ホームルームが終わると同時、教室は、椅子を引く音や口々に喋りだす生徒たちの声でわっと溢れ返り、開放感に満ちた騒がしさで一杯になった。
「今日どうする〜?」
「あーバイトだりい」
「そういえば、昨日言ってたあれさあ」
 掃除の準備をするもの、遊びの計画を話し合うもの、部活へ急ぐもの。窓から差し込む午後の陽射しに、生徒たちの動きに合わせて巻き上がる埃がきらきらと光っている。
(みつる)、いる?」
 背の高い人影が教室の入口から覗いた。近くにいた何人かがすぐに気づいて反応する。
「お、(いたる)じゃん。今日もお迎えか」
「王子? いや騎士?」
「いや至の場合体格的に護衛って感じじゃん? SP?」
「充ー、お迎えがきたぞー」
 自分を呼ぶ声に、充は顔を上げた。ひょい、と立ち上がると、大して中身の入っていないリュックを片方の肩に引っ掛け、机を下げ始めている掃除当番を避けながら入り口へ向かう。
「おまたせー」
 頭一つ分上にある至の顔を見上げ、にっ、と口角を上げる。
「おまえら、ほんと毎日よく飽きねえよな」
 充を呼んだ男子が半ば感心したような声を出し、充は小首を傾げた。明るく染めた髪がさらりと流れ、前髪を留めてあったピンにかぶさる。いつもの癖で毛先をつまみながら、充は答えた。
「んー? でもこれ、おれらが保育園? そんくらいん時からだからなあ。飽きるとか飽きないとかそういうのじゃないっていうか? メシみたいなもん」
「メシ……」
「なんかそれは違くね?」
「えー、そう?」
「まあ保育園からずっと一緒でそんだけ仲いいってのもスゴイよな。俺、兄貴とでももっと仲悪いもん」
「いいだろー。でも至は俺のだからな。お前らにはあげませーん」
「誰もいらねえよ!」
 笑い声と罵声を背に、ひらりと手を振って、充は教室を出る。至も後ろからついてきた。
「至、今日さ、おれ寄ってきたいとこあんだけど」
「いいよ。どこ?」
「駅前のバーガー屋。今日から月見始まるじゃん」
「あー」
 他愛ない話をしながら、生徒たちの間をぬって歩き、校門を抜ける。
「あ、充、危ない」
「お、っと」
 スマホを見ながら歩いていたせいで、前からくる自転車に気づかなかった。至が手を伸ばし、充の腰を引き寄せる。途端、おお、というようなどよめきが周囲の生徒たちから上がった。
「ん?」
 至が怪訝そうな顔をするので、充は少しおかしくなって噴き出しながら、教えた。
「なんか、おまえのこと、王子だの騎士だのって呼んでるやつら、いるんだよ」
「なんで」
「おれを護ってるように見えるんだってさ」
「……」
 至が眉を寄せて不機嫌そうな顔になる。大柄で濃い顔の至がそういう顔をするとなかなか迫力があるが、これは照れた時の顔なのを充は知っている。なかなかレアな顔なので、充の密かなお気に入りだった。
「まあおれは気にしてない、ってか、おまえとはこれが普通だから、変に気にすんなよ」
「……充が、それでいいなら」
「うんうん! 大人っ! カッコいい!」
 調子に乗って言えば、至の眉間の皺はますます深くなり、充はしばらくケラケラと笑った。

 充の思い出せる最初の記憶は、幼い自分が至と砂場で遊んでいるものだ。おそらく、保育園かそのくらいの頃のものだろう。浜辺だったのか、公園だったのか、そのあたりは怪しいが、うまく行かなくて癇癪を起こす充に、至が困った顔で、崩れた部分を直してくれる様子をくっきりと覚えている。まわりの大人にどう宥められても収まらない幼い怒りが、至が遠慮がちに手に触れると魔法のように収まった。
「至くん、いつもありがとうね」
 母親が、至にそう声をかけていた。今思えば、家が近所とは言え子ども以外に大した接点がなかっただろう至の家族も、二人のためにだいぶ融通を利かせてくれていたのに違いない。それくらい、記憶の中の充は何をするのでも至と一緒だった。
 小学校、中学校と年齢が上がっていっても、基本的な部分は変わらなかった。
「おばさん、こんにちはー!」
「ああ充くんね、いらっしゃい。至! 麦茶無くなったら作っときなさいよ!」
「分かってるってー」
 学校の帰りに至の家に寄って夜まで遊んで、夕飯の時間に帰るのが充の日課だ。
「あ、至、そういえば俺のクラス明日テストあんだけど、お前のとこもうやった?」
「ああ、今日やったやつかな」
「マジで! 教えてくれよ」
 至の部屋で、教科書を広げる。隣に座る至の頭とぶつかりそうな距離で覗き込みながら、充にはちんぷんかんぷんな例題を解説してもらう。
「……、え、今のとこ、なんて?」
「だから、xに3を代入して……」
「だいにゅう」
「いやそこからか!? やっただろ!?」
「……」
 遠い目をする充に、至ははあとため息を付いて頭の後ろを掻く。この頃には声も低くなり、背も充を追い越していた至のしかめっ面は、知らない人間が見たら怒っているように見えるだろう。けれど、充は至がこの程度で怒らないのを知っているから、あっけらかんと待つ。そうすると、やがて至は小さい頃から変わらない困り顔で、充に手を差し出してくれるのだ。
「分かった、じゃあどこまで遡ればいいか、そこからだな……」
 ちらりと部屋の時計を見上げ、ため息とともに零れた言葉に、充は満面の笑みになる。本当は、至が昨日買ったばかりの漫画雑誌の続きを読みたがっているのは、知っていた。でも、こうして自分を優先してくれることに、ちょっとした満足感を覚えてしまうのだ。
「やった! さすが至!」
 本当に嫌なことなら、至はちゃんと言ってくれる。そう分かっているからこその、わがままだった。渋面を作っていても、充がこうして嬉しそうにするのを至も嬉しいと思っているのを、充は分かっている。友達と呼べる相手は増えても、至の地位は別格であり、不動だった。

「至、志望校ってもう決めた?」
 高校受験が現実味を帯びてきた頃のことだ。模試の結果を受け取った充は珍しく、少しだけ不安になっていた。自分の志望校に対する判定についてではない。至の進学先が、自分とは当然違うだろうということに、ようやく気づいたのだ。至は優等生とまでは行かないが、充に比べれば成績はかなりいい方に入る。充としてはもちろん一緒の高校に行きたかったが、現実問題として至の学力との差はどうしようもない。
 家までの道を並んで歩きながら、見上げた至はしかし、小さく首を傾げて逆に聞いてきた。
「充は?」
「え……っと、まあおれはほら、選ぶ余地ないってか、まあそこしか無理だろうなっていうか……」
 言葉を濁しながら、充は市内の高校の名前を挙げた。家から通える範囲で受かりそうなところと言えば実質そこ一択であり、選ぶ余地がないのは自他ともに認めるところだった。
 至はきっと、もっと上のところを狙うに違いないと思っていた充だったが、至から返ってきた言葉は意外なものだった。
「そっか。なら、俺もそこ受けようかな」
「え!?」
「え?」
 逆になんでそんな驚くの、という顔をされる。
「や、てっきり至はもっと上狙うのかなって……」
「いや別に。俺特にこだわりとかないし。親も別に何も言ってないしな。じゃあ充と同じとこがいいじゃん」
「マジか……」
「え、充は俺が違う高校のほうが良かった?」
「なわけ! ってか、おれ至みたいに頭良くないから、きっと離れちゃうんだろうなって思って……」
 そこまで言って、充は口ごもった。日頃茶化して至を褒めちぎったり大げさに甘えたりするのはなんてことないのに、本気のトーンで離れたくないなんて言うのはなんだか恥ずかしくなってきたのだ。その時、頭に、ぽん、となにかが載った。至の手だった。わしわしと黙って頭を撫でる至は目元をうっすらと赤くして、けれどどこか満足そうな顔をしていた。ガキにするみたいにすんな、と喉元まで出かかった充だったが、それを見た途端、至の無口がうつったように何も言えなくなった。二人はそうしてしばらく黙って歩いた。 
「お前、付き合ってるやついないの?」
 無事至と揃って高校に進学できた充が、同じクラスだったり何かの係で一緒になったりして仲良くなった男子に、必ずと言っていいほど聞かれるのがこれだ。
「え? いないよ? なんで?」
「だってお前女子と仲いいじゃん。よく話してるし」
「まあそれはそうだけど。楽しいし。でも別にそういうのはないよ」
「好きなやつも?」
「うーん、彼女にしたいみたいのは……あんまよく分かんねえ、かも」
「マジか。まあお前いつも至と一緒だもんな。彼女がいたら逆にそれはそれで大変そうだよな」
「? どういう意味?」
「いや、いいわ、なんでもない」
 向こうから聞いてきたくせに、二言目には何故か至の名前が出て、納得されるのもいつものことだ。だから至のことを王子だの騎士だのと言われても、まあいつも一緒って意味なら実際そんなもんかもな、くらいに充は思っているし、充が気にしていないなら至も気にしないこともよく分かっている。それで、十分だった。