日本酒バー「はなやぎ」のおみちびき

 それから何事も無く1週間が経った。結城(ゆうき)さんのことが気に掛かりつつも、いつも通り「はなやぎ」を開店していたのだが。

 その日の口開けのお客さまは高階(たかしな)さんで、サマーゴッデスのハイボールをおともに、肉団子ときのこのトマト煮込みを食べている。

 肉団子の挽き肉は牛と豚の合挽きを使い、みじん切りにした玉ねぎ、卵、つなぎにお豆腐を使い、ヘルシーに仕上げている。お豆腐の量はそう多くは無いので、お肉の味を邪魔しないのだ。

 使っているきのこはしめじとマッシュルーム、エリンギである。きのこ類は掛け合わせれば掛け合わせるほど旨味が出るなんて言われている。これを和の煮物にするなら、椎茸やえのき、舞茸などをたっぷりと使いたいところだ。

 仕上げにバターも落としていて少し重めのメニューではあるが、だからこそすっきりとした日本酒ハイボールに良く合うのである。

 今日の開店前の占い結果は「ソードの5の正位置」だった。意味は卑怯な戦い、罠にはめる、策略など。見たとき、あまりにも不穏な内容に世都(せと)は思わず息を飲んだ。

 この「はなやぎ」を(おとし)めようとしたりする意思が、どこかにあるのだろうか。

 今はまだお客さまは高階さんだけだ。今日ばかりはトラブルの種になる様な、それこそ初見のお客さまが来なければ良い、なんて、経営者らしからぬことを思ってしまう。

 世都は占いに(たずさ)わる者ではあるが、それは目安のひとつだと自覚もしている。それでもよく無い結果は心に影を落としてしまうものだ。世都は今日の平穏をひたすらに願っている。

 がらり、と開き戸が開く。世都が見ると、入って来たのは不機嫌な様子の結城さんだった。笑顔が多い結城さんのそんな表情は珍しく、世都は一瞬戸惑った。だがそれを顔に出さない様に努め、微笑みを作った。

「いらっしゃいませ」

「こんばんは。女将(おかみ)さん聞いてくださいよ〜」

 結城さんは怒りすら滲ませつつ、椅子に掛ける。世都は常温のおしぼりを渡した。

「ありがとうございます。あ、今日は獺祭(だっさい)のスパークリングください。むしゃくしゃするから贅沢すんねん!」

 獺祭純米大吟醸にごりスパークリングは、山口県の(あさひ)酒造さんが(かも)すスパークリング日本酒である。製造量が少なく、店舗によってはプレミア価格になってしまう人気の日本酒獺祭シリーズのひとつで、お米の甘みの中にスパークリングのドライさが重なり、深く爽やかな味わいになるのだ。

 「はなやぎ」では長島(ながしま)酒店で正規価格で仕入れてもらっているので、過剰にお高い値段設定では無い。だが他のスパークリングに比べたら、少し贅沢品になってしまうのである。

 世都はワイングラスに獺祭にごりスパークリングを注ぎ、結城さんに出した。

「はい、お待たせしました」

「ありがとうございます」

 結城さんはワイングラスの中身を半分ほど喉に流し込む。世都は念のためにとチェイサーにお水も用意した。

「ありがとうございます。あの、女将さん、元カレ、酷い男やったんです! 女将さんに占ってもろてほんまに良かったです」

「何かあったんですか?」

 すると結城さんは目一杯顔をしかめ、吐き捨てた。

「今日、この前言うてた元カレと共通の友だちから連絡もろたんですけど、元カレ、結婚するんですって」

「……あら、ほな、もしかして」

 世都が目を丸くすると、結城さんは「そうなんですよ!」とカウンタの上で悔しげに(こぶし)を震わした。

「多分私と付き合うてるときから二股掛けとって、向こうと結婚が決まったから私を振ったんですよ。最悪ですよ!」

 それは、確かに最悪である。結城さんはすっかりと憤慨(ふんがい)してしまっている。今日のいつ知ったのかは分からないが、ここに来るまで怒りで心がざわついたことだろう。

 と同時に、開店前の占いの結果に合点がいってしまった。

「友だちが言うには、結婚する、ああ、確かもう入籍したって聞きましたね、それも相手が妊娠したからですって。で、今までみたいに遊べんくなるからマリッジブルーになってるって。せやから手っ取り早く遊び相手確保しようとして、元カノに連絡取りまくってるから気ぃ付けてって」

 絵に描いた様な最低男である。世都は唖然としてしまう。結城さんは「あー腹立つ!」とすっかりおかんむりである。

 しかしそれだと、なおさらあのときタロットカードは正しい選択をしてくれたのだ。今の結城さんには辛いだろうが、もし元恋人のもとに戻ってしまっていたら、もっと悲惨なことになっていただろう。

 確かに同棲相手がいながら元恋人との間で揺れ動いてしまった結城さんは褒められたものでは無いだろうが、そんな仕打ちを受ける筋合いは無いのである。

「良かったですね、現状維持を選ばれて」

「ほんまにそうです。女将さんがいてはれへんかったら、まだうだうだ悩んどったかも知れんし、もしかしたらふらふら戻ってしもてたかも知れへんし。たっくんとの関係がなかなか進まんから()れてしもたんですけど、早まったことせんで良かったです」

 世都などからしてみたら、交際から1ヶ月ほどで同棲に進展する方がよほど素早い動きなのだが。思わず苦笑を浮かべてしまう。

「せやから今日は、お礼て言うんも変ですけど、もう1杯いただきますね。同じの、獺祭のスパークリングください」

 気付けば結城さんのワイングラスはすっかりと空になっていた。

「はい、お待ちくださいね」

 世都はにっこりと笑い、業務用冷蔵庫から獺祭にごりスパークリングの瓶を取り出した。
 結城(ゆうき)さんは2杯目の獺祭(だっさい)にごりスパークリングをごくりと飲み干すと、すっきりした表情で帰って行った。話すことができて、少しは気が済んだ様だった。

「なんや、漫画とかドラマみたいやな」

 高階(たかしな)さんは最後の肉団子をぽいと口に放り込み、きのこをスプーンですくう。トマトソースに絡んだきのこはてらてらと輝いている。

「本人にとってはしんどいやろうけどな。恋愛絡みのトラブルが多いっちゅうんも、恋愛体質がゆえなんやろかなぁ」

「そうなんかも、知れませんねぇ」

 人は良いことも悪いことも、呼び込むのは自分である。悪いできごとを望んでいるわけでは無くとも、そういうものだと世都(せと)は思っている。

 結城さんはいつでも恋愛のときめきを求めていて、それに向かって真っ直ぐである。なのでそういう出来事がまとわり付く。

 元恋人さんとのことは紛れも無く不運だが、それも山縣(やまがた)さんとの変化を望む結城さんが呼び寄せたものだと思う。結城さんはいつでも動きを求め、その結果なのだ。

 だが実際、一般人がそんな劇的な毎日を送れるわけが無い。特に一緒に暮らしているのなら、どちらかに世間的な功績や問題行動などが無ければ、訪れるのは(なぎ)だ。心の揺れはあるにしても、穏やかな日々が流れるのだ。

 高階さんはお皿を空にすると、サマーゴッデスハイボールをぐいと飲み干した。

「女将、獺祭ちょうだい。スパークリング見てたら何や飲みたなったわ。それとちんげん菜の煮浸し」

 ちんげん菜の煮浸しは、今日の作り置きお惣菜のひとつである。お出汁に日本酒とお砂糖、みりんにお醤油を加えて煮汁を作り、短冊切りにしたお揚げと一緒に軽く煮る。軸と葉を時間差で入れてあげれば、軸はしゃきしゃきしつつも柔らかく、葉は彩りよくしんなりと仕上がる。

「はい。お待ちくださいね」

 世都は濃紺の切子ロックグラスに獺祭の純米大吟醸45を注ぎ、ちんげん菜の煮浸しを小鉢に盛り付けた。

「お待たせしました」

「ん、ありがとう」

 高階さんはさっそくロックグラスに口を付けて、満足そうに口角を上げた。

「やっぱ、旨いな」

 獺祭はプレミア価格になるほどに人気なわけだが、それも頷ける美味だと世都も思う。甘味と旨味のバランスが良く、余韻が深いのだ。

「俺さ、今の結城さん、正直言うて結婚に向いてへんのとちゃうかなって思ってまうわ」

 それに世都は応えず、曖昧に頷くに留めた。



 11月になった。冬めいて来ていて、コートなどを羽織る人々の姿が増えて来る。ひんやりとした空気は不快な湿度もすっかりと遠ざけた。

 今日の作り置きお惣菜はごぼうのくるみ和え、ツナと白菜のくたくた煮、玉ねぎと炒り卵のシンプルな和風ポテトサラダ、わさび菜のごま炒め、なめたけである。

 お食事を終えた高階さんは、和風ポテトサラダを(さかな)雪の茅舎(ゆきのぼうしゃ)純米吟醸を楽しんでいた。

 雪の茅舎は秋田県の齋彌(さいや)酒造店が醸す日本酒だ。フルーティで軽やか、癖が無いので飲みやすいと人気の銘柄である。

 ポテトサラダは本来なら味付けのメインにマヨネーズを使う。この和風ポテトサラダにもマヨネーズは使うが、他に和がらしと削り節、お醤油を混ぜ込んでいる。小鉢に盛り付けてから粒黒こしょうを散らしたら、お酒にぴったりな一品になるのだ。

 他にもお客さまがちらほらと日本酒を傾けている。今日は水曜日なので、決して大入りでは無い。だからこそ穏やかな時間が流れていた。

 シンクに洗い物が溜まり始めたので、腕まくりをした龍平くんが洗ってくれている。世都は注文のあったごぼうのくるみ和えを小鉢に盛り付けた。

 くるみ和えは、茹でた叩きごぼうにくるみあんを絡めたものだ。くるみあんはすり鉢で作る。くるみの半分をすり鉢で細かくすり潰し、お醤油とお砂糖、削り節を混ぜ込んで作る。そこにごぼうと荒く砕いたくるみの半分を入れて和えるのだ。

 ほのかに土の香りを残したごぼうに甘く香ばしいくるみあんが絡み、互いを引き立てあうのである。

 開店前の占い、結果は「恋人たちの逆位置」だった。意味は不調和、別離、判断を誤る、など。

 ここまでになると、さすがに世都も察してしまう。ああ、これは結城さんのことなのでは無いだろうかと。何せカードが「恋人たち」なのだ。

 ということは、今日来店する可能性がある。世都はカウンタの端に積んであるタロットカードに視線をやった。
 そして予想した通り、本当に結城(ゆうき)さんはやって来た。その表情にはありありと落胆が滲んでいる。目には薄っすらと潤むものもあった。

「……たっくんに、振られました」

 世都(せと)は静かにカウンタ席に掛けた結城さんに、温かいおしぼりを渡す。(うつ)ろな目でのろのろと手を拭いた。痛ましい結城さんの姿に、今日は注文が無くても仕方が無いかもなんて思ってしまう。

 同棲に進むほど、結城さんは山縣(やまがた)さんを思っていたはずだ。山縣さんは確かに積極的には動かなかったのかも知れないが、それでもともに生活をすることを選んだのだから、それなりの思いを持っていたと思うのだか。

 ふたりがお付き合いを始めたのが、夏。確かまだ9月にはなっていなかったと思う。3ヶ月ほどの間に急速に進み、急激に(しぼ)んでしまった。

 結城さんはすっかりと消沈してしまっている。一体この3ヶ月ほどの間に何があったと言うのか。同棲を始めたときには、あんなに幸せそうだったでは無いか。

 まさか、元恋人が接触してきたことが知れてしまったのだろうか。いや、あれは結城さんに非は無い。確かに心は揺れ動いたが、結城さんは山縣さんから離れなかったのだから。

 結城さんはまるで流れ作業の様に日本酒のおしながきを見た。

「あの……久保田(くぼた)のスパークリングください。それと、冷や奴とかなら食べられそうです。ありますか?」

 ショックで食欲も落ちてしまっているのだろう。冷や奴なら冷たくてあっさりしているので、こういうときには打って付けだ。

「冷や奴、ありますよ。お待ちくださいね」

 世都は言って、まずは久保田スパークリングを冷蔵庫から出した。

 久保田スパーリングは新潟県の朝日(あさひ)酒造さんが醸すお酒である。軽やかで、マスカットの様な香りが爽やかな一品だ。

 まずは久保田スパークリングをワイングラスで出し、冷や奴を用意する。絹ごし豆腐なのだが、これも岡町(おかまち)商店街の豆腐屋さん謹製(きんせい)である。薬味に大葉の千切りと青ねぎの小口切りを盛り、削り節を散らした。

「お待たせしました。お醤油とポン酢、どちらにしはります? お塩もありですよ」

「ポン酢で、お願いします……」

 結城さんの声はすっかりと沈んでしまっている。世都は醤油差しに入れたポン酢を「どうぞ」と出した。

「ありがとうございます……」

 結城さんはポン酢を受け取りはしたが、冷や奴には掛けずに、ワイングラスをちびりと傾けた。

「あの……」

 消え入りそうな声で口を開く。目を瞬かせると、ぽろりと雫が頬を伝った。

「あたしって、そんなに重い女ですか……?」

 想像はしていた。恋愛体質だからというわけでは無いが、結城さんは依存体質でもあるのでは無いかと。

「何があったんですか?」

 世都が優しく聞くと、結城さんはずずっと鼻をすすった。

「たっくんに「重い、しんどい」て言われたんです。それ、あたし、前にも言われたんで、友だちに相談して、気ぃ付けてたつもりやったんですけど」

「そのときはどんなことをしてはったんか、聞いてええですか?」

「はい……。あの、もういつでも相手と繋がっていたくて、ちょいちょいLINE送ってたんです。それが鬱陶しいって言われたから、たっくんにはあたしからは送らん様にして。でもたっくんには送って欲しいから、休憩時間とか、そういうときに送って欲しいて言うてたら、しんどいて言われて」

「用事があるわけや無いのに、LINE送り合うたりするってことですか?」

「用事っちゅうか、今何してる? とか、今こんなことやってるよ、とか、そんなんで良かったんですけど」

 もの凄く分かりやすく「重い女」だった。

「いつかてたっくんを優先してたし、あたしなりに尽くしてたつもりやのに」

 本当にステレオタイプである。不謹慎ながらも「他にパターン無いんかい」と思ってしまう。

 世には、そうして欲しい男性だっているだろう。優先して欲しい、尽くされたい、何でもやってもらいたい。

 ただ、これはただの世都の心証なだけだが、男性の多くは縛られることを嫌がるのでは無いだろうか。それは尽くされたい男性であっても同じだ。正直なところ、尽くされたいのに束縛するなという男性は、世都視点だとクズ男なのだが。

「あの、あたし、どうしたら良かったんでしょう。どうしたらええ人に出会えますか? そうゆうのんも、占いで分かったりしますか?」

 タロット占いも万能では無い。だがこの願いは可能ではある。しかし、本質は別のところにあるのでは、と世都は感じている。

 それでも占うことで結城さんの気が済むのなら。救われるのなら。癒されるのなら。

「できますよ」

 世都は穏やかに、そう応えた。すると結城さんの目が鈍く、だが希望を持った様に光った。
 世都(せと)はタロットカードを両手でかき混ぜる。ひと山にまとめ、3山に分け、またひとつに。

 そしていちばん上のカードをめくろうとして、その手を止めた。このままこの結果を伝えて良いものなのか、躊躇(ちゅうちょ)してしまう。

女将(おかみ)さん……?」

 結城(ゆうき)さんが怪訝(けげん)そうに首を傾げる。早く結果が知りたくてたまらないのだろう。

 しかし、この結果が良いものであっても悪いものであっても、今のままでは。

 きっと、結城さんが望む様な未来は訪れない。奇跡でも起きなければ。

「結城さん、結城さんはどうしはりたいんですか?」

 世都の質問に、結城さんはぽかんとする。

「え、どうって」

「素敵な人と出会いたいて、言うてはりましたよね?」

「はい、そうです」

 世都はまだカードをめくらない。この結果は「今の」結城さんによるものだ。それだときっと意味が無いのだ。

「そのためには、私は、結城さんが自立しはることが大事なんや無いかなぁって思うんです」

 すると、結城さんはまたきょとんと目を瞬かせる。

「あたし、自立してますよ。働いてひとり暮らししてますし」

「そうや、無いんですよ」

 世都はふるりと首を振る。確かに経済的には自立しているのだろうが。

「心の、自立です」

「心……?」

 言われた意味が理解できないのか、結城さんは眉をしかめる。気分を害させてしまったかも知れない。だが世都は言葉を続ける。

「結城さんは、男性と、恋人と常に一緒にいたいと思ってはるんですよね?」

「恋人やったら、それが当たり前や無いんですか? 好きやから一緒にいたい、何をしてるか知りたい、そう思うんや無いですか?」

「思う人もいれば、思わん人もいますよ」

「そんなの、寂しく無いですか?」

「無いんですよねぇ」

 互いが同じ熱量なら、釣り合いも取れるのだろう。それは勝手にやってくれと思う。だが結城さんの場合はそうでは無かったから、破局に至ったのだ。

 恋は求めるもの、愛は与えるもの。良く言ったものである。相手のために尽くしてあげたいと思うことも、愛の側面なのかも知れない。だがそれは自己満足という見方もできる。

 世都は尽くすことは相手のためにならないと思っているので、余計にそう感じてしまうのかも知れない。世都の個人的感情なのではあるが。

 相手のことを思う、考える、(おもんぱか)る、何を望んでいるのかを汲み取る。それはとても難しいことだ。だがそれをしようとする心が「愛」なのだと思う。一緒に暮らしたいと言うのなら、それは必要不可欠なものなのだ。家族同士であっても、友人同士であっても、恋人同士であっても。

 結城さんは相手のことを考えている様で、そうでは無かった。求めていただけだったのだ。きっと山縣(やまがた)さんには重荷になっていただろう。結城さんの感情は「恋」の域を超えてはいなかった。

「だって、恋は人生のオプションですもん」

 恋や趣味などは人生を彩るものであって、不可欠なものでは無いのだ。あれば気持ちが、人生が豊かになる、それだけのものだ。暴論だとも思うが、それは事実であると世都は思う。

 未熟な恋が育ってたおやかな愛になる。それはその通りだと思う。だが育てきれない人だっている。今の結城さんがその典型なのだ。

「オプション、ですか……?」

「はい。無くてもええもんやと、私は思ってます」

「でも、あたしには無くてはならんもんで……」

 それが悪いことだとは言わない。それも大きな潤いだ。だが先を考えるのであれば、発展させてあげなければならないのだと思う。

 恋特有のときめきなども大事なものなのだろう。だが相手の悪いところも受け入れることができる(うつわ)は愛から生まれる。少なくとも世都はそう思っている。もちろん限度はあるが。言葉であれ物理であれ暴力行為を受けたら逃げて欲しいし、浮気などされたら社会的に痛め付けてやれなんて過激なことを思ってしまう。

 相手を思いやれなければ、健全な関係なんて築けない。相手に求めてばかりだと、その関係は歪みを起こす。簡単なことなのだ。

「結城さん、一緒に暮らすのに、関係を続けるのに大事なことは、なんやと思います?」

「え、な、なんやろ」

 結城さんはうろたえてしまう。相手を優先し、尽くし、そして縛ってしまっていた結城さん。そんな結城さんに言うには酷なのかも知れない。だが、そうしなければきっと結城さんは一生このままだ。自分で気付くにはきっと難しい。なぜなら。

「自分勝手にならんことです」

 結城さんが目を見張り、息を飲むのが分かる。

「あたし、自分勝手、ですか?」

 世都はゆっくりと頷く。結城さんの顔がみるみると強張って行った。

「そんな、そんなつもりは」

「もちろん無いんやと思いますよ。でもね、結城さん、結城さんはお相手に求めてしもうてばかりなんや無いかと思うんですよ」

「でもあたし、家事とかも全部やってあげたりして、いつでもたっくんのためにって」

 世都は泣きそうになる結城さんに穏やかに、だがはっきりと問うた。

「それを、お相手は望んではりましたか?」

「……え?」

 結城さんは愕然(がくぜん)とした表情で、ぽつりと呟いた。
 きついことを言っていると思う。だが結城(ゆうき)さんが望む未来を手に入れるには、本人が変わらなければ。

 世都(せと)山縣(やまがた)さんと直接関わりがあるわけでは無い。だが結城さんは言った。山縣さんに「重い」と言われて振られたのだと。なら、山縣さんは望んていなかったということになる。

「……そこまでせんでええでって、言われたことあります。でも遠慮なんやと思って。せやから余計にしたげなって」

 結城さんのぼそぼそとした聞き取りづらい声が、世都の耳にかろうじて届いた。

 優先する、尽くす、一方的なそれは相手のペースを崩すことだってある。相手のことを考えてのものならば相手の状況を見て手を出すものだ。だが「してあげている」が前面にあると、それが見えなくなる。

 内助の功なんて言葉もあるが、結城さんの行動はきっと、相手の事情を見ていない。相手に配慮しているのなら、「重い」なんて思われないのだから。

「遠慮や無かったんちゃうんかなぁって思うんですよ。多分、タイミングとかもあったんでしょうかねぇ。結城さんの手が欲しいときといらんとき、難しいですけどその見極めとかって、必要やったんかなって」

「そんなん、分かりませんよぅ〜……」

 結城さんはすっかりとしょげてしまう。言い過ぎたかな、とも思ったが。

「聞けばええんです。自分の考えとか行動を押し付けるんや無くて、何をして欲しいのか。察するのって難しいんですから。やって欲しいことも同じです。それもお互いに負担にならん様に擦り合わせるんです。恋人だけやありません。家族かてお友だちかて同じです。そうやって関係を築いて行くもんやと思いますよ」

 結城さんがゆっくりと顔を上げる。少し目尻が潤んでいた。だがその表情は思い詰めた様なものでは無く。

「相手のためやって思ってても、それが押し付けになってしもたら、それが負担になりますよね。お相手さんはそう感じはったんやないかって思います」

「あたし、どうしたらええんでしょう」

「お話をすることです。一方的や無くて、ちゃんと会話を。結城さん、お相手にLINEすることは控えても、して欲しがってましたよね。不思議がられませんでした? で、もらわれへんかったら相手を責めたりしてませんでした?」

「責めるっちゅうか、何でくれへんの? って」

「その頻度は分かりませんけど、普通は用事でも無ければやりとりはしませんよ。一緒に暮らしとったらなおのことです。結城さんのご両親、そんな頻繁(ひんぱん)に連絡とか取り合うてはりました?」

 すると結城さんは考え込む様に首を傾げるが、「あ」と目を丸くした。

「してへんかったと思います。え、なんであたし、こんなにLINEとかしたがったんやろ」

 結城さんは動揺している。それが恋愛体質ゆえだと世都などは思うのだが、口にはしない。世都は微笑んだ。

「お相手のペースにも寄り添うことが大事ですよね。全てが正しい人なんて、この世におらんのですよ。むしろ自分が正しいて思ってる人ほど、はたから見たら間違ってる、て言うか、少数派やったりする。大多数でおることが正しいわけでも無いですが。でも人さまのお話をちゃんと聞けん人が、誰かと巧くいくわけ無いんですからね」

「そう、ですよね」

 結城さんは憑き物が落ちた様な、すっきりとした表情になっていた。

 急には変われないとは思う。だが自分の良いところ悪いところ、それを把握して、周りを見る。我を出すなとは言わない。個性は尊重されるものだ。だがそれで人を不快にさせてはいけないのだ。

 人を大事にする、幸せでいて欲しい。その思いがあれば、きっと大丈夫。

女将(おかみ)さん、ありがとうございます」

 結城さんはふわりと泣き笑いを浮かべ、久保田スパークリングと冷や奴を平らげて帰って行った。

「……もう、大丈夫やろかな」

 高階(たかしな)さんが言う。世都は「やと、ええですね」と曖昧(あいまい)に応えた。

 こればかりは分からない。今回のことを教訓にしてくれるかどうか。それは結城さん次第。そう思うしか無い。

 恋愛体質なんてものは、その人にすっかりと沁み込んだものだ。それを拭ったり薄めたりするのは容易なことでは無いだろう。だが結城さんが恋人と一緒にいたいのなら、そして結婚を望むのなら、相手のことを思いやるのは大前提だ。その基本があって、やっと誰かと触れ合えるのだ。

 世都は沈黙を保っているタロットカードのいちばん上をめくる。それは今夜、世都と話をする前の結城さんの今、これから。

 死神の逆位置。変われない、同じことの繰り返し、そんな意味を持つ。世都はつい苦笑してしまうが。

 ふと思い立って、またカードを混ぜ始める。丹念に手を回し、ひとつにまとめ、みっつに分けて、またひとつに。

 少し緊張しつつ、めくると。

「……死神の正位置や」

 世都は吐息を混ぜらせた。ああ。

 意味は変化、再生、再出発。これまでのやり方は通用しない、思い切った改革が必要。

 停滞していたカードが、動き出して戻って来た。

「もう、大丈夫かも、知れませんね」

 世都のつぶやきは、きっと誰にも聞こえなかっただろう。龍平くんは食器を洗ってくれている。高階さんは黙々と、だが満足そうな顔で切子ロックグラスを傾けた。
 容姿の良さは、その人の人生を決める、こともある。

 それを武器に、例えば芸能界でのし上がって行く人もいる。とはいえ、それだけで大成しないのが芸能界だとは思うが。

 一芸。それは重要な一手である。演技、歌、お笑い。様々だ。

 だが本当に必要不可欠なのは「頭の良さ」、そして「礼節」だと世都(せと)は思っている。

 頭の良さとは、勉学のことでは無い。頭の回転だ。ボケへの小粋(こいき)なツッコミも頭の回転が良く無ければできない。このふたつは混合されがちだが、同じ様でまったく違う。

 もちろん両方を兼ね揃えている人は大勢いる。本当に羨ましいと思う。

 しかしそうした人であっても、決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん)には行かないのだなと、思うことがあるのだ。



 季節は春。頭上では桜が華やかに開き始め、地面の花々もその可憐さを発揮する。新生活が始まる人々の心はきっと期待などに膨らんでいるだろう。

 相川沙有里(あいかわさゆり)さんは、ご常連のとても美しい女性である。黒い髪は肩のあたりで軽い前下がりになっていて、猫の様な丸い目はきらりと黒く、薄い唇はいつも淡いくすみピンクで彩られている。

 歳はまだ若く、20台後半だったと思う。相川さんは2週に1度の週末、この「はなやぎ」でのお酒を楽しみに、日々を過ごしているのだと言った。

「まだ大学のときの奨学金を返してるんですよ。なんで、あんま贅沢できひんで」

 今や、大学に進学するふたりにひとりが奨学金を借りると聞く。国公立か私学かでその金額も大きく変わるだろうが、大学に必要な学費は膨大である。それを学生の身分で背負い、卒業してから返すのだから、大変なことだと思う。

 相川さんは美しいだけでは無く、才媛(さいえん)なのだ。大阪の国立大学にストレート入学、現役で卒業しているのだ。そのまま大学院博士課程に進み、今は助教として大学で研究を続けている。

 世都は幸いにも親が高収入だったお陰で、大学まで出してもらうことができた。お小遣いこそアルバイトで稼いでいたが、それがとてもありがたいことだったのだとしみじみ感じるのだ。

 そう言えば実家を出てからあまり連絡をしていない。家族は元気にしているだろうか。

 相川さんのお気に入りは、千利休(せんのりきゅう)純米酒である。こちらは大阪の利休蔵(りきゅうぐら)(かも)される日本酒で、控えめな甘さと米の旨味、心地よくすっきりとした飲み口を持つ。

 千利休はお値段的にもお手軽に流通していて、この「はなやぎ」でもお手頃価格で提供できている。日々節約に励んでいる相川さんが頼みやすい銘柄とも言えるのだ。

 ただ、世都もただお手頃だからという理由だけで仕入れているわけでは無い。ちゃんとその実力が伴っているからだ。地元大阪のお酒だからという贔屓目(ひいきめ)はあるかも知れないが、そのバランスの良さは世都が保証する。

 相川さんは千利休をちびりと舐めながら、今日のお惣菜のひとつ、アスパラガスのごま和えにお(はし)を伸ばした。

 アスパラガスはレンジで火を通し、和え衣は煮切った日本酒、お砂糖、お醤油、すり白ごまで作る。白ごまは炒りごまを用意し、あらためてフライパンで乾煎りし、すり鉢で擦る。そこに調味料を加え、アスパラガスを和えるのだ。

 旬の瑞々しいアスパラガスに香ばしい白ごまの和え衣。風味豊かな一品である。

 相川さんは節約のため、「はなやぎ」に来る前にファストフードでお食事を済ませている。岡町(おかまち)駅周辺には店舗が少ないのだが、お勤め先の大阪梅田駅周辺なら掃いて捨てるほどある。

 それでも普段自炊などをして(つつ)ましく生活をしている相川さんだ。2週に1度のご褒美だと思うと、少しぐらい奮発しても許されるのではと思っても無理は無い。

 では、「はなやぎ」に来ない週末には何をしているのかと言うと。

 デートである。

 相川さんには、結婚を前提にお付き合いをしている男性がいるのだ。大学生のころに出会った同級生で、その相手は大学卒業後に一般企業に就職している。

 ふたりは結婚の時期を決めかねているのだと相川さんは言った。国立大学とはいえ、大学4年間に大学院5年間、計9年の学費は大きい。奨学金の返済を終えてからが妥当だと思うのだ。

 奨学金で進学したことは後悔していない。相川さんはそう言った。相川さんには学びたいものがあったのだ。そのための奨学金は価値のあるものだ。

 だが借金だという側面が大きいことも理解している。それを返還しないと相手にも迷惑を掛けてしまうかも知れないし、親御さんにも不審に思われてしまうかも知れない。

 なので、相川さんは悩み、その端正な顔を曇らせてしまうのだった。
 相川(あいかわ)さんはご常連ではあるが、世都(せと)はまだ相川さんを占ったことは無い。来店しているときに他のお客さまを占ったこともあるし、このサービスをご存知のはずなのだが、相川さんはリアリストなのか、これまで1度も()われたことは無い。

 占いに頼ることは、良い面と悪い面があると世都は思っている。それで良い展望が見えると良いと思うが、依存してしまうと自らの意思を失いかねない。

 世都の占いは、通過点だと思って欲しい。あくまでもほんの少しのきっかけを与えるだけのもの。

 そもそも占いとはそういうものだと、世都は思っている。特に世都のタロット占いは趣味が高じてのものだ。幸いにもこれまでクレームが出たことは無いし、占われる側もそこまで深刻には捉えていなかったと思う。

 世都はいつも、たった1枚のカードで占う。ワンカードは難しいと言われていることは知っているが、世都の場合は相談内容とカードが持つ様々な意味を掛け合わせて結果を出し、伝えている。

 相談者が知りたいのは、今、どうしたら良いのか。世都の占いはそれに一点集中している。今置かれている状況と、それを打破するための手段。それだけだ。

 「はなやぎ」での世都の占いはそれで良いと思っている。過去をつまびらかにされることは、きっと望まれてはいないだろうから。



 2週間後の週末、相川さんが来店する。4月も中旬になると桜はすっかりと散り、鮮やかな緑が芽吹き始めていた。

 今日の開店前占いの結果は「ワンドの9の正位置」。劣勢やハンデを背負う、不屈の闘志、持久戦、などの意味を持つ。相川さんの顔を見た途端、世都は「あ」と思ってしまったのだ。

 いつも凛とした雰囲気を醸し出している相川さんだが、今日はなぜか沈んでいる様に見えた。何かあったのだろうかと思うが、さすがに踏み込むことはできない。世都はいつもの様に「いらっしゃいませ」と笑顔で迎え、カウンタ席に座った相川さんに温かいおしぼりを渡した。

「ありがとうございます」

 控えめな笑顔でおしぼりを受け取った相川さんは、手を拭くとその温もりに少し癒されたのか、ほっとした様な表情を浮かべた。

 相川さんはきっと今日もお食事は済ませているだろう。おしながきとコルクボードを見て、いつもの千利休(せんのりきゅう)純米酒、そしてお惣菜から若竹煮(わかたけに)を注文した。

 若竹煮の筍は、生から茹でたものだ。岡町(おかまち)商店街の八百屋(やおや)さんで買って来た、大阪産の朝掘りである。関西で筍というと京都産が有名だが、大阪でも泉州(せんしゅう)地域で収穫できる。

 泉州地域の貝塚(かいづか)市には、木積(こつみ)白たけのこという名産品がある。地上に顔を出す前に掘られるので身が白く、えぐみも少ない。だが希少品で、北摂(ほくせつ)地域である豊中(とよなか)市でお目に掛かれることはほとんど無い。きっと泉州周辺の道の駅や料亭などで消費されているのだと思う。

 とはいえ一般に流通している筍も充分に美味しい。特に生の筍の風味は別格だ。

 世都が買い出しから帰って来てまず取り掛かったのは筍のアク抜きである。大きなお鍋にお水を張り、数枚皮を剥き穂先を斜めに切り落とした筍、米ぬかと鷹の爪を入れて火に掛けた。最初は強火で、沸いて来たら筍が浮いて来ない様に落し蓋をし、弱火に落として1時間。

 茹で上がったら冷めるまでそのまま置く。その間にアクが抜けて行くのだ。

 筍のアク抜きは時間勝負である。木積白たけのこの様に陽の光に当たっていないものならともかく、収穫したそのときからどんどんアクを蓄え始める。なのでできる限り早くアク抜きをすることが、美味しい筍にありつくコツなのだ。

 そして、わかめも大阪産の生わかめだ。大阪湾でもわかめの養殖が盛んなのである。魚屋さんでかごに盛られてつやつやと光る生わかめを発見したとき、すでに筍を仕入れていた世都は「絶対に若竹煮!」と興奮したものだった。

 そんな純度100パーセント大阪産の若竹煮を小鉢に盛り付ける。千利休も赤い切子ロックグラスに注いで。

「お待たせしました」

 相川さんに提供する。相川さんは「ありがとうございます」と受け取り、さっそく千利休を傾けた。相川さんはその美味に目を細め、次にお箸で若竹煮の筍を口に運ぶ。さく、と噛んで、その頬を和らげた。

 相川さんが浮かない顔をしていた理由は分からない。だが「はなやぎ」のお酒と肴で、少しでも心をほぐして欲しいと思うのだ。



 相川さんのグラスが半分ほど減ったころ。相川さんは顔を上げて、言った。

女将(おかみ)さん、あの、申し訳無いんですけど」

 相川さんの顔は、また不安げに揺れていた。本当に、一体何があったのだろう。

「あの、占っていただくことって、できますか……?」

 世都は軽く息を飲んだ。
 相川(あいかわ)さんのお相手は自分の両親に、相川さんを紹介してくれた。いつになるか分からないが、将来結婚したいと思っている、と。

 するとお父さまは好印象だったらしいが、お母さまが難色を示したのだった。

 お相手いわく、お母さまは箱入り娘で働いたことが無く、お金の苦労をしたことが無いのだそうだ。だから奨学金を、借金を受けてまで何かを成し遂げることに理解が無いとのことだった。

 親なら、自分の子どもの幸せを願うのは当然のことだ。だからお母さまが(うと)んでも不思議では無い。

 返し終わっているなら大丈夫なのだろうが、結婚したとなったら、返済のお金はどこから出るのか、それは大きな問題だと言えた。

「私は結婚しても仕事は続けるつもりでおります。奨学金はもちろん自分の稼ぎから返して行きます。お相手にもそう話してますし、納得してくれてます。生活費と貯金と家事は折半(せっぱん)、残りがお小遣いで、そこから返済します。それでもやっぱり、心象は悪いもんなんでしょうね……」

 相川さんはそう言ってうなだれる。そんな(かげ)りのある相川さんもとても美しく、世都(せと)は不謹慎ながらも見惚れてしまいそうになった。

 今の相川さんは、きっとお仕事にも真剣に打ち込んでいる。奨学金を借りてまで学びたかった学問で、その研究を続けるために大学院博士(はくし)課程にまで行ったのだ。大学4年間で卒業して民間の研究所に行く道だってあったが、大学には相川さんが尊敬している教授がいるのだそうだ。そう以前教えてくれた。

「なんで、アルバイトとかして前倒しで返済をとも思ったんですけど、私は国立大学の職員です。副業できないんです。公務員や無くなったんですけど、扱いとしてはみなし公務員なんで。今のお給料から返済額を増やそうと思ったら、もっと節約するか、貯金額を減らさなあきません。今の私は貯金が無いんが不安なんです。結婚資金もそうですけど、やっぱりたいがいのことはお金でどうにかなりますから」

 その言葉に、世都は違和感を持った。金の亡者というわけでは無いが、お金に固執しているのだろうかと思わせるせりふに聞こえたからだ。

「相川さんの親御さんは、何て言うてはるんですか?」

 世都の問いに、相川さんは苦笑を浮かべた。

「おらんみたいなもんです。私、ネグレクトに遭うてたんですよ。母子家庭で、私、母に望まれて産まれたんや無いんですよ」

 あまりのことに世都は言葉を失う。育児放棄、虐待では無いか。相川さんの背景はかなり過酷なものの様だ。なのに相川さんはお箸の使い方も綺麗だし、とてもお行儀が良い。きっと相当苦労をしたのだろう。

 本来親御さんから受けられる愛情や教育を受けられなかった。それでもきっと相川さんは奮起し、自らを育て上げた。

 やはり、相川さんはとても聡明な人なのだ。

「母はね、昔はアイドルやったんですって。10代の後半でデビューして、でもなかなか売れへんかったみたいなんですけど。そんなときに私を妊娠してしもうて、気付かずにおったらお腹が大きくなってきてしもて、もう堕ろせんくなってしもて。そうなったら事務所も当然解雇ですよねぇ。で、泣く泣く引退して大阪に帰って来て、私を産んだんですけど」

 相川さんは言葉を切って、グラスを傾けて形の良い唇を湿らせた。お母さまがアイドルだったということは、きっと容姿も整っているのだろう。相川さんはお母さま似なのだろうか。

「最初は良かったんですよ。祖父母がおったんで。でも私が小さいころにふたりが相次いで亡くなって、母はひとりで私を育てなあかんくなった。そしたらもうめちゃくちゃですよ。母はずっと、「何で私がこんな目に」て思ってたから、その鬱憤(うっぷん)が全部私に来たんですよね。それでも転機が来て。母が実業家の男性と結婚したんですよ。私が中学生のころです」

 お母さまは大阪堂山町(どうやまちょう)のクラブでフロアレディをして生計を立てていたそうだ。堂山町は大阪梅田の一大繁華街、阪急東通(はんきゅうひがしどおり)商店街を通り抜けたところにある歓楽街である。西日本最大のゲイタウンとしての顔も持つ。

 お母さまの結婚相手はそのクラブのお客さまである。お母さまは若くして相川さんを産んだので、当時もまだ若くて綺麗だったのだろう。もちろん元アイドル由縁(ゆえん)の愛想の良さなどもあったのかも知れない。

「母は私の存在を隠して、結婚して。それから母は家に帰って来んくなりました。私ももう中学生になれば自分のことも家事もできるんで、お金さえあればひとりでどうにかなるんで。最低限の生活費だけは渡してくれたんです。少しは罪悪感もあったみたいですね」

「でもそれやと、住民票とか戸籍とかで、相手の男性にばれたりせんもんなんですか?」

「しないんですよ。子連れ結婚で相手の籍に入る場合、結婚届だけやと、子どもは元の戸籍のままなんです。相手の戸籍に入るためには別の手続きがいるんですよ。それに母は初婚でしたしね。戸籍にバツも付いて無いんで」

「なるほど……」

 世都はこの辺りに(うと)いので、初耳なことばかりである。と同時に、相川さんのお金に対する感情にも納得がいった。お母さまがどれだけのお金を相川さんに渡していたかは分からないが、お金があるからこそ乗り越えられた局面も多かったのだろう。

 そんな生活の中で、相川さんは学問を(こころざ)し、それをやり遂げ、今も邁進(まいしん)している。本当に凄いことだと世都は思うのだ。
 そのカードを見たとき、世都(せと)は落胆してしまった。それが顔に出てしまったのか、相川(あいかわ)さんは「ああ……」とため息混じりの声を漏らした。

「ソードの、4です」

 意味は休息、タイミングを計る、退却、休戦など。今の相川さんにとっての展望が何ひとつ無い。

「……現状、奨学金をお返しすることしか、道は無い様です」

「やっぱり、そうですか」

 相川さんは諦めの境地と言う様に、目を伏せた。そんな相川さんもとても美しかったが、その美貌、そして頭脳を持ってしても、打開できないことはある。

「せめて奨学金が給付型やったら良かったんですけどねぇ。母が実業家と結婚したんで、申請が通らんかったんですよ。母は母で、結婚相手には私のこと秘密にしてるから大きなお金は動かせんで。まぁあの母親なんで、私の学費をどうにかしようなんて、思ってくれへんかったでしょうけど」

 相川さんは自虐的に苦笑した。どうして真摯(しんし)に生きている人が、これ以上大変な思いをしなければならないのか。相川さんはただ学びたかっただけなのに。

 今、奨学金の返済がネックになって、未来が(ひら)けない人も多くいるのかも知れない。相川さんだけでは無いと言われればそうなのだろう。だが世都は今目の前にいる相川さんのために、何かできないだろうかと思案するが。

 何も、無いではないか。

 世都は相川さん行きつけのお店の店主、それだけの立場である。一体何ができるというのか。奨学金を肩代わりできるわけでは無い。相手のお母さまを説得できるわけでも無い。

 自分の力の無さに情けなくなる。だが相川さん本人はもっと不甲斐無いと思っているだろう。

「そうですね。真面目に働いて、こつこつ返して行くことにします。終わるまでに分かれることになってしもたらそれまでってことなんでしょう。仕方が無いですよね」

 世都は応えることができなかった。相川さんが初めて占って欲しがった。きっと(わら)にもすがる思いだったのだろう。だが世都は、良い結果を示すことができなかった。

 本当に、無力だ。世都の心中に悔しさが広がった。



 2週間後、5月に入ろうとしていた。町のあちらこちらではつつじが満開になり、ふわりと甘い香りを漂わせている。

 今日は週末だ。相川さんは来てくれるだろうか。

 高階(たかしな)さんは今夜も(ぬし)の様な顔で、カウンタ席の一角を陣取っている。サマーゴッデスのハイボールをお供に、豚の角煮とだし巻き卵、オニオンスライスでお食事を楽しんでいた。

 ありがたいことにお客さまは多く、ソファ席はふたつとも埋まり、カウンタ席もちらほらと空きがある程度。世都も龍平(りゅうへい)くんも忙しく動き回る。

 龍平くんが日本酒を用意し、洗い物などもして、世都はフライパンを振るう。中身はきゃべつなどのお野菜に豚ばら肉と、おうどん。「はなやぎ」の焼うどんは(さかな)に締めにと地味に人気なのである。

 味付けは昆布茶とお醤油、おうどんをほぐすための日本酒。盛り付けてから削り節をふんわりと掛ける。日本酒に合うのかと世都も思うのだが、これが評判なのだ。

 仕上がったので、テーブルに運ぶ。いつもは龍平くんにお願いするのだが、あいにく手が空いていなかった。

「焼うどん、お待たせしました」

 注文のあったソファ席に置く。お客さまから「ありがとう」と声をいただいた。

「あ、なぁ、女将(おかみ)

「はい?」

 壮年の男性のお客さまに話しかけられ、世都は戻ろうとした足を止める。

「変なこと聞くけど、女将は大学行った?」

「あ、はい。行きましたよ」

「志望校っちゅうか、どういう基準で選んだとかある?」

「私は……」

 世都は記憶を掘り起こす。もう10年以上前のことだ。

「確か、そんな明確な目標とかがあったわけや無いんですけど、将来潰しが効く様にて、経済学部を選びましたねぇ。そんときにお店やりたいとか思ってたら、経営学部とか選んどったかもですけど」

 当時の世都には明確な夢なども無かった。だが親に大学進学の重要性を説かれ、なら、と進学を決めたのだ。

「まぁ、女将ですらそんな感じか。いやな、息子が来年高校卒業でなぁ、進学か就職か決めあぐねとるみたいやねんけど、今って昔に比べたら進学率高いやろ。猫も杓子(しゃくし)もっちゅう感じで」

「そうですねぇ。今は進学できる環境にあるんやったら、やっぱり進学がええんでしょうけど、そればっかりはねぇ。結局進学しても、ちゃんと卒業できる様にお勉強するかどうかが将来の分かれ道な気もしますし。就職のための活動とかもねぇ」

「せやわなぁ」

 お客さまは憂鬱そうにため息を吐く。

「いくら大学行っても、遊び回られたらどないやねんて感じやしなぁ。あ、呼び止めて済まんな」

「いえ、ごゆっくりどうぞ」

 今度こそ世都はカウンタの内側に戻る。次のお料理に取り掛かるために、お鍋を出した。

 来年度に高校を卒業するなら、もう希望の進路を決めていなければいけない時期だ。進路指導などは高校1年、入学直後から始まっているはずである。

 だが、15歳や16歳で3年後を明確に見据えることができる学生が何人いるのか。10代にとっての3年間はとても長く、「今から言われても」と思う子だって多いかも知れない。

 相川さんはどうだったのだろうか。相川さんのかつての環境では、就職を選んでもおかしくなかった。それでも大学生になることを選んだのだ。苦学生になることを覚悟して。そしてやり遂げた。

 そう思うと、やはり相川さんの意志の強さと聡明さに感嘆(かんたん)するのだった。