振り返ると、そこには見知らぬ男がいた。
 長い銀髪を一つに束ね、白い着物みたいなものを纏ったそいつの顔は、男の俺ですら息を呑むほど整っている。
 細身だけど、背が高かった。百九十センチを超えてるんじゃないか? そんじょそこらの芸能人が、泣いてひれ伏しそうな見た目だ。
 ただ、そのイケメンの頭には、普通の人間にはないものが二つ付いていた。
 ふさふさの白い毛に覆われた……狐の、耳?
「これは許されざる所業だよ。覚悟があって、しでかしたことだよね」
 イケメンは膝を折り、俺の顎を指でくいっと押し上げた。
 俺は目と口を閉じたり開いたりすることしかできなかった。何かこう、動きを封じられているような……。
 あ、もしかして、何かの術をかけられてるのか?!
 そう気が付いたタイミングで、倉橋伊月の苦しそうな声が割って入ってきた。
「九尾……やめろ。彼には手を出すな」
 なんとか目だけを横に向けると、俺のクラスメイトは必死にもがいていた。どす黒い縄のようなものが、小柄な身体にまとわりついている。
 突然現れたイケメンの正体は、さっきのデカい狐……九尾とかいう奴らしい。きっと、人間っぽい姿に変身してるんだ。でもって、倉橋伊月も俺と同じく、九尾の術のせいで動けない。
 ――って、これ、かなりヤバくねぇ?!
「ようやく、自分が置かれている状況を把握したみたいだね」
 ゴクリと息を呑んだ俺に、九尾が微笑んだ。優しさからくる笑みじゃない。怒りが透けて見えるような、要するにめちゃくちゃ(こえ)ぇ顔だ。
 そんな表情を浮かべたまま、狐の耳を生やしたイケメンは俺の顎から手を離し、傍らに落ちていたグローブに目を留める。
「我らに歯向かった代償は、その身体で受けてもらうよ――朝見幸太郎」
 九尾に名前を呼ばれた瞬間、身体じゅうに痛みが走った。まるで、固い鎖でギリギリと締め上げられてるみたいだ。
 おまけに、頭まで痛くなってきた。とうとう耐えられなくなって、俺はその場に倒れ込む。
「朝見幸太郎くん!」
 倉橋伊月の、悲痛な声が耳に届いた。
 そうこうしているうちに、俺は自分の身体の『異変』に気が付いた。
「あ……れ、何か生えてる」
 頭の上に、妙な感触がある。伸ばした指先に柔らかいものが触れた。ふわふわの毛に覆われた、三角形の何かが二つ……。
「朝見幸太郎――真名(まな)を記しておいてくれたお陰で、簡単に呪いをかけられた。このままでいけば、君はいずれ『狐』になる」
 九尾はグローブから目を離し、俺の頭に生えたそれ――狐の耳にそっと触れた。
「俺が、狐に……?」
 気付けば苦しさや痛みはすっかり消えていた。だが、突然生えてきた『異質なもの』の存在が、俺に重くのしかかる。
「そうさ。君は人としての理性を失って、ただの獣になるんだ。――楽しみだね」
 呆然とする俺の前で、九尾の身体は再び大きな狐の姿に戻った。そのまま屋上のタイルをひと蹴りし、夜空へと舞い上がっていく。
「待て! 彼にかけた呪いを解け、九尾!」
 ようやく動けるようになったらしい倉橋伊月が、上空に向かって叫んだ。
 しかし、優美な狐の姿はあっという間に遠ざかってしまった。残されているのは、俺の名前がデカデカと書かれたグローブだけ……。
「嘘だろ。何だよこの耳。痛ててっ!」
 俺は自分の頭から生えているふわふわの三角形を何度も引っ張った。そのたびに痛みが走り、涙目になる。
 痛みがあるってことは、これ、もう俺の身体の一部ってことじゃん。
「何だよこれ、何だよ!」
 ぶるぶると(かぶり)を振り、再び、躍起になって狐の耳を引っ張る。
「朝見幸太郎くん、やめた方がいい。痛いだけだ」
 駆けつけてきた倉橋伊月が、深刻な顔で俺を止めた。俺はもうわけが分からなくなって、小柄な身体に縋り付く。
「なぁ、何だよこの耳。呪いって、どういうことだよ。俺は、一体どうなっちゃうんだよ……うっ!」
 泣き事の途中で、猛烈な不快感を覚えた。
 尻のあたりが、どうしようもなくむず痒い。
「うわっ、気色(わり)ィ!」
 履いていたいたチノパンが少し盛り上がり、太腿に長くて柔らかいものが触れていた。目で見なくても、感覚で分かる。何てったって、これは俺の身体なんだ。
 尾骶骨のあたりから――狐の尻尾がにょきっと生えている。
『君は人としての理性を失って、ただの獣になるんだ』
 さっき言われたことが耳の中に蘇った。
 狐になるって……理性を失うって、どういうことだ。俺が俺でなくなるってことか?
 そんなのは嫌だ。
 ――怖い。
「朝見幸太郎くん、落ち着いてくれ。僕がなんとかする」
 心が崩壊する寸前、力強い声で現実に引き戻された。傍にいた倉橋伊月が、引き締まった表情で俺を見つめている。
「なんとかするって……どうやって」
「僕が、君にかけられた呪いを弱める。ただ、あくまで応急処置、だけど」
「そんなことができるのか?! なら、やってくれ!」
 そういえば、こいつは陰陽師だとか言ってたな。かなり胡散臭いけど、どうにかしてくれるならそれでいい。応急処置だろうが何だろうが、今は縋るしかない。
「なぁ、倉橋伊月。なんとかしてくれ。頼む!」
「分かった。分かったから焦らないでくれ、朝見幸太郎くん。……それから、僕のことは伊月と呼んでくれていいよ。いちいちフルネームだと、長いだろう」
「なら、伊月も俺のこと、幸太郎って呼べよな。……で、俺は何をしたらいい。どうやったら、この耳と尻尾が引っ込むんだ」
「幸太郎くんは、何もしなくていい。ただ、身体の力を抜いてくれ」
「……こうか?」
 俺は言われるまま、両手をだらりと下げた。目を瞑った方が力がより抜ける気がして、瞼も閉じる。
 しばらくそうしていると、ふいに俺の背中に二本の腕が回った。そのまま、じわじわと力が籠められていく。
 ……ん?
 俺、今、思いっきり抱き締められてねぇ?
「お、おい、伊月!」
 慌てて閉じていた瞼を開いた瞬間、耳元で囁かれた。
「ごめん、幸太郎くん。じっとしてて。僕の『気』を君に注入しているんだ。こうすれば、呪いの力が抑えられるから」
「お、おう……わ、分かった」
 俺は再び目を瞑った。
 背中に回る腕の感触で、どれだけ強く抱きしめられているか把握できる。ピタリと合わさった胸板から、伊月の温もりが伝わってくる。
 なんだか妙に心地がよかった。許されるなら、このまま眠ってしまいたくなる……。
「幸太郎くん。耳と尻尾、引っ込んだよ」
 しばらくして、身体が解放された。
 俺は咄嗟に頭の上に手をやった。さっきまで生えていた三角の物体は、跡形もなく消えている。もちろん、チノパンの中ももたついてない。
「おお! すげぇじゃん! 助かったぜ伊月」
 安堵のあまり、俺は小躍りしそうな勢いだった。だが伊月はふるふると(かぶり)を振って、神妙な顔をする。
「いや、たいしたことないよ。これはあくまで応急処置だ。効果は長続きしない。……陰陽師の仕事に幸太郎くんを巻き込んだせいでこんなことになって、ごめん」
「そんな。謝るなよ。俺が勝手に伊月たちを追いかけたんだ」
 俺は、頭を下げようとする伊月を止めた。こいつは全然悪くない。制止を振り切って無茶をしたのは俺だ。
 伊月は肩を竦ませて、ぽつぽつと話し出した。
「僕の力はここまでだけど、先代の陰陽師……僕の祖父なら完全解呪の方法を知っているかもしれない。ただ、祖父は今、ちょっと遠くに行ってるんだ。対応策が見つかる前に、十中八九、応急処置の効果が切れる」
「効き目が切れたらどうするんだ?」
 俺が首を傾げると、伊月はふっと溜息を吐いた。
「もう一度応急処置をして凌ぐしかない。僕の気を入れ直すんだよ。――さっきみたいなやり方で」
「……えっ?」
 校舎の周りを囲む豊かな樹々の向こうに、東京タワーと六本木ヒルズが聳えている。
 大都会のオアシスみたいなこの場所で、俺はただ、奇妙な格好をしたクラスメイトを呆然と見つめるしかなかった。




 深夜ということもあり、ゆうべは結局、伊月とあれ以上話ができなかった。
 翌朝。目が覚めた俺は、真っ先に耳と尻尾が生えてきてやしないか確認した。
「あ、大丈夫っぽいな」
 どうやら伊月が注いでくれた気の効果は、まだ続いているようだ。ひとまず安堵したところで制服に着替え、自室を出る。
 ちんたらリビングに向かっていると、廊下の途中に皿の乗ったトレイが置かれていた。すぐ脇にあるのは、兄貴の部屋のドアだ。
 皿には、昨日の晩飯……カレーが半分ほど残っていた。サラダは手つかずで、半分萎びている。俺はそれをトレイごと持ってリビングに行き、流しまで運ぶ。
 キッチンではおふくろがコーヒーを淹れていた。やってきた俺を見て「おはよう」と僅かに口角を上げたが、手にしていたトレイを見てすぐに表情を暗くする。
一哉(いちや)、ゆうべもあまり食べてくれなかったのね……。そろそろ部屋の掃除もしてあげたいけど……いつ、中に入れてくれるかしら」
 トレイを渡しながら、おふくろってこんなに小さかったっけ、と思った。
 一哉っていうのは、四歳上の俺の兄貴だ。
 ごく普通の大学生だった兄貴は、半年前、突然部屋から出てこなくなった。
 それから、うちの中が一変した。家族揃って飯を食うことはなくなったし、キャッチボールもしていない。
 昼夜逆転の生活をしている兄貴が寝ているこの時間は、比較的平和だった。俺はそそくさと朝飯をかきこんで、玄関から外に飛び出す。
 俺たちの住まいは、四階建てのビルの最上階。一階は、親父とおふくろが経営する薬局だ。その薬局の看板の横をすり抜けて通りに出たところで、箒を持ったおばちゃんに声をかけられた。
「幸太郎ちゃん。行ってらっしゃーい」
 このおばちゃんは、うちの向かいで煎餅屋をやっている。朝はこうやって、店の前を掃除してることが多い。
 俺は口の端っこを無理やり持ち上げて「はよーっす」と返し、停めてある自転車に跨った。
 風を顔に受けながら走り出すと、目に映るのはいわゆる商店街の光景だ。
 通称、麻布十番と呼ばれるこの界隈は、一応、セレブの住む港区に属しているものの、漂っている空気は完全に下町のそれだった。俺が生まれる前は交通の便が悪くて、陸の孤島だったという。昭和の香りがするとか言われているのは、開発が遅かったせいだろう。
 そんな麻布十番に軒を連ねる『朝見薬局』はわりと老舗で、親父は四代目の店主。薬局と住居を兼ねる四階建ての細長いビルは、俺ん()の持ち物だ。
 二階と三階を他人に貸しているお陰で、港区の地価が爆上がりした今でもなんとか税金を払える……と親父が言ってた。
 ちなみに、俺が通う都立狸穴高校も港区にある。校名は江戸時代の地名からきてると前に誰かから聞いたが、詳しいことは忘れた。
 俺、歴史は苦手だからな。まぁ、英語も国語も得意じゃねーし、理系科目に至っては吐き気がするけどさ……。
 そうこうしているうちに学校につき、俺は「うぃーっす!」と周囲に挨拶しつつ教室へ向かう。
 二年B組の戸を開けたとき、真っ先に目に飛び込んできたのは、出入り口の一番近くに座る伊月の顔だった。
「……あ、伊月。おはよう」
 俺は軽く手を挙げてみせた。だが伊月はちらりと視線を投げてきただけで、すぐに机上の教科書と向かい合う。
 あまりの不愛想ぶりに驚いた。
 まぁ、伊月ってもともとこんなタイプだったわ。でも、ゆうべはちゃんと口をきいてくれたじゃん。あんなに密着もしたし。……っていうか、くっつきすぎだったよな。仕方ねぇけどさ。
 俺は昨夜のことをぼんやり思い出しながら自分の席に座った。
 授業中、居眠りの合間にこっそり様子を窺うと、伊月はいつもしゃんと背を伸ばしていた。
 うーん、よく見ると顔はそこそこ整ってる。目は大きくて鼻筋は通ってるし、短く切り揃えられた髪は天パ気味でふわふわだ。
 身長は俺より七、八センチ低かったから、百六十五ってとこか。弟系っていうか、小型犬系? これで愛想がよけりゃ、女子にモテそうなのに。
 なんかこう、近寄りがたい雰囲気があるんだよなぁ。伊月と同じクラスになって半年だが、ろくに話したことがなかったのはそのせいだ。
 ……と、まぁこんな感じで、午前中は伊月の観察(と居眠り)に時間を割いた。
 昼休みのチャイムが鳴ると、その伊月が自分の席から立ち上がった。机と椅子の間を器用にすり抜け、最短ルートで俺のところまでやってくる。
「朝見幸太郎くん。職員室で先生が呼んでるよ」
「……え、マジ?」
 前の席の矢田吹と昼飯を調達しに行こうとしていた俺は、その場でズッこけそうになった。伊月はそんな俺に、冷めた目を向ける。
「とにかく、僕と一緒に来てくれ」
「あ……ああ、分かった」
 俺は矢田吹に「先、飯食ってて」と言い置いて、伊月と一緒に教室を出た。
 先生に呼ばれてるって、マジかよ。ヤバすぎだろ。用件は何だ?
 ……ってなことを漫然と考えていたのが間違いだった。角を曲がったところで、誰かと正面衝突しちまった。
「……痛って、うわっ、ヤベっ」
 なんとか転ばずに済み、軽い痛みに耐えていた俺は、ぶつかった相手を見た瞬間ギョッとした。
「うぅぅ……」
 俺とは対照的に廊下に転がり、白衣に包まれた身体をくねらせて呻く長身の男は、この学校の教師だ。名前は確か……。
浦辻(うらつじ)先生、大丈夫ですか」
 伊月が長身を抱え起こしながら名前を呼んでくれたお陰で、思い出した。
 浦辻は化学の担当で、今日もトレードマークの白衣を身に着けている。確かまだ三十歳そこそこで、狸穴高校の教員の中じゃ若い方だが、眼鏡と長めの前髪が顔の大半を覆っているせいか、いまいち見た目が冴えない。
 無口でぬぼーっとしているのも相まって、存在感がまるでなかった。俺も名前がすぐ出てこなかったくらいだしな。
「あの、すいませんでした」
 伊月に掴まってようやく立ち上がった浦辻に、俺はぺこっと頭を下げた。
「君、怪我は?」
「あ……大丈夫っす」
 浦辻と俺がそんなやりとりをしているうちに、伊月が地面に転がっていた薄っぺらいものをそっと拾い上げた。
「先生、ぶつかったとき、これを落としましたよ」
「あ、それは僕のタブレット!」
 浦辻は伊月の手からタブレットをもぎ取った。動作確認をして異常がないことを確かめると、安堵の表情を浮かべる。
「よかった、無事だ。これが壊れていたら、次の授業ができなくなるところだったよ」
 理系科目の担当だからだろうか、浦辻はあらゆるものをデジタル化していた。
 授業では自ら作った動画をスクリーンに投影して説明をするし、テストの結果をデータとして取り込み、生徒の弱点をソフトで分析して答案返却時に渡してきたりする。
 俺は一年のとき浦辻の授業を受けたが、教科書より動画を見る方が分かりやすかったし、テスト結果の分析も参考になった。……まぁ、毎回赤点スレスレだったけどな。
 他の教師は教科書やファイルや筆記用具なんかを持ち歩くことが多いが、浦辻が手にしているのはいつも薄いタブレットのみだ。俺たち生徒の間では、浦辻の本体はそのタブレットなんじゃないかと密かに囁かれていたりいなかったり。
 まぁとにかく、浦辻の持ち物が少なくてよかった。他の教師みたいにいろいろ持ち歩いてたら、ぶつかったときに散乱して大変だっただろう。
「じゃあ、僕はこれで失礼する」
 浦辻は白衣の裾を翻し、タブレットを大事そうに抱えて立ち去った。俺と伊月も、再び歩き始める。
 ずんずん進む背中を素直に追いかけていた俺は、しばらくして「はて」と首を傾げた。
「おい、伊月。職員室ならあっちじゃねー?」
 職員室は、今いるメイン校舎の二階にある。
 だが伊月は一番下の階まで降り、そのまま渡り廊下を通って、音楽室や視聴覚室が並ぶ別校舎に入っていった。
「なぁ、どこ行くんだよ、伊月」
 いい加減わけが分からなくて、俺は前を行く伊月の肩を叩いた。伊月はそこでようやく足を止め、古ぼけた木の引き戸を指さす。
「ここだよ」
 扉の上部に掲げられたプレートには『視聴覚倉庫』と書かれていた。こんな名前の部屋があるなんて、今まで知らなかったぞ、俺。
「ここなら誰も来ないから、ゆっくり話ができる。――ゆうべの『あの件』について、幸太郎くんに伝えたいことがあるんだ」
 伊月は引き戸に手をかけながら言った。
「あ? じゃあ、先生が呼んでるっていうのは……」
「あれは嘘だ。ゆうべの件は、他の人には伏せておきたい。それに、今までたいして関わっていなかった僕が、個人的な用件で幸太郎くんを連れ出したらクラスメイトが不審がるだろう。だから一計を講じたんだよ」
「あー、そういうことか。びっくりさせんなよ。俺、てっきり叱られんのかと思ったぜ」
 教師からの呼び出しと聞いて、内心ビクビクだった。数学の小テストで二問しか解けなかったのがマズかったか、それとも三日前が締め切りだった国語表現のレポートの催促か……心当たりは無限にあるからな。
 ホッと胸を撫で下ろしていると、伊月は真顔で尋ねてきた。
「僕は『先生が呼んでいる』と言っただけだよ。幸太郎くんはなぜ、叱られると思ったの?」
 うるせーな。優等生の伊月と違って、こっちは職員室に嫌な思い出しかねーんだよ!
 小さく舌打ちする俺を促して、伊月は視聴覚倉庫に足を踏み入れる。
 室内にはDVDデッキだの壊れたアンプだの……いろんなものが雑多に置かれている上に埃っぽかったが、引き戸をしっかり閉めてから、俺たちは向かい合った。
 今から話すことは誰にも言わないでくれ。そう前置きして、伊月は口を開いた。
「まずは僕のことから話そうと思う。ゆうべも言った通り、僕は陰陽師だ。先代の祖父と一緒に、狸穴神社の庫裏で暮らしている」
 ゆうべはバタバタしてて、伊月のことをろくに知らないままだったから、自己紹介からやってくれるのは正直ありがたい。
 ちなみに、狸穴神社というのはこの高校から百メートルくらい離れた場所に建つ(やしろ)だった。俺はふむふむ頷きながら、何の気なしに言う。
「へー。あの神社が伊月の家なんだな。一緒に住んでるのは、じいちゃんだけか? 親は?」
「両親は亡くなったよ。五年前に、交通事故で」
「えっ」
 マズった! 無神経なこと聞いちまった……。
 俺はあたふたしたが、伊月はなんでもないといった顔つきで淡々と先を続けた。
「狸穴神社は、この狸穴の地を鎮守するために建てられた。僕の先祖は代々そこで神職に就く傍ら、陰陽師としての役目を担ってきたんだ」
「……なぁ、伊月。そもそも陰陽師って、一体何なんだ」
 この際だから、めっちゃ基本的なことを聞いてみる。
「陰陽師というのは、陰陽道の知識や技能を用いて占術・呪術・祭祀などを行う人のことさ。古代の日本においては役人だった。最も有名な陰陽師は、安倍晴明だろうね」
 いくら歴史が苦手な劣等生の俺でも、安倍晴明くらいは知ってる。おふくろが以前に晴明が主役の映画をレンタルしてきたんで、一緒に見た。
 その映画で、晴明は術を駆使して妖怪みたいなのを倒していた。ゆうべの伊月みたいに、印も結んでいた。
 あれはただのフィクションだと思ってたが、陰陽師はちゃんと存在してたんだ。いまだに信じられねーけど、何せ『実物』が目の前にいるんだから、受け入れざるを得ない。
 俺が理解した様子を感じ取ったのか、伊月は話を進めた。
「陰陽師は日本各地に散って、それぞれの場所を守り続けている。僕の一族は、代々この狸穴の地を任されてきた。ここの地名は、狸が住む穴がたくさんあったことが由来と言われているだろう。狸は人を化かすあやかしとしてポピュラーな存在だ。昔からこのあたりには、あやかしが集まっていたんだよ」
「ふーん。狸穴って、そんな由来があったんだな」
 俺がポンと手を打つと、伊月は呆れ顔になった。
「このあたりに住んでいるなら、狸穴の由来は小学校で習っただろう。先週、日本史の先生も話していたよね」
「あー、俺、日本史の時間は寝てっから! そんなことより、伊月はこの辺に出るあやかしを退治してるのか?」
「うん。奴らが活動するのは主に夜だから、僕の仕事もその時間になることが多い。……明治時代になって陰陽師は公式には役を解かれた。文明が開化して、科学の世の中になったからね。だけど、それは表向きの話。実は今も僕たちには密かに公の後ろ盾があって、あやかしが公共の施設に現れた際は、自由に立ち入っていいことになっている」
「なるほど。それでゆうべ、伊月はこの高校のマスターキーを持ってたんだな」
「そういうことだ。でも、後ろ盾がある一方で、僕らの役目は表沙汰にしないことになっている。あやかしが出るなんてことが広まったら余計な混乱を招くし、よからぬことを企てる人もいるかもしれないからね。だからあやかしが事件を起こしたとしても、それは公の力で伏せられる。……ゆうべ僕があやかし退治に巻き込んでしまったから、幸太郎くんにはこうして話をしているけど、本来は機密事項なんだよ」
 そういや、ゆうべ窓ガラスが割れたり鉄の扉が外れたりしたが、登校したら『夜に野犬が忍び込んだ』という噂が広がっていた。あやかしだのなんだのという話は、一切出ていない。これが『公の力』ってやつか。
 俺は今までの話を咀嚼しつつ、まだ残っている疑問を口にした。
「伊月。俺に呪いをかけた九尾っていうのは、何者なんだ」
 すると伊月はぐっと顔を顰め、絞り出すように言った。
「一言で表すなら――九尾は最強のあやかしだよ」
 そもそも、伊月たちのいうあやかしとは、妖怪とか物の怪とか幽霊とか、そういう不思議な存在のことらしい。
 だいたいのあやかしは人間の目に留まらないように大人しくしているが、中には妖術を使って悪さをする奴もいる。陰陽師は、そんなあやかしに対抗する力がある。
「狐の姿をしたあやかしを総称して妖狐(ようこ)と呼ぶんだ。九尾はその妖狐の中で――いや、あやかし全体の中で、最も強大な力を持つ。……幸太郎くんは、古代の中国や日本に現れた九尾の狐の話を知ってる?」
 俺が首を横に振ると、伊月はかいつまんで説明してくれた。
 はるか昔、中国で妲己という美女が王を惑わし、国が乱れた。一方、平安時代の日本では玉藻前という女が宮中に現れ、その美しさで治世が混乱に陥った。
 妲己や玉藻前の正体は、九つの尾を持つ狐……九尾だと言われている。
「ん、九尾って女なのか? ゆうべは男に見えたんだけど」
 俺は屋上で見たイケメンを思い浮かべた。
「男でも女でも、九尾なら自由自在に姿を変えられる。奴の目的は、世の中を乱すことだ。平安時代、玉藻前に化けていたその九尾と対峙したのが陰陽師さ。正体を見破られた九尾は『殺生石』という大きな石に姿を変えた。その石は今の栃木県に飛んでいって、丁重に祀られたんだ。九尾は祈祷の力で動けなくなっていたんだけど……」
 そこまで言うと、伊月は胸ポケットからスマホを取り出して俺に見せた。液晶画面には、真っ二つに割れた岩の写真が写し出されている。
「少し前、その殺生石が割れた。風化が原因と言われている。多分そのせいで、九尾を縛り付けていた力が弱まったんだと思う。石が割れると同時に、あいつは再び世に解き放たれた。……そしてゆうべ、この高校に現れた」
 つまるところ、あのイケメンは最強かつ最凶。どうやら俺は、とんでもない奴に呪いをかけられちまったらしい。
 ――このままでいけば、俺は狐になる……のか?
 絶望感が足元から駆け上がってくる。だが、それが全身に回る前に、伊月が力強い声を発した。
「大丈夫だよ、幸太郎くん。君にかけられた呪いは、僕が必ずなんとかする」
「なんとかって……何か策があるのかよ」
 伊月の大きくて澄んだ瞳を見つめ返しながら、俺はおずおずと問う。
「ゆうべ家に戻ってから、遠くに行っている祖父に連絡を取ってみたんだ」
「おお、そういや、伊月のじいちゃんも陰陽師だったよな。今は修業か何かに行ってるのか? どうやって連絡を取ったんだ。もしかしてあれか。式神!」
 おふくろと見た映画で、陰陽師は式神という使い魔みたいなのを自由自在に使いこなしていた。
 めちゃくちゃカッコよかったな、あれ! 想像すると、一気にワクワクしてくるぜ。
 しかし伊月は、やや前のめりになった俺とは裏腹に、顰め面で肩を落とした。
「いくらなんでも、そんなフィクションみたいなことはしないよ。普通に電話をかけたんだ。僕も祖父もスマートフォンを所有しているからね。……それに、祖父は修業をしにいったんじゃない。仲のいい氏子さんと温泉旅行に出かけただけだ。昨日もかなり楽しんでいたみたいだよ。景色や食べ物の写真をSNSに上げてた」
 スマホやらSNSやら。飛び出した現実的なワードに、俺の中に漠然とあった『カッコイイ陰陽師』のイメージがガラガラと崩れていく。
 そんな俺を、伊月は小馬鹿にしたような目で見つめたあと、ふっと一つ息を吐いて真顔になった。
「とにかく、電話で祖父に幸太郎くんのことを伝えた。すぐ東京に戻ってきてくれるって。……でも結局のところ、呪いを解く方法は二つしかないと言われたよ」
「二つって?」
「一つは、九尾を退治すること。呪いをかけたあやかし自体が滅びれば、その力もなくなる」
「もう一つは?」
「九尾自身に解呪してもらうんだ。残念だけど、九尾に勝てる陰陽師はそうそういないよ。だから、九尾を説得して呪いを解かせる」
 俺はゴクリと息を呑んだ。
 呪いをかけた本人が、簡単に説得に応じるか? だが、九尾にはそうそう勝てない。
 それって、つまり……。
「僕は諦めないよ。できることを、精いっぱいする」
 伊月の言葉が、重たい結論を追い出してくれた。
 そうだ、諦めるのはまだ早い。暗くなるなんて、俺らしくねぇ!
「分かった。呪いのことは、伊月に任せる」
 俺は片手を軽く上げた。何をしようとしているのか察したらしく、伊月も同じポーズを取る。
「頼んだぞ、伊月」
「頼まれたよ、幸太郎くん」
 触れ合った手がパンと音を立て、じんわりと温かくなった。
 その余韻をしばらく肌で感じていると、伊月は改まった様子で口を開いた。
「退治するにせよ、説得するにせよ、まずは九尾の居所を割り出す必要がある。ゆうべは取り逃がしたからね」
「何か心当たりがあるのか」
「僕にはないけど、野狐……九尾と一緒にいた小さな狐のあやかしなら知っているはずさ。あいつはゆうべ幸太郎くんに突き飛ばされてどこかに行ってしまったけど、実は僕、この学校の周りにぐるっと結界を張っておいたんだよ」
 野狐にはたいして力がないらしい。だから、伊月が張った結界を突破できない。つまり、まだこの学校のどこかに身を隠しているってことだ。
「じゃあ、その野狐を見つければいいんだな。俺も手伝っていいか?」
「手が多い方が助かるけど……いいの? 僕たち、今までたいして話したこともなかったのに」
 伊月は僅かに目を伏せた。俺はその華奢な肩を、パンとはたく。
「なーに言ってんだ。いいに決まってんじゃん! あ、これからは教室でもバンバン話しかけてくれよ。クラスの連中には『最近仲よくなった』とか適当に言っとくし」
「でも……」
「遠慮すんなって。だって俺たち――もう友達だろ!」
「……!」
 伊月は顔をふわりと綻ばせた。
 笑ってる。同じクラスになって半年。初めて目の当たりにする表情だった。なんだか嬉しくなって、俺も頬を緩ませる。
「まだ昼休みは残ってるね。幸太郎くん。早速、野狐捜しを手伝ってくれるかな」
 微かに口角を上げたまま、伊月は言った。
 俺はもちろん、大きく頷く。
「よっしゃ。まずはどこを捜す?」
「校舎内を見て回ろう。野狐は悪戯好きだから、きっとどこかで機会を窺っ……」
 がしゃん!
 伊月の言葉は、その派手な物音で途切れた。俺は思わず身を竦め、あたりをきょろきょろ見回す。
「何だよ、今の音」
「隣の部屋から聞こえた。幸太郎くん、行ってみよう」
 今いる視聴覚倉庫の隣は、音楽準備室だ。伊月、俺の順でそこに飛び込むと、中で誰かが立ち尽くしていた。
「あれっ、ちなみちゃ……じゃなくて、花村(はなむら)先生じゃん」
 俺はその人物――音楽の花村ちなみ先生こと、『ちなみちゃん』を指さした。
 まだ二十八歳と若く、性格もフレンドリーなこの教師のことを、生徒たちは親しみを込めてちなみちゃんと呼んでいる。もちろん本人を前にしたときは、ちゃんと『花村先生』って言うけどな。
 ちなみちゃんは、何を隠そう、俺と伊月の担任だ。この高校に音楽教師は一人しかいないから、音楽準備室はある意味、ちなみちゃんの城ともいえる。
 しっかし……。
「すげぇ散らかってんな……」
 俺の口から本音が漏れ出る。
 風雲ちなみちゃん城は、もので溢れ返っていた。まず、楽譜や本があちこちにうず高く積まれている。その間にはクラシックのCDがこれまた高い山になっていて、一部が雪崩を起こしていた。
 窓際にあるのはデスク『らしきもの』だ。書類やらクッションやらひざ掛けやら、細かいもので埋め尽くされてて、それがデスクであると断定できないんだよなぁ。
 惨憺たる状態に「うへぇ」っとなる俺。伊月も顔を半分顰めていたが、やがて立ち尽くしたままのちなみちゃんに向き直る。
「花村先生。この部屋から大きな物音がしたようですが、何かありましたか?」
「ああっ、倉橋くんに朝見くん。ちょうどいいところに来てくれたわ!」
 ちなみちゃんは、俺たちにがばっと縋り付いてきた。
 そして、髪を振り乱して叫ぶ。
「わたし、この部屋で大事なものをなくしちゃったの。二人とも、お願い――助けて!」




 半分パニック状態のちなみちゃんを伊月がなんとか宥め、ひとまず事情を聞くことになった。散らかった室内にはもちろん座る場所なんてなく、立ったままだ。
「わたしがなくしたのは……百科事典なの」
「百科事典?」
 聞いたことをそのまま俺が鸚鵡返しにすると、ちなみちゃんはこくりと頷いて、傍にあった本の山から、紙ケースに入った分厚い一冊を「よいしょっ」と引っ張り出した。
「老舗の出版社が出してる子供向けの百科事典よ。対象は小・中学生だけど内容がしっかりしてるし、カラー写真も豊富で、大人も楽しめるの。音楽関連の項目もたくさん載ってるから、授業の補助プリントを作るときによく参考にしてるのよ。三巻でワンセットになってて、これは第二巻。一巻と三巻は、ほら、そこにあるわ」
 ちなみちゃんは言いながら、足元の本の山に視線を落とす。その中には確かに、同じタイトルの百科事典が二冊埋もれていた。
「わたし、この百科事典を学生時代から愛用してたの。だけど最近、新版が出てね。買い替えようかどうか悩んでたのよ」
 百科事典の新版は先月刊行になった。
 旧版と同じく全三巻で、新しく加えられた項目が多数あるらしいが、一冊が分厚いだけあって値段もそれなりに張る。
 ちなみちゃんとしては、買い替える前に一度中身を確かめたかったそうだ。うんうん。(かね)は大事だもんな。気持ちは分かる。
「でね、他の先生と職員室で雑談したとき、この百科事典の話題を出したのよ。そしたらその先生が『新版を持ってるから貸しますよ』って言ったの。昨日早速、ここまで持ってきてくれたわ。でも、その新版の百科事典が……」
「なくなってしまったんですね」
 途中でかき消えた言葉を、伊月が補足する。
 ちなみちゃんは、しゅんと項垂れた。
「わたし、昨日は忙しくて。百科事典を持ってきてもらったとき、机に向かって仕事をしていたの。『ここに置いておきますから』っていう声に『ありがとうございます』って返しただけで、実際に事典を置くところを見たわけじゃないのよ。気が付いたときには、借りたものがどこにいったか分からなくなっちゃってた」
 確かに、この部屋でボールペンを転がしたらソッコーでどっかに紛れそうではある。
 でも、問題の紛失物は百科事典だろ。ちなみちゃんが持ってる本は一抱えほどの大きさだ。しかも、全部で三冊。
 いくらここがカオス空間だとしても、そんなデカいものが消えたりするか?
「置くところを見ていなかったとはいえ、事典がなくなるなんて妙だね」
 伊月も俺と全く同じことを考えたようだ。顎の下に指を当てて考え込む。
「事典がないのに気付いたのは今朝よ。それからこの部屋をあちこち掻き回してるんだけど、全然見つからなくて……。そうこうしてるうちに棚からものが落ちてきたりして、余計に散らかっちゃった」
 ちなみちゃんは旧版の事典を置き、とっ散らかった室内を眺め回して溜息を吐いた。
 さっき聞こえてきたのは、棚の中のものが床に落ちた音だったのか……。
「あぁ、どうしよう! 事典を貸してくれた先生から『中身、見ましたか』ってメッセージが何度も届いてるのよ。なくしちゃったなんて言えない!」
 再び取り乱したちなみちゃんに、伊月が歩み寄った。
「落ち着いてください、花村先生。百科事典は本当にこの部屋に持ち込まれたんですか。先生は置かれたところを見ていないんですよね」
 そうか。そもそもここに、新版の百科事典が初めから存在してない可能性がある。
 貸主は『ここに置いておきますから』とか言ってたらしいが、実際は何も置かなかったんじゃないか?
 伊月の奴、結構鋭いじゃん……俺はそう思ったが、ちなみちゃんは首を横に振った。
「貸してくれた人が嘘を吐いてたってこと? それはないと思うわ。わたしがあのとき机に向かっていたのはたまたまよ。いつ顔を上げるか分からなかったんだから、そんな状態で嘘を言うはずがないでしょう」
「確かにそうですね。……では、盗まれたということはありませんか。花村先生が百科事典を借りたのは昨日です。夜のうちに誰かが侵入したのかもしれません」
 伊月は今度はそんなことを言い出した。俺はまたもや『鋭い!』と感心したが、ちなみちゃんはこれも否定した。
「侵入は無理ね。部屋を出るときは、毎回必ず施錠をするの。鍵はわたしが持ってる一本だけ。ここのロックは旧式だから、マスターキーは合わないわ。無理にこじ開けられた様子はなかった」
 うーん……どうやら盗まれたわけでもなさそうだ。ということは、やっぱり百科事典はここに持ち込まれたけど、消えちまったってことになる。
「とにかく、二人とも捜すの手伝って。昼休みの間だけでいいから!」
 ちなみちゃんに懇願され、俺と伊月は音楽準備室内の捜索を始めた。
 デスクの周りを掘り返し始めた我らが担任を視界の端に入れつつ、俺は伊月にそっと囁く。
「野狐より前に、事典を捜すことになったな」
 伊月は俺にさっと顔を寄せた。
「仕方ないよ。困っている花村先生を放っておくわけにはいかない。それに……事典がなくなったのは、野狐の仕業かもしれない」
「え、マジか」
「野狐は悪戯好きのあやかしだから、人のものを隠して困らせたりするんだ。ゆうべも幸太郎くんのグローブを持っていこうとしてただろう」
 そういやそうだった。あいつ、今度会ったら絶対に許さねー!
「実は今も野狐がこの部屋のどこかに潜んでいて、花村先生が途方に暮れている姿を笑いながら眺めている可能性があるよ。……僕は事典を捜しつつ、そっちの方にも注意を払ってみる。幸太郎くんは、事典を見つけることに集中してくれ」
「了解」
 伊月とひそひそ話を終えてから、俺は手と目を必死に動かした。大きくて分厚い本をイメージしながら、部屋の中のものを丁寧にひっくり返す。
 もちろん、ちなみちゃんも「事典、事典……」と言いながら室内を捜し回った。
 だが、三人で十分ほど捜索しても、目的のものは一向に出てこない。
「おい、伊月。これってやっぱり、野狐の悪戯か?」
 俺がそっと尋ねると、伊月はすぐさま小声で返してきた。
「いや、野狐はここにはいない。どんなに集中しても、気配が全くしないんだ。今回の件は、あやかしとは無関係だね」
「なら、マジで事典はどこにいったんだよ!」
 俺はとうとう頭を掻きむしった。
 絶対におかしい。音楽準備室の広さはせいぜい十帖くらいだ。三人で手分けすれば、事典の一冊や二冊、すぐ出てくると思ったんだが……。
「どうしよう……全然見つからないわ」
 とうとう、部屋の隅でちなみちゃんが手を止めて棒立ちになった。
「弁償するしかないわよね。でも、たとえ買って返したとしても、貸してくれた人はわたしのことを見損なうだろうな。借りたものをなくすなんて、わたしったら最低……」
 普段は元気な我らが担任の姿が、ひどく小さく見える。今にもくずおれそうだ。
 伊月はちなみちゃんに声をかけようとしたしたみたいだが、上手い言葉が見つからなかったのか、暗い顔で俯く。
 俺も肩を落としかけた。だが、すぐにぶるぶると(かぶり)を振る。
「二人とも、もう少し頑張ってみようぜ! 昼休みのうちに見つからなきゃ、放課後も捜せばいいじゃん。俺、いくらでも手伝うからさ!」
 落ち込むのはらしくねぇ。嘆いてたって状況は変わらん。俺は頭は悪いが、身体なら動かせる!
「そうね。諦めたら駄目だよね」
 思いっきり明るい声で言ったのが功を奏したのか、ちなみちゃんは零れかけていたぐいっと涙を拭った。
 伊月もふっと一つ息を吐いて、俯きがちだった顔をきりりと上げる。
「よし、落ち着いて状況を見直そう。花村先生。もう一度、貸主が事典をこの部屋に持ち込んだときのことを思い出してくれませんか」
 伊月の言葉に、ちなみちゃんは「えーと」と首を傾げた。
「さっき話した通りよ。わたしは百科事典が置かれるところを見てないの。貸主の先生の声は確かに聞いたんだけど……」
 そこで、伊月の手がすっと挙がった。
「待ってください。そもそも、花村先生に事典を貸してくれたのは誰なんですか」
「ああ、それまだ言ってなかったっけ。わたしに事典を貸してくれたのは――化学の浦辻先生よ」
「浦辻先生……?」
 くりっとした目が、限界まで見開かれた。
 数秒後、伊月は部屋の中をしきりに見回し、やがて『あるもの』を手にして俺たちの方をゆっくりと振り向く。
「――百科事典、あったよ」