三学期が始まって一ヶ月ほど経ち、二月になった。瀬戸くんとの仲は順調だ。
 提出物のプリントを集め、職員室に持っていくと瀬戸くんが担任の先生と話していた。
「急にどうしたんだ? 佐倉とはうまくやってるんじゃないのか」
 僕の名前が出て驚いた。二人はこちらに気づいていない。立ち聞きは悪いと思ったが、どうしても気になってしまい柱の陰に隠れて二人の会話を聞くことにした。
「部屋を変えたいって言われても、今空き部屋はないぞ」
「他の奴と同室でもいい」
「そう言われてもな……一応規則だし、そう簡単には変更できないんだ。理由を教えてくれないか?」
「……あいつと同室だと、色々困る」
 ──え。瀬戸くんの言葉が胸に突き刺さる。どうして……? そんなに嫌なの?
「色々困るって……それじゃ理由にならないぞ」
「……」
「まあ、そういう訳だから無理だ。諦めてくれ」
 瀬戸くんは何も言わずにその場を去った。一人残された僕は、呆然としたまましばらく動けなかった。
 僕達は今まで仲良くやってきていると思っていた。最近何か喧嘩したわけでもないし、今朝までの瀬戸くんは特に変わったところもなかった。突然態度が変わったのには何か原因があるはずだけど、考えてみても思い当たる節はない。とりあえず、今日帰ったら訊いてみよう。


 その日の放課後、瀬戸くんと一緒に寮に帰った。だが、なかなか話を切り出せない。
「あのさ……最近、何かあった?」
「何かって何だよ」
「例えば、何か嫌なことがあったとか……」
「別に何もねえけど」
「そっか……」
 会話が続かない。
 何となく気まずい雰囲気のまま、消灯時間になってしまった。
 電気を消し、ベッドに入るとすぐに瀬戸くんが話しかけてきた。
「なあ、お前何か今日変じゃないか」
「そ、そうかな」
「俺に変な気遣うのやめろ。言いたいことがあるなら言えよ」
「……」
 迷ったけれど、意を決して口を開いた。
「瀬戸くんこそ、僕に何かあるんじゃないの?」
「は?」
「ごめん、実は今日先生と話してるのを聞いちゃったんだ」
「……」
「僕と同室なのが、困るって……」
「……」
 瀬戸くんは無言のままだ。
 やっぱりそうなんだ……! じわりと視界が滲み、心の中で悲しみが広がっていく。
「ごめんね、迷惑かけて……」
「違う!」
 大きな声が部屋に響く。暗闇の中、彼の真剣な表情が浮かび上がった。
「佐倉、勘違いすんな。お前のことが嫌なわけじゃない」
「でも、一緒にいたくないんでしょ?」
 声に出したら涙が溢れてきた。自分で思っていた以上にショックだったらしい。顔を見られたくなくて枕に顔を埋めた。
「おい、泣くなって……」
 瀬戸くんがこちらに近づき、頭を撫でてくる。優しくされる度、ますます胸が苦しくなった。
「だって、僕達うまくやってたと思ってたから……」
「俺もそう思ってる」
「じゃあ、どうして……」
「それは……」
 瀬戸くんは言葉を詰まらせた。沈黙が流れる。
 やがて彼は重い口をゆっくりと開いた。
「……佐倉、俺たち付き合ってどのくらいになるか覚えてるか」
「え……一ヶ月ちょっとだけど……」
 それがどうかしたんだろうか。まだ瀬戸くんの考えが分からない。
「そうだ。まだたったの一ヶ月だ。なのに……このままだと歯止めがきかなくなるんじゃねえかと思って……」
「どういうこと?」
 瀬戸くんは言いにくそうに僕から目を逸らした。そして一瞬躊躇った後、覚悟を決めたように話し出す。
「……分かるだろ、男なら」
「え? な、何が?」
 体を起こし、瀬戸くんの顔を覗き込む。しかし彼は目を合わせようとしない。
「だから……俺はお前ともっと先に進みたいんだよ」
「先に進む……?」
 意味がよく分からなくて首を傾げると、瀬戸くんは片手で顔を覆った。
「お前、マジで分かんねえのかよ……」
 すると、瀬戸くんが僕の手を取ってきた。そして、指の間に自分の指を差し込んでくる。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。そしてもう片方の手で僕の肩を掴み、ぐっと力を入れて押した。
「うわっ……!?」
 背中に柔らかいマットレスの感触。視界が反転し、僕に覆い被さる瀬戸くんの向こうに天井が見える。状況が飲み込めず混乱する僕に瀬戸くんは言った。
「……こういうことだよ」
「えっ……」
「俺、お前のこと大事にするって言ったくせに……もう我慢できねえんだよ」
 この体勢と彼の言葉で、つまり瀬戸くんは僕と……そういうことをしたいのだと、意味を理解した。その瞬間、恥ずかしさのあまり頭が沸騰しそうになった。心臓が激しく脈打つ。
「あの、えっと……でも、寮の部屋でそんなことしたら……」
「分かってる。なのにお前は全然気にしてねえから困ってんだよ」
 そういえば、瀬戸くんはいつもお風呂の時間をずらしたり、僕が部屋で着替えている時に目を逸らしたり部屋から出ていったりしている。
 それって、そういう意味だったんだ……。自分の鈍感さのせいで瀬戸くんを悩ませてしまっていたとは。
「ごめんね、気づかなくて」
「本当にな。鈍いのは分かってたけど、予想以上だった」
「う……本当にごめん……」
 瀬戸くんの顔が近づき、ちゅっと音を立てて唇が重なる。
「だから、今はこれだけで我慢しとく。その代わり卒業したら覚悟しとけよ」
「覚悟……」
 一瞬で頬が熱くなる。いつかはいわゆる大人の階段を上る日も来るだろうとは思っていたけれど、あまり具体的には考えていなかった。本当にもうただの友達ではないのだと強く意識してしまう。
 僕は意を決してこくりと頷いた。
「うん、分かった。もしその時が来たら、瀬戸くんに満足してもらえるように頑張るよ!」
 そう宣言すると、瀬戸くんは深く深く息を吐いた。
「……言ったそばから、そういうのやめろ」
「え、なにか間違ってた?」
「いや……いい、お前らしいから」
 よく分からないまま、大きな手で頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。瀬戸くんは呆れながらもどこか嬉しそうにも見えた。
「あー、そういや、もうひとつお前に言うことがあった」
「なに?」
「次の土曜日、実家に帰ろうと思ってる」
「へっ!?」
 予想外すぎる答えに思わず間抜けな声を上げてしまう。
 瀬戸くんは家族との仲が上手くいっていない。お正月ですら帰らなかったのに、何でもない土曜日にまさか自分から帰ると言うとは思っていなかった。
「正月にお前んちに行ってから、この先のことを色々考えてた。だから一度帰って、母親と改めて話をしようと思って」
「この先のことって……?」
「将来やりたいことがあるってことを伝えようと思う。今まで逃げてきた分、しっかりケジメつけてこようと思うんだ」
「そっか……応援してるね」
「おう」
 僕は瀬戸くんの決意に感動していた。きっとこれが彼にとって大きな一歩になるだろう。
「佐倉と出会ってから、色々変わった気がする」
「そんな……僕なんて大したことは何もしてないよ」
「お前にとって大したことじゃなくても、俺には大したことだったんだよ」
 僕はただ、瀬戸くんと仲良くなりたかっただけだ。彼と友達に――そして恋人同士になれて、幸せを感じている。ただそれだけのことで、彼に良い影響を与えることができたのなら嬉しく思う。
「瀬戸くん、確かに前より優しい感じになったよね」
「そうか?」
「うん! すごく素敵になったと思う」
「ふーん……」
 素っ気ない返事はきっと照れ隠しだ。
 初めて会った時はただの怖い不良だった。今は優しい表情や笑顔を見せることも増えた。クラスメイトとはまだ少し距離があるが、前ほど怖がられなくなっているように見える。
「佐倉は変わんねえな」
「そうかなぁ……」
「ああ。……可愛いよ」
「……!」
 突然の言葉にドキッとする。普段はあまりそういうことを言わない人なのに、どうしてこんな時だけ……!
「そ、それ反則だよ……っ」
「ははっ、顔真っ赤だな」
「誰のせいだと思ってるの!」
 恥ずかしさで泣きそうになる僕を見て、瀬戸くんは楽しそうに笑った。こうして二人で笑い合える日が来るなんて、出会った頃の僕が知ったら驚くだろう。
「そういえば、瀬戸くんのやりたいことって?」
「あー……言わねえ」
「えー、教えてよ」
「……」
 ……あれ? 黙っちゃった。何か気に障るようなこと言ったかな?  不安になって顔を覗き込むと、瀬戸くんは困り果てたような表情を浮かべていた。
「……そのうち言う」
「気になるなあ……」
 瀬戸くんはそれ以上は答えてくれなかった。


 数日後の土曜日、瀬戸くんは朝食を終えるとすぐに実家に向けて出発した。僕は一人で課題を片付けながら、ぼんやりと考え事をしていた。
 瀬戸くんとお母さんの話し合いが上手くいくか気掛かりだ。ここで心配することしかできない自分が歯がゆい。
 そしてもうひとつ、瀬戸くんのやりたいことがどうしても気になり、頭から離れなくてモヤモヤしてしまう。一体何をするつもりなんだろう。以前バイクが欲しいって言っていたから、その関係かな。
「うーん……分からない……」
 その時、スマホの通知音が鳴った。瀬戸くんからのメッセージだ。
『夕方には帰る』
 その文面を見た瞬間、僕の心は躍った。日帰りだとは聞いていたけれど、予想よりも早い時間だ。
『早く会いたいな。気をつけて帰ってきてね』
 返信すると、僕は課題を一旦置いておいて部屋の掃除を始めた。少しでも綺麗にして瀬戸くんを迎えられるように。


 部屋の隅々まで片付けて掃除を済ませたところで、瀬戸くんが帰ってきた。
「おかえりなさ……」
 部屋のドアが開き、待ち焦がれていた人が入ってきた。だがその姿を見るなり、僕の体は固まってしまった。
「ただいま」
 いつも通り落ち着いた様子の瀬戸くん。しかしその姿は明らかに普段とは違っていた。
「せ、瀬戸くん……!?」
「どうした?」
「ど、どうしたじゃないよ! 髪どうしたの!?」
「ああ、これか」
 彼は自分の頭を指差す。金髪だった彼の髪は、黒く染め直されていたのだ。
「金髪もそろそろ飽きたしな。気分転換みたいなもんだ」
「そ、そうなの?」
「ああ。おかしいか?」
「すごく似合ってるけど……」
 正直言ってかなり驚いたが、同時に格好良くも見えた。今までの近寄りがたい雰囲気は和らぎ、大人っぽくてクールな印象だ。でも何故いきなり髪を染めたのだろう。
「まあ座れよ」
「あ、うん……」
 言われるままに椅子に腰掛ける。瀬戸くんはバッグから小さな箱を取り出した。
「これ、土産」
「わあ、ありがとう!」
 中を開けるとクッキーが入っていた。美味しそうだ。早速一つ食べてみる。
「ん、おいしい」
「そうか」
 瀬戸くんが隣に立ち、僕の口元についたクッキーの粉を払ってくれる。彼の手つきが優しくて、思わずドキッとした。
「佐倉、課題は終わったのか?」
「えっ、うーん……まあまあ、かな」
 本当はあまり進んでいない。曖昧な返事をして誤魔化そうとしたのだが……。
「俺に教えさせようって魂胆か?」
「……バレちゃった?」
「やっぱりな」
 そう言いつつも、瀬戸くんは怒る素振りを見せない。むしろ少し嬉しそうにすら見える。
「今日は疲れたから、明日な」
 瀬戸くんはそう言うと、荷物の整理を始めた。
「瀬戸くん、実家はどうだった?」
「そうだな……」
 彼は少し考えてから口を開いた。
「まあ、色々話したよ。進路のことも、一応認めさせた」
 瀬戸くんは手を止めずに淡々と話す。僕は黙って耳を傾ける。
「和解……って言っていいのか分かんねえけど、とりあえず落ち着いた。でも大見得切ったからにはやることやんねえとな。だから、これからもっと頑張らなきゃいけねえんだよ」
「そっか……良かったね」
 ひとまず、一歩前に進めたようで安堵した。
 次に瀬戸くんは一緒に持って帰ってきた紙袋を机に置いた。ずいぶん重そうだ。
「それ何?」
「ん? ああ……」
 中に入っていたのは大量の参考書だった。
「どうしてこんなに……」
「受験勉強だ」
「じゅ、受験勉強!?」
 突然のことに驚いてしまう。瀬戸くんが進学希望だとは知らなかった。ましてやまだ高校一年だ。
「瀬戸くんの成績ならどこでも余裕なんじゃない? それにまだ二年もあるし……」
 すると瀬戸くんは首を横に振った。
「いや、まだまだ足りねえ。なるべく親の世話になりたくねえから、学費が安い国公立か私立の特待生狙いなんだよ」
 ……なんだか僕とはレベルが違いすぎる。瀬戸くんがここまで真剣に将来のことを考えているなんて思わなかった。
「瀬戸くん、どの学部志望なの?」
「……」
 深く考えずにそう尋ねると、瀬戸くんの手が止まった。
「瀬戸くん?」
「……笑うなよ」
「笑わないよ」
「絶対だな?」
「絶対!」
 瀬戸くんはため息をつくと、渋々といった様子で答えた。
「……教育学部」
「ええ!?」
 あまりにも予想外の返答に、思わず大声を上げてしまった。瀬戸くんは不機嫌そうな顔をしている。
「んだよ、悪いかよ……」
「全然悪くない! むしろすごいと思う! 瀬戸くん、先生になりたかったの?」
「元々は教師なんて柄じゃなかったんだけどな」
 瀬戸くんは照れ臭そうに頭を掻く。
「きっかけはお前だよ。お前に勉強教えてるうちに、こういうのもありかと思えるようになった」
 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。瀬戸くんがそんな風に思ってくれたことが、とても嬉しい。
「なんか俺ばっかり喋っちまったな」
「ううん、聞けて良かったよ」
「お前は進路どうするんだ」
「うーん……とりあえず大学には行こうと思ってるけど、まだ何をやりたいのかよく分からないんだよね」
 僕は苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「まだ先のことだし、ゆっくり考えるよ」
「お前がどんな道を選んでも応援する。だから安心しろ」
「……うん」
 彼の優しさが心に染みる。やっぱり僕は、この人のことを好きになって良かったと思った。
「よし、今日はメシ食ったら数学終わらせるぞ」
「えっ、疲れてるんじゃないの?」
「気が変わった」
「そ、そうですか……」
「ほら、食堂行くぞ」
 楽しそうに笑って部屋を出ていく瀬戸くんの後を慌てて追った。


「あー、やっと終わった……」
 数学の課題を終えた頃にはもう消灯時間が近くなっていた。
「瀬戸くん、今日はありがとね」
「また分かんねえところがあったら言えよ」
「うん!」
 まだ他の教科は残っているが、一番苦手な数学が片付いて少し気が楽になった。残りは明日がんばろう。
「それじゃ、そろそろ寝るか」
「うん、そうだね」
 瀬戸くんは大きく伸びをしてから立ち上がり、部屋の電気を消した。
 なんだか寂しい気持ちになる。もう少し話していたかった。
「佐倉、こっち来い」
 瀬戸くんはベッドに入ると、自分の隣をポンポン叩いた。これはつまり……。
「一緒に寝ようってこと?」
「当たり前だろ」
 ベッドの中に潜り込むと瀬戸くんの腕が伸びてきて、そのまま優しく抱きしめられた。狭いシングルベッドの上、体がぴたりと密着する。
「瀬戸くん……」
 突然の出来事に、心臓の音がうるさい。でもすごく安心する。ずっとこうしていたい。そんなことを考えてしまうほど幸せだった。
「あったかいね」
「ああ」
 しばらく抱き合ったままでいると、瞼が重くなってきた。目を閉じて、ゆっくりと眠りに落ちていく。
「……佐倉」
「ん……」
「出会えて良かったと思ってるのは俺の方だ」
 夢うつつの中で、そんな優しい声が聴こえたような気がした。