勝川さんはココナちゃんが食べたいと言ったものを中心に注文をした。肉団子のデミグラスソース煮込み、ほぼカニチャーハン。それに奥さまが青菜炒めなどのお野菜を足す。今日の青菜は小松菜だ。
「ほぼカニ」は兵庫県のカネテツさんから発売されているカニかまである。ほぼシリーズは他にも帆立などがあり、「ほぼ」それらの味わい、というコンセプトの練り製品だ。
1人前は2分の1パックを使い、添付の黒酢入和だしカニ酢を卵に混ぜ込むことで、よりカニらしい風味を上げている。カニ酢入りの卵がお米にまとうので、他の調味料はあまり使わない。うま味調味料を少し足すぐらいだ。
「はなやぎ」では堂々と「ほぼカニですよ」と言って、チャーハンを提供している。本物のカニを使うよりもリーズナブルにそれに近い味を出せるのだから、使わない手は無い。お客さまも「ほぼカニて」と笑いながら注文してくれるのだ。
勝川さんが好物の鶏肉とチーズも欠かせない。今日はチキン南蛮風と、モッツァレラチーズのおかか和えだ。
チキン南蛮風は「はなやぎ」では揚げずに作る。なので「風」なのだ。皮目からぱりっと焼き上げた鶏もも肉を切り分けたらさっぱり目に合わせた甘酢を塗り、タルタルソースをたっぷりと掛ける。
「はなやぎ」のタルタルソースは、マヨネーズにゆで卵とみじん切りにしたらっきょうを合わせて作る。マヨネーズはスーパーでも買える一般的なものだが、酸味を抑えるためにお砂糖を少し加えている。そこにゆで卵の味わいとらっきょうの甘酸っぱさが優しく立ち上がるのだ。
モッツァレラチーズのおかか和えは、シンプルなものだ。一口大にちぎったモッツァレラチーズにたまり醤油を軽くまぶし、削り節で和える。チーズの風味がしっかりと持ち上がる一品だ。
さて飲み物は、勝川さんはいつもの天狗舞山廃仕込純米酒のハイボール、ココナちゃんはオレンジジュースを選んだのだが。奥さまは悩んでいる様だった。
「私、熱燗とかぬる燗が好きなんですよ。お家で飲むときはあんま深く考えずに純米酒をレンジでお燗にするんですけど、おすすめとかってありますか?」
「そうですねぇ、熱燗やぬる燗でしたら、神亀純米清酒が熱燗専用酒っていわれるぐらい熱燗に合ったお酒で、菊姫の山廃仕込純米酒や大七生もと純米も燗上がりすることで評判ですねぇ。純米酒や山廃が燗上がりするって言われてますもんね。なので今日は、勝川さんと同じ天狗舞の山廃を、熱燗で飲んでみはりません? メーカーさんおすすめの飲み方でもあるんですよ」
「あ、それええやん。少し交換して、飲み方の違いで味の違いも楽しめそうやし」
「そうやねぇ、そうしてみよかな。ほな私には、その天狗舞山廃? の熱燗をください」
「はい。お待ちくださいね」
神亀は埼玉県の神亀酒造さんが醸す日本酒である。冷やや冷酒だと酸味がやや強いのだが、お燗にすることで柔らかな甘みが立ち上がり、ふくよかさも生み出される。まさに熱燗専用酒と言われる由縁なのだ。
菊姫は石川県の菊姫合資会社さんで作られる日本酒である。香ばしい香りと力強い酸味、ふんだんなお米の旨味がお燗にすることで調和され、豊かな飲み口になるのである。
大七は福島県の大七酒造さんで醸される日本酒だ。濃醇な深いコクを生み出す生もと造りをし続けている蔵元さんである。純米生もとはふっくらとした旨味で、いろいろなお料理に合わせることができる、懐の深い日本酒なのだ。
熱燗やぬる燗は、吟醸や純米吟醸より純米酒が合っているというのが、一般的な認識だと思う。確かにきりっとさっぱりした吟醸などはお燗にするとその良さが損なわれると思うし、純米酒だからお米の旨味がふぅわりと香るのだと思う。
とは言え、やはり世都に言わせれば、好きなお酒を好きに飲めば良いのだ、という結論になる。例えば獺祭の磨き二割三分をお燗にしようとされたら、世都でも全力で止めるかも知れないが、それが好きだと言う人もきっとこの世にはいるのだろう。
世都はまず天狗舞山廃を蓋付きのちろりに入れ、静かに沸いている湯に沈めた。タンブラーに天狗舞山廃のハイボールを作り、プラスチックの取っ手付きのカップに氷とオレンジジュースを入れ、短いストローを刺す。良い塩梅に温まった天狗舞山廃を引き上げ、ちろりの外側の水分を拭き上げて、陶器製のぐい飲みを出した。
運ぶのは龍平くんに任せて、世都はお料理に取り掛かる。世都がドリンクの準備をしている間に、龍平くんの手によって肉団子は小さなお鍋に移されてことことと温めが始まっていて、ほぼカニは適当なサイズにほぐされている。
ココナちゃんはきっとお腹が空いているだろうから、早くごはんを持って行ってあげたい。世都はせっせと手を動かした。
そうして今は、フライパンの上で鶏もも肉がじわじわと焼けて行き、世都の手はさくさくと、青菜炒めの小松菜を切っている。
青菜炒めはごま油とお塩、日本酒とみりん、お醤油であっさりと味付けをする。少し甘めを意識して、どんな葉物野菜でも食べやすくなる味付けを心掛けている。いつもはにんにくのみじんぎりも使うのだが、勝川さん親子の分は了承を得て抜いておいた。
世都は時折顔を上げ、勝川さん親子に目を向ける。世都が作ったものを食べ、飲み、話し、笑い合う。お父さん、お母さん、そして子ども。まるで理想の家族像が詰まっている様だ。
……世都と龍ちゃんが、味わったことの無い、幻。それは、とても眩しかった。
「ママ、ココナ、ゼリーたべたい!」
ココナちゃんの元気な声が、カウンタ内側の厨房にいる世都に届く。そろそろかな? そう思ったのだが。
「ゼリーはごはんの後やで」
奥さまの嗜める声が聞こえる。テーブルをちらりと見ると、まだお料理は少しだが残されている。
「でも、もうおなかいっぱいやもん」
ココナちゃんの少し拗ねた様な声。お酒を飲んでいる大人は、そのお供としてお食事もゆっくりになるが、子どもはそうもいかない。身体も小さいのだから量もそんなに食べられないだろうし、大人より早く終わるのは当たり前だった。
だからと言って、注文も無いのに勝手にゼリーを持って行くわけにはいかない。世都は調理台下の冷蔵庫に伸ばし掛けていた手を引っ込めた。
「まぁええやん。ゼリー持って来てもらおうや。ココナ、手持ち無沙汰になるんとちゃう?」
「ほな、食べ終わってココナがここに飽きてしもたら、パパが連れて帰ってくれる?」
「私が? それはええけど。ママは?」
「私、久々にひとりで飲みたいわ。ええやろ?」
「もちろんええで。ほな、私もごはん食べてしまわな」
勝川さんは言って、お箸を取った。
「ココナ、ゼリーもらおか」
「うん!」
奥さまの言葉に、ココナちゃんは満面の笑顔になった。
「すいませーん」
奥さまに呼ばれ、龍平くんが伝票を手に向かった。世都は今度こそ冷蔵庫を開けて、ラップが掛かったグラスを出した。
フルーツゼリーは小さなグラスにひとつずつ作っている。使っているフルーツはいちごと温州みかん、缶詰のパイナップルである。小さな子でも食べやすい様に小さめの一口大に切ったフルーツをグラスにバランス良く詰め、ゼラチン液を流し入れる。
ゼラチン液にはパイナップル缶のジュースも使っている。ジュースに水を足して、お砂糖で味を補い、粉ゼラチンを溶かす。粗熱が取れてとろみが出たらフルーツのグラスにそっと注いで、冷蔵庫で冷やし固めるのだ。
ゼラチン液はつるりと食べられる様に、あまり固くはしない。少し前、固めのこんにゃくゼリーが幼児の喉に詰まってしまうなんて、痛ましい事故もあった。このゼリーはスプーンですくって食べてもらうからそんなことにはならないと思いたいが、美味しく安全に食べてもらえる様に念には念を入れた。
「世都さん、勝川さんにフルーツゼリーみっつ」
「あら、勝川さんと奥さまも食べはるんやね。はーい」
世都は冷蔵庫から追加のフルーツゼリーを出して、ラップを剥がした。グラスを小皿に乗せ、スプーンを添えて。
「私、持ってくわ」
世都はトレイにフルーツゼリーを乗せて、カウンタを出た。世都が近付くと、急ピッチでお食事を口に運んでいた勝川さんが頭を上げた。奥さまもせっせとお箸を動かしている。
「お待たせしました。フルーツゼリーです」
「わぁい!」
ココナちゃんが歓喜の声を上げる。世都は最初にココナちゃん、そして勝川さん、奥さまの前にゼリーを置いた。
ココナちゃんはさっそくスプーンを取り、ゼリーにそれを突き刺した。大きくすくって口に入れる。
「んふー、おいしーい!」
ココナちゃんに満足してもらえたら、このフルーツゼリーは成功だ。便宜上今日の日替わりのひとつではあるが、ココナちゃんのために作ったのだから。世都はほっと安堵する。
「ほんまや。甘さがほんのりで、果物たっぷりでええわぁ」
奥さまもゼリーを口にして、目を細めた。
「ママ、先にごはん食べてまわんと」
「こうゆうんは冷たいうちに食べな。パパも食べてみ。美味しいで」
「それもそうか」
勝川さんはお箸を置いて、天狗舞山廃のハイボールで口の中を流したら、フルーツゼリーを持ち上げた。スプーンでぱくんと口に入れて。
「あ、ほんまや。甘いん苦手な人でも食べられそうな甘さやな」
それも心掛けたところだ。ココナちゃんのために作ったとはいえ、他のお客さまにも出すものだ。特に飲兵衛は辛党が多い傾向にある。ゼラチン液が水っぽくならない様にお砂糖で調整はしたが、甘さはフルーツの糖度だけで充分だ。
「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
世都は厨房に戻る。そのころにはココナちゃんはフルーツゼリーを平らげていた。オレンジジュースも飲み干して。
「パパ〜、帰るぅ〜」
お腹が満足し、場に飽き出したのだろうココナちゃんがぐずり始めた。小さな子はひとところでじっとしているのが苦手だ。
「ん、ちょっと待ってや」
勝川さんはぱぱっと最後に残ったモッツァレラチーズのおかか和えを口に放り込み、天狗舞山廃のハイボールを流し込んだ。
「ココナお待たせ。パパと帰ろうか」
「うん」
ココナちゃんは身軽にソファからひらりと降りる。勝川さんも立ち上がり、コートやマフラーを着けた。ココナちゃんに着付けるのは奥さまだ。
「ママばいばーい」
「はーい。ちゃんと大人しく寝るんやで」
「はーい」
「ママ、気ぃ付けて帰っておいでな。ココナおるから迎えには来れんから」
「ありがとう、大丈夫。そんな遅くはならん様にするから」
岡町の治安は良いと思うし、早めの時間なら人通りもあるが、用心に越したことは無い。
勝川さんは着込んでもこもこになったココナちゃんの手を引いて、カウンタ内の世都に声を掛けた。
「慌ただしくてすいません。このお礼はまたあらためて。またゆっくり来ますね。お代は妻からお願いします」
「とんでも無いですよ。ありがとうございました。またお越しくださいね」
ココナちゃんはすっかりとお店に慣れてくれたのか、世都にも手を振ってくれた。
「おねえちゃん、バイバイ」
「はぁい、バイバイ。また来てね」
世都が笑顔で手を振ると、ココナちゃんは嬉しそうにはにかんだ。満足してくれた様だと、世都はほっと胸を撫で下ろした。
ひとりになった勝川さんの奥さまは、カウンタ席に移動した。龍平くんがソファ席を手早く片付ける。食器は空になったら適宜下げていたので、後は僅かだ。天狗舞山廃の熱燗も飲み干されていた。
世都は新しいおしぼりを奥さまに用意する。
「ありがとうございます。次何飲もかな〜。神亀興味あるなぁ〜。天狗舞も美味しかったけど」
「熱燗好きな方には、神亀おすすめですよ。飲んでみはります?」
「そうしてみます。初めてのお酒楽しみです。あと、なんか摘むもんあった方がええですよね。ええと……」
奥さまはおしながきに手を伸ばした。
「チーズは食べたもんなぁ」
「それやったら、日替わりのお惣菜からはどうですか? ボードに貼ってあるんですよ」
世都が手で示すと、奥さまはそちらに視線をやって、「あらっ」と目を丸くした。
今日のお惣菜は、白菜のコールスロー、蕪の塩昆布漬け、難波ねぎのごま炒め、蓮根のマスタード炒め、もやしの海苔和えである。
「あ、難波ねぎがある! 難波ねぎください」
「はい。お待ちくださいね」
世都は新たに出した蓋付きちろりに神亀を入れてお湯に沈めたら、小鉢に難波ねぎのごま炒めを盛り付ける。
難波ねぎはなにわ伝統野菜のひとつである。かつて原産国である中国などから大阪にねぎが入って来て栽培が始まり、その地が難波だったことで難波ねぎの名が付けられた。京都府の九条ねぎや埼玉県の千住ねぎは難波ねぎの種子が伝わったものとされ、難波ねぎは日本のねぎのルーツとも言えるのだ。
当初は難波で作られていたわけだが、収穫や加工の難しさ、扱いやすい一般的な青ねぎが広く流通した背景から一時期その姿を消したのだが、松原市の生産者さんが難波ねぎの味を伝えようと立ち上がったのだ。なので現在は松原市で育てられている。
太くて肉厚でとろみが強く、火を通せばぐっと甘みを増す。収穫時期は11月から4月中旬ごろで、最も甘くなるのは3月と言われている。そんな難波ねぎは北摂地域では貴重品だ。商店街のいつもの八百屋さんで見付けた世都は即座に飛び付いた。
ごま炒めはざく切りにした難波ねぎをごま油で炒め、しんなりしたところで味付けは日本酒とみりんとお醤油。白すりごまをたっぷりと混ぜ込み、仕上げにごま油を落とした。
難波ねぎのとろりとした甘さと白ごまの香ばしさが程よく調和して、味わい深い一品になるのだ。
神亀が程よく温まり、ちろりを引き上げて水滴を拭う。ぐい飲みを添え、まずは提供する。続けてごま炒めも出した。
「お待たせしました」
「ありがとうございます。難波ねぎ嬉しい〜」
奥さまはこちらまで嬉しくなる様な笑顔で、ごま炒めを口に運び、満足そうに頬を和ませた。神亀もぐい飲みに注いでこくりと口に含み、「ん!」と目を見開いた。
「美味しい! 神亀、美味しいですねぇ! ふっくらしてて、お米の味って言うんでしょうか、甘くて」
「冷やの状態の神亀、少し飲んでみます? 比べてみたらおもしろいですよ」
世都はガラス製のおちょこに、常温の神亀をそろりと注いで奥さまに出した。
「ありがとうございます」
奥さまはさっそくおちょこに手を伸ばす。口を付けて「ん」と目を丸くした。
「甘みがあんま感じられんっちゅうか、酸味が強め? へぇ、これがお燗にしたら、こんなに風味が上がるんや。おもしろいですねぇ」
「でしょう?」
奥さまは楽しそうに「ふふ」と微笑む。
「ごま炒めもめっちゃ美味しいし。私、出身が松原なんですよ。やので、時季になったらスーパーにも難波ねぎが並ぶんです。普通のねぎより食べ応えがあって好きやったんですけど、結婚して岡町に来たら売ってへんで残念で」
「そうですね。うちは仕入れを八百屋さんでさしてもろてるんですけど、見付けたときは奇跡やと思いましたよ。即買いでしたねぇ」
「あ、もしかして、商店街の入り口のとこですか?」
「そうです。あっこ、珍しいお野菜とかもあって、ほんまに楽しいお店なんですよねぇ」
岡町商店街の入り口、向かって右側の八百屋さんで世都はいつも仕入れをしているのだが、こちらは大阪出身在住の現役芸人さんが経営しているのだ。本人も店頭に立つことがある。そのためか、時折テレビカメラが来ていたりする。
一般的なお野菜や果物はもちろん、今回購入した難波ねぎの様な、一般のスーパーでは珍しいものがあったりする。まるで宝探しの気分になれるのだ。
「どうしてもスーパーが便利やから、そこで買い物全部済ませてしまうんですけど、たまには覗いてみるんもええかも知れませんね。散歩がてらででも」
「ええですねぇ。ココナちゃんと一緒やったら、きっと楽しいんちゃいます? 果物もあるから喜ばはるかも」
「ココナと」
すると、それまで朗らかだった奥さまの目が、ゆらりと不安げに揺れた。
勝川さんの奥さまは表情を曇らせ、ぽつりと言った。
「夫の転勤が決まって、不安なんです。離れることとか、ココナのお世話とか。夫は積極的にココナのお世話をしてくれとったから、その手が無くなったらどうなるんやろうとか。ココナも彼氏と離れたないて言うとったけど、実際は夫がおらんくなったら寂しがるやろうし」
そうだろう。容易に想像できてしまう。お食事中、ココナちゃんの横に座っていたのは奥さまだったが、勝川さんもココナちゃんを気に掛けながらお食事していた。奥さまばかりがココナちゃんのお世話をしていたわけでは無かった。
そしてココナちゃんが帰るとき、勝川さんとふたりで帰ること、奥さまがここに残ることを、嫌がる素振りがまるで無かったのだ。その風景から、ココナちゃんが勝川さんに懐いていることが分かるし、そうなるにはきっと、普段からたっぷりと触れ合っているのだ。
そんな勝川さん、ココナちゃんにとってのお父さんが2年もいなくなるのだ。大阪と東京は飛行機を使えばそう遠くは無いが、そう頻繁に移動できる距離では無い。となると、連休の行き来が現実的だろう。
今やオンラインで、パソコンやスマートフォン、タブレット越しで顔を見て、話すことだってできる。だが直接会って触れ合える喜びには代えられないのでは無いだろうか。
ココナちゃんはおませな子の様だが、まだまだ手も掛かるだろう。勝川さんが期間限定とはいえいなくなることで、奥さまはきっと大変になる。お母さまが助けてくれるそうだが、ご実家が松原市だということだから、そう頻繁な手助けは難しいかも知れない。車でも電車でもそれなりの距離があるのだ。
「2年て、過ぎてみたらあっという間かも知れんですけど、これから2年て思うと長い様に感じて。無事乗り越えられるかなぁって。夫と一緒に行くことも考えました。でも、2年の間に2回引越しって、気忙しいでしょ。いや、東京が好きやないっていうんもあるんですけど」
奥さまは苦笑いを浮かべる。勝川さんも言っていたことだ。奥さまの方便では無かったのだなと、世都は小さく頷く。
「ココナちゃんの幼稚園とかもありますもんね」
「そうなんです。大阪より東京の方が空きが無いイメージがあって。住むとこにもよるんでしょうけど。せやのに不安に感じるなんて、勝手ですよね」
それだけ、勝川さんが奥さまに頼りにされているということなのだろう。そして「家族は一緒にいるべき」の持論を繰り広げた勝川さんも、奥さまとココナちゃんを大事にしているのだろう。
家族のあり方なんて、その家庭ごとなのだろうが、世都の家庭が破綻してしまったこともあって、やはりこういう強い繋がりは素晴らしいものなのだろうなと思う。
ただ、世都は自分の両親を責めようとは思わない。親としてはどうかと思うし呆れてもいるが、ふたりは自分の好きや生き方を貫いただけだ。そしてこの先、それぞれその責任を取ることになる。
「ずっとご家族で寄り添って来はったんでしょ? 不安に感じて当たり前やと思いますよ。私が無責任に言えることや無いんですけど、きっと慣れるときが来るんや無いでしょうか」
「それなんですけど女将さん、あの、夫から聞いたんですけど、こちら、タロット占いをしてくれはるって」
「ああ、はい。完全に趣味の範囲内ですけどね。まぁ、気休めやきっかけにしてもらえたらって」
「私も占ってもろてええですか? 何をどうしたいとか特に無くて、漠然としたもんしか無いんですけど、大丈夫って誰かに言うて欲しいなって思ってしもて。情けないですけど」
奥さまは憂いを帯びた表情で、カウンタの上で両手をぐっと組み合わせる。その手から不安が漏れている様に見えた。世都はふわりと微笑んだ。
「情けないなんて、そんなわけありませんよ。でも私で良かったら、占わせてもらいますね」
奥さまはほっとした様に、頬を緩ませた。
心を鎮める。タロットに限らず占いは、その人の背景やこれからなどを暗示する。だが世都はつい、勝川さんの奥さまにとって少しでも励みになる様な結果になって欲しいと願ってしまう。
もしそれで歪んでしまうことがあっても、咎を負うのは世都だ。奥さまの慰めになるのなら、構わない。
占いの意義は、と問われれば、世都ははっきりと言いたい。「大事なのはその人が救われること」だと。
タロット占いの場合は、カードが持つ意味をどう解釈するのかが大事になってくる。それによってその人の心は変化する。だから世都はいつでも慎重になる。
良く無いカードが出て来てしまっても、少しでも前向きになれる様に言葉を選ぶ。ときには辛辣になってしまうこともあるが、できる限りその人に必要なこと、ものを探し出しているつもりだ。
そうして奥さまのために出て来たカードは「ペンタクルのナイト」の正位置だった。世都は心底安堵した。意味は安定感、確かな基盤を築く、管理・運営能力、実務に優れる、など。
お仕事などに重きを置いているカードの様にも思えるが、これを今の、そしてこれからの奥さまに当てはめて解釈すると。
奥さまは固唾を飲んで、結果を待っていた。世都は安心してもらえるように、口角を上げた。
「大丈夫ですよ。最初は勝川さんがいてはれへんで寂しいかも知れませんけど、ココナちゃんと奥さま、おふたりでちゃんとご家庭を回せますよ。ココナちゃんのお世話は大変かも知れませんが、奥さまなら大丈夫です」
「……ほんまですか?」
奥さまの目が見開かれ、きらりと輝いた。
「はい。そういう風に出ました。ココナちゃん、ええ子や無いですか。最初はワンオペで戸惑われることもあるかも知れませんけど、それもご自分のペースとかすぐに見付かると思いますよ」
世都が穏やかに言うと、奥さまは安心した様に目尻を緩やかに下げた。
「良かったぁ。そう言うてもらえると、ほっとします。これまでふたりでして来たことをひとりでって思うと不安ばっかりやったんですけど、何とかやってみます」
「私は結婚もしてませんし、子どももおりませんけど、私で良ければいつでもお話お伺いしますから。それにお母さまっていう大先輩かていてはるんですから。たった2年です。大丈夫です!」
世都が力強く言うと、奥さまは少し驚いた様で目をぱちくりさせる。そしておかしそうに「ふふ」と笑みを漏らした。
「私、難しく考え過ぎてたんかも知れませんね。そうですよね、母もいてますし、どうにかなりますよね。女将さん、ありがとうございます」
「いえいえ、私は何も。思い切って、女同士の生活を楽しんでみましょうよ。ココナちゃんと恋バナとかできるかも知れませんよ」
「ほんまや。夫の前では話さんかったら。ココナも女の子やから、何か感じとったんかも知れませんね。そうや、夫に東京に染まんなって言うとかんと。帰ってきて「何々じゃん」とかいい出したらぶっ飛ばしたるからって」
奥さまは楽しそうにくすくすと笑った。
高階さんはゆっくりと七水純米大吟醸45を傾け、しみじみと「良かったなぁ」と口を開いた。21時を回り、勝川さんの奥さまは上機嫌で帰って行った。
「勝川さん家族、めっちゃええやん。仲が良くて互いに思いやりがあって、娘さんも可愛いええ子で」
七水は栃木県の虎屋本店さんが醸す日本酒である。ほのかな果実の様な香りに、やさしい旨味が感じられる、すっきりとした上品な味わいの一献だ。
「ほんまですねぇ」
本当に、素敵な家族だと思う。世都は注文のあった白菜のコールスローを小鉢に盛り付ける。
コールスローの白菜は繊維に沿って太めの千切りにし、お塩で揉んで水分を出したら水気をしっかりと絞り、マヨネーズとレモン汁、黒こしょうを合わせたソースを混ぜ込んだ。
こっくりとしたマヨネーズの中にレモンの爽やかな酸味が香り、黒こしょうのほのかなアクセントが旬の甘い白菜を際立たせるのだ。
「女将の親御さんて、どんな人なん?」
何気無く聞かれ、世都は応えに窮しながらも、不自然にならない様に気を付けつつ。
「お仕事人間でしたよ。私はお祖父ちゃんお祖母ちゃん子でした」
「ふぅん。ほな、あんま両親との交流は無かったとか?」
「まぁ、それなりに。普通ですよ、きっと」
「へぇ。ま、家庭それぞれやわな」
高階さんはそうして話を切り上げてくれた。世都はほっとする。嘘を言う必要は無いだろうが、ご常連相手に世都の家庭事情を言うつもりは無い。
自分の家庭が、どちらかと言うと特殊だろうと言うことは、ある程度の歳になったら分かる。親御さんがいるご家庭では、子どものお世話を主にするのは親御さんだということは、同級生との会話で知れるからだ。
だが世都はそれを悲観したことは無い。同級生にはご祖父母と同居してご両親と一緒にお世話をしてもらっている子もいたし、大まかに言えばそれと変わらない。
ちゃんと愛されていた、可愛がられていた、その事実、実感さえあれば、世都は大丈夫だったのだ。
それはきっと龍平くん……龍ちゃんも同じだ。だから世都と龍ちゃんは、バランス良く一緒にいることができるのだった。
年が明けた1月2日。「はなやぎ」は毎年、年末の31日から年をまたいで2日までお正月休みをもらっている。3日が定休日なら1日伸びることになる。
世都と龍ちゃんは、岡町駅から徒歩数分のマンションで暮らしている。同じマンションの別の部屋だ。「はなやぎ」をオープンするタイミングで越して来たのだ。
今日は2日なので「はなやぎ」はまだお休みだ。起きたのはいつもの10時だった。朝支度をして朝食の用意。4枚切り食パンにケチャップを塗り、四角いスライスハムとスライスチーズをたっぷり乗せ、トースターに入れた。
マグカップに浄水器の水を入れてレンジで温くしてから飲み干し、同じマグカップに牛乳を入れてまたレンジに。今度は程よく熱々にする。
そうして超お手軽ピザトーストとホットミルクの朝食ができあがる。世都は「いただきます」と手を合わせ、さっそくピザトーストに噛り付いた。チーズが良い塩梅に伸びてくれる。
昨日の元旦は、龍ちゃんとふたりで親戚の家を訪ねていた。母方の親戚はもういないも同然なのだが、父方はお父さんの姉家族が健在なのだ。世都たちの祖父母やそのきょうだいは、ここ数年の間に全員が鬼籍に入っていた。
お父さんの姉なので、世都たちから見たら伯母になる。いとこに当たる子どもはふたり。年齢は世都たちよりいくつか上だ。そして甥っ子姪っ子が総勢5人。
いとこのひとりは女性で、昨日は婚家の実家に行っていたのだが、もうひとりは男性で、奥さまと娘ふたりを連れて伯母ちゃんの家に来ていた。
伯母ちゃんは、きっと世都と龍ちゃんに気を使ってくれているのだ。祖父母を全員亡くし、実の両親は世都たちに関心が無い。そんな世都たちに、にぎやかなお正月を過ごして欲しいと。
世都も龍ちゃんも、伯母ちゃんのその心遣いがありがたかった。伯母ちゃんとお父さんは見た目はともかく性格はまるで似ておらず、お祖母ちゃんがお父さんを甘やかしたこともあってか、伯母ちゃんはしっかり者の人情深い人になった。
さばさばした、いかにもな「大阪おかん」である。そんな伯母ちゃんが仕切るお家はとても居心地が良く、世都も龍ちゃんも、お正月とお盆休みにお邪魔するのを楽しみにしていた。
伯母ちゃんが立ち回るお台所仕事を手伝うのは、いとこの昌くんと龍ちゃんだ。
「世都ちゃんもたまにはちゃう人の作ったごはん食べたいやろ。ゆっくりしとき。せやから龍ちゃん手伝ってな」
何がせやからなのか、と思いつつ、龍ちゃんは楽しそうにお料理や飲み物を運んだりしている。
伯母ちゃんは身の回りのことすらしない弟、要は世都たちのお父さんを見ながら育ったからか、自分の子どもはきちんとしつけなければと、ずっと思っていたそうだ。
だからか、昌くんはお台所仕事も手馴れているし、きっと家事や子育ても奥さま、加奈子さんと協力してやっているのだと思う。
世都は伯母ちゃんたちがてきぱきと動いている間、伯父ちゃんと加奈子さんと一緒に、お先に缶ビールを開けさせてもらっている。姪っ子ふたりはもう中学生なので、世都たちと遊んだりするより、スマートフォンでできることに夢中である。思春期に差し掛かり、難しいお年頃だ。
そうして大きな卓上に色とりどりのお料理が揃うと、あらためて乾杯をし、団欒を楽しむのだ。
お父さんと伯母ちゃん、姉弟でもこんなにも違うのだな、と少し不思議に思う。持って生まれたものもあるのだろうが、きっと育ち方も影響しているのだと思う。
連れ合いと子どもに恵まれたところは同じなのに、その先の人生が大きく分かたれた。自分勝手にしていたお父さん、そしてお母さんと、家族にきちんと向き合った伯母ちゃん。どちらが幸せなのかは、結局のところ本人次第ではあるのだろう。
世都と龍ちゃんがこうして伯母ちゃんたちのお家にお邪魔するきっかけになったのは、龍ちゃんがお母さんと別居した年に、世都がもらった1本のメッセージだった。
「あんたら姉弟、お正月とかどうするん?」
伯母ちゃんは世都がお祖父ちゃんたちとまだ実家で暮らしているときに、節目節目に来ていたので、細々ではあるが繋がりがあったのだ。もしものときはと電話番号やメールアドレス、SNSアカウントの交換もしていた。なので世都たちが実家を出たことも知らせていた。
「龍ちゃんとふたりで年越しすると思います。実家には行かん予定で」
どちらに行ったところで、溜まった家事や両親のお世話をさせられることは目に見えている。世都も龍ちゃんも両親には自立して欲しかったので、突き放していたのだ。実際世都が実家を出てしばらくはお父さんから「家事しに帰って来い」なんて電話があったりしたのだ。
「ほな、元旦でも2日でもええから、良かったらうちに来ん? 宴会しようや」
そこで、毎年元旦の、昼下がりあたりの時間帯に、お土産片手にお邪魔する様になったのだ。おかげで毎年、賑やかなお正月を過ごすことができている。
お祖父ちゃんお祖母ちゃんが健在のときのお正月も楽しくはあった。だが家族が分裂し、その触れ合いは失われた。そして伯母ちゃんの厚意で、世都たちはまたその恩恵を受けることができている。
それもまた終わる日が来るのかも知れない。だがそのときまで、大事にしたいと思うのだ。
3日になり、世都はがらがらとキャリーを引いて、仕入れのために商店街中ほどのスーパーに向かう。個人店舗が多いこの岡町商店街はまだお正月休みのところも多いのだ。いつも仕入れをしている八百屋さんやお肉屋さん魚屋さんも例に漏れず。お酒の仕入れは昨年末に多めにしておいた。
まだ三が日なこともあるので、お惣菜を始め日替わりのお料理はおせちに入る定番のものにする。お惣菜は子孫繁栄の数の子、家族・家業の繁栄のたたきごぼう、五穀豊穣の田作り、平和・平安の紅白なますに、財産の栗きんとん。お料理には出世を意味するぶりの照り焼きや、縁起物の百貨店とも言えるお煮しめ、八幡巻きなど。
今ではおせち料理にもいろいろな変わり種もあるが、そういうものこそ百貨店のおせちにはふんだんに詰まっている。なので「はなやぎ」では基本のものを提供するのだ。おせちの数々に込められた意味を大切にしたい。
そして、3日の今日だけお屠蘇をサービスする。年末に酒屋さんで屠蘇散を仕入れておいたのだった。
口開けのお客さまは高階さんだった。ほぼ毎日と言って良いほど来ていて、一番乗りももう何度めのことか。
高階さんはぶりの照り焼きと八幡巻き、青菜炒めを注文した。まずはお屠蘇で邪気を払い、そのあとはいつものサマーゴッデスのハイボールだ。
今日の青菜はちぢみほうれん草である。冬の寒さに当たって葉が縮んで厚くなったほうれん草は甘さを蓄え、冬ならではのご馳走なのだ。
「女将は正月休み、どうしとったん。旅行とか?」
「親戚のお宅にお邪魔して宴会ですよ」
「あー、ほんならお年玉用意したりとか」
「はい。小さくは無いですけど、子どもがいますからね。それはもうきっちりと」
姪っ子のふたりは世都と龍ちゃんが連名で用意したお年玉を、喜んで受け取ってくれた。あげる先がこのふたりだけなので、世都たちは毎年奮発する。代わりに進学祝いなどは免除してもらっている。
「親戚の子かぁ。人数多かったらお年玉も大変そうやな。大きなったら金額も増えるやろうし」
「そうですねぇ。でもうちは幸いそこまでは。気楽なもんです。宴会も楽しかったですよ」
「それやったら良かったわ。やっぱり年初めはええことあって欲しいよなぁ」
「そうですね。高階さんはどうしてはったんですか?」
「俺も実家帰ったりとかいろいろやわな。ま、あんま代わり映えせんわ」
「それができるんが、幸せって気がしますねぇ」
「せやな」
世都と龍ちゃんは、その幸せを伯母ちゃんたちに与えてもらっている。それが無かったら姉弟で静かなお正月を過ごしていただろう。それももちろん穏やかで良い時間なのだろうが、伯母ちゃんたちと過ごす時間は、それこそ華やぎなのだ。
自分たちがまだ生きていても良い証明、人に必要としてもらえている実感、そんな人間としての矜持を与えてくれる。そんな空間なのである。
閉店時間の23時が近付き、もう飲み物もオーダーストップしている。お客さまも帰って、世都と龍平くんはせっせと後片付けを始める。
「あ〜、今年も無事に新しい年を始められたねぇ」
「そやな。何や気が引き締まるわ。今年もがんばろって」
「そやね。龍平くん、……龍ちゃん、あらためて、今年もよろしくね」
「うん、こちらこそ、姉ちゃん」
そうしていると、がちゃりとドアが開いた。カウンタ内にいた世都はとっさに顔を上げる。立っていたのは高階さんだった。
「あら、高階さん。どうしはりました? お忘れ物ですか?」
世都が目を丸くすると、高階さんは「いやいや」と首を振った。
「もう閉店やのに済まんな。ちょっと邪魔してええか?」
「ええ、構いませんよ。どうぞ」
世都は作業台を拭いていたふきんをその場に置き、フロアに出て行った。すると高階さんが入って来て、続いてふたりの男女が姿を現した。世都は目を見張る。
「……お父さん、お母さん?」
予想もしなかった人物の来訪だった。龍ちゃんも「え?」と顔を上げた。
両親は気まずそうな表情で、入って来たばかりの場所で佇んでいた。
「お父さん、お母さん、何で……?」
世都は呆然としてしまう。龍ちゃんも驚いた表情でフロアに出て来た。
「まず、俺の正体を言うとくわ」
高階さんは言うと、紫色のボディバッグから黒い名刺入れを取り出し、世都に名刺を差し出した。
「中津リサーチサービスの、高階誠と言います」
世都は名刺を見つめ、龍ちゃんも横から覗き込む。ゴシック体を主体とした分かりやすい名刺だった。
住所を見ると大阪市の中津だった。岡町からだと阪急電車宝塚線1本で行ける。時間にして15分ぐらい。どちらも普通電車しか停車しないこともあり、行き来しやすい。
「リサーチサービス、て、調査会社ですか?」
「そう。浮気調査から企業調査まで何でもやる会社や。小柳さんと坂道さんは、うちの大事なクライアントやねん」
「クライアントて、え、高階さん、うちの両親に頼まれて、うちのお店を調査しとったってことですか?」
「それはちょっとちゃう。「はなやぎ」の経営状態とか、そんな大層なことや無くて、ただ単に女将と龍平くんの様子を見とっただけや」
「どういうことですか?」
世都も龍ちゃんも戸惑いを隠せない。両親は一体何がしたいのか。調査会社に頼んでまで、どういうつもりなのか。
世都は怪訝にしか思えなかった。
家のことや子どものことを何もしない、やろうとしない両親が、子どもたち、要はお世話をしてくれる人と離れて困っているだろうとは思っていた。
だが少なくとも世都は、そのままお父さんの身の回りのことをし続けて、果ては介護を、なんてつもりは無かった。お父さんや世都に迷惑を掛けたく無いと、潔く高齢者住宅に移ったお祖父ちゃんお祖母ちゃんを見ていたこともあるのだろう。
何より親として子どもである世都にあまり関わらなかったことで、世都の中にはお父さんの面倒を見続けることができるほどの情ができあがらなかったのだ。
子どもが無条件に親を求めるのは、小さな間だけである。物心がつき、自分の意思を持つ様になると、親のあり方を見て判断する様になる。そのとき子どもが親をどう思うかは、それまでの親の行動に反映されるのだ。
親子だから必ずしも気が合うわけでは無いし、大人になっても親の呪縛に囚われることだってあるだろう。親子によって様々な関係性があるはずだ。
だから世都がお父さんを置いて実家を出たことも、そのうちのひとつである。お父さんはお世話をしてくれる人がいれば、全力でそれに寄り掛かる人だ。かつてはお祖母ちゃん、そしてそれは世都に引き継がれた。それではだめなのだ。
きっと、龍ちゃんもそうだったのだろう。お父さんとお母さんは似た者夫婦だった。龍ちゃんもお母さんに寄り掛かられていたのだと思う。経済的な心配が無かっただけ幸いだったが、世都も龍ちゃんも家政婦では無い。学校があり、やがてはお仕事があった。夫婦ですら共働きなら分担するものを、丸投げされるのはたまったものでは無かった。
世都がいなくなれば、いよいよお父さんも自分のことは自分でする様になるだろう。もしくは家政婦さんにでも来てもらうだろう。そう考えるのは不自然では無かった。実際はしばらくはヘルプの電話が来たわけだが。そして世都はそれをスルーし続けたのだが。
冷たいと思われるだろうか。だが世都は自分の中に冷酷な部分があることを自覚している。気遣いや思いやりは大事だと思うが、甘やかすのはいけない。その線引きは大事だ。
そうは言っても、世都は、そして龍ちゃんはお父さんお母さんとの親子関係を放棄した様なものだ。それを恨みに思われていても仕方が無いと思っている。
しかしあらためてふたりを見ると、身なりは綺麗に整っている様に見える。ふたりともロングコートを着込んでいるが、汚れやほつれなども見えないし、ぱりっとしている。自分で整えているのか、家政婦さんに来てもらっているのか、それともあらたな連れ合いなどを見付けてお世話をしてもらっているのか。
どれであっても構わないとは思うのだが。でもパートナーを見付けたのなら、できるなら一言あっても良かったのでは、と思うのは身勝手だろうか。
「高階さん、私から言うわ」
お父さんがおずおずと声を出す。その声には張りが無く、後ろめたさを感じてしまう。
「世都、龍平、実はな、私ら、先々やけど、再婚することにしたんや」
「……お父さんと、お母さんが?」
「そうや」
「は?」
「へ?」
世都と龍平は揃って素っ頓狂な声を上げ、目を剥いた。
「と、とりあえず座ろか。烏龍茶でええ?」
驚きつつも世都はキッチンに入り、龍ちゃんがお父さんたちをソファ席に案内してくれる。お父さんとお母さんはおぞおずと奥に座り、高階さんは飄々とカウンタの1席に腰を降ろした。
お父さんはあらためて口を開く。
「私もめぐみも、今年定年退職するんやけどな」
ああ、両親ももうそんな年齢か。昨今は65歳定年の企業も増えているそうだが、確かお父さんとお母さんが勤めている会社はそれぞれともに60歳だったはずだ。そんな記憶がある。ちなみにめぐみとは、お母さんの名前である。
「私が6月で、めぐみが4月や。せやからもう、ここ何年かぐらいからゆっくりと引き継ぎを始めて、もう今は長期の大きな仕事は回ってこん様になっとる。そうなったら前より時間ができてな、……考える様になったんや」
お父さんは言葉を切ると、お母さんに気遣わしげな視線を送った。
「このままひとりで、寂しい老後を過ごすんやろかって」
そうだ、もう老後を見据えても良い歳だ。今はまだばりばりお仕事ができるほど元気だが、身体だってじわじわと自由が利かなくなって行くかも知れない。
矍鑠としている人を見かけることも多いし、テレビで鉄棒の大車輪をしているお爺ちゃんを見たときには目を剥いたりもしたが、自分の両親がどうなるかなんて分からない。予想なんてできるわけが無いのだ。
「私もめぐみも、先々は両親、あ、世都らにとっては祖父ちゃんたちみたいに施設とか高齢者向けのに行こうと思ってる。親父たちを見て、私らも世都らに迷惑掛けられへんと思ってな」
お父さんのこの言葉に、世都は少なからずほっとしてしまった。冷たいだろうか。だがやはり、世都とお父さん、お母さんの間には、信頼関係があまり築けていないのだ。龍ちゃんもきっとそうだと思う。
「でもな、ふと思ったんや。今までずっと仕事ばっかりの私らに、何が残されてるんやろうって」
お父さんは苦笑する。いや、お仕事に邁進していれば、それなりの成果だってあるだろう。慕う人だっていると思う。確かにお父さんとお母さんは親としての評価は難しいかも知れないが、お仕事では相応のものが生み出されているのでは無いのか。
「世都も龍平も、ここ近年姉さん、あ、伯母さんの家に行ってるやろ、正月と盆に」
「うん。お邪魔さしてもろてるけど」
それは、一応世都からもお父さんに連絡だけはしていたことだ。伯母ちゃんはお父さんのお姉さんだから、義理のつもりで知らせていた。
きょとんとした世都に対して、お父さんは何度目か分からない苦笑を浮かべる。
「姉さんからも連絡もろたんや。これから私とめぐみがどうなろうが知ったこっちゃあらへんけど、世都と龍平はそうもいかん。親代わりやなんておこがましいけど、血縁としてできることをやる。あんたらは邪魔すんな、って」
さすが伯母ちゃん。情が厚くて辛辣だ。義理と責任を果たさないお父さんたちはばっさりと切り捨て、寄る辺を無くした世都たちには手を差し伸べてくれるのだ。
世都も龍ちゃんも、実家を出たときにはとうに成人していたのだから、自立していて当たり前だ。だがいざというときに頼れる先が姉だけ、弟だけだという状況。親は健在なのに当てにならないなんて。
世都たちにとってそれは当然の世界ではあったが、伯母ちゃんから伸ばされた手は、世都たちを癒してくれたのだ。
「そんときは、何も思わんかった。私もめぐみも忙しかったから、休めるときには休みたかったし、勝手にやっとってくれたらええわって。でも少し余裕が出て来たらな、世都と龍平のことを思い出したんや」
思い出したって。世都はつい苦笑いしてしまう。この両親に親としての役割りを期待していたわけでは無いが、ほとんどの親というものは、いつでも子どもを思っているものでは無いのか。それともそれは世都の幻想なのだろうか。
お父さんもお母さんも、すっかりと肩を落としてしまう。お母さんはまだ一言も発していないが、気持ちはお父さんと同じなのだろう。
「世都が産まれたとき、龍平が産まれたとき、どっちもめっちゃ嬉しかったんや。可愛くてなぁ。それやのに何でこんなことになってしもたんかなぁって」
それはお祖母ちゃんたちからも聞いてはいた。確かに産まれたばかりの我が子は愛おしかったのだろう。だがきっとふたりは、それと育児の現実が直結しなかった。自分たちがしなければならないことなのに、押し付けあっていたと聞いていたから、自分ごととして捉えてはいなかったのだろう。あくまで世都の想像でしか無いが。
「世都、龍平とこの店始めるとき、知らせてくれたやろ」
「うん」
それも子としての義理だと思ったからだ。お母さんへは龍ちゃんが知らせたはずだ。
「ふたりがどんな店しとんのか、どないしとんのか気になって、高階さんとこに相談したんや」
「うん、そっからが俺の出番やな」
世都が視線を向けると、高階さんは軽い調子でにっと口角を上げた。