それがどういう意味なのか説明されることはなかった。

 固まった思考が解凍されるヒマもないまま、わたしたちは壇上に上がらされた。
 一列に並んで、ひとりずつ自己紹介をするよう促される。
 客席の方を見てドキッとした。いつの間にか数台のカメラが設置されて、わたしたちを撮影している。
 最初に名指しされたのは寧音ちゃん。所属事務所と名前を言って、「よろしくお願いします!」を放つ。

「――今の自己紹介を、東京のアクセントで言ってみてください」

 間髪入れずに寧音ちゃんにそう言ったのは、五十代くらいの痩せた男性だった。
 名前はパッと出てこないけど声は知っている。長年、報道番組のナレーションをしている人だ。
 寧音ちゃんがもう一度自己紹介をした。関西のアクセントが標準語のそれになる。わたしはすごいと思った、けど。

「それは本気でやってるのかな?」

 寧音ちゃんの肩が小さく跳ねた。ナレーターの……そうだ。青井(あおい)さんだ、青井さんが腕を組んで眇める。

「アクセント辞典は持ってる?」
「は、はい」
「今までに何回開いた?」
「……」
「毎日開いて、CDも最低一日数回聴いて、まずは模倣しなさい」
「はい!」

 寧音ちゃんの語尾が少し震えた。少し離れて聞いているだけのわたしも冷や汗をかく。
 次は、『サンダルウッド』役の色黒で筋肉質な体型の男の子。マッチョらしい野太い声だと感心したけれど。

「ちょっと鍛えすぎだね」

 声優と舞台俳優の二足のわらじで活躍する寿海星さんが指摘した。値踏みする目つきだ。

「特に首回り。鍛えすぎると、喉がうまく開かなくなるよ。もう少し考えてトレーニングした方がいい」

『サンダルウッド』の子の溌剌とした表情が一瞬で失せた。首を抑えて、「はい」と消え入りそうな声で答えた。
 次は『スペアミント』役の、ハデな格好の男の子。耳から腰まで全身にアクセサリーをつけている。
 彼が少々あからさまな、気取った作り声で挨拶すると、すぐに色取陽花里さんがため息をついた。

「君は失格。ここにいる資格ないわ」
「ハァ!?」
「そのブレスレットと腰のチェーンは何のつもり? アフレコの現場では音の出る服装やアクセサリーは厳禁。常識では?」
「いや、あの、今日は顔合わせだし、着替えもあるし……」
「だからジャラジャラうるさい格好でも許されると思ったの? 君は何のつもりでここに来たの。声優としての仕事をしに来たという意識が低すぎる」

『スペアミント』役の男の子はグッと言葉に詰まった。

(仕事……)
 そうだ。これは『仕事』なんだ。
 やっぱりわたしは甘い。その意識が完全に抜け落ちていた。

「申し訳ありませんでした。すぐ外します」

 頭を下げる彼はアクセサリーを全部外した。色取さんは大きくため息をついて、

「それで包むといいわ」

 と、生地の厚いタオルを渡した。
 彼はハッと顔を上げ、芯のある地声でお礼を言った。

 そして次は、――わたしだった。

「長野県、プリューム養成所、小山内羽鶴です。よろしくお願ぃします!」

 ああ、しまった。『い』が少しひっくり返ってしまった。失敗という単語が浮かぶわたしに、誰か近づいてきた。
 高遠さんだった。
 静かな森のようなブラウンの瞳が――毎日SNSの写真や動画、雑誌で目にする瞳が、わたしに向けられる。

「小山内さんは、何か得意なことはある?」

 柔らかいシフォンケーキみたいな、まるみを帯びた声。
 子どもの頃からずっと聞いてきた声。感激で泣きそうなのと緊張で泣きそうな気持ちがこんがらがる。
 わたしの得意なもの。
 そんなの無い。養成所で歌もダンスも一通りやったけど、プロの人たちに得意ですって言えるものなんて……
 パニックになった瞬間、何故かは分からないけれど、あの先輩の声がした。

 ――「そんなことはない。見事な」

 先々週の金曜日、部活の日。ヤケクソで披露した――

「外郎売です!」

 途端、横から失笑が起こった。
「外郎売って……」「そんなの初歩中の初歩だろ」という言葉が聞こえる。耳まで真っ赤になる。

「すっすみません! あの、わたし」
「どうして謝るの?」

 高遠さんがキョトンとして首を傾げる。

「すごいじゃない、外郎売が得意だなんて。あなたたちもどうして笑うの?」

 高遠さんがブラウンの瞳を向けると、笑った人たちが気まずげに顔をそらした。

「私ね、ひとの外郎売を聞くのが大好きなの。聞かせてもらえるかな?」

 舞台上どころか会場中の視線――カメラのレンズまでわたしに注目する。
 息が上がってうまく吸えない。頭がクラクラする。
 ゴクリと生唾を飲んで、両足を開いて両手を後ろに組んだ。
 重い空気を吸い込んで、おなじみの「拙者」の第一声を切った。
 でも次の行で、一瞬噛んだ。

「欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪致して」

(ああ、今の違う。『う』が立ってないし、『てえはつ』になってしまった)

「用ゆる時は一粒ずづ、冠の」

(『つ』が『づ』になった、ダメだ、落ち着け)

 自分に言い聞かせたけど焦りが加速する。なのにストップがかからない。
 トチっても終わらせてくれないという地獄。
 咳が出そうなのをこらえた時、また、……あの先輩の声が聞こえた。

 ――「見事な外郎売だった」

 雛田先輩からの唯一の褒め言葉。
 あの、正しいことと本当のこと、お世辞なんて死んでも言わなさそうな雛田先輩からの褒め言葉。

 先輩のことは苦手だ。

 でも、信用はできる。

 先輩の言葉だけは誰よりも信用できる!