ずっと、ずっと、いつまでも、隣で。

 ホームルームが終わると同時、教室は、椅子を引く音や口々に喋りだす生徒たちの声でわっと溢れ返り、開放感に満ちた騒がしさで一杯になった。
「今日どうする〜?」
「あーバイトだりい」
「そういえば、昨日言ってたあれさあ」
 掃除の準備をするもの、遊びの計画を話し合うもの、部活へ急ぐもの。窓から差し込む午後の陽射しに、生徒たちの動きに合わせて巻き上がる埃がきらきらと光っている。
(みつる)、いる?」
 背の高い人影が教室の入口から覗いた。近くにいた何人かがすぐに気づいて反応する。
「お、(いたる)じゃん。今日もお迎えか」
「王子? いや騎士?」
「いや至の場合体格的に護衛って感じじゃん? SP?」
「充ー、お迎えがきたぞー」
 自分を呼ぶ声に、充は顔を上げた。ひょい、と立ち上がると、大して中身の入っていないリュックを片方の肩に引っ掛け、机を下げ始めている掃除当番を避けながら入り口へ向かう。
「おまたせー」
 頭一つ分上にある至の顔を見上げ、にっ、と口角を上げる。
「おまえら、ほんと毎日よく飽きねえよな」
 充を呼んだ男子が半ば感心したような声を出し、充は小首を傾げた。明るく染めた髪がさらりと流れ、前髪を留めてあったピンにかぶさる。いつもの癖で毛先をつまみながら、充は答えた。
「んー? でもこれ、おれらが保育園? そんくらいん時からだからなあ。飽きるとか飽きないとかそういうのじゃないっていうか? メシみたいなもん」
「メシ……」
「なんかそれは違くね?」
「えー、そう?」
「まあ保育園からずっと一緒でそんだけ仲いいってのもスゴイよな。俺、兄貴とでももっと仲悪いもん」
「いいだろー。でも至は俺のだからな。お前らにはあげませーん」
「誰もいらねえよ!」
 笑い声と罵声を背に、ひらりと手を振って、充は教室を出る。至も後ろからついてきた。
「至、今日さ、おれ寄ってきたいとこあんだけど」
「いいよ。どこ?」
「駅前のバーガー屋。今日から月見始まるじゃん」
「あー」
 他愛ない話をしながら、生徒たちの間をぬって歩き、校門を抜ける。
「あ、充、危ない」
「お、っと」
 スマホを見ながら歩いていたせいで、前からくる自転車に気づかなかった。至が手を伸ばし、充の腰を引き寄せる。途端、おお、というようなどよめきが周囲の生徒たちから上がった。
「ん?」
 至が怪訝そうな顔をするので、充は少しおかしくなって噴き出しながら、教えた。
「なんか、おまえのこと、王子だの騎士だのって呼んでるやつら、いるんだよ」
「なんで」
「おれを護ってるように見えるんだってさ」
「……」
 至が眉を寄せて不機嫌そうな顔になる。大柄で濃い顔の至がそういう顔をするとなかなか迫力があるが、これは照れた時の顔なのを充は知っている。なかなかレアな顔なので、充の密かなお気に入りだった。
「まあおれは気にしてない、ってか、おまえとはこれが普通だから、変に気にすんなよ」
「……充が、それでいいなら」
「うんうん! 大人っ! カッコいい!」
 調子に乗って言えば、至の眉間の皺はますます深くなり、充はしばらくケラケラと笑った。

 充の思い出せる最初の記憶は、幼い自分が至と砂場で遊んでいるものだ。おそらく、保育園かそのくらいの頃のものだろう。浜辺だったのか、公園だったのか、そのあたりは怪しいが、うまく行かなくて癇癪を起こす充に、至が困った顔で、崩れた部分を直してくれる様子をくっきりと覚えている。まわりの大人にどう宥められても収まらない幼い怒りが、至が遠慮がちに手に触れると魔法のように収まった。
「至くん、いつもありがとうね」
 母親が、至にそう声をかけていた。今思えば、家が近所とは言え子ども以外に大した接点がなかっただろう至の家族も、二人のためにだいぶ融通を利かせてくれていたのに違いない。それくらい、記憶の中の充は何をするのでも至と一緒だった。
 小学校、中学校と年齢が上がっていっても、基本的な部分は変わらなかった。
「おばさん、こんにちはー!」
「ああ充くんね、いらっしゃい。至! 麦茶無くなったら作っときなさいよ!」
「分かってるってー」
 学校の帰りに至の家に寄って夜まで遊んで、夕飯の時間に帰るのが充の日課だ。
「あ、至、そういえば俺のクラス明日テストあんだけど、お前のとこもうやった?」
「ああ、今日やったやつかな」
「マジで! 教えてくれよ」
 至の部屋で、教科書を広げる。隣に座る至の頭とぶつかりそうな距離で覗き込みながら、充にはちんぷんかんぷんな例題を解説してもらう。
「……、え、今のとこ、なんて?」
「だから、xに3を代入して……」
「だいにゅう」
「いやそこからか!? やっただろ!?」
「……」
 遠い目をする充に、至ははあとため息を付いて頭の後ろを掻く。この頃には声も低くなり、背も充を追い越していた至のしかめっ面は、知らない人間が見たら怒っているように見えるだろう。けれど、充は至がこの程度で怒らないのを知っているから、あっけらかんと待つ。そうすると、やがて至は小さい頃から変わらない困り顔で、充に手を差し出してくれるのだ。
「分かった、じゃあどこまで遡ればいいか、そこからだな……」
 ちらりと部屋の時計を見上げ、ため息とともに零れた言葉に、充は満面の笑みになる。本当は、至が昨日買ったばかりの漫画雑誌の続きを読みたがっているのは、知っていた。でも、こうして自分を優先してくれることに、ちょっとした満足感を覚えてしまうのだ。
「やった! さすが至!」
 本当に嫌なことなら、至はちゃんと言ってくれる。そう分かっているからこその、わがままだった。渋面を作っていても、充がこうして嬉しそうにするのを至も嬉しいと思っているのを、充は分かっている。友達と呼べる相手は増えても、至の地位は別格であり、不動だった。

「至、志望校ってもう決めた?」
 高校受験が現実味を帯びてきた頃のことだ。模試の結果を受け取った充は珍しく、少しだけ不安になっていた。自分の志望校に対する判定についてではない。至の進学先が、自分とは当然違うだろうということに、ようやく気づいたのだ。至は優等生とまでは行かないが、充に比べれば成績はかなりいい方に入る。充としてはもちろん一緒の高校に行きたかったが、現実問題として至の学力との差はどうしようもない。
 家までの道を並んで歩きながら、見上げた至はしかし、小さく首を傾げて逆に聞いてきた。
「充は?」
「え……っと、まあおれはほら、選ぶ余地ないってか、まあそこしか無理だろうなっていうか……」
 言葉を濁しながら、充は市内の高校の名前を挙げた。家から通える範囲で受かりそうなところと言えば実質そこ一択であり、選ぶ余地がないのは自他ともに認めるところだった。
 至はきっと、もっと上のところを狙うに違いないと思っていた充だったが、至から返ってきた言葉は意外なものだった。
「そっか。なら、俺もそこ受けようかな」
「え!?」
「え?」
 逆になんでそんな驚くの、という顔をされる。
「や、てっきり至はもっと上狙うのかなって……」
「いや別に。俺特にこだわりとかないし。親も別に何も言ってないしな。じゃあ充と同じとこがいいじゃん」
「マジか……」
「え、充は俺が違う高校のほうが良かった?」
「なわけ! ってか、おれ至みたいに頭良くないから、きっと離れちゃうんだろうなって思って……」
 そこまで言って、充は口ごもった。日頃茶化して至を褒めちぎったり大げさに甘えたりするのはなんてことないのに、本気のトーンで離れたくないなんて言うのはなんだか恥ずかしくなってきたのだ。その時、頭に、ぽん、となにかが載った。至の手だった。わしわしと黙って頭を撫でる至は目元をうっすらと赤くして、けれどどこか満足そうな顔をしていた。ガキにするみたいにすんな、と喉元まで出かかった充だったが、それを見た途端、至の無口がうつったように何も言えなくなった。二人はそうしてしばらく黙って歩いた。 
「お前、付き合ってるやついないの?」
 無事至と揃って高校に進学できた充が、同じクラスだったり何かの係で一緒になったりして仲良くなった男子に、必ずと言っていいほど聞かれるのがこれだ。
「え? いないよ? なんで?」
「だってお前女子と仲いいじゃん。よく話してるし」
「まあそれはそうだけど。楽しいし。でも別にそういうのはないよ」
「好きなやつも?」
「うーん、彼女にしたいみたいのは……あんまよく分かんねえ、かも」
「マジか。まあお前いつも至と一緒だもんな。彼女がいたら逆にそれはそれで大変そうだよな」
「? どういう意味?」
「いや、いいわ、なんでもない」
 向こうから聞いてきたくせに、二言目には何故か至の名前が出て、納得されるのもいつものことだ。だから至のことを王子だの騎士だのと言われても、まあいつも一緒って意味なら実際そんなもんかもな、くらいに充は思っているし、充が気にしていないなら至も気にしないこともよく分かっている。それで、十分だった。
 夏休みが明けてすぐの定期考査が終わると、校内は一気に文化祭に向けて盛り上がりが加速する。充と至も、もれなくクラスの出し物の手伝いに駆り出されていた。もっと言えば、クラスの違う至を、充が引っ張ってきて、手伝わせていた、という方が正確かもしれない。
「至、手伝ってくれんのはありがたいんだけど。自分とこは大丈夫なのかよ」
「あー、うん。たぶん」
「たぶんって」
「いいじゃん、こっちの方が確実に作んの大変なんだからさー。至のクラスはメイドカフェなんだろ?」
「えっマジで!?」
「……喫茶店だ。一部メイド服着るやつもいるけど、俺はサイズがないから免除」
「あーね、そのサイズのはさすがに特注だもんな。見てみたくはあったけど」
「お前それ本気で言ってる?」
「あー、ちょ、ハサミ、それ取って」
 口々に適当なことを喋りながら、充のクラスの男子たちが輪になって作っているのは、お化け屋敷の通路の壁部分だった。一年生の出し物の定番である。同じく定番である喫茶店をやる至のクラスの準備はそこまで手間がかからない、と聞きつけた充が、それならと至を連行してきたのだった。
「てかさ、ダチとか呼ぶ?」
「当日? 俺は一応中学の時の友達が来るって言ってる」
「俺、彼女呼ぶ」
「うわ、出たよ」
「お前らは?」
 話を振られ、充は首を振る。もとより、当日は至と回るつもりだった。至も肩を竦めている。
「そういやさぁ、先輩から聞いたんだけど、うちの後夜祭の伝統ってやつ、知ってるか?」
 ひとりがふとそんなことを言いだした。輪の中にいた他の男子が目を合わせて首を振る。充ももちろん知らなかった。
「なにそれ」
「好きなやつを後夜祭の時に呼び出して、告るんだって。それで毎年結構カップルが誕生してるらしい」
「まじか……!」
「それって、ちなみに男女どっちから?」
「どっちからもアリなんだって」
「うわ、女子から呼び出されるとか」
「おまえ確率を考えろよ。現実は厳しいぞ」
「けどさあ、すごくない? 呼び出されてみてえー」
 にわかに場が盛り上がる。この学校の女子と男子の比率はなぜか伝統的に男子が圧倒的に多く、女子一人に対して男子が七〜八人という不均衡さだった。ちなみに市内にあるもう一つの高校はその逆で、女子が圧倒的に多い。
「でも、充とか若干ありそうじゃん?」
「呼び出される方?」
「そうそう」
「あ〜」
 急に注目を浴びて、充はへらりと笑った。
「いやー、おれどっちかって言わなくても、女子にはたぶん弟とか、下手すると面白い生き物扱いされてるだけだと思うけど」
「またまたー。だってそのピン、女子からもらったやつだろ?」
 正面に座っていた男子が、充の前髪を指さしてニヤつく。
「え」
 すると急に、なぜか今まで黙っていた至が反応して、充の前髪を凝視した。
「そうなのか」
「え、まあ、そう、だけど……」
 至からの妙な圧に、充の語尾が小さくなる。
「お、王子が追求してる」
「姫、言い訳をどうぞ」
「誰が姫だ。別にそういうんじゃねえって。あれじゃん、女子どうしでもなんかこういうの交換したりお互いにあげたりしてんじゃん。それの延長だよ。おれもおれでノリっての? わりと喜んでつけたりするからさ、面白いんだよきっと。どう考えても男としては見られてません、残念ながら」
 肩を竦めて見せれば、至は納得したのかしていないのかわからない難しい顔をして、作業に戻ってしまった。
 ——何なんだ、この空気。
 充は、長いこと一緒にいるのに、初めて、至が何を考えているのかよくわからなかった。

 何かが変だ、と充は思っている。
 バイト先のシフト表を開きながら、自然と眉間に皺が寄った。
「おまえ、バイトとかって何かすんの?」
 高校合格が決まった時、聞いたのは充だった。
「俺はうちを手伝えって言われてる」
「あー、そっか……。至んとこ、酒屋だもんな。おれ、どうしよっかなあ……バイトの求人票? とか見ても全然何がいいのか分かんなくて」
 本当は一緒にやりたかったな、と少しだけ落胆した充がため息をつくと、至も眉を下げる。
「俺も一緒にやりたかったんだけどな。でも充、明るいし、飲食とか向いてそうだけど」
「あ、マジで? じゃあそうしよかな」
 そうして充は学校からほど近いファミレスでのアルバイトが決まり、互いに週二日、同じ曜日をアルバイトに充てている。それ以外の日は、小学校の頃からそうだったように毎日一緒に帰っていた。それがなぜか急に、至がアルバイトを増やすと言い出したのだ。
「それ、彼女だよ絶対!」
「えっ」
 休み時間、いつものようにクラスの女子に呼ばれて輪の中に加わった充が、何気なくその話を出した途端、女子たちが色めき立った。
「私もその線に一票」
「えええ……」
「あー、ショック受けてる顔してるー、充くんかわいそうに」
「でもさ、ほら、至くんも普通にモテないわけないじゃん? 充くんみたいにアイドル顔ってわけじゃないけど、硬派な感じでカッコいいと思う子絶対いるよ」
「彼女……至に彼女、かぁ。まあそうだよなあ」
 そう言いながらも、充はすぐにはピンとこなかった。あの至に、彼女? いつの間に?
「てかさ、この学校じゃなかったりするかもだよね」
「あ、わかる。二高に密かにいたりしそう!」
「意外と年上だったりして」
「うわー! でもありかもそれ」
 どんどん具体的になっていく話に、充はなんだか次第に居心地が悪い気がしてきた。
「で、でもさ、なんで彼女できるとバイト増やすんだよ? 普通会う日を優先してバイト減らしたりするんじゃねえの?」
「充くん、さては彼女できたことないな? お金かかるんだよー。デートだってファミレスとかカフェとかお店はいるし、プレゼントだってするだろうし」
「至くん、そういうのすごく律儀にやりそうだよね。記念日とか」
「めちゃくちゃわかる」
 女子たちの勢いをよそに、充の心は萎れていた。はじめこそピンとこなかったが、女子たちの語るイメージを積み重ねていけば、いやでも思い浮かんでしまう。
 女の子の隣で、微笑む至。バイト代で買えるプレゼントを一生懸命選んでいる至。自転車や車から、女の子をさっと庇う、至。……そうしてもらえるのは、自分ではないのだ。そう思った時、充の胸を塞いだのは、祝福の気持ちより、やり場のない、名前のない、よくわからない感情だった。
「どしたの、充くん。おーい」
「あれ、落ち込んじゃったかな。充くんも可愛いからそのうち絶対彼女できるって!」
 目の前で手を振られて、ハッとした。あわてて、にっと笑顔を作る。
「ああ、ごめんごめん、ありがと。俺もバイト増やそっかなーって考えてたんだ。明日、シフト提出の日でさ」
「充くんのバイト先って、あそこのファミレスだっけ」
「そうそう」
「うちらも今度いこうよ」
「お、サービスしちゃうぜ?」
「いやいやバイトじゃん!」
 笑いながら、話がそれたことに充は内心ほっとしていた。
「ほんとに、増やすか……俺は別にそんなバイトつめて買うもんもねーけど……」
 昼間のやり取りを思い出しながら、部屋でひとりつぶやき、充はスマホで開いたシフト表に入力を始めた。こうやって、少しずつお互いの知らないことが増えて、大人っていうのに、なっていくんだろうか。それは、こんなに苦い気持ちになることなんだろうか。その夜、充はなかなか寝付けなかった。
 至に、彼女ができたかもしれない、という想像は、思いの外、充にとって尾を引いていた。
 ——俺にも、言いたくなかったのか。
 放課後、今日も文化祭準備のために机と椅子をよけて作業スペースを作りながら、充はそればかりを、考えていた。
 自分より先に、という気持ちや、置いていかれたような寂しさも確かにありはしたが、それよりも自分にひとことも言ってくれなかった、というショックの方が大きかった。
 ——言いふらされたくなかったのかな。でも、それって俺が言いふらすって思ったってことだよな……。
 どうやっても、悪い方にしか考えられない。無意識のうちに、自分は至にとって何でも打ち明けてもらえる存在だと思っていたことを突きつけられる。いつだって、至は自分を一番に、最優先に思ってくれているものだと思い込んでいて、しかし実際はそうではなかったのだ。そして、現実はさらに追い打ちをかけるように悪い方へと転がり始めていた。
「至は? 最近来ねーじゃん。あっちも忙しいのか?」
「……バイトなんじゃね。あんま知らないけど」
 知らないのは事実だからそう答えた。そんな充を、他の男子がもの言いたげに見つめる。
「……なに」
「おまえら、喧嘩でもしたの?」
「いや? 別に。なんもねーけど」
 言いながら、ああ、こっちには彼女情報が伝わっていないのか、と充は思う。それなら、下手に話さないほうがいいだろう。そう思った充だったが、別の男子の言葉に持っていた段ボールを取り落とした。
「あ、そういえば俺、至が二年の女子と付き合ってるって噂聞いた」
「は……?」
「あ、それ俺も聞いたかも。教室に二年の女子が至呼んでくれってきたってやつ」
「それそれ」
「あれ、その様子だと充は知らねー感じ? あ、俺らがバラしたらやばかったかな」
「まじごめん、聞かなかったことにしといて!」
 口々に謝ってくる男子たちに、かろうじて頷くが、今聞いたことが頭の中をぐしゃぐしゃにかき回している。
 ——至の彼女って、うちの二年生、なのか。
 彼女ができた「かもしれない」というところから一気に具体化した情報に、胸がぐっと潰されるような、空気が薄くなったような、そんな気持ちになる。急速に早まった鼓動は、しばらく収まらなかった。
 至の付き合っているのは、どんな人なのか。家に帰ってからも、考えるのが止められない。知ろうとすればきっと、噂になっているくらいだから、すぐに情報は手に入るだろう。けれど、同じくらい知りたくない気持ちも強かった。
 具体的に、想像してしまいそうになる。至の隣を歩く、うちの制服の女子高生。優しい目で彼女を見つめる至の姿までうっかり思い描いて、なんだかのたうち回りたくなった。
 ——てか、付き合うってなったら、そういうことも、するんだよな……。
 ごくりと喉が鳴った。想像したくないと思っているのに、頭の中の光景はどんどん先に転がっていく。あまり女の子相手に好きだの何だのという感情を強く抱いたことはないとは言え、充だって健全な男子高校生である。クラスの男子と際どい話で盛り上がることだって普通にある。けれどよく考えたら、至のそういう話を聞いたことはなかった。
 ——でも至だって、普通に俺と同じ男子高校生で……。
 そこまで思ってから、堪えられず頭を勢いよく振った。ひどくいけないことを考えたような気持ちになったのだ。今の半分以下の背丈の頃から知っている至で、そういうことを想像したら、何か越えてはいけない一線を越えてしまう気がした。胸がどきどきと音を立てている。そしてなにより、それが自分の知らない女子生徒に向けられるのだ、と思ったら、再び何とも言えない感覚が胸を塞いだ。
「やめだ、やめ」
 胸焼けのするような気分を払うように、充は声に出した。何か全く違うことをしていた方がいい。そう思って、充は何度も読んだマンガシリーズをもう一度初めから読むことにして、ベッドに寝転がった。

 悶々とした気分は解消されないまま、時間だけが進んでいた。至とは、ほとんど口をきけていない。クラスも違うし、その気になればこれだけ会話をせずに済んでしまうものなのだ、という事実に充は二重に落ち込んでいた。今までは毎日のように顔を会わせていたから、スマホでわざわざ連絡をする必要もなかった。いまさらそうするのもおかしい気がして、何もできないままでいる。
 こうなってみて一番こたえるのは、びっくりするほど何をしていいかわからない時間が多いことだった。
「うー……ひま……」
 口に出してから、また言ってしまった、と顔を歪める。部屋で寝転がって、スマホを見るともなく見ている。もうSNSの投稿は最新まで全部見てしまって、今は動画サイトのおすすめに出てくるものを片っ端から見ているが、そろそろ飽きてきた。なんでこんなに暇なんだ? と最初のうちは訝しく思ったが、答えはすぐに出た。バイトも部活もない日は、いつも至と一緒だったからだ。小学生の頃から変わらない習慣で、夕飯の時間まで漫画を読んだり、宿題を片付けたり、あるいは特に何をするでもなくダラダラしたりしていた。その時間が、ポッカリと空いた、ということだったのだ。
「……はあ」
 とうとうスマホを投げ出して、ごろりと仰向けになる。バイトを増やそうかな、と言いはしたものの、悩んだ末、結局いつもどおりの週二日で、シフトを提出した。自分まで変えてしまったら、何かが決定的になってしまうような気がして、できなかった。このまま一体どうなるんだろう、と、天井を見つめながら充はぼんやり思った。

「全員行き渡ったかー」
 がやがやとした教室で、委員会の生徒が紙束を振って見せる。文化祭当日の当番発表が行われていた。
「当日はこのスケジュールで当番だからな。サボったやつは監視付きで後片付けをやってもらうから、そのつもりで」
「うわー俺この時間かよ、昼飯どうすんだ」
「おばけが腹鳴らしてたら格好悪すぎだろ。その前に食っとけよ」
 やいやいとクラスの皆が盛り上がる中、充が考えてしまうのは、どうしたって至とその彼女のことだった。
 ——当日は彼女と、回るんだよな、やっぱ。
 自分のクラスの当番さえサボらなければ、文化祭期間中の行動は基本的に自由だ。友達が来るだの彼女を呼ぶだのと言っていた、先日の男子たちの会話が頭に蘇る。至には、結局何も聞けていない。少なくとも、充と回るつもりがないのは確かだった。
 ——お互いのクラスの連中に見つからないように、三年生のとこだけ回ったりとか……?
 考えれば考えるほど、どんどん暗い気分になってくる。少し前までは、当然のように一緒に回るものだと思っていた自分が、すごく惨めだった。
 ずっと一緒だと、勝手に思っていた。こんなに簡単に、ある日いきなり置いていかれてしまうものだなんて、考えもしなかった。おまえの彼女、今度紹介しろよ、幼馴染として挨拶くらいしときたいしな、なんて、言う自分を想像して、何故か無性に腹がたった。至の様子がおかしくなってからというもの、充は自分で自分の感情がまったく分からない。それもまた、苛立つ原因になっていた。
 ——それに、後夜祭もあるよな……。
 思ってから、思いついてしまった自分を罵りたくなった。後夜祭は最終日の夕方から夜にかけて行われる。先日クラスの男子が言っていた「告白」の伝統は、片思いをしている側の裏イベントだが、すでにカップルになっているものどうしなら、当然二人でふらりと消えるのだろうと簡単に想像がついた。
 無理だ。そう思った。シンプルに、耐えられない。かと言って、どうすればいいのかも分からなかった。そもそも何に耐えられなくて、どうなればいいのかが分からない。
 ——ていうか、そういうの考えるのは昔から俺じゃなくて至だったじゃん……。
 こうなると、いかに自分が至に甘えきっていたか、思い知らされる。分かんねえ! と投げ出そうとする充に、いつだって至は辛抱強く付き合ってくれた。もう小さい子どもでもなし、至がいなかろうが、何とかはなるのだろう。けれどそういう問題でもない気がした。
 ——至が彼女だけじゃなく、俺にも時間も作ってくれるようになればいいのか? でも、至はきっと、彼女を一番大事にする。あいつはそういうやつだし、それがあいつのいいところだから……。
 そうだ、と改めて充は思った。至がそういうやつだから、一緒にいるのが楽しかったし、至以外ではそういう気持ちにはならなかった。でも、至らしさを大事にするなら、自分の居場所がもうその隣にはないと認めることになる。今までのように気軽に家にも寄れないし、遊びに誘うこともできない。どちらかひとつを選ぶなんて不可能だ。矛盾する気持ちを解決する方法は、見つからないままだった。
 金曜から始まった文化祭は、順調に三日目の最終日を迎えていた。
「いらっしゃいませ、お二人ですね。それではこちらからどうぞ〜」
 当番が回ってきた充は、半分くらい心ここにあらずの状態でお化け屋敷の案内を行っている。
 ——あと三十分で、閉会式だ。そしたら……。
 この数日、ずっと考えていた。もし、後夜祭で、女の子と二人で何処かへいこうとする至を見かけてしまったら。
 ——思い切って、声をかけよう。本当は一人でいるところを捕まえたかったけど……。
 ここまでの間に、声をかけるチャンスが全くなかったわけではない。でも、ずっと決心がつかないまま、今日になってしまったのだ。
 声をかけて、ちゃんと説明してもらいたい。俺のことを無視するなって、迷惑かもしれないけど、やっぱりちゃんと言いたい。それくらい、したっていいはずだ。
 ようやく、今朝、そう思えた。なにより、至と、目を見て話がしたかった。このままずっと残りの高校生活を送るなんて、絶対に嫌だ。それが充の中で、一番強い気持ちだった。
「あ、あの」
 立ったまま考え事に意識が持っていかれていた充は、遠慮がちにかけられた声にハッと我に返った。斜め前に、女子生徒が立っている。顔に見覚えはないから、上級生だろうか。
「あ! すいません。お一人様ですね」
「あ、ごめんなさい、違うの。……これ」
「……えっ」
「それじゃあ、渡したから!」
 目に止まらないくらいの速さで、サッと何かを充の手の中に押し付け、その生徒は走るように去っていってしまった。手の中を見ると、押し付けられたものは、ルーズリーフを折りたたんだ紙片のようだ。
「お、お前、今の……!」
 声を聞きつけたらしいクラスの男子が入口から頭をのぞかせ、興奮した様子で充の手元を覗き込んでくる。
「ああ、何だったんだ? あの人」
「それあれだよ、後夜祭の呼び出し! おま、ほんとにもらってんじゃねーか……!」
「え、」
 固まった充をよそに、急速に教室の中を興奮したささやき声が伝っていく。充は手の中の紙片を広げた。
『十八時半に、三階渡り廊下へ来てください』
 それだけしか書いていない。名前も書かれていなかった。
「うわー、本物初めて見た」
「お前、覗くなよ」
「いいだろ、どうせ誰からのかわからないんだし」
「今の人じゃねえの?」
「いや、友達とか後輩に頼んで渡して貰うもんらしいぜ。そうじゃなきゃバレちゃうだろ」
「なるほど……」
 あまり、現実のことと思えず、ぼうっと紙切れを見つめる。
「しっかしさすが充。告白されたらOKするん?」
「えー……考えたこともなかったな……うわーめんどくせえ」
「おっま、めんどくせえって、刺されるぞ」
「いやーだってさ……」
 考えもしなかったことが急に降り掛かってきて、しかもそれはあと二時間もしないうちにやってくる。至のことで頭がいっぱいの充には、正直今誰に告白されたとしても「面倒」でしかなかった。
「でもとりあえず行かないとまずいんだろ? これ」
「だろうな。行かなかったやつの話は聞いたことないけど、まあ断るにしたって行くのが誠意ってもんじゃね」
「誠意、ねえ……」
「なにいっちょまえに憂える美少年みたいな顔しやがって」
「美少年は合ってるだろ」
「顔がいいやつが言うと否定できないからムカつくんだよなー!」
 顔がいい、と言われて、充は自分を呼び出そうとしている女子生徒のことを想像した。普段からよく話をしているような同学年の女子たちなら、こんなまどろっこしい手順を踏んで告白してくるようなことはない気がする。そうなると、話したことのない、上級生ということになる。先程紙切れを渡してきたのが上級生だろうと感じたことともその予想は一致する。だとしたら、どうやって自分のことを知って、なぜ告白してくるんだろう?
「顔、か……」
「何だよ、急に」
「いや、なんでもない」
 ちょっと顔が好みだとか、案外そういう理由だってあり得るかもしれない。そうと決まったわけではないが、何とも言えない気持ちになった。至のように、ずっと一緒にいて、知らないことなどないと思っていてさえ、こうしてすれ違うことがあるのに、と充はため息をついた。

 頑張ってこいよー、と冷やかし半分の激励を背に、充は後夜祭の会場を出て、校舎へ通じる廊下を歩いていた。すでに陽は暮れ、出入り口の灯りがついている。普段見ることのない時間帯の校舎には、後夜祭のざわめきを遠くにして、不思議な空気が満ちているようだった。この時間に呼び出して、二人きりの場所で気持ちを伝えるのはきっと特別感がある。伝統になっているのも頷けるな、とどこか冷めた気持ちで充は思っていた。
「ったく、こっちは今それどころじゃないっての」
 至は今頃どこで何をしているのだろう。鉢合わせたらどう声をかけようか、と散々悩んでいたのに、思いのほか人が多かったこともあって結局一度も見かけないままだった。
 ——彼女と、どっかでいい雰囲気にでもなってんのかな、あいつ。
 苛々と階段を足音も荒く一段飛ばしで登る。至がいたら危ないから止めろと注意してくるところだろうが、今はいないからどうだって構わない気持ちだった。
 三階に着いて歩き始めると、今まで感じなかった人の気配がそこここにするようになった。暗くてよく見えないが、どうやら、同じように相手を呼び出している生徒たちがそれぞれ教室の中や廊下の隅に互いの邪魔にならないように距離を取りながら、相手を待っているかあるいは告白の最中であるようだ。
 やがて、充は指定された渡り廊下の端にたどり着いた。この先には図書室しかない、奥まっている場所に他の生徒はいないようだった。廊下の真ん中あたりにひとり、たたずんでいる影がある。窓の外を見つめて立っていた、その女子生徒がこちらを振り向いた。
「来て、くれたんだね」
 知らない顔だったが、素直に美人だな、と充は思った。けれど感想はそれだけだった。あとは、相手には悪いけれど、どう短時間でこじれずにこの場を収められるか、そればかりだ。
「ええ、まあ」
 曖昧な返事をしたのに、その生徒は嬉しそうに笑った。少しだけ罪悪感が充の胸を刺す。
「私ね、どうしても充くんと仲良くなりたくて……」
 はにかみながら、彼女が切り出す。充も仕方なく、合わせるように頷いた。
「おれのことは、どうして……?」
「そうだよね。私が一方的に知ってただけだから。充くんって、入学式のときから、噂になってたの、知らなかった? 背が高くて硬派っぽい子と、アイドルみたいに可愛い子が入ってきたって。いつも二人一緒にいて仲良さそうで、すぐ女子の間でどっち派か、って盛り上がってさ」
「な、るほど……?」
 背が高くて硬派っぽい、というのはどう考えても至のことだ。けれど、自分たちがそんな風に注目されているとは思いもしなかった。至のことを王子だのと持て囃している連中がいるのは分かっていたけれど、上級生にまでとは思いもしない。
「でも、いつもあの背の高い子、至くんと一緒だから、なかなか話しかけるチャンスもなくて。みんな遠巻きにしてるだけだったんだよね。だから正直、呼び出しの手紙も渡せると思ってなかった。他の子からも、貰った?」
「いえ……」
「やっぱり、みんなきっと無理だろうなって諦めてたんだね。私だけ、抜け駆けしちゃった」
 悪戯が成功したような表情に、充も苦笑いしながら、内心複雑な気持ちになる。こんなことになる前に充が思っていたように、この文化祭の間も至と一緒だったら、彼女の言う通り、手紙を渡されるチャンスはなかったのかもしれなかった。
 うつむき加減に無理矢理笑う充の心中を知らないだろう、女子生徒が小首を傾げ、続けて何か言おうと口を開いたのが見えた、その時だった。
「充!」
「え……?」
 充は弾かれたように顔を上げた。静まり返った廊下の奥から、誰かが自分の名を叫んでいる。なんだ、と思う間もなく、ばたばたと大柄な影がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
「いた、る……?」
 顔は暗くて見えなくても、その姿は見間違えようがない。
「え、マジで……? なんで、」
 最後まで言う前に、みるみる近づいてきた影に思い切り腕を引かれて、充は思わずよろけた。どしん、とぶつかったものに、そのまま抱き込まれる。
「は? え?」
「ごめん、……すみません」
 最初の言葉は充に、続いたのは呆然と口を開いている女子生徒に向けられたものらしかった。
「おま、なに……」
 なぜ至がここにいきなり現れて、自分を女子生徒から遠ざけるように抱きかかえているのか、何一つ分からず充は混乱しきった声を上げる。久しぶりに間近で見る至の顔は必死の形相で、けれど、それに、なんだか場違いにどきりとした。
「至くん……?」
 女子生徒の声に、充はようやく我に返った。身じろぎすると、至の腕にはまるで充を逃すまいというように力が込められる。
「どうして、ここに……?」
 充の心をそのまま言い表したような彼女のつぶやきに、至が眉をしかめて、苦い顔になった。長年見てきたけれど、こんな苦しそうな表情は見たことがない。
「充」
「え、おれ?」
 こっちに話を振られると思わなかったから、間抜けな声が出る。けれど至は笑いもせず、苦い顔のままで頷いた。
「お前、この人……結城(ゆうき)さんと、付き合うのか」
「は……?」
「告白、されたんだろ」
「ちょ、っと待て。お前」
 何かが大きく噛み合っていないのだけは分かる。いつも落ち着いている至がこんなに暴走しているのは初めてだった。そもそも、まだ女子生徒の名前も聞いていない。結城、というのがそうらしいと、この意味不明な会話からそれだけを何とか察知する。知り合いなのかと聞けそうな空気でもない。
「どうなんだ」
「人の話を聞けよ……!」
 手のつけられない状態の至に凄まれて、充は天を仰いだ。なんなんだ。何が起こっている。一度、大きく深呼吸をして、至を睨みつけた。
「まだ何も言われてねえよ。その、これから、だった。けど……」
 すっかり困った顔の結城をちらりと見る。こうなってしまったら、彼女が一番の被害者ではないだろうか。至の質問への答えは、そのまま、結城が充に告げるはずだったことへの、答えになる。至はそれすら頭から抜け落ちている様子で、充の言葉を待っている。普段至を王子だの騎士だのともてはやしている子たちが見たら、さぞ驚くに違いない、と充は思った。
「けど……おれは、断るつもりだった」
 少し離れたところで、小さく息を呑む音がした。こんな形で言うことになるとは思わず、さすがにバツが悪くて、そちらを見られないまま、頭を下げる。
「ごめんなさい……」
「……ううん。いいの。何か、最初から分かってたっていうか、今ようやく分かったっていうか」
「えっと、それって……?」
「内緒」
 思ったよりからりとした声に顔を上げると、結城は妙に穏やかな顔をしていた。謎めいた言葉の意味を教えてくれる気はないらしく、充の顔と、後ろの至を見比べて、何だか納得したように小さく笑っている。
 はあ、と上から大きなため息が落ちてきて、腕の力が緩んだ。身体を硬くしていた充だったが、ハッとして、至を見上げる。
「で? お前は一体何なの? ちゃんと説明しろよ」
「や、その……」
 さっきまでの気迫が嘘のように、とたんに至の歯切れが悪くなる。
「んだよ、らしくねえじゃん」
「ああ、その……、少し前、結城さんに、充のことを教えてくれって言われて、話をしてたんだけど。だんだん、そうか、充はこの人と付き合うかもしれないのか、と思ったら……最初は応援してやんなきゃって思ってたし、俺がずっとつきまとってたらいけないと思って、なるべくひとりで行動するようにもしてたんだ。けど、今日、告白するって聞いて、……どうしても」
「……? 全く、何言ってるかわかんねえ」
 思ったままを言えば、深々とため息をつかれる。どうしたものか、と言いたげな顔つきにムカッとして言い返そうと口を開いた時、横から声がした。
「えっと、その……私は分かっちゃった、と思うし、先に戻るね……?」
「え? あ、その、ほんと、ごめんなさい、なんか、こいつまで……」
「いいの。至くんから聞いてて、なんとなくは、分かってたし。来てくれて、ありがとう」
 一番迷惑を被っているはずの結城が何故か清々しい顔で笑う。申し訳なさとともに、この説明だけで至の言いたいことが分かるなんて、そんなに親しかったのか、と思うと複雑な気持ちにもなった。廊下の端に小走りの背中が消えると、充は今度こそ至の腕から抜け出て、ドンと胸を押す。 
「ったく、ほんと何なんだよお前! 確かにおれは告白されてもごめんなさいって言うつもりでここに来たし、それはお前が来たからとかじゃないけど、何言ってんのか全然分かんねえんだよ。ていうか、そもそもお前の彼女はどうしたんだよ!? 置いてきたのか!?」
「は!?」
 途中まで難しい顔をして充の言葉を聞いていた至だったが、急に目をこぼれんばかりに見開いた。
「彼女? 俺の?」
「そうだよ! お前、先月終わりくらいから急にバイト増やすとか言って、俺とつるまなくなったじゃん。彼女ができたんだって、みんな噂してたぞ。教室に二年の女子が呼びに来てたって」
「あ……それは、」
「嘘つくなよ。おれ、お前にそれを隠されてたってのが、すげえショックで……っ」
「隠してないよ」
「隠してただろ!」
「落ち着け充。俺の話も聞いてくれ」
「……」
 髪の毛が逆立ちそうなほどの怒りに支配されていた充は、もう一度伸びてきた手に手を握られて、その感触に少しだけ落ち着きを取り戻した。至が充と目線を合わせて、口を開く。
「まず、俺に彼女はいない。正真正銘、誓ってもいい。それと、教室に来たのは結城さんだ。さっき、結城さんに充のことを聞かれたって言ったろ? それがその時のことだったんだよ。お前と一番仲がいいのは俺だって聞いたからって。バイト増やしたのは……結城さんから、充のことを相談されて、じゃあ俺がつきまとってたら邪魔だなって、そう思ったからだ」
 噛んで含めるように話す至の口調は、ようやくいつもの調子に戻っている。だんだんことが飲み込めてきた充には、また別の怒りが湧いてきた。
「……って、ことは。おまえ、おれに何も言わずに、勝手にひとりで決めて、おれのこと避けてたってこと?」
 自分でも驚くほど低い声が出た。至が顔をしかめる。
「そう、なるな」
「ひでえよ……おれが、どんだけ凹んだか、おまえ分かってんのかよ……」
 止める間もなく、ぼろぼろと涙が目から溢れた。ずっと堪えてきたものが決壊したみたいだった。あわててハンカチを探る至の狼狽えように、いい気味だと思う。至が涙を拭くのも、勝手にさせた。自分で拭く気も起こらなかった。せいぜい振り回されればいいんだ、なんて子どもじみた考えに頭が支配される。
「……充、ひとつ、聞いていいか」
 ハンカチを充の頬に押し当てたまま、妙に緊張した面持ちで至が静かに言った。
「なに」
「俺に彼女ができたと思って、充が凹んだのは、俺が充にそれを隠してると思ってたから? それとも、俺に彼女ができたってこと自体?」
「んー……?」
「聞き方を変えよう。もし俺に彼女ができたとして、充にそれをちゃんと話してたら、凹まなかったか?」
「それは……」
 充は、自分がひとり悶々と考えていた時のことを思い返した。あの時、自分は何に憤っていたのか。ちゃんと紹介しろよ、とも思ったが、それで自分は笑って祝福してやるつもりだったか。
「いや、おれは……たぶん、自分が置いてきぼりみたいなのが、嫌だった」
 少しずつ、よくわからなくて放置していた感情を思い起こし、言葉にしてみる。あの時は至がいなかったけれど、今は目の前にいる。分からなくなったら、きっといつものように、手を差し出してくれる。そうだ、と充は思った。
「おれ、お前が傍にいないのが、それが一番嫌だった。いつも、困ったら至に聞きたいと思ったし、お前がいない時間がすごく長くて、……それに、……」
「うん?」
「お前が、この後夜祭で彼女と二人でどっかいって、……そういうこと、すんのかなって思ったら、それもすごく、嫌だった」
 思い出してしまって、だんだん声のトーンが落ちていく。
「……充。ちょっと、こっち」
「?」
 握られたままだった手を軽く引かれ、そのまま引き寄せられた。
「な、に……」
 正面から、抱きすくめられている。さっきの、痛いくらいの力ではなくて、振りほどこうと思えばそうできるくらいで、けれどしっかりと確かめるように腕が身体に回されている。なぜか、心臓がうるさい。そういえば、さっき必死に自分を抱きしめられた時も、そうだった。そして、同時に気づいたものがある。
「至……」
 同じくらい早い心音が、押し当てられた至の胸からも、聞こえてくるのだ。
 ——なんで? 何がどうなってんだ?
 二人して、心臓をドキドキいわせながら、向かい合って、抱きしめ合っている。意味がわからないのに、離れたいとは思わない。
「充」
 耳元で響いた声に、びくりと身体が揺れた。
 ——至って、こんな声、だったっけ。
 背中がぞくり、とするような。混乱が収まらないままに、至が畳み掛けてくる。
「俺とこうするのは、嫌か?」
 そわそわするし、落ち着かないけれど、嫌ではないので頭を振った。すると少し身体を起こした至が、充の顔を見下ろすように覗き込んでくる。また心臓が大きな音を立てた。背中に回されていた手が片方離れる気配があり、そっと頭を撫でられる。そうされるのが、久しぶりだ、と思った。心地が良くて、力が抜ける。至が撫でながら、眩しい時にするように眉を寄せた。
「……俺が、今から言うことが、もしキモいと思ったら、その場で俺のこと、突き飛ばしてくれ」
「……何言ってんの? ほんと、今日のおまえ、おかしいよ」
 至の言っていることが、今日はずっとわからなくて、頭を抱えたくなる。それと同じくらい、自分は至の些細な行動にこんなに振り回されるものなのか、と情けない気持ちにもなった。
「そうだな。俺はおかしいのかも」
 そんなことを至が真顔で言ってくるから、いよいよ心細い。けれど、意味不明だと思いはしてもキモいとは思わないし、至から離れるという選択もなかったから、じっと続きを待つ。見たことのないほど真剣な表情で、至が口を開いた。
「俺も、……本当は嫌だったんだ。充に彼女ができるなら、応援して、喜ぶべきだって、頭では思ってた。けど本当は、嫌だった……そんなことしたくなかった。心の底では、お前を、取られたくないと思ってたんだ。ずっと小さい頃から何でも一緒で、それを充も当たり前に思ってくれてるっていうのが俺は嬉しかったんだって、離れようとして気づいた。ずっと俺だけでいて欲しいって、思ってたんだって」
 やっぱり、至の言葉は回りくどくて、言いたいことが分かりそうで分からない。けれど、充はそんなものより、至の目つきのほうが、よほど至の気持ちを伝えている気がしていた。外の明かりを反射して光って、充を、強く見つめている。そこに読み取ったものを、充は確かめたかった。
「なあ」
「なに?」
「おれさ、お前もよーく知ってると思うけど、バカなんだよ。難しいこと、分かんねえの。だから、はっきり言ってくれよ。おれにもわかるように」
 自分で促しておいて、心臓が爆音で打ち鳴らしている。至と自分の間の空気が、ピンと張り詰めるのが分かるようだった。今まで思いもしなかったような何かが、すぐそこに迫っている予感が、する。今から聞くことは、自分と至の関係を変えてしまうものかもしれない。それでも、聞きたかった。
「……いいのか、言っても」
「だから、言わねえと分かんねえって!」
 すう、と至が息を吸った。充もつられるように、息を呑んだ。
「……好きだ。充……お前のことが、好きだ。誰にもやりたくない」
 仄かな灯りしかなくても、至の顔が真っ赤なのが分かった。
 ——う、わあ……。
 自分から聞いたくせに、その瞬間は、反応ができなかった。目を見開いたまま身体が硬直し、口をぱくぱくとしてしまう。顔が、急激に熱くなっていく。けれど、こみ上げる感情は、紛れもなく、嬉しい、だった。
 そうか、と充は不意に思った。そうか、そうだったんだ。
「……っ、やっぱり、キモかった……よな」
 固まったまま口がきけなくなった充に、至が焦ったような顔をする。充は必死に首を横に振った。ようやく形を与えられた思いが、喉元に詰まって、うまく出てこない。
「ちがう、おれ、も……おれもだ。おれも至が、好き」
 掠れた声で、それでもなんとか言葉にした途端、至が目を大きく見開くのが見え、それからがばりともう一度抱きすくめられた。胸がいっぱいになって、息さえうまく吸えない。心臓がずっと大きな音で暴れている。
 ——そうか、これが、好きってことか……。苦しいし、胸が痛くて、泣きたくなって、でも、幸せなんだ。
 不可解だと思っていた何もかもに、納得がいった。寂しいのとも、腹が立つのとも違うそれが、どういう感情なのかずっと分からなくて、苛立っていた。
 好きだから、自分でない誰かを優先されるのが嫌だった。好きだから、一緒にいたかった。好きだから、自分だけを、見ていてほしかった。しかもそれが、お互いにだった、なんて。
 笑い出したい気持ちと泣きたいような気持ちが同時に襲ってきて、ぎゅうぎゅうと抱きつくことしかできない。一度はもう二度とこうして話すことも、触れることも、笑った顔を見ることもできないと思ったのだ。離したくなかった。
「充……顔、上げて」
 なだめるような声に、充はそろそろと顔を上げた。目が合うと、至が困ったような顔で笑う。この顔も見たことがない。今日だけで、至の知らない顔をたくさん見たなと思う。
「お前、なんて顔、してんの……」
「おまえもな」
 たぶん、これが好きな人を見る時の顔なんだな、と、ふわふわとする頭で充は思った。これを知ってるのはおれだけなんだ、と思ったら、またたまらなくなる。泣き笑いの表情で見つめ合って、それから、自然と顔が近づいた。
 うわ、ともう一度、充は心の中で叫んだ。
 ——キス、してる。至と……!
 知識は当然ある。だが実践は正真正銘、初めてだった。
 ——お、思ったより柔らかい……!
 感動に半ば呆然とする充の唇に、温かいものが、ふに、ふに、と角度を変えて押し付けられ、ちゅ、と音を立てて離れていく。
「嫌じゃない、か?」
 ぼうっとした頭に聞こえてきた声に、ようやく我に返った。まったく嫌ではない。むしろ、離れていった唇に名残惜しささえ感じていたから、充はふるふると首を横に振った。
「……、すげえ……」
 至が片手で口を押さえて、呻くように言う。
「?」
「……いや、ほんとなんだよな、これ、と思って……現実、だよな。俺の夢じゃないよな?」
「……現実じゃないと、おれも困る」
 思ったままを言えば、至がまたサッと目元を赤くして、酸欠にでもなったみたいに深呼吸をしている。
「……けど、ほんと、よかった」
 ようやく少し落ち着いたのか、至がしみじみと言う。
「何が?」
「や、正直、俺、さっきは考えるより先に走り出してて……充と結城さんが向かい合ってるの見たら、もう頭が真っ白でさ。今思えばまあまあなことしたなって……。充が結城さんをどう思ってるかもわからないのに……結果オーライだから良かったけど、後先考えないにもほどがあったよなと」
「確かに……まあ、お前らしくないなと思ったし、お前のこと王子とか騎士とか呼んでる奴らが見たらびっくりするだろうなとは思った」
 けど、それだけ必死だったってことだよな、とは言わずに、充はむずむずするような喜びを噛み締める。
「王子ねえ……まあお前の王子なら喜んでなるけど」
「恥ずかしいこと言うなよ……おれ姫じゃねえし」
「知ってる。充も誰より格好良くてかわいい王子だから大丈夫」
「おまえな……」
 恥ずかしさと色んな感情で、おかしくなりそうだった。呆れたくなるのは、自分にもだ。そんなことを言われて、バカじゃねえの、と言いたいのに、嬉しいと思ってしまっている。顔が真っ赤なのも、分かっていた。もちろん、至もだ。
 たぶん、お互い浮かれている。だって、これって奇跡みたいなものだ、と思う。ずっと一緒で、互いにこれからも一緒にいたいと思っている。それが当たり前じゃないのは、今の充にはよく分かっていた。
「でも、これでよかったんだなって、おれも思う」
「何が?」
「んー、なんていうかさ。おれは至に彼女ができたと思って、じゃあおれはどうしたらいいのってずっと思ってたわけ。彼女ができたらおまえは彼女を最優先するだろうし、それがおまえだから、そこを変えろっていうのはなんか違う。けど、じゃあおれはどうなるって、急に至と会わない生活になって、このままになるのも嫌だって、そう思ってた。どっちもなんとかする方法ってないのかなって、おれなりに悩んでたんだよ」
「お前が……」
「その、いつの間に大きくなって、みたいな親戚の子見る目はやめろ。……けどさ、今、ああ、これでいいんだって。これで俺の悩み全部解決するじゃん、って思った」
 急に、すとんと落ちてきたようだったのだ。至には至らしくいてほしくて、でも自分の傍からいなくなってしまうのも嫌だ、と思っていた。それが、至が傍にいたいのも、優先したいのも自分なら、何の問題もない。いきなり霧が晴れたような心地だった。
「ああ……そういうことか。……これでいい……俺は、これが、いい、かな」
 が、を強調して、至が目を細める。それがまた何とも言えず、くすぐったい。
「うん、おれも。おれもこれが、いい」
 こつりと額を合わせて、くすくすと笑い合う。
 ——なんか、好きって、すごいな。
 今なら、どんなものにも立ち向かえるし、何でもできそうな気がした。羽根でも生えて、飛んでいきそうだ。
 気づいてみたら、いままで思ってもみなかったのが不思議なくらい、自然なことだった。誰より傍にいたくて、傍にいてほしくて、ずっと一緒がいい。それが、好きだってことなのだ、と。それは、授業で習うような、歴史上のどんな偉い人の発見した法則より、すごいことに思えた。