互いの趣味や業界の会話で予想以上に盛り上がり、そんなに長く待った気がしないうちに、店員によってオーダーした料理が運ばれてきた。初めて見るコンフィに、凉樹の目には星が光らせ、胸が高鳴っていく。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりお楽しみください」
真っ白な丸いお皿に乗せられた鴨肉。盛られた野菜の鮮やかな色によって映える焼き色に、見た目から伝わる皮のパリパリ感。俺は思わず生唾を飲み込む。一方の奏さんは目の前に置かれたテリーヌを見て感嘆の声を漏らした。
「奏さんが注文した料理も美味しそうですね」
「そうでしょ」
「あの、この料理名は」
「テリーヌって言うんだけど、これも初めて?」
「はい。あ、でも、テリーヌって名前は聞いたことあります。食べたことはもちろん無いですけど」
「良かったら一口食べる?」
奏さんは小首を傾げ、そしてテリーヌが盛られた皿をこちらに差し出す。
「奏さんが注文したんですから、奏さんが食べてください。俺のこと、ほんと全然気にしなくていいですから」
俺はやんわりと断ることしかできなかった。
「そう? じゃあ全部食べちゃお」
「あ、はい。そうしちゃってください」
戸惑いと動揺が隠せない。心の中で自分のことを嘲笑った。
「いただきます」
「いただきます」
奏のフォームを見様見真似で、凉樹がフォークとナイフを手に取った瞬間、奏が声を掛ける。
「凉樹くんって、右利きだよね?」
「はい」
「じゃあ、フォークを左手、ナイフは右手ね」
そう指摘されて、視線を手元に移すと、フォークとナイフを左右逆に持つ両手が写った。どこまでも無知な自分が恥ずかしい。
「すいません」
「緊張してるんでしょ? もっとリラックスしていいのよ」
「はい」
「それからね、持ち方なんだけど―」
それからナプキンの正しい使い方とか、肉料理の食べ方を、奏さんは無知な俺に懇切丁寧に教えてくれた。そのときの柔らかな表情は、始めて見る一面だった。
「私が教えてあげられることはこれぐらいかな」
「ありがとうございます。勉強になりました」
「じゃあ、最後に教えてあげる」
「何ですか?」
「私が最初、石井くんに料理一口食べる? って聞いたでしょ?」
「はい」
「あれね、もし食べるって言ったら、石井くんをここから追い出すつもりだった」
「・・・え」
あまりの衝撃的な一言に、俺は言葉を失った。
「断って正解なのよ。料理のシェアや交換はマナー違反だからね」
「そう、だったんですか・・・。ってことは、俺を試したってことですか?」
「うん。私にお似合いかどうかのね」
淡いピンク色のチークが塗られた頬が緩む。俺は視線を逸らすために、料理に目を移す。盛られたレタスが若干しんなりとしている気がした。
「あ、ごめんごめん。しゃべり過ぎちゃったね。料理食べましょ」
「あ、はい。食べましょう」
凉樹は奏が料理を一口食べるのを待ってから、教えてもらったように、鴨肉を繊維に沿ってナイフで小さく切り、フォークを使って口に運ぶ。見られているという緊張から手は少しだけ震えていた。が、口に入れた瞬間にカリっとした皮の食感の直後に、ほろほろとしたお肉本来の柔らかさ、そして旨味が口いっぱいに広がっていく。その美味しさに思わず陶酔してしまう。
「初めてのコンフィのお味はどう?」
「凄いです。鴨肉独特の匂いとかあるかと思ってたんですけど、それが全く無くて、しかも、お肉だけじゃなくてハーブの香りも程よくしますし。ソースとお肉の相性も良くて、ついつい食べる手が止まらないですね。とにかく美味しすぎます。最初に出会ったコンフィがこれって、俺幸せ者ですね」
「食リポできてるじゃない」
「え」
「自然な感じでいいんじゃない?」
「あれでいいんですか?」
「うん。最低限は伝わるよ。あとは、見た目のこととかを伝えてあげるといいかもね」
「なるほど・・・。ん? あの、奏さん。もしかしてまた俺のこと試しました?」
「試した? 何のこと?」
奏さんはナイフで一口大に切りながら、聞き返してきた。上品に、美しく。
「いや、恍けないでくださいよ。初めて食べる料理を食べさせて、俺がどんな食リポするか見たかったんじゃないですか?」
「石井くん、流石だね。そっか、バレちゃったかぁ」
「バレるもなにも・・・。でも、ありがとうございます」
「何が?」
「奏さんにアドバイスもらえたから、俺、これから食リポ頑張れそうです」
「そう? なら良かった」
目の前で笑う奏を見て、凉樹の心は熱くなった。
料理を食べ終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。よく磨かれた窓ガラスに映る店内。お客さんはいつの間にか、奏と凉樹の二人だけになっていた。
「奏さんは、このお店いつ知ったんですか?」
「二年前かな。映画の打ち上げで連れてきてもらったのが最初で。あ、このお店は事前に言えば貸し切りにすることもできるんだよ。それからこのお店の虜になってね。いつか石井くんのこと誘うのが夢だったんだ」
「どうしてですか?」
「そこは感じ取ってよ。そーゆーの、女子に聞いちゃダメだよ」
「教えてくださいよ。俺、そういうの読み取れないし、感じ取れないタイプなんで」
「ずるいよ、石井くん」
奏は甘くも奥に苦みのある声を出す。今の奏なら、世の男性たちを一瞬にして虜にしてしまうような、そんな魔性の女になっていると、凉樹は秘かに思った。
「俺の何がずるいんですか?」
「そうやって、私に何回も尋ねてくるところ。石井くんはさ、今の私が何考えてるか分からないでしょ?」
「はい。分からないです」
「何で私が今日、急に石井くんのこと誘ったか、分からないでしょ?」
「はい。分からないです」
「その答え、教えてあげようか?」
今の俺は完全に奏さんの掌で踊らされ、そして囚虜されつつある。
「お願いします。俺に教えてください」
「私ね、凉樹くんのことがね、ずーっと気になってるの。石井くんに会いたくて今日誘ったの。急だったのはそういう理由」
「えっと・・・、と言うのは・・・?」
俺の瞬きは意図せず早くなる。なのに、奏さんの瞬きは驚くほどゆっくりで、正直今の自分が怖い。
「私、石井くんのことが好きなの。ねぇ、私と付き合ってくれない?」
真正面に座る奏は、凉樹のことだけをキラキラと光る瞳で捉え続けている。
「奏さん。まずは俺に告白してくれてありがとうございます。先輩から告白されて、とても光栄です」
俺が丁寧な言葉で感謝を伝えると、奏さんは静かに頷く。
「お返事なんですが、今ここでお伝えしてもいいですか?」
今ここで返事を伝えなければ。俺のためにも。咲佑のためにも。
奏さんはゆっくりと瞬きをして、「もちろん」と甘ったるい声で言う。
「喜んで、奏さんとお付き合いさせていただきます」
俺は咲佑を裏切った。今、この瞬間に。
奏さんから告白され、それを受理してから二週間。秋が間近に迫ってきているのに、まだまだ熱帯夜が続いていた。咲佑と奏さん、二人と付き合っていることを未だ誰にも伝えられていない凉樹。あと二日で九月を迎えるが、その前に伝えておきたいという気持ちはあった。しかし、伝えようとするも怖気づいてしまい、中々口にすることができない。いい加減自分にケジメをつけなければ。その思いで凉樹はある行動に出る。
収録終わり、タクシーに乗り込んだ俺は咲佑にメッセージを送信した。「会って伝えたいことがある」と。その返事はすぐに届いた。俺は送られてきたメッセージを見て、正直驚いた。まさか咲佑も伝えたいことがある、なんて言ってくるとは思っていなかったから。なんて返事をしようか迷っているとき、タクシーが自宅に到着した。金銭を払い、荷物を持ってタクシーを降りる。そのタイミングで、レジ袋を提げた桃凛と出くわし、ある話題を境に話に花が咲いてしまった。
咲佑の返事に連絡していないことに気付いたのは、三日後だった。慌てて待ち合わせの日付と時間、待ち合わせ場所を送り、そして連絡が遅くなったことを詫びた。そして咲佑とお揃いで購入した敬語スタンプを送った。すると、咲佑からも同じスタンプでの返信があった。基本、仕事のやり取りも、プライベートのやり取りも、こまめにチェックし、すぐに返信するようにしているが、今回はつい抜けてしまっていた。恐らく咲佑には心配をかけてしまっただろう。次からは気を付けなければ。
九月六日。オフ三連続の中日だった。カーテンの隙間から差し込む日差しで目覚め、スマホを手に寝室を出る。寝ぼけ眼のままリビングにある小さなテレビの電源を入れると、三十歳ぐらいの女性が全国の天気予報を伝えていた。その数十秒後、地元の天気予報に切り替わる。今日一日は曇りで雨は降らないだろうと言っていた。
ベランダからは生暖かい風が吹いてくる。雲行きも段々と怪しさを増す。天気が不安になりつつ、クローゼットの中で窮屈そうにしている服を選んで身に纏い、財布とスマホ、交通系ICカードを手に家を出た。
余裕をもって家を出て正解だった、のかもしれない。もうすぐ降りる駅につく、そんなタイミングで振り出した雨。雲に覆われつつもまだ空は明るかった。
雨は駅を降りても降り続け、次第に振って来る雨粒が大きくなっている。雨に打たれても、目的地であるイタリアンレストランに向けて走り続けた。着ている服が水を吸って重たくなっていくのを感じたのは初めてだった。
角を曲がった先で、見覚えのある人の姿があった。店先のメニューを見ているようにも、雨宿りしているようにも見えないその人に、俺は声を掛けた。
「よっ、咲佑」
俺は雨粒が付着したサングラスを外す。全身ずぶ濡れになった咲佑の姿が瞳に飛び込んできた。
「え、咲佑も濡れてんの?」
「凉樹もかよ」
「悪いかよ」
「いや悪くはないけど、傘持ってないのかよ」
「今日は丸一日オフだったからさ、家から直で来たんだけど、雨降るなんて思ってなくてさ」
「それ俺もだよ。まさかここまで本降りの雨に打たれるとはな」
「あぁ。俺らやっぱり似たもの同士だな」
「だな。で、どうする? こんな格好じゃこの店・・・」
咲佑には伝えていなかった。この目の前に建つ店がどういう所なのかを。
「大丈夫。ここ俺の兄貴がやってる店だから」
「え、凉樹のお兄さんが?」
「そう。店の裏に兄貴ん家もあるし、事情話せば入れてくれると思うから」
「お兄さんって結婚してるんじゃ」
「したよ。一昨年に」
「流石に迷惑じゃ―」
「こんなところ居るほうが迷惑だろ? それにここ突っ立ってるだけじゃ濡れ続けるだけだから、行くぞ」
店に入るなり、小麦のふわっとした香りが鼻を掠める。三つ上の兄、広樹は調理中だったが、ドアベルの音に反応して、「営業は十七時からなんです」と常套句のように言ってきたあと、顔をこちらに向けるなり「って、凉樹かよ」と残念そうに呟いた。
「馬鹿が、雨に打たれたか」
「いいだろ、別に」
「んで、何の用?」
俺はこうなってしまった経緯を説明し、店の奥にある新居へ連れて行ってもらった。リビングでは兄貴の嫁で俺と同じ年齢のマオさんと、半年前に生まれたばかりの甥、暖《だん》が寛いでいたが、俺と咲佑のことを頭からつま先までじっくり眺めたあと、目じりを垂らした。
「シャワー使って。あと、ドライヤーも貸してあげる」
「暖がいるのに、ごめん」
「大丈夫よ」
「ありがとね」
家に上がらせてもらうのは初めてのことだったが、遠慮なくシャワーを浴びさせてもらい、マオさんにドライヤーで乾かしてもらっておいた服を再び着て、俺と入れ替えでシャワーを浴びに行った咲佑が出てくるのを待った。その間にマオさんは暖を連れて二階に上がり、空間は自然とあの頃の、兄弟二人の関係性に戻る。
「母さんの葬式以来だな」広樹が自宅キッチンで調理しながら、ボソッとした声で言う。
「そうだな・・・」
「まだ雨怖いんか?」
「大雨になるとやっぱり思い出す。兄貴は?」
「当時に比べたらマシになった」
「そっか」
フライパンの中で広樹が奏でるワルツで踊るパスタたち。いつのまにかドレスアップしていた。
「なかなか傷は癒えないだろうけどさ、いつまでも引きずってたら母さんが悲しむぞ」
「分かってるよ。でも―」
「凉樹が悪いわけじゃない。言いたくないけど、母さんはああいう運命だったんだよ。受け入れるしかないんだよ」
「母さんがあんなことになって、兄貴は悔しくないのかよ」
「悔しいよ。まだまだ元気でいて欲しかった」
「じゃあ、どうして!」
「なぁ、まだ俺と喧嘩するつもりか?」
「は?」
「昔はお互い若かったからしょっちゅう喧嘩してたけどさ、俺らももう大人なんだし。いつまでも兄弟喧嘩してたら、母さんだって安心できないだろ。だから、もう喧嘩はやめよう、な?」
言葉が出てこなかった。否定するのは違うと思ったけれど、肯定する気にはなれなかったから。
「これからは家族のために兄弟二人三脚で頑張っていこうぜ」
「・・・、わかった」
「たまには実家帰ってあげろよ。父さん一人だから寂しがってる」
「うん。次の法事のときには顔出すから」
「おう」
遅めのお昼として、広樹が作ってくれたパスタを久しぶりに口いっぱい頬張った。実家を出る前までは、月に一度は必ず食べていた広樹のパスタ。久しぶりに食べたからか、素材の洗練された味を舌が感じ取った。たった一時間ぐらいの滞在だったが、幸せな時間だった。もう、咲佑とはこんな時間を過ごすことはできない。だから、最後ぐらいは笑って終わりたい。
「兄貴、そろそろ帰る」
「そっか」
「パスタ、ご馳走様でした。美味しかったです」
「あー、いいよいいよ。今度はお店に来てよ。咲佑くんとまたゆっくり話したいからさ」
「ありがとうございます。また寄らせてもらいますね」
「分かった。待ってるから」
広樹は咲佑に微笑みかけた。
「兄貴、今日の借りはちゃんと返すからさ、また来るよ」
「おう。次は金払って食べろよ」
「分かってる。あ、マオさんには後で連絡入れるから、そのこと伝えておいて」
「はいはい」
「じゃ、また」
「おう」
「ありがとうございました。お邪魔しました」
濡れた路面に反射する太陽の光。暑すぎる太陽を背に凉樹と咲佑はとりあえず歩き始めた。目的地もないままに。
とりあえずという感じで歩き出したものの、雨上がりの湿気により、段々と蒸せてくる。咲佑の額には、汗が滲んできていた。
「なあ」
同じ質感の音が、耳に届く。
「え、咲佑なんか言った?」
満面の笑みを浮かべる咲佑。声が重なりあったことを知った。
「なあ、って言ったけど、凉樹も何か言ったよね?」
「俺も、なあ、って」
「嘘だろ、被った」
咲佑は少年み溢れる驚き方を見せた。
「だな。え、この二音で被ることある?」
「面白いな」
「似てんのかな、俺らって」
「・・・」
この、たった三秒ほどの間。咲佑は何を思ったのだろうか。
「で、凉樹は何言いたかったんだ?」
「俺さ、咲佑に言わなきゃいけないことがあるんだよ」
「それってさ、聞いて後悔する内容?」
「お前次第」
「そっか」
これで咲佑が傷つくのなら、つまりは・・・、そういうことだ。
「咲佑も俺に話があるんだろ?」
「あぁ、まあな」
「それはさ、咲佑が俺に話すことで幸せになれる内容?」
「あぁ、まあな」
「じゃあさ、先に言ってよ。俺のは後でも全然いいから」
「ホント? 後悔しない?」
揶揄ってきた意地悪な咲佑の瞳を捉え、俺は大きく頷いた。
咲佑は歩く方向だけを向きながら喋り出した。内容は、咲佑のような同性愛者にスポットを当てた動画配信番組のゲストとして呼ばれたということ、そして同性愛者の役のオーディションを受けることになった、というものだった。
そのことを聞いた俺は、内心ホッとした。咲佑に仕事という拠り所ができれば、きっと俺のことを忘れてくれるだろうし、咲佑との恋愛を断ち切って、奏さんとの恋愛に集中できるチャンスになるだろうから。
「おめでとう。良かったな」
この返事が合っているのか、俺には分からない。正直おめでとうと言えば終わりだと勝手に想像していたけど、話は終わらなかった。おおかた五年振りにドラマのオーディションを受けることになったためか、咲佑の話すスピードは衰えるどころか、どんどんと加速していき、次第に頷くタイミングも、相づちを打つタイミングも見失い、いつしか咲佑の話に耳を傾けるのも面倒になっていた。
「凉樹」
「ん?」
「様子が変だよ」
「そうか?」
「さっきから俺の話、全然聞いてないだろ」
「そうか?」
「じゃあ、今さっき俺がなんて言ったか憶えてる?」
「・・・、悪い」
「やっぱりな」
俺の顔を見て咲佑は、どこか呆れた様子で笑った。
「凉樹、何か隠してることあるだろ?」
確信めいた視線を送られる。やっぱり見抜かれていた。咲佑が俺に隠し事ができないのと同じように。
「隠し事?」
「凉樹ってさ、隠し事してるとき、いつも聞く耳を立ててないっていうか、上の空になりがちなんだよ」
「そんなことないだろ」
いや、そんなことある。俺は実際、何か考え事をしている最中、相手の話声は耳に届くものの、肝心な内容が脳に入ってこないことが多々ある。
「嘘だね。凉樹が俺に話したい内容って、隠し事のことなんだろ?」
「いや、その―」
「俺は、凉樹の話ならどんなことでも受け止める覚悟ができてる。だから、ちゃんと面と向かって話して欲しい」
立ち止まる咲佑。
「俺は・・・」
歩き出す凉樹。
「俺は、大切な咲佑のことを裏切った、最低な男だ」
太陽に照らされて浮かび上がる影は、歩く影を後ろから抱きしめた。
頬を伝う涙。近くで聞こえる乱れた吐息。早くなる心拍数。伝わる熱-
ふと我に返った瞬間に、肩から乾いた音が鳴った。
「あ、ごめん。つい」
「あ、いや。べつに」
気まずい空気が流れ出す。そんな二人の近くを、制服姿の男子三人組が、自転車で細かな水しぶきをあげながら走り去っていく。
「あのさ、裏切ったってどういうこと?」
「・・・」
「俺は凉樹に揶揄われたくない。本当のこと言って」
「・・・・・・、ごめん」
「何が?」
「・・・」
俺がとった態度は、反抗期で素直に謝ることが子供のようだった。それに対し、咲佑は深い息を吐く。
「だから、何が?」
「ごめん」
「ごめん、ごめん・・・って。凉樹、しつこいよ」
「・・・」
何をどう言えばいいのか分からなくなった自分のことが惨めだ。
「凉樹、謝るだけじゃ分からない。あぁ、もう! こんなところで怒りたくないけどさ、我慢できない。なぁ、俺のこと裏切ったって何なんだよ! どういうことか説明してくれよ!」
「・・・」
「黙ってんじゃねぇよ。ちゃんと目見て言えよ」
「・・・、ここじゃ説明できない」
「じゃあどこで―」
「俺ん家、じゃダメか?」
仕方ないという感じで頷いた咲佑。実際、自宅に連れていくつもりはなかった。本当はどこか公園にでも行って、二人で面と向かって話し合いをするつもりだった。連れて行きたくない理由は二つあった。一つは、咲佑が家に遊びに来ていた頃よりも散らかっているから。二つ目は、奏からのプレゼントも片付けられていないから。
でも、逆に家に招き入れることは、いい機会かもしれないとも思った。俺と奏さんの関係を知れば、きっと咲佑は俺との恋を諦めてくれるはず・・・。
咲佑は目の前にある浅そうな水たまりをわざと踏む。小さな水しぶきが無数に飛び散り、路面に落ちていく。それをどこか寂し気な目で見る咲佑。そして、歩道にできた大きな水たまりに映る自分に別れを告げていた。
自宅の扉を開けると、湿気が溜まった空気が一気に襲い掛かってきた。早急にエアコンを入れたかったが、それよりも先に来客用のスリッパを取り出す必要があった。
「凉樹、これ何?」
咲佑が指差した先にあったのは、つい一週間前に置いたばかりの金色のランプ。これは、たまたま仕事終わりに道端で会った奏さんに買ってもらったプレゼントだった。外国を思わせるデザインが気に入っている。
「仲良くさせてもらってる先輩から貰ったんだよ。外国のお土産だって」
「へぇー、お土産か」
そう呟いた咲佑は、そのランプに興味があるのか、あらゆる方向から眺めていた。下に隠してある値札タグを発見されたら終わり。嘘をついていることがばれないように、俺は平然を装う。
「何か問題でもあるのか?」
「何でもない」
「そ、そうか? ならいいけど」
一旦この場は乗り切ったという安心感と、まだこういうことが続くのかという不安感からか、鼓動は早くなっていく。
咲佑は俺が出したボーダーのスリッパを履き、パタパタと音を立ててリビングに入って来る。咲佑が家によく来ていたあの当時が懐かしい。あの頃には、もう戻れそうにない。
「で、話って何だよ」
咲佑はラックに置いてあった雑誌を手に取る。表紙は、クールな表情の俺らNATUraleza四人が飾っている。そんな表紙を眺めたあと、ぱらぱらと捲っていく。
「それより、何か飲まないか? っていってもコーヒーか水しかないんだけど」
俺は今日、あのことについて話すつもりはない。ずっと隠し続けるつもりでいる。咲佑にばれるまでは。
「凉樹は何か飲むのか?」
「俺はコーヒー飲むつもりだけど」
「じゃあ、俺もコーヒー頼むよ」
「分かった。すぐ準備するから」
「ありがとな」
コーヒーメーカーを稼働させている間、咲佑が話を聞いていようが、聞いてなかろうが気にせず、仕事の話をし続けた。話している途中で無心になっていたのだろうか。ハッとしたのは、咲佑の声がした瞬間だった。
「凉樹、コーヒーできたみたいだけど」
咲佑は機械を指差していた。俺は「悪い、気付かなかった」笑って誤魔化した。咲佑に話す隙を与えないようにするので一生懸命になり過ぎていた。
熱々のコーヒーをコップに注ぎ、咲佑に手渡す。カップは当時咲佑がお気に入りで使っていた、淡いブルーのものを選んだ。
「ありがとな」
「おう」
「あ、このカップ―」
タイミング悪くかかってきた電話。相手は正木だった。今じゃなくてもいい。その思いでスマホをテーブルの上に伏せて置く。
「出なくていいのかよ」
「別に今じゃなくてもいい相手だし」
「ふーん」
自分のカップにコーヒーを注ぎながら着信音が切れるのを待ったが、執拗に音は鳴り続けた。
「出てくれば? それだけ鳴らすってことは緊急の内容かもよ?」
「あぁ、そうだな。ごめん」
「おう」
俺はスマホを握りしめ、リビングを出た。閉められた扉の向こうで、咲佑はどんな行動を取っているのかと考えるだけで、勝手に胸が騒ぎだしていた。
電話を終えリビングに戻ると、咲佑はコーヒーを嗜んでいるところだった。
「電話誰からだったんだ?」
「まさっきぃ」
「おいっ、出なきゃいけない人じゃん」
「いいんだよ。俺がオフなこと知ってて電話かけてきたんだから」
「ふーん。まぁいいや」
「あーあ。せっかくのコーヒーがちょっと冷めたな」
「いいじゃんか別に。それに湯気まだ立ってるし」
「だな」
咲佑が家に来てから五十分が経った。空になったコップを眺めていると、出し抜けに眠気に襲われた。
「咲佑、ごめん。三十分だけ寝てくる」
「分かった」
「服、その山から適当に取っていいから」
「助かるよ」
咲佑は鞄の中から紙袋を取り出している。そんな中で、俺はリビングすぐ横にある寝室の扉を開け、そのままベッドの上に倒れるようにして眠りについた。ここ最近の中で一番いい寝つきだった。
目が覚めたのは十七時過ぎだった。変なタイミングで寝てしまった。ベッドの上で伸びをしていると、ふと脳裏に咲佑の姿がよぎる。そういえば、咲佑が来てたんだ。
リビングは電気が消されていた。開いたままの遮光カーテンの向こうから、夕日が顔を覗かせている。でも、そこに咲佑はいなかった。テーブルの上にあったはずのコーヒーカップは、シンク横にある水切りラックに、折り重なるように並べられている。咲佑に申し訳ないことをしたと思いつつ、隠し事について話さずに済んだのはラッキーだと思えた。
「いらない服があったら俺にくれ」そう言われたのは昨日のことだった。それから俺はクローゼットの中で窮屈そうにしているシャツやアウターを引っ張り出した。あっという間にできあがった服の山。今はテッペンから雪崩を起こしている。咲佑が何を取っていったかすぐに分かった。まさかあのデザインを選ぶなんて。
夕飯を作る前に咲佑に礼だけでも伝えておこうと、俺はスマホを手に電話をかけた。が、何コール鳴らしても電話に出ることはなかった。履歴が残るから、また連絡してくるだろう。礼を伝えるのはそのときでいいや。そんな安易な気持ちで夕食を作り始めたのだった。
異変に気付いたのは、いい感じに味が染みたカレイをお気に入りの皿に盛りつけようとしたタイミングだった。そこにあるはずの皿が消えていた。他の食器が並んでいるところを見ても、冷蔵庫の中を見ても、どこにもなかった。
普段あまり汗をかかない俺だが、今は額に脂汗がじんわりと滲んでくる。暑いわけじゃないのに。何となく、悪い予感しかしなかった。
「まさか、泥棒・・・?」その考えが脳を支配していくと同時に、作りたての煮つけをフライパンに残したまま部屋中を歩き回って、何か盗まれたものはないかを探した。リビング、寝室、そして浴室まで。ただ部屋中どこを見ても、荒らされた痕跡はなかった。でも、確かにお皿はなくなっていた。あと、年代物の赤ワインも。
この家は咲佑が出て行ってから俺が起きるまでの数時間、玄関の鍵は開錠されたままだった。つまりは、誰でも入ることができた。「防犯対策はしっかりしておきなさい」家族から口酸っぱく言われ続けていたのに。今回のことは、完全に俺が気を緩めたために起きたこと。失格だ。
スマホから警察に電話をかける。落ち着いた声の女性に、こう伝えた。
「自宅に強盗が入ったかもしれません。来ていただけますか?」
十八時を少し過ぎた頃、話を訊きに刑事がやってきた。凉樹の目の前にやって来た一人の男性。まだ蒸せる晩だというのに、かっちりとしたスーツを纏い、警察手帳を見せて「村瀬です」と名乗った。
「詳しくお話をお訊かせいただけますか」
目の前に芸能人がいるというのに、一切表情を崩さない。まるで能面でも被っているかのようだった。
「異変に気付いたのは、十七時半ごろでした。カレイの煮つけを盛り付けようと食器棚を覗いたとき、お皿がなかったんです。そのことが気になって色々見ているうちに、開栓前の赤ワインも一本無くなっていることに気が付きました」
「そうですか。無くなった食器と同じ型のものはないですか?」
「その皿は以前番組のロケで作ったものなので、一枚しかないんです」
「なるほど。あとワインの名前とか年代とかは分かりますか?」
「プレゼントされた物なので名前は。年代は―」
それから十分近く、凉樹は村瀬からの質問に答え続けた。そして、心中も洗い浚いぶちまけた。
「お話を訊いた限り強盗の可能性が高いので、詳しく調べさせてもらいます」
「お願いします」
十八時半前には、応援と思われる警察関係者らが凉樹の部屋に入り、くまなく調査をしていく。眼下に広がる景色は、まるでドラマの撮影をしているかのようだった。
一通りの質問を終えたのか、色々と書き込んでいた手帳を閉じた。そして、視線を俺に移す。
「強盗は大抵の場合、金目のものを狙った犯行です。しかしながら今回は皿とワイン一本。通帳系も、高級腕時計三本も、車の鍵も車も無事。盗んだものを販売して金を得ようとするケースもある。ワインならあり得るが、手作りのお皿を売るとは考えられない。この点、何かおかしいと思いませんか?」
「思いましたけど―」
「石井さんが就寝される前、この家に何方かいらっしゃいました?」
送られる視線に、心臓が跳ねた。
「ど、どうしてですか?」
「ラックに形の違うコーヒーカップが二個置かれているので、もしかしたら何方かがいらしていたのかと」
「そういう所まで見るんですね」
「それが仕事ですから」
常套句のように言う。このセリフを今まで何十回と言ってきたのだろう。警察に世話になるのは咲佑が傷害事件に巻き込まれたとき以来だが、新鮮味すら感じられない。
「来てましたよ」
「ちなみに何方が?」
「NATUralezaの元メンバー、米村咲佑です」
*
十九時を過ぎても続いた聴取と捜査。一旦話に区切りがついたタイミングで、溌剌とした女性がタブレット端末を手に村瀬に話しかける。おそらくこのマンションに設置された防犯カメラの映像でも見ているのだろう。きっと犯人が映っているはずだ。
「なるほどな」そう静かに呟いた。ボールペンを顎に当てながら、何か考え事をしているようだった。
「どうしたんですか?」
「今、防犯カメラの映像を確認したんですが―」
「咲佑以外に誰か映ってました?」
「いえ。米村さん以外、石井さんの自宅近辺を行き来した人物は映っていませんね」
時間が経つにつれて、咲佑が被疑者である可能性が濃厚になっていく。そのことを凉樹は未だ信じられなかった。と言うよりは、咲佑が犯人だと信じたくなかった。
「米村さんがここに来た際には、鞄を背負っているだけで、手ぶらだった。しかし、この家を出て行く際、右手に紙袋を持っている。不審な点にお気づきですよね」
「不審な点、ですか?」
「はい」
俺はどこに不審な点があるのかと考え続けた。そのとき、一筋の光が見えた。それを力強く握りしめる。
「服・・・」
「服?」
「咲佑はソロになってからも仕事がないらしくて、だから要らなくなった服があれば欲しいと連絡してきたんです。多分、金に困ってるんじゃないですかね」
「金に困っていた・・・、か。なるほどな」
その一言を聞いて、胸が騒ぎだした。俺が言った発言内容は、咲佑を犯人と決めつけたも同然だった。
「何着あげたんですか?」
「五、六着だと」
「その瞬間は見てないんですね?」
「すいません。どうしても睡魔に勝てなくて」
「それは仕方ないですよ。石井さんは―」
途中で声ががさついたからか、咳払いした。
「石井さんは」村瀬はもう一度そう言った。「恐らく睡眠薬を飲まされたのでしょうから」
「睡眠薬?」
「はい。コーヒーにでも入れられたのでしょう。検査をすれば分かりますよ」
「検査ですか?」
「はい。数分で結果が出ますから」
今の俺は頷くしかなく、分かりましたと小さく首を縦に振った。
「ご協力ありがとうございます。コンノ、検査頼んだ」
「はい」
村瀬が顔を向けた先には細身の男性が立っていた。白い手袋を外しながら俺に近づいてくる。そして指示されるがままに検査をした。まさか自分が強盗に遭うなんて。しかも、睡眠薬を飲まされた可能性があるなんて。咲佑が傷害事件に巻き込まれてから、やはり歯車が狂いだしていたのかもしれない。
「反応がでましたよ。やはり、睡眠薬を飲まされていたんですね」
不本意な形で開いた口は閉まらない。
「信じたくないお気持ちは分かりますが、米村咲佑のことを被疑者として捜査します」
「そんな―」
「石井さん。被疑者の自宅の住所はご存じですか?」
「いえ」
「何方か住所をご存じの方は、お知り合いの中にいらっしゃいませんか」
「もしかしたらマネージャーなら」
俺はスマホを操作し、正木の携帯番号を表示させた画面を見せた。
「ありがとうございます」
村瀬の声は思いのほか低かった。