相川さんのお相手は自分の両親に、相川さんを紹介してくれた。いつになるか分からないが、将来結婚したいと思っている、と。
するとお父さまは好印象だったらしいが、お母さまが難色を示したのだった。
お相手いわく、お母さまは箱入り娘で働いたことが無く、お金の苦労をしたことが無いのだそうだ。だから奨学金を、借金を受けてまで何かを成し遂げることに理解が無いとのことだった。
親なら、自分の子どもの幸せを願うのは当然のことだ。だからお母さまが疎んでも不思議では無い。
返し終わっているなら大丈夫なのだろうが、結婚したとなったら、返済のお金はどこから出るのか、それは大きな問題だと言えた。
「私は結婚しても仕事は続けるつもりでおります。奨学金はもちろん自分の稼ぎから返して行きます。お相手にもそう話してますし、納得してくれてます。生活費と貯金と家事は折半、残りがお小遣いで、そこから返済します。それでもやっぱり、心象は悪いもんなんでしょうね……」
相川さんはそう言ってうなだれる。そんな陰りのある相川さんもとても美しく、世都は不謹慎ながらも見惚れてしまいそうになった。
今の相川さんは、きっとお仕事にも真剣に打ち込んでいる。奨学金を借りてまで学びたかった学問で、その研究を続けるために大学院博士課程にまで行ったのだ。大学4年間で卒業して民間の研究所に行く道だってあったが、大学には相川さんが尊敬している教授がいるのだそうだ。そう以前教えてくれた。
「なんで、アルバイトとかして前倒しで返済をとも思ったんですけど、私は国立大学の職員です。副業できないんです。公務員や無くなったんですけど、扱いとしてはみなし公務員なんで。今のお給料から返済額を増やそうと思ったら、もっと節約するか、貯金額を減らさなあきません。今の私は貯金が無いんが不安なんです。結婚資金もそうですけど、やっぱりたいがいのことはお金でどうにかなりますから」
その言葉に、世都は違和感を持った。金の亡者というわけでは無いが、お金に固執しているのだろうかと思わせるせりふに聞こえたからだ。
「相川さんの親御さんは、何て言うてはるんですか?」
世都の問いに、相川さんは苦笑を浮かべた。
「おらんみたいなもんです。私、ネグレクトに遭うてたんですよ。母子家庭で、私、母に望まれて産まれたんや無いんですよ」
あまりのことに世都は言葉を失う。育児放棄、虐待では無いか。相川さんの背景はかなり過酷なものの様だ。なのに相川さんはお箸の使い方も綺麗だし、とてもお行儀が良い。きっと相当苦労をしたのだろう。
本来親御さんから受けられる愛情や教育を受けられなかった。それでもきっと相川さんは奮起し、自らを育て上げた。
やはり、相川さんはとても聡明な人なのだ。
「母はね、昔はアイドルやったんですって。10代の後半でデビューして、でもなかなか売れへんかったみたいなんですけど。そんなときに私を妊娠してしもうて、気付かずにおったらお腹が大きくなってきてしもて、もう堕ろせんくなってしもて。そうなったら事務所も当然解雇ですよねぇ。で、泣く泣く引退して大阪に帰って来て、私を産んだんですけど」
相川さんは言葉を切って、グラスを傾けて形の良い唇を湿らせた。お母さまがアイドルだったということは、きっと容姿も整っているのだろう。相川さんはお母さま似なのだろうか。
「最初は良かったんですよ。祖父母がおったんで。でも私が小さいころにふたりが相次いで亡くなって、母はひとりで私を育てなあかんくなった。そしたらもうめちゃくちゃですよ。母はずっと、「何で私がこんな目に」て思ってたから、その鬱憤が全部私に来たんですよね。それでも転機が来て。母が実業家の男性と結婚したんですよ。私が中学生のころです」
お母さまは大阪堂山町のクラブでフロアレディをして生計を立てていたそうだ。堂山町は大阪梅田の一大繁華街、阪急東通商店街を通り抜けたところにある歓楽街である。西日本最大のゲイタウンとしての顔も持つ。
お母さまの結婚相手はそのクラブのお客さまである。お母さまは若くして相川さんを産んだので、当時もまだ若くて綺麗だったのだろう。もちろん元アイドル由縁の愛想の良さなどもあったのかも知れない。
「母は私の存在を隠して、結婚して。それから母は家に帰って来んくなりました。私ももう中学生になれば自分のことも家事もできるんで、お金さえあればひとりでどうにかなるんで。最低限の生活費だけは渡してくれたんです。少しは罪悪感もあったみたいですね」
「でもそれやと、住民票とか戸籍とかで、相手の男性にばれたりせんもんなんですか?」
「しないんですよ。子連れ結婚で相手の籍に入る場合、結婚届だけやと、子どもは元の戸籍のままなんです。相手の戸籍に入るためには別の手続きがいるんですよ。それに母は初婚でしたしね。戸籍にバツも付いて無いんで」
「なるほど……」
世都はこの辺りに疎いので、初耳なことばかりである。と同時に、相川さんのお金に対する感情にも納得がいった。お母さまがどれだけのお金を相川さんに渡していたかは分からないが、お金があるからこそ乗り越えられた局面も多かったのだろう。
そんな生活の中で、相川さんは学問を志し、それをやり遂げ、今も邁進している。本当に凄いことだと世都は思うのだ。
そのカードを見たとき、世都は落胆してしまった。それが顔に出てしまったのか、相川さんは「ああ……」とため息混じりの声を漏らした。
「ソードの、4です」
意味は休息、タイミングを計る、退却、休戦など。今の相川さんにとっての展望が何ひとつ無い。
「……現状、奨学金をお返しすることしか、道は無い様です」
「やっぱり、そうですか」
相川さんは諦めの境地と言う様に、目を伏せた。そんな相川さんもとても美しかったが、その美貌、そして頭脳を持ってしても、打開できないことはある。
「せめて奨学金が給付型やったら良かったんですけどねぇ。母が実業家と結婚したんで、申請が通らんかったんですよ。母は母で、結婚相手には私のこと秘密にしてるから大きなお金は動かせんで。まぁあの母親なんで、私の学費をどうにかしようなんて、思ってくれへんかったでしょうけど」
相川さんは自虐的に苦笑した。どうして真摯に生きている人が、これ以上大変な思いをしなければならないのか。相川さんはただ学びたかっただけなのに。
今、奨学金の返済がネックになって、未来が拓けない人も多くいるのかも知れない。相川さんだけでは無いと言われればそうなのだろう。だが世都は今目の前にいる相川さんのために、何かできないだろうかと思案するが。
何も、無いではないか。
世都は相川さん行きつけのお店の店主、それだけの立場である。一体何ができるというのか。奨学金を肩代わりできるわけでは無い。相手のお母さまを説得できるわけでも無い。
自分の力の無さに情けなくなる。だが相川さん本人はもっと不甲斐無いと思っているだろう。
「そうですね。真面目に働いて、こつこつ返して行くことにします。終わるまでに分かれることになってしもたらそれまでってことなんでしょう。仕方が無いですよね」
世都は応えることができなかった。相川さんが初めて占って欲しがった。きっと藁にもすがる思いだったのだろう。だが世都は、良い結果を示すことができなかった。
本当に、無力だ。世都の心中に悔しさが広がった。
2週間後、5月に入ろうとしていた。町のあちらこちらではつつじが満開になり、ふわりと甘い香りを漂わせている。
今日は週末だ。相川さんは来てくれるだろうか。
高階さんは今夜も主の様な顔で、カウンタ席の一角を陣取っている。サマーゴッデスのハイボールをお供に、豚の角煮とだし巻き卵、オニオンスライスでお食事を楽しんでいた。
ありがたいことにお客さまは多く、ソファ席はふたつとも埋まり、カウンタ席もちらほらと空きがある程度。世都も龍平くんも忙しく動き回る。
龍平くんが日本酒を用意し、洗い物などもして、世都はフライパンを振るう。中身はきゃべつなどのお野菜に豚ばら肉と、おうどん。「はなやぎ」の焼うどんは肴に締めにと地味に人気なのである。
味付けは昆布茶とお醤油、おうどんをほぐすための日本酒。盛り付けてから削り節をふんわりと掛ける。日本酒に合うのかと世都も思うのだが、これが評判なのだ。
仕上がったので、テーブルに運ぶ。いつもは龍平くんにお願いするのだが、あいにく手が空いていなかった。
「焼うどん、お待たせしました」
注文のあったソファ席に置く。お客さまから「ありがとう」と声をいただいた。
「あ、なぁ、女将」
「はい?」
壮年の男性のお客さまに話しかけられ、世都は戻ろうとした足を止める。
「変なこと聞くけど、女将は大学行った?」
「あ、はい。行きましたよ」
「志望校っちゅうか、どういう基準で選んだとかある?」
「私は……」
世都は記憶を掘り起こす。もう10年以上前のことだ。
「確か、そんな明確な目標とかがあったわけや無いんですけど、将来潰しが効く様にて、経済学部を選びましたねぇ。そんときにお店やりたいとか思ってたら、経営学部とか選んどったかもですけど」
当時の世都には明確な夢なども無かった。だが親に大学進学の重要性を説かれ、なら、と進学を決めたのだ。
「まぁ、女将ですらそんな感じか。いやな、息子が来年高校卒業でなぁ、進学か就職か決めあぐねとるみたいやねんけど、今って昔に比べたら進学率高いやろ。猫も杓子もっちゅう感じで」
「そうですねぇ。今は進学できる環境にあるんやったら、やっぱり進学がええんでしょうけど、そればっかりはねぇ。結局進学しても、ちゃんと卒業できる様にお勉強するかどうかが将来の分かれ道な気もしますし。就職のための活動とかもねぇ」
「せやわなぁ」
お客さまは憂鬱そうにため息を吐く。
「いくら大学行っても、遊び回られたらどないやねんて感じやしなぁ。あ、呼び止めて済まんな」
「いえ、ごゆっくりどうぞ」
今度こそ世都はカウンタの内側に戻る。次のお料理に取り掛かるために、お鍋を出した。
来年度に高校を卒業するなら、もう希望の進路を決めていなければいけない時期だ。進路指導などは高校1年、入学直後から始まっているはずである。
だが、15歳や16歳で3年後を明確に見据えることができる学生が何人いるのか。10代にとっての3年間はとても長く、「今から言われても」と思う子だって多いかも知れない。
相川さんはどうだったのだろうか。相川さんのかつての環境では、就職を選んでもおかしくなかった。それでも大学生になることを選んだのだ。苦学生になることを覚悟して。そしてやり遂げた。
そう思うと、やはり相川さんの意志の強さと聡明さに感嘆するのだった。
相川さんが姿を見せたのは、20時を回るころだった。世都はほっとする。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。あの、先日はおかしなお話をしてしもうて、すいませんでした」
相川さんはそう言って、たおやかに頭を下げた。
「いえ、とんでもありません。こちらこそプライベートに踏み入ってしもうて」
世都が焦ると、相川さんは「いいえ」と首を振った。
「私から言い出したんですから。なんでしょうねぇ、女将さんは話しやすい雰囲気があるっちゅうか。ついつい話を聞いて欲しくなってまうんですよねぇ」
相川さんはそう言って苦笑する。こちらとしては、そういうお店作りができていると受け取ることができて、とても嬉しい。
やはりお酒を提供するお店であるならば、お客さまの緊張などをほどき、ゆったりと寛いでもらえる空間作りをしたい。口が軽やかになるのなら、きっと少しでも成功しているのだろう。
「私でよければいつでもどうぞ。ささ、お掛けください」
「はい。ありがとうございます」
相川さんは空いているカウンタ席に腰を降ろし、世都から暖かいおしぼりを受け取った。そしていつもの千利休純米酒と、お惣菜からうすいえんどうの卵とじを頼んだ。
うすいえんどうは、大阪の羽曳野市碓井にグリンピースが入ってきたのち、品種改良されて作られたお豆で、関西を中心に食べられている。和歌山県産が多く出回っている印象だ。青臭さと言われるものが控えめで、火を通せばほっくりと甘さが舌に乗る。春先から初夏にしか出回らないご馳走である。
それをみりんとお醤油でシンプルに調味したお出汁でことことと炊き、卵でとじるのだ。うすいえんどうの鮮やかな緑色と卵の可愛らしい黄色で、地味ながら見た目も良い。ふわふわなめらかな卵とうすいえんどうの旨味が合わさり、ほっと和む味になるのである。
相川さんは千利休で喉を潤したあと、添えた木製スプーンで卵とじを口に運ぶ。もぐ、と口を動かして、目尻を下げた。喜んでもらえた様だ。
ここでお酒とお料理を楽しんでくれているときだけは、大変なことを少しでも忘れて欲しい。いつでも相川さんの心を占めてはいるだろうが、ほんのわずかな時間でも。
「女将さん、お手が空いたときで大丈夫なんで、また占っていただくことってできますか?」
相川さんからそんなせりふが飛び出し、世都は目を丸くした。前回の占いでは良い結果を出すことができなかった。それは相川さんを落胆させたはずだ。なのに、なぜ。
と同時に、世都は開店前の占いの結果を思い出す。
戦車の正位置。前進、克服、成功。そんな意味を持つ。
もしかしたら今日なら、良い結果が出るかも知れない。世都は高揚する。
「実は、先日母から電話があったんです。元気か? って。久しぶりに会いたいて言われて、明日約束したんです。なんやそれで、何かが動いてる様な気がして」
虫の知らせと言うのだろうか。相川さんの口ぶりだともう何年も没交渉だった様だから、何かを感じたのだろう。
「大丈夫ですよ。あと少しだけお待ちいただけますか」
「はい。ありがとうございます」
早く占って差し上げたい。世都はあとひとつだけの注文を手早くこなすべく、フライパンを出した。
3山に分けたタロットカードをひとつにまとめる。注文の豚の生姜焼きを焼き終えた世都は迅る気持ちを抑え、落ち着きを心掛けながらカードを扱った。お酒と作り置きお惣菜の注文なら龍平くんに任せられる。
そして1枚めくり、世都は目を見開いた。ああ、何ということだ。世都はあらゆるものに感謝したくなった。
「運命の輪、正位置です」
意味は好転、変化、転機、再起など。今の相川さんにとって、とても良い結果では無いか。
「相川さんが今のまま頑張られていれば、好機が訪れますよ。運命の輪は変化を告げるカードで、正位置なのでええもんなんです。絶対にタイミングを逃さん様に。それを心掛けてください」
すると相川さんは溢れんばかりに目を丸くし、頬をほんのりと赤らめた。
「ほんまですか?」
「はい。できればぜひ信じて欲しいです」
信じるものは救われるでは無いが、そういう呼び寄せはあるのだ。日々を真剣に取り組む相川さんが報われないなんて、そんな世界は嫌だ。それは世都の感情の話ではあるが、そう信じたいのだ。
「ありがとうございます。そう言うてもらえると、何だか救われます」
相川さんは泣き笑いの様な表情になって、口角を上げた。
「なぁ、相川さんにあんなこと言うて大丈夫なん?」
高階さんの素直な疑問なのだろう。高階さんは来店頻度が高いこともあり、2週間前にも来ていたのだ。
「そう、占いで出ましたしねぇ」
世都が応えると、高階さんは「ふぅん?」と胡乱げな目を向けて来る。
「あの人、背景めっちゃ重いやん。それがどうにかなるん? 宝くじ当たるとか。奨学金完済できるほどの。それかお母さんから何かあるか」
「それもひとつの好転ですよね」
世都があっさりと言うと、高階さんは諦めた様に「せやな」と言い、グラスに口を付けた。
世都とて、例え占いの結果とは言え、無責任なことは言いたく無い。だがこれは世都の願望でもある。
相川さんがお母さまから捨てられてしまった様な形になってしまっているのは悲しいことだ。家族は必ずしも一緒に暮らすものだとは思ってはいないが、当時相川さんはまだ中学生だったのだ。充分に親御さんの庇護下にあってしかるべきだった。
お母さまが何を思って相川さんにコンタクトを取ったのかは分からない。実業家と結婚しているとのことだし、占いの結果から見ても、まさかお金の無心なんてことは無いだろう。お母さまが相川さんの足かせになるようなことになってはいけないのだ。
今日のお惣菜は何にしようか。春もたけなわ、山菜なども出回っている。筍はこの前使ったことだし。ああ、でも生で買える間に何度でも使いたい。若竹煮以外のお料理だって美味しい。わさび醤油で食べても美味しいのが生の筍の特典なのだ。
今日は相川さんが、数年ぶりにお母さまに会うはずである。つい世都までどきどきと緊張してしまう。どうか相川さんにとって、良い再会であります様にと、心の底から願った。
世都は驚いた。紅潮した顔の相川さんが来店したからだ。口開けのお客さまだった高階さんもびっくりした様で、目を丸くしている。
相川さんは昨日も来てくれたし、まさか今日もとは思いもよらず。
「いらっしゃいませ」
相川さんは普段から節約していて、外食と言えば恋人とのデートと2週間に1度の「はなやぎ」だ。それ以外はよほど疲れていない限り、自炊をしているはずである。だからまさか、の思いが大きく、世都は取り繕うことができなかった。
「こんばんは。連日ですいません」
「とんでもありません。どうぞお掛けくださいね。変な顔してしもて申し訳無いです」
「いえ、こちらこそ驚かせてしもてすいません。女将さんに絶対に聞いて欲しくて」
そう言う相川さんは、少なからず興奮している様に見えた。もしかしたらお母さまと何かあったのだろうか。
相川さんがカウンタ席に掛けたので、世都は温かいおしぼりを渡す。「ありがとうございます」と受け取って手を拭いた相川さんは、続けておしながきを手にする。そして、悩み始めた。これも珍しいことだ。肴のお惣菜はともかく、お酒に関してはいつも千利休即決だったからだ。
相川さんのつぶやきが世都の耳にかすかに入ってくる。
「どうしよ……今日は贅沢しても……でも……ううんやっぱり……」
そんなことをぶつぶつと言いながら、真剣な表情でおしながきを睨んでいる。そして。
「やっぱり千利休ください。それと春きゃべつのコールスローを」
「はい。お待ちくださいね」
春にだけ出回る春きゃべつはふわふわで柔らかく、甘みも強くて瑞々しい。それを太めの千切りにし、短冊切りにしたハムと合わせた。
調味料はマヨネーズをメインに、シンプルにお酢と白こしょう。あっさりと食べられる様にしてある。春きゃべつがまろやかな酸味をまとって、持つ旨味を引き上げるのだ。
世都はコールスローを小鉢に盛り付け、濃紺の切子ロックグラスに千利休を注いだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
相川さんはちびりとグラスを傾け、ほぅ、と心地よさげな息を吐いた。
「あの、実は、奨学金、全額返済できそうなんです」
「え?」
世都は目を見開く。本当に宝くじに当たったのだろうか。
「今日母と久々に会うたんですけど、同席しはった人がいまして」
待ち合わせをした大阪梅田のカフェでお母さまの隣にいたのは、チャコールグレイのスーツで、身なりの良い壮年の男性。お母さまの結婚相手だったそうだ。
「あら、まぁ」
「ばれてもたそうです。母、結婚してから毎年人間ドッグを受けとって、そん中には婦人科検診もあるんですけど、それで経産婦かもって疑惑が出て。担当のお医者さんはお相手に言うかどうか数年も悩みはったみたいなんですけど、さすがにもう黙ってられへん言うて」
お相手の知るところになったのだそうだ。お相手はお母さまに問いただす前に、興信所に依頼して真実を突き止め、相川さんを捜索した。
相川さんは今でこそワンルームマンションでひとり暮らしなのだが、お母さまが出て行くまではご祖父母と一緒に暮らしていた一戸建て、お母さまにとっての実家にいた。
お母さま出奔のタイミングで一戸建てを処分し、アパートに移り住んだのだ。もう帰っては来ないだろうと思ったから。中学生ひとりだと一戸建ては持て余してしまう。
興信所職員はその痕跡を辿り、相川さんにたどり着いた。そこで初めてお母さまに問うたそうだ。
「お相手は母に怒ったりはせんかったそうです。ただ母と結婚したことで、私に苦労さしたんが申し訳無いって。母がお相手を騙したことになんのに、お相手はただただ私に悪いて思ってるみたいで」
婚姻歴は無かったものの、子どもがいることを隠し、その子を捨てる様な形で自分と結婚した相手なら、離婚などを選んでもおかしくは無い。だがそのお相手はそうしないと言ったそうだ。
「正直、少しは腹立たしさもあります。ですがこんなことをする様な人を解放してしまうと、あなたにさらに迷惑を掛ける可能性がある。そして僕の様な人がまた出る可能性がある。それはあかんでしょう」
そのお相手の穏やかなせりふを、お母さまは横でバツの悪そうな顔で聞いていたそうだ。お母さまはお相手からの信用を失ったかも知れないが、ひとまず生活の心配はしなくて良いのだから、御の字だろう。
お相手は相川さんや他の人の迷惑にならない様に、結婚を継続してくれると言うのだ。それは相川さんにとってもありがたいことなのだろう。
今でこそ奨学金の返済でいっぱいいっぱいなのだ。そこにお母さまに寄り掛かられたりしてしまえば、まともな生活すら送れなくなってしまうかも知れない。
「お相手に、まぁ母にもなんですけど、今の私の状況を話しました。奨学金を返してること、結婚を考えてること、でも奨学金のことで親御さんに反対されてること。そしたらお相手さん、奨学金全額負担してくれるて言わはったんですよ。他の援助もしてくれるって」
「凄いですね……!」
世都は驚くと同時に、まるで自分のことの様に嬉しくなってしまう。報われた、そう思った。相川さんは日々を真摯に送り、吉事を信じ、この局面をたぐり寄せたのだ。
そして、このチャンスを掴み取ったのだ。本当に何ということだ。世都は緩む頬を止められなかった。
相川さんは千利休で唇を湿らすと、また穏やかな表情で口を開く。
「ご援助はさすがに断りましたけど、奨学金返済分はありがたくいただくことにしました。ほんまに奇跡が起きた気分です。ほんまやったら自分で返すんが筋なんでしょうけど、お相手さんのご厚意でもありますし。って、都合良すぎですかね」
そんなことを言いながら、苦笑を浮かべる。世都は「いいえ」と首を振った。
「今までご苦労されたんですから、当然の権利っちゅうか、受け取ってええご厚意やと思いますよ」
「苦労……、あんま苦労してきた実感は無いんですけどね」
「それは麻痺してます。はたから見たら、相川さんのこれまではめっちゃハードモードですからね」
「そうなんですかねぇ」
ご祖父母が亡くなり、お母さまとふたりになってから、相川さんは相当大変だったはずだ。お母さまはお仕事の都合で夜は家にいなかっただろうし、ネグレクトというのだからお世話もされておらず、家事などもしていたかどうかも怪しい。
それでも相川さんはこんなにも立派に成長した。これからは、これまでのことを帳消しにするほどに幸せになって欲しい。
結婚だってきっと祝福されるはずだ。それを阻んでいた奨学金の返済が解消するのだから。
「これからですよ、相川さん。きっとこれからの相川さんには、たーくさんのええことが待ってますよ!」
世都が満面の笑顔で言うと、相川さんは朗らかな笑みを浮かべた。ああ、なんて美しいのだろう。
「それやったら嬉しいです」
「凄いな。こんな漫画みたいな話、ほんまにあるんやなぁ」
高階さんが感心した様に言いながら、東洋美人純米大吟醸壱番纏を傾ける。
東洋美人は山口県の澄川酒造場さんが醸す日本酒だ。フルーティな甘さが際立っているのだが、かすかな酸味が全体を引き締めている。
お惣菜は水茄子の塩昆布漬けである。水茄子は泉州地域で栽培される大阪の特産品だ。見た目は丸く、形は京都の賀茂茄子や米茄子に似ている。
一般的な細長いお茄子と比べると水分が多くて瑞々しく、生食に適している。さっくりとした歯応えで、そっと噛み締めると爽やかなジュースが溢れてくるのだ。シーズンになれば百貨店やスーパーなどでは生はもちろん、浅漬けやぬか漬けなどが並ぶ。
塩昆布漬けは水茄子を厚めの半月切りやいちょう切りにし、ナイロン袋に塩昆布と一緒に入れて、袋越しにがしがしと揉んで作る。水茄子に昆布の旨味とほのかな塩気がまとい、良い味わいになるのだ。
漫画みたいな話。言われずとも相川さんのことだと分かる。世都もそう思う。お相手にとって相川さんは結婚相手の娘である。当時の相川さんの年齢だと、本来なら生計をともにしてもおかしくは無い。なのにそうはならなかった。
なので冷たい様だが、お相手に相川さんを助ける義理は無いと言える。事態を引き起こしたのはお母さまで、本来ならお母さまが請け負うことなのだ。
だがきっとお母さまには生活能力が無い。恐らく結婚以降はお相手に寄り掛かって生きて来たのだろう。だから相川さんの現状を招いたのだ。
相川さんに生活費を渡せるほどのお金は動かせたそうで、それだけは幸いだった。曲がりなりにも親として、それだけはと思ったのだろう。罪悪感もあったのかも知れない。
それでも相川さんは折れず、自らの道を築き上げて来た。きっとまだまだ道半ばだ。そしてこれからの相川さんの前途に、輝く光がぱぁっと差した。
「ほんまですね。でもこれで、相川さんはもっともっとええ様になりますよ」
「せやな。なんや酒もいつもより旨く感じるわ。あ、せやから相川さん、いつもは迷わず千利休やのに、今日は迷いはったんや。これからは過度な節約いらんくなるもんなぁ」
「それでも結局千利休を頼まはるところに、相川さんの堅実さが表れてる感じがしますよねぇ」
「ほんまやな」
高階さんはおかしそうに、くつくつと笑った。
1週間後の週末。お仕事終わりの相川さんが来店した。そしてその後に続くひとりの男性。お連れだろうか。歳は相川さんと変わらない様に見えた。細身の淡いグレイのスーツ姿だ。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
相川さんはぺこりと小さく頭を下げ、カウンタ席に掛ける。男性も自然に相川さんの隣に腰を降ろしたので、やはりお連れなのだろう。
世都はふたりにおしぼりを渡す。5月も中旬になりすっかりと気温も高くなって来ていて、おしぼりは常温である。
「ありがとうございます」
先に男性に渡すと、にこりと笑みを浮かべた。感じの良い人だ。続けて相川さんにも。
「ありがとうございます。あの、女将さん、こちら、お付き合いをしている畠山くんです」
「畠山です。いつも相川がお世話になっていて。僕が言うんもおかしいかもですけど、ほんまにありがとうございます」
「いえいえ。相川さんにはいつもご贔屓にしてもろて。こちらこそありがとうございます」
世都は深く頭を下げた。世都はこの畠山さんに良い印象を持った。さすが相川さんが選んだ男性である。相川さんとは大学で知り合ったのだから、畠山さんも頭脳明晰なのだろうが、人当たりがとても良い。腰も低い。内容は畏まっているのに、崩す塩梅も心得ている。
畠山さんは「とんでもありません」と、また人好きのする笑みを浮かべた。
「畠山くん、ここ日本酒めっちゃ豊富やから。畠山くんも日本酒好きやもんな」
「うん。せやからめっちゃ楽しみにしてた。相川からここのこと聞いて、連れてってーて言うても聞いてくれへんかったし」
「ここは私の隠れ家やねん。今日は女将さんに紹介したかったから一緒に来たけど、基本私ひとりで来るから。一緒に来たいときは、私にお伺いを立てること」
「そんなぁ〜、殺生やわぁ」
相川さんがぴしゃりと言ったせりふに、畠山さんはがっくりと項垂れる。おや、どうやら畠山さんは相川さんの尻に敷かれている様だ。
と同時に、世都はもしかして、と思う。相川さんはお母さまからの愛情を満足に受けることができなかった。これは試し行動なのでは無いかと。
相手の愛情が感じられなくて、でも欲しくて、それを実感できる行動をしてしまう。ネグレクトに遭った人がしがちだと聞いたことがある。相川さんに限って、と思うのだが、人の心の奥底までは分からない。
「でも、今日はやっと一緒に来れたんやから、いろいろ飲むで。相川も好きなん頼んでな」
この言葉から、普段のデートでは畠山さんが支払いを請け負っていることが伺えた。
「私、いつも千利休なんよ。好きやねん」
畠山さんは日本酒のおしながきに目を通す。そして眉根を寄せた。
「まぁた相川はいちばん安いもん頼もうとする。何でそんな遠慮するんかなぁ」
相川さんは「ふふ」と苦笑する。それが相川さんの人間性なのだろう。奢られることを後ろめたく感じる人もいる。相川さんの場合はご祖父母が亡くなってから、誰かに何かをしてもらう様なことがほとんど無かったのでは無いだろうか。
相川さんは甘えることが苦手なのかも知れない。そういう環境にいなかったから。
「ほな、今日は僕のおすすめ飲んでみてや。そうやなぁ」
畠山さんはまたおしながきに目を落とし、やがて「うん」と頷いた。
「すいません、相川に黒龍を、僕には田酒ください」
「はい。お待ちくださいね」
黒龍大吟醸龍は、兵庫県の黒龍酒造さんが醸す日本酒だ。まるでパイナップルの様にジューシーで、香り高い一品である。甘口なのだが程よい酸味もあり、すっきりと飲みやすいのだ。
田酒特別純米酒は青森県の西田酒造店で作られる日本酒である。甘みが控えめで、すっきりとした飲み口。ミントを思わせるような爽やかさも併せ持つ一品だ。
「お待たせしました」
相川さんには黄色い切子ロックグラス、畠山さんには緑の切子ロックグラスで日本酒を用意する。ふたつ並べると、まるでそこに花が咲いた様に華やかに見えるのだ。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ふたりは声を揃えてグラスを受け取り、軽くこつんと重ねて、そっと口を付けた。途端に相川さんの顔がほころぶ。
「……美味しい」
「な、黒龍も美味しいやろ。果物みたいな甘みがあってな」
相川さんの反応に、畠山さんは得意げな様子を見せた。畠山さん自身が好きなお酒なのだろう。
「あ、ご飯も頼まなな。空きっ腹やったら悪酔いしてまうわ。相川、何がええ?」
「畠山くん好きなん頼んでや。私、適当につまむから」
「またそんなこと言うんやから。僕は相川が好きなもん食べて欲しいねん」
きっと、お食事のたびにこんな応酬があるのだろう。畠山さんの声は始終穏やかだから、呆れている風でも怒っている風でも無い。きっと気遣っているだけなのだと思う。
優しい人なのだな、世都はそう感じる。
立場は人を変えることがある。例えば相川さんや畠山さんの様に高学歴であるなら、それを鼻に掛けたりする人もいる。会社で出世して上に上がれば上がるほど横柄になる人もいる。
人間なんてそんなもんだと言われればそれまでである。それでも自分を律することができる人も大勢いる。世都は余計なお世話ながら、畠山さんもそういう人であって欲しいと思う。
国立大学出身なのだから、畠山さんも「ええとこ」に就職している可能性が高い。そういう企業はきっと出世争いも苛烈だろう。それでも畠山さんには今のままでいて欲しい。
それは世都の勝手な思いである。でもどうか、相川さんを幸せにしてくれる人間性と度量を保って欲しいと思うのだ。
相川さんと畠山さんはわぁわぁと言いながら、だし巻き卵と牛すじシチュー、さわらと青ねぎの酒蒸しを頼んだ。
牛すじシチューは、デミグラスソースをベースにしている。さすがに美味しいデミグラスソースをいちから作る芸当は無いので、缶詰のものを使うのだが、赤ワインを加えて風味を上げ、コンソメスープで割っている。そこに赤味噌を溶け込ませることで、日本酒にも合う様に仕立てているのだ。
牛すじは下茹でをして余分な脂と灰汁を抜いたあと、フライパンでこんがりと焼き付けてからソースで煮込んでいる。時間を掛けてじっくりと煮込むことで柔らかくなり、ソースにも旨味が溶け出す。
使うお野菜は人参とグリンピースでシンプルに。オレンジと緑で彩りにもなるのだ。
とろっとろに煮込まれた牛すじにデミグラスソースがたっぷりと絡み、口の中で深く濃厚な旨味ががつんと広がる。そこにねっとりとした人参の甘さとぷちぷちのグリンピースの爽やかさが覗くのだ。
「ほんま、美味しいわ」
「でしょ? 私はいつもお惣菜頼むんやけど、それも季節物で固めとってめっちゃ美味しいねん」
「ほな、あとで頼もな」
「……うん」
まるではしゃぐ様な畠山さんに対して、相川さんは控えめな返事をする。やはり畠山さんにお金を使わすことに遠慮があるのだろう。後ろめたさもあるかも知れない。
相川さんは畠山さんより優位な風にしていたが、人からの厚意に慣れていなくて、だから畠山さんにご馳走されることに尻込みしてしまう。
どうにもちぐはぐな行動と心理な様に思えるのだが、きっと相川さんは自己肯定感が低いのだろう。それは親の愛情を満足に受けられなかった人に多く見られる心のあり方だと聞いたことがある。
それを高めるには、やはり人の思いやりに触れることなのだと思う。人はそうやって心を育てて行くものなのだろう。
まだまだ遅く無い。こんなに美しくて、頭脳明晰。人間性だって素晴らしいのだから、これから足りない部分はいくらでも補える。畠山さんのそばで。
1週間後、21時ごろに訪れた相川さんはひとりだった。世都にはどこか沈んでいる様に見えた。
6月に入り、大阪も梅雨の雲に覆われようとしていた。これから雨の日が増えて行くだろう。今日は曇天だった。
「いらっしゃいませ」
心配になるが、世都は明るく迎える。相川さんは「こんばんは」と表情を綻ばせた。普段ボトム姿が多い相川さんだが、今日は淡いエメラルドグリーンのワンピースだった。畠山さんとデートだったのだろうか。
「ここに来るとほっとします。また話聞いてもろてええですか?」
「もちろんですよ。ささ、お掛けください」
相川さんはカウンタ席に腰を降ろし、世都から受け取ったおしぼりで手を拭いた。
「千利休と……、それとズッキーニのおかか炒めください」
「はい。お待ちくださいね」
もう以前ほどの節約の必要は無いだろうに、今も千利休を頼む相川さん。すぐに習慣、意識を変えるのは難しいのだろう。
世都は紫色の切子ロックグラスに千利休を注ぎ、ズッキーニのおかか炒めを小鉢に盛った。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
相川さんはグラスをそっと傾けて口角を上げ、お箸でおかかをまとったズッキーニを口に運ぶと、感心した様に目を丸くした。
「ええ味わいですね。ズッキーニって洋食のイメージなんですけど、和食にもなるんですね。おかかとめっちゃ合います」
「ズッキーニ自体、あっさりな味ですからね。いろんな味付けが合いますよ。和食やったらごまと合わせても美味しいですし、中華でオイスターソースとかで炒めてもええですし、麻婆ズッキーニとかもおいしいと思いますよ」
「なるほど。いろいろ使い勝手がええんですねぇ」
このおかか炒めは、半月切りにしたズッキーニをごま油でじっくりと炒め、日本酒とみりん、お醤油で味付けをして、仕上げに削り節をたっぷりとまぶしている。
淡白ながらもほんのりと甘いズッキーニに旨味の強い削り節が絡み、深い味わいになるのだ。
順調にお箸を動かしていた相川さんだが、ふと手を止めるとお箸を箸置きに置いた。
「あの、今日、畠山くんのご両親に会うたんです。お茶をご一緒させてもろて」
ああ、だから今日はワンピースだったのか。世都は納得する。
「奨学金が返せそうって話をしたんです。それでお母さまも納得してくれる、結婚を許してくれる、私も畠山くんもそう期待したんですけど」
相川さんを肩を落としてしまった。その仕草で結果が分かってしまう。世都は悲しくなって、目を細めた。
「お母さま、いくら奨学金が返せてもそれは私のお金や無いし、それに、そんな悪い家庭環境の子はやっぱり信用できひん、て」
「畠山さんご自身は、どうやったんですか?」
すると相川さんは泣き笑いの様な表情になった。
「お母さまに怒ってくれました。ふざけんなって」
結局母さんは、相川のことが気に入らんだけや無いか。そりゃ自分は何の苦労もせずに祖父ちゃん祖母ちゃんや父さんに守られて来たやろうけど、そんな世間知らずの母さんより、人一倍苦労して来た相川の方がよっぽど信用できる。
「……言い過ぎやとも思ったんですけど、嬉しかったです」
相川さんが目を弓なりにして、頬をほのかに赤らめた。ああ、畠山さんはちゃんと相川さんを思ってくれていて、守ってくれる人なのだ。そう思うと心底安心できる。
「ええお人ですねぇ」
「はい、ほんまに」
相川さんは美しくしっとりと微笑んだ。
夫婦の関係もさることながら、嫁姑の間柄も、良いものにしようと思ったら、互いの思いやりが必要だ。
だが、畠山さんのお母さまは相川さんを良く思っていない。それが本当に相川さんの家庭の事情からなのかは分からない。と言うのも、女親はことさら息子を溺愛する傾向にあると聞いたことだあるからだ。
息子を別の女性に取られてしまう。そんな嫉妬の様な心理で嫁いびりに発展するなんて話も聞く。
それとも本当に、相川さんの背景を疎んでいるのかも知れない。お母さまは箱入り娘だということだから、相川さんの状況は価値観に無いのだと思う。就職せずにお父さまと結婚したとも言っていたので、学校、そしてママ友界隈などの狭い世界でしか世間を見ていないのかも知れないのだ。
失礼を承知で言うと、視野が狭いのだ。だがそんな人は珍しく無い。自分の知っていることだけが世にあるものだと思っている人は大勢いる。
ただ、そこに頑なさが加わるかどうかが大きな鍵になって来る。畠山さんのお母さまにはその傾向があるのでは、と世都は思った。プライドが高いとも言える。お父さまは歓迎していると言うのに、そのお話もきっと耳に入っていない。
となると、懐柔は難しいだろう。畠山さんは守ってくれる人だけど、それでも相川さんが嫌な思いをすることは避けられないかも知れない。
世都は、どうか相川さんにとって良い結果となりますようにと、願いながらタロットカードを混ぜる。
相川さんも畠山さんも大人なのだから、結婚をするのなら、極端なことを言えば両親の許しですら必要無いのだ。それでもおめでたいことなのだから、特に家族になる人には祝って欲しい、歓迎されたいと思うのは普通のことである。
相川さんはこうも言っていた。
「母のお相手はともかく、母は私のこと多分どうでもええて思ってると思うんで、私の結婚も無関心やと思うんですよ」
相川さんの実家は無いのと同じだ。さすがにお母さまの今の住まいを実家とは言えない。実のお父さまが誰なのかも知らされていないし、相川さんは自分のルーツとは縁が薄い。ならこれから築いて行くものを大事にしようと思って当然なのでは無いか。
みっつの山に分けたカードをひとつにまとめる。1枚をぺらりとめくって。
「ペンタクルの8の、正位置ですね」
意味は着実な努力、大器晩成など。努力を怠らなければ成功する、そういう解釈ができる。
「時間は掛かるかも知れませんけど、じっくりとお母さまと向き合っていけば、きっと分かってもらえると思いますよ。それに、相川さんや畠山さん、占ってる私にも思わん様なことを、お母さまが抱えてはる可能性かてあります。相川さんが嫌な思いをすることもあるかも知れませんけど、長い目で見ることが大事なんやと思います」
相川さんはごくりと喉を鳴らす。今はまだ難しいけれど、きっといつかは。それは希望としては儚いものかも知れない。それでも受け入れてもらうために諦めなければ。
「そう、ですね。頑張ってみます。俗に言う嫁いびりとか、もしかしたらあるかも知れませんけど、結婚できたとしてもあの様子やったら畠山くんが同居とか止めてくれると思うんで、それを思うと少しは気が楽です。お母さまも私の顔なんて見たく無いでしょうしね」
それは違う、と世都は言いそうになった。世都は年齢的にも結婚している友人も多いから、その手の話はちょいちょいと入ってくるのだが、嫁いびりをする人は、わざわざ会いに来ていびるのだ。だがそれは相川さんには言うまい。余計な心配を掛けさせてしまう。
それに畠山さんのお母さまがそのパターンに沿うかどうかは、分からないのだし。
お食事を終えた高階さんは、お惣菜のパプリカのナムルを食べて「白ごまええわぁ」なんてほっこりと呟く。
「しっかし、結婚て大変なんやなぁ。相川さんとこはちょっと特殊かも知れんけど」
「そうですねぇ」
しかしこの高階さんも、誰かの息子と言う立場である。
「そう言えば、高階さんてご結婚してはるんですか?」
「いや、俺は独身。まだ母さんは元気やし、自分の親がそんなんするてなったら、あ、嫁いびりな、どう思うんやろ」
「どうなんでしょうねぇ」
世都は曖昧に応えておく。
実は先日、怖い話を聞いた。大阪の男性の7割ほどがマザコンを患っている可能性があるというのだ。結婚して、大事にしなければならない人がお嫁さんになっても、実母を優先するのだと。
世都の友人も、マザコン男性と結婚してしまい、ことごとくないがしろにされてしまっているらしい。別居だしお子さんもいるので、どうにか思い留まっていると愚痴っていた。
子が親を大事にするのは素晴らしいことだと思うが、それでお嫁さんが嫌な思いをするのは世都は受け入れたがった。自分がその立場になったことが無いから、言えるのかも知れないが。
相川さんの場合、畠山さんは無茶を言うお母さまに言い返してくれたとのことだから、大丈夫だと思うのだが。
1週間後、6月になり大阪も梅雨入りした。しとしとと降る雨は飲食店のみならず商売人の天敵である。とは言え、世都と龍平くんは粛々と開店準備をする。今日も雨だった。
それでも高階さんはいつもの様に「よぅ」と訪れ、サマーゴッデスの日本酒ハイボールをお供に、ゴーヤチャンプルーでお食事を楽しんでいた。
ゴーヤチャンプルーは言わずと知れた沖縄県の郷土料理だが、ゴーヤがお手軽に買える季節になると、やはり作りたくなる一品だ。
世都は作りやすい様にアレンジを施している。豚ばら肉を炒め、種とわたを取ってスライスしたゴーヤ、一口大にカットした厚揚げを炒め、日本酒と砂糖、お醤油とお塩にこしょうで調味をしてから削り節をたっぷりと混ぜ込んで、仕上げに卵でとじる。
ゴーヤは苦味が苦手な人も多いが、世都はそれもゴーヤの良さだと思っている。なのでお砂糖やお塩で揉んだり茹でたりせずに、そのまま使うのだ。
ゴーヤの味わいが際立ってはいるものの、豚肉と厚揚げから出る旨味、そして卵が全体をまとめて、一体になるのだ。削り節がゴーヤの癖を和らげてくれるのである。
そんな雨天の、お客さまがちらほらなときに相川さんは畠山さんを伴って来店した。20時ごろだった。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「こんばんは」
笑顔で迎えた世都に、ふたりは微笑んでぺこりと頭を下げた。そのままするりとカウンタ席に腰を降ろす。
「嫌なお天気になりましたねぇ。雨は大丈夫でした?」
「はなやぎ」は商店街のアーケード内にあるので、雨の様子は分からないのだ。
「今は小雨ですよ。駅出てすぐに軒先に入ってまえば濡れませんし」
「あ、そうですね」
岡町駅の正面にも店舗が並んでいるのだが、それらも岡町商店街の一部で、軒先テントがあるのだ。そのまま商店街のメイン通りに繋がっているので、入ってしまえば雨に濡れる心配は無い。
世都が冷たいおしぼりを渡すと、ふたりは「ありがとうございます」と受け取り、さっそく手を拭いた。
「ああ〜、気持ちええわぁ。もう湿度も高くなってきてますもんねぇ」
畠山さんはそう言いながら目を細めた。
「不快ですよね。うちで少しでも涼んでってくださいね。お食事はもうされました?」
「はい。畠山くんのご両親と4人で。そう、その話をしたくて」
相川さんと畠山さんは目を合わせて頷き合う。そして、真っ直ぐな目を世都に向けた。
「あの、私たち、どうにか結婚できることになりそうなんです」
その朗報に、世都は「あら、まぁ!」と破顔した。
「それはおめでとうございます! 良かったですねぇ」
「いろいろ話を聞いてくれはって、ありがとうございました。何とかなりそうです」
「畠山さんのお母さまも、賛成してくれはったんですねぇ」
すると、ふたりは苦笑いを浮かべる。もしや、まだお母さまには認められていないのだろうか。でもそれなら結婚は難しいのでは無いだろうか。
「これは、僕もドン引きしてしもたんですけど」
お母さまは相川さんの存在を知らないとき、息子である畠山さんに良い結婚相手を見つけてあげたくて、結婚相談所に相談していたそうだ。そのときに紹介してくれた女性が数人いたのだが、釣書だけでは信用できず、興信所に頼んで過去のことから調べ尽くしたらしいのだ。
確かにこれには世都も引いてしまう。母親というのはそこまでするものなのだろうか。しかし畠山さんが、それだけお母さまに大事にされているということだけは確かなのだろう。
「まぁ、そりゃあ釣書には悪いことなんか書かはれへんでしょうけど、紹介してもろた人が、学生時代にいじめしとったとか、逆にいじめられとったとか、ギャルやったとか、そういう人がごろごろで、母のお眼鏡には叶わんかったらしいです。父も知らんかったみたいで、今日聞いて驚いてました」
世都は少しの違和感を感じたが、今は口を挟むまいと、小さく頷いた。
「で、私に引き合わされて、うちの家庭環境を知って、最悪やて思いはったらしいんですけど、私自身に非が無かったこと、何より畠山くん自身が選んだ人間やから、まぁぎりぎりええわって思わはったそうで」
「……あの、もしかしてお母さま、相川さんにも興信所を?」
世都が恐る恐る聞くと、畠山さんは途端に顔をしかめる。
「はい。ほんまに失礼な話ですよ。そりゃ過去にいじめしとったなんて褒められたことや無いし、引っかかるんも分からんや無いです。でも学生時代っちゅうか若いころなんて、誰でも何かしらあったり無かったりしますよ。さすがに犯罪とかやったらきついですけど。いや、いじめでもきついですけどね」
「でも、お母さまが興信所に頼んでくれはったお陰で、私にそういうことが無いって分かったんやから、ええ様に考えようと思って」
「そりゃあ相川は大変やったんやから、そんなことしてる暇無いやろ。そもそもそんな人間性や無いんやし」
「ありがとう」
相川さんが微笑み、畠山さんはほっとした様に口角を上げて頷く。良かった、ふたりで幸せになれるのだ。本当におめでたいことだ。何かお祝いができたら良いのだが。
「……ん? いじめしとった方があかんのは分からんでも無いんですけど、いじめられとったのもあかんのは、何かあるんですか?」
世都が違和感を感じたことを聞くと、畠山さんは「あー」とまた苦笑して頭を掻いた。
「いじめられるんは、それなりの理由がある。それが母の持論です」
「ああ……」
なるほど。ということは、お母さまはいじめる側の人なのだなと納得できた。これは本当に嫁いびりに発展しかねない。つい心配になってしまう。だがきっと畠山さんが守ってくれるだろう。