外はしとしとと雨が降りそぼっている。今は全国的に梅雨の季節。それはこの岡町にもすっかりと覆いかぶさっている。
日本酒バー「はなやぎ」は、大阪府豊中市の岡町商店街にある、カウンタ席とソファ席が数席のこぢんまりとしたお店である。店主である32歳の小柳世都が、数歳年下である店員の坂道龍平と切り盛りしている。
日本全国津々浦々から様々な日本酒を取り寄せ、お料理にも力を入れている。お料理や日本酒の用意は基本世都が、龍平は世都の補助と、洗い物や細々とした雑用を担当していた。
バーとは言え、店内は比較的明るめである。日本酒もだが、お料理も楽しんで欲しいからだ。内装は白や淡い木材を使って柔らかな雰囲気を作っている。
世都は淡い草色の小紋の上に白い割烹着を着け、せっせと包丁を持つ手を動かす。シンクではバーテンダーを思わせる、白シャツに黒ボトムにグレンチェックベスト姿の龍平が、世都が使い終わった調理器具などを手際良く洗ってくれている。
世都はこだわりあっての和服なのだが、髪を結うのが面倒くさいという身も蓋もない理由で、ショートカットを貫いていた。
17時半、仕込みや作り置き料理の支度を終えた世都は、カウンタ席の最奥に腰を降ろし、傍らのカードの束を手にする。使い込んではいるものの、頑丈な紙製なのでまだまだ現役である。
裏面にして置いたら両手を使って丹念にかき回し、手早く揃えてまとめたら縦向きに置き、3等分に分ける。それを順番が入れ替わる様に重ねたら、いちばん上のカードをぴっとめくった。
出て来たのは「塔の正位置」だった。
「あはは、龍平くん、今日はお客入り少なそうやわ」
世都が軽い調子で笑って言うと、乾いた布で切子グラスを磨いていた龍平くんが呆れた様に口を開く。
「そらそうやろ。今日は雨やねんから。世都さんもそのつもりで仕込んどったやんか」
この「はなやぎ」のある岡町商店街は全体の半分がアーケードになっていて、「はなやぎ」の場所もそこに含まれる。なので商店街に辿り着いてくれれば傘は不要になる。だがそこまでが雨なら、結局は同じである。
だが岡町商店街は駅から近い。最寄りは阪急電車宝塚線の岡町駅だ。お仕事や用事を終えて電車を下車した人が「ちょっと寄ってこか」なんて思ってくれたらめっけもんである。だがそう上手く行くものでは無い。
「今日「は」、やなくて今日「も」、やな。早よ梅雨明けてくれへんかな〜」
そう愚痴ったところで雨雲は晴れない。分かってはいるのだが、言わずにはいられない経営者としての心境なのだ。
世都が扱っているカードは、タロットカードである。占いのひとつであるタロット占いで用いられるカードであり、大アルカナ22枚と小アルカナ56枚で構成されている。
カードそれぞれに意味があり、絵札が正位置か逆位置かで持つものが変わる。今引いたばかりの「塔」、逆位置なら危機回避の意味になるのだが。
「でも「塔の正位置」やねん。もしかしたら驕りとかがあるんかも知れん。謙虚さを忘れたらあかんで、龍平くん」
正位置ならトラブルなどの暗示である。また変革のイメージを持ち、崩壊や傲慢などを示すのだ。
「何で俺やねん」
ふたりはそんな軽口を叩く。いつものことである。
しかし、嫌な結果ではある。世都はお客さまが多かろうが少なかろうが、お客さまへのおもてなしの心を忘れてはならないと心の帯を締め直す。
世都は毎日、こうして1枚でその日の「はなやぎ」の運勢を見るのだ。それは自分への戒めのためである。良い結果ならそれはそれで良し、目的は昨日よりもより良いお店にするために、だ。
そうして時間になり、「はなやぎ」は「OPEN」の札を掲げる。
とはいえ、しばらくは閑散とした時間が続く。世都はカウンタの奥で暇を持て余し、龍平くんは磨き終えたグラスをさらに磨いて。
ドアが開いたのは、30分ほどが経ったころだった。顔を覗かせたのはご常連の若い男性である。グレイのスーツを着込んでいるのでお仕事帰りだろう。お客さまは雨に濡れたこうもり傘を傘立てに突っ込んだ。
「毎度!」
そんな軽やかなお客さまの挨拶に世都は笑みを零す。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
龍平くんも小さく頭を下げてお客さまをお迎えする。
「あー雨ほんま鬱陶しいわ。女将、焼きうどんちょうだい」
そんなせりふに世都は噴き出す。
「焼きうどんて。日本酒と合いませんやん」
するとお客さまこそが「ぶはっ」と噴き出した。
「メニューにあんのに何言うてんねん。ほんまおかしな女将やで。それに日本酒ハイボールがあるやん」
「あ、そっか。あはは!」
世都が笑い声を上げるとお客さまも楽しそうに笑い、龍平くんはまた呆れた様なため息を吐く。
いつものことだ。世都がお客さまと悪ノリしそうになると龍平くんが宥めてくれる。それがいつもの「はなやぎ」なのだ。
「よっしゃ。ほな、焼きうどん作ろか。でも日本酒も頼みますよ。今日もええ子揃いですからね〜」
世都が言うと、お客さまは「分かっとるって」とからから笑う。
焼きうどんを作るため世都はカウンタの内側の厨房に立ち、うどん玉を耐熱皿に置いてレンジに入れた。
続けてフライパンを出す。火に掛けて米油を引き、温まったところに玉ねぎのスライスを放り込む。
じゅわぁっと音が上がり、やがて甘い香りがお店中に漂い始めた。
女性には、昔も今も占い好きな人が多い様に思う。テレビなどで朝の情報バラエティを見ていると、星座占いでその日の運勢やラッキーアイテムなどが発表されたりする。
「今日のラッキーアイテムは鉄アレイ。持っとるかいそんなん」
世都は自分の星座のアイテムを見て、即座に突っ込む。
時間は午前10時過ぎ。まだ起き抜けで頭がぼぅっとしている。ぴょんぴょんと跳ねた寝癖を直さないまま、歯だけを磨いて、部屋のソファで魚柄のマグカップに入れたブラックコーヒーを飲んでいた。
世都の1日はこうして始まる。朝の目覚めアイテムはこれに限る。実は世都はミルクがたっぷり入ったカフェオレが好きなのである。だが少し苦いと感じるブラックを飲むことで、脳を無理やり起こしてやるのだ。荒療治である。
そうして何とか顔をしかめながらコーヒーを飲み干したころには、頭はすっきりしていた。
「よっしゃ、シャワー浴びよ」
世都は立ち上がるとううんと大きな伸びをして、マグカップを手にまずはキッチンに向かった。
今日の作り置きお惣菜は、お茄子とおくらの焼き浸し、大阪しろ菜のナムル、ゴーヤのおかか醤油和え、厚揚げと桜海老の煮物、冬瓜の含め煮である。
日替わりなので、大きめの正方形の黄色い付箋にひと品ずつ書き、A4サイズほどのコルクボードにマスキングテープで補強しつつ貼り付けて、カウンタに立て掛けておく。
今日の開店前の占い結果は「カップの4」の逆位置だった。動かざるを得なくなる、そんな意味にもなる。何か気が重くなる様なことでも起こるのだろうか。今のところその予兆などは無いが。とりあえず心に留めておこう。
今は夏の週末。8月に入り、うだる様な暑さが続いている。湿度も合わせて暴力的な気候だ。
こんなときはお酒では生ビールが大人気となる。世都もその気持ちは良く分かる。日本酒バーを開いていながら、世都はビール好きである。お家の冷蔵庫にはいつも缶ビールが数本鎮座している。
しかしこんな季節だからこそ、世都は日本酒ハイボールをおすすめしたい。タンブラーに氷を詰め、日本酒を注ぎ、炭酸水を加えて作るのだ。お好みでレモンを落としても良い。
日本酒の好みはいろいろあれど、ハイボールに使う日本酒は、世都としてはお米の甘さをふんだんに感じられる純米酒や山廃などがおすすめだ。にごり酒でも面白い味わいになる。
基本としては、炭酸に負けない味の日本酒が良いのでは、と感じている。とはいえ純米吟醸の辛口などでも、すっきりとした味わいのハイボールになるので、これはこれでありである。
世界初の炭酸割り専用日本酒として、福井県の真名鶴酒造さんがサマーゴッデスというお酒を醸している。柑橘系のほのかな酸味とりんご酸のフルーティさを持ち、癖の無さとすっきり感でいろいろなお料理と合うのだ。
新潟県の笹祝酒造さんでも、清酒ハイボール専用の日本酒を醸造している。アルコール度数を高めの20度にし、炭酸で割ってもその風味を損なわない。これからの日本酒文化を担う若手のチームが開発したのだそうだ。
日本酒と炭酸水を同割りにするのが日本酒ハイボールの基本だが、この清酒ハイボール専用酒は4対6がおすすめとされている。
とはいえ、結局はお客さまの好みである。生ビールの様にぐいぐいと飲みたいのなら日本酒は減らした方が安心だし、口当たりも軽やかになる。
お酒は好きなものを好きな様に飲んだら良い。ただし人に迷惑を掛けない範囲で。それが世都のポリシーなのだ。
ご常連の若い男性、高階さんはサマーゴッデスのハイボールを傾けながら、豚の生姜焼きと海老チリ、牛すじと大根の煮込みをもりもりと食べている。日本酒ハイボールは唐揚げなどの揚げ物や、味の濃いお料理にもぴったりなのだ。
「はなやぎ」のご常連の間では、日本酒ハイボールは常識である。日本酒バーというと2軒目以降というイメージもあるが、高階さんの様に1軒目からご利用いただくことも多い。
お酒離れ、日本酒離れなんて言われてもいて、実際いくつもの酒蔵さんが大変な思いをしていると聞く。
それでも根強い日本酒好きの人は確かにいて、高階さんもそのひとりだ。同僚やお友だちと飲みに行くときは周りに合わせて生ビールや酎ハイも飲んだりするそうだが、しょっちゅう「はなやぎ」に来ては日本酒ハイボールでお食事を摂り、2杯目からは肴をつまみながら冷酒や燗酒をゆるりと味わう。
「あ〜腹ええ感じ。ごっそさん」
お料理を食べ切った高階さんが満足そうな表情で手を合わせる。だがそれは、終わりでは無く始まりの合図の様なものである。
「女将、而今ちょうだい。それとしろ菜のナムルな」
而今は三重県の木屋正酒造さんで製造されている日本酒で、「はなやぎ」で扱っているのは特別純米。而今では定番のひと品なのだが、爽やかな香りとほのかな酸味、自然な旨味を持つ、人気の銘柄である。
「はーい。お待ちを」
世都は高階さんの前から空いた食器を引き上げてシンクに置くと、厨房の壁側にずらりと置かれている業務用冷蔵庫から、而今の一升瓶を取り出す。吊り戸棚からは水色の切子ロックグラス。そこにきんと冷えた而今を注いだ。
「お待たせしました〜」
ロックグラスを、それまでタンブラーを置いていたコルクコースターに置く。
「ん、ありがとう」
高階さんはロックグラスを傾けて、にんまりと口角を上げた。世都は冷蔵庫からタッパーを出し、大阪しろ菜のナムルを小鉢に盛り付けた。
大阪しろ菜はその名の通り大阪を中心に育てられている野菜で、白く太い軸と青々とした丸っこい葉が特徴である。アクや癖の少ない野菜で汎用性が高い。夏の今が旬だ。
それを軸と葉を分けてレンジで火を通す。含まれる栄養を逃さない様にするためだ。粗熱が取れたら水分を搾り、お塩とお砂糖、お醤油にごま油、白すりごまで和える。しろ菜の爽やかな甘みと白ごまの香ばしさの相性は抜群である。
まだ、お客さまは高階さんだけである。週末だから、これからゆっくりと増えて行くだろう。占いのこともある。何も起こらなければ良いが。
これでも一応、タロット占いに携わる端くれだ。結果をないがしろにはしないのである。
結城はなさんが「はなやぎ」に飛び込んで来たのは、20時ごろのことだった。
華奢な女性で、長い黒髪はまっすぐに背中に伸びている。今日はサーモンピンクのロング丈ワンピースをまとっていた。
その結城さんは今、ワイングラスに注いだすず音を手に、カウンタ席の奥でまんじりと世都の手元を見つめている。世都の手にはタロットカードがあった。
すず音は、宮城県の一ノ蔵が醸す、スパークリングタイプの日本酒である。お米の優しい甘さの中にほのかな甘酸っぱさが覗き、炭酸の爽やかさが口に広がるのだ。
世都はサービスで、こうして時々お客さまを占っている。とは言え暗示を出す1枚占いや、込み入ってもスリーカードまでと決めている。あくまでサービスだし、日本酒のサーブは龍平くんに任せられても、お料理をおろそかにはできないからだ。
結城さんは実はあまり日本酒が得意では無い。だからここに来ても甘口日本酒のハイボールかスパークリング日本酒のどちらかを頼む。
結城さんもご常連と言えないことも無い。が、結城さんの場合はこうして占って欲しいことができた場合のみ、ひょっこり現れるのである。
そしてその相談内容は、決まって恋愛がらみだった。それは今日もだった。これまでも結城さん相手には巧く行くか行かないか、そして成就するには、を占ってばかりだった。
世都は正直、呆れ半分といったところだった。お客さま相手に良く無い感情だとは分かっているのだが、どうも都合よく利用されている感が否めないのだ。
だがこうして注文があり、占いを求められるなら、世都のルールの範囲内で応えるのが女将としての務めである。
「あたし、友だちは大事なんですけど、でも彼もほんまにかっこよくて!」
結城さんはほんのりと頬を染めて、胸元で拳を握りしめて力説する。されてもされんでも結果は変わらんて。世都はそんなことを思いながら、カードを1枚めくった。
「……皇帝の正位置」
世都はぽつりと呟く。これは結城さんの望んでいるカードだと言える。友だちは大事。そう言いながら、結城さんは明らかに意中の男性との距離を縮めようとしているのが見て取れていたからだ。
その男性は結城さんと同じ会社の人なのだそうだ。部署が違うし、最近までお付き合いしている人がいたので眼中に無かったが、フリーになって周りを見渡してみると、他の女性社員がその男性のことで騒いでいたのだ。
「最近中途で入って来た開発部の山縣さん、ほんまかっこええよなぁ」
そこで興味が沸いた結城さんは、時間を見つけて開発部まで見に行った。失恋したところだったし、完全な物見遊山だったわけだが。
「ほんまにかっこええやん!」
一目惚れだった。すらりと高い身長、長い足、切れ長な目、通った鼻筋。まるでアイドルの様な容姿だったのだ。開発部だったので白衣を着ていたことも、その端正さを際立たせた。左手の薬指に指輪が無いことも素早くチェックした。
この惚れやすいのが、結城さんの良いところでもあり、悪いところでもある。この結果を伝えれば、きっと結城さんは突っ走るだろう。それは時と場合によっては、素晴らしい行動力と言える。
しかし、結城さんが会社内でいちばん仲が良い同僚が、その山縣さんを本気で思っているそうなのだ。だから結城さんは迷っている。そう「見せかけて」いる。
世都は占い師として、出た結果を言うまでだ。そのあとどうするかは、結城さんに委ねるしか無い。世都は小さく息を吐いた。
「皇帝の正位置です。困難を乗り越えて、望むもんを獲得しようていう強い意志。なんで結城さんはお友だちのことは関係無く、その山縣さんを射止めようとされてはる」
やはり図星だったのか、結城さんは「えへへ」と照れた様に笑った。もう心を決めているのなら、世都が占う必要など無いのだと思うのだが、きっと背中を押して欲しかったのだろう。
「なら、その通りにされるとええと思いますよ。ただしええとこばかりやありません。わがままやったり、権力を振りかざしたりとか、そういう意味もあるんです。そういうところを気を付けたら、もしかしたら巧く行くかも知れませんね」
「はい! ありがとうございます!」
結果を聞きながら顔を赤くしたり青くしたりしていた結城さんだが、結局は晴れやかな表情になっていた。
すず音をぐいと飲み干してワイングラスを力強くカウンタに置くと、軽やかに椅子から降りた。
「ごちそうさまです! お会計お願いします」
「はい」
世都は苦笑しそうになりながらも、龍平くんに目配せする。龍平くんも苦笑いを返しながら、結城さんのものと思しき伝票を取り上げた。
「はなやぎ」ではお通しを出さない代わりにチャージ料もいただいていない。大阪人はチャージ料に厳しい人も多く、いわく「なんで頼んでも無いもんに金払わなあかんねん」だ。
だから結城さんのお代はすず音1杯分のみだ。ワンカードとは言え占いをしてそれだけかと思われそうだが、「はなやぎ」はそういうお店なのだから、個人の感情は別として異論は無いのだ。
「お待たせしました」
龍平くんが結城さんに金額を記した紙片を差し出す。結城さんはいそいそとブランドものの黒い財布を取り出して、紙幣で支払った。龍平くんは速やかにお釣りを用意する。
「ありがとうございましたー」
語尾にハートマークが付いていてもおかしく無い調子で言うと、結城さんはスキップでもしそうな足取りで「はなやぎ」を出て行った。他のお客さまはそんな結城さんには興味も無いし、特に視線も送らない。だが。
「わはは、結城さんは相変わらずやなぁ」
そう言ってからからと笑うのは、ご常連の高階さんだった。高階さんは既に日本酒ハイボールをお供に食事を終え、今は川中島幻舞の特別本醸造の冷やを傾けながら、きずしをつまんでいた。西日本の呼び方できずし、東日本で言うとしめ鯖である。
川中島幻舞は長野県の酒千蔵野が醸造する日本酒である。淡麗で良いバランスが取れたこの日本酒は常温、冷やで飲むのがベストだと、酒造のおすすめなのである。
「ふふ」
世都はやはり苦笑するしか無い。高階さんはご常連中のご常連なので、結城さんの癖も知っているのだ。多くは語らずとも、見ているだけで分かってしまう結城さんの分かりやすさ。良いのか悪いのか。
と同時に、開店前に出た「カップの4」はこれを暗示していたのでは、と世都は小さくため息を吐いたのだった。
「女将、そろそろ締め頼むわ。五目チャーハンにしよかな」
ソファ席で寛ぐ、ふたり組のお仕事帰りと思しきスーツ姿の男性客からの注文だ。
「はい、お待ちくださいね〜」
世都はタロットカードをひとつにまとめ、カウンタの端にそっと置いて厨房に戻る。何だかどっと疲れた気がした。
結城さんはその性格からか、エネルギーが凄まじい。まるで周りのパワーまで奪い取ってしまう様な錯覚さえしてしまう。
要はその底抜けの明るさ、天真爛漫さに気圧されるのだ。自分の正しさ、正義を疑わない。それを自覚があるにしても無いにしても、他者が押し付けられてしまう。
その源は、結城さんの場合は恋愛なのだ。誰かを思うことで、誰かがそばにいることで発揮される。そういう性質の人なのだ。
その良し悪しは本人だけのものである。そうであることで幸せなことも不幸なことも起こるだろう。
だがそれは恋愛に限ったことでは無い。差はあるだろうがこだわりは誰しもが持つものである。
「結城さんのこと、実際どうなん?」
カウンタの奥あたりに掛ける高階さんが問うてくる。場所が場所なだけに占いの結果も聞こえていただろう。世都は声を潜めていたが、結城さんはいつものトーンだったので、聞かれても構わないと思っていたのだと思う。
「占いの結果通りですよ。まぁ結城さんのことですから、そのあたりは真っ直ぐに行かれるかも知れませんねぇ」
駆け引きなども必要になってくるのだろうが、きっと結城さんは自覚無くそれらを駆使するのだろう。
世都の横では龍平くんが五目チャーハンの具材の準備をしてくれている。ひとつのバットに五目の素材が揃えられ、小さなボウルで卵がほぐされる。
「俺は恋愛にのめり込むタイプや無いから、あんま気持ちは分からんけど、友だちを蹴落としてもって思えるのがええんか悪いんか」
「そうですねぇ」
世都はフライパンを温めてごま油を引き、溶かれた卵を入れる。じゅわっと音がし、卵が周りからふんわりと膨らむ。シリコンスプーンで軽く混ぜながら半熟状態にしたら温かいごはんを入れて、ごはんに卵を絡ませる様に大きく混ぜて行く。
「基本、人の心は自由やと思うんですよ。他人の犠牲が無ければ。でも何かひとつが動けば、必ず何かが犠牲になったり歪んだりしますよね」
「そうやなぁ」
「はなやぎ」の五目チャーハンの具材はみじん切りにしたかまぼこと人参、ハムとザーサイ、小口切りの青ねぎである。人参にはあらかじめ火を通してある。
鍋肌に日本酒を入れ、アルコールをしっかりと飛ばしたら具材を一気に入れた。
「俺も聖人君子や無いし、絶対に生きてる間に、知らんうちに誰かに嫌な思いとかさせとると思うねん。もちろんできるだけそうならん様にしてるつもりやし、それで身を引いたことかてある。でも結城さんはそうや無いんやな」
同じことを目の前にしてどうするか。それは千差万別である。100人いれば100通り。似通うことはあるだろうが、同じでは無い。
高階さんはお友だちのことを思って身を引き、結城さんは関係無いと突き進む。自分が犠牲になるか、人を犠牲にするか。その幅は決して狭まりはしないだろう。根本が違うのだから。
端から見ると結城さんの行動は褒められたものでは無いのかも知れない。自分本位だと咎められることだってあるだろうか。だが当事者には当事者の思いがある。お友だちとの関係が悪くなったとしても、好きな人を振り向かせたい、それは否定されるものでは無いのだ。
世都はチャーハンの味付けをする。お塩とこしょう、うま味調味料、鍋肌にお醤油。全体をざくざくと混ぜて。
「人さまの感情が絡むことは難しいですよねぇ。正解なんてきっと無いんでしょう。ただ、せめて近しい方をないがしろにはしないようにしたいとは思います」
「せやな」
高階さんはロックグラスを傾け、世都は穏やかな表情を崩さない様に努めながら、できあがった五目チャーハンを白い丸皿に盛り付けた。
世都にとって、恋愛とはやっかいなものである。「恋」と「愛」ふたつの感情が寄り合わさってこの「恋愛」と言う文字を形作っているが、このふたつは似て非なるものだと世都は思っている。
恋は自分勝手なもの、愛は相手も大事にするもの。乱暴で極端な解釈だと思うが、あながち間違ってはいない気もする。
愛と名の付く感情はいろいろある。恋愛もそうだし、家族愛、友愛もそうだ。相手を慮れるかどうか、それは自分自身のあり方としても大切なのでは無いかと世都は思う。
恋愛がらみの有事にのみ「はなやぎ」に来る結城さんの別の面を、世都はあまり知らない。だから普段の周りへの振る舞いは分からない。
お友だちと同じ人を好きになり、どちらかが成就したとして、お友だち同士の関係がどう変わるか、それはそれまでの付き合い方に寄るのだと思う。
悔しさや悲しさを抱えつつ、それでも落ち着けたとき、ほんの心の片隅ででも「おめでとう」と思えるかどうか。ふたりの幸せを雫ほどでも願えるかどうか。
綺麗事かも知れないが、そこにその人の本質が出てしまうものなのではと思う。恨みつらみを延々と持ってしまうのは、誰にとっても良く無いこと。私の方が相手を幸せにできるのに、なんて思うことは傲慢である。
結城さんは、どうなのだろうか。世都は何だか嫌な予感がした。
「はなやぎ」の仕入れは、岡町商店街の中にある八百屋さんなどで行なっている。同じ商店街で飲食店を構える者として、盛り上げるためにできることはお金を回すことである。
世都は毎日、コンテナ付きの折りたたみキャリーカートを押しながら、数件のお店を回って、買い出しをするのだ。
商店街の中ごろ、アーケードが途切れる手前にはスーパーもあって、そちらで仕入れをする方が一括でできて便利なのだが、商店街の個人店を利用したいと世都などは思ってしまう。
そう言えば、スーパーでは入り口すぐそばに陳列されているのはお野菜や果物などで、お肉やお魚は奥。これには理由があって、出入り口付近は頻繁にドアが開け締めされるために温度の上下が激しく、お肉やお魚の陳列場所としては向かないからだそうなのだ。なのであまり影響されないお野菜などが出入り口付近に置かれる。
なるほど、理にかなっている。初めて聞いたときには大いに納得したものだった。
こうした地方にある商店街の中には、店舗の閉店が相次いでシャッター商店街になってしまっているところも多いと聞く。それを思うと、この岡町商店街は活発な方だと思うのだ。たくさんのお店が営業を続け、買い物客だって多い。
岡町を擁する豊中市は、山側に行けば高級住宅街の側面もあるのである。だが盆地の岡町は下町の風情なのだ。世都はそこが気に入っている。水が合うと言うのだろうか。
できるなら、長くこの地で「はなやぎ」を続けて行きたい。そのために、商店街そのものにはぜひ存続して欲しいと思うのだ。
世都はさっそく八百屋さんから巡り始める。今日の日替わりお惣菜は何にしようか。
そうして世都が作った日替わりお惣菜は、ズッキーニのごま炒め、人参のきんぴら、お茄子のトマト煮、パプリカのマスタード炒め、たこの梅肉和えである。
今日は週の中頃だが、程よくお客さまが訪れ、ふたつあるソファ席は埋まり、カウンタ席もぼちぼちと。世都と龍平はありがたいと忙しなく動き回る。
今日の開店前の占い結果は「ペンタクルの10の正位置」。努力が実る、富の獲得などを表す。そう言うと良いカードの様に思われるが、これ以上発展が無い、これが上限、そういう状態も表すのだ。
そう思うと、このお客入りが「はなやぎ」の限界なのだろうか、なんて気になってしまう。同時に安泰も暗示するカードなので、少し安心も感じるのだ。
何とも難しいカードが出たものだと、世都は顔をしかめてしまったものだった。
だが「はなやぎ」はこれぐらいが良いのかな、とも思う。接客の質を落とさずに切り盛りできる範囲で、と思うと、それも納得ではあるのだ。
しかし。
21時を過ぎたころ、やって来たのは結城さんだった。
その顔を見たとたん、世都はタロットカードが示した運勢は、この「はなやぎ」のことだけでは無く、結城さんのことまでも示していると感じたのだ。
あれからどうしたのか気になっていたので、それが反映されてしまったのだろう。
「こんばんは!」
陽気に言う結城さんの頬はほんのり赤かった。もうすでにお酒が入っているのだろう。店内はまだ賑わっていて、空いていたカウンタ席に腰を降ろした結城さんはほっとした様に息を吐いた。気が抜けたのだろうか。
世都が冷たいおしぼりを渡すと、結城さんは手を拭きながら口を開く。
「あの、女将さんに話を聞いて欲しぃて」
結城さんは注文もせず、だが話は止まらない。世都は少し呆気に取られながらも「はい」と受け入れた。思わず苦笑を浮かべそうになってしまったが、さすがに堪えた。結城さんはにんまりと笑みを浮かべた。
「山縣さんとお付き合いすることになって、今日初デートやったんですよ〜!」
「あら、それはおめでとうございます」
世都は素直に祝福する。結城さんのことだから脇目も振らず進んだのだろう。その気持ちはきっと真っ直ぐなもので、山縣さんもそれを受け入れたのだろう。
「女将さんのお陰です。ありがとうございました!」
「いえいえ、私は何も」
世都はただ占っただけだ。それは結城さんの背中を押すことになったが、力を尽くしたのは結城さん本人である。
「社内でも人気のある人なんで、他の女性社員のやっかみも凄いし、お友だちとの仲も悪くなってしもたんですけど、それはしゃあないかなって」
結城さんはあっけらかんと言う。意中の人を射止めたことで、他の人のことはどうでも良いのだろう。世都は失礼ながら、この結城さん、同性のお友だちができにくい人なのでは、と思ってしまう。
「山縣さんはアイドル的存在で、せやからみんな必要以上に近付かん様にしとったって。抜け駆けやって言われました。そんなん知りませんよねぇ。お友だちやった子もそうですけど、欲しかったら動かんと」
もっともな意見である。だが他の女性社員が言うことも分かる。女性の団体とはやっかいなもので、右に倣えが暗黙の了解になってしまい、誰かが飛び出すのを嫌がったりする。
もちろん女性を一緒くたにするつもりは無い。世都もそういう団体行動は苦手な方である。ただ、空気を読むぐらいのことはする。その中でどう立ち回るかが重要になって来るのだ。
結城さんの行動はそこに至らなかっただけである。面倒だとは思うが、通さなければならない筋と言うものが、少なくとも女性社員の間にはあったのだ。
「ほんまにありがとうございました! また来ますね!」
結城さんは朗らかに言うと立ち上がり、颯爽と「はなやぎ」を出て行った。世都はぽかんとしてしまう。
「おいおい、いくら何でもあれはあかんやろ」
そう苦言を呈したのは高階さん。結城さんの隣に座っていたのだ。とうにお食事を終え、飲み態勢に入っている。
そう、結局結城さんは、何も頼まずに話すだけ話して帰ってしまったのだ。
「まぁ、短い時間でしたし。また来てくれはったときにご注文いただけたら」
世都はそう言いながら苦笑するしか無い。龍平くんも苦笑いで肩を竦めている。
「女将も龍さんも人が良すぎるわ」
高階さんの呆れた様な声を聞きながら、世都は「やっぱり恋愛はやっかいや」なんて思い、占いの結果と照らし合わせて「大丈夫やろか」なんてことも思ったのだった。
9月に入った。暦の上では秋になったが、夏の名残りはまだまだ深い。気温と湿度はまだ高く、本来なら恵みの太陽も疎ましいと感じてしまう有様だ。
今日の開店前の占い結果は「ペンタクルの2の正位置」だった。臨機応変や柔軟性などの意味を持つ。何かトラブルでも起こるのだろうか。正位置でも悪い意味は含まれていて、その場しのぎや適当など。
「……あんま、良うないかな?」
世都はつい眉をしかめてしまう。だが考えても仕方が無いとすぐに切り替える。これも柔軟性のひとつである。
「ん、気を付けよ」
調和などの意味もあって良い結果なはずなのに、どうにも嫌な予感が拭えない。疲れているのだろうか。確かに夏の暑さに翻弄されて、そろそろ疲れが出て来てもおかしくは無いのだが。
18時半ごろになって結城さんが気まずそうに顔を覗かせたとき、世都は「ああ」と合点がいった。占い結果通りのトラブルにはならないだろうが、そう感じたのだ。
「こんばんは。あの、この前はすいませんでした。うっかりしてました」
入るなりそう頭を下げるので、世都は前回来られたときのことだろうかと思い至る。
「私、この前来たとき、何も飲まんと帰ってしもて。喋るだけ喋って、あまりにも失礼やったと思って」
結城さんは申し訳無さげに目を伏せる。どうやら深く反省している様だ。
世都はあまり気にしていない。驚きはしたし半ば呆れもしたが、意中の相手とお付き合いできることになって、よほど嬉しくてそれどころでは無かったのだろうと理解できる。だから世都は安心してもらえる様に微笑んだ。
「大丈夫ですよ。またご注文いただけたら」
すると結城さんはほっとした様に表情を緩ませた。
「ほんまにありがとうございます……!」
そう言って深く頭を下げた。そして顔を上げたとき、気持ちを切り替えたのかその表情は嬉しそうな笑顔に満ちている。良いことがありました、まるでそう言っている様だ。
「あの、今日はもちろんちゃんと注文しますから、またお話と、あと、占い、お願いしてええですか?」
「ええ、ええですよ。まずはお掛けくださいね」
「ありがとうございます」
そう言って結城さんはカウンタ席に腰を降ろす。まだ早い時間帯なのでお客さまはぽつぽつといる程度。席は自由に選べるので、結城さんは占いのことを見越してか奥の席に座った。世都は冷たいおしぼりを渡す。
「あの、お食事もしたいんですけど、合うスパークリングってありますか?」
「それでしたら、上善如水のスパークリングはどうですか? どっちかっちゅうたら辛口ですっきりしてるんですけど、柔らかな甘みもあって、お食事には合うと思いますよ」
上善如水スパークリングは、新潟県の白瀧酒造で醸されているスパークリング日本酒である。まるで水の様に飲みやすいと長年飲み継がれている日本酒上善如水のスパークリングなので、こちらも軽くするすると飲めてしまうのだ。
「ほな、それお願いします。それと」
結城さんは1枚もののおしながきをぺらりと眺めた。
「鶏の照り焼きと、ちりめんじゃこの温サラダください」
「はい。お待ちくださいね」
上善如水スパークリングをワイングラスで出すのは龍平くんに任せて。
世都はまずちりめんじゃこのサラダから取り掛かる。小さなフライパンを火に掛け、少し多めのごま油を温める。
その間にもうひとつフライパンを出し、米油を温めて鳥もも肉を皮目から置いた。続けて器に千切ったサニーレタスをこんもりと盛り付けておく。
フライパンにちりめんじゃこをじゅわぁっと入れて、ちりちりと素揚げにする。火を落としてポン酢を入れたらさっと混ぜて、それをレタスに掛けた。
「はい、ちりめんじゃこの温サラダです。照り焼きもう少しお待ちくださいね」
「ありがとうございます」
結城さんはさっそく温サラダをお箸で口に運んで「んー」と満足そうに目を細めた。
熱いごま油とポン酢、ちりめんじゃこを掛けることでサニーレタスがしんなりとなり、たくさん食べることができる。香ばしいごま油のオイリーさをポン酢が中和し、かりかりのちりめんじゃこが全体の風味を高めるのだ。
鶏の照り焼きのたれは、日本酒とお砂糖、お醤油と蜂蜜を合わせたものである。みりんを使うレシピも多いが、お肉を固くしてしまうので「はなやぎ」では使わない。蜂蜜でも充分良い照りが出るのだ。
そして焼き上がった照り焼きを包丁で切り分けて、大葉を敷いた角皿に盛り付けた。
こうしてお料理を整える時間は、心が落ち着く。ゆっくりとゆっくりと、穏やかに心が凪いで行く。
世都にだって心がささくれ立つときがある。だがそれを救ってくれたのがお料理だった。これまで何年もの間お料理に携わって来て、それだけは変わらないのだ。
だがひと段落着いたら結城さんを占うことになる。それに世都は心をざわつかせるのだった。