店に入るなり、小麦のふわっとした香りが鼻を掠める。三つ上の兄、広樹(こうじ)は調理中だったが、ドアベルの音に反応して、「営業は十七時からなんです」と常套句のように言ってきたあと、顔をこちらに向けるなり「って、凉樹かよ」と残念そうに呟いた。

「馬鹿が、雨に打たれたか」
「いいだろ、別に」
「んで、何の用?」

俺はこうなってしまった経緯を説明し、店の奥にある新居へ連れて行ってもらった。リビングでは兄貴の嫁で俺と同じ年齢のマオさんと、半年前に生まれたばかりの甥、暖《だん》が寛いでいたが、俺と咲佑のことを頭からつま先までじっくり眺めたあと、目じりを垂らした。

「シャワー使って。あと、ドライヤーも貸してあげる」
「暖がいるのに、ごめん」
「大丈夫よ」
「ありがとね」

 家に上がらせてもらうのは初めてのことだったが、遠慮なくシャワーを浴びさせてもらい、マオさんにドライヤーで乾かしてもらっておいた服を再び着て、俺と入れ替えでシャワーを浴びに行った咲佑が出てくるのを待った。その間にマオさんは暖を連れて二階に上がり、空間は自然とあの頃の、兄弟二人の関係性に戻る。

「母さんの葬式以来だな」広樹が自宅キッチンで調理しながら、ボソッとした声で言う。
「そうだな・・・」
「まだ雨怖いんか?」
「大雨になるとやっぱり思い出す。兄貴は?」
「当時に比べたらマシになった」
「そっか」

フライパンの中で広樹が奏でるワルツで踊るパスタたち。いつのまにかドレスアップしていた。

「なかなか傷は癒えないだろうけどさ、いつまでも引きずってたら母さんが悲しむぞ」
「分かってるよ。でも―」
「凉樹が悪いわけじゃない。言いたくないけど、母さんはああいう運命だったんだよ。受け入れるしかないんだよ」
「母さんがあんなことになって、兄貴は悔しくないのかよ」
「悔しいよ。まだまだ元気でいて欲しかった」
「じゃあ、どうして!」
「なぁ、まだ俺と喧嘩するつもりか?」
「は?」
「昔はお互い若かったからしょっちゅう喧嘩してたけどさ、俺らももう大人なんだし。いつまでも兄弟喧嘩してたら、母さんだって安心できないだろ。だから、もう喧嘩はやめよう、な?」

言葉が出てこなかった。否定するのは違うと思ったけれど、肯定する気にはなれなかったから。

「これからは家族のために兄弟二人三脚で頑張っていこうぜ」
「・・・、わかった」
「たまには実家帰ってあげろよ。父さん一人だから寂しがってる」
「うん。次の法事のときには顔出すから」
「おう」

 遅めのお昼として、広樹が作ってくれたパスタを久しぶりに口いっぱい頬張った。実家を出る前までは、月に一度は必ず食べていた広樹のパスタ。久しぶりに食べたからか、素材の洗練された味を舌が感じ取った。たった一時間ぐらいの滞在だったが、幸せな時間だった。もう、咲佑とはこんな時間を過ごすことはできない。だから、最後ぐらいは笑って終わりたい。

「兄貴、そろそろ帰る」
「そっか」
「パスタ、ご馳走様でした。美味しかったです」
「あー、いいよいいよ。今度はお店に来てよ。咲佑くんとまたゆっくり話したいからさ」
「ありがとうございます。また寄らせてもらいますね」
「分かった。待ってるから」

広樹は咲佑に微笑みかけた。

「兄貴、今日の借りはちゃんと返すからさ、また来るよ」
「おう。次は金払って食べろよ」
「分かってる。あ、マオさんには後で連絡入れるから、そのこと伝えておいて」
「はいはい」
「じゃ、また」
「おう」
「ありがとうございました。お邪魔しました」

 濡れた路面に反射する太陽の光。暑すぎる太陽を背に凉樹と咲佑はとりあえず歩き始めた。目的地もないままに。