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 高校に来るだけで心が痛む日々に、どうやって終止符を打てばいいのかな。
 教室で幼なじみの笑い声を聞くだけで、嫉妬が溶けた悔し涙が製造されそうになる。

 僕、萌黄(もえぎ)輝星(てらせ)が人前で悲哀を洩らさないようにと必死にマスターしたのは、悲しい時ほどエンジェルスマイルを顔に張りつけるというチープな技。

 放課後の今だってそうだ。
 黄色いエプロンをはおり、卵を菜箸でとく手が止まってはいるものの終始笑顔。
 僕の目じりは理想どうり垂れさがり、口角上向きのハピネス顔をキープできている。

 調理室の2階の窓からテニスコートを見下ろし、スマッシュを決めた幼なじみと恋敵がハイタッチをした地獄絵図が、僕の瞳に映っているにもかかわらずだ。

 あっぱれにもほどがある。
 僕は人を騙す才能でもあるのだろうか。

 テニスの試合は(かすみ)くんたちが勝ったんだなと、嬉しさよりも悲しみが色濃く心を占める。

 遠くから見てもわかるよ、霞くんと恋敵くんが満面の笑みでグータッチを決めているもん。
 恋敵くんなんてワイルドフェイスに白い歯を輝かせながら、霞くんの肩に腕を回していて。

 はぁぁぁ、見てるのしんど……

 癖のように視線を突き刺してしまう幼なじみの残像を闇に葬りたくて、窓に背中を強く押し当てた。
 悲しみが僕の表情筋を殺そうとする。
 でも必死に抵抗、作り笑いは消したくなくて。

 作り笑いは自分の心を偽る行為。
 そんなことをして心が無傷ではいられないことは100も承知。
 笑顔で悲しみに蓋をしているわけだから、そこそこの代償があるわけで。

 いま僕は作り笑いをしちゃっているんだ……

 むなしさを自覚した直後、心がトラックにひかれたような激痛にいつも襲われてしまう。

 まさに今も心臓が苦しい。
 悲しみを吐き出す術を身につけないと、精神が崩壊する日が来てしまうだろうな。
 近い将来、間違いなく。

 「やっぱりもう一個、玉子を追加しよう」

 調理室の冷蔵庫に向かい、ボールに卵を割り入れる。
 手についた白身のベタベタが負の感情とリンクしているようで、闇を消したくて石けんで念入りにぬめりを落とした。

 報われない想い。
 幼稚園から抱き続けている恋心。

 さい銭箱に500円玉10枚を投げ入れて『霞くんの恋人にしてください』なんてお願いをしたら

 『無理難題を押しつけられても困る。目が合っても無視されているじゃないか。嫌われているんだ諦めろ』

 迷惑極まりないと言わんばかりのため息をこぼす神様に、おさい銭を投げ返されるだろう。

 辛い、悲しい、苦しい。
 恋心を捨てたい、この悲しみから逃れたい。
 霞くんを諦めるための最適解は……

 絶望にひたっている時のひらめきほど、とりつかれ注意なのかもしれない。
 数週間前の僕は本当にどうかしていた。
 でも、これしかないとすがってしまった。

 【霞くんと誰かを僕の脳内で恋人にして、推しカプだと思いこめばいいんだ】

 BL好きの腐女子ちゃんが親友だからだろうか。
 自分のものとは思えない湾曲ぎみのひらめきが、病んだ脳に降ってきたあの日。
 
 霞くんのお相手?
 間違いない、心を許している彼しかいない。

 俺様っぽいのに親しみやすくてコミュ力が高い、僕が勝手に恋敵と思い込んでいる、赤城(あかぎ)奏多(そうた)くん。
 テニス部に所属していて、霞くんとダブルスのペアを組み、先日の県大会で優勝を果たしたスポーツ万能イケメン。

 またか。
 傷つくとわかっていながら、ついテニスコートの霞くんを瞳に映してしまった。

 僕の瞳ってドM確定?
 ただのチラ見グセにしては諦めが悪すぎるよ。
 ほらやっぱり、霞くんを見なきゃよかったでしょ。
 僕の心の弱い部分が、後悔の悲鳴をあげている。

 奏多くんはラケットを担ぎ、霞くんの肩を抱いている最中で、ニヒヒと笑みをこぼしながら、霞くんのサラサラな髪を豪快にかき乱した。
 霞くんは奏多くんの腕を跳ねのけることなく、楽しそうに肩を揺らしている。

 仲が良すぎ。
 霞くんの幼なじみは、僕じゃなくて奏多くんだったんじゃないかな。
 二人はすでに付き合っていたりして。
 
 霞くんと奏多くんの【カスミソウ】コンビは、女子たちにも大人気だ。
 麗しすぎて目の保養になると、あえて3年の廊下までのぞきに来る集団が後を絶たない。

 おっとり微笑む優雅な王子様タイプの霞くん。
 それに対し、奏多くんは見た目も性格もオスっぽい俺様系。

 二人とも美形すぎで並ぶとさらに尊さが増す。
 手を合わせて拝みたくなるご神仏レベルの神々しさだから、キラキラ直視は目の疲労面で長時間要注意。
 なんの取り柄もない僕なんかが割って入るす隙間は、残念ながら一ミリもない。

 カスミソウカプを推している女子たちに睨まれるとメンタルが病みそうだし、近づかないのが一番。

 とわかってはいるものの、推しカプを作ったことが功を奏し霞くんをほぼほぼ諦めたからと言って、恋心が日に日に膨れ上がってしまっているのが現実で。

 やっぱり好きで。大好きで。でも手には入らなくて。無視されっぱなしで。結局しんどいまま。
 
 高校を卒業して霞くんを瞳に映さなくなったら、ちゃんと別の恋ができるのかな。
 違う人を好きになって、霞くんのことを忘れることができるのかな。

 早く高校を卒業したい。
 まだ半年以上もあるのがもどかしい。

 ただ別枠の感情もある。

 霞くんともう一度笑い合いたくて。
 小学生の頃みたいに僕だけを友達認定して、僕だけを独占してほしくて。

 嫌われているのにやっかいな願望が心底にくすぶっているから、ごみを捨てるように恋心を放り投げることはできないんだ。



 クラスも一緒の流瑠(るる)ちゃんは僕の親友で、部活中の今は火の番人。
 コンロの前に立ちグツグツうなる鍋の中を覗き込みながら不満げに眉を下げているあたり、ハートの中に雨雲がいらっしゃるもよう。

 「嫌なことでもあった?」と僕が声をかけた直後に顔を上げ、鋭くギロリ。

 あぁ、いつものですか。
 今日はこのタイミングできましたか。

 「ねぇテラっち、いつになったら私の妄想が現実になってくれると思う?」

 ネコ目がふてくされている。
 それもいつもの質問ですね。

 「待っても待っても推しカプが進展しないの」

 はぁぁぁ、親友を心配して損した。

 「校内で絡んで欲しいのに。おはようって笑い合って、頭ナデナデからのハグ。誰にも見られない校舎裏でね。それを私だけが見ちゃうとか。うん、おいしい。そのシチュに出くわしたい!」

 さっきまでの雨雲はどこへやら。
 腐に片足を突っこみ中の流瑠ちゃんの顔が、にやけることにやけること。

 誰についての愚痴かは言及していない。
 でも僕にはわかる、出会った高1から耳ダコだから。

 流瑠ちゃんの前では80のパーセンテージで喜怒哀楽を表現できる僕は、わざとらしいため息をこぼす。
 誰にも聞かれたくなくて、流瑠ちゃんの耳元で声量をしぼった。
 
 「僕が霞くんに無視されているところを毎日見てるでしょ」

 「霞くんってテラっち以外には、優しい王子様っぽく微笑むのにね」

 「僕が嫌われている証拠」

 ブルーになるから認めたくないけど。
 流瑠ちゃんは僕に、何らかのアクションをさせたいんだろう。

 「好きだからこそ近寄れない。嫌われるくらいならいっそ距離を取ろう。そんな話、マンガではザラだよ」

 菜箸の先端を僕に向けうなづいているが……
 ごめんね、僕は行動なんてできないよ。
 見てごらん、テニスコートにいる僕の推しカプ二人を。
 笑いながら肩をぶつけあっているあたり、僕が割って入るすきなんてないでしょ。
 あごをしゃくって、霞くんと奏多くんの方に流瑠ちゃんの視線を誘導する。

 「あぁ、距離感近いよね、あの二人」

 地雷カプだからって睨むのはどうかと思うよ。
 流瑠ちゃんの注意を僕に戻そう。
 あえてオーバーにため息を吐いた。

 「僕と霞くんがくっつく妄想はもうやめて」

 「凛として優雅に微笑む霞くんと、いっつも笑顔で無邪気で可愛いわんこ系のテラっち。これ以上のカプがどこに存在してるっていうの? いらっしゃったら拝みたいくらいだよ」

 「あそこ」と窓の外を指さして、しまったと後悔が追いつく。
 霞くんから注意をそらす作戦だったのに、流瑠ちゃんの視線を戻すことになってしまった。
 この子をコントロールなんて無理か。
 流れに任せようと思い直し、僕あえて窓と対面する。

 「今だってテニスコートの周りにたくさんの女子が集まってる。キャーキャー飛び跳ねてるし。あの子たちみんな、霞くんと奏多くんカプを拝みに来てるんだよ。それなのになんで流瑠ちゃんは、僕と霞くんをくっつけようとするかな」

 「だって私は小学生の時に……」

 僕と霞くんがペアを組んで出たテニスの試合を、たまたま見たんだよね。
 前衛の僕が弱すぎるせいで惨敗だった。
 それでも霞くんは、この先も僕とペアを組むと譲らなかった。
 僕以外と組まされるならテニスをやめるとコーチを困らせていた。

 僕だけに笑って、僕だけに心を許して、他の人は拒絶で。

 あの頃と今とでは違う。
 霞くんからの気に入られ度も、お互いの距離感も、霞くんが僕に向ける視線の温度も、なにもかも。

 「僕たちが親友だったのは小学校まで。そのあとは友達ですらなくなっちゃったの。そのこと前に流瑠ちゃんに話したよね?」

 「聞いたけど……」

 重苦しい空気を一掃したい。
 浮かない表情の流瑠ちゃんに向かって「この話は終わりね」と、僕は目じりを下げた。

 「具が柔らかくなったんじゃない? いい感じだよ。玉ねぎも透明になったし。味付けして卵を流しいれて、親子丼を完成させちゃおう!」

 声を弾ませた僕に対し流瑠ちゃんはムスっ。
 負の感情をほっぺに詰め込んでいる。

 「最重要案件。味付けは料理上手な流瑠ちゃんに任せた」

 醤油の小瓶を手渡したところで、ようやく流瑠ちゃんのほっぺから空気が逃げた。
 何かを自分に言い聞かせているのか、高速でうんうんと頷いているのが微笑ましい。

 「あぁぁぁ、わかるよわかる。私にとっての推しカプは、テラっちにとっての地雷カプだもんね」

 そういうことにしておいて。
 霞くんへの恋心を捨て去るためには、霞くんは奏多くんとお似合いだって思い込むしかないから。

 「人の好みにとやかく口を挟まないのが腐女子のたしなみだって思ってる。思ってきた。他人を否定したくないし」

 「いい心がけだよね」

 「だけどだよ。やっぱり私と違うカプを推されちゃうと、説き伏せたくなっちゃうの。いかんいかん、多様性の時代。他人と私は違う。好みも違って当たり前。これ大事!うんうん!」

 ポニーテールを大振りさせた流瑠ちゃんの顔は、梅雨をひと蹴りした後のように快晴だ。

 「味付けは部長でもなんでもない私に任せなさい」

 白い歯をニカッと輝かせ、胸を張って仁王立ちを決め込んでいる。

 「平部員なのに頼もしい」といじったせいだろう。
 前方から頭突きが飛んできてドン。
 ひたいに痛みが走ったけれど、僕の心が穏やかに凪いでいるいるからよしとしよう。

 流瑠ちゃんは隠れ腐女子だ。
 僕以外には完璧に隠し通しているらしい。
 場をわきまえている。
 そういう話になるとちゃんと声のトーンを落としているあたり、さすが成績上位者。

 そんな彼女にはこの高校に推しカプがいる。
 これまでの会話でわかっているとは思うが、もう一度伝えておこう。
 流瑠ちゃんが脳内で愛してやまないカップルこそ、霞くんと僕なんだ。
 僕らの名前2文字を取って【カステラ】と命名したのが小5の時というから、カプ()でに年季が入っている。

 腐の沼に落とした張本人が僕という事実を聞いて頭を下げたこともあるが、本人は幸せらしく、腐女子に変化した瞬間から脳内バラ色に染まるようになったそう。
 『人生に潤いをありがとう』と、高校の入学式で初めて言葉を交わした時に感謝されてしまった。
 その時は説明不足で、いったい何のこと?と首をかしげたのだが。

 小5から中3まで脳内で僕たち推しカプを勝手に妄想しすぎたせいで、会話をしない現実の僕たちが許せなくなってしまうみたい。
 そう言われても僕を避けたのは霞くんの方。
 僕は今でも霞くんのことが大好きだし……



 どうして腐女子ちゃんって、好物の話になると舌が回っちゃうんだろう。
 ニコニコウキウキしているから、言葉を遮るのも罪な気がして。

 「カプ名ってね攻めが先で受けが後。カステラで言うとテラっちは受けだね」

 いや、遮らせて。

 「あのさ、なんでもBLに置き換えるのやめて」と、今度は僕がほっぺをプクり。

 笑顔キープの僕が流瑠ちゃんには負の感情もさらけ出せるから、いい意味でストレス発散になってるんだけど。

 「テラっちってさ、髪の毛が柔らかなユルフワじゃん。筋肉も脂肪もあんまなくて。背がちっちゃいわ目がグリグリのまん丸だわ。見た目からしてわかりやすい受けなんだけど」

 男なのに女の子寄りの外見って言いたいわけね。
 自覚あり、耳痛ですがなにか。

 「マンガだったら私は俺様受けにしびれるんだよ。顔強魔王様系なのに好きな人だけには甘えるみたいな。そのギャップよくない?」

 見た目も性格も俺様とは無縁の僕。
 流瑠ちゃんの期待に沿えずすみません。

 「あっ、テラっちはそのままでいいからね。推しカプ同士が幼なじみってだけでおいしいんだから。これでテラっちが優雅な王子様の霞くんに甘えてくれたら、胸キュンで脳が破裂して死神に魂を持ってかれるかもな。良い! それ味わいたい! あっ、その時は救急車よろしくね」

 ほんと腐女子ちゃんは妄想力が半端ないな。
 その偉大な妄想で世界平和が実現できるのではないかと、本気で思える時があるし。

 「流瑠ちゃん、魂は大事してよ」

 僕の口から冷たいため息がもれる。
 つっこんだ数秒後、遅れてブハッと笑いがこみあげてきた。

 推しカプにキュンキュンしたせいで脳が破裂してもいいと思っているの?
 アハハ、流瑠ちゃんの脳内をのぞいてみたいよ。
 頭をメスで解剖して。いやいやグロテスクすぎ~

 「あっ、いま私をバカにしたでしょ」

 「違う違う」と手を振りながらも、目じりにたまった笑い涙をサッと拭いさる。

 「琉瑠ちゃんが瞳を輝かせながらありったけの熱量で好きを語りつくすから、幸せそうでなによりだなってしみじみ浸ってただけ」

 僕と霞くんのイチャイチャを妄想されるのは恥ずかしいから、やめて欲しかったりするけれど。

 「テラっちさ、今年の夏も制服の半袖着ない気? 長袖暑くない? もうみんな衣替えしてるよ」

 突然流瑠ちゃんが話題を変えたせい、笑いの熱が急速冷凍。悲しみがヌモっと顔を出す。
 作り笑いが顔に張りつけられなくて、長めの前髪で目を隠した。

 もう僕は期待しないって決めたんだ。
 どうせ霞くんに選ばれない。友達にも恋人にも。
 校内だけならまだしも、たまに一緒になる狭いバスの中でも無視されまくっているのがその証拠。

 期待って残酷なんだよ。
 輝かしい未来像がモクモクと膨らむほど、裏切られた時のショックは計り知れない。
 ハートがめった刺しに斬り刻まれてしまうんだ。

 だから僕は、霞くんと奏多くんを推しカプと思い込むことにしたわけで。
 【カスミソウ】が本当に付き合ってくれれば、霞くん以外の人を好きになれるかもと微かな期待を持ってしまっているわけで。

 はぁぁぁ。 
 霞くん以外を好きになれる日なんて、この先来るのかな……

 「なんか今、睨まれた気がする」

 なんのことと、僕は首をひねる。
 ポニーテールを揺らしながら、流瑠ちゃんはテニスコートを指さした。

 「霞くんだよ、こっち見てた。やっぱりテラっちに気があるって」

 いやいや、それはない。
 僕が外に視線を向けている今まさに、奏多くんと笑い合っているわけだし。

 「私が推しカプを壊すなんて絶対に嫌だからね」

 「僕と霞くんの縁はもう繋がってないよ。それに僕は霞くんのことなんて好きじゃない」

 「ほんと?」

 疑い深いジト目やめて。
 右腕がぶり返したように痛みだしちゃう。

 「……あっ、うん。好きじゃない、好きじゃない」と、髪が行ったり来たりするほど頭をブンブンブン。

 「いま間があった」

 鋭すぎ。この子は僕の心を読めるエスパーなの?

 「すぐに返事できなかったのは、卵こぼしそうだったから」

 「動揺しすぎて菜箸で高速カシャカシャしてる。卵泡立ってる。テラッちあやしい」

 「だから何度も言ってるでしょ! 僕の推しカプは霞くんと奏多くん! 僕と霞くんは地雷カプ!」

 「ふ~ん、俺様系の奏多くんが受けなんだ」

 「嬉しそうにニマニマしないで。流瑠ちゃん経由でしかBLの知識が入ってこない僕には、攻めとか受けとかわからないから!」


 お願いだから流瑠ちゃんやめて。
 僕の恋心を放っておいて。
 変にかき乱さないで。

 霞くんが僕を毛嫌いしているのは現実なの。
 あからさまに避けられているの。

 もう限界。しんどい。恋心を捨て去りたい。

 なんで僕、霞くんなんかを好きになっちゃったんだろう。
 

 




 
 ☆輝星side☆


 闇夜にひっそりとたたずむバス停には、僕以外誰もいない。
 そりゃそうかとボヤキ、梅雨時期とは思えない星たちの堂々たる輝きに目を止めた。

 電車の駅というすぐれたものが、高校のすぐ近くにある。
 徒歩や自転車以外は電車通学がほとんどで、バスに乗るのは家の近くに駅がない田舎暮らしの生徒ぐらいだ。つまりは僕。
 それでもバスで45分揺られれば、家の近くまで連れて行ってくれる。

 ありがたやと、くたびれ感漂うバスに手を合わせての感謝は欠かせない。
 だって経営赤字のこのバスがなくなってしまったら大変。
 山道を自転車コギコギで遠くの駅まで行って、電車に揺られ、帰りも自転車コギコギという通学地獄が待っている。
 太陽の照りが強烈な真夏日は特に、高校に行きたくなくなるだろう。体が凍りつくような真冬も同様に。

 雨が降ってはいないが、梅雨特有のじめっぽさで空気が重い。
 じとじとが体感温度を無駄に上げる。
 腕にまとわりつく熱を逃がしたくて、僕は制服シャツの長い袖を肘までまくった。

 いつも君を隠していてごめんね。
 広範囲にわたる腕の傷を、手のひらで慈しむように撫でる。

 君のこと、嫌いじゃないよ。
 むしろ大好き。
 霞くんとのかけがえのない想い出でできた稲妻に見えるんだ。

 でもね、僕はこの赤黒い傷跡を晒せない。
 霞くんの前では特にね。
 彼を悲しませたくない。
 僕のことで悲痛な表情を浮かべないで欲しいと、切に願ってしまう。 

 人間が持つありとあらゆる感情というものは、絡まりやすくて、ほどくのが難儀で、ほんと扱いづらいよね。

 頼りなく揺れる街灯の光が、僕とバス停だけを闇から浮かびあがらせている。
 折れそうなほど薄い月が行方をくらませた。
 さっきまで雲一つない夜空だったのに、明日は雨なのかもしれない。
 放課後だけは大雨であってくれないかな。
 そうすれば調理室からテニスコートを見下ろすことも、カスミソウカプを瞳に映して作り笑いを浮かべることもしなくてすむから。

 雲間から顔を出した頼りない月に願いを込めてみたものの「天気は操れないから無理」と突き放された気がするのは、また月が雲に隠れてしまったせい。
 他力本願はよくないよね。
 そもそも部活中に窓の外を見なければいい話だし。

 体力が吸い取られた時のように背骨がへにゃる。
 体に力が入らない。
 バス停に頭を預けたその時だった。
 聞き覚えのある、僕の耳には入れたくない、鼓膜が拒絶するようなワイルドな笑い声が聞こえてきたのは。

 アハハと楽しそうな声に重なるのは、自転車を引く音。
 地面を擦る足音。しかも足音は二人分。

 笑い声で身元がわれた。
 ゾッとなった僕は、上半身しか隠すことができないバス停に右腕をくっつけ、一体化を図り息をひそめる。
 どうしよう、奏多くんと霞くんがこっちに来るよ。
 暗がりだからまだ二人は僕の存在に気づいていないことだけが救いだけど、時間の問題だよね。

 「行ってみたい、カスミん家」とぼやいた奏多君に、「今度ね」と霞くんが了承した。

 「カスミが飼ってる犬、ポメラニアンだっけ? 白の」

 「茶色だよ。毛がふわふわなの」

 「俺のひざを寝床がわりに提供したら、茶ポメ喜ぶか?」

 「どうだろう。奏多の太もも、筋肉で固そうだし」

 「わしゃわしゃ撫でてやったら、俺に懐かせられる自信しかない」

 「フフフ、変な日本語。奏多は握力が半端ないんだから優しくね、怖がらせないでよ」

 二人の仲良さげな声を聞かされている僕。
 聞かされているという言葉は違うか。
 隠れている僕の耳が勝手に取得しているだけだし。

 冗談を言い合える関係がうらやましいよ。
 僕も小学校のころまでは、霞くんの発言におどけていたんだ。
 僕が冗談を飛ばしながら笑うたび
 「輝星かわいい」「ほんと好き」「ずっと一緒にいて」「俺のそばから離れないで」と、独占欲丸出しの霞くんが、僕の頭を撫でてくれてばかりだったけれど……

 はぁぁぁ、幸せな頃を思い出すのはやめなきゃ。
 余計にメンタルが闇に落ちちゃう。
 二人の楽しげな声を遮断したくて耳をふさいではみたものの、僕の聴覚は心とは裏腹だ。
 大好きな人の声を一言ももらさず聞き取ろうと敏感になっているから困りもの。

 「カスミはガキの頃から犬好きだったわけ?」

 「飼いだしたのは中学に入ってから。ペットショップで一目ぼれをしたんだ」

 「親は反対しなかったのか?」

 「どうしても飼いたくてね。勉強を頑張るからって言ったらOKが出た」

 「だからオマエ、テストで学年1位キープしてんのな。まぁカスミに可愛がられてるなら、その茶ポメはお姫様気分を味わい放題なんだろけど。オマエLOVEの高校の女子たちの耳に入ったら、その茶ポメは嫉妬でいびられるぞ」

 「そんな酷いことをする人なんてうちの高校にいないよ。あと名前があるから。かぐや」

 「やっぱり姫って」

 「別に昔話からとったわけじゃないし」

 「光ってた竹を日本刀でスパッと切ったら、赤ちゃんが出てきたてきな?」

 「聞いてた? うちのかぐやとはペットショップで出会ったって言ったでしょ」

 「月からの使者がカスミの家に来たことないわけ? 今まで姫が世話になった、月に連れ帰る的な」

 「かぐやがいない生活なんて考えられないよ。縁起でもないこと言うのやめて」

 「お犬様にどんだけ愛情与えてんだよ。それ俺に向けろや、マジで」

 豪快な笑い声に、クスクスと上品な笑い声が混ざり合う。
 なんて耳に贅沢なハーモニーなんだろう。
 雲間から顔を出した月が、高音と低音の美声に酔いしれ聞きほれているよう。

 でも僕は違う。
 はっきり言って不快だ。
 不協和音を聞かされた直後のような痛苦しさで、心臓が締め付けられてしまうんだ。
 嫉妬で苦しい今こそ思い込まなきゃ。
 僕の中で霞くんと奏多くんが推しカプなんだ。
 美形で尊くてお似合いなんだって。

 僕がバス停の後ろに隠れているってバレたら、二人だけの世界に水を差してしまうのではと焦りにかられる。
 これ以上霞くんに嫌われたくないから、死活問題。

 お月さま、今日だけ僕の願いを叶えて。
 バスよ早く来て、僕が見つかる前に。
 早く早く、秒で到着して!

 「あっ、あいつって」

 月への必死な願いは届かなかったと、奏多くんの驚き声で知る。
 闇に響いていた二人の足音が消えた。
 僕は顔を上げられない。
 右腕の傷跡を霞くんに見られないようにと、まくっていた袖を手の甲まで急いで伸ばす。
 バス停になりきりたくて、透明人間になりたくて、さらに時刻表に体をくっつけるも無意味でしかなくて、空しくて。

 「バス停の横に立ってるの、カスミと同じクラスの奴だよな? 調理部の。名前は確か……」

 「萌黄(もえぎ)くんだよ」

 もう名前では呼んでくれないのか……
 人物の特定までされてしまい、僕はゆっくりとバス停から顔だけを出した。
 もちろん得意の作り笑顔を顔に張りつけて。
 離れたところに立つ二人に向かって、ゆるふわ髪が弾むほどオーバーに頭を下げ、すぐさま顔をバス停で隠す。

 心臓がドギマギする。
 悪いことをして隠れている気分だ。
 霞くん、僕が微笑んだことを不快に思ったかな? 

 教室ではどうしてもってくらい緊急性が高すぎる時しか、彼は話かけてこない。
 目が合うと秒でそらされてしまう。
 俺には関わらないでと態度で示しているみたいに。
 今も笑顔の僕とは対照的に、冷ややかな視線を突き刺されてしまった。
 悲しい。心臓が痛い。消えたい。

 どうやらこの二人は、僕に絡むつもりはないみたい。
 その点は安心したけれど……

 「何オマエ、同じバス乗ってくる奴がいたんだな」

 「彼は中学が同じだからね」

 霞くんの声色は穏やかだが、拒絶されているのがはっきりとわかってしまう。
 小学生までは僕だけに懐いてくれていた記憶が残っているだけに、これは拒絶で間違いない。

 「同中って言っても、しゃべっったことないやつなんてザラだよな。俺のいた中学なんて10クラスもあったし、顔見ても誰ってやつ多いわ」

 「奏多、今日も送ってくれてありがとう。もう帰ったら? バスもうすぐ来るし」

 聞き耳を立てながら、霞くんは奏多くんともっと一緒にいたいんじゃないの?と勘ぐってしまう僕。

 「いつも俺にバスが見えなくなるまで見送らせといて、今さらなんだよ」

 「見送りなんてお願いしたことはないよ」

 「オマエの笑顔が無意識に俺の足を固めてんだよ」

 「なにそれ、罪のこすりつけにもほどがあるでしょ」

 霞くんの笑い声が響いている。
 楽しそうで何よりだ。
 なんて心の中で強がってはみたものの、敗北感がぬぐえない。

 僕の感情は、いつ雨が降ってもおかしくないほど荒れている。
 涙腺が刺激され、鼻がしらがツンとうずいて、雫が製造されそうで。
 
 バスが来るまでの間、この場から逃がしてくれるヒーローが現れてくれることを、僕は折れそうなくらいひ弱な月に懇願することしかできなかった。








 ☆霞side☆


 タイヤのついた小さな箱に、俺を毛嫌いしている幼なじみと二人きり。
 あっ、運転手さんも入れたら三人か。
 先にバスに乗り込んだ輝星(てらせ)は、俺から逃げるように前方の一人席に腰を下ろした。

 俺が一番後ろの席に座ったのは、バスの重量バランスを考えてというわけではない。
 今は特に輝星の顔を見たくない。
 きっとニマニマ微笑んでいるに違いないんだ。
 調理室で親友の流瑠(るる)さんとキスをしてから、そんなに時間がたっていないんだから。

 進みだしたバスが、俺の記憶脳を揺らしたせいだろう。
 二度と思い返したくないほどの衝撃映像が、脳内で再生されてしまった。

 わかっている。
 輝星の特別はもう俺じゃない。
 同じクラスの鈴木流瑠さん。
 
 中学に上がる前、輝星を拒絶したのはこの俺だ。
 今も他人のふりを続け、目を合わせないようにしている。
 全部自分の蒔いた種。
 自業自得。
 輝星は何も悪くない。
 出会った時からずっと俺だけが悪い。

 そのことはちゃんとわかってはいるはずなのに。
 ふつふつと怒りが湧き、血が頭にのぼっていく。
 二人のキスシーンを頭から追い出したいと髪をかきむしっても、よけいに色濃く脳に刻まれるだけ。
 心を救う方法なんて、一つも見当たらなくて。

 俺だけの輝星だったのに……中学に入る前までは……間違いなく……

 荒れる心拍を落ちつけたくて、バスの背もたれに左腕と左頬を押し当てた。
 あごの角度を上げ、涙の雫のようにはかなげに浮かぶ細い月をぼんやりと見つめる。

 部活中、調理室でアクションを起こしたのは、輝星ではなく流瑠さんの方だった。
 ポニーテールを大振りさせながら、流瑠さんは勢いよく上半身を傾け輝星にキス。

 遠かったし角度的にも唇同士が触れ合うところまでは見えなかった。
 でもキスをしたのは間違いない。
 だって二人の体が離れた直後、おでこに手を当てた輝星が嬉しそうに微笑んでいたんだから。

 何をするのと流瑠さんをとがめるわけでもなく、他の部員に見られて恥ずかしいと、その場から逃げ去るわけでもなし。
 唇を重ね合う行為が二人にとって当たり前であるかのように、微笑みながら愛おしそうに流瑠さんを見つめていて。

 二人が付き合っているというウワサは、本当だったんだ……

 隕石が脳天を直撃したような衝撃と絶望に、俺は手に持っていたボールを落としてしまった。

 『どうした霞、ラケットの振りすぎで握力消えたんじゃねーの?』

 奏多がイヒヒと笑いながら拾い上げたボールを俺の背中に投げつけてきたけれど、いつものよそいき笑顔が作れなかった。
 余裕のない引きつり笑いしか返せなくて。

 隣のコートで練習をしていた女子テニス部員も、輝星たちのキスを見てしまったようだ。
 はしゃぎ具合は、まるで芸能人カップルのイチャつきを目の当たりにした時のよう。

 「ねぇ見た? 輝星先輩と流瑠先輩がキスしてたとこ」

 「見た見た、流れ星カプがついに誕生ってことでいいんだよね」

 「このカプ押してる子たち、学年関係なく結構いるって聞いたよ」

 「わかる~、二人とも後輩のうちらにまで優しいしさ」

 「付き合ってるか聞かれて否定してたらしいから、くっついたのは最近かな」

 「どっちから告白したんだろう。テラセ先輩? ルル先輩?」

 「姉御肌っぽいし流瑠先輩からじゃない?」

 「ウルウルお目目の上目遣いで、甘えるように輝星先輩から告白されたら、嬉しくて流瑠先輩が泣いちゃいそう」

 「でもさでもさ、どっちからの告白の妄想もおいしいよね!」
 
 キャーキャー声をあげる女子たちが、僕のすぐ近くで飛び跳ねていたから

 ――誰から見ても、輝星と流瑠さんはお似合いなんだな……

 心が悲しみ色に侵食されてしまった俺は、ラケットを握る手に力が入らなくなってしまったんだ。

 
 どうやら二人の仲の良さは生徒公認のみたいだ。

 髪がゆるふわな輝星(てらせ)は、まとっている雰囲気が陽だまりぬくぬくの癒し系。
 背が低くて華奢な体格に、大きな瞳にかかる長いまつげ、愛くるしい幼顔。
 心にスッと入り込む絶妙の距離感で優しく微笑まれたら、男女先輩後輩関係なくみんな好感をもってしまうようだ。
 そして先生たちのお気に入りでもある。

 『萌黄(もえぎ)は将来、幼稚園の先生なんてどうだ? 子供からも保護者からも好かれること間違いなしだ』

 『私は介護のお仕事が合うと思うの。老人ホームに慰労に行った時、輝星くん大人気だったでしょ。うちの孫と結婚してくれ。むこに入って欲しいなんて、みんなから腕をぐいぐい引っ張られていたし』

 と、輝星の前で進路指導を始めたと思ったら

 『何言ってるの先生たち! 人に好かれる才能を活かすなら、アイドルしかないでしょ!』

 と、アイドルオーディションの紙を輝星の目の前に突きつける生徒までいて。
 輝星はオロオロのタジタジで。

 『僕は栄養士になりたいんです。先生とか介護士とかアイドルにはなりませんから』

 困り果てたように両手を振る輝星を陰から見て、俺は再認識したんだ。
 もう輝星は俺だけのものじゃない。
 どんどん俺から離れて行っちゃうんだなって。

 人に好かれる才能を持つ輝星に対し、鈴木流瑠(るる)さんも人気者という点ではひけをとらない。

 気持ち釣り気味な目もと。
 凛とした黒い瞳。
 ストレートで綺麗な黒髪は前髪と一緒に高い位置で結われ、一見性格がきつそうなポニーテール美女に見えるのだが、見た目と性格のギャップに沼ってしまう生徒は数知れず。

 困っている人を見かけた瞬間に猛ダッシュ。

 『手伝うよ』

 『こんな重い荷物、職員室から一人で運んできたの? 偉すぎ』

 『お礼なんて全然いらないいらない。あっ、じゃあこうしない? 今度校内で私と目が合ったらニコッて笑って、それがお礼。ねっ、いいでしょ?』

 『やった、約束ね』

 地声の大きさから、流瑠さんの声しか俺の耳に届かないことが多いけれど、いろんなところに目を向け、いろんな人に笑顔を振りまくところは輝星と同じだなって、俺も流瑠さんを一人の人間として尊敬している。

 そう、いい人なんだ。
 いい人なだけに俺は苦しいんだ。
 輝星が心を許している相手が嫌な人だったら、思う存分憎めるのに。

 ……なんて、中学に入る前に輝星を突き放し傷つけた俺が、こんなことを想う資格なんてないんだけどね。

 バスの窓枠にひじをのせる。
 手の甲に頬をあて、悲哀に染まる瞳で夜空を見上げてみた。

 なに自分勝手なことを思っているんだと、呆れてしまったんだろう。
 月は隠れてしまった。
 闇夜に広がる雲の後ろでほんのりと光をこぼすだけ。

 バスの揺れが不快でたまらない。
 6年前に固めた俺の決意を崩そうとする。

 あの頃は、お互い関わらないことが輝星のためだと思いこんでいた。
 俺が今まで通り独占していたら、輝星がいつか天国に行ってしまうんじゃないかと怖くてたまらなかった。

 一緒にいたくて。大好きで。手放したくなくて。
 俺だけの世界に閉じ込めたくて。
 輝星にも同じ思いでいて欲しくて。

 でも怖くて。死なないで欲しくて。守ってあげたくて。輝星には幸せになって欲しくて。

 いろんな感情に襲われた小6の俺は、嫌われるくらい酷く輝星を突き放すことで、輝星の幸せを願っていたんだ。

 高3になった輝星は今、彼女ができて幸せそうだ。
 あの時の決断は間違っていなかったと、宝物を手放した小6の俺を褒めてあげたい。

 ただ……

 毎日が苦しい。
 同じ教室に自ら手放した大事な人がいる状況。
 みんなに愛される笑顔を、輝星はクラスみんなに振りまいている。
 休み時間や昼休みは、誰も入れないような楽しい空気を流瑠さんと二人で作り出している。

 俺には笑いかけてくれなくて。
 俺も俺で笑顔を作れなくて。
 冷たい目を輝星に突き刺すことしかできなくて。
 やっぱり一緒にいたくて。
 小学校の頃に戻りたくて。
 輝星の瞳に俺だけを映して欲しくて。
 他の人には笑いかけないでほしくて。

 はぁぁぁぁぁ。
 俺の重すぎる恋心は、死んでも来世にまで引き継がれそうだな。
 いっそ今すぐ生まれ変わって、輝星を思う存分愛する人生をやり直したい。

 俺のメンヘラ闇落ち度が増してしまったからだろう。
 月を隠す雲が、さらに厚みを増した。
 今夜の月は情けない俺を慰めるつもりはないらしい。
 ふふふ、当たり前か。

 太ももに振動を感じ、ポケットからスマホを取り出す。
 やる気のない視線をスマホ画面に落とした。

 メッセージが届いたお知らせあり。奏多からだ。
 テニスの全国大会用の戦術でも思いついたのだろうか。
 試合が始まるのは夏休みに入ってから、まだ1か月以上も先のこと。
 戦術を話し合うのは対戦相手が決まってからにすると奏多は言っていたけれど、気が変わったのかもしれないな。
 とりあえず読んで、とりあえずスタンプだけ返して、あとは学校で話せばいいか。

 スマホの画面に浮き上がるアイコンをタップし、奏多からのメッセージを目で追いかける。
 
 『トーナメント表見た? 球技大会の』

 すでに各クラスに配られているのか。
 うちの高校で行われるクラス対抗球技大会は、来週に迫っているしね。

 『テニスでお前とダブルス組む萌黄(もえぎ)って、さっきバス停にいた奴だよな?』

 その通り、輝星のことだけど……
 って……

 ん? ダブルスを組む? 俺と?

 『ペアの片方はテニス部員以外って決まりあるけど、あいつテニスできるわけ?』

 待って待って、俺は小倉くんとペアを組む予定だよ。

 『絶対にお前と決勝で当たりたい。萌黄を徹底的に鍛えとけよ』

 メッセージはそれで終わっている。
 追加でカンガルーがパンチを繰り出すスタンプが送られてきたけれど、頭の中がハテナだらけの俺はスタンプ一つ返す心の余裕すら持ち合わせていない。
 動揺する心臓を落ち着かせたくて、目をしばたかせながら胸に手を当てた。

 なんで奏多はとんでもない勘違いをしているの?
 輝星はテニスには出ないよ。
 彼は男女混合のドッチボールメンバーなんだから。
 
 添えられていたテニスのトーナメント表を、指で拡大してみた。
 
 目を見開いてしまったのは、あるはずもない【萌黄】の文字を見つけたからだ。
 しかも俺の名前の斜め上に。
 もともと俺の隣には別の名前が書いてあったようで、黒ペンで消された上に、手書きの後付けで【萌黄】と記されている。

 俺とダブルスを組むのは中学までテニス部だった小倉くんのはず。
 最近休みがちでまだ一度も一緒にボールを打ち合ってはいないけれど、ペアに決まった時、頑張ろうねってお互いグータッチを決めたじゃないか。

 体の震えが止まらない。
 手違いであってほしい。
 いや、奏多のことだ。
 俺を騙すためにトーナメント表に手を加えたとも考えられる。
 テニスというスポーツは敵を騙して点を取るスポーツだと俺は思っていて、県大会優勝を果たした俺と奏多も人を騙す術にたけていると思うから。
 小学校の時に俺と輝星のペアがテニスでいい結果を残せなかったのは、輝星が人を騙せない綺麗な心の持ち主だったからだろうな。
 
 幸せだったころが詰まった思い出箱に片足を突っ込んだところで、手に持っていたスマホが震えだした。
 今度は奏多からのメッセージじゃない。
 うちのクラスの体育大会委員をしている堀北くん。

 焦る気持ちのまま画面を開く。
 びっくりするほどの長文羅列で面を食らったのち、心臓をいったん落ち着かせとようと窓の外の夜空を見上げた。

 闇夜に白く輝く月が俺を見つめている。
 さっきまで隠れていたくせに。
 アタフタする俺を楽しみたいんだろうなと思ったら、折れそうなほど細い月がにやけた人間の口に見えてきた。
 今は癒しが欲しいのに意地悪だな、今夜の月は。

 心の安定を諦め、俺は再び文字羅列に視線を戻す。

 『小倉くんは当分のあいだ学校を休むらしい。球技大会は出られないって』

 トーナメント表の黒い塗りつぶしは、そういうことか。

 『担任からその話を聞かされてた時、教室に鈴木さんがいて』

 鈴木流瑠さんね、輝星の親友兼たぶん彼女の。

 『小倉くんの代わりはテニス経験者の萌黄(もえぎ)くんが適任、萌黄くんしかありえないって、鈴木さんがすごい熱量で営業してて』

 輝星が小6まで真剣にテニスをしていたことを、本人から聞いていたんだろうな。
 彼氏がテニスをしている姿を見てみたいとか?
 やめて欲しい、俺のメンタルが持たないから。

 『先生も俺もどうしていいかわからなくなっちゃって。萌黄くんが出てもいいならって鈴木さんに伝えたら、鈴木さんが嬉しそうに教室から飛び出て行っちゃったの。ペアを組む霞くんの同意も必要だよなって気づいた直後に、今度は教室に体育委員長が入ってきて。テニスのトーナメント表を全クラスに配るけど、出場者の名前あってる? 違ってたら今すぐ言って! って急かされたから、とりあえず小倉くんの名前を消して萌黄って書きかえたんだ』

 そういうことだったんだ。
 体育委員の堀北くんも、いろいろお疲れ様だね。

 『相談もせず勝手にごめん。でもまだ変更できるって。大会の朝にやっぱ違う人と組むってなってもいいって言ってたし』

 いやいや、俺のことは気にしないで。
 今度堀北くんに労いのスポーツドリンクでもさしいれしよう……って。

 いやいやいや、ちょっと待ってください。
 頭の中をいったん整理させてください。

 俺は幼稚園の頃から輝星が好き。
 替えが利かないくらい特別でたまらない。
 話さなくなった今も、日々輝星への執着がしつこく色濃くなっていて……って。
 あっ、今はそのことは関係ないか。

 落ち着けオレ、深呼吸、深呼吸。

 球技大会は来週に迫っている。
 もう一週間もない。

 俺と輝星でペアを組んで、テニスの試合に出るってことだよね?
 まずい、心臓吐きそう、今すぐに。

 大会中、がっつり一緒にいることになるよ。
 輝星の近くにいたらダメな気がする。
 だって一緒にテニスなんてしたら、小学校の頃の楽しかった記憶が玉手箱のようにあふれ出して、好きという気持ちが噴水のように湧き出て止まらなくなってしまいそうだから。

 そもそもの話。
 俺とペアを組むことを、輝星はもう知っているのだろうか?

 俺たちはいまバスの中。
 一番後ろの席から、前の方に座る輝星のつむじに視線を突き刺す。

 寝ているね、あれは。
 背もたれから横に飛び出ている輝星の後頭部しか見えないけれど、上半身の傾き具合から寝ているとしか思えない。
 俺とテニスの試合に出るとわかっていての熟睡だったら、尊敬を通り越して怖すぎなんだけど。

 人間に恐怖を与える根源の一つは、他人の心だと思う。
 他人の心の中が見えないからこそ、勝手に想像して、勝手に怖くなって、勝手に絶望するんだ。

 輝星にこれ以上近づくのが怖い。
 卒業まで、お互い顔を合わせなくなる日まで、他人の距離を保っていたい。
 完全に恋心を捨てるために。 
 輝星の幸せを願い続ける王子様でいるために。

 流瑠さんは彼氏がテニスをしているところを見たいだけかもしれないが、俺にとっては大問題なんだ。
 残りの高校生活を平穏無事に過ごせる希望が、崩れかけているんだ。

 俺がテニスの試合に出るのを辞退する?
 いやそれは避けたい。
 クラスにテニス部は俺しかいない。
 全スポーツで優勝を勝ち取りたいと練習に励んでいるクラスメイトの士気を、下げることになりかねない。

 輝星が断ってくれないかな。
 嫌いな俺と、ダブルスなんて組みたくないよね?
 もう二度と、俺と一緒にテニスなんてしたくないでしょ?


 どれくらい放心状態のまま、バスに揺られていただろう。
 俺はカバンから手のひらサイズの箱を取り出した。
 しわくちゃでギュっと潰れたおにぎりぐらいの大きさの塊を、丁寧に撫でる。
 ところどころ黒く焦げていて、愛おしさと一緒に悲しみがこみあげてきた。

 同じ失敗を繰り返してはダメだ。
 あの時の絶望は二度と味わいたくない。
 生きた心地がしなかった。
 輝星が死んじゃったらどうしよう……
 俺の命を代わりに差し出すから、輝星だけは助けて……
 あの時、必死に願ったんだ。

 涙が止まらなかった。
 地獄をさまよっている気分だった。
 今も変わらず、輝星の幸せを願っている。
 たとえ隣にいる相手が俺じゃなくても。

 ただ……

 苦しい。
 しんどい。
 輝星のそばにいたい。
 俺が隣で輝星を守り続けたい。
 
 この病みすぎた恋心をどう処理すればいいか、そろそろ誰か教えてよ。

 6年以上も俺は、悲しみの業火に焼かれ続けているんだから。