「お父さん、お母さん、何で……?」
世都は呆然としてしまう。龍ちゃんも驚いた表情でフロアに出て来た。
「まず、俺の正体を言うとくわ」
高階さんは言うと、紫色のボディバッグから黒い名刺入れを取り出し、世都に名刺を差し出した。
「中津リサーチサービスの、高階誠と言います」
世都は名刺を見つめ、龍ちゃんも横から覗き込む。ゴシック体を主体とした分かりやすい名刺だった。
住所を見ると大阪市の中津だった。岡町からだと阪急電車宝塚線1本で行ける。時間にして15分ぐらい。どちらも普通電車しか停車しないこともあり、行き来しやすい。
「リサーチサービス、て、調査会社ですか?」
「そう。浮気調査から企業調査まで何でもやる会社や。小柳さんと坂道さんは、うちの大事なクライアントやねん」
「クライアントて、え、高階さん、うちの両親に頼まれて、うちのお店を調査しとったってことですか?」
「それはちょっとちゃう。「はなやぎ」の経営状態とか、そんな大層なことや無くて、ただ単に女将と龍平くんの様子を見とっただけや」
「どういうことですか?」
世都も龍ちゃんも戸惑いを隠せない。両親は一体何がしたいのか。調査会社に頼んでまで、どういうつもりなのか。
世都は怪訝にしか思えなかった。
家のことや子どものことを何もしない、やろうとしない両親が、子どもたち、要はお世話をしてくれる人と離れて困っているだろうとは思っていた。
だが少なくとも世都は、そのままお父さんの身の回りのことをし続けて、果ては介護を、なんてつもりは無かった。お父さんや世都に迷惑を掛けたく無いと、潔く高齢者住宅に移ったお祖父ちゃんお祖母ちゃんを見ていたこともあるのだろう。
何より親として子どもである世都にあまり関わらなかったことで、世都の中にはお父さんの面倒を見続けることができるほどの情ができあがらなかったのだ。
子どもが無条件に親を求めるのは、小さな間だけである。物心がつき、自分の意思を持つ様になると、親のあり方を見て判断する様になる。そのとき子どもが親をどう思うかは、それまでの親の行動に反映されるのだ。
親子だから必ずしも気が合うわけでは無いし、大人になっても親の呪縛に囚われることだってあるだろう。親子によって様々な関係性があるはずだ。
だから世都がお父さんを置いて実家を出たことも、そのうちのひとつである。お父さんはお世話をしてくれる人がいれば、全力でそれに寄り掛かる人だ。かつてはお祖母ちゃん、そしてそれは世都に引き継がれた。それではだめなのだ。
きっと、龍ちゃんもそうだったのだろう。お父さんとお母さんは似た者夫婦だった。龍ちゃんもお母さんに寄り掛かられていたのだと思う。経済的な心配が無かっただけ幸いだったが、世都も龍ちゃんも家政婦では無い。学校があり、やがてはお仕事があった。夫婦ですら共働きなら分担するものを、丸投げされるのはたまったものでは無かった。
世都がいなくなれば、いよいよお父さんも自分のことは自分でする様になるだろう。もしくは家政婦さんにでも来てもらうだろう。そう考えるのは不自然では無かった。実際はしばらくはヘルプの電話が来たわけだが。そして世都はそれをスルーし続けたのだが。
冷たいと思われるだろうか。だが世都は自分の中に冷酷な部分があることを自覚している。気遣いや思いやりは大事だと思うが、甘やかすのはいけない。その線引きは大事だ。
そうは言っても、世都は、そして龍ちゃんはお父さんお母さんとの親子関係を放棄した様なものだ。それを恨みに思われていても仕方が無いと思っている。
しかしあらためてふたりを見ると、身なりは綺麗に整っている様に見える。ふたりともロングコートを着込んでいるが、汚れやほつれなども見えないし、ぱりっとしている。自分で整えているのか、家政婦さんに来てもらっているのか、それともあらたな連れ合いなどを見付けてお世話をしてもらっているのか。
どれであっても構わないとは思うのだが。でもパートナーを見付けたのなら、できるなら一言あっても良かったのでは、と思うのは身勝手だろうか。
「高階さん、私から言うわ」
お父さんがおずおずと声を出す。その声には張りが無く、後ろめたさを感じてしまう。
「世都、龍平、実はな、私ら、先々やけど、再婚することにしたんや」
「……お父さんと、お母さんが?」
「そうや」
「は?」
「へ?」
世都と龍平は揃って素っ頓狂な声を上げ、目を剥いた。
「と、とりあえず座ろか。烏龍茶でええ?」
驚きつつも世都はキッチンに入り、龍ちゃんがお父さんたちをソファ席に案内してくれる。お父さんとお母さんはおぞおずと奥に座り、高階さんは飄々とカウンタの1席に腰を降ろした。
お父さんはあらためて口を開く。
「私もめぐみも、今年定年退職するんやけどな」
ああ、両親ももうそんな年齢か。昨今は65歳定年の企業も増えているそうだが、確かお父さんとお母さんが勤めている会社はそれぞれともに60歳だったはずだ。そんな記憶がある。ちなみにめぐみとは、お母さんの名前である。
「私が6月で、めぐみが4月や。せやからもう、ここ何年かぐらいからゆっくりと引き継ぎを始めて、もう今は長期の大きな仕事は回ってこん様になっとる。そうなったら前より時間ができてな、……考える様になったんや」
お父さんは言葉を切ると、お母さんに気遣わしげな視線を送った。
「このままひとりで、寂しい老後を過ごすんやろかって」
そうだ、もう老後を見据えても良い歳だ。今はまだばりばりお仕事ができるほど元気だが、身体だってじわじわと自由が利かなくなって行くかも知れない。
矍鑠としている人を見かけることも多いし、テレビで鉄棒の大車輪をしているお爺ちゃんを見たときには目を剥いたりもしたが、自分の両親がどうなるかなんて分からない。予想なんてできるわけが無いのだ。
「私もめぐみも、先々は両親、あ、世都らにとっては祖父ちゃんたちみたいに施設とか高齢者向けのに行こうと思ってる。親父たちを見て、私らも世都らに迷惑掛けられへんと思ってな」
お父さんのこの言葉に、世都は少なからずほっとしてしまった。冷たいだろうか。だがやはり、世都とお父さん、お母さんの間には、信頼関係があまり築けていないのだ。龍ちゃんもきっとそうだと思う。
「でもな、ふと思ったんや。今までずっと仕事ばっかりの私らに、何が残されてるんやろうって」
お父さんは苦笑する。いや、お仕事に邁進していれば、それなりの成果だってあるだろう。慕う人だっていると思う。確かにお父さんとお母さんは親としての評価は難しいかも知れないが、お仕事では相応のものが生み出されているのでは無いのか。
「世都も龍平も、ここ近年姉さん、あ、伯母さんの家に行ってるやろ、正月と盆に」
「うん。お邪魔さしてもろてるけど」
それは、一応世都からもお父さんに連絡だけはしていたことだ。伯母ちゃんはお父さんのお姉さんだから、義理のつもりで知らせていた。
きょとんとした世都に対して、お父さんは何度目か分からない苦笑を浮かべる。
「姉さんからも連絡もろたんや。これから私とめぐみがどうなろうが知ったこっちゃあらへんけど、世都と龍平はそうもいかん。親代わりやなんておこがましいけど、血縁としてできることをやる。あんたらは邪魔すんな、って」
さすが伯母ちゃん。情が厚くて辛辣だ。義理と責任を果たさないお父さんたちはばっさりと切り捨て、寄る辺を無くした世都たちには手を差し伸べてくれるのだ。
世都も龍ちゃんも、実家を出たときにはとうに成人していたのだから、自立していて当たり前だ。だがいざというときに頼れる先が姉だけ、弟だけだという状況。親は健在なのに当てにならないなんて。
世都たちにとってそれは当然の世界ではあったが、伯母ちゃんから伸ばされた手は、世都たちを癒してくれたのだ。
「そんときは、何も思わんかった。私もめぐみも忙しかったから、休めるときには休みたかったし、勝手にやっとってくれたらええわって。でも少し余裕が出て来たらな、世都と龍平のことを思い出したんや」
思い出したって。世都はつい苦笑いしてしまう。この両親に親としての役割りを期待していたわけでは無いが、ほとんどの親というものは、いつでも子どもを思っているものでは無いのか。それともそれは世都の幻想なのだろうか。
お父さんもお母さんも、すっかりと肩を落としてしまう。お母さんはまだ一言も発していないが、気持ちはお父さんと同じなのだろう。
「世都が産まれたとき、龍平が産まれたとき、どっちもめっちゃ嬉しかったんや。可愛くてなぁ。それやのに何でこんなことになってしもたんかなぁって」
それはお祖母ちゃんたちからも聞いてはいた。確かに産まれたばかりの我が子は愛おしかったのだろう。だがきっとふたりは、それと育児の現実が直結しなかった。自分たちがしなければならないことなのに、押し付けあっていたと聞いていたから、自分ごととして捉えてはいなかったのだろう。あくまで世都の想像でしか無いが。
「世都、龍平とこの店始めるとき、知らせてくれたやろ」
「うん」
それも子としての義理だと思ったからだ。お母さんへは龍ちゃんが知らせたはずだ。
「ふたりがどんな店しとんのか、どないしとんのか気になって、高階さんとこに相談したんや」
「うん、そっからが俺の出番やな」
世都が視線を向けると、高階さんは軽い調子でにっと口角を上げた。
「まずは小柳さん、お父さんからうちに依頼があったんや。ただ女将と龍平くんが元気でやってはるか、それが知りたいて言わはってな。せやから担当になった俺が、客として来ることにしたんや」
高階さんが「はなやぎ」に来る様になったのはいつのことだっただろうか。来店があまりにも頻繁で、もう開店当初からのご常連の様な気がしてしまっているが、正確には1年、いや、2年前だったか。
「で、週に1回、元気にしてはって、居心地のええ店で日本酒豊富で料理も旨くて、サービスでタロット占いまでしてもらえて、経営は順調そうやって、SNSで知らせるぐらいやな。まぁ俺もついついそれに釣られてしょっちゅう来てしもたんはご愛嬌や。さすがに全額経費にはしてへんで。それぐらいの遠慮はあるわ」
高階さんは言って、からからと笑う。
「せやから心配いりませんよーって」
「そうや。それで私は安心しとった。で、一応と思ってめぐみにも知らせたんや。そしたらめぐみも世都たちのこと気になっとったて言うて、自分も調査料払うから、こっちにも知らせて欲しいて」
「……私、龍平に家出てかれて、最初は腹が立ってしょうがなかった」
やっとお母さんが口を開いた。
「両親が高齢者住宅に行ってしもて、親ひとり子ひとりになってしもて、それからはふたりで支え合って生きて行かなって思っとった。それやのに私を見捨てて出て行くんかって」
一体龍ちゃんは実家を出るとき、お母さんに何と言ったのだろうか。龍ちゃんのことだからそうきつくは無いはずだが。気にはなるが、口は挟まず言葉を待った。
「でもな、自分で自分のことせなあかん様になって、仕事しながらってほんまに大変で、あっちゅう間に家は荒れたわ。家を整えるんて、ほんまに大変なんやなぁて、あの歳になって初めて知った。私、それを龍平に押し付けとったんやって。龍平かてもう仕事しとったのに」
お母さんは目を伏せながら、ぼそぼそと話す。そこからは反省している様に、世都には思えた。
「ひとりやどうにもならんから、私は結局家政婦さんに来てもらうことになったんやけどね」
「私も、家政婦の世話になってる。ひとりやと身だしなみを整えることすらままならん。ワイシャツにアイロン掛けなあかんことも知らんかった。世都がおる間はそんなことも全部やってくれとったから、困って、世都に戻って来いとかも言うたけど、あかんで、頼ったんは家政婦や。でもそれも、仕事が忙しいんやから当たり前やって思っとったんや。離婚する前も、仕事やからって相手に押し付けようとしてて。そんときはそれが当たり前やて、特に私は男やから、女がやるもんやって思い込んでて」
「私も一緒や。仕事が忙しいんやから、男や女や関係無く、連れ合いがやるもんやって思ってた。特にこれからはそういう時代になるやろうからって」
「でも、今さらになって思うんや。私ら、やらかしたんやなって。親らしいことなんか何もできひんかったけど、これからは少しでも、ちゃんとやらして欲しいて思ってるんや。再婚して、今度こそ支え合って、助け合ってやって行きたい、世都や龍平の誕生日を祝ったりしたい、そう思ったんや。私は世都と一緒に暮らしとったのに、タロット占いを得意にしてたことも知らんかった。これからもっと世都と龍平のことを知りたいんや」
龍ちゃんは世都の横で、やれやれと言う様に肩をすくめた。世都も呆れてはしまうが、両親を恨んだりしているわけでも無いし、別にこのままでも構わないと思っている。
だが両親が世都たちに関わろうとするのなら、それはそれで良い。今から親子関係を修復、いや、構築するのはそう簡単なことでは無いと思う。距離感があったからどうしても遠慮は出てしまうだろうし、世間一般の親子の様にはいかないだろう。
だがもう全員大人だ。そこは割り切って取り繕うことぐらいはできるだろう。とはいえ。
「ほんま、調子ええなぁ」
何か言ってやらないと気が済まない、そんな気持ちがもたげた。世都はわざとぶっきらぼうに言い放つ。両親はまた気まずそうに肩を縮こませた。すると。
「ま、ええやん、姉ちゃん」
龍ちゃんが穏やかに口を挟む。うん、龍ちゃんならそう言うだろうなと思っていた。その人当たりの良さから優しい人間だと思われがちだが、その実はそう見えて、世都同様冷酷な部分も持ち合わせている。
それでも実の両親を目の前にして、邪険にできるほど冷淡では無いのだ。そこは世都よりもよほど思いやりの心を持っている。
「たまにはこうやってさ、4人でごはん食べたり飲んだりしようや」
龍ちゃんはにこにこと笑みを浮かべている。世都としては龍ちゃんが良いのなら、それで構わない。
「そやね。お正月とかは一緒に伯母ちゃんとこお邪魔さしてもろてもええやろうし」
するとお父さんとお母さんは、ぎょっと目を剥いた。
「いや、私ら、姉さんによう顔向けできひんから」
「うん、お義姉さんにはきっと呆れられてるやろうし」
ふたりは焦ってそんなことを言うが、世都は「大丈夫やって」と笑い飛ばす。
「あの伯母ちゃんが、そんな細かいこといちいち気にしてるわけあれへんやろ」
世都が言うと、ふたりはほっと顔を綻ばせ、「そっか」と呟いた。
「ほな、親子のやり直しっちゅうことで、スパークリングでも開けよか」
「姉ちゃん、手伝うわ」
世都と龍ちゃんが立ち上がると、高階さんも「ほな」と軽やかに腰を上げた。
「俺は帰るわ。小柳さん、坂道さん、このお仕事はこれにて終了ってことでええですか? 報告書はあらためて書かしてもらいますんで」
「はい」
お父さんとお母さんもすっくと立ち上がる。揃ってかしこまった表情だ。
「ほんまに、これまでありがとうございました」
「ありがとうございました」
ふたりは深く、高階さんに頭を下げた。世都は面食らう。このふたりがこんな風に他人にへり下る様を見たことが無かったからだ。龍ちゃんも驚いたのか、目を瞬かせている。
「いやいや、こっちは仕事ですから」
そう言いながら、どこかへらへらと手を振る高階さんは、きっと両親に気を使わせない様にしているのだろう。それはきっと、世都と龍ちゃんにも。
「高階さん、良かったら一緒に飲んで行かれません?」
世都が言うと、高階さんはきょとんとした表情を浮かべる。が、すぐにへらりと目尻を下げた。
「遠慮するわ。言うても家族の団欒やし」
高階さんがそう言うのを見越して、世都は冷蔵庫からとある瓶を取り出した。
「……獺祭の、にごりスパークリングですよ?」
そう挑む様に言うと、高階さんは「うわっ」と声を上げた。
「めっちゃええやつやん! そんなん言われたら断られへんやん? 女将ってそんないじわるやったか?」
そう言いながら悶える高階さん。両親はそんな様子を見てぽかんと目を丸くしていた。
「はいはい。入れますから、おとなしく座っててくださいね〜。お父さんとお母さんもやで」
お父さんたちは呆気にとられたまま世都に促されてそろりと腰を降ろし、高階さんも「あー、もうっ」と言いながら元の椅子に掛けた。
「そんな人質取るみたいに。ほんま女将はしたたかやわ」
「はーい。これが私ですからね」
そんなやりとりに、龍ちゃんはくつくつと小さく笑いながら、ワイングラスを用意する。両親は呆然と世都たちを見ていた。
獺祭にごりスパークリングは、3種の容量で展開している。ひとりのお客さまに出すときにはいちばん小さい1合瓶を開けるのだが、今回は5人分なので、いちばん大きい4合瓶を開ける。それを5客のワイングラスに均等に注いだ。1合には少し足りないが、軽く飲むぐらいだから充分だろう。
程よい高さまで淡い乳白色で満たされたワイングラス。ひとつをカウンタ越しに高階さんに渡し、4客は世都と龍ちゃんがそれぞれ2客ずつ手にして、ソファ席へと戻る。
世都の2客は両親の前に。世都は龍ちゃんからひとつを受け取った。
お父さんたちも、ワイングラスを持ち上げる。世都は全員の顔をぐるりと見渡した。
「何に乾杯とかよう分からんけど、これからええ感じにやってこうってことで。かんぱーい」
世都が軽くワイングラスを掲げると、皆も「乾杯」と倣った。世都はそのままワイングラスに口を付ける。流れ込んで来るのは華やかな香り、お米の甘さ、そして炭酸の爽やかさ。世都はつい「ほぅ……」と息を吐いた。
「やっぱ美味しいわ、獺祭スパークリング」
「ほんまやな」
龍ちゃんも目尻を下げ、カウンタ席では高階さんが「やっば、旨っ」と言いながらワイングラスをぐいぐいと傾けていた。お父さんとお母さんもその美味に驚いたのか、顔を合わせて目を丸くしていた。
「女将、金払うから、もう1杯入れたって」
高階さんは言って、空になったワイングラスを掲げた。
「もう飲まはったんですか? 一応日本酒ですよ。スパークリングの中では度数も高めやし」
世都は驚きつつも立ち上がる。高階さんはお酒に強いので、多少のことでは問題無いだろうが。
「同じグラスに入れちゃいますよ〜」
「かまへんかまへん」
世都は冷蔵庫から獺祭にごりスパークリングの1合瓶を出し、栓を抜いた。
お父さんはそんな世都を見て、ぽつりと言った。
「良かった。高階さんから報告をもろてたときも安心しとったけど、こうして直に見れて、ほんまに安心したわ」
「安心て。どうしたん」
世都が笑いながら言うと、お父さんは穏やかな表情で目を伏せた。お母さんも横でゆったりと微笑んでいる。
「高階さんは世都から見たら、ここの常連やろ。そんな風に接客できてるんやな、客とええ関係を築けてるんやなって」
すると高階さんが「ええでしょ」と得意げな顔になった。
「ちゃんと線引きをしつつ、でも気安うて、龍平くんは口数は少ないけど、そんな女将をええ感じに支えてる。ええ店ですよ、この「はなやぎ」は」
手放しで褒められて、世都は照れ臭くなってしまう。そして高階さんがそんな風に思ってくれていることが嬉しかった。例えお世辞が混じっていたとしても。
「もう、そんなこと言うてくれはっても、獺祭もう1杯どうぞ〜なんてなりませんからね」
「お、もっと褒めたら良かったか?」
「ほんまに調子ええんですから」
世都はおかしくなってくすくす笑う。高階さんも楽しそうに「わはは」と声を上げた。
後日、世都は伯母ちゃんに連絡を取り、時間を作ってもらって、お父さんたちと揃って会いにお家に行った。土曜日の16時ごろのことだった。
純和風の応接間で、飴色の座卓を挟んでお父さんとお母さんからの話を聞いた伯母ちゃんは「へぇ」と目を丸くした。
「そう落ち着くことにしたんか。ええんちゃう? やっとあんたらも、親の自覚が出たんやったら良かったやん。遅すぎるけどな」
伯母ちゃんはそう言って豪快に笑う。お父さんたちは恐縮しっぱなしである。
「ま、遅うても早ようてもかまへん。大事なことを思い出したんやかなら。ちゅうわけで、今夜は宴会やな。ついでに冷蔵庫掃除しよ。寒いし鍋しよ鍋。鍋やったら何入れてもええやろ。冷凍の鶏ももと牡蠣あんで。業スーの水餃子もあるわ」
伯母ちゃんの程よい大雑把さが出て、世都も龍ちゃんもつい含み笑いをしてしまう。お父さんとお母さんは呆気に取られていた。
「……姉さんには敵わんなぁ」
お父さんは頬を緩ませて、お母さんは「ありがとうございます」と小声で言って、神妙に目を伏せた。
世都は良かったな、と心から思う。両親には期待できないと諦めていたところもあった。それでもこうして関わりを持てる様になって、嬉しいと思っている自分は、やはりこの歳になっても奥底で親というものを求めていたのかも知れない。
調子が良い、そう思った。今さら、そんなことだってもたげる。密な関係は築けないかも知れないが、親が子を思ってくれることは自信になる。祖父母とはまた違う感情を受け取ることができるのだ。
世都は生まれて初めて、心が隅々まで満たされている様な気がした。
春めいて来たなぁ。世都はそんなことを思いながら、八百屋さんの陳列棚を眺める。菜の花、筍、新じゃがいも、春きゃべつ、春人参、新玉ねぎ、数々の山菜。少し珍しいものでは葉ごぼうなんてものまである。春にしかお目にかかれないご馳走たちだ。
葉ごぼうは、ごぼうの若いものである。普段食べる根の部分が長く太く育つ前に、土の上に伸びた葉と茎を食べる。見た目は蕗に似ている。
主に関西で食べられていて、大阪の八尾市の名産品である。全体的に灰汁があるのだが、茎の部分はさほど気にせず食べることができる。多いのは葉の部分で、茹でて冷水に取り灰汁抜きをしてやるのだ。育ち始めた数センチの根の部分ももちろん食べられる。
煮物や佃煮にしても美味しいが、今日はシンプルにごま炒めにしよう。葉は灰汁抜きして千切りにし、茎はざく切りに、根はささがきにしてやる。
ごま油で炒め合わせ、日本酒とみりん、お醤油で調味をしたら、たっぷりのすり白ごまをまぶし、仕上げにごま油を落とす。
ごぼうが持つ土の香りをほのかにまとい、だが噛みしめると瑞々しさが感じられ、白ごまの香ばしさが合わさるのだ。
「はぁ〜、葉ごぼうかぁ。春やなぁ」
高階さんは晴れやかな表情で、お箸で葉ごぼうを摘み上げて口に入れた。
「葉ごぼうってニッチっちゅうか、あんまメジャーや無いやんなぁ。俺もここで初めて知ったし」
「そうですね。これは八尾産ですし、葉ごぼうはそもそも関西が主流ですからねぇ」
高階さんは、両親の依頼が終わったあとも、こうして時折来てくれている。
「俺、ここ気に入ってるし。さすがにもう経費は使えんから今までより頻度は落ちるけどな。うちも豊中やから来やすいし。ま、せやから小柳さんらの仕事、俺に回って来たんやけどな」
阪急電車宝塚線の豊中駅。岡町からひとつ北上した駅だ。この2駅の間隔は短めで、線路沿いに歩けば15分ほどである。もし終電を逃しても充分に歩いて帰れる距離なのだ。女性にはおすすめできないが。
「小柳さんらとは会うてるん?」
「土曜日のお昼に、お茶飲みに行ったりしてます。あのふたりは土日休みですけど、うちは平日ですからね。今年定年になったら平日でも時間取れそうですけど」
「ああ、そっか。休みが合わんか。でもあのふたり根っからの仕事人間なんやろ? 定年退職しておとなしくしてられるんかいな」
「どうでしょうねぇ。この先もお金には困らん様にしてるみたいですけどね。あのふたり大企業勤めですから、満額の退職金えげつないと思いますよ」
「そらまた下世話な話や。でも大事なことやわな」
高階さんは紫色の切子ロックグラスをからりと回しながら、小さく笑う。
グラスの中身は呉春本丸本醸造酒だ。大阪府の呉春株式会社で醸される日本酒である。甘さは控えめながらもお米の香りがふわりと立ち、きりっとした飲み口の一品だ。
岡町擁する北摂地域にはいくつかの酒蔵があり、この呉春は岡町から数駅北上した池田駅が最寄りの、池田市に蔵がある。呉春を冠する日本酒のみを、長年真摯に作り続けている。池田市から箕面市に連なる五月山の伏流水を使っていることも特徴である。
両親の会社は両方とも定年退職後の嘱託制度が無い。役員ともなればともかく、60歳になった月の終わりにすっぱりと終わるのだ。
そのあとはゆっくりと休んでもらって、もし時間を持て余すのならお仕事なり趣味なりに打ち込めば良い。
「ええやん。好きに過ごしてもろたら。って、これまでも好きにしてはったんやもんな」
「そうですね」
世都はふふ、と笑う。高階さんにはもうすっかり家庭の事情を知られてしまっているので、こういう話も気安くできる。世都も龍ちゃんも、今だからこそ笑い飛ばせる。これまでも吹っ切れたつもりではあったのだが、やはり無意識のところで引っ掛かっていたのだと思う。
友だち親子なんて言葉もあることだし、程よい距離感で親子として付き合って行けたらと思っている。
世都の視線は、ついカウンタ席の奥に置いてやるタロットカードに向く。あれでいろいろなお客さまを占って来た。
自分勝手な恋心を押し付けてしまったお客さま、親の責任放棄で大切な人との幸せを逃すかも知れなかったお客さま、家族と離れることを危惧したお客さま。
世都ができることなんて限られている。大変な事情を抱えているお客さまを救うなんておこがましいことだ。それでもほんの少し、わずかでも助けになっているのなら。まだまだ素人の域ではあるものの、女将としての甲斐があったというものだ。
すると高階さんが世都の目線に気付いたのか、「なぁ」と好奇心を滲ませた目で世都を見た。
「俺も何か占ってくれへん?」
「あら、お珍しい。初めてや無いです?」
「せやな。いや、俺正直、占いとかってあんま信じてへんかったんや。でもここで女将の占い見とってさ、面白いなぁて思って。こうさ、ちょっとしたきっかけとかさ、なんや勇気もらえるっちゅうかさ」
高階さんはそう言って、照れ臭そうに笑った。
「ほな、僭越ながら、占わせてもらいましょか。何のことにします?」
世都がカウンタの奥に移動すると、高階さんもグラスを手に付いて来る。世都はタロットカードを手に取り、ぱさりと広げた。
「せやなぁ、せや、俺は運命の人といつ出会えるやろ」
そんなことを真剣な顔で言うものだから、世都は思わず「ぶっ」と噴き出してしまう。
「あ、酷いやん。俺にかて夢見させてや」
高階さんが少し拗ねる様に言って、世都はまたおかしくなって「あはは」と笑った。
「はい。ほな、占ってみましょうかね」
世都は笑顔で、タロットカードを混ぜ始めた。