物語の主人公のように、自分もなりたい。
 今ではない時、ここではないどこか。
 誰もが心奪われる剣と魔法の世界で英雄のような人生を生きてみたい。

 眠りにつく前のほんのわずかな時間。
 年甲斐もなく抱くとりとめもない妄想だけが、なんの束縛も制限もなく異世界を自由に生きてゆくための方法だった。

 まるで、檻のない牢獄の中で生きているような毎日だったから。
 閉じ込められているわけではない。けれど、なんの希望もない。そんな日々。

 むかし夢中になって読んだ類の本には見向きもしなくなっていた。そんな些細な楽しみを見出す余裕すらなくなっていた。

 高校での時間だけが、自分はまだ大人ではないということを思い出させてくれた。だからこそ余計、みじめな思いばかり募っていった。

 まわりのやつらは家族を養う必要はもちろん、先の生活に不安を覚えることなんてない。金も時間も、自分だけのために使うことができる。そんな生活が羨ましくてしかたなかった。

「おまえらはいいよな」、なんて言葉は吐けなかった。
 少し前の自分も、まったく同じだったから。
 今の生活との落差に、もがいていた。

 ふと、居間から窓の外に目を向けると、街灯の明かりに照らされた雪が絶え間なく降り注いでいた。

 雪は嫌いだった。母親が死んだ日のことを思い出すから。

 当時の――あの光景は、今も消えることなく確かな傷跡として心の奥に刻まれている。
 舞い落ちてくる雪のひとつぶひとつぶに心臓を削りとられていくような気がした。

 それでもしばらくのあいだ外の景色を眺め続けた。この胸の痛みと引き換えに、今の境遇に対する惨めさとやるせなさを、ほんの一時でも忘れることができたから。

 雪は次第に暴力性を増し、やがて一寸先も見通せないほどの猛吹雪になった。

「シン――をお願いね」

 あの日、鳴り響く風のなか耳元でささやかれた母親の言葉が蘇る。
 まるでそれが合図であったかのように、少年シンの記憶は意識とともに闇へと沈んだ。

⦅意志することを行え⦆

 誰のものともわからない声が、最後に響いた。



 §§§§§



 再び目を見開いたとき。
 シンの前に現れたのは、果てしなく広がる茜色の空だった。

 地平を縁取るようにしている太陽の光が、まさに今、沈んでいこうとしていた。

 余りにも唐突に切り替わった光景を前に、声ひとつあげることができなかった。

 疑問を挟む余地すらなく、一瞬にして心奪われた。まるで大空を自由に飛び交う鳥のように、シンはその世界(・・・・)を見渡していた。

 眼下には深く生い茂る広大な森と、赤灼けの空を鏡のように反射させている湖が見えた。凄まじい(ごう)音をあげながら流れ込む巨大な滝に、黄金色にざわめく平原。そして、縦横に遠くつらなる山領――。

(――なんだ、これ)

 いったい何が起きたのか。
 こんなことが現実のはずがない。

 落ち着いて考える間もなく、今まで目にしたこともない景色が次から次へと視界に飛び込んでくる。

 壮大な建造物に彩られた巨大な都市に、ひとつの山をそのまま削り取って造られたような彫刻のような街。天高く伸びた巨大な塔と、雄大な空を飛び交う何隻もの船。

 現れては消え、消えては現れる、眠りにつく前の妄想とは比較にならないほど圧倒的で、幻想的で、そして――現実的な世界。

 やがて荘厳な装飾と彫刻によって造られた天空の大聖堂が現れ、落ちゆく太陽の光を反射させながらシンの全身を貫いた。

(……あぁ)

 美しいという言葉の意味を、初めて知った気がした。
 今まで感じたことのない爽快感と開放感に満ち溢れていた。

 いつまでも眺めていたい。ずっとこの世界の空を飛び回っていたい。心の底からそう思った。

 たとえ目の前の光景すべてが一夜の夢に過ぎなかったとしても。

 そんな思いが頭をよぎったときだった。
 シンの目が、今まで見ていたものとはまったく異なる光景を映し出した。

 怒りと悲しみとが入り混じったような表情で叫ぶ、一人の少女の姿を。

 いきなり視界が引きずり込まれてしまったような感覚だった。あまりにも突然すぎる展開に「だれ?」というあたりまえの疑問すら吹き飛んでいた。

 少女の体は、土と血にまみれていた。怪我をしているのか、突き立てられた剣⦅――剣だって?⦆にすがるようにしながら片膝をつき、前方を睨みつけている。

 その翡翠(ひすい)のような瞳がシンの目に映ったとき。シンの心臓が激しく脈打ち、胃の底から込み上げてくる衝動じみた感情が全身を駆け巡っていった。
 
 あの子の傍に行かなくてはいけない。そんなわけのわからない、抗うこともできない意志に突き動かされる。そして――
 
 大空を浮遊していたシンの体が、獲物を見つけた猛禽類の如く加速した。

「――してこんなことを!」

 今度は少女の声まではっきりと耳に届き、シンの意識が激しく震えた。

「むろん、おまえを殺すためだ」

 ぞくりとする男の声がして、シンも思わず少女の視線を追う。
 甲冑に身を包み、面頬(めんぽお)をつけた長身の男が、まっすぐ少女を見下ろしていた。

「おまえも狙われているのが自分だとわかったから、俺たちを引き離すためにこのような森の奥深くまで逃げ込んできたのだろう。まあ、無駄な足掻きだったがな」

 その言葉に呼応するかのように、森の中から一人、また一人と、少女の方へ歩み寄って来る男たちの姿が見える。

 ある者は口元に薄い笑みを浮かべながら値踏みするような視線を少女に向け、ある者は今にも襲いかかるのではないかと思わせるほど凶悪な表情を浮かべていた。またある者は大量の血がこびりついた短剣を弄びながら自身の首を鳴らすようにした。

 男たちは皆、甲冑の男とは異なり、見るからに野蛮な装いに身をつつんでいた。まっとうな生き方をしている人種ではないことはシンでさえわかった。
 
 どうして自分の目にこんな光景が映るのか。どうして、相手の声まで聞こえてくるのか。そもそもどうして、空なんか飛んでいるのか。シンの頭は混乱する一方だった。

「何が目的なの。私を殺すことに、いったい何の意味があるというの」
「自分の価値というものをまるで理解していないようだな」
「私に価値なんてない! 私は――」

「知っているさ。<アーゼム>の偉大なる支柱であるロウェイン家に生まれながら、史上ただ一人『器』を授からなかった『持たざる者(ハーノウン)』」
 男の面頬から、低く、あざけるような笑い声が漏れる。
「それがおまえだろう、ラスティア・ロウェイン」

「そこまで知っていて、どうして」

「いくらアーゼムからつまはじきにされていようと、おまえの生まれが特別であることに変わりはない。アインズ王室の血さえ引いているおまえは、まさに目も眩むほどの血統、血筋ではないか。なのにおまえは、自分がどれほど恵まれた境遇にいるか気づきもしていない!」

「人は他人が目にしたままの生を生きているわけではないわ」

 甲冑の男が吠えるように笑う。
「その日生きるに苦しんだことのない者が言いそうなことだ。ハーノウンが聞いてあきれる」」

 面頬の奥で、何か、どす黒い感情が渦巻いているかのような言い草だった。
 少女の翡翠の瞳が顔もうかがえない相手をひたすら凝視し続ける。

「やはりおまえはアーゼムとして――いや、人として欠落している。創造主(エルダ)がなぜおまえのような出来損ないを創ったのか、ぜひとも訊いてみたいものだ」

「ベイル様」
 ラスティアが何か言いかけたとき、周りを取り囲んでいる男の一人が口を挟んだ。
「最後のお楽しみはこっちに任せてもらえませんかね」

「おまえたちの役目は邪魔な兵どもを片付けることだ」
 甲冑の男――ベイルと呼ばれた男は突き放すように言った。
「あとは俺がやる」

「それはそうなんですがねえ。俺はともかくとして、こいつらが納得しない」
 まるで困っていないような笑みを浮かべながら頭を()く。
「そうだろう、おまえら」

「ああ、こいつ一人に仲間が何人も殺られてる」
「ただ殺したんじゃ腹の虫が収まらねえ」
「これから先は俺たちの時間だ」
 
 周囲から同調する声が次々にあがる。

 ラスティアという少女が十人以上いようかという野党のような男たちの餌食にされようとしているのは明らかだった。その表情が今まで以上に強張っていくのがわかった。

 ――早く、もっと早く飛べ!

 まるで現実味のない光景の中にありながら、シンの焦りは増すばかりだった。

 体感的には相当な速さで空を飛び続けているはずが、彼女のもとへ向かおうとすればするほど遠ざかっていくような気がしていた。

 いったい、ここはどこなのか。自分の身に何が起きているのか。そもそも、駆けつけてどうしようというのか。そんな当たり前の疑問すら浮かばなかった。

 シンの意識はラスティアという少女のもとへ駆けつけるという、ただそのことのみに集約していた。

「おまえたちが油断したせいだろう。最初に言っておいたはずだ、ハーノウンとはいえ舐めるな、と」

「そりゃあ言いっこなしだ。あんな見た目をしていたら、俺たちみたいなもんは誰だって力づくで組み伏せようとしちまいますよ。ねえ、いいでしょうベイル様。まあ、この娘にしてみれば今すぐ死んじまった方がましって目には遭うかもしれませんが。それくらいは多めに見てやってくださいよ」

「貴様ら、自分たちが何をしているかわかっているのか!」
 突然、男たちの言葉をかき消すほどの怒声が鳴り響いた。

 その声は、巨大な麻袋の中から響いてきていた。男たちは無造作にそれを地面へ投げ出すと、引きづるようにして中身を取り出した。

「レリウス様!」
 ラスティアの悲痛な声が森の中へと響き渡る。

 レリウスと呼ばれた男は必死の形相でラスティアの方へ顔を向けると、両腕を後ろで縛り上げられながらも必死に()い寄ろうとした。
 
「申し訳ありません、ラスティアさま……!」
 額から流れ落ちる血のせいで目を開くことさえ難しそうだった。だが、その言葉には確かな力強さがあった。

「ほう、生きたまま捕らえたのか」
 ベイルは軽く感心したような声を出した。

「アルゴード侯、レリウス・フェルバルト。さすがの大物だけあって手こずりましたよ。ま、この娘ほどじゃありませんでしたがね――ああ、血がたぎってしょうがねえや」
 男が自身の股間をまさぐるようにしながら上ずった声をあげる。

「正直、こんな極上の娘はお目にかかったことがねえ。この機会を逃しちゃ命をかけてる甲斐がねえってもんだ。そうだろ?」
 周囲の男たちは野卑(やひ)た歓声をあげながら、舐めるような視線をラスティアへと向けた。

「それに、あの核光(かっこう)色の瞳……飽きるまで犯りまくったあとは切り抜いて俺の所蔵品に加えてやる」
「なんという――」
 憤怒の表情で何かを叫ぼうとしたレリウスの声が、かたわらに立つ男に腹を蹴り上げられ呻きへと変わる。

「やめなさい!」
 ラスティアが叫ぶ。

「殺すことには違いないんですから、後はこっちにまかせてくれたっていいじゃないですか」

「……好きにしろ」
 ベイルの声からはしかし、どこか周囲の男たちを嫌悪するような様子さえ感じられた。
「そのかわり、確実に首はとれよ」

「言われるまでもありませんや」
 男たちは一斉にうなずくと、卑しい笑みを浮かべながらラスティアを取り囲むように歩み寄っていく。

「それ以上近寄らないで」
 ラスティアが剣を引き抜き、構えた。
「近づけば切る」

 その言葉、その迫力を前に、男たちの顔つきが一気に変わる。

 一介の少女が身に纏《まと》えるような雰囲気ではなかった。だが、先頭に立つ男は特に気に留める様子もなく笑ってみせた。
「今までとは状況が違うってことくらいわかってんだろ。こっちにはアルゴード侯がいるんだぜ?」

 瞬時にラスティアの視線がレリウスへと向く。
 
「アルゴード候の子供たちに親父の切り刻んだ体を送りつけなきゃならんのは、いくら俺たちでも心が痛むなあ……だが、おまえが大人しくしてくれりゃあ、そんなこたあしねえよ。大国アインズの大侯爵様には体を切り刻む以外にも使い道はたんまりあるだろうしな」

 ラスティアの瞳が、明らかに揺れた。

「ら、ラスティアさま……耳を、貸してはなりません、こやつらは約束など……!」
 ラスティアのもとへ這い寄ろうとするレリウスの腹に再度男の脚が叩き下ろされた。
 のたうち回るレリウスはしかし、それでもラスティアから目を離さなかった。

「さあどうする?」

 血がにじむほどきつく噛み締められたラスティアの口から、吐息のような声が漏れた。
 微かに震える手が、徐々に傍の剣から離れてゆく。

「聞き分けのいい子だ」
 男たちの間から一斉に歓声があがる。

「やめろ、頼むから止めてくれ!」レリウスが叫ぶ。「わかっているだろう、そのお方は――」

「いやあ、ぞくぞくするねえ! かのアルガード侯の前でアインズ王の姪っ子を犯りまくれるなんてよぉ!」
 男は興奮に声を張り上げ、ラスティアの頬を思い切り殴りつけた。

「おまえに殺られた仲間たちの分もよお、せいぜい楽しませてくれよお」
 地面へと叩きつけられたラスティアだったが、悲鳴ひとつあげることなく目前の男を睨みつける。

 翡翠の瞳に射抜かれた男は一瞬怯んだ表情を浮かべたが、今度は逆上したようにラスティアの腹を蹴り上げた。
「んだあ、その目は!」

「やめろぉ!」
 レリウスの悲鳴が響き渡るなか、ラスティアは激痛に耐えるような表情でなおも男を見上げていた。

「おまえもようやく知ることになるだろう」
 面頬の男がつぶやくように言った。
「真の『持たざる者』たちの苦しみを、な」

「そう怖がらなくていいぜ、最初から全員で、なんてこたあしねえからよ」
 男が粘りつくような言葉をかけながら、少女の体へと覆いかぶさっていく。
「ああ、血で汚れていようが気にするな。俺たちゃ慣れてる」