「その、だからさ、俺たち付き合わね?」



薄暗い部屋の中、青白く浮いた太腿に蚊が止まる。ぼんやり眺めた後、押し潰した。濡れた指先をシーツに擦り付ける。



「おい、聞いてんの?」



肩を掴まれたので振り向くと、下着一枚の男が不機嫌顔でこちらを見ていた。


校則違反の明るい髪、枕元に置かれた煙草の箱。最後に、伸びた爪を見て眉を顰めた。女の扱い方も知らないくせに自信だけは一丁前のバカな男。


もう一度男の顔を見たらふっと笑いが漏れた。それを何と捉えたのか男が勢いづいたようにべらべらと喋りだす。



「俺さ、前からお前のこと良いなと思ってたんだよね。お前っていつもぼっちじゃん?なのに、可愛いし、その辺の群れてるヤツらと違って高嶺の花って感じがしてさ、マジ良いよ」



男の話をテレビの雑音のように聞き流しながら散らばった制服を身に纏う。そして、振り向きざまに吐き捨てた。



「アンタの名前なんだっけ」





新学期が始まって3ヶ月。温かい春の陽射しが畳まれ、夏の到来へ向けて梅雨が幕を開けた。窓の外に広がる空は分厚い雲で隙間なく埋まり、今にも崩れてしまいそう。



「窓の外に何か面白いものでもありますか?」



声に釣られて前を見ると、英文が連なる黒板を背にした青山と目が合った。「すいません」と声に抑揚をつけずに謝ると、眼鏡の向こうにある冷ややかな視線が無言で逸れる。


愛想の欠片もない。


窓の外に何か面白いものでもありますか?って、アンタの単調な授業より窓に広がる曇天の方が余程面白い。そう言ってやりたい。


青山はこの春、東高に着任した英語教師だ。大学を卒業したばかりの23才。女子たちによると、今テレビで人気を集めているあの“クールなアイドル”に似ているらしい。Sッ気があっていいとか、あの眼鏡が色っぽいとか言っている。


私にはあれのどこがいいのか到底理解できない。無表情だから何を考えているのか分からなくて薄気味悪い。


でも、会うのは授業の時だけだし。


そう割り切っていたのに、新学期が開けて僅か1週間で担任が体調不良でやむなく休養することになり、代打として青山がこの2年1組の担任をすることになってしまったのだ。勘弁してほしい。





チョーク片手に文法の説明をする青山から視線を逸らし、腕の包帯を弄る。


昨日は散々な目にあった。逆上した男に灰皿を投げつけられたのだ。一度や二度身体を重ねただけで私が好意を寄せていると思ったらしい。それが蓋を開けてみたら名前すら忘れていたもんだからプライドが傷ついたのだろう。これだから思慮の浅いバカは困る。



望月(もちづき)さん」



声のする方を見たら、いつのまにか真横にいた青山が私を見下ろしていた。



「ワーク」



青山はいつも生徒に対して他人行儀な敬語を使う。だから、単語で指示する時は大抵イライラしていると分かる。辺りを見ると、みんな机に向かってシャーペンを動かしていた。



「36ページ」



言われた通りに開くけれど、なんせ話を聞いていなかったのでさっぱり分からない。たぶん話を聞いていても分からない。英語は大の苦手だ。担当が青山になってからさらに嫌いになった。



「大丈夫ですか」
「はい?」
「ぼうっとしてるから気分が悪いのかと」
「別に」



目を合わせず、無愛想に答える。単純に話をしたくないのもあったけれど、腕の包帯をちらちらと見ていたのでツッコまれたら厄介だと思ったのだ。


やがて、視界の端から人影が消える。無意識に睨んでいたらしい。目が合ったので、ぷいっと逸らした。





放課後、いつも通り図書室で勉強を終えて帰ろうとしていた時だった。突然、背後から腕を掴まれた。包帯を巻いている部分を強く握られ、走る痛みに息を飲んで振り向いた。



「なんで連絡返してくんねえの?」



見覚えのあるようなないような男の顔。誰?と言いかけて思い出す。以前、一度部屋に行った時に暴力紛いのことをされてから遠ざけていた先輩だ。



「今日、ウチ来いよ」
「用事があるので」
「じゃあ、その辺の空き教室でいいや」
「は?」



込み上げる嫌悪感のまま掴まれた腕を振り払ったら髪を鷲掴みにして上を向かされる。



「お前、あんまナメた態度取ってっと、」



肩をいからせるほどの威勢の良さが急に針を刺したようにシュウッと萎んだ。その視線の先を辿ったのが運の尽きだった。走って逃げる選択が頭を過ぎったけれど、面目を保つために諦めた。



「望月さんに用があるのですが」



青山が言う。静かな声だったけれど、強い眼差しに気圧されたのか先輩はすぐに立ち去った。私は静かに息を吐き、青山に向き直る。



「ありがとうございました」



自分史上1番無機質な声を装った。青山に礼を言うのは不本意だけど、助けてもらったので体裁だけでも整えておく。サヨウナラ、と足早に立ち去ろうとしたら引き止められた。そのまま職員室に連れて行かれる。



「何ですか」
「なんか困ってることとかないですか」
「困ってること?」
「確か望月さんは一人暮らしですよね。生活してる上で困ってることとかないですか」



気怠さが一気に肩をずしりと重くした。前の担任から引き継ぎされているとは思っていたけれど、私のプライバシーを青山に知られているのはなんか嫌だ。ましてや過去のことまで掘り起こされているのならば堪ったもんじゃない。




「どこまで知ってるんですか」
「同居していたおばあさまが亡くなってから一人暮らしをしてるとだけ」
「⋯」
「何かあったら相談してください」



青山の言葉に鼻で笑いそうになった。


誰もが不遇な人間を前にすると後ろめたさを感じて優しくしたくなる。自分の発言に責任も持てないくせに。


第一、青山と私は教師と生徒という刹那的な関係で、卒業したら二度と顔を合わせることもないのだから助けてもらう筋合いなんてない。



「いつもこんな時間まで図書室で勉強してるんですか」
「え?」
「前に見かけたことあるから熱心だなと思って」
「良い大学行って良い企業に就職したいので」
「へえ」
「先生もそれなりに生徒に関心あるんですね」



質問しておいて釣れない返事をされたのが気に障ったので嫌味を込めて言ったら青山は薄く笑った。



「⋯なに?」
「別に」



青山は素っ気なく答えながらパソコンを弄って私のこれまでの成績を画面に出した。



「確かに望月さんは成績優秀だし、この前の模試も良かったです」
「まあ」
「英語が壊滅的だけど」



エイゴガカイメツテキダケド。


ぼそりと呟かれた言葉に耳を疑った。草陰から突然飛んできた矢に脳天を突き刺されたような衝撃。唖然としていたら、いつのまにか模試の過去問を解いて持ってくる流れになっていた。



「それもさっきの男子ですか?」



コピー機から吐き出される大量の紙から視線を上げると、青山が「ソレ」と腕の包帯を顎でしゃくる。



「それを聞いて何になるんですか」
「自分が受け持つ生徒の素行に問題がないか把握しておきたいだけだよ」



意図して敬語を外しているのが分かった。私のことが気に入らないのだ。これでハッキリした。青山は私のことが嫌いだし、私はそれ以上に青山が嫌いだ。



「先生に迷惑はかけないのでご心配なさらず」



思いっきりつっけんどんに答えてやった。差し出されたプリントを奪うように受け取り、背を向ける。



「若気の至りとはいえ程々に」



背後から追いかけてきた声を遮断するように乱雑にドアを閉めた。

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