結城はなさんが「はなやぎ」に飛び込んで来たのは、20時ごろのことだった。
華奢な女性で、長い黒髪はまっすぐに背中に伸びている。今日はサーモンピンクのロング丈ワンピースをまとっていた。
その結城さんは今、ワイングラスに注いだすず音を手に、カウンタ席の奥でまんじりと世都の手元を見つめている。世都の手にはタロットカードがあった。
すず音は、宮城県の一ノ蔵が醸す、スパークリングタイプの日本酒である。お米の優しい甘さの中にほのかな甘酸っぱさが覗き、炭酸の爽やかさが口に広がるのだ。
世都はサービスで、こうして時々お客さまを占っている。とは言え暗示を出す1枚占いや、込み入ってもスリーカードまでと決めている。あくまでサービスだし、日本酒のサーブは龍平くんに任せられても、お料理をおろそかにはできないからだ。
結城さんは実はあまり日本酒が得意では無い。だからここに来ても甘口日本酒のハイボールかスパークリング日本酒のどちらかを頼む。
結城さんもご常連と言えないことも無い。が、結城さんの場合はこうして占って欲しいことができた場合のみ、ひょっこり現れるのである。
そしてその相談内容は、決まって恋愛がらみだった。それは今日もだった。これまでも結城さん相手には巧く行くか行かないか、そして成就するには、を占ってばかりだった。
世都は正直、呆れ半分といったところだった。お客さま相手に良く無い感情だとは分かっているのだが、どうも都合よく利用されている感が否めないのだ。
だがこうして注文があり、占いを求められるなら、世都のルールの範囲内で応えるのが女将としての務めである。
「あたし、友だちは大事なんですけど、でも彼もほんまにかっこよくて!」
結城さんはほんのりと頬を染めて、胸元で拳を握りしめて力説する。されてもされんでも結果は変わらんて。世都はそんなことを思いながら、カードを1枚めくった。
「……皇帝の正位置」
世都はぽつりと呟く。これは結城さんの望んでいるカードだと言える。友だちは大事。そう言いながら、結城さんは明らかに意中の男性との距離を縮めようとしているのが見て取れていたからだ。
その男性は結城さんと同じ会社の人なのだそうだ。部署が違うし、最近までお付き合いしている人がいたので眼中に無かったが、フリーになって周りを見渡してみると、他の女性社員がその男性のことで騒いでいたのだ。
「最近中途で入って来た開発部の山縣さん、ほんまかっこええよなぁ」
そこで興味が沸いた結城さんは、時間を見つけて開発部まで見に行った。失恋したところだったし、完全な物見遊山だったわけだが。
「ほんまにかっこええやん!」
一目惚れだった。すらりと高い身長、長い足、切れ長な目、通った鼻筋。まるでアイドルの様な容姿だったのだ。開発部だったので白衣を着ていたことも、その端正さを際立たせた。左手の薬指に指輪が無いことも素早くチェックした。
この惚れやすいのが、結城さんの良いところでもあり、悪いところでもある。この結果を伝えれば、きっと結城さんは突っ走るだろう。それは時と場合によっては、素晴らしい行動力と言える。
しかし、結城さんが会社内でいちばん仲が良い同僚が、その山縣さんを本気で思っているそうなのだ。だから結城さんは迷っている。そう「見せかけて」いる。
世都は占い師として、出た結果を言うまでだ。そのあとどうするかは、結城さんに委ねるしか無い。世都は小さく息を吐いた。
「皇帝の正位置です。困難を乗り越えて、望むもんを獲得しようていう強い意志。なんで結城さんはお友だちのことは関係無く、その山縣さんを射止めようとされてはる」
やはり図星だったのか、結城さんは「えへへ」と照れた様に笑った。もう心を決めているのなら、世都が占う必要など無いのだと思うのだが、きっと背中を押して欲しかったのだろう。
「なら、その通りにされるとええと思いますよ。ただしええとこばかりやありません。わがままやったり、権力を振りかざしたりとか、そういう意味もあるんです。そういうところを気を付けたら、もしかしたら巧く行くかも知れませんね」
「はい! ありがとうございます!」
結果を聞きながら顔を赤くしたり青くしたりしていた結城さんだが、結局は晴れやかな表情になっていた。
すず音をぐいと飲み干してワイングラスを力強くカウンタに置くと、軽やかに椅子から降りた。
「ごちそうさまです! お会計お願いします」
「はい」
世都は苦笑しそうになりながらも、龍平くんに目配せする。龍平くんも苦笑いを返しながら、結城さんのものと思しき伝票を取り上げた。
「はなやぎ」ではお通しを出さない代わりにチャージ料もいただいていない。大阪人はチャージ料に厳しい人も多く、いわく「なんで頼んでも無いもんに金払わなあかんねん」だ。
だから結城さんのお代はすず音1杯分のみだ。ワンカードとは言え占いをしてそれだけかと思われそうだが、「はなやぎ」はそういうお店なのだから、個人の感情は別として異論は無いのだ。
「お待たせしました」
龍平くんが結城さんに金額を記した紙片を差し出す。結城さんはいそいそとブランドものの黒い財布を取り出して、紙幣で支払った。龍平くんは速やかにお釣りを用意する。
「ありがとうございましたー」
語尾にハートマークが付いていてもおかしく無い調子で言うと、結城さんはスキップでもしそうな足取りで「はなやぎ」を出て行った。他のお客さまはそんな結城さんには興味も無いし、特に視線も送らない。だが。
「わはは、結城さんは相変わらずやなぁ」
そう言ってからからと笑うのは、ご常連の高階さんだった。高階さんは既に日本酒ハイボールをお供に食事を終え、今は川中島幻舞の特別本醸造の冷やを傾けながら、きずしをつまんでいた。西日本の呼び方できずし、東日本で言うとしめ鯖である。
川中島幻舞は長野県の酒千蔵野が醸造する日本酒である。淡麗で良いバランスが取れたこの日本酒は常温、冷やで飲むのがベストだと、酒造のおすすめなのである。
「ふふ」
世都はやはり苦笑するしか無い。高階さんはご常連中のご常連なので、結城さんの癖も知っているのだ。多くは語らずとも、見ているだけで分かってしまう結城さんの分かりやすさ。良いのか悪いのか。
と同時に、開店前に出た「カップの4」はこれを暗示していたのでは、と世都は小さくため息を吐いたのだった。
華奢な女性で、長い黒髪はまっすぐに背中に伸びている。今日はサーモンピンクのロング丈ワンピースをまとっていた。
その結城さんは今、ワイングラスに注いだすず音を手に、カウンタ席の奥でまんじりと世都の手元を見つめている。世都の手にはタロットカードがあった。
すず音は、宮城県の一ノ蔵が醸す、スパークリングタイプの日本酒である。お米の優しい甘さの中にほのかな甘酸っぱさが覗き、炭酸の爽やかさが口に広がるのだ。
世都はサービスで、こうして時々お客さまを占っている。とは言え暗示を出す1枚占いや、込み入ってもスリーカードまでと決めている。あくまでサービスだし、日本酒のサーブは龍平くんに任せられても、お料理をおろそかにはできないからだ。
結城さんは実はあまり日本酒が得意では無い。だからここに来ても甘口日本酒のハイボールかスパークリング日本酒のどちらかを頼む。
結城さんもご常連と言えないことも無い。が、結城さんの場合はこうして占って欲しいことができた場合のみ、ひょっこり現れるのである。
そしてその相談内容は、決まって恋愛がらみだった。それは今日もだった。これまでも結城さん相手には巧く行くか行かないか、そして成就するには、を占ってばかりだった。
世都は正直、呆れ半分といったところだった。お客さま相手に良く無い感情だとは分かっているのだが、どうも都合よく利用されている感が否めないのだ。
だがこうして注文があり、占いを求められるなら、世都のルールの範囲内で応えるのが女将としての務めである。
「あたし、友だちは大事なんですけど、でも彼もほんまにかっこよくて!」
結城さんはほんのりと頬を染めて、胸元で拳を握りしめて力説する。されてもされんでも結果は変わらんて。世都はそんなことを思いながら、カードを1枚めくった。
「……皇帝の正位置」
世都はぽつりと呟く。これは結城さんの望んでいるカードだと言える。友だちは大事。そう言いながら、結城さんは明らかに意中の男性との距離を縮めようとしているのが見て取れていたからだ。
その男性は結城さんと同じ会社の人なのだそうだ。部署が違うし、最近までお付き合いしている人がいたので眼中に無かったが、フリーになって周りを見渡してみると、他の女性社員がその男性のことで騒いでいたのだ。
「最近中途で入って来た開発部の山縣さん、ほんまかっこええよなぁ」
そこで興味が沸いた結城さんは、時間を見つけて開発部まで見に行った。失恋したところだったし、完全な物見遊山だったわけだが。
「ほんまにかっこええやん!」
一目惚れだった。すらりと高い身長、長い足、切れ長な目、通った鼻筋。まるでアイドルの様な容姿だったのだ。開発部だったので白衣を着ていたことも、その端正さを際立たせた。左手の薬指に指輪が無いことも素早くチェックした。
この惚れやすいのが、結城さんの良いところでもあり、悪いところでもある。この結果を伝えれば、きっと結城さんは突っ走るだろう。それは時と場合によっては、素晴らしい行動力と言える。
しかし、結城さんが会社内でいちばん仲が良い同僚が、その山縣さんを本気で思っているそうなのだ。だから結城さんは迷っている。そう「見せかけて」いる。
世都は占い師として、出た結果を言うまでだ。そのあとどうするかは、結城さんに委ねるしか無い。世都は小さく息を吐いた。
「皇帝の正位置です。困難を乗り越えて、望むもんを獲得しようていう強い意志。なんで結城さんはお友だちのことは関係無く、その山縣さんを射止めようとされてはる」
やはり図星だったのか、結城さんは「えへへ」と照れた様に笑った。もう心を決めているのなら、世都が占う必要など無いのだと思うのだが、きっと背中を押して欲しかったのだろう。
「なら、その通りにされるとええと思いますよ。ただしええとこばかりやありません。わがままやったり、権力を振りかざしたりとか、そういう意味もあるんです。そういうところを気を付けたら、もしかしたら巧く行くかも知れませんね」
「はい! ありがとうございます!」
結果を聞きながら顔を赤くしたり青くしたりしていた結城さんだが、結局は晴れやかな表情になっていた。
すず音をぐいと飲み干してワイングラスを力強くカウンタに置くと、軽やかに椅子から降りた。
「ごちそうさまです! お会計お願いします」
「はい」
世都は苦笑しそうになりながらも、龍平くんに目配せする。龍平くんも苦笑いを返しながら、結城さんのものと思しき伝票を取り上げた。
「はなやぎ」ではお通しを出さない代わりにチャージ料もいただいていない。大阪人はチャージ料に厳しい人も多く、いわく「なんで頼んでも無いもんに金払わなあかんねん」だ。
だから結城さんのお代はすず音1杯分のみだ。ワンカードとは言え占いをしてそれだけかと思われそうだが、「はなやぎ」はそういうお店なのだから、個人の感情は別として異論は無いのだ。
「お待たせしました」
龍平くんが結城さんに金額を記した紙片を差し出す。結城さんはいそいそとブランドものの黒い財布を取り出して、紙幣で支払った。龍平くんは速やかにお釣りを用意する。
「ありがとうございましたー」
語尾にハートマークが付いていてもおかしく無い調子で言うと、結城さんはスキップでもしそうな足取りで「はなやぎ」を出て行った。他のお客さまはそんな結城さんには興味も無いし、特に視線も送らない。だが。
「わはは、結城さんは相変わらずやなぁ」
そう言ってからからと笑うのは、ご常連の高階さんだった。高階さんは既に日本酒ハイボールをお供に食事を終え、今は川中島幻舞の特別本醸造の冷やを傾けながら、きずしをつまんでいた。西日本の呼び方できずし、東日本で言うとしめ鯖である。
川中島幻舞は長野県の酒千蔵野が醸造する日本酒である。淡麗で良いバランスが取れたこの日本酒は常温、冷やで飲むのがベストだと、酒造のおすすめなのである。
「ふふ」
世都はやはり苦笑するしか無い。高階さんはご常連中のご常連なので、結城さんの癖も知っているのだ。多くは語らずとも、見ているだけで分かってしまう結城さんの分かりやすさ。良いのか悪いのか。
と同時に、開店前に出た「カップの4」はこれを暗示していたのでは、と世都は小さくため息を吐いたのだった。