けると、ベッドに座っている桜井さんが、満面の笑みで迎えてくれた。
「わー!涼くん、来てくれたんだね!元気?」
「うん、元気だよ。桜井さんも元気そうだね……」
「ふふーん、まあね。こうして来てくれるともっと元気になるよ。ありがとうね」
手に持ったドーナツの袋をテーブルの上に置く。
「これ、ミスドのドーナツ。食べれそう?」そのまま、病室に設けられた丸椅子に座った。
「もちろんよ!嬉しい!流石涼くん、私の好みわかってますなぁ」
彼女は「いただきます」と言って袋を開け、中からドーナツを取り出して嬉しそうに頬張った。その様子を見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。
桜井さんとドーナツを食べながら、最近の日常の話をした。僕にとっては何気ない学校の話でも、少しでも彼女を元気づけられるならと、思いつく限りのエピソードを並べた。
「そういえばさ、この前蓮太郎がまた宿題忘れてさ、また『うちの犬が食っちまった』とか言ってたんだ。先生、真顔で『もう何度目だ?』って呆れてたよ」
「また?蓮太郎くん、懲りないね。せめて別の言い訳考えたらいいのに。で、先生信じてくれたの?」
「信じるわけないよ。でも蓮太郎は懲りもせず『いやマジっちゃけん!』って言い張ってた。結局、課題は補習でやらされてたけど。いよいよ蓮太郎自身が宿題を食べてると言う説が出てきたくらいだよ」
「ぷくくく!おもしろすぎる!そうかぁ、とうとう蓮太郎くんはヤギさんになったのね」
その時の光景を思い浮かべながら、手で口を押さえて笑った。桜井さんも楽しそうに聞いてくれて、僕達は少しの間、その話で盛り上がった。
ドーナツを一口かじった時、お店の陳列棚に見慣れないドーナツがあった事を思い出した。
「それにさ、最近ミスドで期間限定のドーナツが出たんだよ。『スパイシーチリマヨ・チョコクランチ』って名前で、なんか想像つかない味だけど、見た目だけは美味しそうだったんだよね」
「ねぇ涼くん……」彼女は訝しげな顔でこちらを見ている。
「それ、絶対嘘ついてるでしょ!」犯人をみつけた探偵かのように僕を指差している。
「いやいや、本当にあったんだって!最初はこんなの誰も買わないだろって思ってたんだけど、レジに並んでいたお客さんが買ってたんだよ、それも何組も……」
「本当かなぁ……ふふふ、でも面白いね。そっか、じゃあ今度外出したら、食べ……るわけないじゃない!そんな奇天烈ドーナツ」
桜井さんは目を細め、次のドーナツに手を伸ばした。本当にその奇天烈ドーナツがあった事を彼女が信じてくれたどうかはわからないが、まぁいっかと手に持った缶コーヒーを一口含む。
病室には穏やかな空気が流れていた。カーテン越しに差し込む午後の光が、静かな病室を優しく包み込み、夏の終わりの柔らかい風が吹いていた。外の世界は変わらずの日常が流れているけど、この部屋だけは時間が少しだけゆっくりと流れている。
「変な味のドーナツで思い出したんだけど、病院食って本当に美味しくないんだよ」と桜井さんが言った。
「そうだろうけど、患者の身体に合わせて作られてるんだから、健康にはいいでしょ?ちゃんと食べないと……」
「それは、そうなんだけど。全部薄味で、なんだか水っぽくて。毎日同じようなメニューで、飽きちゃうんだよね。だから、こっそり売店でカップラーメンを買って食堂で食べてるの。これくらいの楽しみはいいかなって」
「ばれたら怒られるんじゃない?」と呆れて尋ねる。
「たぶんね。でも、見つからなければ大丈夫。小さな反抗というか、自由を勝ち取るためには何よりも勇気と行動が必要なのよ」握りこぶしをつくる彼女。
桜井さんはドーナツをかじりながら楽しそうに話す。カップラーメンの話をするたびに、手のひらでそっと笑みを隠すような仕草をしていた。まるで秘密を共有しているようで、その場にいるのが少しだけ特別な気分になった。
「あと個室とはいえ、病院内を移動するのは結構自由なんだよ。暇なときは外に散歩に行ってるんだ」
「外?病院の中じゃなくて?」
「うん、病院の敷地内なら大丈夫だって言われたから。朝一番に外の空気を吸うだけで、その日一日の気分が変わるよ」
「いい事だよ、退院した後の事も考えて体力つけておかないとだね。あ、この病院幽霊が出るって噂聞いたんだけど、あれ本当なのかな……」
「そうそう、お風呂場で白い服の髪の長い女性が手招きしてたってやつね。まあ、幽霊も話し相手がいなくて暇なのよ。私が相手してやってもいいんだけど、生憎私、そういう類のものは信じないタイプだからね」
袋に入っているドーナツが全てなくなり、砂糖で覆われた指をウェットティッシュで拭きながら彼女は尋ねた。
「そうだ涼くん……あの風景画、どうなってる?」
彼女の目線が僕に注がれると、肩には突然プレッシャーという名の重りがのしかかってきた。
「スケッチブックにはラフを描いてるんだけど、どうも思ったようにいかないんだ。何度描き直しても、しっくりこない」頭を掻きながら、もどかしい気持ちを持て余すように視線を落とす。
「そっか。いいよ気にしなくて。大丈夫……涼くんにはちゃんと見えてるから。焦らずに進めてみて」
彼女の言葉に頷いた。しかし、いざスケッチブックを開いてみると、手が止まってしまう。何度も描き直しては消し、また描き直しての繰り返し。キャンバスはいつまでも白いままで、その白さがむしろ僕の中にある迷いを映し出しているようだった。
自室に戻ると、スケッチブックを広げて、鉛筆を走らせた。けれども、筆が進むたびに何かが足りないと感じてしまう。桜井さんが見ているであろう景色と、僕が見ている景色が重ならない。それがもどかしかった。
「もっと、こう……いや、違うか」「パースは、あってるよな……」
独り言のように呟いては、線を消す。桜井さんの言葉が背中を押してくれているはずなのに、それでも手元は重いままだ。イーゼルに立てかけている白いキャンバスはまるで、迷いを吸い込むように広がっていた。
桜井さんと会うたびに、彼女の期待に応えたいと思っていた。清水円山展望台の風景画を描き切る事が、今の僕にできる彼女への唯一の激励だった。
その後も足繁く病院に通った。桜井さんはいつも明るく振る舞っていて、どうやら入院生活の中でもできる限りの楽しみを見つけているようだ。病院のカフェテリアで新しいデザートが出たことや、看護師さんが面白い人だったとか、そんな入院生活の些細な出来事が桜井さんの口からこぼれた。
しかし、少しずつ変化が訪れた。最初はほんのわずかな違いだった。顔色も血の気が引き、少しの移動でも直ぐに肩を揺らすようになった。何より咳の回数が増えたように思える。それは、まるで波のようにじわじわと少しずつ、でも確実に迫ってきている。
ある日病室を訪れたとき、桜井さんは呼吸器をつけてベッドに寝たまま小さく息を吐いていた。彼女の顔は笑顔だったが、目の下にはうっすらとクマができていて、その身体は一回り小さく見える。
「……ちょっと、疲れちゃったかな」
「無理しないで。ゆっくり休んで。今日はもう帰るよ」
「涼くん……ちょっと待って……」彼女が小さな声で呼び止めた。
「お願いがあるの。私の手を少しの間だけでいいから握ってくれないかな……」
少し躊躇したが、彼女の希望に答えることにした。
丸椅子をベッド横に移動させて腰を下ろし、手をそっと握った。細く、小さく、か弱い手。そのわずかに返される握力の小ささに、無力でしかなかった。
時が経つにつれ、桜井さんの体力は少しずつ消耗し、僕達が共有する時間も、いつしか短く、静かなものへと変わっていった。かつて彼女が思い描いていた北海道の風景は、ゆっくりと遠ざかり、まるで手の届かない夢の中へ消えていくように感じられた。
桜井さんの病状が悪化していく中、彼女を見舞うために蓮太郎と一緒に病院を訪れた。廊下に漂う消毒液の匂いが鼻をつき、そのたびに現実の重さを思い知らされる。桜井さんの姿を見るたびに、心がかんなで薄く削られていく感覚に囚われる。
病室のドアをノックすると、「どうぞー」という桜井さんの弱々しい声が聞こえた。僕達が中に入ると、桜井さんはベッドの上で笑顔を作って迎えてくれた。呼吸器が彼女の口元を覆っていて、笑顔すらもどこかぼやけて見える。
「二人とも、来てくれてありがとう」彼女が息を漏らす度に、白くなる呼吸器のマスク。横になっていた彼女は電動のベッドを操作してゆっくりと体を起こした。
蓮太郎がコンビニで買ってきたカフェオレを袋から取り出し、彼女に差し出した。
目を輝かせる彼女を見て「そげん喜ぶようなもんかね」蓮太郎は照れ臭そうに鼻をかいた。
「そりゃ喜ぶよ、こういうちょっとしたことが嬉しいんだよ。病院のご飯、味気ないから」桜井さんはカフェオレを受け取ると、「後でいただくね」とベッドに備え付けられたテーブルに置いた。
「どう?具合は……」そう聞きながら、桜井さんの顔をじっと見つめた。彼女は軽く首を振る。
「うん、まぁ……ぼちぼちかな。今日は少し疲れてるけど、大丈夫だよ。こんな風にしてるけど、みんなが来てくれるのが一番の楽しみだから」桜井さんが言葉を紡ぐたびに、呼吸器から流れてくる空気の音が聞こえる。
「そっか、それならよかった」微笑んではいたが、その言葉は自分でも空々しく感じた。桜井さんの「大丈夫」は、まるで何度も練習したセリフのようで、何もかもが普通じゃないのに、それでも普通であるかのように振る舞っている姿が痛々しく辛かった。
「二人ともあんまり心配しないでね。こんなのすぐに治るから。だから、そんな顔しないでよ。ね?」桜井さんはそう言って、咳き込むのをこらえながら親指を立てた。その姿を見ていると、返す言葉を見つけることができなくて、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
病院の外に出た時、蓮太郎が空を見上げた。「なんか、やりきれんな……」
「本当だね……僕達にできることがあればいいんだけど」小さくつぶやいた。蓮太郎がため息をつきながら肩をすくめる。
「できること、あるんかなぁ。俺、毎日手を合わせとるけど、神様なんておらんのやろうな……って考えてしまう」
「……そうかも」つぶやくように返した。神様に祈って何かが変わるとは到底思えなかった。だけど、それ以外に何ができるのか、まったくわからなかった。
「でもさ、涼。この理不尽を受け入れたらダメだと思わね?抗わないといけないよな……」
「……理不尽に抗う、か」その言葉に逞しさを感じた。
スケッチブックを広げ、風景画のラフを再び描き始めた。けれども、どうしても納得できない。なぜ納得できないかが分からない。桜井さんが見ている風景と僕が見ている風景はまるで違う。彼女の期待に応えたいという気持ちはあるのに、その重圧が手を縛りつけている。
「くそっ……なんで……」意識せず声に出していた。無意識のうちにラフを縦に横にと破り捨てた。紙が破れる音が部屋の中に響き、黒い墨汁のような苛立ちと不安が部屋中に染み渡っていく。
机の上には、破り捨てられたスケッチブックのページが散乱し、鉛筆も何本かが床に転がっていて、その光景がまるで心の中をそのまま映し出しているようだった。絵を描けば、彼女の病気がよく治るとでも?何をしても、どうにもならない。この無力感と焦りだけが膨れ上がっていく。
「……何してんだろうな、僕は」独り言のように口から漏れた言葉が、空虚に響く。桜井さんの為にできることなんて何もないのだ。彼女は毎日病気と戦っているというのに、ただ自分の苛立ちをどうにもできずに物にあたるだけ。情けなく、惨めだ。手を頭にやって、目を閉じた。桜井さんが笑顔で迎えてくれる姿が頭に浮かんでくる。彼女のために何かできることがあるはずだと思っているのに。どうしてこんなにも無力なんだろう。
破れたスケッチブックを片手に立ち上がり、窓の外に視線を投げた。外の景色は静かで、何も変わらずにそこにあるのに、心の中では嵐のような感情が渦巻いている。
床に落ちたスケッチブックと鉛筆を拾い上げながら「理不尽に抗う」という蓮太郎の声を思い出した。そして大きく頭を横にふり、頬を両手で叩き脳を鼓舞した。
そうだ、諦めるわけにはいかない。
翌朝、教室の窓際に座る僕の元にスマートフォンの通知音が響いた。画面を開くと、桜井さんからのメッセージがグループチャットに届いていた。蓮太郎と僕の二人宛てに短いメッセージが表示された。
「ごめんね、しばらく面会できなくなったの。体調が思ったよりも悪くて。少しの間、治療に集中するね」
その文字列を凝視してから、ゆっくりと息を吐いた。蓮太郎も隣で画面を見つめていて、無言のままだった。教室のざわつきが一層響いてくるようで、その雑音が頭の中で反響した。
「……そっか、もうそんな感じか」彼の陽気な声はそこにはなく、重い空気だけが漂っていた。
口を開こうとしたが、何も言えなかった。胸の奥を締め付けられるような感覚が喉まで侵食して、言葉が出てこなかった。思えば、桜井さんの元気そうな姿を見ても、それが一時的なものに過ぎないことを薄々気づいてはいたのだ。
「……あいつを守るカムイさんたちは、ちゃんと仕事しとるんかね」蓮太郎がポツリとつぶやいた。
気持ちとは裏腹に彼女がいない教室に徐々に慣れつつある自分が嫌になった。
その夜、ベッドに横たわりながら、普段の桜井さんの言葉や表情を思い出していた。彼女はいつも明るく振る舞っていたけれど、それがどれほどの忍耐を必要としたのか、想像もできなかった。僕達が不安にならないように、心配させないように、この一年、彼女はずっと気を張っていたのだ。
「……死ぬ病気じゃ、ないんだよね?」あの日、桜井さんの家での会話が頭に浮かんできた。あの時の彼女は、あまりに普通に答えてくれた。「私は死なないわ、絶対に。風の神様になるのはもっと先。」
でも、その言葉が今は遠いものに感じられる。これまでの生活で桜井さんがいなくなるなんて、全く想像もしていなかった。ヒタヒタとそれが現実に詰め寄ってくる。そしてその現実を受け入れなければならない時がくる。
不意に無念の涙が下瞼に溜まった。こんなにも情けなく、すぼらしい自分が嫌だった。昨日、諦めないと決心したはずなのに何もできないまま、ただうずくまることしかできなかった。自分はただの傍観者なのか。悔しさが頬を伝う。
夢を見た。
奇妙な感覚に包まれていた。そこには色とりどりの風景。極彩色になったかと思えば、絵本のようなパステルで描かれた優しい色にもなった。その中で時折現れる桜井さんの姿が薄く滲んで見えた。彼女は何も言わず、ただ微笑んでいる。
何かを伝えたいのに、声が出ない。何とか声を出そうと喉をおさえ、叫んでみたがやはりだめだった。ただ手を伸ばして彼女に触れようとし、彼女も手を伸ばすが、その姿は次第に遠ざかっていった。
場面が変わり、気がつくと自転車を全力で漕いでいた。冷たい風が顔を撫で、耳元をかすめる音が響く。足元から伝わるペダルの感覚が生々しく、夢の中でさえも僕の心臓は早鐘を打っていた。目指す病院が遠くに見えている。
「由衣が……もうすぐ……」
桜井さんのお母さんの声が頭の中にこだまする。電話越しの声は震えていて、何かが大変なことになっていることを伝えていた。現実か夢かわからない感覚の中で、ただペダルを踏み続けていた。頭の中はぐちゃぐちゃで、冷静でいられるはずがなかった。
病院に到着すると、自転車を乱暴に止め、そのまま駆け込んだ。エレベーターのボタンを何度も押し、やっとの思いで彼女の病室にたどり着いたが、その病室から出てきた看護師さんに制止され「ご家族以外の方は待合室でお待ちください」と促された。
ソファーで待っていると、遅れて蓮太郎が到着した。
「桜井は……」
「……まだ、よく分からない」
どれくらいの時間が経っただろうか。「ご友人の方もどうぞ」と看護師さんが病室に通してくれた。
ドアを開けると、そこには桜井さんが静かに横たわっている。
「桜井さん……」
彼女は目を閉じたまま、静かに横たわっていた。その姿は、まるで深い眠りに落ちているかのようで、今にも「おはよう」と柔らかな声で目覚めそうに見えた。
彼女の手に触れ、その冷たさに息を呑む。現実感が一気に押し寄せ、締め付けられるような痛みが胸に走った。
「どうして……」
声を絞り出すように言ったが、返事はない。ただ、静寂だけが病室を包んでいた。
病室を出ると、廊下で蓮太郎が壁にもたれている。彼の顔は硬く、目はどこか虚ろだ。僕達は無言で目を合わせ、そのまま歩き出した。
救急外来の出入り口から出たとき、寒さを含んだ強い風が肌に刺さる。何も言えない時間が続き、やがて蓮太郎が口を開いた。
「なあ涼……、俺たちさ、桜井のために、もっとできたことが……あったちゃなかか」
「わからない……」その言葉にどう答えればいいのか、見当もつかない。僕達に何ができたのか、それとも何もできなかったのか。今となってはどちらが正しいのかさえもわからない。ただ、彼女がいないという世界で、どうしようもなく立ち尽くしているだけだった。
場面は変わり、スケッチブックを手に取り、無我夢中で鉛筆を走らせていた。桜井さんが描こうとしていた風景を何度も、何度も描いた。清水円山展望台の景色がスケッチブックの中に現れては消え、また現れる。そのたびに、桜井さんの声が聞こえる気がした。
「涼くん、焦らなくていいよ。見えてるはずだから」
だけど、その言葉はいつしか風に乗って遠くへ消えていく。手は止まらず、ただ無心で描き続けた。何も考えず、ただ彼女のために描いた。自分が描くことで、彼女がまだここにいるような気がしたからだ。
ふと、アニムトゥムの話を思い出した。あの時、桜井さんは「風の神様になれたらいいな」と笑っていた。彼女の言葉が頭の中を何度も繰り返し、反響している。これまで、その意味を真剣に考えたことはなかった。けれど、今になってその重みがずしりと心に迫ってきて、その意味を噛みしめていた。
「桜井さん、君は……本当に」
呟きながら、最後の一枚を描き終える。スケッチブックは鉛筆の跡で埋め尽くされ、ページはくしゃくしゃになっていた。その絵が何を意味するのか、自分でもわからなかった。ただ、涙が止まらず、スケッチブックを抱えながらベッドに倒れ込んだ。
涙を流しながら目が覚めた。ベッドの中で、夢ではない目の前の現実を確認する。そこには誰もいない。ただ、自分の息遣いと胸の痛みが残っていた。外の世界は朝日が昇り始めており、時折轍の音が遠くで聞こえた。夢の中での出来事が現実とどこかで繋がっているようで、その感覚から逃れることができない。
桜井さんが本当にいなくなってしまう。その恐怖が頭の中をぐるぐると回り続け、ただ布団の中で震えていた。
放課後の教室は、いつもと変わらない喧騒に満ちている。窓の外から秋の日差しが淡く射し込み、その光が床に長い影を作り出していた。ざわめきの中で、影の輪郭だけが静かに伸びていく。教室の中では、スマホを片手に次の予定を考える者、流行りのスマホゲームに熱中している者、荷物をさっさと鞄にまとめて帰宅の準備をする者が入り乱れていた。彼らの会話は軽やかで、無意味な笑い声が教室中に響いている。それらがまるで別の世界のことのように感じられた。何もかもが薄い膜に包まれていて、その向こう側で皆が楽しげに動き回っているような感覚だ。
机に肘をついて、じっと窓の外を見ている。外の景色は相変わらずで、校庭の隅には生徒たちがたむろし、グラウンドでは部活動の掛け声が響いている。どこか景色全体が色あせて見える。まるで絵の具が乾かぬうちにに上から薄い水をかけられたように、鮮やかさが失われているようだった。
いつも放課後になると、蓮太郎から声をかけられ、どうでもいい日常の話をしていたものだ。しかし、最近は彼の姿をほとんど見かけなくなり、ふと気づけば一人きりだった。
「気が抜けるな……なんか」独り言のようにつぶやいてみたが、当然誰の耳にも届かなかった。
帰り道、絵の参考資料を探すために大型商業施設内にある書店に立ち寄ることにした。書店はいつも混んでいるが、秋の新刊フェアが行われているせいか、特に賑わっていた。書棚を眺めながら、興味が引かれるタイトルがないかと探していた。入口の特集コーナーが設置された棚に来た時、ふいに誰かと目が合う。桜井さんのお母さんだった。
「涼君じゃない。こんにちは」彼女は穏やかな声で話しかけてきた。
「こんにちは、由衣さんのお母さん……。こんなところで会うなんて」
「ええ、びっくりしたわ。でも会えてよかった、お礼を言いたかったの。由衣のこと、いつも心配してくれてありがとうね……」
お母さんの少し疲れた笑顔。その顔には、夜遅くまで由衣の世話をしている母親の疲労が滲み出ていた。どう返事をすればいいのかわからず、ただ頷いた。
「容態はね、まだあまり良くならないの。病院での治療が続いているけど、なかなか……」彼女の声は次第に小さくなり、最後は聞き取れないほどだった。彼女の視線はどこか遠く、何かを考え込むようだった。
「でもきっと大丈夫。由衣も頑張ってるわ。新しい薬も始めたの。それが効いてくれればいいんだけど」自分に言い聞かせているようだった。どこかで自分を支えようとしているその姿勢が、かえって彼女の辛さを物語っているように見えた。
「実はね、少しでも由衣の回復の助けになればと思って、先日春日神社にお参りに行ったの。その時、蓮太郎君がいたのよ。鳥居をくぐって、何度も社殿に向かってお参りしてたわ」
「蓮太郎が……お参りしてたんですか?」
「そうなの。まるで何かに取り憑かれたみたいに、一心不乱でね。その姿を見て、私もなんだか胸が温かくなったわ」
「あまりイメージわかないですね、蓮太郎がそんなことをするなんて……」
蓮太郎が神社でお参りしている姿を想像する。そういえば毎日手を合わせてるって言ってたような。
「彼もきっと、由衣のことをすごく心配してくれているのね……今度会うことがあったら、蓮太郎くんにもお礼言わなきゃ」
お母さんに別れの挨拶をした。
蓮太郎が何を思って神社に通っているのか、知りたいという気持ちが急に湧き上がる。
翌日、放課後に春日神社へ向かうことにした。
春日神社に着くと、鳥居の下に立っている蓮太郎の姿が見えた。彼は社殿へ向かい、鈴緒を鳴らしてから手を合わせ、また鳥居まで戻る。それを何度も繰り返している。少し離れた場所からその様子を眺めていた。彼の動作には無駄がなく、ただ無言で祈りに集中しているようだった。
「蓮太郎?」声をかけると、彼は動きを止め、振り返る。
「お!涼……なんでここにおるん?」蓮太郎は少し照れたように笑った。いつもの陽気な表情とは違い、どこか真剣で少し疲れた顔をしている。
「昨日、桜井さんのお母さんから聞いたんだ。蓮太郎、ここでお参りしてたって」
「あー、そっか。まあ、そうやな。御百度参りってやつよ。流石に一日で百回なんて無理やけん、その日可能な限りで回数こなしてる感じやな」
「それ毎日やってたの?」
「いや、毎日ってわけじゃないけど、気が向いた時だけな……それにしても運動不足かな、歩きすぎて最近膝が痛いんよ」
蓮太郎は軽く肩をすくめた。
「桜井のことを考えると、どげんかせんとって思うよな。何かにすがりたいって気持ちもあるんやけど……でも神様を信じているわけじゃないんよ」社殿の奥を目を細めて見つめながら蓮太郎は続けた。
「仮に神様がいたとしても、あいつが病気で苦しんでるのを放っておくとかさ、そいつはちょっと冷たい神様やと思わん?だから、こうやって祈ってるのはさ……神様どうこうじゃなくて、自分を乗り越えるためなんよ。自分で自分に祈ってる」
「自分に祈る……?」
「うん。悩むな、迷うな、逃げるなって自分に言い聞かせとるんよ。それに……万が一のことがあった時に、自分が冷静でいられるようにするためにもな」
蓮太郎のその言葉を聞いて、なんと言っていいか分からなかった。ただ、彼のその行動が桜井さんのためだけではなく、自分自身のためでもあるということが伝わってくる。
僕も……手を合わせてみるか。
蓮太郎が祈る姿に少しだけ寄り添うことで、自分も何かを乗り越えられるような気がしたから。
その日は蓮太郎と一緒に何度かお参りをしてから、神社を後にする。彼と一緒に歩きながら、今の悩みを吐露した。
「今さ、あの風景が描けなくて、なんていうか……辛いんだ。早く完成させて、桜井さんに見せたいと思ってるんだけど」
「そうか……」と言って間をおいた後、僕の背中をパンと叩いた。
「心配すんな!辛いってことは、もっと描けるってことたい。辛さや悲しみは創作の源って誰かが言っとったぞ」
その晩、全ての鉛筆をカッターナイフで研ぎ、スケッチブックに軽くハッチングした。イーゼルに白いキャンバスを立てかけたあと、深呼吸をして清水円山展望台の写真を見つめる。絵を完成させて桜井さんに見せることが、彼女のためだけでなく、自分のために。そうはっきりと思えた。もうこれ以上、僕は僕を殺したくない。写真をよくよく観察し、鉛筆を慎重に動かし、線を一本一本引いていく。桜井さんが見ている景色と僕が見ている景色が重なる瞬間を探して、何度も写真を見返しては、少しずつ、丁寧に進めていった。
「理不尽に抗う……自分を乗り越える……自分で自分に祈る……」
蓮太郎のその言葉が、頭の中で何度も繰り返され、離れない。反響するように、同じフレーズが思考を埋め尽くしていく。
描き続けた。描いては見直し、消しては描き直す。視界がだんだん狭くなり、キャンバスと写真しか見えなくなる。呼吸が浅くなり、動作がゆっくりになり、時間も空気の流れも全てはただ一点に集約された。
それを繰り返して三日目の夜。満足のいく鉛筆画が仕上がった。目の前には清水円山展望台の風景が広がり、その光景に胸の奥でマッチで灯されたような小さな火がふっと灯るのを感じた。
「これなら……これなら桜井さんもきっと元気になる」
そう思いながら改めて会心の絵を見つめた。蓮太郎の絵、桜井さんの絵が並ぶ姿を想像し、胸は高揚している。同じ視点から描かれたそれぞれの風景。それが並んだとき、一体どんな光景が生まれるのだろう。どんな感情が交差し、どんな意味が浮かび上がってくるのだろう。
その未来を思い描きながら、少しずつ気持ちが前向きになっていくのを感じる。そして、桜井さんと蓮太郎に感謝の気持ちを伝えたいと思った。
でも、僕は口下手だ。感謝の言葉をどうやって伝えればいいのか、いまいち自信が持てなかった。だから、あらかじめ台本を作っておくことにした。
ルーズリーフを一枚取り出し、ペンを走らせる。桜井さんにはどんな言葉をかけようか。蓮太郎にはどう伝えればいいだろうか。そんなことを考えながら、一つ一つ丁寧に言葉を綴っていった。
「ありがとう、桜井さん。蓮太郎」
その言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、自然と笑みを浮かべていた。夜が更け、静けさが部屋を包み込んでいく中で、心も少しずつ落ち着いていく。ペンを置き、ルーズリーフを茶封筒にしまって、満足感に包まれながら目を閉じた。
その夜、不思議なほど静かに眠りにつくことができた。
秋が深まり、空気がキンと張り詰める。病院へ向かう道すがら、落ち葉がひらひらと舞う歩道を、ゆっくりと歩いていた。風に踊る葉が足元に積もり、靴底で踏みしめるたびに、乾いた音を奏でている。
桜井さんの面会が可能になったという知らせを受け取ったとき、ようやく会えるのだという安堵感が、心の奥底から湧き上がり、静かに心を満たしていった。
病院へ向かうのはこれが何度目だろうか。エントランスは人の出入りが頻繁に繰り返され、車椅子を押す人、外来で来た人たちが入り交じっている。エレベーターに乗り、数階のボタンを押す。扉が閉まると、緊張感が体に戻ってきた。エレベーターが静かに動き出し、心臓の鼓動が少しずつ早くなるのを感じる。目的の階に着くと、廊下を歩きながら病室の番号を確認し、深呼吸をしてドアをノックした。
「どうぞー!」
彼女の声が、薄いドア越しに聞こえた。ドアを開けると、ベッドに座る桜井さんが窓の外を眺めていた。振り返る彼女の顔には少し疲れの影が残っていたが、それでも以前よりは顔色がいい。
「来てくれたんだね!涼くん」
「うん。顔色良くなってきたね、ちょっと安心したよ」
手に持っていたドーナツとカフェオレの袋を差し出した。「これ、いつものミスドのやつだけど、食べられるかなと思って持ってきた」
「わあ、ありがとう!」
何度も繰り返してきたはずのやり取りなのに、久しぶりだと逆に新鮮さを感じてしまうのは不思議なものだ。
「いただきます」と言ってドーナツの袋を嬉しそうに開け、中から取り出したフレンチクルーラーを手にして頬張る。窓から差し込む秋の日差しが、淡い光の中に季節の移り変わりを感じさせ、静かにその存在を主張していた。
ドーナツを食べながら、僕達はしばらくぶりの会話を始めた。何気ないやり取りが、どこか懐かしく感じられた。桜井さんはカフェオレを一口飲みながら、袋の中に新商品のフライヤーが入っていることに気づいた。
少し笑いながら「ああ、そうだ。『スパイシーチリマヨ・チョコクランチ』が、ついにレギュラー商品になるってさ。びっくりだろ?」
桜井さんは目を丸くして驚いたような表情を浮かべた。「え、本当に?それ、前に話してたやつでしょ?あんな変なドーナツが本当にレギュラー化なの!」
「僕も最初は嘘だと思ったけど、本当に陳列棚の目立つところに置かれててさ」
「もう、信じられない!涼くん……もしかして買ったの?」
カバンの中からもう一袋取り出した。
「……まさか」と彼女は眉毛を八の字にした。
「一個だけ買ってみたんだ。試しに一緒に食べてみようよ」
袋からは、赤色と白色のチョコレートでコーティングされた、一見おめでたいようなカラフルなドーナツが出てきた。
彼女は笑いながら、手に持ったフレンチクルーラーを皿の上に戻した。
「うわぁ……ねぇ、涼君も後で絶対食べてよね」スパイシーチリマヨ・チョコクランチを受け取り、くんくんと匂いを嗅いだ。
「罰ゲームの香りがするんだけど、本当に大丈夫これ?」
「心配しないで、僕も後を追うから」
「絶対だからね。うう、じゃあ、いただきます!」
一口かじった彼女は、ゆっくりと目を閉じ、しばらくその味を確かめるように静かに味わっていた。瞼の奥で、彼女の目が左右に動いているのがわかる。
「……どう?どんな味?」
「えっとね……甘いね。うーん、スパイスの辛さもチリの酸味も特に感じな…………あ!いや待って!辛い!」
彼女は飛び跳ねた後、カフェオレを一口飲んだ。
「やっぱり凄い味なんだね」悶絶する彼女からドーナツを受け取る。
「でも、意外と嫌いじゃないかも。ささ、涼くんも食べてみてよ」
「では……お言葉に甘えまして……」
一口かじってみた。確かに、甘味と辛味と酸味が口の中に広がり、それぞれが三つ巴の喧嘩をしているようでなんとも言えない味わいだった。
アリ寄りのナシなのか、ナシ寄りのアリなのか。いや、そういう事すらどうでもよくなるくらい口の中が混沌としてきた。一つだけ確かなのは、マヨネーズは余計という事だ。
「本当に不思議な味だね。これはこれでアリかもしれないと最終的に思えてしまうのが謎だね」
「でしょ?いやあミスド、侮れないなあ」
桜井さんは声を出して笑い、「じゃ、あとはお願い」と言いながら、皿に置かれたフレンチクルーラーへ改めて手を伸ばした。これの残り、僕が全部食べるのか。
桜井さんはドーナツを食べ終えると、少しだけ真剣な表情になった。
「涼くん、聞いて欲しいんだけど……実はさ、最近新しい薬を始めたの」
そういえば桜井さんのお母さんと会った時にそんな事を言ってたな。
「そうなんだ。病気の原因は分かったの?」
「ううん、原因まだ分かってはないけど、でもその新しい薬でレアリエス肺症候群の症状が少しずつ落ち着いてきてるの。咳も前よりは少なくなったし、呼吸も楽になってきた気がするよ。まだ油断はできないけどね」
「よかった、本当に。少しでも良くなってるなら安心したよ。顔色がよくなってると思ったのはそのおかげなんだね」
「お医者さんも慎重に診てくれてるけど、まだまだ長期戦になるって言われた。完治には遠いけど、こうして調子が良くなってるのを肌で感じると、気持ちも楽になるよ」
桜井さんは少し微笑んで、外の景色を眺めた。病院の中で過ごす日々はきっと退屈で、自由に動けないもどかしさがあるだろう。それでも、彼女は自分のペースで、少しずつ病気と向き合いながら過ごしている。
「油断はできないけど、こうして日々を過ごせること自体がありがたいと思ってるんだ」
彼女の言葉に、静かに頷いた。
「そうだ。私もね、清水円山展望台の風景画、描いてたんだ」
桜井さんのその声には確信と少しの誇りが含まれていた。彼女は病院で過ごし治療で苦しんでいる時でも、絵と向き合っていたことに驚く。
「本当に?どんな風に描いてるの?ちょっと見せてよ」
彼女がどんな視点で、どんな色を使って、どんな風景を描いているのか、想像が膨らむ。彼女の目に映る清水円山展望台は、僕が見ているものとはまったく違うのだろう。色彩や形、風景の奥にある何かが、彼女の独特な感性で捉えられているに違いない。
「ふふーん、まだ見せられないよ。退院してからのお楽しみ」
まぁ、それもそうか。
彼女は長い髪を人差し指でくるくると巻いていた。
「涼くんも蓮太郎くんも、それぞれ違う調子で描いてるだろうし、それがどんな風に見えるのか、私も楽しみなんだ」
「蓮太郎の絵も楽しみだな。いつも迫力があって感情が込められてるから」
そう言うと、桜井さんは微笑んで頷く。
「そうだね。蓮太郎くんの描く絵って、何かこう……私たちとは違うアプローチだけど、感情の波みたいなものを感じるよね」
その言葉に、同意した。蓮太郎の絵は確かに感情の奔流が込められている。僕達が描く静かな風景とは対照的でありながら、どこか共鳴するものがある気がした。
「三つの絵が並んだら、きっとすごいものになるよね」
「そうだね。退院したら、また三人でその絵を見比べよう」
桜井さんの目は遠くを見つめるように、未来を描いていた。その未来を信じたいと思った。
少しの間、雑談をしていた。どこかで聞いた新しい音楽や、SNSでバズっている犬の話。普通の会話がどれだけ心地よいものか、久しぶりに実感していた。
でもふと、先日の夢の話を思い出してしまった。それを言葉にしようかどうか迷ったが、結局、思い切って口に出した。
「面会できなかった間、君が……死んじゃう夢を見たんだ」組んだ手に力が入った。
「え、夢で?私が?」
桜井さんは驚いたように僕を見たが、すぐに小さく笑った。
「そっか、涼くんの夢の中で、私は死んじゃったんだ」
曖昧に頷き、夢の内容を簡単に説明した。桜井さんが病気で亡くなり、その現実をどう受け止めようとしたのか。その夢の感触があまりにも生々しかったため、胸の中にはまだその影が残っていた。
「でも気にしちゃだめよ、それは夢だから。前に約束したじゃない、私は死なないよ……」
桜井さんは優しい口調でそう言って、僕の肩に手を振れた。不安に思っているのを察したのか、彼女は肩をすくめて笑顔を作る。
「ほら、現実の世界では新しい薬も効いてるし、病状も落ち着いてきてる。きっと退院も近いんだよ。だからそんなに悲しい顔をしないで」
彼女の言葉に少し安心した。夢の感触が完全に消えることはなかったが、それも時間が解決してくれると思えた。
「でも、人って平等にいつかは死ぬのよ。もちろん、私はこの病気では死んだりしないけど、それでも私たち誰しもいつかはその時が来る。突然ってこともあるし……私が見送る立場だとしたら、とても耐えられないだろうな。皆にそういう思いをさせてたと思うと、なんだか申し訳ないわ」
その言葉は、彼女が淡々と受け止めていることを物語っていた。彼女は自分の病気や人生を、もう一歩引いた視点、いやどこか第三者のように捉えているようだった。時折見せる彼女の達観した雰囲気に少しの疑問と少しの怖さを感じていた。
校舎に初冬の冷たい風が吹きつけ、曇ったガラス越しに灰色の空を見つめていた。ぼんやりと広がるその景色は、まるでどこにも行き場のない感情のように滲んでいる。外の世界は凍えるような冷気に包まれていて、木々はすっかり葉を落とし、枝が細いシルエットを描いている。学校の庭も寂しげで、人気のない校庭に舞い上がる枯れ葉が、どこか哀愁を漂わせている。冬の静けさが、そのまま心の奥底にまで染み渡るようだった。
そんな時、ポケットの中でスマホが震えた。画面を見ると、桜井さんからのメッセージだった。
「退院きまりました!完全復活!」
ピースサインをしたうさぎのスタンプが添えられたその文字を見た瞬間、心の何かが弾けたようだった。急いで隣にいる蓮太郎へスマホを見せた。
「ねえ、退院決まったってさ!」声には自然と興奮が混じっていた。
「マジかよ!よっしゃ!」蓮太郎は勢いよく手を叩き、視線を合わせた。その瞬間、僕達の手は自然と宙を舞い、パンとハイタッチが響いた。クラスメイトたちは何事かと振り返ったが、僕達はその視線を気にすることなく、ただその場で小さなガッツポーズを交わした。
「やっとやなぁ……よかったわ、本当に」蓮太郎はしみじみとした声でそう言い、それに頷いて応える。ここ最近、桜井さんのことが心の中に重くのしかかっていたが、肩の荷が少し軽くなった。
これでまた、いつもの三人に戻れる。
その後すぐに続報が届く。
「新しい薬が効いたおかげで、病気は影を潜めたよ。まだ完治じゃないけど、通院で様子を見ていくことになった!」
「完全に治ったわけじゃないにしても、退院できるんやったら一安心やな。ポジティブに考えるか」メッセージを読んだ蓮太郎は、スマホをポケットにしまい、ふと遠くを見つめるような目をしていた。
「退院できるってことは、それだけでも大きな一歩だよ」もちろん、完治という言葉が出てこなかったことに対する不安がなかったわけではないが、今は喜ぶべきことだと自分に言い聞かせる。
「日常生活にも少しずつ戻れるんだろうし……大丈夫やろ」蓮太郎のその言葉は自分にも言い聞かせるようだった。
退院の日が刻一刻と近づいてきた。桜井さんとのやり取りを続け、次第にメッセージ越しに明るくなっていくのがわかり、彼女のその表情もまた明るいんだろうと容易く想像できる。そんな中、蓮太郎がグループメッセージで提案を出してきた。
「快気祝いにドーナツでも食べようや。久しぶりに三人でさ!」
「やったー!ドーナツだなんて最高!それなら、早速退院した翌日にでもどう?」
「いいね、賛成」と僕も返事を送った。画面に打ち込んだ文字が、まるで自身の気持ちを確認するかのように浮かび上がらせる。
「じゃあ決まりやな。明日は桜井が退院して、次の日にミスド集合やな。楽しみにしとくわ!」
「楽しみにしてる!」彼女からのその一言が画面に表示され、何かがようやく動き出したような気がした。
三人は再び顔を合わせることが約束された。これまでの長い入院生活が終わり、また元の生活に戻れるという事実と安心が、ゆっくりと胸に広がる。
冬の風が冷たく、外の景色はどこか寂しいものだったが、心の中には温かい期待が静かに芽生えていた。
彼女が退院の日。放課後の教室を後にして、蓮太郎と肩を並べて校門を出た。夕暮れの薄い陽光が地平線に沈もうとしていた。遠くに見えるビルの輪郭が淡いオレンジ色に縁どられ、風が枯れた木々を揺らして乾いた音を立てている。いつものように特に急ぐわけでもなく、ただゆっくりとした足取りで自転車を押していた。桜井さんが退院するという知らせは、久しぶりの希望を与えてくれている。
「なあ、涼。やっとさ、俺も展望台の風景画が完成したんやけど……」蓮太郎が唐突に口を開く。
「本当に?それは良かった。完成までけっこう時間かかってたね、どう?出来は?」彼が時間をかけていることを知っていたからこそ、その達成感がこちらにも伝わってきた。
「まあ、なんだ……満足ってわけじゃないけど、なんとか形になったって感じやな。でも三人の絵を並べてたらどんな感じになるか、めっちゃ楽しみやな!」
「そうだね。僕もすごく楽しみだな」
実際のところは、自分の絵が二人の作品とどう響き合うのか、期待と不安が入り混じった複雑な気持ちを抱えていたわけだが。
「桜井は、ちゃんと描いとるんやろうか……」
「もう完成させてるって言ってたよ」
「え。なんだよ、俺が最後か。それにしてもよく描けたな。体調も悪かったろうに……」
そして、会話の流れは自然とドーナツの話題へと移っていった。蓮太郎は突然、思い出したかのように言った。
「お前らが言ってたスパイシーチリマヨなんちゃらってやつ、どげんやった?」
微妙だった、正直なところ。
「いや、思ったより普通に美味しかったよ。最初は誰もこんなもの食べないだろうって思ってたけど、実際食べてみたら意外といけるんだよね。チリの酸味と甘さが不思議に調和してさ」
実際の感想とは真逆の事を笑いを堪えながら答えた。
「マジかよ!チリとチョコとマヨネーズってどう考えても三つ巴でケンカするやろ。マジで大丈夫なん?」蓮太郎は半信半疑の表情を浮かべていた。
「食べてみたら分かるよ。桜井さんもあれ、美味しいって言ってたし。今度三人で食べようよ。快気祝いということで」
「いや、パスする。絶対ないわ」軽く笑いながら顔の前で手を振る。
蓮太郎に食べさせる作戦は失敗かも。
やがて、蓮太郎と別れる地点に来た。「また明日ね」軽く手を振った。
「おう!じゃあな」蓮太郎は笑顔で、反対方向に歩き出した。僕はそのまま自転車にまたがり、家へ向かってペダルを漕ぎ出した。自転車のタイヤがアスファルトを擦る音だけが、徐々に小さくなっていく。辺りの喧騒が薄れていく中、音がどこかへ吸い込まれるように消えていった。暗くなりかけた空に、街の街灯がひとつ、またひとつと点灯していく。
心は穏やかで、三人で集まる明日のことを考えていた。ドーナツ屋で笑い合う、桜井さんの笑顔を思い浮かべると自然と微笑んでしまう。彼女も退院して家にいる頃だろう。明日が待ち遠しい、こんな日が今まであっただろうか。
横断歩道に差し掛かり、信号待ちをしていると、冷たい風が一層強く吹きつけた。街路樹の葉が舞い上がり、足元を転がっていく。横断歩道の信号が青に変わり、自転車のペダルを踏み込んだ。
その瞬間、耳元でけたたましいブレーキ音が響く。
一瞬の驚きが体を包み込み、次の瞬間、ふわりと宙に浮いていた。
光に照らされた自転車が道路に倒れるのが見えた。視界が一瞬でぐるりと回転し、時間が引き伸ばされたように緩やかに流れ、周囲の音も景色もどんどん遠ざかっていった。
真っ暗な闇が、じわじわと視界を覆い尽くそうとしている。全てが静まり返り、まるで世界そのものが消え去ったかのような感覚に陥る。何が起こったのか理解することもできないまま、意識はゆっくりと途絶えていった。
鏡の前で選んだ服を手に取り、悩んでいた。どの服も自分らしくないように思えて、決断できずにただ立ち尽くしてしまう。久しぶりに外で二人に会えるという喜びを感じながらも、どんな服を着ていくべきかが頭をぐるぐると巡る。クローゼットにはお気に入りのワンピースがいくつか掛かっているけれど、手に取るたびにどれも「これだ」という感覚が湧いてこなかった。
「黒だと重いし、明るすぎる色もなぁ……」
「これだとブリブリして可愛すぎるし……これはちょっと地味か……悩むなあ……」
小さな声で独り言をつぶやきながら、最終的には落ち着いた厚手のデニムジャケットにワンピースを選ぶ。カジュアルだけど少しだけ特別感のある装い。涼くんたちに会えるのは久しぶりだから、何か新鮮な印象を残したいと思った。外は寒いだろうけど、これもオシャレのためだ。少々薄着でも我慢しよう。
「じゃあお母さん、行ってきます!」玄関で母にそう告げて家を出た。母はいつも通り、家事の手を止めずに「はーい!気をつけてね」と返してくれたが、その一言に何か普段と違う響きを感じ取ったのは気のせいだろうか。
外に出た瞬間、吐く息が白く浮かび、ふわりと消えていく。そのたびに、心の中にほんの少しの重さが混ざり込むようで、冷たい空気がその重みをさらに際立たせていくのを感じる。入院している期間、季節を一つか二つ飛び越えたのだ。心身が気温に馴染んでない感じがする。でもこの寒さの中で友だちと会える喜びが、その重さを紛らわせてくれる。見慣れているはずの景色も新鮮に見える。普通って素晴らしい。
午前十一時前、約束の場所である大型商業施設のミスタードーナツに到着した。待ち合わせより十分早かったけど、ソワソワして早めに来てしまった。ドーナツの甘い匂いが空気中に広がっているけれど、まだお店の中は静かだ。陳列棚に並べられたドーナツがキラキラしている。お気に入りのフレンチクルーラーを注文しようか、いや今日は違うドーナツへの冒険に挑戦しようかと考える。
「早く来ないかな……」
そう呟いてスマホを確認するけれど、二人からのメッセージは届いていない。まだ時間はある。外の冷たい風から逃げ込んだこの場所で、ぬくもりを感じながら待つのも悪くない。二人が来るまでの時間、その場で小さく足を揺らしながら、落ち着かない気持ちを静めようとしていた。
十分遅れて蓮太郎くんが現れた。遅刻している自覚はあったのだろう、急いだのか息を切らしていた。
「おー、すまん!遅れた。桜井……お前早く来すぎやろ。気合い入りすぎやって」
「いや遅刻してきた人の台詞じゃないよね、それ。こっちは病み上がりのか弱い女子なんだから待たせないでよ」
大きな息を吐きながら「か弱い、ねぇ……」と口をへの字にしていた。
「難治の病気を跳ね返すマッチョな鋼の身体を持ってるじゃんか」
グーパンチお見舞いしてやろうかしら。
彼の周りを見渡した。「涼くんは一緒じゃないの?」
蓮太郎くんは座りながら、スマホをポケットから取り出した。
「いや、俺はてっきり桜井と一緒に来ると思ってたんやけどな。あいつが遅れるなんて珍しいなぁ……」
彼が遅刻するなんて、これまでになかったことだ。少し不安が過ぎったものの、それを大きくしないように、意識的に気持ちを切り替える。
更に十五分程経過しただろうか。とりあえず、電話をかけてみることにした。スマホを耳に当てながら、着信音を待つ。でも、何度か鳴った後に自動的に留守番電話に繋がってしまった。ちょっとした心配が胸の中に広がるけれど、きっと何かの都合で出られないだけだろうと自分に言い聞かせる。
「留守電だった……」
「そうか。俺もメッセしてみるわ」
蓮太郎くんは手際よくスマホを操作し、メッセージを送った。でも、彼のコメントに「既読」がつく気配はない。私達は黙ってしばらくの間スマホを見つめていたが、結局何も起こらなかった。画面に目を凝らしていても、何の変化もないまま、ただ沈黙だけが二人の間を埋めていく。
「そのうち、来るよね」
「まあ、そうやな。何もせんまんま待っとるのもあれやし。ほれ、とりあえずドーナツ頼もうや」
蓮太郎の提案に頷いて、私達は陳列棚に向かい、それぞれ好きなドーナツを選んだ。私はやっぱりフレンチクルーラーとカフェオレ、蓮太郎くんはポン・デ・リング。いつもの定番。
ドーナツを食べていると、ふと思い出した。「スパイシーチリマヨ・チョコクランチ」だ。あれは、以前涼くんが持ってきてくれた冗談みたいなドーナツで、思わず笑ってしまったものだ。でも、既に賞味済みではあるものの、存在しているなんて、未だに信じられない。いや信じたくない。
「ねぇ、蓮太郎くん、涼くんが前に話してたスパイシーチリマヨ・チョ……」
「いやだ!」
商品名を言う前に拒否されてしまった。
彼の顔は一瞬で曇り、眉間にしわが寄っていた。まるで食べたことのない奇妙な生物を口に入れようとしているかのような表情だ。
「涼にも言ったけどそんな冗談みたいなドーナツ、本当にあるん?」
「本当にあるのよ、見て!あれあれ!あそこに並んでるやつ」
指を差して、陳列棚の端に控えめに並んでいる「スパイシーチリマヨ・チョコクランチ」を示す。蓮太郎くんはその方向を見たが、顔には明らかな抵抗感が浮かんでいる。
「絶対、無理や。俺の味覚が壊れる……誰がそんな組み合わせ考えたんや。どう考えても企画倒れやろ」
蓮太郎くんが物凄く嫌そうな顔をするのがおかしくて、笑いが止まらなかった。
「プククク……一口だけでも、試してみればいいじゃない。案外美味しいかもよ?」
微妙だったんだけどね、正直なところ。
「無理!なんでお前らは、やたらとあれを勧めてくるんよ。俺は普通のポン・デ・リング一筋!今までも、これからもな!」
結局、蓮太郎くんはスパイシーチリマヨ・チョコクランチに挑戦することなく、私達は他愛もない話に戻った。最近流行りの映画の話題や、共通で読んでいる漫画の考察の続き、そして学校で誰が一番パンを多く食べるかというしょうもない賭けの話題などが、自然と流れていった。
「そういえば蓮太郎くん、水族館の帰りの時、神社巡り行こうって言ってなかったっけ?」
「あーそうやったな。あれから色々調べてみたんだけど、太宰府天満宮って映えるスポットが意外と多いらしいんよね」
「太宰府天満宮?あそこ子どもの頃から行きすぎて、そんなに新鮮味はないんだけどなぁ」
「それは同意なんだが、本殿が建て替わったらしくてさ。行ってみる価値はあると思うけどな」
「そうなんだ……それならちょっとみてみたいかも」
手帳を取り出し、空いているメモ欄に「1:太宰府天満宮」とペンを滑らせた。
「了解。じゃあ1箇所目は天満宮ね。他は?どこ行く?」
「桜井なら、そうやな……ここがうってつけなんじゃなか?恋木神社」
彼は何度かスマートフォンをタップして検索結果が表示された画面を見せてきた。
「聞いたことない神社だなあ、でもなんか名前からして大体想像できるけど」
「日本唯一の恋の神様である恋命を祀る神社ってサイトには書いとる。御神紋はハート」
「うん、そんな感じだろうと思った。で、何でそれが私にうってつけなわけ?そんな予定ないよ」片方の眉をひくつかせながら蓮太郎くんを睨みつけた。
「あらら、俺の思い違いやったか?ああご心配なく、ここに行くときは俺はお暇させてもらうけん」
ニヤニヤする彼の顔にやっぱりグーパンチをお見舞いしてやろうと思った。
「ちょっと!何でそうなるのよ、私は涼くんの事そんな風には……」
「いや落ち着け桜井、誰も涼だなんて一言も言ってないわけだが」
「う……ばかじゃないの!」頭を抱えた。
涼くんの事を思い出し、もう一度連絡を取ることにした。スマホを取り出して、改めて発信ボタンを押す。しかし、今回も彼は電話に出なかった。留守番電話に繋がり、何かメッセージを残すべきかと一瞬迷ったが、何も言わずに切ってしまった。
「なんでだろう……涼くん、どうしたのかな」スマートフォンを見つめるが、何も反応がない。
「俺もメッセにも、まだ既読がつかん。何か急用でもできたんやろうか」
蓮太郎くんの言葉に、胸の奥が少しずつ重くなっていくのを感じた。楽観的に考えようとしたけれど、涼くんがこれほど長く連絡を絶つことは普段はない。それが引っかかる。
時計を見ると、既に午後二時を回っていた。二人とも不安を感じていたが、それを口に出すことはなかった。
「とりあえず、今日はこのくらいにしとこうか。桜井も病み上がりやしな。また後日、改めて集まろう」
蓮太郎くんが提案に、静かに頷いた。「そうだね、私もちょっと疲れちゃったし。じゃあ一旦解散としますか」そう言って店を出た。
「今日はありがとうね、蓮太郎くん。久しぶりにこうやって外で話せて楽しかったよ」
「おう!ゆっくり体休めとけよ。あと涼から連絡あったら、教えてな!」
次に集まる日までには、きっと何事もなかったように現れるだろうと信じて。
家に帰ると、母がリビングでお茶を飲みながらテレビを見ていた。
「おかえり由衣、今日はどうだった?二人と話せた?」
「うん、蓮太郎くんと一緒にドーナツを食べたたんだけど、涼くんが来なかったんだよね……本当どうしたんだろう」
ソファに座る。少しぼんやりとした気持ちだ。
「急ぎの用事でもあったのかしら……」
「私もそう思ったんだけど、それならそうと連絡してくると思うのよね」
「そうね、何事もなければいいけど」
母は、夕方のローカルニュースが流れるテレビに目を戻す。スマホを手に取り、もう一度涼くんにメッセージを送ろうとしたが、思うように指が動かない。それは、テレビから聞こえてきたニュースが私の耳を捕らえたからだ。
「昨日夕方頃、市内で高校生が交通事故に遭い、死亡したという痛ましい事件が……」
一瞬、時間が止まったかのようだった。ニュースキャスターの声のピッチが下がり、空間全体がゆっくりとうねりだした。無意識のうちに立ち上がり、テレビの画面に目を向ける。そこには、「乗用車と衝突。自転車の高校生が死亡」というテロップとともに、事故現場の映像が映し出されていた。見慣れた路上に散乱した破片、車のブレーキ痕、車を誘導する警察官の姿。そして見慣れた自転車。
「高校生……交通事故……ちが……違うよね……」
「亡くなったのは福岡市に住む高校3年の田中涼さん十七歳で、頭を強く打ち病院に運ばれましたが……」
スマホを手から滑らせ、口を押さえた。震えが体全体を包み込み、身体中のあらゆる筋肉が弛緩していった。現実感が徐々に消えていく。
「田中涼さん(17)」というテロップから目を離すことができない。
彼の名前が頭の中で何度も響いたが、声にはならない。膝が体重を抑えきれず、そのまま床に崩れた。
咄嗟に席を立った母は私を頭から抱きしめ、その体は小さく震えていた。母は何かを言っていたはずなのに、その声はかすれていて、何を話しているのかまるで聞こえなかった。
「そんな……きっと……何かの……」
心は、仄暗い穴の中を延々と落ち込んでいく。どこまでも続くその暗闇は、重苦しく、抜け出せない深淵へと引きずり込む。
世界が止まっていた。
正確には、止まってしまったのは、私の内側にある世界だけで、現実は何事もなく動き続けている。通りを行き交う車の音も、隣の家から聞こえる犬の鳴き声も、すべてがいつも通りだ。
ニュースを観た夜、蓮太郎くんが心配して家を訪ねてきた。
「桜井……」
蓮太郎くんの声は揺れていた。彼の声も、どこか現実感が薄れている。
「……嘘だよね?」
彼は俯いた。両手の握り拳は震えていた。
「いや、本当だ。現実なんだ……信じたくないが。でも、涼は……」蓮太郎くんの声が途切れる。
呆然としていた。何をすればいいのか、どうすればいいのかがわからない。息ですら意識しないと止まってしまいそうだ。それが現実だという感覚が体を蝕んでいく。頭の中で何度も「嘘だ」と抵抗したが、それも無駄だった。胸の中が空っぽになるような、底知れない空虚感。
そんなはずはない。そんなわけあるはずない。涼くんはまだ生きている。家で今頃スケッチブックに絵を描いてる。明日も何事もなかったかのように連絡くれる。ドーナツだって一緒に食べるし、そうよ、今度は神社巡りをするの。だって……「桜井、大丈夫か?」
蓮太郎くんの心配そうな声が、不意に私の思考を遮る。その声が耳に届いた瞬間、思考の渦がぱたりと止まり、彼の方へと意識を向ける。でも、何も答えられなかった。言葉が出てこない。現実を受け止めきれない。
「……うん」
ようやく絞り出した声が、自分のものとは思えなかった。乾いた、無感情な返事。
「ごめんね、蓮太郎くん。君だってショックを受けてるのに……」
「ああ。神社でお参りしてたからかな、なんかさ、ショックで体は固まりそうなのに……動くんだ。悲しいはずなのに、心も変にハイになってるんだよ、おかしいよな……」
私は小さく首を振った。
「ううん。きっと、私も蓮太郎くんも現実を受け止められてないんだと思う。なんていうか……こんな感情味わった事ない」
「そうやな……俺もや……」
長く沈黙が続いた。
「そんじゃ、俺行くわ。すまんな、病み上がりなのに時間取らせた……明日、通夜があるやろうけど、行けそうか?」
勿論そうしたいと返事をしたかったが、心身がもう限界を超えていて考える力は残っていない。
「ごめんね、少し時間がほしい……」
「そうか……また色々わかったら連絡するわ」そう言ってリビングから蓮太郎くんは出ていった。
「お邪魔しました!」大きな声と一緒に玄関の扉が閉まると、静寂が訪れた。
暗いベッドの上でラッコの人形を抱え込んだ。
彼がいない世界なんて、これまで一度も想像したことがなかった。そんなことが現実になるなんて、ただただ不思議でたまらない。心の奥に渦巻く何かが、ふつふつと絶え間なく湧き上がってくる。
「嘘……嘘だよね……」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……」
人形の頭を力任せにぐっと掴んだ。
「嘘だ!」
振りかぶる体勢になったが、そのまま動けなかった。そのままベッドの上にゆっくり座り込み、ラッコの頭を申し訳程度にさすった。
結局、翌日の通夜には行けなかった。彼との最後の別れなのに、身体中の力が抜け、家を出るどころか、ベッドの上から立ち上がる事すらままならなかった。
今、彼はもうこの世にいない。心の中で、少しずつその事実が形を成していく。何もかもが白黒に見える。音や色が全て遠ざかり、世界が離れていく。私の内側で、何かがひっそりと壊れた。それは、心の奥底にそっと隠されていた大切なガラス細工が、ひび割れ、粉々に砕けていくような儚い感覚。
「助けて……」その言葉は、当然誰に届くわけでもなく、その次には静寂が待っていた。
スッと力が抜け、いつの間にか眠りに落ちていた。
白い砂丘の上に裸足で立っていた。砂丘はどこまでも広がり地平線のその先まで真っ白に染め上げていた。地平線を跨いだ空は透き通るように青く、入道雲が遠くに見えた。その世界はいつまでも静かで、美しく、どこか懐かしい感じがする。風が砂丘を撫で、まるで絵画の中にいるような感覚だ。その光景を見ながら、胸の中にある感覚が徐々に形を帯びてくるのを感じた。
「ねぇ由衣!ねぇってば!こっちだよ!」少女の声がした。
振り向くと遠くの葉桜の木の下に、一人の少女が立っていた。足の裏で砂つぶを感じながら、彼女へゆっくりと近づいていった。
絹のように白く長い髪、タンザナイトのような大きく蒼い瞳。真っ白でシンプルなワンピースを着たその出立ちはまるで人形のようで、どこか北欧の人を想起させる雰囲気を醸し出していた。
「久しぶりだね、由衣。元気にしてた?」
知らないはずのこの子を私は知っている。しゃがんで、彼女の透き通る顔を見つめた。
「……ええ。アニムトゥムも元気だった?」私は彼女の名前を呼んだ。
木の下には椅子が2脚、テーブルの上にはアールデコ調のティーカップのセットが置いてあった。広大な砂丘のなかにポツンとある事に毎度違和感を感じてしまうが、むしろ幻想的な構図といえば、そうなのかもしれない。
その木の下で彼女は出迎えてくれた。
「……ええ。アニムトゥムも元気だった?」
その名前を口にした時、忘れていた感情と記憶が波のように押し寄せてきた。そうだ、彼女は何度も会ってきた存在だった。そして、そのたびに、私は彼女に願いを託してきたのだ。
「今回は長い旅だったね。あれから一年くらいか、時が経つのは早いものね。つい昨日のようだわ」彼女は微笑みながら椅子に座った。
「そうか、今回は新学期が始まるところからだったから。そうね大体、一年前だね……」
「ささ、長旅の疲れもあるだろうし、とりあえずお茶でもいかが?今回は私特定ブレンドだよ!」
彼女は慣れた手つきでポットからカップに紅茶を注ぐ。あたりに漂う爽やかで深みのある香り。
「……ありがとう、いただくわ」
カップを受け取ると、その色、暖かさ、香りが五感を通してじんわりと体に染み込んでいくのを感じた。
「毎回不思議なんだけど、これって夢なのに香りまで感じられるのね」カップの水面に映る自身の瞳をまじまじと見た。普段はヘーゼルの色合いを湛えていた瞳が、今は牡丹の赤色に変わり、その鮮やかな輝きが揺らめく炎のように揺れている。
ここに来るまでは、ベッドの上で絶望に打ちひしがれていたというのに、今はまるで別人になったかのように、気持ちが不思議と落ち着いていた。まるで嵐が過ぎ去った後の静寂が、心の中に広がっているようだった。
「夢……というか、どちらかというとここって現実と夢の狭間なんだけどね。あなたの意識がはっきりしているのも、明晰夢っていうのに近いからかな。それもまぁ微妙に違うんだけど」
カップに口をつけ、一口啜った瞬間、これまでの辛さや苦しみが幾分か穏やかに溶けていく。温かな液体が体を包み込み、冷え切っていた心にわずかながらの安らぎをもたらしてくれる。
「ありがとうアニムトゥム、気持ちも少し落ち着いたわ」
「ふふ、それはよかった。頑張ってブレンドした甲斐があるってものだわ」彼女は微笑みながら続けた。
「で?今回はどうだった?」
小さく首を横に振る。
「……ダメだった。今回は交通事故で亡くなちゃった。結局何もできないまま入院してしまったから、手も足も出せなかったわ」
アニムトゥムはカップを唇に運び、ひと息含んでから「そうなんだ……」と呟いた。その声には、ほんの僅かに戸惑いの色が混じっている。
「そういえば今回の時間遡行なんだけど、記憶が断片的なのよね。原因は何なのかしら?アニムトゥムとの記憶が戻る度に、涼くんにそれとなく身の回りを警戒するように注意はしていたんだけど」
この一年、常にこの場所の記憶が頭に残っていたわけではなかった。記憶を失っている間は、当然アニムトゥムのことも思い出すことなく、彼女の存在は意識の外へと消え去っていた。ただ、体に強烈なショックが走ったり、心に深い印象を残す出来事が起こると、その度に記憶が戻ってくる瞬間があった。
「うーん……直接の原因はわからないけど、おそらく一年の長旅だった事が起因なのかもね。由衣と私の時間的距離が離れると力が届きにくくなるんだと思う。トランシーバーが離れれば離れるほど、音声をキャッチしずらくなってノイズが入る、みたいな感じかな」
「そうなんだ。うん、わかりやすい!それにしてもあなた、神様なのによくトランシーバーとか知ってるね」
「ふふーん!逆だよ逆、神様だからね!最近の流行りにだって敏感なんだから」仁王立ちをしながら自信満々に答えた。
かわいい。小さい子供がふんぞり変えり、鼻息を荒くしている姿を見ていると、なんだか微笑ましい気分になる。
「そんなに小さいのに神様なんだもんね……偉いわ、アニムトゥム」彼女の頭を撫でる。
「撫でられるのは存外悪いものでもないけどさ、私はあなたよりもずっとずっと年上なのよ。ちょっとは敬いなさいよ」
「フフフ、そうだったわね。ごめんごめん」そう言いながらも撫でる手は止めない。「もう!」と膨れっ面になるアニムトゥム。
「ねぇ、由衣……」神妙な面持ちに切り替わった彼女は語り始めた。
「由衣、あなたはもう何度もこの場所に来た。涼を失いたくない、その一心でまたここに戻ってきた。そして、私はあなたの願いに応えてきた。時間遡行の力で、涼の運命を変えようとしてきたよね」
彼女の言葉は、冷静で、何の感情も込められていないように聞こえた。けれど、その意味は深く、重い。
「うん、そうね……本当にあなたには感謝してるわ」
彼の死を何度も繰り返し見てきた事実を、改めて思い知らされる。
「ねぇ……私はどうしても涼くんを救えない運命なの?」
視線を落とし、地面を見つめた。砂が風に吹かれてさらさらと流れる音が耳に入ってくる。
「残念ながら涼の死は何度やり直しても、原因は違えど同じ結末に辿り着いてしまう。人の運命というのは、きっと変えられる部分と変えられない部分がある。その原因が前者だとして、涼の死という結果は、その後者だと思うんだ。時間遡行を繰り返しても、どうしても彼の死に収束してしまうんだよ」
アニムトゥムの言葉はあまりにも重く、心に深い影を落とした。
「バタフライエフェクトってやつね。何度も試してみてやっと実感したわ。そういうのはてっきり映画や小説だけの話かと思ってた」
「まぁ、なんていうか……こうやって私と由衣が話しているのも十分なファンタジーなんだけどね」
「ふふ、そうね……」
もう一口紅茶を啜った。寒暖がちょうど良くて、柔らかにそよぐ風が心地いい。
「時間遡行はもう何回目だっけ?」こめかみに人差し指を乗せながら尋ねた。
「少なくとも十回は超えてるね。普通の人なら精神に異常をきたしていると思うわ。あなたのメンタルは鋼でできてるの?」
「何言ってるの!人をロボットみたいに言わないで。私はこれでもか弱い十七歳よ」
「か弱い、ねぇ……」アニムトゥムは紅茶を啜った。
「自殺、他殺、溺死、病死に原因不明の死、そして交通事故。あの子のあらゆる死を何度も見ていて普通でいられる方がおかしいわ」
カップをテーブルに戻し「ふぅ」と大きな息を吐きながら続けた。
慣れているわけではない、決して。いつも心が引き裂かれ、それをツギハギで修復して、また引き裂かれの繰り返し。いや、とうの昔に心は壊れているのかもしれない。
「私は時間遡行したあなたに干渉できるわけじゃないから、収束しない可能性、つまり涼が死なない可能性はあなた自身が見つける事でゼロではないかも……っていう憶測だけで手伝ってきたわけだけど……でも……」
彼女は何かを言いかけたが「いえ、また今度話すわ」と言って黙ってしまった。
「でもその運命が収束してしまう原因があったとして、それを事前にどう見極めたらいいの?」
「そんな確かなものがあるなら、由衣は何度も時間遡行の旅に出なくてもいいんじゃないの?」
「それもそうだね。おっしゃる通り」無意識のうちに斜め上を見ながら、顎に手をやる。
「旅に出た時点で、均衡が崩れて、死の原因は無限に別れるわ。でもそうね……前触れとしては、一度見た出来事と状況が変化しているかもね」
「ん?それは具体的にはどういうこと?」
「死の原因の近くの出来事も改変してるってことよ。例えば、ある日、お友達とドーナツ屋に行くとするじゃない?お友達はポン・デ・リングを食べていたとする。そして過去に戻って、同じ日、同じ時間、同じドーナツ屋に行った時、そのお友達はオールドファッションを食べてた。と言えば理解してもらえるかな」
「なるほどね。うん、理解はできるけど、その……そんな微妙な差なの?流石に気づかないと思うんだけど」
「些細な運命の捻れならその程度だと思う。でもそれが人の生き死にだったり、多くの人が関わるような運命だったら、乖離も広がると思うわ」
「つまり、人が死ぬとなれば、明らかに大きな変化になるというわけね」
「そういうことね。もちろん、これも憶測に過ぎないけど」
「もう一度……」
諦めたくなかった。涼くんを救うためなら、どんなに繰り返しても構わない。彼女に懇願した。
「チャンスをくれないかな、アニムトゥム」
静寂が訪れ、そしてゆっくりとアニムトゥムは口を開く。
「由衣……もう十分じゃない?何度も繰り返してきた結果は、すでに見えている。それでもまた、同じ苦しみを背負うの?私はあなたのメンタルの方が心配だわ」
アニムトゥムの蒼い瞳が向けられる。そこには同情も拒絶もなく、ただ無言のまま、私の選択を見守っているかのような冷静な光が宿っていた。
「ふぅ……わかったわ。言って聞いてくれるあなたじゃなかったわね。じゃあ、あなたにその時間をあげよう。どこの時間に飛ばそうか?」
「うーん、今まで無作為に時間遡行してきたけど、決め手になるトリガーはわからないままなのよね」
「ふむ」
「そうね……じゃあ文化祭当日でお願い出来るかしら」
「文化祭?そこに何か根拠はあるの?」
「わからない、けど今までの傾向からすると、何か印象が強い出来事やイベントの時に涼くんは亡くなってる気がするわ」
「……なるほどね。じゃあ文化祭当日に。でも、無理だけはしないでね」
そう言って大きな深呼吸をしたアニムトゥムは私の胸に手をかざした。するとその刹那、強い風が吹き、白い砂埃がまった。
閉じた目を開けると、目の前にいたアニムトゥムは消え、急に周囲が静かな夜になった。視界も全体がぼやけ、そしてその体は暗闇に落ちていった。
闇から目覚めた瞬間、冷たい現実が肌を覆った。気がつくと、学校の廊下に立っていた。静寂の中で、どこからか微かに聞こえるざわめきと、足音の反響。蛍光灯の白い光が、天井から無機質に降り注いでいる。
反射的にポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示された時間に目を凝らす。文化祭当日、昼前。アニムトゥムとの記憶も途絶えてない。
涼くんは今、どこにいるのだろうか?彼が無事であることを、今すぐ確かめなければならないという強迫観念が胸を支配する。焦りを押し殺しながら、短いメッセージを打ち込む。
「今どこにいる?」
指先が画面をタップするたび、心臓の鼓動が一段と速くなる。しばらくすると、涼くんからの返信が表示された。
「教室にいるよ」
その一文に目を通した瞬間、心に張り詰めていた緊張の糸が一気に弛む。よかった、彼は無事だ。少なくとも今のところは。少しでも早く彼の姿を確認したいという思いに駆られて、教室へと足を向けた。廊下を進むたびに、文化祭のざわめきが次第に近づいてくる。
教室に到着すると、彼は受付の椅子に腰掛けていた。表情はぼんやりとしていて、まるで異世界に漂う船のように不安定だ。
「お疲れさま、涼くん」
私の声に、彼はゆっくりと顔を上げた。
「お疲れさま。と言っても座ってるだけだから、疲れはないんだけど」
「おやおや閑古鳥が……」
部屋に視線を投げた時、激しく肩をすくめた。教室は生徒や父兄で溢れ、賑やかな笑い声があちこちから聞こえてくる。そこに違和感を覚えたのは、まさにその瞬間だった。以前の世界では、この教室は閑散としていたはずだ。まるで、運命の捻れがこの場所に影を落としているかのように。
何かがおかしい。もしかしたら、涼くんの死は既にこの瞬間にも迫っているのかもしれない。チャンスだ!彼が命を落とすのはもっと先のことだと考えていたが、もしこの日を無事に乗り越えられれば、彼は生き延びるかもしれない。
彼の顔を伺いながら、周囲を警戒するように目を走らせた。今のところ、人がたくさんいる事以外変わった様子は見受けられない。それでも、涼くんの安全を守るためには、彼のそばにい続けるしかないだろう。
「ここで一緒に受付をしていようか?」ごく自然な口調で提案してみる。
しかし、涼くんは首を横に振った。
「いや、ちょっとお腹空いたんだ。屋台を見に行かない?何か食べようよ」
彼の言葉に、一瞬ためらったが、彼の意志の強さを感じ取ると、やむを得ずその提案に頷いた。彼をひとりにするわけにはいかない。
「仕方ないか。じゃあ、私と一緒に行こうか」
次の受付当番の日菜と交代し、私達は連れ立って運動場の方へ向かった。秋の空気が肌に触れると、屋台から漂う香ばしい匂いが空腹をそそる。
今のところ、周囲に特に大きな変化はなさそうだし、不審な人影もない。涼くんも体調は良さそうだ。
喧騒の中で、チョコバナナを咥えたままの蓮太郎くんの姿を見つけた。彼は大きく手を振りながら、口を開かずに「ヨォ」と声をかける。
「何してるのよ、チョコバナナ咥えたまんまで……行儀がわるいよ」
彼に尋ねたが、ただ肩をすくめただけで、特に答えようとはしなかった。涼くんの様子を伺いながら、一計を案じた。
「ねぇ蓮太郎くん、焼きそばを2つ買ってきてくれる?」
今、涼くんと離れるわけにはいかない。
彼は露骨に眉をひそめ、口からチョコバナナを抜いた「はあ?なんで俺がそんなことをしなきゃならないんだよ」
「いいから、お願い。あと十パックしか残ってないんだから」
「……いや、なんでそんなこと知っとるん?」
彼の疑問が口をついて出た瞬間、焼きそば屋の方から叫び声が響く。
「焼きそば、残り十パックです!」
蓮太郎くんは驚きと疑念の表情を浮かべながら、私を見つめた。そして、面倒臭そうに首を横に振りつつも「マジか、あーもう、仕方ねぇな」と言いながら、焼きそば屋へ向かっていった。
蓮太郎くんには申し訳なかったが、涼くんとそのままベンチに腰を下ろした。周囲を見回しながら、不安を抑えつつ、彼に話しかける。
「いい天気ね、今日は。夏も終わっちゃったから、ちょっと寂しいけど、空気が澄んでて気持ちいよね」
「ねえ桜井さん」彼が訝しげな目をこちらに向けている。言葉にならない疑問を抱え込んでいるかのように、その視線が鋭く私を捉えていた。
「なんだか今日様子が変じゃない?目つきが怖いというか、どこか緊張してるような……」
「そう?絶好調に機嫌いいよ」
努めて軽い口調で返したが、彼は私の表情を読み取ろうとしているようだった。わずかに微笑みを浮かべ、彼の不安を打ち消そうとした。
それからしばらくして、蓮太郎くんが焼きそばを両手に持って戻ってきた。
「ほれ、焼きそば。ったく人使い荒いな、お前は……」
彼は不満げに眉をひそめたまま、焼きそばのパックを私達に差し出した。
「ねえ、焼きそばを買うときに変な人とか、見かけなかった?」
念のために尋ねてみたが、彼は呆れたようにため息をついた。
「強いて言うなら、俺の目の前にいる奴が今のところ一番変だな」
彼の言葉に、わずかに拳を握りしめたが、今はそれどころではないと深呼吸をして力を抜いた。不審者がいなかったのなら、それでいい。とにかく、今は涼くんの身に危険が及ばないよう見守るしかないのだ。
「とりあえず、腹ごしらえしようか」
焼きそばのパックを開け、一口食べてみる。柔らかな麺とソースの風味が口の中に広がり、僅かに安堵の気持ちが胸の奥に広がっていった。
私達はゆっくりと焼きそばを食べながら、静かに文化祭の喧騒に耳を傾けた。
焼きそばを一口、また一口と噛みしめるたびに、微かな違和感が頭の片隅に湧き上がってくる。屋台の騒がしい声と行き交う生徒たちのざわめきの中で、涼くんがふと箸を止めて顔をしかめた。
「なんか、これ……変な味がするような……」
彼が呟いたその一言に、心は弾かれたように動揺した。涼くんの顔を見つめる。何を言っているの?そんなはずない。焼きそばはちゃんと先に毒見した。それなのに、急にどうして。
「そんなことないよ、美味しいってば。お店の味そのままって言ってたじゃない」
努めて明るい口調を保ちながら、箸を口元に運ぶ。しかし、涼くんの表情は晴れないままだ。彼は少しずつ焼きそばを食べ進めていたが、眉間には深いしわが寄り、額には汗が滲んでいた。彼の頬が、じわじわと蒼白に染まっていく。
「涼くん、ねぇ……大丈夫?」
問いかけると、彼はわざとらしく、そして力なく笑顔を作る。
「大丈夫……だよ。なんでもないから……」
だが、その声はどこか虚ろで、喉を詰まらせるような乾いた響きを持っていた。蓮太郎くんも彼の様子に気づき、顔を覗き込みながら心配そうに声をかける。
「おい、涼。お前、顔色が真っ青やんか?本当に大丈夫とや?」
「うん……、平気、だから」
涼くんは無理やり言葉を搾り出すように笑う。しかし、その瞬間、彼の呼吸が突如として荒くなり、喉を押さえながら激しく咳き込み始めた。咳の音は徐々に苦しげに変わり、まるで喉の奥に見えない手が入り込み、息を絞り出そうとしているかのようだった。
「涼くん……苦しいの?涼くん!」
パニックになりながら、彼の背中をさすり続けた。しかし、涼くんの様子は悪化する一方だ。彼の唇が次第に紫色に変わり、手足が痺れるかのように震え始める。瞳は焦点を失い、遠くを見つめるような虚ろな表情を浮かべていた。
「ねぇしっかりして……!」
私の声は、冷たい風にかき消されるかのように頼りなく、届くことのない響きを放つ。蓮太郎くんは周囲のざわめきに向かって大声を張り上げた。
「誰か、保健の先生を呼んでくれ!それと救急車を!」
ざわざわとした人波が後退し、まるで私達を取り囲む結界が形成されたようだった。涼くんはその場に膝をつき、ついには前のめりに倒れ込んだ。
「駄目、駄目よ……!」
彼の身体を支えながら必死に呼びかけ続ける。だが、彼の反応は次第に鈍くなり、瞳の奥の光が薄れていくのを感じる。涼くんの体温がじわじわと下がっていくような気がして、冷たい汗が背筋を伝って流れ落ちた。
そのとき、保健の先生が駆けつけ、慌ただしく応急処置を施し始めた。涼くんの手を握りしめながら、先生の動きを見つめることしかできなかった。自分は無力なカカシだった。
「……重度のアナフィラキシーショックかもしれない。救急車は?」
「もう呼んでます!すぐくると思います!」
蓮太郎くんの声がどこか遠くから聞こえる。その声を耳に入れながら、どうしてこんなことになってしまったのかを考えていた。
「ごめん……ごめんね……」
知らず知らずのうちに、口から何度も同じ言葉が漏れていた。目の前で意識が遠のいていく涼くんを前に、私の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じる。
救急車のサイレンの音が耳を刺すように響き渡る。涼くんの身体は担架に乗せられ、救急隊員の手で運び出されていく。その一連の動作を、ただ呆然と見つめていた。何度も過去をやり直してきたのに、まただ、また彼を救えなかった。
せっかく、今回は彼を救えるチャンスだったのに。
膝を折った瞬間、身体はもはや己を支えることすら叶わず、失意に縛られたまま、その場に崩れ落ちた。
その日の夜、涼くんは病院で亡くなった。自室の暗がりで、力なくベッドに横たわりながら天井を見上げた。
私が、彼の死を早めてしまったのかもしれない。涼くんを救うどころか、彼を死に追いやってしまったのでは。退院する日に涼くんは亡くなるはずだった。でも、今回はそれよりもずっと早かった。自分が時間遡行を繰り返してきたことで、何か歯車が狂ってしまったのではないか——そんな考えが、頭から離れなかった。
私が積み上げてきたものは、砂上の楼閣に過ぎず、ひと吹きの風で消え去ってしまった。呆然としたまま、天井を見上げた。彼のいない世界は、どこか冷たく、どこまでも遠く感じられた。ふと彼の声が耳を掠めた気がした。しかしそれは、遥か遠くへ失われた存在の残響が幻として甦ったに過ぎない。彼はもう、手の届かない場所へと旅立ってしまったのだ。私の手の中から、再び消えてしまったのだ。
それからというもの、空虚な生活を送った。レアリエス肺症候群を患い、入院した。たまに蓮太郎くんがお見舞いに来てくれたりして、涼くんとの思い出を語る日々が続いた。
その内、レアリエス肺症候群は影を潜め、いよいよ退院の日が近づいてきた。そうだ、退院の日。あの世界では涼くんは交通事故で亡くなった。思い出したくはなかった。でもまだだ、まだ終わってない。またアニムトゥムに会わなければ。