あっという間に卒業式を迎えた。

 桃が散り始め、桜のつぼみが膨らみ、越冬した鳥が飛んだ日に、講堂でしめやかに催された。
 部活の時はだだっ広く感じたけど、全校生徒プラスアルファだと狭いものなんだな、なんて舞台袖で思った。
 卒業生代表の雛田先輩の答辞の前に、わたしたち演劇部渾身の軽演劇が始まる。

 クリーム色のローブに身を包んだ板山部長が、わたしに言う。

「友よ。それでも行くのか? ここにいれば、あたたかい食事もゆっくり眠れる家も、君を愛する家族や友人もいる。それを捨てても、まだ見ぬ景色とやらのために、独りで旅に出るのか?」

 緊張気味だけど、雛田先輩と香西先輩の容赦ないしごきのおかげで、板山部長はなかなか堂に入っていた。
 わたしは織屋先輩と作った空色の外套を翻し、堂々と声を張る。

「ああ。私はすべてを捨てていくよ。そうしなければならないのだ」

 ひとつひとつの台詞を、噛みしめるように言う。

「再会の約束はできない。帰る場所があると甘えていたら、たどり着けない場所を目指すのだ。最後に心よりの礼を、愛してくれたすべてのものに残そう。そしてそれは――」

 その刹那、わたしは板山部長から視線を移動させた。
 一年生の席に成実がいる。
 少し離れて就也がいる。
 そして壇上には、わたしたちを見つめる雛田先輩がいる。

 雛田先輩が書いた言葉を、わたしの声で、観客に伝えた。

 劇が終わり、拍手の後、先輩の答辞が始まった。

 定型文の季語の挨拶から入り、感謝の言葉を述べ、思い出、学んだこと、今後の決意とつつがなく読む先輩が、最後の部分で少し言葉を詰まらせた。
 けれどすぐに元に戻り、聞きよい声音で続ける。

「やがて大人になった私たちは、自分がいかに狭い世界にいたか思い知るのでしょう。そして、その世界にどれだけ守られていたか、頭ではなく心で識るのだと予感しています。この三年間の月日は、そのまま青春と言い換えることができます。その真ん中にいた私たちにとって、青春は美しくなんてありませんでした。ガラスのカケラのように、遠くから見れば美しいけれど、実際に触れると怪我をし、痛みが生まれ、血も涙も流す――そんな日々でした」

 いつか振り返った時、この苦しかった日々を愛おしく思えることを、
 今は、願ってやみません。

 ……最後にもう一度、感謝の言葉を贈って、雛田先輩の答辞は幕を下ろした。
 わたしの頬は濡れていた。

(……わたしもいつか、『今』を、穏やかな気持ちで振り返れるかな……)

 膝に置いた手を、ぎゅっと握る。
 卒業生が退場する。精一杯の拍手で見送った。
 先輩が所属する三年六組の生徒たちが、ひどく泣いていた。

 在校生が会場の片付けをして、ホームルームが終わると、ほとんどが校門前に向かった。卒業生との最後のお別れをしに。

 春日和の陽射しの中、校門前には人だかり。あちらこちらで、泣き声や写真を撮る音。
 わたしは花束を持って、二年生の先輩たちと合流した。
 板山部長が香西先輩に花束を渡す。雛田先輩には、織屋先輩が渡した。

「フゥ! 花とイケメン! さすが雛田パイセン、最後まで顔の良さがたっぷり!」

 大はしゃぎでカメラを構えるけど、織屋先輩が選んだという花束は本当にセンスがよかった。
 雛田先輩は青、香西先輩は緑のイメージでまとめたそうだ。雛田先輩も今日はおとなしく好きなように写真を撮らせていた。
 その様子を香西先輩と遠巻きで見守る。すると、先輩が話してくれた。

「今すぐは無理だけど、生活が落ち着いたらまた演劇を再開しようかなって。留学から帰ったら、いつでも雛田と作品を作れるようにね」

 晴れ晴れとした笑顔で。やっぱり香西先輩は、お父さんに似てると思った。

「元部長ーぉ! パイセンがクラスに戻りましょうってー!」

 散々写真を撮って満足したらしい織屋先輩が手を振る。
 香西先輩が、雛田先輩の元に何のためらいもなく向かった。

「はー眼福眼福……うぉっ!」

 スマホをウキウキ眺める織屋先輩が、急に横に避けた。

「あっぶな、鳥のフンが落ちてきた……あ! 見てはづるん、燕が巣を作ってる!」

 校門近くの駐輪場の軒先に、燕の巣があった。ここからじゃ見えないけど、もしかしたらあそこに卵があるのかもしれない。

「春って感じだねー。数週間後にはピヨピヨさえずるヒナが見れるかな?」
「楽しみですね」
「私も次は三年か……はづるん! 先輩後輩じゃなくなっても、私のこと忘れないでね!」

 ひしっと抱きついてくる。
 それは無用な心配というものだ。こんな先輩、忘れようにも記憶から消えない。

「演劇部がなくなっても、先輩は先輩ですよ」

 演劇部は廃部になった。二年生が受験を控え、わたしを含めて一年生が全員退部したからだ。
 わたしは四月になったら声優の仕事……いまだにこの単語に慣れない……が本格的に始まる。

 成実は部活も養成所も辞めて、バイトに励みつつ、今度劇団に入るらしい。
 就也も退所して――今は、声優の夢を追い続けるかどうか迷っている、と聞いた。

 すべて、人づてに聞いた話だ。
 わたしたちはあれ以来、ほとんど話していない。
 いつかの予感に違わず、わたしたちの仲は元に戻らなかった。何度も聞こえたひび割れた音が示すとおりに。

 燕の巣にあるかもしれない卵に見やる。あの音は、きっと……

「ねーはづるん。ちょい真面目な話していい?」

 織屋先輩がいつになく真剣に言った。

「私さ。今まで、あんまり夢らしい夢ってなかったのね。演劇部に入ったのも、推しピの観劇が生き甲斐だから、言っちゃえば単なる好奇心だったのさ。ずっと私は『演劇を楽しむ側』だったんだけど」
「けど……?」
「今回の卒業式公演で、準備したり練習したりして、『提供する側』も楽しいんだなーって初めて知ったよ。はづるんのおかげ!」

 織屋先輩が「ありがとね!」と大輪のひまわりみたいな笑顔をくれた。
 少しびっくりして、徐々に嬉しさがこみ上げる。

「わたしの方こそ、ありがとうございます」

 明るくて、楽しくて、でもそれだけじゃない先輩。
 この人を一言で言うと、『懐がでっかい』だと思う。わたしもこんな風になれたらな、と憧れた。