「私の家はね、ごく一般的な家庭だった。父はサラリーマンで、母は専業主婦。後はサナって言う一個下の妹と私が居て、結構仲良く暮らしていたと思う。私が高校二年生になるまでは……」

一瞬、セイの表情が暗くなった。

しかしすぐに、いつもの表情に戻り話を続けた。

「私は高校一年生の時から、所謂いじめってやつに遭ってたんだよね。昔から、似たような事はちょくちょくあったんだ」
他人事かのようにサラッと話す。

「昔から女子よりも、男子とつるむことの方が多かったからかな。それでよく、彼氏を取られただのって言い掛かりをつけられて、敵意を抱かれることが多かったんだ。でも、私はそこまで気にしてなかったよ。私自身に、直接危害を加えようとはしてこなかったから。上履きが隠されたり、机に落書きをされたり色々あったけれど、最悪この身があれば授業は聞けるし、結局上履きなんかは来客用のスリッパで代えがきいたしね」

想像しただけでも身震いしそうなエピソードを、セイは淡々と言ってのける。
肝が据わっているとしか言いようがないが、傷つかない訳は無い。

凛々しい姿にセイらしさを感じるも、この時私は、セイの心に巻き付く鎖のことを思い出していた。

「でも、そういう態度が余計に向こうからしたら気に食わなかったんだろうね」

いじめの被害者にダメージが見受けられないと、加害者側のフラストレーションが増加し、より行動がエスカレートしていく。
そんな描写を、ドラマや漫画で見たことがある気がした。

「もっと酷いことされたの?」
私は、恐る恐る聞いてみる。

「……」
暫くの沈黙があって、セイはポツリと呟いた。

「何も。私への攻撃は、ある時からパタッと無くなった」

「え。そんなことって」

「うん。私も不思議には思ったんだけど、何もされないに越したことはないし。楽だったから、気にも留めてなかったんだよね」

「そっか。長引かなくてよかった……」

驚くほど軽い言葉しか出て来ない。
そんな自分自身が情けなかった。

「……」

「セイ?」
黙り込むセイを前に、色々考えてしまう。

嫌なエピソードを思い出させてしまっただろうか。
それとも、先程かけた言葉があまりにも軽すぎて呆れてしまったのだろうか。

「無理に話さなくても、大丈夫だからね」

私はそう声をかけることしか出来なかった。

すると、その声かけに気づいたセイは慌てて言葉を繋げた。

「あはは。急に黙っちゃってごめんね。上手く言葉がまとまらなくて」
セイはそう言って苦笑いした。

そして、大きく息を吐いてこう言った。

「私に何をしても無駄だって分かった彼女達はね、妹に手を出したの。高校二年生になったタイミングで、私の妹が入学したことを良いことに、あの人達は妹を標的にしたんだ」

セイは両手をグッと握りしめ、その拳は怒りで震えていた。

血が出るはずもない身体から赤色が滲み出そうな程、
爪は皮膚に食い込んでいた。

「私に一番敵意があった子の妹も一つ下で、サナと同じクラスだった。恐らく、その子にデマを流して、信じ込ませたんだろうね。私の妹が入試でカンニングしたとか、それこそ私と一緒で人の彼氏を取っただの……。そういった有りもしない話が、相手側の妹の手でSNSにまで拡散されたんだ」

「ひどい……」

進学や進級によって一から交友関係を築く場合、最初の数日が大切だといった話を聞いたことがある。

そういった風習がある中で、セイの妹は有りもしない噂により入学早々居場所を失った。

水面下で広がりを見せた噂は、やがて色々な憶測も混じり大きくなる。

セイ曰く、サナさんが気づいた頃にはもう既に、周りは敵だらけだったらしい。

「何が悔しいって……私はそのことに妹が自殺するまで気が付かなかったんだ」

そう言いながら、セイは下唇を噛みしめた。
悲痛な叫びが身体から滲み出ていた。

「私はいじめって言ったら、水をかけるだの弁当を捨てるだの、傍から見ても明らかに分かるようなものだと思っていた。私がされてきたのはそう言った類のものばかりだったから。でも、妹へされたものは違った」

セイは、私の方を一度も見ようとしない。
妹にそっくりな私をどんな表情で見れば良いのか分からないのだろう。

「妹はひたすら無視をされ続けた。とにかく周りから孤立させ、孤独にさせていくものだった。話しかけても、誰も耳を貸さない。通り抜けるが如く妹の肩に身体をぶつけて去っていく。先生も気づきにくい、表面上には表れない類のものだった」

セイは俯きながら、涙をポツリポツリと床に落とした。

「もちろん私だったら元々一匹狼に近いところもあったし効果は無かっただろうけど、妹にとっては地獄だったと思う。人との関係性を凄く大切にしていたから。例え、移動教室の変更があったとしても誰も教えてくれない。遅れて行けば、聞こえてくるのは小さな笑い声のみ。そういった一つ一つの積み重ねが、どんどん妹の心をすり減らしていったんだと思う」

無視というのは、自分の存在を消されるということだ。
でもここには大きな矛盾がある。
存在は消されているのに、実際に心ある身体は消えていない。
だから、当事者はこの矛盾を解決しようとする。
この世から去るという方法で。

長期的にこういった無視が続くと、自分の存在意義が分からなくなる。
自分の価値についての感覚もバグッていく。
物理的な攻撃はなくとも、心の傷の深さは測りし得ない。

いじめは、人から見える自分を否が応でも意識させる。
「気にするな」と言う方が無茶なのだ。
人は、誰しも見られたくない自分の弱い所が存在する。
それを上手く隠して着飾って初めて、皆のいる土俵(社会)を渡り歩くことが出来る。

それを被害者は、許してもらえない。
いじめは着飾るものを全て捨てさせ、生身で戦わせようとする。
情けない部分も惨めな部分も全部さらけ出せという。

サナさんは、どんな気持ちで耐えていたのだろう。

心中を察しようにも、私の中で想像出来る範疇は遥かに超えていた。

「ある日一度だけ、唐突に変な質問をしてきたことがあったんだよね。『お姉ちゃんは、生まれ変わるなら何になりたい?』って。その時の私は、特に深く考えず『生まれ変わっても、私は私だよ!』とか、いい加減なこと言って返したんだ。でもその時妹は『お姉ちゃんらしいね。かっこいい』って言ったんだよ」

セイは目に涙を溜めたまま、口角を少しだけ上げる。
誇らしさと、悔しさが入り混じったような表情だった。

「その翌日、妹は家に帰って来なかった。夜の九時を過ぎても帰って来ないもんだから父や母も心配して、私も若干焦ったんだよね。それで、何か手がかりがないかと思って妹の部屋に入ったら、ゴミ箱に一冊のノートが捨ててあったの。表紙には「古典」って書いてあったから、最初は単に授業用のノートだと思ったんだけど、よく考えたら今勉強しているノートを捨てる?他の教科のノートは、古くなったものまで復習できるように残してあるのに」

確かに、と私は相槌を打った。

「不思議に思って取り出してみたら、中身は妹の日記だった。確かに序盤は、普通の授業用ノートとして使った形跡があったけど、内容的にはだいぶ昔のものだった。ノートの途中からは、明らかに妹の綴った言葉だった。日付も天気も書いていない。だけど、そこには完全に時系列が存在していた。今まで辛かった思いが、出来事も含めてビッシリと書き込まれていた」

セイは悔しそうに、顔を歪める。

「文章できちんと書かれている所もあれば、中には平仮名で『しにたい』『つかれた』の文字だけが記されたページもあった。罫線も無視した崩れた字で……。ただ、そんな日記の中にも紛れていたんだ。『たすけて』って言葉が。妹は助けを求めていた。それなのに私は、手を差し伸べてあげられなかった。気づいてやれなかったんだ。日記の最後には、『生まれ変わったら、幸せになれますように』とだけ記されていた」

セイは喋りながらも、一点をボーッと見つめていた。

「所々ね、インクが滲んでいるの……。読んでいると段々こっちまで視界がぼやけて来て、上手く息が吸えなかった……」

私は胸が締め付けられる思いだった。

その後、サナさんの部屋からは自分で切り裂いたと思われる服や雑誌、いつ買ったかも分からないロープが押入れの中から見つかったそうだ。
サナさんは、壊さないでいた。
家族の日常を。
心配をかけまいと平然を装い学校に行き、何食わぬ顔で帰宅する。
しかしその裏では、声にならない心の叫びが自室の中のみで展開されていたのだ。
決して悟られぬよう、サナさんは声を殺して泣いていた。

「部屋を見渡して思ったよ。妹の傍に『人』は居なかった。私たち家族も含めて妹の傍では、心ある『人』では無かったんだよ。誰も同じ体温で受け止めてやれなかった。本当は気づいて欲しかったんだと思う。でも実際に妹の苦しみを受け止めていたのは、部屋に散らばる無機質な残骸たち。サナにはどう見えていたのかな。少なくとも、温かい家族では無かっただろうな……」

セイは虚ろな目のまま、背中を丸めて途方に暮れた表情をしていた。

「そんな……」
私はかける言葉が見当たらなかった。

「それから机の方に目を移すとね、妹のパソコンが中途半端に開きっぱなしだったの。嫌な予感がしてマウスを動かすと、パソコン自体はスリープ状態でロックもかかっていなかった。中身を開くと、そこには近所の『ある池』までの道のりが検索されていた。その池は、過去に女子中学生が自殺した場所だったんだ。当時は、大きくニュースでも報じられて、近所で知らない人は居なかったと思う。普段は封鎖されているはずなんだけど、その時丁度池の埋め立て工事か何かで一時的に解放されていたの。妹は、その情報をどこからか耳にして、パソコンで調べたんだと思う。私は、全てを両親に見せた。青ざめた両親は、慌てて捜索願を出していた。私は居ても立っても居られなかった。だから、一人で夜中に向かったの。その池に。辿りついたのは良かったけど、結局暗くて全然見つからなかった。でも、ひたすら大きい声で妹の名前は呼んだのよ。何一つ返事は無かったけれど」

セイは私に背を向けて涙を拭う。
その後ろ姿は、いつものセイからは想像出来ない程悄然としていた。

「しょうがないから一旦家に帰って、親と一緒に待っていたら早朝に警察から連絡があった。私が探しに行った池から、妹の遺体が発見されたって」

私は何も言えなかった。

何とも言えない空気が漂う。

この場の空気が、若干寒くなったように感じた。

固唾を呑んで、次にセイが口を開くのをただ待つことしか出来なかった。

「悔しかった。なんで気づいてあげられなかったんだろう。どうして、言ってくれなかったんだろうって。その時は一丁前に被害者面をしていたの。でも数日後、妹のお葬式があった時、いじめが始まった経緯を知った。妹と長く付き合いのある友人が話してくれた」

そう淡々と話していたのも束の間、
セイは突然表情をキッと豹変させ叫んだ。

「妹が死んだのは、私のせいだった!私が、相手にしなかったから!あの時、ダメージでも何でも受けてる振りしとけば良かった!」

悲痛な叫びが、一瞬で部屋中に響き渡った。

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何分くらい経っただろう。

セイはずっと、俯いたままだった。

私は何も言えず茫然と立ち尽くす。
ただただ頭の中で、先程の悲痛な叫びがこだましていた。

暫くして、セイはポツリポツリと呟く。

「助けてあげようなんて、おこがましい考えだった。きっかけを作ったのは私だったんだよ。私が殺したも同然だった」

セイの目は段々と光を失っていく。

さっきまで力が入っていた拳も脱力し、指先だけが震えていた。

「どう思う?ひどい姉だよね」
そう問いかけるが、私に何か言って欲しい訳では無さそうだった。

自嘲気味に笑う姿は、痛々しい程悲しみに溢れていた。

「聞いた話によると、妹は自らその友人と縁を切ったらしいの。『自分に構うと巻き込まれるから』って。どこまでお人好しなんだか……。あの子は友達を守ったんだよ」

纏う空気は重たかったが、どこか誇らしげな響きも感じられた。

「教えてくれた友人も、その場で泣き崩れていた。『優しさに甘えた自分が情けない。自分の弱さを恨む』って自分を責めていた。でもその子は、妹が守りたかった唯一の友達なんだよ。少なくとも私は、恨む気にはなれなかった。それ以上に自分が許せなかったから」

セイは、話の終盤にかけて語気を強めた。

「私は初めて自分に失望した。生きている資格なんて無いと思った。それから私は、暫く学校に行けなかった。『吸って吐いて』と呼吸している物体を、ただ自分が操作しているだけのような気分だった。見るモノ全てが、灰色だった」

私が一緒に過ごしたセイの印象とはだいぶ違う。

迂闊にも「こんな時もあったんだ」と思ってしまった。

するとこのタイミングで、セイは何かを見抜いたかのように
「意外だった?」
と意地悪い表情で、こちらの反応を伺うのだった。

一瞬表情に出ていたのではないかと私が焦っていると、「アハハ」とセイは笑って見せた。

この部屋に響くセイの笑い声。
その笑い声が、たった数分の間でも懐かしく感じるのだった。

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ずっと立ちっぱなしで話していた私たちは、一旦ソファに座ることにした。

キッチンに近い側に私、ベランダ側にセイが座った。

お互い前だけ向いている。

目の前にある電源のついていないテレビ画面が、私たちの姿をぼんやりと写していた。

サエは思い切って聞いてみた。
「セイは、それからどうしたの?」

「ん?」

「私も、セイに出会うまでは同じような景色を目に映していたから。色の無い世界。私の場合は、ギリギリの所でセイが救ってくれたけど、もしかしてセイは……」

セイは出会った当初、事故で死んだと言っていた。

けれども、今までの話を聞く限り違う可能性も浮上してくる。

語尾は濁したが、私の頭には一つの可能性が浮かんでいた。

「自殺してないよ」
セイは、いつもの切れの良い言い方で答えた。

「えっ」

フフッとセイは笑う。

そして、またもや意地悪そうに
「そう思ったんでしょ?」

そう言って、私の肘を小突くような真似をした。

「ごっ、ごめん」
私は自分を恥じた。

セイは自分と違って、その道を選ばなかったのだ。

自身の早とちりを恥じて赤くなっている様子を見て、セイは優しく微笑んだ。

「私も妹の後を追って死のうって、何度も考えたよ。死にたい気持ちで、頭がいっぱいになる日もあった。だけどその時、同じくらいに生きることについても沢山考えたんだ。『死ぬって何だろう。じゃぁ、生きるって何だろう。人は、何をするために生まれて来たんだろう』って」

私はそれを聞いて、腑に落ちた事がある。

海辺で私が泣き崩れたあの日、セイがかけてくれた言葉には確かな重みがあった。
決して他人事では語り得ないような、そんな言葉の厚み。

セイも一度は、
「生きる恐怖」と「死ぬ恐怖」を天秤にかけていたのだ。

「セイは、生きることに決めたきっかけとかあったの?」

「そうだな。『生』と『死』を同時で考えているとね、死ぬのは『今』じゃなくても良いかなって思えるようになったの。後悔も自責の念も相変わらずあったけれど、どうせ死ぬんだったら、それらを抱えて生きてみるって選択肢を一回だけ試してみてからにしようって思ったの。結局、自分を責めてウダウダ考えている間も、実際に時は流れている。既に現在進行形で、生きてるんだよ。皮肉なもんだけど、何かに執着していれば案外時は流れてくれる」

「なるほど……」

「でも結局、私は考えるのに時間を費やしちゃったから、時が解決してくれたって言うのも一つの要因だとは思うけど」
そう言いながら、セイは弱々しく微笑んだ。

「それからは『なんかこのまま自分が消えたら、あの人達の思うツボじゃん!』とも思えるようになってきて、学校にも行き始めた」

セイは、いつも通りの活気を取り戻していた。
気づいたら、ラフな胡坐に座り直している。

「そっか……!良かった。だったらセイが今この状態になった理由は、出会った時に教えてくれた事故が原因なの?」

そう聞くと、セイは苦い顔をして宙に目を泳がせた。

「んー、あながち間違ってはいないんだけど。事故に巻き込まれたって言うか……、何というか……」
セイは言葉を濁す。

本当の事を話すかどうか渋っているようだった。

私は、ソッと声をかけた。

「セイ、大丈夫だよ。これも、本当の事を言えなかった訳があるんでしょ?もし良かったら、セイに起こったこと全部聞かせてくれないかな?私はもう、全てを受け止める覚悟は出来てるよ」

セイは一瞬驚いたような表情をしたが、その後目を細めて微笑んだ。

「ありがとう。じゃぁ、全て話すね。私が死ぬことになった本当の理由を」