それからひとつ大きな変化があった。それは瀬戸くんが僕を「佐倉」と呼ぶようになったことだ。今までは「おい」とか「お前」だったのに。
彼に呼ばれると、他の人に呼ばれるよりも嬉しく感じる。
数日後、帰りのホームルームが終わり、僕は浮かれ気分で瀬戸くんと一緒に教室を出た。
なんと今日は瀬戸くんからゲームセンターに誘われたのだ。彼から誘ってもらえるなんて初めてのことで、嬉しくて仕方がない。瀬戸くんには「ニヤニヤすんな」って怒られちゃったけど。
校門を出てゲームセンターに向かおうとした時。
「壱馬」
後ろから声をかけられ振り返ると、そこには四十歳くらいの女性が立っていた。着物を着ており、すっきりとした涼しげな目元が印象的な綺麗な人だ。傍らには高級そうな車が停まっている。瀬戸くんは小さく舌打ちをした。
「……何でいるんだよ」
「だってあなた、電話に出ないしメールも返さないじゃない」
瀬戸くんはその女性を睨み付けた。よく見ると二人は少し似ているかもしれない。女性は僕に目を向けると、柔らかく微笑んだ。
「こんにちは。壱馬の母です」
「あっ、僕は佐倉優弥といいます。初めまして」
慌ててお辞儀をする。瀬戸くんのお母さんだったんだ! どおりで似ていると思った。
「あら、礼儀正しい子ね。壱馬とは大違いだわ」
「うぜえんだよ、早く帰れ」
「あなたを迎えに来たのよ。車に乗りなさい」
「嫌に決まってんだろ!」
瀬戸くんは声を荒らげた。周囲の人達がこちらをちらちらと見ているが、二人はお構いなしといった様子だ。
「いい加減にしねえとマジでぶん殴んぞ」
「せ、瀬戸くん、落ち着いて……」
「お前は黙ってろ」
彼は僕には目もくれず、母親を睨み続ける。
「お父さんが体調を崩したのよ。顔くらい見せなさい」
「知らねえよ。勝手に死んどけ」
「いいから来なさい」
「俺の顔なんか見たくもねえだろ、あいつは!」
瀬戸くんはそう叫ぶと、僕の手を引いて走り出した。母親は追いかけてこない。僕は驚いて、ただ彼に手を引かれるまま走った。
「はぁっ、はぁっ……」
しばらく走って、やっと立ち止まる。僕は膝に手を当てながら呼吸を整えた。
「悪かったな、巻き込んじまって」
「そんなこと気にしないで。それより、瀬戸くんは大丈夫……?」
「……」
答えはなかった。その表情からは何を考えているのか読み取れない。僕は不安になり、思わず彼の服を掴んだ。
「あの、お母さんのこと……」
「放っといてくれ」
「えっ……」
「あんな奴、家族でも何でもねえよ」
瀬戸くんは吐き捨てるように言った。
結局、寄り道せずにそのまま寮に戻った。でも瀬戸くんはずっと無言で、部屋に戻るとすぐにこちらに背を向けてベッドに寝転んでしまった。
それから瀬戸くんの母親が現れることはなかった。たまに連絡が来ているようだが、瀬戸くんが返事をしている様子はない。
瀬戸くんの母親は、見るからにお金持ちだった。そして、瀬戸くんは家族と上手くいっていないようだ。でも僕に何ができるのか、そもそも彼の事情に踏み込んでいいのかすらも分からず、なるべく話題に出さないように気をつけた。
そのうち季節はすぎ、期末テストを終えた。僕は今回も瀬戸くんに勉強を教えてもらい、そこそこの点数を取れた。もう冬休みは目前だ。
「瀬戸くんはいつから帰省するの?」
「しねえよ」
「えっ、お正月も?」
「正月なんて一番面倒くせえ」
「で、でも、お母さんが……」
言いかけて、口を噤む。きっと僕が口出しをすることじゃない。
「佐倉は帰るんだろ」
「うん、二十八日から」
「そうか」
彼はそれ以上は何も言わず、窓の外を見つめた。僕も黙り込む。なんだろう、この空気は……。沈黙に耐えきれず、僕は話題を探した。
「あっ、そういえば、クリスマスは予定あるの?」
「ねえよ」
「じゃあさ、一緒に過ごさない?」
「はぁ!?」
瀬戸くんは素っ頓狂な声を上げた。
「一人だと寂しいじゃん」
「男二人のクリスマスもどうなんだよ……」
「僕は楽しいと思うけど……ダメかな?」
「……まあいい、好きにしろ」
「やった!」
嬉しくなって、思わず飛び上がった。
「何だよ、いきなり……」
瀬戸くんは呆れたように笑った。その笑顔を見てほっとする。
「よかった、やっと笑ってくれたね」
「……うるせえ」
「照れてる~可愛いなあ~」
「佐倉……お前、調子に乗ってんな」
「痛い! 痛いです!」
頭を鷲掴みにされて悲鳴を上げる。でも本気で怒っているわけじゃないことは分かる。こんな風に冗談を言い合えるくらいに、僕らは仲良くなっていた。
翌日、授業が終わり寮へ帰った後、瀬戸くんは先生に呼び出された。どうしたんだろう……。気になって廊下に出ると、ちょうど彼が戻ってくるところだった。
「何かあったの?」
「何でもねえ」
瀬戸くんは苦虫を噛み潰したような顔をしながら言った。何でもないようには見えない。
「大丈夫? 何かあったんだよね」
「だから、何でもないって言ってんだろ」
「で、でも……」
「うるせえな、ほら部屋戻るぞ」
そう言うと、瀬戸くんは僕の腕を引いて歩き出した。振り払おうにも力が強くて無理だった。仕方なくそのまま引っ張られて部屋に戻る。
「あのさ、俺のこと心配してんのか知らねえけど、そういうの迷惑だから。余計なお世話っつーかウザい」
「……」
余計なお世話……きっとそうなんだろう。僕は無力だと思う。それでも、瀬戸くんに何かしてあげたいと思う気持ちは消えない。
何も言えないでいると、瀬戸くんは舌打ちをして僕の腕を離した。
「とにかく……俺のことはお前には関係ねえだろ。放っとけよ」
突き放すような言い方に、頭の中で何かが切れるような音がした。
「……関係なくない」
「……あ?」
「関係なくないよ!」
自分よりも背の高い瀬戸くんを見上げ、精一杯叫ぶ。
「友達が悩んでるのに放っておけないよ! 力になりたいって思うのはおかしいこと!?」
そう告げると、瀬戸くんは目を大きく見開いたまま固まった。しばらくして、小さな声が聞こえる。
「俺は別に……ただ……」
「ただ?」
「いや、なんでも……ねえ……」
瀬戸くんはそのまま黙り込んでしまった。次の言葉を待つが、なかなか続きを口にしない。
「……」
僕は思い切って彼に近づき、手を握った。
「何すんだよ……!」
驚いた様子で手を引こうとするが、僕はそれを許さなかった。強く握りしめたまま彼を真っ直ぐに見上げる。
「僕じゃ頼りないかもしれないけど、瀬戸くんの力になりたい」
「……」
「話して楽になるなら、僕はどんな話でも聞くよ。一人で抱え込まないで」
しばらくすると、瀬戸くんは抵抗をやめ、静かに語り始めた。
「……親父が、あぶねえって」
「お父さんが……?」
そういえば、以前瀬戸くんの母親に会った時、体調を崩していると言っていた。
「俺が電話もメールも返さないからってわざわざ学校に連絡しやがった」
彼は自嘲気味に笑うと、「でも、行くつもりねえけど」と続けた。
「どうして? 会いたくないの?」
「会いたいわけねえだろ」
「でも、家族なのに……」
「……もう、疲れた」
彼はぽつりと言った。その表情はとても辛そうで、僕は胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「俺の家、ガキの頃からすげー厳しかったんだよ」
瀬戸くんはぽつりぽつりと家族のことを話し始めた。瀬戸くんの父親は料亭を何軒も経営しており、母親は茶道の家元の生まれで、厳格な人だったらしい。
瀬戸くんは跡取りとして幼い頃から厳しく育てられていた。幼稚園から帰れば家庭教師による勉強の時間が始まり、箸の持ち方から姿勢まで、あらゆることを注意された。特に食事のマナーは厳しく、食事中は常に正座をし、食べ終わるまでは絶対に足を動かしてはならない。少しでも音を立てようものなら怒鳴られるそうだ。そして、食べ終わった後は母親との稽古。毎日それが繰り返されていたという。
その話を聞いた僕は、息苦しさを感じて俯いた。
「……で、中学の時に限界が来て、親父をぶん殴って家出した。まあすぐ連れ戻されたけどな」
瀬戸くんは鼻で笑った。その瞳は暗く淀んでいる。
「それからは腫れ物扱いだ。早く家を出たかったけど、高校くらいは出てないとやべえと思って寮があるここを選んだんだよ」
「そっか……」
「俺は跡取りなんかになるつもりはない。弟に継がせるんじゃねえかな」
「瀬戸くん、兄弟いるの?」
「ああ。まだ三歳だけどな。俺みたいな失敗作と違って、大事にされてる」
自分のことを失敗作と呼ぶ彼の顔には、深い影が落ちていた。そんな顔をしてほしくなくて、僕は必死に言葉を探す。
「でもさ、瀬戸くんは優しい人だよ。いつも僕のこと助けてくれるもん。それはやっぱりすごいことだと思うよ」
「……」
「みんなは瀬戸くんを怖いって言うけど、僕は違うと思う。入学した頃の喧嘩も、きっと何か理由があったんでしょ?」
「理由っつーか……向こうから絡んできたんだよ。で、ちょっとやり返したら俺が一方的にやったことにされた。それからは下らねえ奴の相手をするのはやめたけどな」
瀬戸くんは理由もなく自分から暴力を振るう人ではないと信じていた。口調や外見から誤解をされやすいけれど、やっぱり心根は優しいのだ。
「話してくれてありがとう」
笑いかけると、瀬戸くんは困惑したように俯いた。
「……俺の話なんて、誰も聞こうとしなかった。親も、教師も……なのに、何でお前は……」
「そんなの、大事な友達だからに決まってるよ」
僕の言葉を受けて、瀬戸くんの目が大きく見開かれる。
「僕ね、瀬戸くんのこと大好きなんだよ。だから、瀬戸くんには笑っててほしいんだ。僕にできることだったら何でもするから、いつでも頼ってね」
瀬戸くんは驚いた表情のまま僕を見つめ、しかしすぐに目を逸らした。
「……お前、馬鹿だろ」
「え?」
「そういうの……勘違いされるぞ」
「勘違い……?」
首を傾げると瀬戸くんはため息をついた。
「お前、無防備すぎるんだよ」
「うーん……? でも、本当にそう思ってるんだ。瀬戸くんはいい人だし、一緒にいて楽しいし、好きだよ」
そう言うと、何故か瀬戸くんは固まってしまった。
「あの……瀬戸くん?」
「……お前さぁ、わざとやってるわけじゃねえよな?」
「え?」
「……何でもねえよ」
瀬戸くんは呆れたように呟き、すっと立ち上がった。
「とにかく、俺は大丈夫だから気にすんな」
そう言って部屋を出ようとする瀬戸くんを慌てて呼び止める。
「あ、待って!」
「何だよ」
「僕は、お父さんに会った方がいいと思う」
「……今更、どんな面下げて会えばいいんだよ」
「でも、このまま会わないでいたら……もしもう会えなくなっちゃったら、きっと後悔するよ」
瀬戸くんは黙り込んだ。そしてしばらくすると、細く長く息を吐く。
「……わかった」
彼はゆっくりとこちらを振り向いた。その目は赤く染まっていた。
「明日行く」
次の日、朝食をとると瀬戸くんは寮を発った。彼の家までは電車で一時間ほどかかるらしい。僕はただ見送ることしかできなかった。
それからあっという間に五日が過ぎた。その間はずっと連絡もない。心配だったけれど、自分からは連絡しない方がいい気がした。きっと彼から連絡をくれるはず……そう信じて待とうと決めた。
一人で部屋にいても暇なので、ふたつ隣の佐伯くんの部屋に遊びに行ってみた。
「一人だと気楽でいいだろ」
「うーん……ちょっと寂しいよ」
「マジかよ……やっぱり佐倉って瀬戸と仲良いの?」
「いつもそう言ってるじゃん」
僕がみんなの前で怒ってから、佐伯くんは僕に瀬戸くんの悪口を言わなくなった。でも印象が良くなったわけではないようで、本当に友達なのかと度々確認される。佐伯くん、いい人なんだけど、こういうところは少し困るな……。
「あ、そういえば、この映画知ってるか? めっちゃ泣けるってバズってるんだよ」
佐伯くんが差し出してきたスマホの画面にはとある恋愛映画のホームページが表示されていた。主演は人気アイドルグループのメンバーで、ヒロインは最近CMでよく見かける女優だ。映画自体は知らなかったけれど話題を集めそうな印象を受けた。
「クリスマスに彼女と見に行こうと思ってるんだ」
「いいと思う! 雰囲気ぴったりだね」
わくわくとした様子の佐伯くんとは対照的に、僕の心は沈んでいた。
クリスマスは瀬戸くんと出掛ける約束をしているけれど、こんな状況になってしまってはそれも叶わないかもしれない。仕方がないこととはいえ、どうしても気落ちしてしまった。
翌日、瀬戸くんは門限の間際に戻ってきた。五日間離れていただけなのに、待ち遠しくて仕方なかった。この部屋は一人でいるには広すぎるのだ。
「おかえりなさい」
「……おう」
出迎えると、瀬戸くんは照れ臭そうな顔をしながら荷物を置いた。そして僕に向き直る。
「親父、死んだよ」
「えっ……」
「俺が行った日の夜にな。で、昨日葬式が終わったから帰ってきた。親戚連中は相続だなんだで揉めてたけど、俺が口出すことじゃねえし」
「お父さんに会えた?」
「ああ」
瀬戸くんは俯いて拳を握りしめた。
「謝られたよ。悪かった、好きに生きろって」
「そっか……」
「本当は……最後に今までの恨み言全部言ってやろうと思ってた。でも、何も言えなかった」
「……うん」
「……今更謝られたって許せるわけねえだろ」
絞り出すような声でそう言うと、瀬戸くんは唇を強く噛み締める。
「あいつに言われなくたって好きに生きる。俺の人生は、俺だけのもんだ」
「瀬戸くん、前向きになれた?」
「まあ、そうだな。お前のおかげで吹っ切れそうだ」
そう言うと、瀬戸くんは笑みを浮かべた。それはいつも通りの笑顔だった。
「ありがとな」
その言葉を聞いた瞬間、僕の目からは涙が溢れ出した。
「え……おい、どうしたんだよ」
慌てる瀬戸くんを前に、僕は必死になって首を横に振る。泣き止まないと……そう思うほど余計に涙は流れてくるばかりで、なかなか止めることができない。
「ごめん……僕……嬉しくて」
やっとのことでそう言うと、瀬戸くんは小さく息を吐いた。
「泣くなよ」
「うぅ……」
「ったく、しょうがねえな」
瀬戸くんは頭を掻きむしると、引き出しからタオルを取り出して僕に渡してきた。
「これで顔拭けよ」
「ありがとう……」
受け取ったタオルでごしごしと目を擦る。すると、瀬戸くんが突然笑い始めた。
「ぶっさいくな面だな」
「ひどいよ……誰のせいで泣いてると思ってるの……」
「悪い、つい面白くて」
そう言って彼はさらに笑う。つられて僕も吹き出してしまった。
ひとしきり二人で笑ってから、瀬戸くんは言った。
「まあ……これからもよろしく頼むわ」
「うん、こちらこそ」
「そういえば、明日のクリスマス、どこか行くんだろ」
瀬戸くんは約束を覚えていてくれた。嬉しいけれど、色々あって大変だっただろうにいいんだろうか?
「いいよ、疲れてるでしょ?」
「いや、むしろ気分転換したい。どっか行こうぜ。行きたいところあるのか?」
行きたいところ……そう問われて、ふと昨日の佐伯くんの話を思い出した。
「映画とか、どう?」
たしか恋愛映画だったはずだ。あまり見たことがないジャンルで、ストーリーも知らないけれど、話題作ならきっと面白いに違いない。
「よし、決まりだ」
「本当に大丈夫? 無理してない?」
「してねえよ」
「そっか……それじゃあ、明日は楽しみにしてるね!」
翌日のクリスマスイブは終業式だけで、昼前に学校が終わった。一旦寮に戻って着替え、瀬戸くんと映画館に向かう。
街に出ると店先の飾りつけに目がいった。平日だというのに、街中は人で賑わっている。そしてカップルの姿が多い。
「すごい人だね」
「……ああ」
瀬戸くんはうんざりしたように返事をする。
「やっぱり、寮でゆっくりする方が良かったんじゃ……」
「別に嫌とは言ってねえよ。ただ、あんまり人混みは好きじゃねえだけだ」
瀬戸くんは不機嫌そうだ。僕は慌てて話題を変えた。
「そ、そう言えば、今日見る映画のこと教えてなかったよね。これなんだけど」
事前に佐伯くんから聞いておいたタイトルで検索し、スマホを見せる。すると瀬戸くんの表情は更に渋くなった。
「……これかよ」
「えっ、嫌いだった?」
「好きとか嫌いとか以前に、お前さ……一緒に見るのが誰だか分かってんのか?」
呆れたように言う瀬戸くんに、僕は首を傾げる。
「瀬戸くんと見るんだけど……?」
「こんなん、男二人で見るもんじゃねえだろ」
「でもこれ今すごく人気があって、えっと……めっちゃ泣けるってバズってるんだって」
「お前SNSやってねえだろ、誰の受け売りだよ」
佐伯くんの言葉をそのまま伝えると、瀬戸くんは深くため息をついた。
「他に何かねえのかよ」
「えっ、えっと……じゃあこれは……あ、満席だった。じゃあこっち……ダメだ、時間が合わない……」
「はあ……もういい、それで」
「でも嫌なんだよね? 無理しなくても……」
「別にいい、早く行くぞ」
瀬戸くんは早足で歩き出した。
うーん、出だしから躓いてしまった……。
その後、ショッピングモール内にある映画館に入った。上映が始まると瀬戸くんはポップコーンを食べながらまっすぐスクリーンを眺めていた。僕も同じようにキャラメル味のポップコーンを口に運び、映画を楽しむ。主演の人、すごくイケメンだ。ちょっと瀬戸くんに似てるかも。
そもそも瀬戸くんは結構目鼻立ちが整っている。少し目つきは鋭いけれど、笑うと雰囲気が柔らかくなる。みんなの前でももっと笑顔になればモテるんじゃないだろうか。
途中でちらと隣を見ると、瀬戸くんは案外真剣な表情で画面を見つめていた。てっきり退屈で居眠りでもしてしまうんじゃないかと思ったのに。その横顔がやけに格好よく見えて、急いで視線を逸らし、残りのポップコーンを一気に頬張った。
スクリーンの中では主人公とヒロインが海辺の道をデートしている。難病で余命幾ばくもないヒロインが外に出られるのはこれが最後、という涙を誘うストーリーだ。
佐伯くんがクリスマスデートにこの映画を選んだ理由が分かった。そして、瀬戸くんが渋った理由も。
クリスマスイブに二人で恋愛映画を見るなんて、まるで恋人同士みたいだ。
今更そんなことに気づいたのだ。意識し始めると急に落ち着かない気持ちになる。瀬戸くんはこんな風に誰かとデートしたことあるのかな。
どうして瀬戸くんのことばかり考えてしまうんだろう。友達だから? でも佐伯くんのことはこんなに考えないし、今までの誰とも違う感覚だ。
もしかしたら、僕は瀬戸くんのこと――。
その時、場内が明るくなった。物思いに耽っていたらクライマックスを見逃してしまった。
瀬戸くんは両腕を伸ばしてストレッチしながら僕の方を向いた。
「面白かったか?」
「あ、うん。面白かったね」
「……どうした? 元気ねえな」
「いや、ちょっと考え事してて……」
まさか君のことをずっと考えていたとは言えない。
「お前が見たいって言ったんだからちゃんと見ろよ」
「うう……ごめん」
「……まあいいか。それより飯食おうぜ」
夕飯にはまだ少し早いけれど、映画館を出て適当に目についたイタリアンレストランに入ることにした。窓際のテーブルに案内され、メニューを広げる。どれも美味しそうだ。注文を終えて、先程からの疑問を思いきって尋ねてみることにした。
「瀬戸くんって、誰かと付き合ったことある?」
「なんだよ、いきなり」
「いや、気になって……ほら、さっき恋愛映画見たばっかりだし」
「そういうお前は……まあ、聞かなくても分かるか。お前、モテなさそうだし」
「ひど! そこまで言わなくていいじゃん! それに一回告白されたことあるよ」
「マジか。いつの話だよ」
「中二の時、同じクラスの女の子から。でも、その後すぐ僕が転校しちゃったから何もなかったけど」
「ふーん……」
「あ、もしかして嫉妬してる?」
冗談めかして言うと、瀬戸くんはむっと眉を寄せた。
「するかよ馬鹿。つーか誰にだよ」
「ごめん、怒った?」
「怒ってねえよ」
そう言いながらも不機嫌そうな顔をしている。
「で、瀬戸くんは彼女いたことあるの? ないの?」
「うるせえなぁ……」
そんな話をしていたら料理が運ばれてきた。結局、瀬戸くんの恋愛歴については聞けなかった。
食事を終え、店を後にすると、すっかり暗くなっていた。空には星が瞬いている。そろそろ帰らないと門限になってしまうけれど、もう少しだけ寄り道したかった。
「最後にイルミネーション見ていこうよ」
ショッピングモールの外の広場に行くと、そこかしこに電飾が施されていてとても綺麗だった。中央には大きなツリーがあり、周りではカップルが写真を撮っている。
「わあ、すごい……」
思わず感嘆の声を上げる。しばらくイルミネーションに見入っていると、突然手を握られた。驚いて振り返ると瀬戸くんが僕の手を握っていた。
「あの……瀬戸くん?」
「……」
彼は無言のままだ。繋いだ手に力が込められる。心臓が激しく脈打っていた。
「えっと……」
どうしたらいいか分からなかったけれど、不思議と嫌ではなかった。むしろ嬉しかった。やがて、瀬戸くんはゆっくりと口を開く。
「今日は楽しかったか?」
「うん、すごく楽しかった。僕、段取り悪くてごめんね」
「いや、別に……気にしてねえから」
少しの間、沈黙が流れる。
「お前は、どう思ってるか知らねえけど……」
瀬戸くんがぼそりと言う。
「俺は……お前のこと……」
言い終わる前に、頬に冷たいものが触れた。天を仰ぐ。
「雪だ」
ひらりはらりと舞い落ちるそれは、まるで僕達を祝うかのように降り注いでいた。
「ホワイトクリスマスだね……」
そう言って瀬戸くんの顔を見上げようとした時、突然抱きしめられた。
「好きだ」
耳元で囁かれたその一言に、胸がどくんと跳ねるのを感じた。
どういう意図で言っているのか、流石の僕でも分かる。
「悪い……」
そう言うと、瀬戸くんは体を離した。
「急に変なことして悪かった。もう帰るぞ」
「待って!」
そのまま歩き出した瀬戸くんの背中に向かって呼びかけ、立ち止まった彼の腕を掴む。
心臓が壊れそうなほど、うるさく高鳴っていた。映画館で瀬戸くんを意識してしまった時から、もしかしたらという予感はあった。そしてその予感は今、確信に変わった。
「僕も……瀬戸くんのことが好き」
一瞬、瀬戸くんの動きが止まる。そして、再びこちらを向くと、今度は優しく僕を抱き寄せた。
「それ本当か? 勘違いじゃねえよな」
至近距離にある顔を見つめながら答える。
「今気づいたばっかりだけど……瀬戸くんと一緒にいるとドキドキするし、もっと一緒にいたいと思う」
そう言うと、瀬戸くんは僕の顎に手を添えて上を向かせた。徐々に二人の距離が縮まり、唇が触れそうになったその時―――。
――ピピッ。
スマホのアラーム音が鳴り響いた。ハッとしてお互いに離れる。
「あ、やべ……時間だ」
「うわ、ほんとだ! 帰ろう!」
慌てて走り出そうとすると、不意に手を握られ、指を絡めるように繋ぎ直された。びっくりして彼を見ると、「急ぐぞ」と言って引っ張られる。僕は黙ってそれに続いた。
急いだおかげで門限にはギリギリ間に合った。寮に入る前に手を離したが、名残惜しくて堪らなかった。二人で部屋に戻ると、なんだか恥ずかしくてお互い目を合わせられなかった。
その後は勉強時間を経て、ベッドに入った。しかしなかなか眠れない。隣のベッドにいる瀬戸くんも何度も寝返りを打っている。
「なあ、まだ起きてるか?」
「うん」
「……ちょっとこっち向けよ」
言われた通りにすると、瀬戸くんもこちらを向いていた。目が合うだけで鼓動が大きくなる。
「あのさ、俺……」
「な、なに……?」
緊張して思わず身構えてしまう。
「こういうの初めてだから、よくわかんねえんだけど」
「こういうの?」
「だから……付き合うとか、そういうのがだよ」
瀬戸くんも初めてだったんだ。格好いい彼のことだから、僕よりも経験豊富だろうと思っていた。
なんだか嬉しくなり、ドキドキしたまま次の言葉を待つ。
「お前のこと、大事にするから。これからよろしくな」
それだけ言い終えると、瀬戸くんは再び背を向けた。胸が甘くきゅっと痛んで、心地よい苦しさを感じる。
「こちらこそ、よろしくね」
返事はなかったけれど、僕の気持ちは伝わっていると思う。
明日からも毎日こうして過ごせたらいいのに。瀬戸くんと、ずっとずっと一緒に。
クリスマスの翌日、僕は帰省するために荷造りをしていた。とはいってもそんなに荷物はないのだけれど。
「瀬戸くん、本当に帰らないの? 年末年始は閉寮するらしいよ」
「親も帰ってこなくていいって言ってて、ホテル取ってるんだよ。だから心配すんな」
瀬戸くんは一人でホテル暮らしをするようだ。複雑な家庭の事情があるとはいえ、あまりにも高校生らしくないと思う。それに何日も会えないのは寂しい……そう思ったとき、ひらめいた。
「そうだ、瀬戸くんも僕の家に来る?」
「は!?」
「アパートだから狭いけど、良かったら泊まってよ」
「いや、迷惑だろ」
「お父さんもお母さんも歓迎してくれると思うよ。ね、どうかな? 大晦日はみんなで鍋とかしようよ」
「んなこと言ったって……」
「それに……瀬戸くんと会えないと寂しいよ」
「……」
瀬戸くんは少し考え込むような素振りを見せた後、やがて静かに口を開いた。
「……分かった」
「ほんと!?」
「ああ。ただし、お前の両親の許可が出たらの話だ」
「もちろんだよ! じゃあ、早速電話してくる!」
僕は廊下に出てすぐ両親に連絡した。友達を連れていきたいと伝えると、逆に瀬戸くんの心配をされてしまったが、事情を話すと許可してくれた。
元々楽しみにしていた帰省が更に楽しみになった。
十二月二十八日の朝、瀬戸くんと一緒に僕の家に向かった。電車に三十分ほど揺られ、バスに乗り換えて更に十五分。そして、バス停から数分歩いたところに両親の住むアパートがある。
「ただいま!」
玄関を開けると、「おかえりなさい」という声とともに母が顔を覗かせた。
「あら、あなたが瀬戸くん?」
「はい。この度は突然すみません」
「いいのよ、ほら上がって」
「お邪魔します」
瀬戸くんは恐る恐るという感じで靴を脱いだ。敬語で話す瀬戸くんが珍しくて、思わずじろじろ見そうになるのを堪える。
リビングでは父がこたつで新聞を読んでいた。
「やあ、君が瀬戸くんか。話は聞いているよ」
「初めまして、よろしくお願いします」
「そんなに畏まらなくていいんだよ。楽にして」
「はい」
瀬戸くんは座布団の上に正座している。背筋がピンと伸びていて、厳しく育てられていたという話を思い出した。今思えば、勉強ができることも食事をきれいに食べることも全てはそういう環境で育った故なのだ。
「いつも優弥と仲良くしてくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「まあ、とりあえずゆっくりしていってね」
「はい。あの、これ……つまらないものですが」
瀬戸くんは持参してきた紙袋を差し出した。中身はクッキーらしい。
「これはどうもご丁寧に」
「あ、僕コーヒー淹れるね」
キッチンに向かいながら横目で二人の様子を窺う。なんだか不思議な光景だった。普段学校で見ている瀬戸くんとは別人のように礼儀正しく、まるで借りてきた猫のごとく大人しくなっている。
「はい、どうぞ」
三人分のカップを持って戻ると、二人は世間話をしていた。僕は自分の定位置に腰掛ける。
「優弥は昔から転校ばかりで、友達を家に連れてくるなんて初めてだから本当に嬉しいんだよ」
父の言葉を聞いて、胸が締め付けられる思いがした。確かにそうだ。少し仲良くなれてもまたすぐ転校してしまい、親友と呼べるような人はいなかった。でも、今は違う。
友達じゃなくて恋人だってことは、いつかきちんと報告したいと思った。
昼食をとった後、二人で僕の部屋へ移動した。瀬戸くんは物珍しそうに部屋の中を見回している。
「結構片付いてるな」
「うん、僕がいない間もお母さんが掃除してくれてるんだ」
「へえ……」
「さて、じゃあ何する? ゲームとか?」
「……なあ」
瀬戸くんは僕の方を向くと、真剣な顔つきになった。そして、口を開く。
「普通の家ってこういう感じなのか」
「えっ?」
予想外の質問だったので、一瞬戸惑ってしまう。
「俺は今までこんな風に家族と過ごすことなんてなかった。だから、よく分かんねえ」
「まあ、うちは一般的だと思うよ」
「ふーん……」
瀬戸くんは考え込むような素振りを見せる。
「……俺も、こういう家だったら良かった」
ぽつりと呟かれた言葉に胸が痛む。瀬戸くんにとって、家族の温もりとはどういうものなのだろうか。
瀬戸くんの家はきっとうちとは比べ物にならないくらいお金持ちだ。でも、彼はそんな家に生まれたことを呪っているようだった。
「じゃあさ、また遊びに来ようよ」
気付いた時にはそう口にしていた。瀬戸くんが目を丸くしてこちらを見る。
「……いいのか?」
「もちろん、いつでも来てよ!」
「ありがとな」
瀬戸くんは嬉しそうな表情を浮かべた。その笑顔を見た途端、心が満たされていくのを感じた。
それからは毎日瀬戸くんとゲームで遊んだり、近所を散歩したり、家のことを手伝ったりして過ごした。最初は両親の前ではぎこちなかった瀬戸くんも、徐々に慣れてきてくれて今ではすっかり打ち解けている。
そして今日は大晦日。昼は年越し蕎麦を食べて、夕食はみんなで鍋を囲んだ。瀬戸くんは「おいしい」と言ってたくさん食べてくれた。
お風呂に入った後は僕の部屋でテレビを見ていた。年が明けるまであと少しだ。
「今年は色々あったけど、来年もいい年にしようね」
「そうだな」
「僕、瀬戸くんと出会えてよかった。毎日すごく充実してるんだよ」
「佐倉……」
「あっ、カウントダウン始まったよ!」
時計を見ると残り十秒になっていた。四、三、二……と数字が減っていき、ゼロになった瞬間、瀬戸くんは僕の肩に手を置いた。
そのままぐいっと引き寄せられる。唇に柔らかい感触。キスされていると分かったのは数秒間経ってからだった。
「せ、瀬戸くん!?」
慌てて体を引き離す。瀬戸くんの顔は真っ赤に染まっていた。
「嫌だったか?」
「い、嫌じゃないけど……」
心臓がドキドキしている。ファーストキスだった。
「悪い、我慢できなかった」
「ううん……大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
まだ唇に感触が残っている。初めての感覚だったけれど、不思議と心地よいものだった。
「……もう一回していいか?」
「えっ……う、うん……」
今度は僕から瀬戸くんの背中に腕を回す。瀬戸くんも僕の腰を抱き寄せてきた。互いの体温を感じながら、ゆっくりと顔を近づける。再び触れ合った唇からは柔らかさと温かさが伝わってくる。
どのくらいそうしていただろう。やがて、どちらからともなく唇を離した。至近距離にある瀬戸くんの瞳を見つめ返す。彼の顔は耳まで赤くなっていた。
「今年もよろしくね」
「……おう」
新年の挨拶を交わすと、僕らは再び抱きしめ合い、何度もキスを交わした。
一月一日。元旦。お雑煮を食べて、瀬戸くんと初詣に向かう。近所の小さな神社はそこそこ賑わっていたが、あまり並ばずに参拝することができた。
「何お願いした?」
「別に何も」
「えー、せっかくだからお願いすれば良かったのに」
「お前は?」
「うーん……内緒かな」
願い事の内容を知られると叶わないという話もあるし、恥ずかしくて言えなかった。
──瀬戸くんとずっと一緒にいられますように、なんて。
三が日はあっという間に過ぎ、寮に戻る日がやってきた。いくら瀬戸くんと一緒でも、やはり家族と離れるのは寂しさがある。
玄関で靴を履いていると、父が話しかけてきた。
「優弥、次もまた二人で一緒においでよ。瀬戸くんが良ければだけど」
「ぜひ来てくれってさ」と瀬戸くんの方を見る。彼は少し照れ臭そうな表情を浮かべていた。
「ありがとうございます」
「瀬戸くん、これからも優弥をよろしくね」
母はそう言って微笑むと、「じゃあ、気を付けて帰るのよ」と言って手を振ってきた。
「はい。お世話になりました」
瀬戸くんは頭を下げ、僕は手を振り返した。
「いってきます!」
こうして、僕の短い帰省は終了したのだった。
三学期が始まって一ヶ月ほど経ち、二月になった。瀬戸くんとの仲は順調だ。
提出物のプリントを集め、職員室に持っていくと瀬戸くんが担任の先生と話していた。
「急にどうしたんだ? 佐倉とはうまくやってるんじゃないのか」
僕の名前が出て驚いた。二人はこちらに気づいていない。立ち聞きは悪いと思ったが、どうしても気になってしまい柱の陰に隠れて二人の会話を聞くことにした。
「部屋を変えたいって言われても、今空き部屋はないぞ」
「他の奴と同室でもいい」
「そう言われてもな……一応規則だし、そう簡単には変更できないんだ。理由を教えてくれないか?」
「……あいつと同室だと、色々困る」
──え。瀬戸くんの言葉が胸に突き刺さる。どうして……? そんなに嫌なの?
「色々困るって……それじゃ理由にならないぞ」
「……」
「まあ、そういう訳だから無理だ。諦めてくれ」
瀬戸くんは何も言わずにその場を去った。一人残された僕は、呆然としたまましばらく動けなかった。
僕達は今まで仲良くやってきていると思っていた。最近何か喧嘩したわけでもないし、今朝までの瀬戸くんは特に変わったところもなかった。突然態度が変わったのには何か原因があるはずだけど、考えてみても思い当たる節はない。とりあえず、今日帰ったら訊いてみよう。
その日の放課後、瀬戸くんと一緒に寮に帰った。だが、なかなか話を切り出せない。
「あのさ……最近、何かあった?」
「何かって何だよ」
「例えば、何か嫌なことがあったとか……」
「別に何もねえけど」
「そっか……」
会話が続かない。
何となく気まずい雰囲気のまま、消灯時間になってしまった。
電気を消し、ベッドに入るとすぐに瀬戸くんが話しかけてきた。
「なあ、お前何か今日変じゃないか」
「そ、そうかな」
「俺に変な気遣うのやめろ。言いたいことがあるなら言えよ」
「……」
迷ったけれど、意を決して口を開いた。
「瀬戸くんこそ、僕に何かあるんじゃないの?」
「は?」
「ごめん、実は今日先生と話してるのを聞いちゃったんだ」
「……」
「僕と同室なのが、困るって……」
「……」
瀬戸くんは無言のままだ。
やっぱりそうなんだ……! じわりと視界が滲み、心の中で悲しみが広がっていく。
「ごめんね、迷惑かけて……」
「違う!」
大きな声が部屋に響く。暗闇の中、彼の真剣な表情が浮かび上がった。
「佐倉、勘違いすんな。お前のことが嫌なわけじゃない」
「でも、一緒にいたくないんでしょ?」
声に出したら涙が溢れてきた。自分で思っていた以上にショックだったらしい。顔を見られたくなくて枕に顔を埋めた。
「おい、泣くなって……」
瀬戸くんがこちらに近づき、頭を撫でてくる。優しくされる度、ますます胸が苦しくなった。
「だって、僕達うまくやってたと思ってたから……」
「俺もそう思ってる」
「じゃあ、どうして……」
「それは……」
瀬戸くんは言葉を詰まらせた。沈黙が流れる。
やがて彼は重い口をゆっくりと開いた。
「……佐倉、俺たち付き合ってどのくらいになるか覚えてるか」
「え……一ヶ月ちょっとだけど……」
それがどうかしたんだろうか。まだ瀬戸くんの考えが分からない。
「そうだ。まだたったの一ヶ月だ。なのに……このままだと歯止めがきかなくなるんじゃねえかと思って……」
「どういうこと?」
瀬戸くんは言いにくそうに僕から目を逸らした。そして一瞬躊躇った後、覚悟を決めたように話し出す。
「……分かるだろ、男なら」
「え? な、何が?」
体を起こし、瀬戸くんの顔を覗き込む。しかし彼は目を合わせようとしない。
「だから……俺はお前ともっと先に進みたいんだよ」
「先に進む……?」
意味がよく分からなくて首を傾げると、瀬戸くんは片手で顔を覆った。
「お前、マジで分かんねえのかよ……」
すると、瀬戸くんが僕の手を取ってきた。そして、指の間に自分の指を差し込んでくる。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。そしてもう片方の手で僕の肩を掴み、ぐっと力を入れて押した。
「うわっ……!?」
背中に柔らかいマットレスの感触。視界が反転し、僕に覆い被さる瀬戸くんの向こうに天井が見える。状況が飲み込めず混乱する僕に瀬戸くんは言った。
「……こういうことだよ」
「えっ……」
「俺、お前のこと大事にするって言ったくせに……もう我慢できねえんだよ」
この体勢と彼の言葉で、つまり瀬戸くんは僕と……そういうことをしたいのだと、意味を理解した。その瞬間、恥ずかしさのあまり頭が沸騰しそうになった。心臓が激しく脈打つ。
「あの、えっと……でも、寮の部屋でそんなことしたら……」
「分かってる。なのにお前は全然気にしてねえから困ってんだよ」
そういえば、瀬戸くんはいつもお風呂の時間をずらしたり、僕が部屋で着替えている時に目を逸らしたり部屋から出ていったりしている。
それって、そういう意味だったんだ……。自分の鈍感さのせいで瀬戸くんを悩ませてしまっていたとは。
「ごめんね、気づかなくて」
「本当にな。鈍いのは分かってたけど、予想以上だった」
「う……本当にごめん……」
瀬戸くんの顔が近づき、ちゅっと音を立てて唇が重なる。
「だから、今はこれだけで我慢しとく。その代わり卒業したら覚悟しとけよ」
「覚悟……」
一瞬で頬が熱くなる。いつかはいわゆる大人の階段を上る日も来るだろうとは思っていたけれど、あまり具体的には考えていなかった。本当にもうただの友達ではないのだと強く意識してしまう。
僕は意を決してこくりと頷いた。
「うん、分かった。もしその時が来たら、瀬戸くんに満足してもらえるように頑張るよ!」
そう宣言すると、瀬戸くんは深く深く息を吐いた。
「……言ったそばから、そういうのやめろ」
「え、なにか間違ってた?」
「いや……いい、お前らしいから」
よく分からないまま、大きな手で頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。瀬戸くんは呆れながらもどこか嬉しそうにも見えた。
「あー、そういや、もうひとつお前に言うことがあった」
「なに?」
「次の土曜日、実家に帰ろうと思ってる」
「へっ!?」
予想外すぎる答えに思わず間抜けな声を上げてしまう。
瀬戸くんは家族との仲が上手くいっていない。お正月ですら帰らなかったのに、何でもない土曜日にまさか自分から帰ると言うとは思っていなかった。
「正月にお前んちに行ってから、この先のことを色々考えてた。だから一度帰って、母親と改めて話をしようと思って」
「この先のことって……?」
「将来やりたいことがあるってことを伝えようと思う。今まで逃げてきた分、しっかりケジメつけてこようと思うんだ」
「そっか……応援してるね」
「おう」
僕は瀬戸くんの決意に感動していた。きっとこれが彼にとって大きな一歩になるだろう。
「佐倉と出会ってから、色々変わった気がする」
「そんな……僕なんて大したことは何もしてないよ」
「お前にとって大したことじゃなくても、俺には大したことだったんだよ」
僕はただ、瀬戸くんと仲良くなりたかっただけだ。彼と友達に――そして恋人同士になれて、幸せを感じている。ただそれだけのことで、彼に良い影響を与えることができたのなら嬉しく思う。
「瀬戸くん、確かに前より優しい感じになったよね」
「そうか?」
「うん! すごく素敵になったと思う」
「ふーん……」
素っ気ない返事はきっと照れ隠しだ。
初めて会った時はただの怖い不良だった。今は優しい表情や笑顔を見せることも増えた。クラスメイトとはまだ少し距離があるが、前ほど怖がられなくなっているように見える。
「佐倉は変わんねえな」
「そうかなぁ……」
「ああ。……可愛いよ」
「……!」
突然の言葉にドキッとする。普段はあまりそういうことを言わない人なのに、どうしてこんな時だけ……!
「そ、それ反則だよ……っ」
「ははっ、顔真っ赤だな」
「誰のせいだと思ってるの!」
恥ずかしさで泣きそうになる僕を見て、瀬戸くんは楽しそうに笑った。こうして二人で笑い合える日が来るなんて、出会った頃の僕が知ったら驚くだろう。
「そういえば、瀬戸くんのやりたいことって?」
「あー……言わねえ」
「えー、教えてよ」
「……」
……あれ? 黙っちゃった。何か気に障るようなこと言ったかな? 不安になって顔を覗き込むと、瀬戸くんは困り果てたような表情を浮かべていた。
「……そのうち言う」
「気になるなあ……」
瀬戸くんはそれ以上は答えてくれなかった。
数日後の土曜日、瀬戸くんは朝食を終えるとすぐに実家に向けて出発した。僕は一人で課題を片付けながら、ぼんやりと考え事をしていた。
瀬戸くんとお母さんの話し合いが上手くいくか気掛かりだ。ここで心配することしかできない自分が歯がゆい。
そしてもうひとつ、瀬戸くんのやりたいことがどうしても気になり、頭から離れなくてモヤモヤしてしまう。一体何をするつもりなんだろう。以前バイクが欲しいって言っていたから、その関係かな。
「うーん……分からない……」
その時、スマホの通知音が鳴った。瀬戸くんからのメッセージだ。
『夕方には帰る』
その文面を見た瞬間、僕の心は躍った。日帰りだとは聞いていたけれど、予想よりも早い時間だ。
『早く会いたいな。気をつけて帰ってきてね』
返信すると、僕は課題を一旦置いておいて部屋の掃除を始めた。少しでも綺麗にして瀬戸くんを迎えられるように。
部屋の隅々まで片付けて掃除を済ませたところで、瀬戸くんが帰ってきた。
「おかえりなさ……」
部屋のドアが開き、待ち焦がれていた人が入ってきた。だがその姿を見るなり、僕の体は固まってしまった。
「ただいま」
いつも通り落ち着いた様子の瀬戸くん。しかしその姿は明らかに普段とは違っていた。
「せ、瀬戸くん……!?」
「どうした?」
「ど、どうしたじゃないよ! 髪どうしたの!?」
「ああ、これか」
彼は自分の頭を指差す。金髪だった彼の髪は、黒く染め直されていたのだ。
「金髪もそろそろ飽きたしな。気分転換みたいなもんだ」
「そ、そうなの?」
「ああ。おかしいか?」
「すごく似合ってるけど……」
正直言ってかなり驚いたが、同時に格好良くも見えた。今までの近寄りがたい雰囲気は和らぎ、大人っぽくてクールな印象だ。でも何故いきなり髪を染めたのだろう。
「まあ座れよ」
「あ、うん……」
言われるままに椅子に腰掛ける。瀬戸くんはバッグから小さな箱を取り出した。
「これ、土産」
「わあ、ありがとう!」
中を開けるとクッキーが入っていた。美味しそうだ。早速一つ食べてみる。
「ん、おいしい」
「そうか」
瀬戸くんが隣に立ち、僕の口元についたクッキーの粉を払ってくれる。彼の手つきが優しくて、思わずドキッとした。
「佐倉、課題は終わったのか?」
「えっ、うーん……まあまあ、かな」
本当はあまり進んでいない。曖昧な返事をして誤魔化そうとしたのだが……。
「俺に教えさせようって魂胆か?」
「……バレちゃった?」
「やっぱりな」
そう言いつつも、瀬戸くんは怒る素振りを見せない。むしろ少し嬉しそうにすら見える。
「今日は疲れたから、明日な」
瀬戸くんはそう言うと、荷物の整理を始めた。
「瀬戸くん、実家はどうだった?」
「そうだな……」
彼は少し考えてから口を開いた。
「まあ、色々話したよ。進路のことも、一応認めさせた」
瀬戸くんは手を止めずに淡々と話す。僕は黙って耳を傾ける。
「和解……って言っていいのか分かんねえけど、とりあえず落ち着いた。でも大見得切ったからにはやることやんねえとな。だから、これからもっと頑張らなきゃいけねえんだよ」
「そっか……良かったね」
ひとまず、一歩前に進めたようで安堵した。
次に瀬戸くんは一緒に持って帰ってきた紙袋を机に置いた。ずいぶん重そうだ。
「それ何?」
「ん? ああ……」
中に入っていたのは大量の参考書だった。
「どうしてこんなに……」
「受験勉強だ」
「じゅ、受験勉強!?」
突然のことに驚いてしまう。瀬戸くんが進学希望だとは知らなかった。ましてやまだ高校一年だ。
「瀬戸くんの成績ならどこでも余裕なんじゃない? それにまだ二年もあるし……」
すると瀬戸くんは首を横に振った。
「いや、まだまだ足りねえ。なるべく親の世話になりたくねえから、学費が安い国公立か私立の特待生狙いなんだよ」
……なんだか僕とはレベルが違いすぎる。瀬戸くんがここまで真剣に将来のことを考えているなんて思わなかった。
「瀬戸くん、どの学部志望なの?」
「……」
深く考えずにそう尋ねると、瀬戸くんの手が止まった。
「瀬戸くん?」
「……笑うなよ」
「笑わないよ」
「絶対だな?」
「絶対!」
瀬戸くんはため息をつくと、渋々といった様子で答えた。
「……教育学部」
「ええ!?」
あまりにも予想外の返答に、思わず大声を上げてしまった。瀬戸くんは不機嫌そうな顔をしている。
「んだよ、悪いかよ……」
「全然悪くない! むしろすごいと思う! 瀬戸くん、先生になりたかったの?」
「元々は教師なんて柄じゃなかったんだけどな」
瀬戸くんは照れ臭そうに頭を掻く。
「きっかけはお前だよ。お前に勉強教えてるうちに、こういうのもありかと思えるようになった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。瀬戸くんがそんな風に思ってくれたことが、とても嬉しい。
「なんか俺ばっかり喋っちまったな」
「ううん、聞けて良かったよ」
「お前は進路どうするんだ」
「うーん……とりあえず大学には行こうと思ってるけど、まだ何をやりたいのかよく分からないんだよね」
僕は苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「まだ先のことだし、ゆっくり考えるよ」
「お前がどんな道を選んでも応援する。だから安心しろ」
「……うん」
彼の優しさが心に染みる。やっぱり僕は、この人のことを好きになって良かったと思った。
「よし、今日はメシ食ったら数学終わらせるぞ」
「えっ、疲れてるんじゃないの?」
「気が変わった」
「そ、そうですか……」
「ほら、食堂行くぞ」
楽しそうに笑って部屋を出ていく瀬戸くんの後を慌てて追った。
「あー、やっと終わった……」
数学の課題を終えた頃にはもう消灯時間が近くなっていた。
「瀬戸くん、今日はありがとね」
「また分かんねえところがあったら言えよ」
「うん!」
まだ他の教科は残っているが、一番苦手な数学が片付いて少し気が楽になった。残りは明日がんばろう。
「それじゃ、そろそろ寝るか」
「うん、そうだね」
瀬戸くんは大きく伸びをしてから立ち上がり、部屋の電気を消した。
なんだか寂しい気持ちになる。もう少し話していたかった。
「佐倉、こっち来い」
瀬戸くんはベッドに入ると、自分の隣をポンポン叩いた。これはつまり……。
「一緒に寝ようってこと?」
「当たり前だろ」
ベッドの中に潜り込むと瀬戸くんの腕が伸びてきて、そのまま優しく抱きしめられた。狭いシングルベッドの上、体がぴたりと密着する。
「瀬戸くん……」
突然の出来事に、心臓の音がうるさい。でもすごく安心する。ずっとこうしていたい。そんなことを考えてしまうほど幸せだった。
「あったかいね」
「ああ」
しばらく抱き合ったままでいると、瞼が重くなってきた。目を閉じて、ゆっくりと眠りに落ちていく。
「……佐倉」
「ん……」
「出会えて良かったと思ってるのは俺の方だ」
夢うつつの中で、そんな優しい声が聴こえたような気がした。