物語の主人公のように、自分もなりたい。
 今ではない時、ここではないどこか。
 誰もが心奪われる剣と魔法の世界で英雄のような人生を生きてみたい。

 眠りにつく前のほんのわずかな時間。
 年甲斐もなく抱くとりとめもない妄想だけが、なんの束縛も制限もなく異世界を自由に生きてゆくための方法だった。

 まるで、檻のない牢獄の中で生きているような毎日だったから。
 閉じ込められているわけではない。けれど、なんの希望もない。そんな日々。

 むかし夢中になって読んだ類の本には見向きもしなくなっていた。そんな些細な楽しみを見出す余裕すらなくなっていた。

 高校での時間だけが、自分はまだ大人ではないということを思い出させてくれた。だからこそ余計、みじめな思いばかり募っていった。

 まわりのやつらは家族を養う必要はもちろん、先の生活に不安を覚えることなんてない。金も時間も、自分だけのために使うことができる。そんな生活が羨ましくてしかたなかった。

「おまえらはいいよな」、なんて言葉は吐けなかった。
 少し前の自分も、まったく同じだったから。
 今の生活との落差に、もがいていた。

 ふと、居間から窓の外に目を向けると、街灯の明かりに照らされた雪が絶え間なく降り注いでいた。

 雪は嫌いだった。母親が死んだ日のことを思い出すから。

 当時の――あの光景は、今も消えることなく確かな傷跡として心の奥に刻まれている。
 舞い落ちてくる雪のひとつぶひとつぶに心臓を削りとられていくような気がした。

 それでもしばらくのあいだ外の景色を眺め続けた。この胸の痛みと引き換えに、今の境遇に対する惨めさとやるせなさを、ほんの一時でも忘れることができたから。

 雪は次第に暴力性を増し、やがて一寸先も見通せないほどの猛吹雪になった。

「シン――をお願いね」

 あの日、鳴り響く風のなか耳元でささやかれた母親の言葉が蘇る。
 まるでそれが合図であったかのように、少年シンの記憶は意識とともに闇へと沈んだ。

⦅意志することを行え⦆

 誰のものともわからない声が、最後に響いた。



 §§§§§



 再び目を見開いたとき。
 シンの前に現れたのは、果てしなく広がる茜色の空だった。

 地平を縁取るようにしている太陽の光が、まさに今、沈んでいこうとしていた。

 余りにも唐突に切り替わった光景を前に、声ひとつあげることができなかった。

 疑問を挟む余地すらなく、一瞬にして心奪われた。まるで大空を自由に飛び交う鳥のように、シンはその世界(・・・・)を見渡していた。

 眼下には深く生い茂る広大な森と、赤灼けの空を鏡のように反射させている湖が見えた。凄まじい(ごう)音をあげながら流れ込む巨大な滝に、黄金色にざわめく平原。そして、縦横に遠くつらなる山領――。

(――なんだ、これ)

 いったい何が起きたのか。
 こんなことが現実のはずがない。

 落ち着いて考える間もなく、今まで目にしたこともない景色が次から次へと視界に飛び込んでくる。

 壮大な建造物に彩られた巨大な都市に、ひとつの山をそのまま削り取って造られたような彫刻のような街。天高く伸びた巨大な塔と、雄大な空を飛び交う何隻もの船。

 現れては消え、消えては現れる、眠りにつく前の妄想とは比較にならないほど圧倒的で、幻想的で、そして――現実的な世界。

 やがて荘厳な装飾と彫刻によって造られた天空の大聖堂が現れ、落ちゆく太陽の光を反射させながらシンの全身を貫いた。

(……あぁ)

 美しいという言葉の意味を、初めて知った気がした。
 今まで感じたことのない爽快感と開放感に満ち溢れていた。

 いつまでも眺めていたい。ずっとこの世界の空を飛び回っていたい。心の底からそう思った。

 たとえ目の前の光景すべてが一夜の夢に過ぎなかったとしても。

 そんな思いが頭をよぎったときだった。
 シンの目が、今まで見ていたものとはまったく異なる光景を映し出した。

 怒りと悲しみとが入り混じったような表情で叫ぶ、一人の少女の姿を。

 いきなり視界が引きずり込まれてしまったような感覚だった。あまりにも突然すぎる展開に「だれ?」というあたりまえの疑問すら吹き飛んでいた。

 少女の体は、土と血にまみれていた。怪我をしているのか、突き立てられた剣⦅――剣だって?⦆にすがるようにしながら片膝をつき、前方を睨みつけている。

 その翡翠(ひすい)のような瞳がシンの目に映ったとき。シンの心臓が激しく脈打ち、胃の底から込み上げてくる衝動じみた感情が全身を駆け巡っていった。
 
 あの子の傍に行かなくてはいけない。そんなわけのわからない、抗うこともできない意志に突き動かされる。そして――
 
 大空を浮遊していたシンの体が、獲物を見つけた猛禽類の如く加速した。

「――してこんなことを!」

 今度は少女の声まではっきりと耳に届き、シンの意識が激しく震えた。

「むろん、おまえを殺すためだ」

 ぞくりとする男の声がして、シンも思わず少女の視線を追う。
 甲冑に身を包み、面頬(めんぽお)をつけた長身の男が、まっすぐ少女を見下ろしていた。

「おまえも狙われているのが自分だとわかったから、俺たちを引き離すためにこのような森の奥深くまで逃げ込んできたのだろう。まあ、無駄な足掻きだったがな」

 その言葉に呼応するかのように、森の中から一人、また一人と、少女の方へ歩み寄って来る男たちの姿が見える。

 ある者は口元に薄い笑みを浮かべながら値踏みするような視線を少女に向け、ある者は今にも襲いかかるのではないかと思わせるほど凶悪な表情を浮かべていた。またある者は大量の血がこびりついた短剣を弄びながら自身の首を鳴らすようにした。

 男たちは皆、甲冑の男とは異なり、見るからに野蛮な装いに身をつつんでいた。まっとうな生き方をしている人種ではないことはシンでさえわかった。
 
 どうして自分の目にこんな光景が映るのか。どうして、相手の声まで聞こえてくるのか。そもそもどうして、空なんか飛んでいるのか。シンの頭は混乱する一方だった。

「何が目的なの。私を殺すことに、いったい何の意味があるというの」
「自分の価値というものをまるで理解していないようだな」
「私に価値なんてない! 私は――」

「知っているさ。<アーゼム>の偉大なる支柱であるロウェイン家に生まれながら、史上ただ一人『器』を授からなかった『持たざる者(ハーノウン)』」
 男の面頬から、低く、あざけるような笑い声が漏れる。
「それがおまえだろう、ラスティア・ロウェイン」

「そこまで知っていて、どうして」

「いくらアーゼムからつまはじきにされていようと、おまえの生まれが特別であることに変わりはない。アインズ王室の血さえ引いているおまえは、まさに目も眩むほどの血統、血筋ではないか。なのにおまえは、自分がどれほど恵まれた境遇にいるか気づきもしていない!」

「人は他人が目にしたままの生を生きているわけではないわ」

 甲冑の男が吠えるように笑う。
「その日生きるに苦しんだことのない者が言いそうなことだ。ハーノウンが聞いてあきれる」」

 面頬の奥で、何か、どす黒い感情が渦巻いているかのような言い草だった。
 少女の翡翠の瞳が顔もうかがえない相手をひたすら凝視し続ける。

「やはりおまえはアーゼムとして――いや、人として欠落している。創造主(エルダ)がなぜおまえのような出来損ないを創ったのか、ぜひとも訊いてみたいものだ」

「ベイル様」
 ラスティアが何か言いかけたとき、周りを取り囲んでいる男の一人が口を挟んだ。
「最後のお楽しみはこっちに任せてもらえませんかね」

「おまえたちの役目は邪魔な兵どもを片付けることだ」
 甲冑の男――ベイルと呼ばれた男は突き放すように言った。
「あとは俺がやる」

「それはそうなんですがねえ。俺はともかくとして、こいつらが納得しない」
 まるで困っていないような笑みを浮かべながら頭を()く。
「そうだろう、おまえら」

「ああ、こいつ一人に仲間が何人も殺られてる」
「ただ殺したんじゃ腹の虫が収まらねえ」
「これから先は俺たちの時間だ」
 
 周囲から同調する声が次々にあがる。

 ラスティアという少女が十人以上いようかという野党のような男たちの餌食にされようとしているのは明らかだった。その表情が今まで以上に強張っていくのがわかった。

 ――早く、もっと早く飛べ!

 まるで現実味のない光景の中にありながら、シンの焦りは増すばかりだった。

 体感的には相当な速さで空を飛び続けているはずが、彼女のもとへ向かおうとすればするほど遠ざかっていくような気がしていた。

 いったい、ここはどこなのか。自分の身に何が起きているのか。そもそも、駆けつけてどうしようというのか。そんな当たり前の疑問すら浮かばなかった。

 シンの意識はラスティアという少女のもとへ駆けつけるという、ただそのことのみに集約していた。

「おまえたちが油断したせいだろう。最初に言っておいたはずだ、ハーノウンとはいえ舐めるな、と」

「そりゃあ言いっこなしだ。あんな見た目をしていたら、俺たちみたいなもんは誰だって力づくで組み伏せようとしちまいますよ。ねえ、いいでしょうベイル様。まあ、この娘にしてみれば今すぐ死んじまった方がましって目には遭うかもしれませんが。それくらいは多めに見てやってくださいよ」

「貴様ら、自分たちが何をしているかわかっているのか!」
 突然、男たちの言葉をかき消すほどの怒声が鳴り響いた。

 その声は、巨大な麻袋の中から響いてきていた。男たちは無造作にそれを地面へ投げ出すと、引きづるようにして中身を取り出した。

「レリウス様!」
 ラスティアの悲痛な声が森の中へと響き渡る。

 レリウスと呼ばれた男は必死の形相でラスティアの方へ顔を向けると、両腕を後ろで縛り上げられながらも必死に()い寄ろうとした。
 
「申し訳ありません、ラスティアさま……!」
 額から流れ落ちる血のせいで目を開くことさえ難しそうだった。だが、その言葉には確かな力強さがあった。

「ほう、生きたまま捕らえたのか」
 ベイルは軽く感心したような声を出した。

「アルゴード侯、レリウス・フェルバルト。さすがの大物だけあって手こずりましたよ。ま、この娘ほどじゃありませんでしたがね――ああ、血がたぎってしょうがねえや」
 男が自身の股間をまさぐるようにしながら上ずった声をあげる。

「正直、こんな極上の娘はお目にかかったことがねえ。この機会を逃しちゃ命をかけてる甲斐がねえってもんだ。そうだろ?」
 周囲の男たちは野卑(やひ)た歓声をあげながら、舐めるような視線をラスティアへと向けた。

「それに、あの核光(かっこう)色の瞳……飽きるまで犯りまくったあとは切り抜いて俺の所蔵品に加えてやる」
「なんという――」
 憤怒の表情で何かを叫ぼうとしたレリウスの声が、かたわらに立つ男に腹を蹴り上げられ呻きへと変わる。

「やめなさい!」
 ラスティアが叫ぶ。

「殺すことには違いないんですから、後はこっちにまかせてくれたっていいじゃないですか」

「……好きにしろ」
 ベイルの声からはしかし、どこか周囲の男たちを嫌悪するような様子さえ感じられた。
「そのかわり、確実に首はとれよ」

「言われるまでもありませんや」
 男たちは一斉にうなずくと、卑しい笑みを浮かべながらラスティアを取り囲むように歩み寄っていく。

「それ以上近寄らないで」
 ラスティアが剣を引き抜き、構えた。
「近づけば切る」

 その言葉、その迫力を前に、男たちの顔つきが一気に変わる。

 一介の少女が身に纏《まと》えるような雰囲気ではなかった。だが、先頭に立つ男は特に気に留める様子もなく笑ってみせた。
「今までとは状況が違うってことくらいわかってんだろ。こっちにはアルゴード侯がいるんだぜ?」

 瞬時にラスティアの視線がレリウスへと向く。
 
「アルゴード候の子供たちに親父の切り刻んだ体を送りつけなきゃならんのは、いくら俺たちでも心が痛むなあ……だが、おまえが大人しくしてくれりゃあ、そんなこたあしねえよ。大国アインズの大侯爵様には体を切り刻む以外にも使い道はたんまりあるだろうしな」

 ラスティアの瞳が、明らかに揺れた。

「ら、ラスティアさま……耳を、貸してはなりません、こやつらは約束など……!」
 ラスティアのもとへ這い寄ろうとするレリウスの腹に再度男の脚が叩き下ろされた。
 のたうち回るレリウスはしかし、それでもラスティアから目を離さなかった。

「さあどうする?」

 血がにじむほどきつく噛み締められたラスティアの口から、吐息のような声が漏れた。
 微かに震える手が、徐々に傍の剣から離れてゆく。

「聞き分けのいい子だ」
 男たちの間から一斉に歓声があがる。

「やめろ、頼むから止めてくれ!」レリウスが叫ぶ。「わかっているだろう、そのお方は――」

「いやあ、ぞくぞくするねえ! かのアルガード侯の前でアインズ王の姪っ子を犯りまくれるなんてよぉ!」
 男は興奮に声を張り上げ、ラスティアの頬を思い切り殴りつけた。

「おまえに殺られた仲間たちの分もよお、せいぜい楽しませてくれよお」
 地面へと叩きつけられたラスティアだったが、悲鳴ひとつあげることなく目前の男を睨みつける。

 翡翠の瞳に射抜かれた男は一瞬怯んだ表情を浮かべたが、今度は逆上したようにラスティアの腹を蹴り上げた。
「んだあ、その目は!」

「やめろぉ!」
 レリウスの悲鳴が響き渡るなか、ラスティアは激痛に耐えるような表情でなおも男を見上げていた。

「おまえもようやく知ることになるだろう」
 面頬の男がつぶやくように言った。
「真の『持たざる者』たちの苦しみを、な」

「そう怖がらなくていいぜ、最初から全員で、なんてこたあしねえからよ」
 男が粘りつくような言葉をかけながら、少女の体へと覆いかぶさっていく。
「ああ、血で汚れていようが気にするな。俺たちゃ慣れてる」
 やめろ、と。シンは最初そう叫んでいたはずだった。だが今となっては何を叫んでいるのかもわからなくなっていた。

 文字通り空を飛んできたシンだったが、地面が近づくにつれ今度はどうやって着地すればいいかわからず、叫ぶ以外なにもできなくなっていた。

 突如として降り注いだ絶叫に、その場にいた誰もが驚きの表情を浮かべた。

 やがて全員の視界を霞める早さで落下したシンは、凄まじい勢いのまま地面を転がり続け、太い木の幹に背中をぶつけるようにしてようやく、止まった。

 ――死んだ。
 体ごと逆さになった頭の中で思った。
 だが――

 目の前が暗くなるどころか、体のどこにも痛みらしい感覚が襲ってこない。

「……痛く、ない?」
 声に出してみるが、やはり、どこにも異常は感じられない。

 乗客の安全なんてまるで考えないアトラクションに乗せられた気分だった。とんでもない目に遭ったが、無事降りてしまえば、それで終わり。

「あ、あの子は?」

 今まで目にしていた少女のことを思い出し、逆さになったまま周りを見渡すと、先ほど目にしていた光景の中の全員が唖然とした表情をうかべながらこちらを眺めていた。

「……貴様、アルゴードの兵ではないな。何者だ」
 ベイルの絞り出すような声が静寂を破る。

「いえ、あの」
 答えようがなかった。これまで生きてきた十六年の人生の中で一度たりとも聞かれたことのない質問だった。

 だいたいこの状況は、いったいなんだ。
 わけのわからない焦燥感に駆り立てられるように飛んできたものの(本当に飛んできたよな?)、これからどうすれば――

 行き場を無くしさまようシンの視線が、自然と少女の翡翠(ひすい)の瞳と重なった。
 その、次の瞬間。

 ラスティアは自分に覆いかぶさっていた男の腕をつかんでなぎ倒すと、すぐそばに転がっていた剣を引き抜き、レリウスの傍らに立つ男たちとの距離を一瞬で詰めた。そのまま二人の首をほとんど同時に切り裂くと、倒れているレリウスを庇《かば》うように身構え、そして――ガクンと膝をついた。

 すべては、一瞬の出来事だった。

「ふん、隙をうかがっていたか」
 ベイルが独り言のようにつぶやく。

「あなたは、いったい……」
 少女が疲弊し切ったように肩で息を切らしながら、シンを見た。

「こ、このばけもんが!」
 シンが何かを言う前に、薙ぎ倒された男が逆上したように少女へと襲いかかる。しかし、周囲の男たちを瞬く間に屠ってみせたはずの少女は、まるで正気を失ったかのように動けなくなっていた。

「危ない!」
 シンは反射的に少女の腕をとり、自分の方へと引き寄せた。
 男の剣先がその凶悪な表情とともにシンへと向けられ、凄まじい勢いのまま目前へと振り下ろされる。

 これから起きることを直感し、少女を胸に抱きしめるようにしていた体を強張らせ、硬く目を閉じる。が、シンの頭上に振り下ろされたはずの刃は深々と突き刺さることも、頭をかち割るようなこともしなかった。

 男の剣は何かが弾けたような音とともに真っ二つに折れ、振り下ろされた勢いそのままにくるくると回転しながら地面へと突き刺さった。

 おそる恐る目を開けたシンを含め、その場にいた誰もが、今いったい何が起きたのか、全く理解できないようだった。

 襲ってきた相手はきょとんとした表情でシンと折れた剣先とを見比べるようにしていたが、るみるうちに表情を引きつらせていった。

「貴様!」
 今度はベイルが一瞬にしてシンの目前へと迫り、先ほどの男とは比較にならない速さで手元の剣を振り下ろしてくる。

 シンは表出することもできない恐怖にからみとられ、指先ひとつ動かすことができなかった。

 不思議なことに、身動きができないまでも、周りのすべての動き、光景を、シンは確かにその目でとらえていた。
 水中のようにゆったり流れる動きのなかで、限りなく死に近づいていこうとしている自分を他人事のように眺めていた、そのとき。

⦅――力の扱い方を教えてやる⦆

 シンの頭に、誰のものともわからない声が響いた。
 自分でも意識しないまま、思考が一気に明確化する。

(防げ)と。

 バリバリッという衝撃音とともに、突如として現れた光の壁と、いつの間にか赤く輝いていたベイルの剣とが激しく衝突した。

「やはり器保持者(エーテライザー)か!」
 ベイルの面頬からくぐもった叫びが響く。

⦅創造しろ、己の中にある拒絶を⦆
 さらに何者かの声が続く。
⦅意志することを行え⦆

 次の瞬間、ベイルの体は突風に巻き込まれたかのごとく吹き飛び、驚愕の表情を浮かべているラスティアの傍らを凄まじい速さで通り過ぎ、反対側の巨木へ体ごと叩きつけられて地面へと落ちた。

「がはっ!」
 ベイルの苦しげなうめき声が響き渡った瞬間、まるで呪縛から解き放たれたかのように周囲が騒然としだした。

「な、なんなんだあいつは!?」
「エーテライザーだ! 不用意に近づくな!」
「アルゴートの護衛は全員始末したはずだろ!? どこから湧いて出やがった!」

「なんだよ、これ」シンが叫ぶ。「誰なんだよ、おまえは!」

 まるで誰かに意識ごと体を乗っ取られてしまったような感覚だった。
 先ほど襲われたのとは違う、また別の恐怖が全身を駆け巡る。

⦅身の危険が迫っているというのに、おめでたいやつだ⦆
「なんだって」
⦅私がいなければ終わっていた⦆

「貴様、何者だ!」
 ベイルが片膝をつきながら叫ぶ。
 キーンという耳鳴りにも似た音とともに、ベイルの掌が赤い光を放ちはじめた。
「正体を、明かせ!」

「いけない避けて!」
 ラスティアの必死の叫びはしかし、ベイルよりも数段早くシンの手元から放たれていた閃光と爆音とによってかき消された。

 ベイルは立ち上がる間もなく爆発に呑み込まれ、周囲の男たちも慌てて地面へと突っ伏した。

 全員の視線が一斉に集まるなか、風で流されていく粉塵の中から片腕を庇うようにして立ちあがあるベイルの姿が見えた。

「……そんな、()より速いだなんて」

⦅直撃させてこの程度か。なんという軟弱な意志だ⦆
「なんだよそれ、どういう意味だよ!」

「おいおい、やべえぞこりゃ」
 ことの成り行きを見守っていた野党たちが狼狽の色を浮かべた。

「あんなエーテライザーがいるなんて話は聞いてねえ!」

「引き上げだ!」
 誰かがそう叫ぶや否や、男たちは一斉に森の茂みへと飛び込んでいった。

「悪く思わんでくれよ、あんたでさえ敵わん相手だ。アルゴート侯が率いていたエーテライザーたちとは格が違う。こっちも命あってのことだからな」
 最後の一人がベイルへ向けて言う。
「それに、そろそろ変異種どもも騒ぎだす刻限だ」

「高い金を払ってこの体たらくとは」
 ベイルは一時もシンから目を離すことなく言った。
「せいぜい遠くへ逃げるんだな。さもなくば、全員俺の前に首を転がすことになる」

 男は一瞬怯んだ表情を浮かべたが、後ずさるように森の奥へと姿を消していった。

「「そう言うおまえも引き下がった方がいい」」
 今度はシンの口まで勝手に動き出した。

「「さもなくば、このままおまえの首をへし折ることになる」」
 何者かの声と重なり合いながら、ベイルへ向けて言う。

「あ、がっ!」
 信じられないことに、シンの片手が宙を掴むようにすると、まるでその動きと同調するかのようにベイルの首がかしがった。

 自分の中にいる何者かが、なにか、得体の知れない力によってそうしているのは明らかだった。

(おい、やめてくれ!)
 咄嗟に頭の中の声に向けて叫ぶ。しかしその声が発せられることはなく、頭の中で反響しただけだった。

⦅言われなくてもおまえが意志しない以上、殺すような真似はできん⦆
「「さあ、どうする」」

「っわ、わか、った……」
 ベイルの口から擦れた声が漏れた。同時に、首を鷲掴みされていたような状態から解放され、そのまま崩れ落ちる。

 面頬の奥で激しくせき込みながらもシンと、そしてラスティアとに視線を向ける。

「……決して、このままでは済まさん」
 そう言ってシン達に背を向けると、他の男たち同様、森の奥へと姿を消していった。

 後にはシンとラスティア、レリウスの三人と、風に揺れる木々の葉音だけが残された。

「なんなんだよ、これ……」
 シンは自分の声と体を取り戻していたことも忘れ、立ち尽くすことしかできなかった。
「……も、もし」
 少女のか細い、探るような声が、シンの胸元で響いた。
 先ほどの襲撃者たちに対し放っていたものとは思えない、別人のような少女の声だった。

 シンは慌てて少女の体から身を引き、何か言葉を返そうとした。だが、いま自分の身に起きていることについて何一つ説明することができず、陸に上がった魚のように口をぱくぱくさせるくらいのことしかできなかった。

「どしてこのような場所に来られたかは存じませんが、感謝を――」

 その瞬間、少女が崩れ落ちるように突っ伏した。

「だ、大丈夫――」
「ラスティア様!」
 シンのたどたどしい言葉を、傍で転がされていた男の叫びがかき消す。

「すまぬが少年、私のこの腕の縄を切ってくれ!」
 有無を言わさないその言葉が、固まってしまっていたシンの体を動かした。

 男の傍で膝をつき、両腕がうっ血するほどきつく結ばれた縄の隙間に指先をねじり込ませようとする。だが、爪が割れそうな勢いで力を込めても一向に緩む気配がない。

 シンの額に汗が滲む。明らかに体に異変を来しているラスティアと呼ばれた少女と、彼女に声をかけ続ける男の様子がさらにシンを焦らせた。

⦅――せっかくの力が泣くぞ⦆
 再び響いたその声に一瞬手が止まりかける。

(くそ、何なんだよこの声は!)
 思わず心の中で悪態をつく。一向にほどけない縄がさらにシンを苛立たせていた。

⦅その細指でどうにかできるとは思わんが⦆
(おまえいったい――)
⦅根源《エーテル》を扱え⦆
(なんだって?)
⦅エーテルを(まと)えと言っている⦆
(わけがわからない)
⦅……世話が焼ける⦆

 そう言われた、次の瞬間。今まで緩む気配すら見せなかった太い縄が、シン自身の手によっていとも簡単に引きちぎられた。

「あ、ありがたい!」
 両腕が自由になった男は短いうめき声をあげながら立ち上がると、すぐさまラスティアのもとへ駆け寄り、その身体を支えた。

(……どうして)
 目の前に落ちた縄と、自身の両手を信じられない思いで見つめる。
 火事場の馬鹿力的なものでは、決してない。明らかに何らかの力が働いた結果だった。

 頭に響く不気味な声と相まって、自分の両手が――体が、なにか別のものに成り代わってしまったような気がした。

「さあ肩を――お辛いでしょうが早くこの場を去らなくては」
「レリウスさま……申し訳、ありません」

 レリウスと呼ばれた男が素早く首を振る。「とにかく今は逃げ延びることだけを考えましょう」
 ラスティアはわずかな沈黙の後、小さくうなずいた。しかし、ラスティアの肩を担ごうとうしたレリウスも体をよろけさせ、あわや二人同時に倒れてしまいそうになっていた。

 これから、どうすればいい。そんな思いと目の前の二人の様子とが、シンを突き動かした。

「手を貸します」
 そう言って二人のもとへ駆ける。

 レリウスはこびりついた血のせいで一方しか開くなった目を見開きながらシンを見つめると、すぐに頭を下げた。
「かたじけない。君のような器保持者(エーテライザー)に遭遇できるとは、なんという幸運だ」

「え、えーて……?」

 なにを言われているのかまったく理解できなかった。そもそも、見た目も身なりも自分とは何から何まで異なる相手と言葉が通じ合っていること自体謎だった。
 こんなわけのわからない状況のまま、こんな暗い森の奥深くに一人取り残されたら……。想像したたけでおぼつかなくなってしまいそうな足をなんとか踏ん張りながらレリウスの反対側に回り込み、だらりと落ちているラスティアの腕を自分の肩へとまわす。

 この手が、一瞬にして二人の人間の首を。そう怯みかけたシンだったが――

(あ、あれ?)
 ラスティアの身体からまるで重さが感じられず、焦る。

 自分と同じくらい身長があるうえ、満足に歩くこともできない人ひとりを支えるにはそれなりの力が必要なはずだった。そのはずが、このまま片手で持ち上げられそうな気さえした。

⦅私がエーテルを纏わせているからだ⦆

 そんな声にも、すぐそばにいるラスティアとレリウスはまったく反応する様子がない。
 明らかに自分だけにしか聞こえていない、何者かの声。

⦅おまえの軟弱な意志ではすぐに霧散してしまうだろうがな⦆

(とにかく今はこの子を)
 そう言い聞かせて身をかがめる。
「あの、おれ一人でも大丈夫そうです」

「え」
「あっ」

 驚く二人をよそに、ラスティアの身体を軽々と背負いあげてみせる。普段はこのようなことをする性格も人格も持ち合わせいなかったが、シンがそうせざるを得ないほど目の前の二人は衰弱しきっているように見えた。

「あ、ありがとうございます。助かります」
 肩越しからラスティアの吐息のような声が届く。

「本当に、なんと礼を言ったらよいか――」
 レリウスは固く口を結び、再び深々と頭を下げた。

 何と返していいかわからず、曖昧にうなずくことで二人に応えた。

「あの、どこへ行けば」
「私についてきてください。一旦、襲撃を受けた場所まで戻ります。まずは森を抜けるための手筈(てはず)を整えなくては。血の匂いに誘われて変異種たちが集まってくるやもしれません」

 レリウスの言葉をどう理解し、受け止めればいいのか。シンにはまったく返す言葉がなかった。
 とにかくレリウスに続いて歩き出した。

 どこを見ても鬱蒼と生い茂る木々しか見えず、先ほど空を飛んでいたとき(本当に、飛んでたよな……)に目にしていた夕焼けの空は完全に消え失せてしまっていた。

 そこは、完全なる夜の(とばり)に覆われた深い森の中だった。

 シンの通り過ぎた地面には、いまだ血を垂れ流しながら横たわる二つの身体があった。どうしてもそちらへと目がいってしまいそうになるのを無理やりのように引き剥がす。

(どうして、こんなことに――)
 
 風に揺れる木々の喧騒が、シンの感情をより一層掻き立たせる。まるで夢の中の光景のように現実味がない。そんななか、背中越しに伝わってくる苦しげな息遣いと確かなぬくもりが、シンの歩みを確かなものにしてくれた。

(いったい、この人たちは――)

 叫び出したいほどの疑問が、山ほどあった。だが、そのうちの一つとして答えを見つけることができず、くりかえし頭の中を回り続けた。

(おまえは、誰なんだ)
⦅すぐに会えるさ⦆

「声」が当然のことのように言った。
 まるで答えようがなく、シンはひたすら足を動かすことで気を紛らわせた。

 ラスティアを背負い、レリウスに先導されながら深い森の中を歩いていくと、やがて古い煉瓦(レンガ)で敷き詰められたような道が見えてきた。

 近づくにつれ、シンが今まで嗅いだことのない悪臭が漂ってくる。
 
 目を疑うような光景が広がっていた。

 うつ伏せのまま倒れ込んでいる者、虚ろな視線で空を見上げる者、膝をつき、剣を突き刺されたまま動かなくなっている者。

 折り重なるように倒れている人、人、人……。その全員が、絶命していた。
 それも直視できないほど、むごい姿で。

 シンの喉元に胃液がこみ上げてくる。ラスティアを背負っていなければいとも簡単に吐き出してしまっていたかもしれない。こらえきれたのが不思議なくらいだった。

(こんな――こんなことが、現実にありえるのか)

 人間どころか馬と思わしき動物まで何頭も倒れていた。激しい戦闘――命の奪い合いがあったことはシンでさえ容易に想像できた。

 前を行くレリウスの背中は、何も語ろうとはしなかった。そのことが余計シンの心中を波立たせた。

 とめどなく沸き起こってくる恐怖に、まるで地に足がつかなかった。だがそれと同じくらい、後ろの少女のことが気になって仕方がなかった。

「……ここで、降ろしてもらえますか」

 ラスティアがささやくように言った。シンは慌てて腰をかがめた。
 立ち際ラスティアの身体が一瞬よろめいたが、シンが咄嗟《とっさ》に出した腕につかまり、なんとか持ちこたえる。

「すみません」

 ラスティアは蒼白な顔でシンに頭を下げると、レリウスに続いてよろよろと歩き出した。道に倒れている一人ひとりに顔を向けながら、一歩、また一歩と先へと進んでいく。
 
「あなたまでが、どうして……」

 堅牢そうな黒塗りの馬車のそばに、少女がひとり、うつ伏せのまま倒れていた。

 背中には深々と矢のようなものが突き刺さっている。ラスティアは少女のかたわらに膝をつくと、両腕に抱きかかえるようにしてその身を起した。

 口元から一筋の血をこぼし、うつろな視線で空を見上げる少女の瞳には何も映し出されてはいなかった。うしろから眺めているだけのシンにさえ、確実な死が訪れていることがわかる。

 思わずシンは、母親の命が消えたときのことを思い出した。この少女のように、半分開きかけの目で、閉じきれないその瞳で、あきらめきれない何かを求めるように虚空を見つめていた――

「ラスティア様」
 気遣うようなレリウスの声で、シンは我に返った。

()()、こんな……全部、わたしのせいだ」
 ラスティアの声はか細く、そして震えていた

「それは違います」
 レリウスが大きく首を横に振る。

「違う……? いいえ、違わないわ。襲撃者たちは間違いなく私を狙っていた。ベイルと呼ばれていたあの男も私を殺すためと――」
「例えそうであったとしてもです!」レリウスが叫ぶ。「あなたが皆を殺したわけではない!」

 当然シンには、二人のやりとりが、その激情の意味がまったく理解できない。それでも、自分の与り知らぬところで、何か、恐ろしい出来事が――自分が今まで見たことも聞いたこともないような何かが起きているということだけはわかっていた。

 ラスティアはレリウスから目を背け、少女の瞳を優しくなぞるようにして閉じると、ゆっくり前方を見上げた。
 その視線の先には、女性の姿をかたどった一体の像が立っていた。何かを憂うような瞳で、じっとこちらを見下ろしている。

 大勢の人の死に気を取られまるで気づかなかったが、シンたちのいる道はそこだけ円形状に広がっており、中央の女性――少女のような像を取り囲むような造りになっていた。
 道中に設けられた祈りの場のような場所なのかもしれない。ラスティアの腕に抱かれている少女も、今思うとこの像に手を伸ばすかのように倒れていた。

「………エルダよ、私の声が聞こえますか」
 ラスティアが言った。

「この光景が、あなたの目に届いていますか。あなたはなぜ、罪もない人々を……? なぜ私に、このような試練ばかりお与えになるのですか。私には、父や姉たちのような力はない……偉大なるロウェインの血を引きながら、『器』さえ授からなかった……なぜ私にだけ、人々を守る力を与えてくれなかったのですか、どうして……!」

「ラスティア様、どうか……」
 レリウスも、それ以上の言葉をもたないようだった。見ているシンが胸を締め付けられそうになるほど悲痛な表情を浮かべ、押し黙る。
 
「――ないのに……用もないのになぜ創った……なぜ私をこの世に送り出した!」
 翡翠の瞳に涙をにじませながら、ラスティアは叫んだ。
「応えろエルダ!」

 エルダと呼ばれた像は相変わらず憂いを帯びた表情のまま、少女たちを見下ろすばかりだった。

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