カーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中で毛布を頭まで被って目をつぶる。だけど、あの子の怯えた気味悪がるような顔が瞼の上から消えてくれない。どうして。なんで。消えないの。あの子はもういないのに、もう会うことすらできなくなってしまったのに。きっと、あの子は怒っているんだ。私を許さないって。
「莉桜? 帰ってるの?」
 お母さんが二階へ上がってくる音がする。今は誰とも会いたくなくて、自分を見られたくなくて毛布の中から大声でなるべく明るく応えた。
「うん! ただいまー」
「おかえり。おやつあるから、宿題終わったら降りていらっしゃい」
「はーい」
 お母さん。莉桜、どうしたらいいのかな。もう、流れることもなくなった涙の代わりに汗が頬をつたった。毛布を置いて、宿題をするためにカバンからパソコンを取り出した。勉強をしているときは不思議と病気のこともあの子のことも忘れることができるのだけど、簡単な計算問題と作文だったからすぐに終わってしまった。
お母さんも友達も大好きだけど、一緒にいると無意識に気を使っているのか疲れてしまって苦しかった。だから、家にいるのもなんだか億劫でお母さんの用意してくれていたケーキを食べたあとは図書館に行く。この流れがいつの間にか放課後の日課になっていた。
 家から図書館までは少し距離があった。女の子を一人で行かせるのは心配だ、とお母さんはいつも言うけど、お友達が一緒だから大丈夫だと笑ってごまかしていた。もう秋だというのに肌をじわじわと焼くような日差しが地面のコンクリートに照り返されて眩しかった。一人で歩きなれた道を歩く。大通りを抜けると図書館が見えてくるのだが、気分転換にたまには違う道を通ってみようと手前の路地に入った。狭い路地を抜けると人通りの少ない静かな場所に出た。
「こんなところがあったんだ」
 人通りは少ないものの、道に沿ってきちんと手入れのされている花壇が整備されており、いろいろな花が咲いていて歩いているだけでわくわくした。しばらく進むと、住宅街の中に少し古い家が見えてきた。近づいてみると、それは古本屋だった。その古本屋の雰囲気がどこか不思議でなんだか魔法の本でも売っていそうで、どんなものがあるのか気になって思わず体が向いていた。
「こ、こんにちは」
 小さな声であいさつをすると、いらっしゃいと本棚の後ろから優しい声がした。恐る恐る店内に入ると、古本屋特有の古い紙の匂いで包まれる。
「おや、可愛らしいお客さんだ」
 声の方を見上げると、白髪で少し腰の曲がったおじいさんが立っていた。
「迷子かい?」
 私が首を振ると、そうかい、ゆっくりしておいきと声をかけて奥の方へ行こうとした。でも、どうしても気になってしまって、少し曲がった背中に向かって尋ねる。
「あの・・・、魔法の本とか、ありますか」
「そうだねぇ、魔法の本はないかなぁ」
 おじいさんがそう言って笑ったので、私は急に恥ずかしくなって顔を真っ赤にする。すると、ちょっと、待っていてねとおじいさんは奥の方へ行ってしまった。周りを見渡してみると背の高い本棚にたくさんの本が積んであって、外から見たときは小さく見えた店が中に入るとずっと大きな場所に感じられた。
 見たこともないような絵で描いてある漫画や、テレビで見たことがあるひとが表紙にいる本も置いてある。読めない漢字や言葉も多くあって、何の本なのかわからないものがほとんどだったが、ふと絵本が並べてある棚で足を止めるとひときわ鮮やかな絵本があった。おもむろにその絵本を手に取る。
 ページをめくると女の子が泣いている絵が描いてあった。文字は読めなかったけれど、描かれている絵の色使いに心を惹かれた。黄緑色の草原がずっと続いていて、水色の川が色々な色と入り混じって流れている。小さな女の子の後ろには大きな木が描かれていて、薄いピンクの小さい花がたくさん咲いていた。ページをめくっていくと、一人だと泣いていた女の子が男の子と一緒だと笑っていた。何枚かめくると何人もいるお友達と笑っていて、女の子は楽しそうに見えた。でも、最後のページを見てみると、最初のページと同じように女の子は泣いていて後ろの大きな木も花は全て散っていた。悲しいお話なのだろうか。どうしてなのかわからないけれど、私はその絵本の結末に少しだけ安心してしまった。
「その絵本、気になるかい?」
 突然声をかけられて、私は思わずごめんなさいと声を上げて絵本をもとの場所に戻した。
「驚かせてしまって、ごめんね」
 そうおじいさんは言うと、私に何かを手渡した。それは小さな袋いっぱいに入った絵の具セットとスケッチブックだった。
「魔法の本はね、置いてないんだけど、この絵の具には魔法がかかっているんだよ」
「ほんと?」
「そうだよ。この絵の具とスケッチブックを使って、好きなように絵を描いてごらん。するとね、不思議と嫌なことも絵の具が色で消してくれるんだよ」
 おじいさんはそう言って私の頭を撫でてくれた。しわしわで少しだけごつごつした手のひらは温かくて、このおじいさんの前では本当の自分でいられる気がして安心した。
 図書館に行くことさえも忘れて、絵の具セットをもらってルンルンで家に帰るとお母さんにびっくりされたけど、笑顔であったことを話すとよかったねと言ってくれた。

 しばらくして、学校の授業で花言葉について宿題が出された。道端に咲いている花や草にも色々な意味が込められていて、それらをプレゼントとして送ることで大切な人に感謝や思いを伝えることがあるのだという。宿題では自分の好きな花など、植物の花言葉を調べて発表原稿を作るというものだった。
初めて見る変な形や色をした花、よく通学路で見かけるような草にも素敵な意味があったり、逆に意外と怖い意味があったりと調べているとだんだん楽しくなってきて、私は家に帰ってからパソコンで色々な花を検索することに夢中になった。
「莉桜のサクラってどんな花言葉なのかな」
 ふと気になって調べてみると、精神の美、優美な女性などといった意味が出てきた。素敵な意味だと思った。そんな素敵な意味が込められている自分の名前がより大好きになったし、「桜」の漢字が似合うようなおねぇさんになれたような気分になった。他にどんな意味があるのだろうかと、パソコンの画面をスクロールするとある画像が目に留まった。クリックしてみるとその絵は、あの日、古本屋で読んだ絵本の絵だった。
『その意味に感動 私の好きなフランスの絵本』
 そう書かれたサイトには、あの絵本の日本語訳と絵本を読んだ感想が書かれていた。私は引き込まれるようにそれらを読んだ。このサイトをみつけて、絵本の題名の意味を知ったとき、誰かに心臓をぎゅっとされたように感じた。古本屋で絵だけを見ていたときには女の子は友達もたくさんいるのになぜ泣いているのだろうかと思ったが、物語の内容やそこに込められた意味を知った今、女の子と一緒に笑っていた男の子の本心や女の子の気持ちに心の奥を思い切り掴まれた気がした。
 どうしてもあの絵本が欲しくなって、あの日以来一度も行っていない古本屋に走った。休み時間のドッヂボールにも参加しなくなったからか、久しぶりに走ると息が簡単に上がってしまった。しばらく走るとあの古本屋はシャッターが下りていて誰もいないようだった。次の日も、その次の日も図書館へ行く道をいつも遠回りして見に行ったけれどずっとシャッターは下りたままだった。もともとそこには何もなかったみたいだった。
「お母さん」
「どうしたの?」
 何かをねだるなんていつ以来だろうか。でも、学校でみんなと一緒にいても家でご飯を食べていてもあの絵本が頭から離れなかった。私の代わりに絵本の女の子が泣いてくれる。あの男の子が私のことを少しだけわかってくれる。幼子心にそんな気がした。
「・・・ほしいものがあるんだけど」

 あんなに好きだった絵本も今ではほとんど何が描いてあるのかも見えない。でも、今でもはっきりと色鮮やかな絵を思い出すことができた。
「お母さん、忙しいのにありがとう」
 運転席に座る母に呼びかけると、バックミラーにうつる表情が優しく笑ったように見えた。
「いいのよ。だって、桜ちゃんと夏祭り、楽しみにしてたんでしょ?」
「うん」
 桜には話したいことたくさんあるなぁ、いつも話してばかりだけど。一緒に行きたいところやしてみたいこともいっぱい。その一番目はやっぱり夏祭りじゃなきゃね。
 気づけば読み返すことのなくなったあの絵本は桜に出会ってから、机の隅に置いてあった。小さい頃からあの絵本だけが私の理解者だと思っていた。どこかに行ってしまった私の大事な何かをつなぎとめてくれているように感じていた。でも、いつの間にか、桜が私のそばに心に寄り添ってくれていた。彼女にそのつもりがなかったとしても、間違いなく私はあなたに出会えてよかったと心からいえる。
 私はそっとスマホの電源を入れて、文字を打ち込んだ。

〈りおごめん。少し遅れるから先にまわって〉

〈さくら。 了解!〉

〈りお夏祭り誘ってくれてありがとう!
話したいこといっぱいあるんだけど、リョウ君も池井さんもいるみたいだからラインしとくね。
さっきお母さんと仲直りしたよ。今送ってもらってる。それに、これは要相談なんだけど笑
私、好きな人ができたかもしれない
正直、誰かを好きになんてなったことないから、よく分からないけど笑笑〉

〈りおあと、なんだかんだ言って言えてなかったし、直接言うのは恥ずかしいからここに書いちゃうね。
友達になってくれてありがとう。小さい頃の話はしたよね、私、ずっと一人だったからさ。
桜がいてくれてよかった。この前話したパフェの話、池井さんも誘って食べに行こう! 三人で女子トークでもしながらさ〉

〈りお そろそろ着くよ!〉