着替えてからのレッスンは、養成所でやっていることとほぼ同じだった。
表情筋を鍛えるトレーニング、腹式呼吸、ストレッチ、発声と滑舌の練習。
お昼休憩を挟んで、一時間ずつボーカルとダンスレッスンを受ける。
「初日だからスタンダードなものばかりだけど、日舞や空手、さらに変わり種としてポージングやメイクレッスンも受けるそうですよーうらやましいなぁ」
高遠さんがほのぼの言ったけど、わたしは目の前をこなすこと、みんなについていくことで一杯一杯だった。
なので、『ジュニパー』の役作りが全然捗らなかった。
休憩時間に、渡された資料を読み込む。わたしだけじゃなくて全員が。
ジュニパーのキャラデザインは、旅人らしい格好だった。
アロサカのキャラは、イメージカラーが珍しく、パステル系やスモーキー系のふんわりした色が使われる。心身が疲れて癒やしを求める人は、強く訴える色は好まない、という理由らしい。今の流行りだからいいかもしれない。
ジュニパーはスモーキーグリーン。ぴょこんと外にハネた髪型に、イメージカラーの外套。目はいわゆるジト目で、立てた襟で口元を隠している。表情が読み取りづらい系の外見だ。
長らく一人旅をしてきたという流浪の旅人。
一体どんなキッカケでサーカス団に出会って、どんな関わりと会話を経て、入団を誘われたのだろう。
そこの過程はまだプロット段階だというから泣きたい。自由に考えろと言われたけど。
(せっかく仲間ができるチャンスなのに、「僕はひとりでいい」なんて)
孤独を愛するジュニパー。差し出された手を取らない男の子。
……そういえば、似たようなことを言っていた人がいたな。
「強い……んだろうな」
わたしには無い強さだ。
今もなお成実と就也に、「傍にいてほしい」「話を聞いてほしい」と願うような弱いわたしには。
難しすぎる……。
迷子の子どもの気分だ。今すぐLINEを送りたい。
でも誰に……そもそもスマホはロッカーに預けたから無理だけど。
体育座りで顔を伏せる。
この休憩が終わったらアフレコ授業だ。とにかく、どんな口調で行くのかだけ決めて……
「羽鶴ちゃん。いま話しかけてええ?」
寧音ちゃんが正面に立って、遠慮がちに尋ねた。
わたしは顔を上げて、慌てて「大丈夫」と答えた。
寧音ちゃんが隣に座る。
「アフレコ練習の前に、ちょおーっとだけ読み合わせせぇへん?」
お願い、と寧音ちゃんは言うけど、こちらこそ願ってもないことだ。
「じゃあ、始めるで」
スゥッと息を吸ったのが合図だ。
「『ジュニパー、どうしても行くの?』」
ラベンダーはサーカスの団長で、面倒見のよいしっかり者。寧音ちゃんが大人びた声で、年長者らしいラベンダーを作り上げた。
でも寧音ちゃん本人は訛りが気になるらしく、何度も言い直してわたしに確認した。わたしも地方出身だから正しい発音は自信がなくて、拙くて申し訳ないけど気になる部分を指摘した。
ジュニパーのセリフはふたつ。「ああ」と「ひとりでいい」の下りだけ。
わたしは男の子らしい声音で、
「『僕は、一人でいいんだ』」
そう言った、んだけど……
(……?)
違和感がひどい。なんか違う気がする。どこがどうってわけじゃないけど。
ジュニパーはラベンダーの誘いをきっぱりと断っている。たぶん他のメンバーにも引き留められただろう。
けれど自分の意見を貫き通す。つまり自分の意志が強い子なんだ。
そう思ったのに、この違和感は何?
寧音ちゃんも居心地の悪さのようなものを感じたらしく、頭を掻いて首を傾げていた。
「お二人とも、移動しますよ」
『レモングラス』役の小柄な女の子がわたしたちを呼んだ。
すぐさま立ち上がる。考える余裕なんてなかった。
レコーディングスタジオは、養成所にあるものよりずっと広かった。
マイクとモニターがあるレコーディングブースと、録音した音声を編集する機械があるコントロールルームに分かれる。
ほぅ、と合格者の面々からため息が漏れた。正面には四つの大きなモニターと等間隔に並んだ四つのマイク。足元のカーペットが足音を吸い込む。
「広くて、いい金魚鉢ですねぇ」
「はい。空調も静かだし、環境がいい」
背後で高遠さんと寿さんが言った。『金魚鉢』はレコーディングブースのことだと養成所で習った。
すると、コントロールルームにいる音響スタッフさんが声をかけた。
「アフレコレッスンを始めます。まずは色取さん、寿さん、高遠さんで見本を見せてもらいます」
ドキッと心臓が跳ね上がった。
「といっても、アロサカの画(え)は何もないので、既存の作品になりますが。『桜もののふ』一期の四話です」
心臓が止まった。
高遠さんが頬を赤らませる。
「うわ、なんか恥ずかしいなぁ。紅ちゃん久しぶりすぎて自信ないよ、色取さーん」
「プロならやる! タカトーさんのキャラ以外は私と寿さんで担当するから」
「一人三役ですね。分かりました」
高遠さんは自信なさげだったけど。
すぐにそんなのは謙遜だと分かった。思い知った。
(うわぁ……!!)
『桜もののふ』の世界、だ。
たぶんモニターのアニメ映像がなくても、声だけで、わたしは子どもの頃大好きだったあの世界にトリップできただろう。
キャラクターの表情が見える。景色が見える。画面を彩る桜吹雪が見える。
本当にそこにいるみたいだった。
ずっと大好きなキャラクターが、世界が、確かにそこにあった。
レコーディングブースの外にいるのに、呼吸をすることさえ憚れた。
(きれい……)
マイクの前に立つ高遠さんは、まっすぐだった。
背筋や立ち姿だけじゃない。凜々しいとか美しいとか、こういう時に使う言葉なんだろう。
鼓動が、ドクンと大きく鳴った。
「はい、ありがとうございましたー。どうですか、皆さん。実際は十人以上ブースに入るので、マイクの前に立つのは入れ替わり立ち替わりになります。この交代のタイミングがとても難しいのですが、今日は時間が押してるのでマイクの前に立ち、声を吹き込むことだけしてもらいます。モニターに映される画もラフ画です」
緊張が走る。
わたしの出番は一番最後。寧音ちゃんは最初と最後で、二回出番があった。
いわゆる『リテイク』はなかった。逆に怖い。終わった人たちの顔に爽快感なんてなくて、みんな一様に顔面蒼白だった。お化け屋敷に入った後のような。
(ジュニパーは、どんな子だろう)
役作りもできてないのに、役として話すなんて無理だ。
どうしたらいいの……。
その時、もらった資料を収納したファイルがこぼれた。
雛田先輩がセロハンテープで繋ぎ合わせたプリントが床に落ちる。
……指先で拾った時、何故か少し笑ってしまった。
(先輩、どんな顔でこれを作ったんだろう)
想像するとなんだか可笑しい。
あの時は大変だった。プリントが破られて、成実と言い合って、就也に泣きついて、先輩に叱咤されて……
……ん?
ふいに閃いた。ふたつの考えが、脳内でぶつかり合う。
(そんな……でも)
アフレコとは別のことで混乱しかけたけど、わたしは頭を振った。
まずは、目の前のことに集中しよう。それ以外は考えるな。
ボールペンで、思いついたことを脚本に書き込む。そうして他の人のアフレコを聴く合間に、少しずつ考えを整えた。
二十分後、わたしの出番が来た。名前を呼ばれて、薄いメッシュ生地でできた金魚すくいの網みたいなもの――ポップガードに守られたマイクの前に立つ。
寧音ちゃんと「よろしくお願いします」と言って、シナリオ片手にマイクに臨む。
「行きます、キュー」
モニターの上のキューランプと呼ばれる四角いランプが赤く灯る。録音開始の合図だ。
「『ジュニパー、どうしても行くの?』」
寧音ちゃんが先ほどより耳触りの柔らかい声を出した。
自然体に近い。面倒見のよいキャラクターだからって、無理して大人びた声を出す必要はないのかもしれない。
「『ああ』」
わたしも『男の子の声』を意識せずに言った。
わたしがいま演じるのは『男の子』ではない。
『ジュニパー』だ。
でも素っ気ない口調は、あの先輩をイメージした。
「『ずっと一人だったんでしょう? 寂しくはないの?』」
「——『僕は、一人でいいんだ』」
そう言った瞬間、
「『嘘だ……』」
ラベンダーが――寧音ちゃんが言った。シナリオに無いセリフを。
わたしは驚いたけど、息を呑むのは我慢した。余計な音が入ってはいけない。
「はい、終了です。えー、ラベンダー。いま何故アドリブを入れたのですか?」
音響監督さんに言われ、寧音ちゃんが頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
「謝らなくていいですよ。理由をお願いします」
「や、なんか……」
寧音ちゃんはわたしをチラッと見た。
「断るジュニパーが、すごい寂しそうに聞こえたんです。だからつい『嘘でしょう』て思って。……おかしいですね。別に泣きそうな声でもあれへんかったのに」
シーンと静まり返る。
緊張と恐怖で頭皮が粟立つ。まさかわたしの演技で他の人に影響があるなんて。
「ではジュニパー、どうして今の演技に行き着いたのか理由を教えてください」
わたしは落ち着いて、うまく伝わるように言葉を選んだ。
「ジュニパーは意志の強いキャラクターだと思ったからです」
「だったらもっと、拒絶するように言ってもいいのでは?」
「それだと意志の強さよりも頑なさが強くなるような気がして……それに、気を遣ってくれるラベンダーを拒絶するのはなんか違うなって、思いました。だ、だから、本当は『ひとりでいい』わけではないけど、ジュニパーにはジュニパーの考えがあって、『ひとりでいい』と言ったのでは、と……」
ダメだ。うまくまとめられない。
謝罪すると、音響監督さんは「分かりました」で終わらせた。
失敗したかも知れない。
でも、わたしは思ったのだ。
人は一面だけじゃないって。
表面的な言葉だけで受け取るのはダメだって。
あの怖くて厳しい雛田先輩が、プリントを直してくれた。
「顔がいい」ばっかりだと思っていた織屋先輩は、わたしの落ち込みを見抜いてコーンポタージュをごちそうしてくれた。「ごはんだけは食べなよ」を言葉ではなく態度で示してくれたのだ。
そして成実。
一生懸命さの裏にあった悩みや苦しみ。それを見過ごしたからこそ、わたしは成実を傷つけたんだ。
成実をあそこまで追い詰めたのは、わたしだ。
香西先輩や就也にだって、きっとわたしには見えない一面があるのだろう。
(就也……)
あの優しい笑顔と声が浮かんだけれど、すぐに思考の底に沈ませた。
最初のホールに戻ると、桐月先生が待っていた。
「皆さん、お疲れ様でした。本日のレッスンはこれで終了です。どうでしたか?」
疲れました、と『サンダルウッド』役の子が言った。
「大変だったでしょう。特にアフレコ授業。キャラクターのラフ画と一言二言の設定だけで、キャラとしてしゃべれなんて無茶ぶりもいいところです。企業で言うところの圧迫面接に近いですね。こんな初回になってしまって、申し訳ありません」
桐月先生が軽く頭を下げる。
「ですが、現場に出たら似たようなことはいくらでもあります。高い対応力、何よりギリギリまで考え続ける粘り強さを要求されます。これから短期間で、それらを培い、伸ばし、よい声優になって頂ければと思います。そのために私は、講師として全力であなたがたにぶつかりましょう」
どうぞよろしく――桐月先生のお辞儀に、わたしたちは姿勢を正し、「よろしくお願いします」を返した。
他の臨時講師の方々も、言葉を送ってくれた。
まずは青井さん。
「はい。お疲れ様です。臨時講師として厳しくするよう要求されたので、遠慮なく行かせていただきました。もう皆さん、最初にあった考えは跡形もなく消えているでしょう? 自分は合格したのだから大丈夫――という『勘違い』です」
寧音ちゃんがこっそり「はい……」と返事した。
次は寿さんだ。
「声優、そして役者というのは本当に奇怪な商売です。僕はこれを職業とは絶対に言えません。なにせ安定しない。はっきり言いましょう。僕たちは日雇い労働者です」
色取さんが継いだ。
「寿さんの言うとおりです。声優はレギュラーアニメが終わると、仕事がなくなります。定期的に、数ヶ月ごとに無職になる生業です。私が昨日も今日も明日も一週間後もスケジュールが埋まっているのは奇跡に近い」
奇跡なのか。武道館でライブをし、リリースしたCDがオリコンに入るほどの人気がある色取さんなのに、『奇跡』なのか。
「自分をコンテンツ化して、時に多くの人々から人間として扱われないことを甘受しているのに、骨折や病気のひとつもすれば一瞬で路頭に迷う。そんな仕事です」
怖いでしょう、と問いかける色取さんに、ゾクリとした。
「実を言いますと、私は昨日新しいアニメのオーディションに落ちました」
(!?)
合格者が全員目を剥く。
「あ、色取さんもですか。私もですー」
「僕もです。舞台と合わせると不合格記録が十に届きそうです」
高遠さんと寿さんはあっけらかんと言うけど、俄に信じられなかった。けれど、他の先生方も「同じく」と手を挙げる。
「生半可な気持ちなら、ここで引くのも手です。それはあなたがたの自由。それだけは覚えておいてください」
色取さんが手持ちマイクを下ろした。
最後に、高遠さん。
「先輩方が色々怖いことを言っちゃいましたね。皆さんは今、すごーく怖くなってると思います。でも」
高遠さんは声も目の色も、深くて、優しかった。
「怖いだけ、ですか? 他にも別の感情が生まれませんでしたか? 胸に手を当ててください。もし熱かったら、――そうですね、嬉しいです。声優の先輩として」
桐月先生も、他の皆さんがうんうん頷く。微笑みさえ浮かべていた。
「いつか同じ現場で会えることを、私は楽しみにしています。それまで私も生き残れるよう頑張りますね!」
高遠さんからのメッセージに、自然と拍手が出た。
手が熱い。
わたしの胸も熱い。
何かが――灯ったみたいに。
課題をもらって、挨拶をして、解散した。更衣室で着替えると、ロビーに合格者の面々が揃った。
寧音ちゃんが言った。
「うち、恥ずかしいわ。無意識でナメとった。オーディションに合格したんだから自分はやれるってまさしく『勘違い』しとった」
「同じく、です。やっぱりプロはすごい」
「ワタシたち、あの領域まで行けるんでしょうか……」
『サンダルウッド』役のマッチョ男子と、『レモングラス』役の小柄な女子がため息をつくと、わたしの隣にいる美少女が言った。『イランイラン』役の子だ。
「アタシ、辞退しようと思う」
「え!?」
「声優になるのが嫌なんじゃない。ドキュメンタリーが……アタシが傷ついたり苦しむ姿をたくさんの人に見られるのは……嫌」
「おれも、自信ない……」
『スペアミント』役の男子が眉をゆがませる。アクセサリーは外したままだった。
みんな、何も言えなかった。そんな余裕が無かった。
別れの挨拶もそこそこに、わたしたちは解散した。
外に出ると、真っ赤な夕陽が空いっぱいに広がっていた。
冷たい空気が火照った頬に心地いい。
「じゃあな、羽鶴ちゃん」
「うん。今日はありがとう」
「なあ、……来月、来る?」
他のメンバーが来ないかもしれないと知った今、寧音ちゃんが不安になるのも分かる。
でも、わたしは、
「もちろんだよ」
きっぱりと言った。
ああ、わたし、こんな気持ちの良い声で返事ができるんだ。
寧音ちゃんは笑って、「またなー!」と手を振って別方向の駅に向かった。
わたしはゆっくり歩いたけど、そのうち走り出した。
息が上がる。身体はヘトヘトだ。けれどわたしは、おなかの底から湧き上がるものがせっつくまま駆けた。
胸が熱い。
体中の血液が循環している。
頭が冴える。
興奮している。
今すぐ叫び出したい!
この感情を言葉にするとしたら、たったひとつだ。
駅に着いた。今から新幹線に乗ることを伝えようと家に電話をかける。
「どうだった?」というお母さんの質問に、わたしははっきり答えた。
「――楽しかった!」
放課後の講堂に、わたしの声が響く。
跳ね返ってくるそれをなるべく客観的に聴こうとしながら、わたしは最後の一行を「これで仕舞いです」の意を込めて放った。
「ホホ敬って、ういろうは、いらっしゃりませぬかーあ!」
仕上げに手を合わせて深くお辞儀する。
さてこの試みはどうだろうか、と、わたしは就也と――雛田先輩を窺った。
顔合わせの日から九日経って、火曜日。部活の日。
「どうでしたか!」
意見を促すと、就也が軽く拍手をする。
就也は先週まで家の用事があったそうで、今日は久々の参加だ。
「うん。いいと思うよ。外郎売に設定をつけて読み上げるって、今まで無かった発想だったけど、面白いね」
笑顔の就也とは対称的に、どっしりと胡座をかく雛田先輩は、しかつめらしい表情のままだ。
「今のは『家族が作った借金のせいでとにかく金が欲しい外郎売』でいいのか?」
「は、はい!」
わたしは手早く足元に置いてあった小さめのリングノートを拾い上げる。
「必死さが足りない。金がなければ一家離散か一家心中の崖っぷちまでに追い込まれた人間にしては、緊張感が少なかった。あと設定に引っ張られるあまり、せっかく出来ていた鼻濁音と濁音の区別が曖昧になった。気をつけろ」
「はい!」
必死にメモを取る。先輩は二度は言わないので、聞き漏らせない。
「個人的には先週金曜日の『実は詐欺師で眉唾物を売ろうとする外郎売』の方が面白かった。以上だ」
「はい、ありがとうございます!」
大きく一礼する。
就也がポカンと口を開けた。
「どしたの、就也?」
「や、羽鶴と雛田先輩、いつの間にそんな仲良く……距離が近くなったんだ?」
「仲良くなってねぇよ。こいつが部活の時間になったら俺がいる図書室まで来て、引っ張っていくんだよ」
「羽鶴がですか!?」
「誤解だよ、引っ張ってなんかない! ただ、練習を見てくださいってお願いしてる……だけで……」
「羽鶴が……?」
就也が信じられないと言いたげな顔になるのも分かる。
こんな積極的な行動、少し前のわたしなら考えられない。
けれど、……手段は選んでいられないのだ。
「図書室とはいえ衆人環視の中、後輩の女子に頭下げられて断れるわけないだろ」
「迷惑だったらすみません。でも……先輩ならお世辞とか気遣いとか無縁だから、バシッと言ってくれて有難いんです」
「前から思ってたけど、おまえ結構失礼だな?」
「えっ!? そうですか!?」
「そうだよ。ついでに図々しい。東京に行く前の練習の日、俺のバアさんの話も聞き出そうとしただろ。直前にあそこまでボロクソ言われたのに、萎縮するだろフツーは」
「――しかしそんな後輩を、雛田颯は憎からず思っていたのだった」
某まるこちゃんのナレーション口調で間に入ってきたのは、織屋先輩だった。
「ですよね、パイセン! 心の中でははづるんのこと可愛い後輩って思ってますよね!」
グッとサムズアップして、織屋先輩が雛田先輩の顔を覗き込む。
「勝手に言ってろ、妄想女」
と憎まれ口を叩く雛田先輩。その様子に、遅れて入ってきた香西先輩が苦笑する。
織屋先輩は挫けない。
「えーでも、可愛い後輩だと思ってなきゃ何ゆえここにいるんですか。三年生はいま自由登校でしょ?」
「基本毎日登校してんだよ。図書室で勉強と執筆するためにな」
「えっ、新作書いてるんですか? ていうか家で書けばいーのに」
ご尤もな疑問に、代わりに香西先輩が答える。
「もうすぐ卒業だからね、僕たちは」
それを聞いて、織屋先輩が思い出したように頷いた。
「……ああ、そうですね」
もう二月も半ば。
あと数週間もすれば、雛田先輩も香西先輩も卒業だ。
学校にいたい理由はなんだか分かる気がする。
「小山内さん。あんなこと言ってるけどね、雛田は練習に付き合うの嫌じゃないんだよ。元々面倒見もいい方だし、昔、一方的に練習日を減らした先輩と大喧嘩して部活やめたけど、演劇部自体は好きなんだよ。だからドンドン利用するといいよ」
それを聞いて「はい」とは答えられない。
「利用っつったか今?」
当の先輩が睨む。けど香西先輩はどこ吹く風だ。
「あ、もちろん喜多くんもね!」
「はあ……」
就也も曖昧にしか頷けない。
わたしは気を取り直して、就也に言った。
「待たせてごめんね、就也。他の人の外郎売も聞きたかったんだ」
途端に、就也表情を曇らせた。
「ごめん。実はさっきの休憩で家から電話が入って……早めに帰らなきゃなんないんだ」
手の先がピリッと痺れた。
就也は何度も謝って、わたしは笑顔を作って、「仕方ないよー」と見送る。
帰っていく就也が背中に、胸が痛くなった。
(就也……)
気持ちが勝手に沈む。
すると織屋先輩がわたしの顔を覗き込んだ。
「はづるんさ、なんか可愛くなった?」
「うえっ?」
藪から棒にそんなことを言われた。
「あ、僕もそれ思った。髪型が少し変わったし、メイクもちょっとしてるよね」
「ですよねー。先週はあまり気づかなかったけど、可愛くなってる。雛田パイセンもそう思うっしょ?」
「……?」
「あ、ダメっすわ。これ全然分かってない顔っすわ。パイセン、顔だけなら学園もののイケメンヒーローでいかにも『面白れー女』とか言いそうなのに、何故そんなびみょーに残念なんですか?」
「何故と言われる方が何故なんだが。つまりこいつが外見を磨いたってことか?」
もう少し言いようがあると思う。
「声優は外見も重要だと聞いたので……今更なんですけど。先週、初めて眉毛を描いて登校したら濃すぎて。クラスメイトに爆笑されて先生に呼び出されました……」
「あはは、あるあるー。でもいいことじゃん。やっぱり顔だよ顔! 顔がよければ八割よし!」
「すべてって言わないところが意外と冷静だよね、織屋さんは」
ははは、とふたりの先輩の笑い声。
先週の失敗を思い出し、苦々しく思っていると、
「……東京行って、何かに目覚めたってわけか」
雛田先輩の問いに、わたしは迷いなく「はい」と答えた。
「先々週の日曜日、プロの声優さん……いえ、先輩方の技術を目にして、初めてアフレコをしました。ずっと震えてました。先輩方が偉大すぎて、声優の世界の果てしなさが少しだけ見えて……怖いと思うこともありました。でもそれ以上に、なんかこう、わーっとなって、ひゃーっとなって、かーっとなって、今に至ります。……えと、分かりますか?」
「分っかんねぇよ!」
雛田先輩が床に置いた鞄をパンと叩く。
「パイセン、考えるな感じろですよ!」
「つまり、とんでもなく感動したんだね。今までの小山内さんを塗り替えるほど、強く深く」
香西先輩の翻訳に助けられた。
「――はい」
レッスンの最中は、追いかけるだけで精一杯だった。
なのに最後のアフレコで、ジュニパーに初めて触れて、ジュニパーとしてしゃべって――出来はきっと良くないのだろうけど、とにかくわたしは、
楽しかったのだ。
もっとあの感覚を味わいたいと、望んでしまうくらいに。
そしてあの日から、四字熟語で言うと『一念発起』の状態が続いている。
帰宅するや否や、今まで養成所でもらった課題を見直した。
昔読んだ声優になるための本を読み直し、積ん読だった本も読んだ。動画サイトで声優に関する動画も見始めた。
しばらくして、アニメの見方が変わった。分析的に見るようになって、「ああ、ここはこういう状況でこういう背景と心境があるからこういう言い方になるんだな」みたいな感じ方になった。
漫画も映画も、インプットの面が強くなる。そうすると今まで何でもなかった表現がすごく心に刺さって、感動することが多くなる。
世界の見え方が、少し変わった。
十二色しかないと思ってきたのに、実は二五六色くらいあることに気づいた、ような。
つまり、今のわたしは、燃料を大量投入された暴走列車状態だ。
美容に気を遣うのも、雛田先輩を引っ張り出すのもその一環……なわけだけど。いまいち効果が出ているのか分からない。
早く養成所の日になればいい。
志倉先生に質問したいことが山ほどあるし、他の人たちに聞きたいことがある。それに他の人の演技も見たい。
「……その様子じゃ、あの友達のことは吹っ切れたようだな」
雛田先輩が尋ねた。
成実のことは、今でもつらい。
けれど、そのことを考える余裕がない――というのが正直な感想だ。
自分がすごく薄情な人間に思える。
けれど、時間が無いのだ。次のアロサカのレッスン日まで一ヶ月もない。
「今は前だけ見てたい……って感じです」
正直に言うと、雛田先輩は「そうか」とだけ答えた。
次は何をしようかと考えていると、講堂の出入り口が騒がしい。
「お、来た来た」
織屋先輩がそう言うと同時に、数人の生徒が入ってきた。
「二年の……先輩方!? 板山部長も」
背後で香西先輩が「おっ」と感心した声を漏らし、雛田先輩が「げっ」と嫌がる声が聞こえた。
「はづるんの頑張りを話したら、見てみたいってさ。それに卒業式公演もあるし」
「あ!」
すっかり忘れていた。卒業式公演のこと。
雛田先輩が周囲を一瞥して、
「丁度いい。おまえ、あいつらの前で設定つき外郎売をもう一度やってみろ」
「! は、はい!」
「ただし、さっき言った点は改善しろよ。俺のアドバイスを無駄にするな」
「はい! ……その前に、タオルとってきていいですか?」
返事の代わりに雛田先輩が手をひらひらさせる。
素速く立ち上がって、隅に置いたトートバッグの元に行くと、中を探る手が止まった。
タオルがない。
ここに入れたはずのタオルがない。
冷たい指先でうなじを撫でられたような感覚がした。鳥肌が立つのを抑えられなかった。
けれど、
「よろしくお願いします!」
騒ぐことはしなかった。わたしは動揺を抑え込んで、六人に増えた先輩たちの前に立った。
翌日の水曜日。教室に入ると、違うグループの子に手招きされた。
「小山内ちゃん。これ、昨日言ってた美容リップ。これマジうるつやになるよ。」
「わ、ありがとう!」
その子は美容や化粧品に詳しくて、進学せずにメイクの専門学校に行くらしい。
今まで関わりはなかったけど、先週、勇気を出して話しかけた。
「いいって。それと眉の整え方なんだけど」
その子と話し込んでいると、成実が教室に入ってきた。パチッと目が合う。
けれど成実は、もうわたしを睨んではこなかった。その代わり、一切話しかけなくなった。クラスのみんなも察したのか、特に何も言わない。
(成実、ちょっと痩せた……)
そう考えながらも、わたしはクラスメイトから聞いた内容をひたすらメモした。
放課後になり、慌ただしく教室を出た。
今日は図書室で本を返した後、帰りに履歴書を買って記入しないといけない。
図書室の窓際の席に、雛田先輩がいた。
数冊の本を積んだ横で、ノートを広げている。新作の執筆だろうか。
本はシェイクスピアの戯曲が数冊。『ロミオとジュリエット』を読むのがなんだか意外だ。
万年筆のキャップをいじりつつ、時折、遠くを見る目をする。そんな先輩を見るのは初めてで、ドキリとした。
あそこだけ、空気が光っている気がする。
周囲にいる女子も先輩をチラ見して頬を赤らめる。そんな先輩を見ていると、わたしは胸の中が熱くなった。
昇降口に行くと、足が止まった。成実がわたしの靴箱を閉めていたのだ。
成実はすぐにわたしに気づいた。
「羽鶴……」
成実は虚を突かれたような顔をしたけど、すぐに鼻を鳴らした。
けれど不遜な雰囲気はない。目の下のクマが濃いせいか、萎れた花みたいだった。
「そのノート……最近、頻繁にメモとってるよね」
成実がわたしの手にあるノートを指す。
「あ、うん。癖づけようと思って」
高遠さんのアドバイスを受けたからだ。
東京駅の雑貨屋さんで新幹線を待つ間に買った。メモ帳じゃなくてリングノートなのは、書くことがたくさんあるから。表紙はファイルになっていて、高遠さんからもらったメモを挟んである。
「部活、頑張ってるみたいね。先輩方まで引っ張ってさ」
「う、うん」
「なんか自分磨きも始めたみたいじゃない。あたしがダイエットする傍で、カロリーバカ高いミルクティーをガブガブ飲んでたのに」
「そう、だね」
今は常温の水か、ポットに入れたはちみつ入りのジンジャーティーを飲むようにしている。
「……ようやく本気になったってわけ?」
成実の冷たい目線と声音が、わたしの心臓を鷲掴みにする。
「だとしたら、遅すぎなんじゃない?」
冷笑が、いばらみたいにわたしの心を絡めて刺す。けれど、
「確かに……今更って思われるかも知れない。わたし、この一年近く、養成所に通う以上のことをしてこなかった」
それを思うと、羞恥も自分への怒りも覚えるけれど、
「無駄な時間を過ごしたってすごく後悔してる。でも、反省もしてる。だから遅すぎだとしても、今からでも出来ることは全部やりたいの!」
成実の顔を、久しぶりに正面から見た。
本当に痩せた。一週間前、やっと登校した成実はクラスメイトに挨拶もしなくなった。昼休みも教室から姿を消す。ごはんはちゃんと食べているんだろうか。
「あっそ」
力の無い返事だった。暗い笑顔を向けて、成実が「ねえ羽鶴」と呼んだ。
「……アンタの靴とかお弁当がなくなったことだけど」
「分かってるよ」
わたしは成実の言葉を遮った。
「全部分かってるから」
そう繰り返すと、成実はバツの悪そうな顔をして、踵を返して去って行った――
(……え?)
成実の背中に、黒い染みがある。いや、違う。影だ。黒くてまるい影が成実の周囲に漂っている。
最近は見なくなって、ただの勘違いだったと思えたのに、また現れた。
あれは何なんだろう。
そう考えて、浮かぶ言葉はたったひとつだ。
「〈カナコちゃんの呪い〉……」
刹那、ざわっと、空気が変容した気がした。
窓の外の木々が風になぶられて騒がしい。
……コトン
靴箱をひとつ隔てた向こうから、物音が聞こえた。そのすぐ後に、靴箱の影から一人の男子生徒が早歩きで飛び出してきた。
その男子生徒は胸に何かを抱えていた。あれは……ローファーの靴? あの人は上靴を履いたままなのに?
靴箱の戸がひとつだけ開いている。名札には『雛田颯』とあった。
(あれ、雛田先輩の靴!?)
男子生徒は早歩きで廊下の奥へ向かう。どこを目指しているのか直感で分かった。奥には裏庭に続く扉があり、そこには焼却炉がある。
走って追いかけ、扉を思いっきり開ける。案の定、男子生徒は焼却炉に靴を入れようとしていた。
「やめて!」
わたしが叫ぶと、男子生徒が振り返った。
見知った顔だ。図書室と文芸部の部室で見た――川添さん。雛田先輩に突っかかった人だ。
川添さんは怯えを露わにし、「何だよ!」と言った。
「そっ、その靴、雛田先輩のですよね?」
「か、関係ないだろ、そっちには!」
「返してください!」
この人だったのか。何度も先輩の持ちものを盗んだのは。
やっぱり七不思議の呪いなんかじゃなかった……とこっそり安堵する。
「もう、雛田先輩のものを隠すのはやめてください」
「……後輩の女子に庇われるなんてな。やっぱりイケメンは得だな」
「そんな話はしてません! 返してください。さもないと」
一瞬詰まった。勢いで言ったけど、脅しなんてしたことないから続きが思いつかない。
「おっ、大声を出します!」
「はあ? 出せるものなら出してみろよ」
完全に舐められてる……当然か。
ならば、とわたしは息を吸い込んだ、けど。
「無闇に大声を出すんじゃない。大事な喉が潰れるぞ」
いつの間にか背後にいた雛田先輩に止められた。
わたしはびっくりして、吸い込んだ空気を呑み込んでしまった。
「雛田……っ!」
「誰かと思えば川添か。何のつもりだ。嫌味を言うだけじゃ飽き足りなくなったか」
「……っ!」
川添さんが唇を噛む。悔しそうに声を絞り出した。
「だって……納得いかない! ぼくのは落選して、君なんかが受賞するなんて、絶対にありえな」
「おまえの作品が面白くなかった。前にも言ったが、それだけだ」
(雛田先輩……!?)
やばい。この人、歯に衣を着せるという概念が無い。分かっていたつもりだったけど!
「何だと!?」
「おまえ、文芸部だろ。こないだ部室に寄った時、一昨年の文化祭の部誌に載せた作品を読んだ。まったく面白くなかった」
川添さんは今にも白目を剥いて卒倒しそうだ。横で聞くわたしすら耳を塞ぎたくなる。
「――だが、去年のは面白かった」
「へ……?」
間の抜けた声は、わたしと川添さん両方のものだ。
「タイムトラベルネタのSFだったな。地味だけど、伏線回収は見事だった。――面白くない作品は確かに存在する。だが、面白い作品を作れない人間はいない」
受け売りだけど、と雛田先輩が続ける。誰からなのかは訊かなくても分かった。
「次の作品が書けたら、また読ませてほしい」
雛田先輩の言葉には、靴を盗んだ川添さんに対する怒りもなじりも、カケラも無かった。
川添さんは戸惑いがちに頷いて、靴を先輩に返した。そして走って行く。その目に涙が浮かんで、キラリと光った。
それを見届けた後、わたしは靴のホコリを払う先輩に言った。
「先輩って……すごく口下手なんですね」
今更だけど、なんとなく理解できた。先輩という人を。
「……口がうまかったら、物語なんか作らねぇよ」
なるほど。――理由はよく分からないけど納得した。
それと同時に、先輩がすごく身近に感じて嬉しかった。それから『大事な喉』と言われたことも。
ふふっと笑ってると、
「――何だこれ?」
と先輩が言って、振り返る。
開けっぱなしの焼却炉の蓋を閉めようとした先輩が、淡いレモン色のタオルをつまみ上げた。
「タオル? でも新しいな」
「それ……」
無意識に声が出たことを、わたしは直後に悔いた。
しまったと思った時にはもう遅い。
「おまえのか……?」
先輩が言い当てた。外見の変化には疎いのに、こういう時は勘が鋭い……。
「まだ物を盗まれてるのか」
「そうです、けど。大したものじゃないです。靴は持ち歩いてますし」
それは本当だ。タオルの他に、ハンカチやティッシュ、消しゴム……その程度のもの。
前回と違うのは、戻ってこない点だ。やっぱり捨てられていたのか。
「もう教師に言え。窃盗だ」
「せ、先輩だって放っておいたじゃないですか」
「俺はいいんだよ。というか教師は気づいている。受験真っ只中の時期だから大事にするなと言われた」
「そんな……」
「別にいい。テレビ局からも、言動には最大限に注意しろって言われているんだ。今の時代、SNSですぐ拡散されるからな。主演アイドルのイメージもあるし」
何なんだ、それは――と思いかけたけど、思い直した。
そうか、雛田先輩も同じなのか。
先輩も『商品』で『コンテンツ』になっているのか。
「誰の仕業か、分かってるのか?」
わたしは答えない。
「……誰にも言わないでください。お願いします」
そう頭を下げると、先輩はもう何も言わなかった。
……けれど。
水曜日は部活の日じゃないけど、織屋先輩を通して講堂に呼ばれた。
板山部長が招集をかけたらしい。珍しいを通り越して、初めてのことだ。
「ええっと。金曜日は二年生の都合が悪いと言うことで、一度卒業公演についてミーティングをします」
板山部長が口火を切る。
織屋先輩に連行されたのか、雛田先輩と香西先輩もいる。
「突然どうした。やる気を見せてきて」
雛田先輩が腕組みをしたまま言った。
つっけんどんな物言いは変わらない。けれど板山部長は、照れたように頭を掻いた。
「いや、小山内さんの練習を見たら……一年生の子がひとりででも頑張ってるのに、と思っちゃいまして」
え? わたし?
「触発されたって言うのかな。一年に一回だし、せっかく演劇部に入ったし」
予想外の動機に、わたしはアワアワした。
たぶん板山部長に負けないくらい頬が赤くなっている。でも正直に言うと、嬉しい。
「……すごいな、羽鶴」
隣に座る就也の褒め言葉が頭上に落ちた。見上げると、
(就也……?)
就也は笑っていた。口元だけは。
「羽鶴、ごめん! オレ、家の用事あるの忘れてた! 詳細は後で送ってくれるか?」
そう頼む就也の声は明るかった。声だけは。
けれどその両目は、まっくろなビー玉みたいだ。
返事すらできずにいると、就也は板山部長や先輩方に断って早退した。
「――主人公なんだけど、小山内さんに頼んでも大丈夫かな?」
「えっ。あ、はい!」
慌てて返事をする。
台本の読み合わせをすることになり、わたしは薄い脚本と演技ノートを用意しようとトートバッグに手を入れた。
「――!?」
無かった。
さっきまで手元にあった、演技ノートが。
「小山内さん、どうしたの?」
香西先輩の問いに答える間もなく、わたしは「すみません、失礼します!」とだけ言って、講堂を出た。
運動場を全速力で横切る間、心は祈りに近い願いでいっぱいだった。
お願いだから返して。
あのノートだけは。
「おい!」
背後で雛田先輩の声がした。なんで追いかけてくるの!
「来ないでください!」
と叫んだけど、先輩が了承するワケがない。
わたしは必死に『彼』の姿を探した。
下駄箱を見ると靴はあった。まだ校内にいる。どこにいるんだろう。
……教室!
きっと教室だ。前のプリントもそうだった。
他人の物を盗んだ身で、他の教室や特別教室には行きづらいだろう。慣れ親しんだ自分の教室か、トイレだ。
半泣きで階段を駆け上がり、そして。
「――就也ぁ!」
静まり返った無人の教室に、就也がいた。
その手にはわたしの演技ノートがあり――そして。
あの黒丸の影がいた。
けれどそれは、雛田先輩が到着すると同時に消えた。
「……返して。お願いだから、返して」
手を合わせて懇願する。
就也は無表情だ。宇宙人みたいで、言葉が通じる感じがしない。
「おまえだったのか、こいつのものを盗んでたのは。あの女子じゃなくて」
雛田先輩が尋ねる。
「そうですよ」
就也の声は、瞳は、今まで見たことがないほど暗くて深くて、がらんどうだ。
「なんで就也が……? いつも応援してくれたのに……」
何故、なんて。
訊かなくても分かる。
就也も心の底ではわたしの合格を、
「羽鶴が、……ジュニパーになったから」
「へ……?」
「オーディションに合格しただけなら、別に許すよ。奇跡ってあるものだし。でもジュニパーはダメだ。オレはずっと、ジュニパーになりたかったのに」
「どういうこと……?」
アロサカのアニメは、今回のプロジェクトのために作られたオリジナルのはずだ。
なのに何故、就也はジュニパーを知っているんだろう。
「違う。元ネタがあるんだ。海外のマイナーな古い児童文学だ。……そんなことも知らなかったのか?」
底なしの侮蔑を込めて、就也がわたしをねめつける。ゾクリと悪寒が走った。
「オレはね、幼い頃、身体が弱かった。小学校の低学年まで入退院を繰り返していた。そんなオレの心の支えは、本とアニメだけだった。その中で一番のお気に入り――心の友達は、ジュニパーだった。孤高の旅人で、サーカス団を影から助けるジュニパーは、オレのヒーローだったんだよ」
とろりとした面持ちで、就也は語った。
「オレはベッドの上でいつも夢見てた。いつかアロサカがアニメになったら、オレがジュニパーの声をあてたいって。ジュニパーになりたいって。その夢のおかげで、つらい治療も乗り越えて、健康体になれた」
今回のオーディションを知った時、運命だと思った。そう就也は語った。
「絶対に、絶対にオレがジュニパーの役を射止めるつもりだった……なのに、選ばれたのは羽鶴だった」
就也の長い指先が、わたしを刺殺する勢いで指す。
「なんで? って思ったよ。だっておまえだよ? オレたちの腰巾着で成実がいなければ何もできないししようともしない。声も顔も普通で、才能もなければ努力もしない。なあ……なんで?」
ふらつく足取りで、就也が近づいてきた。わたしの足は縫い止められたように動かない。
就也が憎しみを込めた視線で、わたしを見下ろし、叫んだ。
「なんでおまえなんだよぉ!!」
心からの、音割れするほどの叫びに硬直した。
微動だにできないわたしを、就也は鼻で笑う。
「知ってるか、羽鶴。アロサカの各キャラクターの担当声優には、補欠がいるんだ。厳しいレッスンに根性なしが音を上げた時のために」
覚えてる。桐月先生たちが「あなたたちの代わりはいます」と断言したもの。
「オレはジュニパーの補欠の一人だ。それで思ったよ。羽鶴が辞退すれば、オレがジュニパーになれるって。それで〈カナコちゃんの呪い〉を利用することにした。最初は呪いに恐れをなして、少しノイローゼになって辞退すればいいと思ったんだが、案外おまえはしつこかった」
それで、成実の仕業に見せた。
訊いてもいないのに、就也はベラベラとしゃべり続ける。壊れた音声機器みたいに。
最初はスニーカーを盗んで、焼却炉に入れた。
部活の日にもう一度盗んだのは練習に遅刻させて、成実の不興を買わせ、けしかけるため。
そしてあの日――就也は適当な嘘で部活に遅刻して、更衣室に置いたわたしのトートバッグを盗み、一旦教室に戻った。破るプリントだけを抜き取って。
わたしたちがバラバラになった時、一年生の教室がある三階に向かって、紙吹雪でわたしたちを誘き寄せて――
成実の仕業に見せかけたのだ。
全部、全部……
「あれで、もう立ち直れないくらい傷つくと思ったのに」
バン!
心底面白くなさそうな顔で、就也は手近な机を叩いた。
「なのに何やる気とか出してんだよ。今更! 今までロクに努力しなかったくせに――」
「聞き捨てならねぇな」
就也の激昂を、雛田先輩の冷ややかな言葉が遮った。
先輩がわたしと就也の間に入る。大きな背中でわたしを隠す。まるで庇うみたいに。
「こいつのどこを見て、『努力してない』なんて言えるんだ」
思いがけない言葉に、わたしも就也も面食らった。
けれど先輩は構わず、
「最近分かった。こいつは『口だけで努力をしない連中』の反対だ。口では自分なんかと卑下するのに、行動は夢にまっすぐ向かっている。自己否定がうっとうしいし、矛盾もしているが、侮辱される謂われは無い」
就也が戸惑いを見せた。
「それは、成実と話を合わせるために」
「ダチと話を合わせるために八分以上ある外郎売を毎日読めるか。おまえはどうなんだ、毎日読んだか? 全部暗記しているのか?」
就也が口ごもる。
確かに就也は練習でも、口上を書いたメモを見ることが多かった。
見る見るうちに就也の顔から血の気が引いていく。
「お笑いぐさだな。偉そうに抜かしといて、やったことはコソコソ人の物を盗んで、他人にその罪をなすりつけることだけか。――んなことしてっから、てめぇは合格しなかったんだよ!」
先輩が就也の胸ぐらをつかむ。
「やめてください!」
わたしは咄嗟に先輩の腕にしがみついた。
「どうかやめてください……就也を責めないでください」
わたしの懇願に、先輩が信じられないものを見る目をして、手を放した。
就也は何か言いたげにして、そして逃げていった。
足音が遠くなるにつれて、わたしの膝から力が抜ける。
教室の床に座り込み、顔を隠して、声を殺して泣いた。
雛田先輩は、ずっと隣にいた。
何も言わず、かつての就也のように肩を抱くことも頭を撫でることもせず、ただ隣にいてくれた。
わたしはしゃくり上げて、
「本当は気づいてたんです……就也が犯人だってこと。だって、あのプリントのことは、就也しか知らなかったから……」
アフレコ授業の前にそのことに気づいた。できることなら一生気づきたくなかった。
見て見ぬふり、知らないフリをしていたかった。
就也への同情とか友情とか、そんな理由じゃない。
「だって、就也までいなくなったら、わたし本当に独りになっちゃう……」
本音はこれだ。
わたしは未だに、ひとりきりになるのが怖いのだ。怖くて怖くてたまらないのだ。
頭の奥で、何かがひび割れるような音がした。
オーディションの合格を知ってから、何度も何度も聞こえた音。
きっとわたしたちの関係にヒビが入った音だ。
わたしが今までいた世界が、成実がいて就也がいて、平和に楽しく甘いだけの夢を見ていた世界がひび割れた音だ。
認めたくなかった。
認めたら、わたしはもうあのままではいられない。もう戻れない。
けれど一度壊れれば、もう元には戻らない。
わたしを守っていた世界が、無残に壊れようとしている……
(……いや、もう、とっくに壊れたのかな……)
苦しみのままに吐露すると、先輩は深く長く息を吐いた。
そしてポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出すと、わたしに放り投げる。
「……この間言った、うちのバアさんの言葉覚えてるか」
「『夢を手放すな』ってやつですか……?」
「それの続きだ」
先輩はまるで朗読するように……、絵本の読み聞かせでもするように、言った。
「『夢を手放すな、たとえどんな孤独でも、夢だけは絶対に手放しちゃいけない』」
優しく抑揚をつけて、大切にしているのだろう言葉を紡いだ。わたしに向かって。
「この言葉は俺の指針だ。……おまえにも分けてやるよ」
先輩がほんの少しだけ、笑った気がした。
翌日、学校を休むことはしなかった。
いつもどおり――といっても十日くらい前からの習慣だけど、朝早く起きて、体力作りとダイエットのためにウォーキングして、ストレッチをした。
最初は河原で発声練習もしようかと思ったけど、寧音ちゃんとのLINEで「起き抜けは喉が開かないからやめた方がええよー」とアドバイスをもらったので、やめた。
昨日借りた雛田先輩のハンカチを、可愛いラッピング袋に入れる。
手洗いして部屋干しして、アイロンもかけた。
シワひとつない白いハンカチは雛田先輩にぴったりだ――なんて、ナチュラルに考える自分に苦笑する。
あんなに怖いと畏れたのに。
忘れずに鞄に入れて、出かけに鏡を見る。
動画を見て練習した編み込み、いい感じにできてよかった。昨日散々泣いたけど、目を冷やしたおかげで腫れも少ない。
「今日も早いわね。まだ七時なのに」
と、お母さんがお弁当を渡す。
「うん。ごめんね。お弁当急かしちゃって」
「いいのよ。どうせお父さんも七時前には出るんだから。ね、今日も遅くなる?」
「うん。帰りに面接なんだ」
「ああ、そうだったわね。……ね、羽鶴。大丈夫? 無理してない?」
お母さんの心配げな顔に、ギョッとした。
「羽鶴がすごーく頑張ってるのすごーく分かるんだけど、お母さんとしてはちょびっとだけ心配なの。お願いだから身体だけは気をつけてね」
困ったように笑い、お母さんが手を握る。
そのぬくもりを感じながら、わたしは頷いて「いってきます」と出かけた。
(でもね、お母さん。わたしにはもう……)
空を見上げた。
とても久々に、空の青さと雲の白さ、太陽のまぶしさを感じた気がする。
近所のおうちの庭に植わる梅が綻びかけている。薄紅の花のつぼみが春を告げる。
この冬が明けて春になった時、わたしはどうなっているんだろう……
なおも生まれようとする不安を打ち消したくて、わたしは通学路を駆けだした。
一番乗りの教室で、図書館で借りた演劇論の本を読んでいると、続々とクラスメイトが入室してきた。
紙面の文字を追いつつ、教室の喧噪――クラスメイトたちの何気ない会話に耳をそばだてる。
これは使えると思った会話は演技ノートに書き留めた。いつかアフレコの現場で、『学校の教室』と指定された場面でガヤをすることになった際、きっと役立つと思ったからだ。
全部、本や動画で知ったことの真似だ。けど、今は片っ端から試したい。
成実と就也は、ショートホームルームが始まるギリギリに登校した。ふたりともわたしを見ようとしない。
そんなわたしたちを、クラスメイトは遠巻きに見てヒソヒソ話をする。居心地が悪かった。
昼休みになると、逃げるように手荷物を持って教室を出た。行き先は図書室。目当ての人はすぐ見つかった。
「ハンカチ、ありがとうございました」
窓際の席を陣取る雛田先輩に、小声でお礼を言う。
先輩は頬杖をついたまま、片手で受け取った。
今日も先輩のそばには本の山。
愛読書らしい脚本の指南書の横には、名刺大のカードが並んでいた。走り書きで『出会い① 学校の廊下。薄暗い夕方。少しの驚き』とか『対立② 練習場。夕方。負けん気。ミッドポイント』とか書いてある。
「これは何ですか?」
「イベントカード。……今日は休むかと思ったんだが」
先輩はハンカチを無造作に鞄に仕舞った。わたしは軽く頭を振る。
「立ち止まってる余裕、無い……ですから」
笑ったつもりだけど、うまくいかなかった。
本心ではあるけど、背伸びした答えだった。
やっぱり素っ気ない先輩の返事。邪魔しちゃ悪いからすぐに去ろうとした、けど。
ふいに足が止まり、また衝動のままに、その理知的な横顔に問うた。
「先輩は、どんな作品を書くんですか?」
「……は?」
それは急激な、そして唐突な興味だった。
「聞いたことなかったな、と思って……。賞を獲ったのはサスペンスものですよね。女性刑事主人公で、劇場型殺人鬼を追うっていう粗筋だけ見ました」
わたしは怖い系の作品があまり得意じゃない。
就也に教えられた時は「絶対に観たくない」と思ったものだけど。
「ジャンルは、まあ何でも。サスペンスも恋愛も青春も、コメディも……巧くはないが、好きだな。最近は漫画原作の舞台の脚本にも興味あるかな」
指折り数えて淡々としゃべる先輩に、もっと話を聞きたいと思ってしまった。けど。
「で、それがどうかしたのか?」
秒で会話が終了した。……うーん。
「映像化、楽しみにしてます。シナリオブックとか出たら嬉しいです」
今更だけど、先輩がどんな物語を書くのか興味が芽生えた。
これはわたしが最近、他の人の演技をよく観察するになったのと同じ現象かな。インプットの一環かな。
なんて考えつつ先輩を見ると、ギクリとした。
「そうか……」
そう答える先輩の声に、珍しく張りがない。
また遠い目をして、先輩は万年筆をカチカチさせた。
どうしたんだろう、何かマズいこと言っただろうか、と思う間もなく、香西先輩が来た。
「雛田、僕はもう帰るけど、今日も下校時刻までいるつもり?」
「まあな」
「毎日よく続くね。織屋さんじゃないけど、新作の草案もシナリオの勉強も家でやればいいのに」
「……家にいると、余計なことばっか考えちまうからな」
余計なことって何だろ、と思った。
「あと単純にきょうだいがうるさい」
「! 先輩、きょうだいいるんですか?」
「五人きょうだいの真ん中なんだよ。意外だろ?」
香西先輩がいたずらっぽく笑う。
確かに意外だ。個室も勉強机もないので、学校の方が集中できるそうだ。
雛田先輩がイヤホンをつけたので、わたしたちは図書室から出た。
わたしが文芸部の部室に行くことを告げると、香西先輩がためらいがちに言った。
「明日は演劇部の集まりだよね? 雛田は顔出すって言ってた?」
「いえ。先輩、卒業公演で使う脚本を『つまらない』って言ってたし、難しいかもです」
「ああ、そうだったね……悪いけど小山内さん、雛田を連れてってくれないかな。僕は明日、外せない用事があって」
思いがけない頼み事に、「へっ!?」と声が出た。
「難しいかな。でも、あまり雛田を一人にしたくないんだ。あいつ、最近少し様子がおかしくてね」
(香西先輩も気づいたんだ……)
「自分でも、心配しすぎだと思うけどね。どうしてもほっとけないだ。僕は……雛田をひとりにしたから……」
香西先輩は卒業後、シンガポールに留学する。
将来はお父さんの仕事を継ぐつもりで、その勉強のためだ。
――「卒業したら演劇をやめる」
そう言った時の、悲しそうな寂しそうな香西先輩の微笑。それを思い出して、少し切なくなった。
香西先輩が留学を決めたのは去年の秋だそうだ。
それまでは地元の大学に進学し、雛田先輩と演劇を続けるつもりだったけど諦めた。きっと断腸の思いだったんだろう。
そんな仕方がないことに対して、「雛田を一人にした」と自分を責める言葉を使う香西先輩は、やっぱり優しい人だ。
わたしが「一応、言ってみます」と言うと、香西先輩が柔らかい笑顔を見せてくれた。