予鈴が鳴ったので、わたしはひとまず教室に戻った。
 織屋先輩とは放課後――今日は午前中だけなので昼だ――演劇部の部室で落ち合うことを約束して。

 雛田先輩は図書室に戻ってこなかった。

 どうにも気になって、休み時間に三年生の教室に行こうかと思ったけど、あいにく移動教室ばかりで叶わなかった。
 成実と就也は休みだった。先生に「何か知らないか?」と訊かれたけど、こっちが知りたい。
 考えることが多すぎる。時間の進みがやけにノロく感じて、気だけがやたら逸った。

 授業が終わると、演技ノートとスマホと財布だけポケットに入れて一階に急いだ。
 三年六組の教室を覗くと、帰り支度の喧噪の中、雛田先輩が窓際の一番後ろの席にいるのを見つけた。

 あの黒丸の影……『魔が差す』の『魔』と呼ぶべきか、それは見当たらなかった。胸を撫で下ろす。
 教室に入れず、扉の前で二の足を踏めないでいると、雛田先輩がわたしに気づいた。

「何の用だ」

 素っ気ない言葉。平素の先輩と何ひとつ変わりない様子に、拍子抜けする。
 あなたが心配で見に来ました、とは言えず、わたしが二の句を継げないでいると、

「……いい気味だ」

 そんな低い声が、耳に届いた。

 三年六組の教室からだ。誰が発したのは分からない。
 けれど、ほとんどの生徒が横目で先輩を見ていた。

「あいつ、受賞取り消しになったんだって?」
「主演俳優が逮捕されるとか。カワイソー」
「いい気になってるからだよ、バチが当たったんだ……」

 木々のざわめきのような囁き声は、声を潜めているようで聞こえよがしだった。

(何これ……)

 この人たちは明らかに喜んでいる。雛田先輩が災難に見舞われたことを。
 嘲笑って、目すら合わせようとしないまま、指をさしているのだ。
 あまりの卑怯さに頬がカッと熱くなった。
 なのに当の先輩は完全無視の姿勢だ。その様子に、誰かの舌打ちが聞こえた。

「怒らないんですか?」
「何が」
「だってさっきの、陰口みたいなの……聞こえてたんでしょう?」
「別に。グチグチ言ってたのは志望校に落ちた連中だ。単なる腹癒せ」
「だからって……」
「それに。――あいつらだって、普段はそれなりにいい奴らなんだよ」

 それを言われると、貝になるしかない。
 雛田先輩が言っているのは、あの陰口を叩いていた人たちだって、受験とかが絡まなければ、普通のクラスメイトで普通に仲良くしていたってことだ。
 けれど今の時期は、心が疲れて荒みやすい。他人の不幸を舌なめずりして喜ぶほどに。

(でもだからって、好き放題言っていいわけじゃない……)

 やっぱり怒りは収まらなかった。文句を言いに行ったりはしないけど。

「あの……大丈夫ですか?」
「何が」
「新人賞のこと……」

 モゴモゴと口の中で言うと、雛田先輩が軽くため息をついた。
「言っただろう。俺は別に賞そのものにこだわっているわけじゃない」
 それは聞いたし、雛田先輩の性格も分かってはいるけれど、でも……ああ、うまく言葉にできない!

「おまえといい二年のアイツといい、大げさすぎだ。用がないんなら、俺は行くぞ」

 そう先輩が胸ポケットから万年筆を出そうとしたけど、手元が狂ったのかあっけなく落とした。勢いよく落ちて、地面を跳ねて教室まで転がっていく。
 わたしは反射的に教室に入り、万年筆を拾おうとした時、――ペキン、と音がした。
 眼前が真っ白になる。
 誰かが、先輩の万年筆を踏んだのだ。見上げると、大柄な体格の男子生徒……前に雛田先輩を悪し様に罵った人が、昏い瞳でわたしを見下ろしていた。

「あ、踏んじまった。悪いね」

 ニヤニヤしながら謝る。わざとだとすぐ分かった。

「なんてことするんですか!」

 咄嗟に出た大きな声に、男子生徒が足を引っ込める。「わざとじゃない」と嘘をついて。
 最低だ……。
 万年筆は留め具が壊れ、悲しい姿になった。

「先輩……」
「……」

 快晴の空に似た色合いの万年筆。事あるごとにそのキャップを外して填めた先輩。たまに思案顔で見つめていたもの。
 なのに今、先輩の目は万年筆を映していない。

「……捨てとけ」

 ふいっと先輩が顔を背けて、昇降口の方へ歩いて行った。

(どうして……)

 大事なものじゃなかったの、と壊れた万年筆と先輩の背中を見比べる。
 外が曇り空だからだろうか、廊下は全体的に薄暗い。
 先輩がより闇が濃い方へ向かうようで、なんだか落ち着かなかった。

 わたしはハンカチで万年筆を包んで、ポケットに入れた。