1
「お、入部希望?」
そう、最初の言葉は先輩から掛けられた。
もう、あの瞬間に俺は恋に落ちてた。
俺の初恋は同性の男の先輩だった。
写真部部長の夏目琉生先輩。
古い木造の旧校舎の部室棟で出逢った。
俺は美術部を見学しようと思って、旧校舎の狭い廊下を歩いていた。
埃っぽい廊下。
その時、ガタッガタタッと一つの部室の扉が、建て付けの悪さを主張しながら開いた。
シャコシャコシャコシャコ
小気味いい音。
その人は歯を磨きながら、部室から顔を出した。
サラサラの黒髪。
大きな二重の瞳。
プルっとした厚めの唇に歯ブラシを咥えていた。
驚いて立ちすくむ俺に視線を合わせる。
「んあ…ごめ…ちょっ…待ってて…」
「えっ?」
いや、俺はただの通りすがりの者で、隣りの美術部の部室へ見学に来たんです。
って言う言葉は、呑み込んでしまった。
その人は慌てて部室の中へ戻ると、奥にある洗面台で口をゆすいだ。
「ごめん、ごめん。部室の空気を入れ替えようと思ってて。まあ、入ってよ」
ポケットから出したタオルハンカチで口元を拭うと、奥の窓もカラカラッと開ける。
窓の外には桜の木が見えて、フワッと柔らかな風が部室の中を通り抜けていった。
俺は言葉を呑み込んだまま、引き込まれるように《写真部》の部室へ入って行った。
「あ、入部希望だったら、この入部届に名前書いてくれるかな?顧問の渡邉先生に渡しておくから」
「はあ」
「ひょっとしてまだ迷ってる感じ?あ、僕は3年の写真部部長、夏目琉生。よろしく」
「あ、俺は1年C組の大川敬です。よろしくお願いします」
「大川くんね。大川くんは写真好きなの?」
「えっと、…いえ。すみません」
「まあ、写真未経験で入部した奴がほとんどだから安心して。今は3年は俺入れて2人。2年が3人。1年はまだ入部希望は君1人」
夏目先輩は立ち上がると、電気ポットに水を入れた。
「大川くん、コーヒー飲む?紅茶とかジュースもあるけど」
「あ、コーヒー頂きます!ありがとうございます!」
部室でコーヒーを飲むなんて、俺にとっては何だか悪い事をしているような、大人の仲間入りをしたような、ワクワクする事だった。
夏目先輩が入れてくれたコーヒーはインスタントだったけど、凄く美味しく感じた。
「大川くん、背高いし、いい体してるよね。バスケ部とかサッカー部とかにいそう」
「いや、俺、ガタイだけはいいんですけど、運動は全く駄目なんです」
「なるほど。それで誘いから逃れる為に、この文化系部室が並ぶ、通称、《陰キャ長屋》へ迷い込んで来たわけだ」
「《陰キャ長屋》…」
「そう。体育会系の部室棟はグランドのとこに新しいのがあるだろ。こっちは木造のボロ校舎だからさ。まあ、俺はここの雰囲気好きだけど。あ、これも良かったら食べて」
丸いお菓子の缶の蓋をバコッと夏目先輩が開けると、中にはいろんなお菓子が入っていた。
「ありがとうございます」
俺は缶の中を覗き込んで、個包装になったお馴染みのソフトクッキーを取り出す。
「あ、俺もそれ好き。まだある?」
「あ、あと一個あります」
俺は同じクッキーを取り出して先輩に手渡す。先輩の手の平に軽く俺の指先が当たってドキドキした。
俺の高校生活は初恋と共に幕を開けた。
2
授業が終わって、《陰キャ長屋》…じゃなくて部室棟へ向かう。
部室棟には、俺の所属する写真部の他に、美術部、演劇部、放送部、イベント活動部の部室が並んでいる。
ガタッガタタッと重い部室の扉を開けると、今日も美術部部長の長谷川先輩と放送部部長の吉川先輩が来ていた。
「おー、敬、待ってたよ!」
夏目先輩が一番奥の席に座ったまま、ヒラヒラと手を振る。
「やー、大川くん」
放送部部長の吉川先輩が、相変わらずの滑舌のいいアナウンサーのような話し方で声を掛けてくる。
吉川先輩は将来はテレビの人気ニュースキャスターになるんじゃないかと周りの期待が集まるイケメンだ。
美術部部長の長谷川先輩も、ニヒルな笑顔を浮かべて、黙って片手を上げる。
この人も凄くモテる。
スラッとしたイケメンで、長めの前髪を掻き上げてキャンバスに向かう姿がミステリアスらしく、女子達が虜になっている。
「吉川先輩も長谷川先輩も、また来てるんですか?ちゃんと自分達の部活動もやって下さいね」
「絵も描いてるから大丈夫。敬のキャンバスも置いてあるんだから、いつでも描きに来いよ」
長谷川先輩が妖艶に微笑む。
「ありがとうございます。また描きに行きます」
本当は美術部に入ろうと思っていた事は言っていないけれど、絵を描くのは好きだという話をしたら、長谷川先輩が美術部の部室に俺のキャンバスや絵の具道具を置かせてくれた。
なかなか描きに行けないけど…。
暇はたっぷりあるんだけど、俺は居心地のいい写真部の部室が気に入っているし、何と言っても夏目先輩のそばになるべく居たかった。
「先輩達、コーヒー飲みます?」
「敬、ありがとう」
夏目先輩が大きな瞳を細めて微笑んでくれる。
俺の好きな笑顔。
「いいえ」
切ない感情が顔に滲み出ないように気をつけながら、俺も笑顔を返した。
「ありがとう、大川くん。今日は夏合宿の事を琉生と相談してたんだよ」
吉川先輩が言う。
「へー!夏合宿なんてやるんですね」
俺は電気ポットに水を入れてスイッチを入れた。
「そう。夏休みに二泊三日でね。陰キャ長屋のみんなで合同合宿するんだよ。敬、宮原島って知ってる?」
夏目先輩が戸棚からカップを四つ取り出しながら言った。
「いいえ。知らないです」
「毎年そこへ行くんだけど、アートの島なんだよ。島のあちこちにアーティストの作品が展示されてる」
夏目先輩はそう言いながら、インスタントコーヒーの入った瓶の蓋を開けた。
「あ、そんな島の話、聞いたことがあります。そこへ行くんですね」
長谷川先輩が、
「そ。毎年少しずつ展示が変わったり、新しい作品が増えたりするから面白いよ。プロの作品もあるし、アマチュアの作品もあるんだ」
と言って、お菓子の入った缶をバコッと開けると、吉川先輩と一緒に覗き込む。
「あー、ソフトクッキーもう無くなったか。また補充しなきゃな」
吉川先輩が呟く。
「吉川、よろしくっ!」
長谷川先輩が吉川先輩の肩をポンッと叩いた。
「長谷川、お前もしょっちゅう来てんだから、ちゃんと写真部に寄付しろよ?」
吉川先輩が長谷川先輩を睨む。
「はいはい」
「でもさ、夏合宿が終わったら、俺たちも部活引退か。なんか寂しいなぁ」
夏目先輩がフーッと溜め息をついて言った。
引退……。
先輩とこうやって部室で過ごせる日も、もうあと僅かなのか。
俺は夏目先輩がコーヒーの粉を入れてくれたカップに、ポットのお湯を注いで、みんなに手渡す。
長谷川先輩は俺からコーヒーを受け取ると、
「敬、ありがとう。…まあ、あっという間だよな。琉生は最後のフォトコンテストに出す作品、また島で撮るんだろ」
と言って、キャンディ状に包まれた塩味の煎餅を缶から取り出す。
「あ、お前、それいく?俺も狙ってたんだけどなー」
吉川先輩はそう言って、コーラの缶を模した小さな筒状の容器に入ったラムネを取り出した。
「吉川、半分食べる?」
長谷川先輩が煎餅を口に咥えて吉川先輩の口元へ近づける。
二人のイケメンが戯れあっていると絵になる。
「いらん」
吉川先輩は容器からラムネを全部手の平に振り出すと、一気に口へ放り込んだ。
その時、夏目先輩が急に立ち上がった。
「ティーンズフォトコンテスト2024!俺は今年こそ、島の朝靄の風景を撮って最優秀賞を目指したい!それで、エクソンミュージアムでの展示を勝ち取る!!」
唐突な夏目先輩の宣言に、びっくりして先輩の顔を見上げると、拳を握った先輩の大きな瞳が闘志に燃えていた。
「琉生、燃えてんなー」
長谷川先輩がポツリと呟く。
吉川先輩もボリボリと口いっぱいのラムネを噛み砕きながら頷いた。
3
連絡船がゆっくりと島へ近づいて行く。
真夏の太陽がジリジリと照りつける中、《陰キャ長屋合同合宿》のメンバーは島へ上陸した。
「わー!気持ちいいなー!」
夏目先輩が心底気持ち良さそうな声を出す。
港は案外広くて、船を降りると荷物を持ってゲートまで歩く。頭上には屋根があって、日差しを遮ってくれるから快適だ。潮風が吹き抜けていく。
「ほら、敬。あれ見て」
夏目先輩が指差す方向を見ると、ゲートの向こうに巨大な猫が肩肘をついて横向きに寝転がる姿の焼き物が見えて来た。
「よ!三毛!今年も会えたな」
夏目先輩が猫の頭を撫でる。
俺はその瞬間にシャッターを切った。
驚いてこっちを振り向く先輩。
夏の日差しに照らされたその顔にもシャッターを切る。
「敬、写真に熱心なのは写真部部長として嬉しいけど、ちゃんと作品になる写真を撮りなさいね。俺の写真撮ったって、ただの記念写真になっちゃうでしょ」
「記念写真でもいいです。だって先輩、合宿が終わったらもう引退でしょ。最後に思い出作りたいです」
「ハハッ。そっか。まあ、好きにしろよ。でもフォトコンテストの参加は部員として必須だから、ちゃんとコンテスト出品用の作品も撮るんだぞ」
「はい。分かってます」
「琉生、敬!自転車レンタルするぞ!」
長谷川先輩が小さなレンタサイクルの店の前で待っていてくれた。
自転車を借りると、とりあえずは合宿所へ向かう。
海沿いの道を自転車で走った。
砂浜にはモザイクタイルを使った雪室のような形の建物が見える。色とりどりのタイルが貼られた可愛らしい雰囲気だ。
何だかワクワクしてくる。このアートの島の作品を全部見て回りたい。
俺は意気込んで自転車のスピードを早めた。
「敬ー!そこの横道を入れ!」
後ろから長谷川先輩の声がする。
「分かりましたー!」
俺は海沿いの道から分かれた細い下り道へ入る。
「嘘だよー!」
「えぇっ!!」
みんなそのまま海沿いの道を自転車で走って行く。
俺は仕方なく自転車を降りてUターンする。けっこうな坂道だから、そのまま自転車を押しながら歩いて登った。
「敬、お疲れさん」
夏目先輩が坂の上で待っていてくれた。
「すみません。先輩、待っていてくれたんですね」
「悪いのは長谷川だろ。アイツ…。ほら行くぞ」
夏目先輩が自転車を漕ぎ出す。
俺は思わず首に下げたカメラを構えた。
カシャッ
「おい、また写真撮ってんの?行くぞー」
夏目先輩が自転車を止めて振り向く。
なんて綺麗なんだろう…。
青い空には真っ白な入道雲がモクモクと湧いていて、海はキラキラと輝いている。
自転車に跨ったままでこっちを振り向いている夏目先輩は、いつもの制服姿じゃなくて新鮮だ。
形のいい麦わら帽子を被っていて、顎の下で留められた紐が可愛らしい。紺色の半袖シャツに、カーキ色の短パンから伸びるまだ日に焼けていない白い足。細い足首。
真ん中で分けられた前髪は汗で湿って、そのかたちのいい額に張りついていた。
あの額にキス出来たら、俺、死んでもいいかも…。
自分の中に夏目先輩への強い欲望をハッキリと感じたのは、この時が初めてだった。
4
夏目先輩と合宿所へ遅れて辿り着くと、もうみんな部屋割りも決めて荷物を運び込んでいた。
「はい、琉生と大川くんは二人部屋ね。いいだろ、二人部屋は布団で雑魚寝じゃなくて、ちゃんとベットだからな」
「え?そんないい部屋?」
夏目先輩が吉川先輩から部屋の鍵を受け取る。
「ま、写真部部長なんだから堂々と使えよ。それから大川くんは、長谷川がさっきの事を反省して、二人部屋に入れってさ。自分は雑魚部屋へ行ったよ」
「ありがとうございます!」
俺は騙してくれた長谷川先輩に感謝した。夏目先輩と二人部屋。嬉しすぎる。
二人で部屋へ向かう。雑魚部屋は一階、二人部屋は二階にあった。
「去年は前の部長と副部長が使ってたから、俺は二階へ上がるの初めてなんだよ」
夏目先輩も嬉しそうだ。
「そう言えば、写真部の副部長って誰なんですか?」
「あー、鮎子か。あいつ幽霊部員なんだよ。全然来ない」
「そうなんですね」
部屋は案外広かった。
トイレに風呂場。
ベットが二つ。ソファーまである。
そして窓の向こうには海が広がっていた。
「多分、引率の先生用の部屋なんだよな。俺、こっちの壁際のベットでいい?」
「窓側じゃなくていいんですか?」
「うん。壁際の方が落ち着くから」
夏目先輩がベットへ倒れ込む。
「敬、夜のバーベキューまでは自由時間だから、島を散策して来たら?」
「先輩は行かないんですか?」
「ちょっとだけ休む。最近、受験勉強ばっかだったから体力落ちてるわ。疲れた」
「分かりました。ゆっくり休んで下さい」
俺が部屋を出ようとすると、
「敬、これ被ってけ。島の日差し舐めてるとヤバいからな」
夏目先輩が紐付きの麦わら帽子を投げてくれた。帽子の中のタグを見て驚く。
「なんかブランド物なんですけど。こんな高そうな物、借りれませんよ。汚したら怖いし」
「あー、いいの。貰い物だからさ。俺、そんなに気に入ってないし。お前の方が背も高いし、顔小さいから似合いそう。何だったらあげるよ」
「貰えませんよ!!とりあえず、じゃあお借りします!」
夏目先輩の麦わら帽子を被って、俺は島の探索へ出発した。
5
港で貰った地図に、島に点在するアート作品の場所が記されていて、各場所にあるスタンプを押せるようになっていた。
島の中は坂道も多いし、自転車を降りたり乗ったりしながら、アート作品の写真を撮り、一つ一つスタンプを集めていった。
酷く喉が渇いて、持って来たペットボトルの水はすぐに無くなってしまった。自販機を探しても見つからない。仕方なく港まで戻った。
ガコンッ
港のゲート近くの自販機で水を買う。
ゴクゴクと喉を鳴らしてよく冷えたミネラルウォーターを呷る。
「はぁーっ!美味い!」
思わず声が出てしまう。
「あの…あなた、欅高校の人?」
女性の声に振り向くと、白いレースのブラウスにジーンズ姿の綺麗な女の人が立っていた。
「あ、そうです。欅高校の合宿で、この島に来てます」
「ひょっとして、あなた写真部?」
女性は俺の首に下げられたカメラを見つめている。
「そうです」
「やっぱり。その麦わら帽子、琉生のでしょ」
「そうですけど…あの、あなたは?」
「一応、写真部の副部長。田中鮎子」
「そうだったんですね!あ、俺は一年の大川敬です。よろしくお願いします」
「まったく。私がプレゼントした麦わら帽子…」
田中先輩がイライラした様子で呟く。
「あ、合宿所へご案内しましょうか?」
「お願い出来る?私、この島初めてだから」
「みんなレンタサイクルするんですけど、田中先輩も借りますか?合宿所まで少しあるんで、歩くの大変かな」
「レンタサイクル?この荷物どうしよう」
田中先輩の足元にはキャリーケースが置いてあった。
「あ、じゃあ俺が運びます。自転車の前籠にギリギリ乗るかな」
俺は自分の自転車の前籠にキャリーケースを乗せる。少しよろけるけど、ゆっくり行けば運べそうだった。
田中先輩も自転車を借りて、二人で合宿所へ向かう。
「ありがとう。大川くん、いい人ね」
「いえ」
綺麗な人だ。
夏目先輩とどんな関係なんだろう。
こんな高価そうな物をプレゼントするくらいだから、やっぱり彼女なのかな。
そう思うと途端に胸が苦しくなった。
田中先輩と部屋へ入ると、夏目先輩はぐっすり眠っているみたいだった。
「琉生!!起きなさいよ!」
田中先輩は履いていたサンダルを脱いで、夏目先輩が寝ているベットへ上がる。
「えっ!鮎子?!」
「ふふ。来ちゃった」
夏目先輩が体を起こす。
ベットの上で見つめ合う二人を見ていられなくて、
「あ、俺、みんなの様子見て来ます」
と言って、部屋を出ようとした。
「敬、俺も行くわ。鮎子も来いよ。そろそろバーベキューの準備があるからさ」
「えー!今着いたばかりなんだから。少しここで休ませてよ」
「分かったよ。じゃあここで休んでろ。吉川に鮎子の寝る場所があるか聞いてくる」
「私は琉生と一緒の部屋でいい」
「そんなわけにいかないだろ。俺達はもう別れたんだから」
「別にいいでしょ。私はこの部屋で寝るから」
「敬、とりあえず下行こうか。鮎子、大人しくしてろよ」
俺と夏目先輩は部屋を出た。
「鮎子を案内してくれてありがとな。アイツの相手は大変だっただろ」
「いえ。良かったら俺、部屋替わりますよ?俺は雑魚部屋でいいんで」
切なすぎる。
せっかく夏目先輩と二人部屋になれたのに…。
「それは俺が困るよ。鮎子と二人はキツい」
「そうなんですか?」
「うん。一年の時に少し付き合ったんだけど、すぐにアイツの方から別れ話されて、別れたんだよ。俺達の学年の部員は俺と鮎子しかいないから、二年の終わりに一応副部長になって貰ったんだけど、今まで一切部室にも顔出さなかった癖にいきなり合宿に来るなんて何考えてるんだか…」
「先輩とよりを戻したいんじゃないですか?」
「それは無いと思うよ。あっても俺困るし…」
「お!琉生!敬!バーベキュー始めるぞ!」
食材がパンパンに入ったビニール袋を両手に持った吉川先輩がちょうど通りかかった。
「あ、吉川。あのさ、鮎子が来たんだけど、部屋ってまだ空いてる?」
「えー!鮎子来たの?!!雑魚部屋なら寝る場所なんていくらでもあるけど、男ばっかだから鮎ちゃん寝かせるわけにいかないしなー。女子部屋はもういっぱいだよ」
「だよな」
「先輩、やっぱり俺が雑魚部屋に移りますよ」
「そんなら俺も敬と雑魚部屋へ行くわ。二人部屋を鮎子に使わせてやろう」
「よし!じゃあ、琉生と大川くんでバーベキューコンロ組み立ててくれる?」
「分かった!」
「りょーかいです!」
6
すっかり辺りは暗くなった。
合宿所の小さな広場でバーベキューが始まる。
俺と夏目先輩は、二人でせっせと肉を焼いていた。申し訳程度にしか無かった野菜類は、焼いて紙皿に乗せておくと、そのまま冷めていった。やっぱりみんなの狙いは肉やフランクフルトだ。
「敬、お前もちゃんと食べろよ?」
「大丈夫です。食べてますから。すみません、先輩に手伝わせてしまって…」
「仕方ないよ。うちは一番部員数少ない上に、本来なら肉焼くのは一年の仕事なんだけどさ、うちの部の一年はお前だけなんだから。二年の三人なんて塾があるからって合宿来ないし」
「仕方ないですね。俺は夏目先輩と一緒にバーベキューやれて凄く嬉しいんで、全く問題無いです」
「ハハッ、可愛い奴だな!」
「先輩、鼻の頭に炭が付いちゃってますよ」
俺は先輩の鼻の頭を指で拭う。
「何イチャついてんのよ」
「鮎子」
いつの間に来たのか、田中先輩が立っていた。
「私も何か食べていい?」
「あぁ、ここの肉はもう焼けてるぞ」
「あー、私はこの焼き野菜でいいわ。今ダイエット中だし」
田中先輩は紙皿の上で冷めていたピーマンと玉ねぎ、椎茸に焼肉のタレを掛けて食べ始めた。
「炭火で焼くと何でも美味しいわね」
「まあ、鮎子がそれでいいなら」
だいぶみんな食べ終わって、まったりした空気になってきた。
「田中先輩、何か飲みますか?烏龍茶か、オレンジジュース、コーラがあるみたいです」
「常温のミネラルウォーターがあるといいんだけど」
「見て来ます」
俺は荷物が集めてある場所へ見に行く事にした。ガサガサとクーラーボックスの中を探すと、2リットルのミネラルウォーターのペットボトルを見つけた。
「ありましたー」
と言って俺が戻ると、夏目先輩と田中先輩が険悪な雰囲気で見つめ合っていた。
「あ、失礼しました…」
俺は近くのテーブルにペットボトルをそっと置くと、その場を離れようとした。
「敬!待って。俺も行く」
すると、夏目先輩が追って来た。
「大丈夫なんですか?」
「うん。もういい。敬、ちょっと散歩付き合ってよ」
「はい」
7
二人で合宿所を出て、砂浜へ行く。
サラサラの砂を踏み締めて、しばらくは二人とも黙って歩いていた。
空には綺麗な三日月が浮かんでいる。
海は月の光に煌めいていた。
しばらく歩くと、雪室型のアート作品の場所へ辿り着いた。
モザイクタイルの間に小さな光る石が埋め込まれていて、ぼんやりと光っている。
「蓄光石が埋め込まれてるんだよ」
夏目先輩がボソッと教えてくれた。
「蓄光石?」
「うん。昼間に紫外線を吸収して、夜になると光る人工の石だって。幻想的な光だよな」
「そうですね」
作品鑑賞用のベンチに二人で並んで座った。
海と月と、ぼんやりと光るアート。
打ち寄せる波の音。
不思議な空間。
そして隣には大好きな夏目先輩。
「敬、お前は好きな人とかいるの?」
「何でですか?」
突然の先輩の質問にドキドキする。
「いや、あんまりそうゆう話をした事なかったなぁと思って」
「好きな人くらいいますよ」
「そっか。そうだよな」
「田中先輩に何か言われたんですか」
「まあ」
夏目先輩はベンチに座ったまま、両手を組んでグーっと伸びをした。
先輩の喉元が白く艶かしくて、思わず目を逸らす。
俺、今日なんか変だ。
先輩に触れたくて堪らない。
「あー!!敬!生きるってめんどくせーな!」
「先輩何言ってるんですか」
「鮎子がさ、俺は淡白過ぎて嫌だったんだって。一緒にいると不安になったんだってさ」
「はあ」
「そう言われてもな。……鮎子には悪いんだけど、確かに鮎子と一緒にいてドキドキした事とか無かった。キスとかセックスとか、興味はあったけど、こんな感じなんだな、くらいだったし」
「そ、そうなんですね。すみません、俺は何にも経験無いんで、よく分からなくて…」
「そっか。悪いな。なんか変な話しちゃったな。……さっき鮎子がさ、俺の事ゲイなんじゃないかって言いやがった。俺は別に男が好きなわけじゃないのに」
俺は胸が痛くなった。
ほんとにこうゆう時って、胸が痛くなるんだな、とぼんやり思う。
「先輩、じゃあ、試しに俺とキスしてみますか?」
今日の俺はどうもおかしい。
よく考える前に言葉が先に出てしまった。
「え?」
俺は先輩の顔を見つめると、その顔に嫌悪感や戸惑いの感情が現れていない事に意表を突かれる。
先輩はただその大きな瞳を見開いて、俺の顔を見ているだけだった。
俺は先輩の顔を両手で包み込む。
ずっと夢見ていた。
こんなふうにこの人の顔に触れる事を。
「敬、」
先輩の口から次の言葉が出てこないように、俺は先輩の唇にキスをした。
先輩の唇は柔らかくて、もっと味わいたくて、俺は歯止めが効かなくなった。先輩の唇を夢中で押し開く。温かな口の中に舌を押し込んで先輩の舌を吸う。先輩の舌も唇も一緒くたに食いつくようにして味わった。
「んっ…敬っ!ハァッ…」
我に返って先輩から離れる。
先輩も俺も息を切らしていた。
俺を見る先輩の目は甘く潤んでいるように見えた。
「すみません…俺、止まんなくなっちゃって…」
「あ…うん」
「もう…戻りますか?」
「そうだな」
先輩と俺は、黙って来た道をゆっくりと戻った。
合宿所へ着いて、雑魚部屋へ行くと、布団が敷き詰めてあって、みんな思い思いの格好で眠っている。
洗面所には使い捨ての歯ブラシが置いてあったから、二人並んで歯を磨いた。
雑魚部屋へ戻ると、お互い離れた場所に空いている布団を見つけて横になる。
夢だった、じゃ、済まされない事をしてしまった。
でも…先輩とのキスは…夢のように気持ち良かった。
8
眠れないかな…と思っていたけど、昼間の島散策の疲れもあったのか、俺はいつの間にか意識を失っていた。
やがて深い眠りから覚めると、雑魚部屋はまだ眠りに満ちていて、だけど夏目先輩が寝ていたはずの布団には誰も寝ていなかった。
俺は布団から出て、部屋の廊下へ出る。
玄関まで行ってみたけど、人の気配は無かった。昨夜、夏目先輩と海から戻って来て、並べて入れた靴箱の靴が、夏目先輩のだけ無くなっていた。
そう言えば、島で朝靄の風景を撮るって先輩は言っていたっけ。
俺は慌てて雑魚部屋へ戻ると、昨夜枕元へ置いたカメラを持って外へ出た。
早朝の島の風景は昼間とは様変わりしていて、辺り一面に濃い白い靄が掛かっていた。
俺は昨日一人でアートスタンプラリーをした道を自転車で通り抜ける。
夏目先輩が朝靄の風景の作品を撮るとしたら、どこへ行くのか。
やっぱり森の中じゃないか…。
毎年、この島の朝靄の風景を写真に撮りたくて、合宿の朝は早起きしていた。
少し冷んやりした朝の空気。
今年こそは綺麗な朝靄を写真に収めるんだ。
自転車を遊歩道に停めると、森の中へ入って行く。
《すみません…俺、止まんなくなっちゃって…》
急に昨夜の敬の顔が浮かんで、思わず立ち止まる。
あのキス。
欲望に溢れた激しいキスだった。
あんなふうに人に求められる事なんて無かったから驚いたけど、でもそれ以上に俺の中の何かが呼び覚まされるような感覚があった。
敬に強く抱きしめられたら…俺はどうなってしまうんだろう。
パキパキッと地面に落ちた小枝を踏み締める。
朝靄が立ち込める森の中に光が差し込んできた。
何本も森の中に落ちてくる光の筋。
どこだ。
どこを撮れば、この美しい風景を伝えられる?
大きな木に生い茂る緑の葉の間から降り注ぐ乳白色の光。
沢山の細い枯れ枝が白い靄の中に線描を渦巻かせる様子。
大きな倒木に差し込む日の光は悲しげにも映る。
緑の苔に覆われた枯れ枝が、朝靄に覆われた空に向かって手を伸ばしている姿。
夢中でシャッターを切る。
カチャン
その時、自転車を停める音が後ろから聞こえた。
振り向くと、敬がいた。
俺の邪魔をしない為か、こっちには来ない。
首にカメラをぶら下げたまま、写真を撮るわけでもなく、自転車のハンドルに片手を乗せて真っ直ぐに俺の方を見ている。
俺は思わず敬にカメラを向けてシャッターを切っていた。
「敬、おはよ」
「先輩、おはようございます。すみません。邪魔しちゃって」
「いいよ。もう、どこを撮っていいのか分からなくなってた」
俺は近くの倒木に腰掛ける。
「自然の風景を撮るって難しいんだよ。絶対にこの場にいて、この目で見た物が一番綺麗なんだ。それを写真で伝えるなんて無理なんだよ」
「そうかも知れないですね」
敬も隣りにやって来て座る。
昨日までのように普通に敬の顔を見れない。
二人で黙って、朝靄が日の光に静かに溶けて消えていくのを見ていた。
日の光は強くなって来て、まるで生まれ変わったかのように木々の葉を輝かせる。
森が目覚める。
チュンチュンと小鳥達も朝を告げる。
「今年も傑作は撮れなかったな」
俺は立ち上がった。
敬も立ち上がる。
「現像してみないと分かりませんよ。先輩、集中して写真撮ってたじゃないですか」
「うん。まあ、焼いてみるよ」
二人で見つめ合う。
敬の視線が熱い。
「夏目先輩、俺、ずっと先輩の事好きだったんです。初めて部室の前で会った時から。一目惚れでした」
そう、初めて会った時から、敬の真っ直ぐな視線を感じていた。
その目で見つめられると何だか落ち着かなかった。
でも、敬はいつも穏やかにそこに居て、一緒にいると安心出来て、その視線さえも心地良くなっていった。
「敬」
「はい」
「俺もお前の事が好きだよ」
「ほんとに?」
「うん」
敬の体の温度が俺の体を包んだ。
俺はそれじゃあ物足りなくて、ギューッと敬の体を抱きしめる。
敬も俺の体をギューッと抱きしめてきた。
「あっ…」
思わず声が出てしまう。
敬が腕を緩めて俺の顔を覗き込むと、優しく微笑んだ。
俺の少し汗ばんだ額に敬がチュッとキスをする。
「夢みたいです。俺もう死んでもいいかも…」
敬の目にうっすら涙が浮かんでいた。
「まだ死ぬのは早いだろ」
俺は少し背伸びをして敬の唇にキスをした。
敬は俺の後頭部を優しく両手で包み込むと、熱くて長いキスをする。
俺の体ごと敬に持っていかれるような、脳みそが蕩けるようなキス。
森の中を涼しい風が通り抜けていく。
でも、どんな風も俺達の熱を冷ます事は出来なさそうだった。