「碧生がね、明日から3日間お休み貰えたの。お母さんたちこれから迎えにいくから、碧生の部屋の掃除お願いね」
6月に入って最初の金曜日、家に帰ると母親が嬉しそうに言った。父親の姿は見えなかったが、庭のほうからエンジン音が聞こえてくる。早く迎えに行きたくて仕方ないみたいだ。
「わかった。気をつけてね」
俺と話す時には見せたことない母親の笑顔に、胸が痛まないといったら嘘になる。でも、もう慣れっこだ。
俺は理解ある優しい長男の顔を取り繕い、両親が出かけるのを見送った。
明日から校外宿泊研修なんだけどな。1泊2日だから、帰ってくるのは日曜日の夜になる。だけど、きっと両親は碧生と過ごすことに夢中で、俺がいないことにすら気がつかないだろう。
ため息を吐いて、階段を上がる。そして、2階の奥にある弟の部屋の扉を開けた。まず目に飛び込んでくるのは、壁一面に貼られた碧生の顔写真だ。1番大きなものは、最近のもので助演として出演した映画「君と咲かない花を見る」の写真。それ以外は、子役の頃からの写真が大小様々な大きさで壁に貼られている。こんなに写真があったら、落ち着いて眠れやしなさそうだけど。そんなことを思いながら、部屋の片隅に置いてあった掃除機のスイッチを入れた。ブオッ、と掃除機にしては静かな音が響く。お高めのこのコードレス掃除機は、碧生が両親にプレゼントしたものだ。「どこまでも出来た息子だ」と父親がはしゃいでいたことを覚えてる。
時々、むなしさに襲われるんだよな。確かに、俺は兄なのに弟のように美しさや才能という、特筆したものを持たない。碧生のように大金を稼いで親孝行することもない。
だからなのか、今回の宿泊研修の費用も、中学校の修学旅行費だって、知らせたのに両親は払わなかった。悪意ではなく、「ごめん、忘れてた」という理由で。毎月それなりの小遣いを貰ってるから、払い損ねたことがないのは幸運だった。
床の掃除が終わったので、棚に飾られてるトロフィーや記念盾を手に取り、布で拭いた。輝かしい弟の功績。兄として誇らしいのに、時々叩きつけてすべてを壊したくなってしまう。
誘惑に負けてしまう前にと、俺はさっさと掃除を切り上げて自分の部屋へと戻った。
***
校外宿泊研修に出発する日がやってきた。この研修は、集団行動を学ぶため、また、早く高校生活に馴染むためという目的のもと毎年1年生を対象に行われているとか。1日目の今日は同じ県内にある海辺でのごみ拾いがメインで、夜には花火をする予定だった。海に行っても泳ぐわけでもなくごみ拾いをしなければいけないのは気が重かったが、明日は美術館に行ったり工房体験が出来るので楽しみだ。
それに、同じ班のメンバーに乙木を入れることが出来たのは幸運だった。
学校の校門前に駐車しているバスに乗り込むと、最後部から春斗が「空! こっちこっち」と手を振ってくる。バスの座席は基本的に自由だけど、なんとなく班ごとに固まっていた。凛と苺も同じ班なので、最後部からひとつ前の2人掛けの座席に座っている。乙木は最後部の、春斗の隣に座っていた。改めて「過去の自分、グッジョブ!」と握り拳を作る。
「おつおつ~」と軽くみんなに挨拶してから、春斗を「どいてくれ」という意味を込めた目でじっと見つめた。春斗は躾された犬のようにすぐに飛び退いて、俺は無事に乙木の隣に腰を下ろす。
「おはよ、乙木。今日から楽しみだな」
笑ってそう言うと、乙木は「うん」と頷いて、何故かカメラを構えだした。
「俺、研修中の撮影係だから。あ、そこの2人も目線こっちにお願い」
パシャリ。前の席に座っていた凛と苺が振り返ると同時に、乙木はシャッターを切る。突然のことで決め顔が作れなかったのか、凛が「はあ!? 最悪、目つぶった。ちょっと、もう一度撮りなさいよ」と乙木に突っかかっている。
乙木は文句を言うこともなく、凛に請われるがままに再びシャッターを切った。
***
目的地の海浜は、同じ県内かつ3つ隣の市にある所だったので、バスに乗って2時間も経たないうちに到着してしまった。
バスを下りてコバルトブルーの海を目にした瞬間、春斗が「海だあー!」と叫んで走り出す。担任のカナセンが「おーい。遊ぶ前にごみ拾い終わらせろよー」と、覇気のない声で春斗を注意した。そんな彼らを見て笑いながら、さあごみを拾おうと軍手をつけたその時。スマホから通知音が鳴る。アプリを開いて確認すると、弟からメッセージが来ていた。
【今日は母さんたちと温泉に行ったよ! 空にいも早く帰ってきてね】
そんな文章の下に、家族写真が添付されている。どこかの旅館の前で、ピースをしている碧生。幸せそうに微笑んでいる両親。俺がいなくても、3人だけで完璧に絵になっていた。胃がズキリとする。バスの中でポテチを食べ過ぎたせいかも。
「……乙木、ごめん。ちょっと一緒に写真撮ってくんない?」
「悪用しないなら」
「しないっての! 家族に送るだけ」
疑うようにジト目で見上げてきた乙木だったけど、俺が説明すると素直に頷いた。なけなしの良心が痛む。俺がどんな気持ちで乙木とのツーショット写真を弟に送りつけようとしたのか彼が知ったら、がっかりするだろうな。暗い考えが悟られないように、俺は乙木の肩に手を回して引き寄せた。スマホのカメラを構える。
「んじゃ、撮るぞー。はい、スパゲッティー!」
「何それ」
乙木が困ったように笑った瞬間、すかさずシャッターボタンを押した。うん、かなりいい写真だ。海と砂浜をバックに、素晴らしく絵になる乙木と、すごく仲良さそうに写っている俺。これなら碧生にもマウントが取れる――浅ましい考えだとわかっていても、3人の家族写真を見せられた時のむなしさを吹き飛ばすには、これしかない。
「送信! ありがとな、乙木」
写真を碧生に送りつけてから、【高校の宿泊研修で海に来てる!】とコメントも送った。好きな人さえ利用して弟に張り合っている自分が恥ずかしくて、乙木の目を見ずに礼を言う。乙木は何も気にしていないようで、またカメラを構えてはあちこちの写真を撮っていた。ごみ拾いをする気はゼロらしい。
「拾い終わったら花火出来るからなー、気合い入れて拾えよ。あと分別しっかりな」
カナセンの叫ぶ声が聞こえてきた。かなり広い砂浜を、クラスごとに区画分けしてごみを拾っていく。春斗と俺も走り回りながらごみを拾い集めた。凛と苺も途中までは真面目に拾っていたが、散歩にやってきた犬連れの地元民が通りがかると、ごみ袋を放り出して犬を可愛がり始めてしまった。柴犬は可愛いから仕方ないか、と彼女たちの分まで拾う勢いでごみをかき集める。全てのごみ拾いが終わる頃には、日が沈みかけていた。
「バスの出発時間までは花火を楽しんでも良い」と教師陣からのお達しが出たので、三里ヶ浜高校の1年生たちはごみ拾いのご褒美として渡された花火セットを各々嬉々として受け取っていった。
「空! どっちの花火が長く持つか勝負しよ」
「おー」
凛に手を引かれていつもの友達グループのやつらに囲まれる中、パチパチと音を立てている線香花火を眺める。苺は花火が少し怖いようで、火がパチンと小さく破裂するたびに「キャッ」と肩を縮こまらせていた。
「頑張れ、春斗2号~!」
「名前つけてんの、ヤバ」
春斗を見て、俺たちが笑っていると、またしても俺のスマホから通知音が鳴る。嫌な予感がしつつもそっと画面を見ると、やっぱり弟の碧生からだった。
【楽しそうだね! てか空にい、宿泊研修で留守にするなら母さんたちに言っとかないとだよ~。なんで帰ってこないのかなって心配してたよ】
「……ハッ、よく言うよ」
思わず、低い声が漏れた。せっかく楽しい気分だったのに、もやもやとした何かに身体ごと覆われていく気がする。
宿泊研修で日曜日まで帰らないこと、母親たちはとっくのとうに知っていたはずだ。俺の話をちゃんと聞いてさえいれば。あの人たちにとって、子供は弟の碧生だけだとでも思っているのか。
やりきれない怒りで、瞳にわっと涙が滲む。焦って拭おうと手でまぶたをこすっていると、突然「ピピッ」という電子音と共に、フラッシュの光が辺りを照らした。
「まぶし、何……」
目を細めて光の方角を睨むと、乙木がカメラを構えたままにっこりと笑っている。
「いつかのお返しだよ」
それは明らかに以前の美術室での盗撮を示唆していた。何も言い返せず、微妙な作り笑顔を向けることしか出来ない。
そんな俺を見て何を思ったのか、乙木は今しがた撮影した俺の写真をチェックしながら、ぽつりと呟いた。
「前、俺に『食いたいもん食えばいい』って言ってたでしょ。霜中にも同じことを言いたい」
「俺は割と普段から食いたいもんしか食ってないけど」
「本当の感情を隠すのがいいことだとは限らないって話だよ」
それだけ言って、乙木はふらりとバスのほうへ歩き出した。今のはもしかしなくてもあれか、「泣きたい時には泣いてもいいんだよ」的な。恥ずかしくて、ぶわあっと顔に熱が集まる。日が沈んでいてよかった。真っ赤な顔をしてる理由を詮索されずに済んだ。
その後、2回ほど春斗たちと線香花火の生き残り競争をしていたらバスの集合時間がやってきた。「もっと遊びたい」と駄々をこねる生徒たちを、カナセンは「はいはい、明日もあるでしょ」とまるでお母さんのような口調でバスへと誘導している。
今日はもう宿で飯を食って眠るだけ。宿の部屋分けは男女別の出席番号順だから、春斗とも乙木とも別の部屋だ。誰と相部屋になってもそれなりにうまくやる自信はあるけど。乙木と同じ部屋だったらもっと楽しかったのにな、と思いながらバスのステップ部分を駆けのぼった。
***
宿泊研修2日目。美術館内にある工房体験スペースに、三里ヶ浜高校1年の生徒たちが所狭しと集められている。
「――好きなガラスのパーツを選び終わったら、ピンセットでこの板の上に並べてくださいねー」
美術館の工房担当スタッフによる説明の声を合図に、俺たちは一斉に手元のガラス片をピンセットでつまみ始めた。用意されていたガラスパーツはビビッドカラーのものや淡いパステルカラーなものまであり、ころんと丸みがあり見ている分には可愛らしい。
ただ、実際にピンセットで掴むには小さ過ぎて、かなり苦戦した。ぷるぷる震える指先でピンセットを動かしては、ガラス片を取りこぼす。「だーっ、また失敗した」と、苦戦している中、同じ班の苺だけはテキパキとこなれた様子であっという間に作り終えていた。
「え、苺めっちゃうまいじゃん。すごー」
「いつも推しのトレカとかデコってるからね! 慣れてるの」
凛に褒められた苺は、珍しく得意げな顔をして言う。彼女は大のアイドル好きで、いつも使っている鞄にも可愛いマスコットキャラクターがついたケースに入ったアイドルの写真をつけていた。たまに他のクラスの女子とトレカ交換とやらをしているのを見かけたこともある。意外な才能を発揮させた苺は、学年の誰よりも早く挙手をして、スタッフに作品を預けた。電気炉で焼く工程はスタッフにやってもらうので、事実上もう完成というわけだ。周りから「おおー」と歓声が上がる。
「美術部の連中より早いのスゴくね?」
呆気に取られていた春斗が聞いてくる。乙木が隣にいるのにそんなことを聞いてくるなよ、の意味を込めて、俺は春斗の脇腹を肘で小突く。
だけど当の乙木本人はまったく気にしていないようで、黙々と紫、緑、白のガラス片を集めては何かのモチーフを作っている。
「乙木はそれ、何作ってんの」
気になってそう尋ねると、乙木は目線を目の前のガラス片から逸らさないまま「レンゲソウ」とだけ答えた。そんな花なんてあったっけ。花の名前に詳しくないので、後で調べようと心にメモしておく。
手先の器用な一部の人間を除いて、ガラス工房体験はそれなりの苦労と時間を要した。俺もやっとのことで作品をスタッフへ提出し、工房のテーブルに突っ伏す。その時、俺よりも少し後に提出しにいっていた春斗が、戻って来るなりきなくさい話をし始めた。
「さっき2組のやつらに聞いたんだけどさあ、ここで作った作品を好きな人にあげると両想いになれるらしいって」
「あははは、嘘くせー」
思わず乾いた笑い声が出てしまう。「修学旅行で告ったら両想いになれる」都市伝説の亜種かよ、と内心毒づいていたものの、周りの人間はその噂を割と信じていたようだ。ガラス作品が出来上がった人たちは続々と自分の作品を人にあげ始めている。この高校には噂に乗せられやすい人間しかいないのか?
「空、あたしの貰ってよ」
背後から抱き着いてきた凛が、甘ったるい声で言った。そうくると思ったよ。ため息を吐きたくなる気持ちを堪えて、ニッと口角を無理矢理持ち上げる。
「俺なんかでいいの?」
「空がいーの! いいから貰って」
凛は俺のてのひらへ半ば押し付けるように、青いガラスが施されたキーホルダーを置いた。中々に綺麗な仕上がりの作品だったけど、弟の名前を連想する色を目にして、どうしても複雑な感情が胸を渦巻く。正直、凛からということもあり断りたかった。だけど突き返すわけにもいかなくて、「ありがとな」と笑う。
「……そうだ。どうせならみんなでプレゼント交換みたいにしようぜ。俺のやつは春斗にやるよ」
「うわ、ふざけんなよ空~!」
「あっはは」
俺が作ったものは、作品と呼べるのかさえ微妙なレベルの、酷い出来栄えのものだった。外れくじを引いた春斗は大声で嘆く。苺はそんな春斗をスルーして、「ウチのは推しのメンバーカラーで作ったから、悪いけど誰にもあげられないよ~」と言っている。ちょうどいい。俺は今思いついたように「あ、じゃあ春斗は凛にあげたら? スプーンだから、普通に使えるしいいじゃん」なんて提案してみせた。春斗は凛のことが好きなようだから、俺の言葉にすぐ乗り気になる。
「焼きあがったら俺のあげるよ」
春斗は凛にそう言うと、えへへ、と笑う。凛は「あんがと」と短く礼を言った。
俺としてはこの2人をなんとかしてくっつけさせたいのだけど、今のところまるで進展していなかった。
***
「これから学校に着くまで、映画を流すからなー。せっかくだから見ろよ。寝たらもったいないぞ」
帰りのバスの中、カナセンの声が響き渡った。天井から吊るされたモニターの電源が入る。配給会社の宣伝ムービーが流れた後、知った顔がモニターに映った。星月アヤネだ。うわ、と思い隣を見る。予想通り、乙木は嫌そうに顔を歪めていた。そりゃそうだ。何が悲しくてこんなところでまで家族の顔を見なきゃいけないんだ、という気持ちだろう。
そしてその最悪な気分を、次の瞬間には俺も味わうことになった。途中から出て来た子役が、弟の碧生だったのだ。きっと今の俺は、乙木とそっくりの苦虫を嚙み潰したような表情になっているはずだ。
「あれ、これって『ゆきくんの朝ごはん』じゃない!? 子役時代の碧生君が出てるやつ!」
「え、マジだ。昔の碧生君、ヤバイ可愛いんですけど~」
碧生のファンらしき女子の声が聞こえてくる。うんざりして、イヤホンを両耳に着けた。何か笑える動画でも見ようとアプリを起動させる。すると、おすすめ表示で「俳優霜中碧生、次回作は意外なジャンル!」というタイトルの動画が自動再生された。
「碧生君、次に出演予定のドラマって初挑戦のジャンルらしいですね!?」
「そうなんです。今から気合い入ってます」
インタビュアーと碧生の会話が耳に飛び込んでくる。もうやめてくれよ。はあ、とため息を吐いて目を閉じる。このまま寝てようかな、そう思った瞬間、隣からトントン、と肩を叩かれた。
「寝てるとこ、ごめん」
「や、まだ寝てなかったから大丈夫。どうした?」
「これ……君に似合うと思って。貰ってくれると嬉しい」
乙木はそこまで言うと、そっと台紙にセットされたピアスを差し出してきた。見た瞬間に気づく。これ、今日の工房体験で乙木が作っていたものだ。レンゲソウの紫と白の花びらが再現されていて、売り物としても通用しそうなくらい。慌ててイヤホンを耳から取り出して乙木に向き直る。
「えっ、えっ、ほんとにこれ貰っていいのか?」
「うん」
若干、自分らしからぬキョドりかたをしたけど、乙木は突っ込むこともなく頷いた。
レンゲソウ――工房体験の時に名前を聞いてから、この花についてはひと通り調べていた。花言葉は「あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ」「心がやわらぐ」「私の幸福」だ。
乙木はどういうつもりで、この花が俺に似合うと言ったんだろう。
「あの、ありがとう、乙木。すごく嬉しいよ」
たぶん、テストで100点を取った時よりも。初めて弟とは関係ない友達が出来た時よりも、嬉しかった。鼻にツン、と涙の気配を感じながら礼を言うと、乙木は小さな笑い声をたてた。
「気取ってない時の空は、可愛いね」
「かわ……!? え、てか、今、俺の名前……」
「ああ、名字だと弟と一緒だから嫌かなと思って。霜中呼びのほうがよかった?」
「いやいやいや! 空で! ぜひ空呼びでお願いしますッ!!」
喜びのあまり、ここがバスの車内だということを完全に忘れていた。大声で叫んだ俺に、「霜中うるせえぞー」とカナセンから注意が飛ぶ。周りの席のやつらも一斉に俺たちを振り返った。
ザッと冷や汗が背中を伝う。
「すんません……」
俺は無駄にでかい身体を少しでも小さく出来るよう、しなびた野菜のように身を縮こまらせた。
乙木はそんな俺にツボったのか、手で口を押さえながら身体を震わせている。
もしかしたら、俺の醜態が見たいがためにわざと名前で呼んだのかも。でも、それでもいいと思った。乙木の唇から発せられた「空」には、それだけの価値があった。
身を小さくさせたまま、そろりと上を向く。モニターの中に映った子役時代の弟の顔が見える。碧生は、子供の頃から目鼻立ちが整っていた。キリッと凛々しいカーブのついた眉毛、ぱっちりと大きい瞳。俺と同じ両親から遺伝子を受け継いでいるはずなのに、何ひとつ似ていない。弟の顔を見るたびに、俺は特別な人間じゃないということを思い出す。両親さえいることをたまに忘れるくらいだ。どこにでもいる、吐いて捨てる程度の存在。
ちらりと、隣に座っている乙木の横顔を盗み見る。弟とはまた別種類の、美しい顔。彼も碧生と同様、特別な人間だ。
そして、そんな「特別な人間」の乙木に認められたら、俺の価値も少しは上がるんだろうか。乙木を好きだと思うたびに、歪な気持ちも込み上げてきてしまう。こんな利己的な恋、許されるわけない。ごめん、星凪。
そのまま乙木を見つめていると、視線に気づいた乙木がこちらを見て、「何?」と微笑む。
「なんでもない」
それでも乙木に救われてるなんて、勝手だよな。俺は乙木から貰ったレンゲソウのピアスをぎゅっと握り締めた。
6月に入って最初の金曜日、家に帰ると母親が嬉しそうに言った。父親の姿は見えなかったが、庭のほうからエンジン音が聞こえてくる。早く迎えに行きたくて仕方ないみたいだ。
「わかった。気をつけてね」
俺と話す時には見せたことない母親の笑顔に、胸が痛まないといったら嘘になる。でも、もう慣れっこだ。
俺は理解ある優しい長男の顔を取り繕い、両親が出かけるのを見送った。
明日から校外宿泊研修なんだけどな。1泊2日だから、帰ってくるのは日曜日の夜になる。だけど、きっと両親は碧生と過ごすことに夢中で、俺がいないことにすら気がつかないだろう。
ため息を吐いて、階段を上がる。そして、2階の奥にある弟の部屋の扉を開けた。まず目に飛び込んでくるのは、壁一面に貼られた碧生の顔写真だ。1番大きなものは、最近のもので助演として出演した映画「君と咲かない花を見る」の写真。それ以外は、子役の頃からの写真が大小様々な大きさで壁に貼られている。こんなに写真があったら、落ち着いて眠れやしなさそうだけど。そんなことを思いながら、部屋の片隅に置いてあった掃除機のスイッチを入れた。ブオッ、と掃除機にしては静かな音が響く。お高めのこのコードレス掃除機は、碧生が両親にプレゼントしたものだ。「どこまでも出来た息子だ」と父親がはしゃいでいたことを覚えてる。
時々、むなしさに襲われるんだよな。確かに、俺は兄なのに弟のように美しさや才能という、特筆したものを持たない。碧生のように大金を稼いで親孝行することもない。
だからなのか、今回の宿泊研修の費用も、中学校の修学旅行費だって、知らせたのに両親は払わなかった。悪意ではなく、「ごめん、忘れてた」という理由で。毎月それなりの小遣いを貰ってるから、払い損ねたことがないのは幸運だった。
床の掃除が終わったので、棚に飾られてるトロフィーや記念盾を手に取り、布で拭いた。輝かしい弟の功績。兄として誇らしいのに、時々叩きつけてすべてを壊したくなってしまう。
誘惑に負けてしまう前にと、俺はさっさと掃除を切り上げて自分の部屋へと戻った。
***
校外宿泊研修に出発する日がやってきた。この研修は、集団行動を学ぶため、また、早く高校生活に馴染むためという目的のもと毎年1年生を対象に行われているとか。1日目の今日は同じ県内にある海辺でのごみ拾いがメインで、夜には花火をする予定だった。海に行っても泳ぐわけでもなくごみ拾いをしなければいけないのは気が重かったが、明日は美術館に行ったり工房体験が出来るので楽しみだ。
それに、同じ班のメンバーに乙木を入れることが出来たのは幸運だった。
学校の校門前に駐車しているバスに乗り込むと、最後部から春斗が「空! こっちこっち」と手を振ってくる。バスの座席は基本的に自由だけど、なんとなく班ごとに固まっていた。凛と苺も同じ班なので、最後部からひとつ前の2人掛けの座席に座っている。乙木は最後部の、春斗の隣に座っていた。改めて「過去の自分、グッジョブ!」と握り拳を作る。
「おつおつ~」と軽くみんなに挨拶してから、春斗を「どいてくれ」という意味を込めた目でじっと見つめた。春斗は躾された犬のようにすぐに飛び退いて、俺は無事に乙木の隣に腰を下ろす。
「おはよ、乙木。今日から楽しみだな」
笑ってそう言うと、乙木は「うん」と頷いて、何故かカメラを構えだした。
「俺、研修中の撮影係だから。あ、そこの2人も目線こっちにお願い」
パシャリ。前の席に座っていた凛と苺が振り返ると同時に、乙木はシャッターを切る。突然のことで決め顔が作れなかったのか、凛が「はあ!? 最悪、目つぶった。ちょっと、もう一度撮りなさいよ」と乙木に突っかかっている。
乙木は文句を言うこともなく、凛に請われるがままに再びシャッターを切った。
***
目的地の海浜は、同じ県内かつ3つ隣の市にある所だったので、バスに乗って2時間も経たないうちに到着してしまった。
バスを下りてコバルトブルーの海を目にした瞬間、春斗が「海だあー!」と叫んで走り出す。担任のカナセンが「おーい。遊ぶ前にごみ拾い終わらせろよー」と、覇気のない声で春斗を注意した。そんな彼らを見て笑いながら、さあごみを拾おうと軍手をつけたその時。スマホから通知音が鳴る。アプリを開いて確認すると、弟からメッセージが来ていた。
【今日は母さんたちと温泉に行ったよ! 空にいも早く帰ってきてね】
そんな文章の下に、家族写真が添付されている。どこかの旅館の前で、ピースをしている碧生。幸せそうに微笑んでいる両親。俺がいなくても、3人だけで完璧に絵になっていた。胃がズキリとする。バスの中でポテチを食べ過ぎたせいかも。
「……乙木、ごめん。ちょっと一緒に写真撮ってくんない?」
「悪用しないなら」
「しないっての! 家族に送るだけ」
疑うようにジト目で見上げてきた乙木だったけど、俺が説明すると素直に頷いた。なけなしの良心が痛む。俺がどんな気持ちで乙木とのツーショット写真を弟に送りつけようとしたのか彼が知ったら、がっかりするだろうな。暗い考えが悟られないように、俺は乙木の肩に手を回して引き寄せた。スマホのカメラを構える。
「んじゃ、撮るぞー。はい、スパゲッティー!」
「何それ」
乙木が困ったように笑った瞬間、すかさずシャッターボタンを押した。うん、かなりいい写真だ。海と砂浜をバックに、素晴らしく絵になる乙木と、すごく仲良さそうに写っている俺。これなら碧生にもマウントが取れる――浅ましい考えだとわかっていても、3人の家族写真を見せられた時のむなしさを吹き飛ばすには、これしかない。
「送信! ありがとな、乙木」
写真を碧生に送りつけてから、【高校の宿泊研修で海に来てる!】とコメントも送った。好きな人さえ利用して弟に張り合っている自分が恥ずかしくて、乙木の目を見ずに礼を言う。乙木は何も気にしていないようで、またカメラを構えてはあちこちの写真を撮っていた。ごみ拾いをする気はゼロらしい。
「拾い終わったら花火出来るからなー、気合い入れて拾えよ。あと分別しっかりな」
カナセンの叫ぶ声が聞こえてきた。かなり広い砂浜を、クラスごとに区画分けしてごみを拾っていく。春斗と俺も走り回りながらごみを拾い集めた。凛と苺も途中までは真面目に拾っていたが、散歩にやってきた犬連れの地元民が通りがかると、ごみ袋を放り出して犬を可愛がり始めてしまった。柴犬は可愛いから仕方ないか、と彼女たちの分まで拾う勢いでごみをかき集める。全てのごみ拾いが終わる頃には、日が沈みかけていた。
「バスの出発時間までは花火を楽しんでも良い」と教師陣からのお達しが出たので、三里ヶ浜高校の1年生たちはごみ拾いのご褒美として渡された花火セットを各々嬉々として受け取っていった。
「空! どっちの花火が長く持つか勝負しよ」
「おー」
凛に手を引かれていつもの友達グループのやつらに囲まれる中、パチパチと音を立てている線香花火を眺める。苺は花火が少し怖いようで、火がパチンと小さく破裂するたびに「キャッ」と肩を縮こまらせていた。
「頑張れ、春斗2号~!」
「名前つけてんの、ヤバ」
春斗を見て、俺たちが笑っていると、またしても俺のスマホから通知音が鳴る。嫌な予感がしつつもそっと画面を見ると、やっぱり弟の碧生からだった。
【楽しそうだね! てか空にい、宿泊研修で留守にするなら母さんたちに言っとかないとだよ~。なんで帰ってこないのかなって心配してたよ】
「……ハッ、よく言うよ」
思わず、低い声が漏れた。せっかく楽しい気分だったのに、もやもやとした何かに身体ごと覆われていく気がする。
宿泊研修で日曜日まで帰らないこと、母親たちはとっくのとうに知っていたはずだ。俺の話をちゃんと聞いてさえいれば。あの人たちにとって、子供は弟の碧生だけだとでも思っているのか。
やりきれない怒りで、瞳にわっと涙が滲む。焦って拭おうと手でまぶたをこすっていると、突然「ピピッ」という電子音と共に、フラッシュの光が辺りを照らした。
「まぶし、何……」
目を細めて光の方角を睨むと、乙木がカメラを構えたままにっこりと笑っている。
「いつかのお返しだよ」
それは明らかに以前の美術室での盗撮を示唆していた。何も言い返せず、微妙な作り笑顔を向けることしか出来ない。
そんな俺を見て何を思ったのか、乙木は今しがた撮影した俺の写真をチェックしながら、ぽつりと呟いた。
「前、俺に『食いたいもん食えばいい』って言ってたでしょ。霜中にも同じことを言いたい」
「俺は割と普段から食いたいもんしか食ってないけど」
「本当の感情を隠すのがいいことだとは限らないって話だよ」
それだけ言って、乙木はふらりとバスのほうへ歩き出した。今のはもしかしなくてもあれか、「泣きたい時には泣いてもいいんだよ」的な。恥ずかしくて、ぶわあっと顔に熱が集まる。日が沈んでいてよかった。真っ赤な顔をしてる理由を詮索されずに済んだ。
その後、2回ほど春斗たちと線香花火の生き残り競争をしていたらバスの集合時間がやってきた。「もっと遊びたい」と駄々をこねる生徒たちを、カナセンは「はいはい、明日もあるでしょ」とまるでお母さんのような口調でバスへと誘導している。
今日はもう宿で飯を食って眠るだけ。宿の部屋分けは男女別の出席番号順だから、春斗とも乙木とも別の部屋だ。誰と相部屋になってもそれなりにうまくやる自信はあるけど。乙木と同じ部屋だったらもっと楽しかったのにな、と思いながらバスのステップ部分を駆けのぼった。
***
宿泊研修2日目。美術館内にある工房体験スペースに、三里ヶ浜高校1年の生徒たちが所狭しと集められている。
「――好きなガラスのパーツを選び終わったら、ピンセットでこの板の上に並べてくださいねー」
美術館の工房担当スタッフによる説明の声を合図に、俺たちは一斉に手元のガラス片をピンセットでつまみ始めた。用意されていたガラスパーツはビビッドカラーのものや淡いパステルカラーなものまであり、ころんと丸みがあり見ている分には可愛らしい。
ただ、実際にピンセットで掴むには小さ過ぎて、かなり苦戦した。ぷるぷる震える指先でピンセットを動かしては、ガラス片を取りこぼす。「だーっ、また失敗した」と、苦戦している中、同じ班の苺だけはテキパキとこなれた様子であっという間に作り終えていた。
「え、苺めっちゃうまいじゃん。すごー」
「いつも推しのトレカとかデコってるからね! 慣れてるの」
凛に褒められた苺は、珍しく得意げな顔をして言う。彼女は大のアイドル好きで、いつも使っている鞄にも可愛いマスコットキャラクターがついたケースに入ったアイドルの写真をつけていた。たまに他のクラスの女子とトレカ交換とやらをしているのを見かけたこともある。意外な才能を発揮させた苺は、学年の誰よりも早く挙手をして、スタッフに作品を預けた。電気炉で焼く工程はスタッフにやってもらうので、事実上もう完成というわけだ。周りから「おおー」と歓声が上がる。
「美術部の連中より早いのスゴくね?」
呆気に取られていた春斗が聞いてくる。乙木が隣にいるのにそんなことを聞いてくるなよ、の意味を込めて、俺は春斗の脇腹を肘で小突く。
だけど当の乙木本人はまったく気にしていないようで、黙々と紫、緑、白のガラス片を集めては何かのモチーフを作っている。
「乙木はそれ、何作ってんの」
気になってそう尋ねると、乙木は目線を目の前のガラス片から逸らさないまま「レンゲソウ」とだけ答えた。そんな花なんてあったっけ。花の名前に詳しくないので、後で調べようと心にメモしておく。
手先の器用な一部の人間を除いて、ガラス工房体験はそれなりの苦労と時間を要した。俺もやっとのことで作品をスタッフへ提出し、工房のテーブルに突っ伏す。その時、俺よりも少し後に提出しにいっていた春斗が、戻って来るなりきなくさい話をし始めた。
「さっき2組のやつらに聞いたんだけどさあ、ここで作った作品を好きな人にあげると両想いになれるらしいって」
「あははは、嘘くせー」
思わず乾いた笑い声が出てしまう。「修学旅行で告ったら両想いになれる」都市伝説の亜種かよ、と内心毒づいていたものの、周りの人間はその噂を割と信じていたようだ。ガラス作品が出来上がった人たちは続々と自分の作品を人にあげ始めている。この高校には噂に乗せられやすい人間しかいないのか?
「空、あたしの貰ってよ」
背後から抱き着いてきた凛が、甘ったるい声で言った。そうくると思ったよ。ため息を吐きたくなる気持ちを堪えて、ニッと口角を無理矢理持ち上げる。
「俺なんかでいいの?」
「空がいーの! いいから貰って」
凛は俺のてのひらへ半ば押し付けるように、青いガラスが施されたキーホルダーを置いた。中々に綺麗な仕上がりの作品だったけど、弟の名前を連想する色を目にして、どうしても複雑な感情が胸を渦巻く。正直、凛からということもあり断りたかった。だけど突き返すわけにもいかなくて、「ありがとな」と笑う。
「……そうだ。どうせならみんなでプレゼント交換みたいにしようぜ。俺のやつは春斗にやるよ」
「うわ、ふざけんなよ空~!」
「あっはは」
俺が作ったものは、作品と呼べるのかさえ微妙なレベルの、酷い出来栄えのものだった。外れくじを引いた春斗は大声で嘆く。苺はそんな春斗をスルーして、「ウチのは推しのメンバーカラーで作ったから、悪いけど誰にもあげられないよ~」と言っている。ちょうどいい。俺は今思いついたように「あ、じゃあ春斗は凛にあげたら? スプーンだから、普通に使えるしいいじゃん」なんて提案してみせた。春斗は凛のことが好きなようだから、俺の言葉にすぐ乗り気になる。
「焼きあがったら俺のあげるよ」
春斗は凛にそう言うと、えへへ、と笑う。凛は「あんがと」と短く礼を言った。
俺としてはこの2人をなんとかしてくっつけさせたいのだけど、今のところまるで進展していなかった。
***
「これから学校に着くまで、映画を流すからなー。せっかくだから見ろよ。寝たらもったいないぞ」
帰りのバスの中、カナセンの声が響き渡った。天井から吊るされたモニターの電源が入る。配給会社の宣伝ムービーが流れた後、知った顔がモニターに映った。星月アヤネだ。うわ、と思い隣を見る。予想通り、乙木は嫌そうに顔を歪めていた。そりゃそうだ。何が悲しくてこんなところでまで家族の顔を見なきゃいけないんだ、という気持ちだろう。
そしてその最悪な気分を、次の瞬間には俺も味わうことになった。途中から出て来た子役が、弟の碧生だったのだ。きっと今の俺は、乙木とそっくりの苦虫を嚙み潰したような表情になっているはずだ。
「あれ、これって『ゆきくんの朝ごはん』じゃない!? 子役時代の碧生君が出てるやつ!」
「え、マジだ。昔の碧生君、ヤバイ可愛いんですけど~」
碧生のファンらしき女子の声が聞こえてくる。うんざりして、イヤホンを両耳に着けた。何か笑える動画でも見ようとアプリを起動させる。すると、おすすめ表示で「俳優霜中碧生、次回作は意外なジャンル!」というタイトルの動画が自動再生された。
「碧生君、次に出演予定のドラマって初挑戦のジャンルらしいですね!?」
「そうなんです。今から気合い入ってます」
インタビュアーと碧生の会話が耳に飛び込んでくる。もうやめてくれよ。はあ、とため息を吐いて目を閉じる。このまま寝てようかな、そう思った瞬間、隣からトントン、と肩を叩かれた。
「寝てるとこ、ごめん」
「や、まだ寝てなかったから大丈夫。どうした?」
「これ……君に似合うと思って。貰ってくれると嬉しい」
乙木はそこまで言うと、そっと台紙にセットされたピアスを差し出してきた。見た瞬間に気づく。これ、今日の工房体験で乙木が作っていたものだ。レンゲソウの紫と白の花びらが再現されていて、売り物としても通用しそうなくらい。慌ててイヤホンを耳から取り出して乙木に向き直る。
「えっ、えっ、ほんとにこれ貰っていいのか?」
「うん」
若干、自分らしからぬキョドりかたをしたけど、乙木は突っ込むこともなく頷いた。
レンゲソウ――工房体験の時に名前を聞いてから、この花についてはひと通り調べていた。花言葉は「あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ」「心がやわらぐ」「私の幸福」だ。
乙木はどういうつもりで、この花が俺に似合うと言ったんだろう。
「あの、ありがとう、乙木。すごく嬉しいよ」
たぶん、テストで100点を取った時よりも。初めて弟とは関係ない友達が出来た時よりも、嬉しかった。鼻にツン、と涙の気配を感じながら礼を言うと、乙木は小さな笑い声をたてた。
「気取ってない時の空は、可愛いね」
「かわ……!? え、てか、今、俺の名前……」
「ああ、名字だと弟と一緒だから嫌かなと思って。霜中呼びのほうがよかった?」
「いやいやいや! 空で! ぜひ空呼びでお願いしますッ!!」
喜びのあまり、ここがバスの車内だということを完全に忘れていた。大声で叫んだ俺に、「霜中うるせえぞー」とカナセンから注意が飛ぶ。周りの席のやつらも一斉に俺たちを振り返った。
ザッと冷や汗が背中を伝う。
「すんません……」
俺は無駄にでかい身体を少しでも小さく出来るよう、しなびた野菜のように身を縮こまらせた。
乙木はそんな俺にツボったのか、手で口を押さえながら身体を震わせている。
もしかしたら、俺の醜態が見たいがためにわざと名前で呼んだのかも。でも、それでもいいと思った。乙木の唇から発せられた「空」には、それだけの価値があった。
身を小さくさせたまま、そろりと上を向く。モニターの中に映った子役時代の弟の顔が見える。碧生は、子供の頃から目鼻立ちが整っていた。キリッと凛々しいカーブのついた眉毛、ぱっちりと大きい瞳。俺と同じ両親から遺伝子を受け継いでいるはずなのに、何ひとつ似ていない。弟の顔を見るたびに、俺は特別な人間じゃないということを思い出す。両親さえいることをたまに忘れるくらいだ。どこにでもいる、吐いて捨てる程度の存在。
ちらりと、隣に座っている乙木の横顔を盗み見る。弟とはまた別種類の、美しい顔。彼も碧生と同様、特別な人間だ。
そして、そんな「特別な人間」の乙木に認められたら、俺の価値も少しは上がるんだろうか。乙木を好きだと思うたびに、歪な気持ちも込み上げてきてしまう。こんな利己的な恋、許されるわけない。ごめん、星凪。
そのまま乙木を見つめていると、視線に気づいた乙木がこちらを見て、「何?」と微笑む。
「なんでもない」
それでも乙木に救われてるなんて、勝手だよな。俺は乙木から貰ったレンゲソウのピアスをぎゅっと握り締めた。