陽キャの廣川くんは策士かもしれない

 中間テストも無事に終わった五月後半、通常ならば六月から衣替えとなる予定が年々季節が前倒しされるかのように夏の暑さとなっている五月、既に生徒の大半は半袖で登校していた。香村健臣(こうむらたけおみ)も例に漏れず五月の連休明けから既に半袖で、母が毎日作ってくれている弁当も底に保冷剤を敷いてきている。蝉の声はさすがにまだ聞こえはしないが、もうすっかり初夏というより夏本番といった気温だ。ただ、梅雨前故にからりと乾いた暑さはそれほど不快ではない。
 担任の教師に呼び出された放課後、香村は一人職員室へと入っていった。そこには何故か、廣川七瀬(ひろかわななせ)の姿もあった。
「おー香村、悪いな来てもらって」
 五十代半ばあたりであろうと思われる担任の男性教師は職員室へ入って来た香村に気づくと軽く手を挙げた。廣川も顔を上げて嬉しそうに笑う。先ほどまで同じ教室内で顔を合わせていたというのにどうしてそうも嬉しそうなのか。
「いえ、スピーチコンテストの事ですか?」
「話が早くて助かるよ、あと二週間も無いからな」
 スピーチコンテストというのは来月開催される高校生英語スピーチコンテストの県大会のことだ。この大会で県の代表に選ばれれば全国大会へ出場出来る。これまでこの高校で英語スピーチコンテストの県大会へ進んだ事は無いようで、教師陣が妙に張り切っているのを香村はひしひしと感じていた。主に筆頭はこの担任兼英語教諭なのだが。
「他の高校はさー基本的には英語弁論部的な部活があって部活単位で出場することが多いんだよね。でも香村は単独で地区予選突破しちゃったから大したもんだよ」
 真正面から褒められるのはさすがに気恥ずかしい。香村は口の中でもごもごと「いえ」とか「そんな」などと意味のない言葉を転がしていたが、廣川が感嘆の声を上げた。
「よくわからんけど香村が凄いってことはわかった。ところで英語ベンロン部って何すんの?」
「別に凄く無いよ。弁論は……こういうスピーチコンテストに向けて練習する部活じゃないかな。運動部とか吹奏楽部もそうだろ、大会を目標にして練習するって」
「あー、ね。じゃあやっぱ凄いじゃん香村」
 そうなんだよ凄いんだよ、と担任教師が鼻息を荒くする。顔が熱くなってきて、やめてくださいと苦笑を浮かべるしかなかった。
「そこで、香村にひとつ提案がある。君の英語で書かれた文章も発音もとても素晴らしいことはわかっているんだが、スピーチってのはそれだけじゃないんだよ」
 提案、という言葉に香村は担任教師の方へ体を向け直した。彼は大げさに身振り手振りを加えながら説明を続ける。
「香村はなんていうか、感情の起伏が少ない」
「……はあ。そう、ですか?」
「あれ、自覚無い?」
 教師は隣に立つ廣川を見上げる。彼は教師の言葉にうんうんと力強く頷いた。というか、未だに何故彼がここにいるのかわからない。
「英語弁論に関してはただすらすらとスピーチ出来れば良いってだけじゃなくてね、見ている人に伝える伝達力というか、演出も必要になって来るわけだ。去年の全国大会の様子が動画であるから後で見ておいてね」
 伝達力や演出と言われて香村は腕組みをしながら唸り声をあげてしまう。自分が感情の起伏が少ないタイプであるという自覚はこれまでまるで無かったが、担任の言うようないわゆるパフォーマンス的な分野が得意かと言われると全く得意ではない。
「それで俺の出番ってワケ」
 そう言いだしたのは、先ほどから何故か隣で話を聞いていた廣川だった。いったいどういうことかと香村は彼と担任教師の間で視線を行ったり来たりさせる。
「お前ら最近仲良いみたいだから廣川に頼んだんだよ」
「え、何をですか?」
「そりゃあ感情を表に出す練習をな。ほら、コイツダンス部だろ?」
 そういえば廣川は陽キャと言えばお馴染みのダンス部だった。
「それなら演劇部の方が良いんじゃ……」
「演劇部は夏の高校演劇祭に向けて頑張ってるからなあ」
 確かにこの高校の演劇部は高校演劇界隈ではそこそこ名が知れているらしく、香村ひとりの為に部員を割いてもらうわけにもいかない。香村自身演劇にはさして興味が無いのだが幼馴染の吉野立花(よしのりっか)が演劇部員であるため、ここ最近部活動の為帰宅が遅いことはよくわかっていた。
「俺はありがたいですが……廣川君だって忙しいだろ?」
「全然暇だから気にすんなって! 困ったときはお互い様だろ~」
「廣川もこう言ってるし、LL教室使って構わないから放課後空いてる時に練習しておいてくれ」
 なんという丸投げ……と香村は若干遠い目をしてしまうが、担任がそう言うのであればやらないという選択肢は無いのだ。香村はそういったところで生真面目さを発揮してしまうのが常だった。

 LL教室は基本的に英語のリスニングの授業が行われる教室である。長机には生徒が三人横並びで座る事が出来、生徒ひとり一人に対してモニターとヘッドセットが準備されている。
「せっかくの放課後なのに、本当に良かったのか?」
 去年の英語スピーチコンテスト全国大会の動画を見る為、教師側の席でDVDをセットしながら顔を上げた香村に対し廣川は手持無沙汰な様子で席のヘッドセットをつけたり外したりしながらにこりと笑う。
「別に良いって、俺らダンス部は別に大会に出る予定とかは無いしさ。毎年文化祭目指して練習するくらいなんだから実質暇部」
「暇部って……でも毎日活動はあるだろ?」
「まあね、動画見ながら練習したり。踊ったのを撮影してアップしたり」
 香村自身運動神経が悪いわけでは無いが、ダンスはまったく未知の領域だ。体育の授業の一環として少しやったことがある程度で楽しいと思った事は無かった。
「見てすぐ覚えられるもん?」
「ものによるとしか言えないかも。一回見れば覚えられるものもあるし、頭では理解してても体が全然ついて行かない時もある」
「へえ……結構奥が深いんだな」
 香村は廣川がどのようなダンスを踊るのか知らない。彼の言う通りこの学校のダンス部は大会出場を目指すような部活動ではなく、学校の文化祭や近所の夏祭り等で披露するような類の部活動だ。昨今のダンス人気に(あやか)って五年程前に新設された部活動らしく、本職のコーチが就いているわけでもなく生徒たちが自主的に活動している同好会の延長のようなものであり、その緩さからとりあえずで籍を置いている幽霊部員も多いらしい。ただ、香村の知る限り廣川は殆ど毎日部活動へ顔を出しているようだった。
 DVDをセットし、教室前方の大きなモニターに映像を映し出す。どこかのホールのステージだろう、上部には全国高校生英語スピーチコンテストという大きな横断幕が掲げられた中でそれぞれの学校制服を身に纏った少年少女たちがステージ上のマイクで英語スピーチを披露してゆく。
「げ、字幕って無いの?」
 廣川が苦虫をかみつぶしたような顔で隣に座る香村に文句を言った。確かに全文英語のスピーチに字幕が無いのは英語が苦手な廣川にとって苦痛かもしれない。だが恐らく記録用と思われる映像に対しさすがに日本語字幕を付けてくれとは言えまい。
「なんか……凄いな」
 一人三分という持ち時間で披露されるスピーチは、確かにただ紙面を読み上げるというだけではなくいかに短い時間の中で言いたいことを審査員に伝えるかという創意工夫と熱量に満ちていた。また決まったテーマが定められていない為スピーチ内容も様々で、地球の環境問題を切々と訴える者から推しアイドルの素晴らしさを全力で伝える者、好きな人へのラブレターのようなものまであった。
 時間にしてみれば約二時間程の映像であったものの、香村も廣川も圧倒されるばかりであった。さすが全国から選ばれた者たちだけのことはある。
「英語全然わかんないけど、こりゃあ確かにセンセーが演出が必要だって言うものわかる」
 おそらくスピーチの内容を殆ど聞き取れていないであろう廣川だが、映像の中から迸る熱量のようなものは伝わったらしい。香村もスピーチ原稿自体は自身があったものの、全国から集った代表たちのスピーチを前にしてなるほど自分には圧倒的に伝達能力が足りていないようだと自覚させられることとなった。
「うーん、とりあえず……どこから手をつけたら良いかな廣川君」
「そこは廣川センセーって呼んで?」
「えっ……じゃあ、廣川先生どうしたら良いですか?」
「最高」
 満面の笑みを浮かべる廣川に思わずため息をつきながら、香村はひとまず用意してきたスピーチ原稿に目を通す。地区大会の際に担任からの修正も入って何度も書き直した原稿だ。
「じゃあ、まずは香村が思うように一回スピーチして見せてよ。目の前にいる俺に伝わるように」
 廣川はそう言うと椅子にどっかりと座り直して香村に対し前でスピーチをするように促す。確かに改善点を見つけて貰うのなら今の香村の実力を見て貰うしかないだろう。促されるまま前に出た香村は、教卓に原稿を置いた。
「廣川君聞いてわかる?」
「おっ、煽るじゃん~」
「煽って無いです先生」
「正直全然わかんないと思うけど、そんな俺にも伝わるように喋ってみてよ」
 致し方ない、と香村は原稿に目を落とし口を開いた。

「……以上です」
 パチパチパチ、と大げさな拍手が二人しかいないLL教室に響く。
 香村がスピーチのテーマに選んだのは現在の若者が抱える漠然とした将来への不安についてだった。若者らしいテーマであり、理路整然とした文章に担任の評価は上々で、地区大会でも審査員から高評価を受けて県大会へと進んだ自信作だ。
 香村自身、自分の将来に対して説明のし難い不安を抱えている。とりあえず勉強を頑張り、可能な限り良い大学へ行く事で将来の選択肢を広げたいと考えているが、実際のところ大学へ行って何を学びたいのかこれといった展望があるわけでは無かった。どちらかと言えば文系の方が得意ではあるので文系の国公立大学を目指している、ただそれだけに過ぎない。しかし、自分と同じ年齢で将来のヴィジョンを明確に捉えている者などどれだけいるだろうか。
「やっぱ香村の話してる事全然わかんなかったんだけどさ」
 教卓の上の原稿用紙に目を落としていた香村は、かけられた言葉に我に返って顔を上げる。彼の目は真っすぐ香村を見ていて、それがあまりに真っすぐすぎて思わず視線を逸らしてしまった。
「香村の言いたいのってさ、一緒に考えようって訴えたいの? それとも、俺の意見を聞けー! って感じ?」
「……いや、そこはあんまり考えた事無かったかも」
「あーじゃあそれかも。そこを意識しないとどう演出すれば良いのかわからないかな」
「難しいな」
「そう? そんなに難しく考える事無いんじゃない? 例えば……俺、香村が好きだよ」
 唐突とも思える言葉に驚いて、逸らしていた視線を廣川へ向けた。
 彼は相変わらず真っすぐに香村を見つめたまま、ふわりとその双眸を柔らかく解して笑う。ぎゅうっと心臓の辺りを鈍い痛みのような、苦しみのような、それでいてどこかふわふわと足元がおぼつかなくなるような感情が湧き出してきて目が逸らせなくなる。
 彼が香村への好意を惜しげもなく曝け出すのはいつもの事だ。けれど、ここまで直接的な言葉を目を見ながら言われたのは初めてだった。
「……ほら、伝わって欲しいって願いながら言えば伝わるでしょ?」
 そう言って廣川はいつものようにからりと笑う。
 窓が閉め切られた教室はやけに暑くて、香村は額に滲む汗を拭い頷く事しか出来ない。
「なんで……そんなに俺のこと」
「こんなに好きかって? 香村はそれ、考えてくれたんだ」
――じゃあ、当ててみてよ。俺がいつから香村の事が好きなのか。
 そう言われたあの日からいつも常に頭の片隅に廣川の存在があった。いつ、どこで、どんなタイミングで彼は香村に好意を抱く事になったのか、考えてみたところで香村自身全く身に覚えがない。
「……わからないよ、だって二年になるまで全然喋ったこと無かったし」
「そうだね、中学は別だったしね」
「気になって、集中出来ない」
 困る、と言いながら汗でずり下がってきた眼鏡を直す香村に対し廣川は何度かぱちぱちと瞬きをした後本当に楽し気に笑う。夕陽ではなく白色LEDの下であるにも関わらず、彼の耳は赤く染まっていた。
「うん、じゃあ……香村の県大会が終わったら教えてあげる」
「え、そんなの何も手に着かなくなっちゃうだろ」
 頬杖をつきながら目を細めた廣川は、策士の顔で言ってのけた。

「何も手に着かなくなっちゃえば良いよ」
 中学三年生の二学期から三学期にかけて廣川は少し不登校気味になっていた。特に虐められていたとか、そういった直接的な事があったわけでは無い。
 きっかけははっきりと覚えている。両親が離婚し、母親の旧姓を名乗るようになってからだ。中学三年生で家庭の事情で今日から廣川になります、と担任教師から説明を受けて意味を理解出来ない子どもはいない。呼び方ひとつ変わるだけで小さな違和感は生まれ、両親が離婚した可哀想な子どもという認識は廣川を孤立させた。誰も酷い言葉を浴びせたわけでは無く、逆に皆気を遣ってくれていることがよくわかって、思春期真っただ中の廣川はそれが耐えられなかったのだ。
 そんなことがあったから、高校は中学から離れた学校にしたかった。自分を知っている人が誰もいない環境で心機一転出来ればと思い、息子の不登校に頭を悩ませていた母親もそれを快く承諾してくれた。ちょうど母親の転職も決まったところであり、二人で再始動という気持ちでこの街へ越して来たのだ。
 廣川七瀬という人間を誰も知らない、そんな環境は居心地が良かった。元々人との関わりを好むタイプであった廣川はようやく息がしやすくなったような気がしたのだ。
 そうして新しい生活に馴染み、一緒にいれば楽しい彼女も出来て順風満帆に青春を謳歌しようとしていた廣川の前に現れたのが隣のクラスだった香村健臣という男だった。
 放課後、掃除当番だった廣川は教室のゴミ箱を抱え渡り廊下を通って外のゴミ置き場まで歩いていた。放課後は友人たちとカラオケに行く予定で、早く掃除を終えてしまいたくて早足になっていたように思う。
「ねえ聞いた? B組の村山さん、お父さんが亡くなって苗字が変わるらしいよ」
 不意に聞こえて来た声に廣川の脚は止まった。ドキリ、と心臓が大きく脈打って掌に嫌な汗がどっと滲む。
「可哀想だよね、帰りは暫く誘わない方が良いかも」
――違う、そうじゃないんだ。
 廣川は無意識に渡り廊下の柱に身を隠していた。自分の事を言われているわけでは無い。わかっているのに指先が震えて来てゴミ箱を抱えていられなくなる。同じ一年生だろうか、そもそも廣川は会話の中の村山という生徒の事は全く知らない。それなのに、キンと耳鳴りがするほど体が動揺している。
 可哀想だと思われたいわけじゃない、距離を置く優しさを欲しているわけじゃない、突然放り込まれた非日常の中でこれまでとけして変わらぬ日常が欲しいだけだ。村山という生徒がどう思っているのかはわからないが、少なくとも廣川はそうだった。今まで通りで良いよと言うと、友人たちには「でも大変でしょう?」「気を遣わなくても大丈夫だよ」と言われて酷くショックを受けたのだ。彼らが善意でそう言ってくれていたのだとしても、距離を取られるのが耐えがたかった。
「誘っても良いと思うよ」
 澄んだ声が響き、廣川は顔を上げた。耳に馴染むような、低く穏やかな声だった。
「香村君。でも、悪くないかな」
「無理だったら村山さんが断るだけだよ。村山さんだってお父さんが亡くなって環境の変化で大変だと思うから、尚更いつも通りに大変だったねって声掛けて一緒に遊べばいいと思うよ」
 廣川の視線の先にいたのは、黒髪に眼鏡の真面目そうな少年だった。
 彼の、恐らく何気なく言ったであろう一言に廣川の心は軽くなった。
 あの瞬間、言葉を交わしたわけでも目が合ったわけでもないというのに廣川七瀬は香村健臣という男に救われてしまったのだった。

 だからきっと、彼は廣川が恋に落ちた瞬間を覚えてすらいない。それは廣川が勝手に香村という男に救われてしまった瞬間なのだから。
 スピーチコンテストへ参加することになったのは、英語教師であるクラス担任の推薦があったからだ。香村が自分から積極的に応募したいと言ったわけでは無い。そのようなコンテストが存在することすら知らなかった。
 そもそも香村健臣は自分から行動する、といった積極的なタイプでは無い。保育園児のころはヒーローごっこをしてもだいたい敵構成員役であったし、イベントの実行委員などに立候補したことも無かった。ただ、昔から勉強だけは得意なタイプだったので推薦されて委員長的な立場になる事はある。現在二年B組でクラス委員をやっているのも他薦であり、香村は部活動にも入っていないからまあ良いかとそれを受けただけである。頼まれると断れない性格と言えばなんだか優しい人間のようであるが、実際の所はただ自分で何かを決められない決断力の無い人間というだけだ。香村は自分のことをそう分析している。

「うーん、まず香村の場合は自己アピールが課題な気がする」
 自己アピール……と香村は廣川の言葉を鸚鵡返しに口にする。
 英語スピーチコンテストの県大会に向けて担任教師直々に香村へのアドバイザーを任された廣川はやる気に満ち溢れているようだ。本当に廣川と香村は仲が良いなと担任教師に満面の笑みで言われたが、香村にしてみれば何故か懐かれているという感覚が正しい。
 ただ、つい先日廣川が香村に向ける感情が所謂恋愛感情であるとはっきり確信してしまった。もちろん高校生にもなってあからさまに寄せられる好意の意味を理解出来ないほど初心ではないつもりだが、面と向かって好きだと言われるとどうして良いのかわからない。付き合って欲しいと言われたわけでも、同じだけの気持ちを要求されたわけでもない為なおさらどうしたら良いのかわからなくなってしまうのだ。確かに、何においても自己アピールが課題なのかもしれない。
「ボディランゲージ……みたいなこと?」
 スピーチ練習の為宛がわれた放課後のLL教室は開いた窓から心地いい風が入り込み、西日を遮る為に引かれたカーテンが膨らんだり萎んだりしている。同じ階にある音楽室からは吹奏楽部の練習の音が漏れ聞こえてくる中で、教室にいるのは香村と廣川の二人だけだった。
「確かにボディランゲージしてる人もいたね」
 廣川はそう言って手元のスマートフォンを見た。
 教壇側に立っているのが香村で、廣川は手元でスマートフォンで去年のスピーチコンテストの動画を確認している。ダンス部だから、香村と仲が良いからという理由で練習の手伝いを申し付けられてしまった廣川だったが彼は随分と楽しそうだ。
「俺はそういうの苦手なんだよなあ」
 身振り手振りといった表現は確かにスピーチの内容を伝えるのに効果的だとは思うが、どんなことでも人には向き不向きというものがある。
 廣川の手元にあるスマートフォンを覗き込めば、確かに昨年の全国大会出場者の中には身振り手振りを使って大胆なパフォーマンスを取り入れたスピーチもあった。香村にはとても出来そうに無い。
 下を向いていたためずれた眼鏡を直しながら顔を上げると、思いのほか至近距離に廣川の顔があって驚く。
「……近いな」
「近づけてるし。俺香村の顔が好きだから」
「真面目にやって」
「やってるやってる」
 本当かなあ、と思いつつ協力してくれていることにはとても感謝しているのでわかったからと言って廣川の頭を押しやる。以前から距離感が近いとは思っていたが、先日面と向かって自分が香村を好きになったのはいつからなのかスピーチコンテストが終わってから教えると言われて以来どうにもその近さが気になってしまうようになっていた。
「香村はボディランゲージは苦手だけど、人の目を見て話すのは得意だよな」
 先ほどより少し廣川との距離が開いて内心ほっとする。
「まあ……目を見て会話しろって昔から親に言われてたから。ただコンテストだと審査員はひとりじゃないからな」
「でも目の前にいるわけじゃん? だったらその人たちの目を見ながらスピーチするのは大事な気もするけど……試しに俺の目を見ながら言ってみてよ」
 そう言って廣川は自分の色素の薄い目元を指差す。彼との身長差はあまり無いが、今は彼が座っていて香村はその傍らに立っている為見下ろす視線が少し新鮮だった。
「言うって、何を?」
「廣川君大好きって」
「……」
「すみません調子に乗りました」
 浮かれているなあ、と思う。廣川は先日から明らかに言動が浮かれきっている。その原因は恐らく自分なのだろうと、自惚れで無くそう思うので香村はなんとも面映ゆさを感じてしまう。同級生だけでもこんなにたくさんの人がいるのにどうして自分なのだろうと、最近よく考えてしまうのだ。
 以前隣の席の中津に言われてしまった。廣川の好意を迷惑と思っていないのなら一度きちんと考えてみるべきだと。きっぱりと断るのなら断らないと廣川が可哀想だと言われてそれは確かにとも思ったが、香村にしてみれば何故彼が自分をそこまで好いてくれているのかがわからない以上受け入れるのか断るのかといった話へ進むことが出来ないでいた。
「廣川君の言う好きって、恋愛感情って意味だろ?」
 香村は真っすぐに廣川を見据えて尋ねる。廣川は面食らった様子で大きな目をぱちぱちと瞬かせたあと、そうだよと言って柔らかく笑った。その笑みに何故か喉の奥がぐっと詰まったような気がして咄嗟に視線を下に落としてしまう。先ほど目を見て話せるという話をしたばかりなのに、何故だか急に真っすぐに彼の明るい茶色の瞳を見る事が出来なくなってしまった。
「別に、俺の事嫌だったら振って良いよ」
 優しい声音に落とした視線が揺れてしまう。
「……いや、ではないけど」
 狡い言い方をしているという自覚はあった。彼の好意をわかっていて嫌では無いなんて、逃げも同然だ。
「なんで、いつから」
 拘るじゃん、と廣川の笑い声が教室に響く。いつの間にか吹奏楽部の騒がしい楽器の音が止んでいる事に気づいた。窓から吹き込んでくる風が少しひんやりとしていて、カーテン越しに空の赤さがわかる。窓の外からは僅かに運動部の声が聞こえていた。
「きっかけなんて、なんでも良いじゃん。俺は香村の事良い奴だなー好きだなーって思った、それだけ」
 かたん、と廣川が机にスマートフォンを伏せて置いた。それだけ、なんて簡単に言ってくれるじゃないかと思う。人を好きになって、それを口に出す事に躊躇が無くて、まんまと香村の頭の中を自分でいっぱいにすることに成功した廣川はやっぱり強力な策士なのだろう。自分だったらきっとそんな事は怖くて出来ないだろうと、香村は思うのだ。
「好きになるって、そんな簡単なこと?」
「好きだなーって思うのは簡単じゃない? でも、俺の事を好きになって貰うのはすげー難しいけどね」
 そういうものだろうか、と香村は考える。
「廣川君はいつもそんな感じなのか」
「えっ待ってそれは誤解! 好きになるきっかけは単純だけど、誰でも簡単に好きになるわけじゃなくって……えーっと、難しいなこれ」

――その言い方だとまるで、俺のことが特別だって言ってるみたいじゃないか。

「それに、言ったでしょ? 大会が終わったら教えるって。まあ……聞いても香村は覚えて無いと思うけど」
「……どういうこと?」
「だから、まだ秘密」
 いまいち良くわからない。人を好きになる程の何かなら、香村が覚えていないわけが無いと思うのだが。
「それじゃあ、香村が俺のうっすーい話を聞く為にも練習に戻りますか」
 ぽん、と廣川が軽く机を叩いた。薄いのかよ、と少し笑ってしまい香村は漸く顔を上げる。彼はどこか、ほんの少し、ほっとしたような顔をして笑った。


 高校生英語スピーチコンテストの県大会は、県庁所在地にある文化会館の大ホールで行われる。県内の地区大会を勝ち抜いた高校生が七名出場し、ここで優勝した生徒が冬に行われる全国大会へ行く事になる。
 基本的に観客はおらず、ステージに上がった出場者の前には数人の審査員しかいないとう状況だ。だが、動画配信サイトでの中継があるためライブカメラが二台観客席に入っていた。
 廣川は自分もついて行きたいと子供のようにごねたのだが当然許可されるわけがない。中継の動画を見ると宣言していたが担任教師から授業中だと怒られもしていた。それを思い出し、香村は舞台袖でふふっと笑ってしまう。
「お、余裕だな。先生なんてもう、手汗がやばいぞ」
 付き添いの担任教師が傍らでずっとそわそわしている。スピーチを読み上げる香村よりよほど緊張しているようで、自信を持てよお前なら出来るぞと先ほどから何度も声をかけられている。
「傍にめちゃくちゃ緊張してる人がいると逆に冷静になります」
「えっ」
 香村は程よい緊張感はあるもののガチガチになるほどでは無かった。もうここまで来てしまったら、なるようにしかならない。
 手元の原稿用紙に目を落とす。すべて暗記してあるので文字を目で追うわけでは無いが、要所要所に赤ペンで書き込みが加えられている。それは香村自身が書いたものもあれば、廣川が書き込んでくれたものもある。
 今、ステージではひとりの女子生徒が滑らかな発音の英語で環境問題をテーマとしたスピーチを行っている。彼女の次が香村の番だった。
 一応確認しておこうと原稿の束を見返す。ここで審査員の目を見る、この箇所は少し大げさになどというアドバイスは廣川がしてくれたことを香村が書き込んだものだ。約二週間、放課後にほぼ毎日二人はLL教室に通っていた。廣川と二人きりであんなに密に話したのは初めてで、時折ふざけたりはしたものの彼は真面目に香村に付き合ってくれた。ダンス部は遊びだと言っていたわりに指導も適格で意外に思ったものだ。それは香村にとって、廣川七瀬という男の新たな一面を垣間見ることが出来た時間だった。
 原稿用紙の最後の一枚を捲って香村は手を止めた。余白部分に赤いペンで書かれた見慣れない文字。いつの間に書かれたのだろうか。
 〝香村の情熱的なスピーチ、楽しみにしてるからな!〟
 英語なんて全然わからないくせに、と唇に思わず笑みが浮かんだ。


 スピーチコンテストを終えた翌日、いつものように学校へ登校する。教室に入るとクラスメイト達が口々にお疲れ様と言って労ってくれた。思わぬ反応に香村は面食らう。
「昨日、ちょうど現代文の時間だったんだけど廣川が先生に掛け合って香村のスピーチの時だけライブ動画見せて貰ったんだよ」
「だからみんなで見てたぞ」
 現代文の授業はそれで良いのかと一瞬頭を過ったが、予想外の展開にだんだんと顔が熱くなってくるのを感じた。そこまで皆を巻き込んでいるとは思ってもみなかったのだ。
「あー……なんか、ちょっと照れる」
 つい、声が小さくなってしまった。
「おは……あっ! 香村ー!」
 朝の挨拶もそこそこに大きく元気な声が教室内に響く。来た来た、とクラス中の生徒たちが苦笑いのような含み笑いのような表情を浮かべていて、香村はその声が誰であるかわかり切っていながら教室の入り口を振り返る。
「昨日のアレ、すげー良かったじゃん! 次全国じゃんマジ惚れ直した!」
 わふわふと全力で尻尾を振る大型犬のように満面の笑みで教室内を突進してきた廣川はその場で思いきり香村を両腕で抱き締める。驚いて固まる香村を余所に自分の席から中津がヒュウと口笛を吹き、他のクラスメイトもイチャイチャすんなと野次を飛ばしている。
 廣川が言うように昨日のコンテストでなんと香村は審査員特別賞などという賞を貰ってしまい晴れて全国大会への出場を勝ち取ったのだった。
「廣川君、色々ありがとう」
 固まっていた香村だったが、ふと体の力を抜いて自分をぎゅうぎゅうと抱き締める彼の腰のあたりをぽんぽんと軽く叩く。
 廣川がなぜ自分の事を好きになったのか、そのきっかけを知りたいと思っていた。人を好きになる程の何か理由があるはずで、それを知らなければ彼の気持ちにどう返せば良いのかわからないと思っていた。
 けれど確かにきっかけなんて些細な事だったりするのかもしれない。例えば、そう、たった一言の手書きのメッセージで気持ちが綻ぶようなこともある。そのおかげで、ひとりの人間を強く意識して、彼ならどうするだろうと思い浮かべれば自然と苦手な自己アピールを乗り切る事も出来たのだから。
 顔を上げた廣川は本当に嬉しそうに笑って、言った。
「やっぱり俺、香村のこと好きだなあ」
 面と向かってそんな笑顔でしみじみと口にした廣川に対し、香村は一瞬全ての音がざあっと自分から遠のくような感覚を覚える。
 そんな顔、そんな声、そんな言葉はあまりにも狡い。

――ああ、やっぱりこの男は策士だ。策士に違いない。

 教室中がどよめいた中で、香村は自分の体温が一気に上がっていくのを感じながらそう確信するのだった。
 一般的に高校の文化祭は九月から十一月にかけて開催されることが多いようだが、香村たちが通う高校では九月の下旬に開催された。香村はどの部活動にも参加していない所謂帰宅部であったため部活動での出し物は無かったが、代わりに二年B組の教室で開催されている喫茶店の模擬店に駆り出されていた。
 二年B組の喫茶店は机と椅子を並び替えて客席を用意し、カーテンで仕切った先を作業場兼バックヤードにしただけの殆ど手間の掛かっていないつくりになっている。A組は教室から廊下の端までをレールで繋いだ簡易ジェットコースターなる大作を披露しているし、C組はかなり凝ったお化け屋敷らしいのでB組のやる気のなさは顕著であったが、クラス委員である香村もやる気の見られないクラスメイトを鼓舞して良い出し物をしようと声を大きくするような熱血タイプとは程遠いこともあり当日もまったりとした時間が過ぎていた。
 せめてもの賑やかしとして希望者のみ激安量販店で仕入れてきたメイド服や執事服を身に着けており、要望があれば冷凍食品を温めたオムライスに謎の呪文と共にケチャップでハートを描くくらいのサービスはしている。
「榊原さんってハート描くの上手いよね」
 ピンクの髪の上にちょこんと白いヘッドドレス……ホワイトブリムと呼ぶらしい……を乗せた榊原奈美は明らかに安物だとわかるテラテラとした水色のメイド服を翻しながら香村を振り返った。彼女が今提供してきたのはまさにメイドさん特製オムライスという名の冷凍オムライスを温めたもので、中学生くらいの少年たちのために綺麗なハートをケチャップで描いてバックヤードに戻ってきたばかりだった。
「三回目くらいで慣れてきたかも。オプションで名前とか書けっかもよ」
「いや、そういうシステムじゃないから……」
 クラスメイトの女子の中では身長が高めで腰の位置も高い榊原が着ると安物のメイド服はスカート丈が膝よりやや上になってしまっている。今更寸法を直すわけにもいかないので、普段から派手な外見のため生活指導の教師に目を付けられやすい彼女は仕方なく中に学校指定のハーフパンツを履いていた。なかなかに妙な組み合わせである。
「つか、コームラってそういうカッコ似合うじゃん。マゴにも衣装っつーんだっけ?」
「それ誉め言葉じゃないけど……まあ、ありがとう」
 クラス委員として逃げるわけにもいかず、香村は同じく量販店で購入した執事服を身にまとっていた。黒いベストに黒い燕尾服と、生地は薄いが形は思いのほか綺麗な作りとなっている。
「いやーでもさあ、シツジってんならもっと髪型変えたほうがぽいって」
 榊原は何か思いついた様子で机の下に置いてあった自分のバッグを手繰り寄せると、中から丸い物を取り出してくる。
「え、何?」
「ワックス。コームラちょっと眼鏡外して」
「なんで?」
「いーからいーから、言うこと聞きな」
 午前中という時間のためか客の入りはまだ少なく、店番をしているほかの生徒たちは暇そうにバックヤードでスマートフォンを弄っている。そのせいか榊原にバックヤードの隅へと追いやられていく香村を面白そうに眺めている者が多かった。少しは助けてくれてもいいものを。
 榊原はネイルを施した長い爪にも関わらず慣れた様子で器用に丸いケースからワックスを掬い取って両手になじませ、渋々眼鏡を外した香村の髪に無遠慮にその両手を突っ込んでくる。思わずぎゅっと目を瞑ってしまった香村を尻目に彼女は容赦なく香村の少し前髪が長めの黒い髪をぐいぐいと後方へ撫で付けた。
「おー良いじゃん良いじゃん」
「え、なに、なに?!」
「眼鏡邪魔だから外せよ」
「無理だよ近眼なんだから見えないよっ」
 無茶を言う榊原に困惑する香村だったが、満足したのか彼女は好き勝手弄っていた髪から手を離した。
「よし!じゃあアタシ手洗ってくんね」
 そう言ってさっさと教室を出て行ってしまった榊原の背中を呆然と見送った香村は、教室の隅に掛けられている鏡の前に立ち外していた眼鏡を掛ける。すると鏡の中には、長めの前髪を後ろへと撫で付けられ所謂オールバックと呼ばれる髪型になった見慣れた顔があった。

 やや混雑した昼を過ぎ、ようやく店番を交代した香村はどこへ行こうかと考えあぐねている。喫茶店の店番は交代制だったが、クラス委員である香村は撤収間際にもう一度接客に入ることが決まっていた為着替えるのも面倒で執事服のまま教室から出て来ていた。そのせいか、何度か廊下ですれ違い様に振り返られて少し気まずい。もっと奇抜な格好で呼び込みをしている生徒もいるのだからあまり見ないでもらいたいと思いつつ、ひとまず中庭に出店している焼きそばの屋台へと向かった。この屋台はサッカー部が運営しており、この時間帯はサッカー部員の中津祐輔が店に出ていると聞いていたからだ。
 中庭は普段の様子と一変しており、いくつかの食べ物屋台のテントが張られて飲食できるスペースも確保されていた。昼を過ぎた時間帯だからだろう、それほど混雑はしていないが普段学校で見ることのない小学生くらいの子供たちや生徒の保護者であろう大人、制服を着ていないことから他校の生徒であろうと思われる少年少女たちが思い思いに楽しんでいるようだった。
 焼きそばの屋台の前に立つと、本格的な鉄板から漂う熱とソースの良い香りがする。仕込みをしているらしい中津が顔を上げ、いらっしゃいと元気な声を上げたあとに何故か二度見をしてきた。
「びっくりしたー、誰かと思ったら香村君か」
「着替えるの面倒で。焼きそばひとつください」
「お、サンキュー! いや、服装もそうだけど髪型どうした?」
 中津はそう尋ねながらもテキパキとした動きで刻まれたキャベツを熱せられた鉄板に乗せ、そのあとに豚バラ肉を投入する。ジュウ、と肉が焼ける音がして彼は両手で持ったヘラで器用にそれらを炒めてから焼きそばの麺を解しながら更に鉄板に乗せ、焦げ付かないように勢いよく混ぜてゆく。肉にしっかりと火が通ったのを確認し、市販のソースを麺の上からかければ更に大きな音でジュウジュウとソースが焼けて香ばしい食欲をそそる香りが立ち上った。
 手際よく発泡スチロール製の容器に盛り付け、最後に紅ショウガを添えると割り箸と一緒に差し出される。香村は書かれていた値段の三百円を彼に手渡した。
「手際良いね。職人みたいだった」
 素直に感嘆の声をあげた香村に対し、中津は自信ありげに胸を張る。所謂どや顔、というやつだ。
「さっきめちゃくちゃ作ってたからね。料理も嫌いじゃないし?」
「へえ、意外かも」
「いや、意外といえば香村君の髪型もだいぶ意外だけど。めちゃくちゃ目立たなかった?」
 榊原には悪いが、やはりあまり似合っていないらしい。榊原に無理やり弄られたと言えば、中津は可笑しそうに声を上げて笑った。
「この後は体育館でダンス部だっけ?」
 中津がポケットから取り出したスマートフォンで時間を確認する。香村も腕時計をちらりと見れば、時刻は午後一時半を少し過ぎたところだった。体育館でダンス部のパフォーマンスがあるのは午後二時からだ。
「廣川君に絶対に来てって言われてるから行くつもりだけど、俺ダンスとか全然わからないよ」
 廣川七瀬はダンス部に所属している。部活動のある日は基本的に出ているようだが、香村は彼のダンスを一度も見たことがなかった。そもそも、香村の人生においてダンスは体育の授業で習わなければならない苦手なものの上位に位置している。リズム感というものが理解出来ないのだ。
「良いの良いの、香村君が行ってあげれば廣川も張り切るから」
「まあ……そうかもしれないけど」
 ステージの上で香村を見つけ、はしゃいだ犬のように喜ぶ彼の姿が目に浮かんだ。

 昼食として焼きそばと、同じく中庭に出店していた柔道部の作る具材たっぷりの豚汁とおにぎりで腹ごしらえをしてから香村は体育館へと向かう。既に大音量の音楽がかけられていて、照明にも色がつけられているようで日常とはかけ離れた空間となっている。ステージの前には制服を着た生徒のほか、様々な人々が五十人ほど体を揺らしていて香村は彼らの中へ入って行くのを躊躇していた。空気を震わせる低音のリズムの中、何故思い思いにリズムを取れるのか香村としては不思議でしかない。若干の場違い感を覚えつつ、彼らの外側でぼんやりと立ち尽くす謎の執事という良くわからない光景になってしまっていた。
 二時を少し過ぎた辺りで流れていた音楽が急に切り替わる。ステージ上には学校指定のものとは違う揃いのジャージに身を包んだダンス部が登場すると、観客たちが待っていましたとばかりに歓声を上げた。廣川を最前列の左端に見つけた香村は、普段と違い真剣な面持ちの彼の表情に目を見張る。柔らかな明るい色の髪を太いターバンで上げた様子は、なんだか知らない男のように見えた。
 音楽が流れる。流行にあまり関心の無い香村でも聞いたことのある、韓国の男性アイドルグループの曲だった。軽快なリズムの中速いテンポで彼らは自分の体を自在に使って滑らかに、時に大胆に、そして繊細に体育館のステージをエンターテインメントの舞台に作り替えてゆく。何か難しい技をしているのだろうか、時折観客が歓声を上げるが香村にはダンスの難易度などわからない。むしろ、彼らの動き全てが香村にとっては新鮮な驚きの連続であった。
 廣川の長い脚が軽やかなステップを踏む。指先が力強く握られる。その身体がバネのように跳ねて、波のようにうねるさまから目を離せなくなっていた。
 その時、廣川の鋭い視線が香村の視線と交わった。彼は一瞬だけ確かに笑って、すぐに立ち位置を移動させてゆく。
 あんな表情の廣川七瀬を香村は知らない。いつだってにこにこと陽気な男の視線ひとつで熱せられた矢に射抜かれたような衝撃に、香村は心臓がバクバクと煩く暴れているのを感じていた。

 二曲を踊り終えたダンス部は、その後アンコールによりフリースタイルのダンスを披露した後ステージを飛び入りダンサーたちに譲って降りていった。香村には結局ダンスの良し悪しは全くわからなかったし、音楽に乗れたわけでもなかったけれど初めて見る廣川の一面にまるで短距離を走り終えたばかりのように心臓が煩く跳ねたままだ。
「あ、いたいた! 香村!」
 声に顔を上げる。ターバンを外し、髪がぐしゃりと乱れたまま廣川がステージ脇から走り寄ってきた。その姿は先に想像していた通り、しっぽをぶんぶんと振って駆け寄ってくる大型犬のように見え、ステージ上とのギャップに香村の頭は少し混乱する。
「良かったー来てくれて。っていうかその髪型どうしたの、めっちゃかっこいいじゃん」
 いつもと変わらず笑顔で声を弾ませる廣川は首にかけたタオルで顔の汗を拭いながら尋ねる。様子はいつもと変わらないが、先ほどまで太めのターバンをつけていたせいで乱れ汗で貼りついた前髪は香村にとって見慣れぬ姿だ。自分の知らない姿の廣川七瀬がいることなど当たり前のはずなのに、不思議と香村の胸の中はざわざわと煩い。
「え、っと……榊原さんが。こっちの方が似合うって言って、変えられた」
「はは、ナミにやられたんだ? 確かにめちゃくちゃ似合ってる。香村はおでこまで綺麗だね」
「そんなこと初めて言われたんだけど」
 おでこまで綺麗、という彼の言葉の意味がわからない。思わず眉間にしわを寄せると廣川はくつくつと笑って廣川の眉間のしわにそっと親指の腹を触れさせた。その指の熱さに驚いてぱちぱちと瞬きをする。
「似合ってるけど、ちょーっと複雑かも。俺の香村の良さがみんなにバレちゃう」
 複雑、と言いつつも彼は笑って指を話す。触れられた眉間がまだじんわりと熱を持っているような気がした。
「別に廣川君のじゃないけど」
「えー良いじゃん俺のになってよ。お買い得だよ」
 お買い得ってなんだよ、と香村は思わず笑ってしまう。ドキドキと駆け足で急かすように跳ねていた鼓動は、まるで何事も無かったかのように平穏に落ち着いてきていた。きっと、少しだけ動揺していただけなのだ。
 笑った香村に、廣川は猫のように大きな目を細めてじっと香村の顔を見つめる。何、と問う前に彼はその表情をいつもの人懐こい笑顔に変えた。
「俺着替えてくるから、そしたら一緒に文化祭デートしようよ」
「いや、俺また戻って喫茶店の仕事あるから」
「えーうそー! せっかくこの後ラブラブデート出来ると思ったのに!」
 彼の大きな嘆きの声が体育館に響き、振り返った観客たちが香村と廣川を見てクスクスと笑っている。香村は呆れたため息をつきつつも、いつもの調子の廣川にどこかほっとしていたのだった。
 修学旅行というものは学生生活において特別大きなイベントのひとつだ。
 香村健臣(こうむらたけおみ)が通う高校の修学旅行は二年生の十月に二泊三日で行われる。行き先は定番中の定番ではあるが、京都と奈良を巡るコースとなっていた。中には中学校時代に行ったからもう行く場所も無いなどと文句を言う者もあったが、ほとんどの生徒が楽しみにしていただろう。
 修学旅行初日は京都の大定番観光スポットである清水寺からスタートとなった。
 各クラスに分かれ、ガイドに案内されながら事前に配られた旅のしおりを捲りつつ初秋の清水の舞台を観光する。残念ながら紅葉の季節にはまだ早く大舞台から見えるもみじの葉は未だ青々としていたが、暑すぎた夏を思えば抜けるような青空の下で心地よい風が吹き抜ける中で清水の舞台から見える景色は、まるで時間が止まったかのような静寂と、歴史の重みが染み込んだ空間が広がっていた。
 眼下には、緑豊かな山々が連なり、季節ごとに異なる彩りを見せるのだろう。きっと十一月に入れば紅葉が山を染め上げ、まるで錦織のような美しい風景が広がるに違いない。
 遠くには、京都の街並みが広がり、その中に古い寺院の屋根や、近代的な建物が調和するように並んでいる。
 清水の舞台に立つと、その高さと広さに圧倒される。木製の柱と床板がしっかりと組まれ、長い年月を経てもなお、力強く支えている。その場に立つだけで、まるで歴史の一部になったような感覚に包まれた。
 風が頬を撫でると清々しい気持ちが広がる。その風は、遠い昔から多くの人々が感じてきた風と同じなのかもしれない。
 舞台からの眺めを楽しんでいると、不意にパシャリとシャッターが切られる音がして香村はそちらへと振り返った。明るい色に染め上げた柔らかそうな髪を風に靡かせて、廣川七瀬(ひろかわななせ)がなにやら本格的な一眼レフカメラを構えてレンズを香村へと向けていた。
「廣川君、なにしてんの」
「深緑と香村が絵になるな~って思って」
 廣川が覗いていたファインダーから顔を上げてへらりと笑う。
「そうじゃなくて、カメラ。自前?」
「まさか! 学校新聞用にって新聞部の奴に頼まれた。うちってほら、写真部って無いからカメラ構ったことある奴あんまいないんだって」
 そう言って彼が掲げて見せたのはミラーレスのデジタル一眼レフカメラだ。首からかけたストラップにはしっかりと学校名が書かれており、学校の持ち物らしいことがわかる。
「カメラ、詳しいんだ?」
「詳しいって程じゃないけどな。父親が趣味でやってて、ちょっと中学生の頃触った事あったってだけ」
 確か廣川は市外の中学校に通っていたが、卒業と同時に親の都合で引っ越してきて今の高校へ進学したと聞いた。そのため彼の中学時代を知っているクラスメイトは殆どいない。
「紅葉してればもっと綺麗なんだろうけどなーさすがにその時期に修学旅行ってのは現実的じゃないか」
 廣川が大勢の観光客と、自分たちのように修学旅行生であろう見知らぬ制服姿の高校生たちを見やる。随分と外国人観光客が多い。
「この時期でさえこれだけの観光客がいるからね。清水寺の紅葉は確か海外向けのガイドブックでも取り上げられたりしているらしいから、来月なんて今以上に凄い人になると思うよ」
「そんなに人数が乗って大丈夫なのか、ここって」
 廣川がそう言いながら自分の足元……清水の舞台の床板へ視線を落とす。
 舞台自体は広く、緩やかに反り返る屋根がその上を覆っている。屋根の端には優美な装飾が施され、京都の伝統的な建築美を余すところなく伝えている。柱の下を覗き込むと、その高さと規模の大きさに驚かされる。まるで巨木の森がそこに存在するかのような錯覚を覚えるほどだ。
「柱が太いから大丈夫だとは思うけどね」
「うわ、思った以上に高いねこれ! 昔はここから人が飛び降りて願掛けしたって言うけど、よくやるよ」
 清水の舞台から飛び降りる、とは思い切って大きな決断をするといった意味で使われることわざだが、実際に大願成就を願ってこの舞台から飛び降りて願掛けする者が昔は後を絶たなかった、という話を先ほどガイドの男性が説明していたところだった。廣川はそういった話をよく聞いているタイプなのだな、と香村は意外に思った。
「実際に二百人近く飛び降りたらしいよ」
「ゲッ、じゃあここめちゃくちゃ人死んでるって事?」
 廣川は周りに配慮してか、やや声を潜めてそう聞いてくる。香村は少し可笑しくなって、笑みを含みながら首を横に振った。
「実際のところ、この下って木が生い茂っていたりして生還率は八割くらいだったって……聞いてる?」
 修学旅行前に見たガイドブックに掲載されていた話を披露していれば、廣川が何故か自分の顔をじっと見つめてきていることに気づき、香村は訝しげに眉を顰める。すると廣川はにっこりと猫のように大きな目を細めた。
「今日も香村は綺麗だなーって思って」
「……話聞いてないなこれ」
「眼鏡を外したら美人がバレちゃうから一生取らないで欲しい」
「無茶言うなよ、俺だって風呂とか寝るときとか眼鏡外すよ」
「えっ! 待ってよ今夜の宿って大浴場あるらしいじゃん! やばいでしょ!」
 何がだよ、と思っていると廣川はその形の良い頭を背後から思い切り叩かれた。
「声がデケーよ七瀬」
 相変わらずピンク色の髪をゆるく巻いて、大胆に短くした制服のプリーツスカートからスタイルの良い脚を覗かせている同じクラスの女子生徒、榊原奈美(さかきばらなみ)だった。
「コームラ、こいつ変な事言ってきたら殴って良いから」
「良くねーよ! お前の凶器みたいな爪が頭皮に刺さったんだけど?!」
「凶器……」
 見れば榊原の両手は全ての爪が綺麗なグラデーションで塗られており、キラキラとした小さな石が付けられていて艶やかに光っていた。
「凄いね、榊原さんの爪」
「だろ~? アタシ結構器用なんだよね~」
「えっ、これ自分でやったの?」
「そうそう、サロンも金かかるしさあ、ジェルネイルの道具とか機材揃えてセルフネイルしてんの。たまに友達にもやってあげてる」
 予想外に豊かな才能の持ち主であった榊原に驚嘆する。ネイルといったものにこれまで興味を持ったことは無かったが、これだけ細かく美しく仕上げられる人はそう多くは無いのではないだろうか。
「ナミってこういうとこ器用だよなあ」
 後頭部を擦りながら廣川が言った。
「前は七瀬にもネイルしてやったよね。また塗ってあげよっか?」
 そう言って榊原は廣川の両手を取る。爪の形綺麗だよね、などと言いながら彼女はどの色が似あうだろうかと言っているが廣川は特にそれを振り払うでもなくされるがままになりながら派手なのは嫌だよと苦笑を浮かべた。
 おや、と香村は思う。
 廣川は何故彼女の手を振りほどかないのか。何故榊原はこうも簡単に廣川の手に触れるのか。その答えは簡単で、半年ほど前まで彼らは彼氏と彼女という関係にあったからだろう。何故別れたのかは香村は知らないが、険悪な別れ方をしたわけではなさそうだということはわかる。
――それでも、今廣川君が好きなのは俺なんじゃないのか。
 香村は握られた二人の手から視線を逸らしながら、もやもやとした不明瞭な感情の芽生えに戸惑っていた。
 清水寺を後にした香村たちは、二年坂・三年坂で土産物を買った後昼食をとり、金閣寺と龍安寺へと向かった。どちらもやはり外国人観光客が多く大変な混雑ぶりではあったが、やはり紅葉の季節では無いせいかガイドによればまだ人は少ない方だというからピーク時を想像するだけでげんなりしてしまう。
 金閣寺では二年B組の集合写真を撮影し、龍安寺では有名な枯山水の庭園を見学する。香村としては遠くから眺める金閣寺よりも龍安寺の枯山水をより楽しみにしていたのだが、高校二年生で枯山水に興味がある者はあまり多くないようで皆お喋りに夢中になっている。
 庭園の入り口を通り抜けると、視界に広がったのは白砂の美しい広がりだった。白い砂はまるで大海原のように静かに広がり、その上に点在する十五の岩が島のように浮かび上がっている。岩と砂の調和が、自然の力と人の技の絶妙な融合を感じさせる。
 白砂の上には庭師の手によって引かれた美しい模様があり、それは波のように庭全体を覆っている。
「こういうのって詳しくないんだけどさ、この岩の配置とか、でっかいのと小さいののバランスとかってきっと計算されてんだろーね」
 新聞部に任されたというカメラを覗き、シャッターを切りながら廣川がぽつりと言った。確かに無造作に置かれているように見える岩は、少し見る角度を変えるだけで庭全体の表情を一変させるような計算し尽された配置になっているようだ。荒々しい海原にも、静寂に凪いでいる水面のようにも見える自然と庭師という人間の間に生まれた芸術作品だった。
「廣川君ってもっと……なんて言うか、こういうの興味無いタイプかと誤解してた」
 香村が素直な感想を口にする。少し離れた場所ではいつも賑やかなグループの面々がスマートフォンを掲げて大騒ぎをしており、担任教師に怒られているのが見える。廣川はどちらかというと彼らの側の人間であると香村は思っていた。
「興味はめちゃくちゃ偏ってるけどな。結構好きだよ、芸術とかデザインとか……別に詳しくないけどね」
「へえ……じゃあ、将来そっち方面に進みたかったり?」
「んー、どうかな……まだそこまで本格的には考えて無いかも。どこから手ェ付ければ良いのかわかんないし。でも面白そうだなとは思ってる」
 ファインダーから視線を外して隣の香村へと移す。なんとなく、先ほどの清水寺から二人一緒に行動していた。クラスメイト達はきっと廣川が香村へちょっかいをかけるのはいつものことであると慣れているのだろう、特に何も言わないし彼と仲の良い先ほどの賑やかな友人たちも特に声をかけて来ないのは半年ほど積み重ねてきた廣川の言動が刷り込まれてしまっているのかもしれない。
 廣川の言動とはつまり、いつだって香村の傍にいて口説き倒すという熱烈な行為のことだ。
 今では香村自身、すっかり彼の隣にいることに慣れてしまっている。そういうところがやはり、策士なのかもしれない。
「香村はどうすんの? 将来とか。スピーチコンテストの原稿だと、わりと不安みたいな事書いてたけど」
 さりげなくそう言った廣川に、香村は驚いて隣を見る。眼鏡越しにあまり高さの変わらない視線が交わった。
「覚えてたのか」
「え? 覚えてるでしょそりゃ。香村の事だぞ?」
 当たり前みたいな顔をして廣川が笑う。英語のスピーチコンテストの練習に付き合って貰っていたのはもう三か月ほど前の事になる。その原稿内容なんて、しかも全て英語で書かれた原稿なんて、彼が覚えているとは思いもしなかった。
 香村の事だぞ、と廣川は言った。彼に面と向かって好きだと言われた夏の暑さを思い出し、香村はじわりと顔が熱くなるのを感じた。
「一応、目標の大学は先生に伝えてある」
「えっ?! 待って待って俺聞いてないんだけど?!」
 突然大きな声を出した廣川に、クラスメイトだけでなく観光客の外国人からも振り返られて香村は慌てて廣川の腕を軽く叩いて静かにしろと促した。静寂の美しい庭で大声を出すなと軽く睨むと廣川は片手で自分の口を覆いながら眉尻を下げる。ごめん、と猫みたいに大きな目が言っているのが良くわかって少し笑った。
「いや、別に廣川君に関係無いでしょ」
「え、ええ……酷い……俺がこんなに香村の事大好きなのに」
 大好きとか言うな、と再び彼の制服に覆われた二の腕を軽く叩くと今度は廣川も目を細めて笑う。なに、と視線をやれば彼はくつくつと我慢できない様子で笑い声をあげた。
「いやあ、慣れてくれないなーって思って。俺が香村の事何回好きって言ったと思ってんの?」
「知らないよ、数えて無いし」
「俺も、数えて無いけど」
 なんだそれ、と内心呆れていれば廣川は尚も楽し気に声を弾ませた。
「数えきれないくらい香村の事好きって言っても、香村はいちいち反応してくれるんだなと思って」
 じわり、と香村は耳まで熱くなってきたことに気づく。からかわれているのだろうか、と彼を見やれば色素の薄い綺麗な二重瞼の目はしっかりと香村を捉え、目が合えばそっと細められて慌てて視線を逸らした。ぞわり、と胸の奥にむず痒さのようなものを感じてしまう。
「まあ、俺が何度好きって言っても香村は返してくれないんだけどさ」
 廣川はそう言うと、今度こそからかうような仕草でニパッと笑って香村にカメラのレンズを向ける。何、と反応する間もなくパシャリとシャッターが切られた音がした。
「こら、学校のカメラで遊ぶんじゃない」
 思わずそう言うと、廣川はくつくつと笑いまるで反省した様子もなく「はーい」と間延びした返事をしてきちんと任されたカメラマンという役目を全うするために他のクラスメイトの方へと歩いて行ってしまった。

――俺が何度好きって言っても香村は返してくれないんだけどさ。

 その言葉が香村の中でフラッシュバックして、つきりと細い針で突かれたように先ほどまでむず痒さを感じていたはずの胸の奥に小さな痛みを生じさせた。
 確かに、それこそあのスピーチコンテストの練習に付き合って貰っていた頃から廣川に何度も好きだと言われている。だが、香村は彼のその言葉にまともな返事をした事が無かった。
 嫌なら嫌だと、止めてくれとはっきりと言うタイプであると香村は自分をそう自己分析している。嫌なものをずっとなあなあにしておくのは好きではないのだ。であるというのに、今自分が彼にしていることこそ全てをなあなあにしているのではないのだろうか。
「わかってるよ、そんなこと」
 思わず口をついて言葉が零れ出る。
 わかっているのだ。彼が本当に真摯に香村健臣という特に取り柄らしい取り柄も無い男を好いてくれているということも、彼がああやって冗談めかしているけれど本心はきっと香村の返事が欲しいと思っているであろうことも、わかっているのだ。
 そして、自分自身廣川七瀬という男を自分の中で特別な位置に置き始めていることも、薄々気づいている。だが、それが恋愛という属性を持つ感情であるのか香村には判断がつかないでいた。
 廣川と初めて言葉を交わしたのは二年生に進級して間もなくのことで、その時から彼は何故か香村を特別視していた。香村は結局、何故彼が自分を好きになったのか決定的な理由を聞けないままでいる。彼からはただ、一目惚れかなと曖昧な事を言われたに過ぎない。それでも、香村は彼が自分へ寄せる想いというものをわからない程鈍感ではない。
 廣川がなぜそんなにも自分を想ってくれているのかはわからないし、きっかけなどあまり重要では無いのかもしれないという結論には至ったものの、彼が本当に香村を好いている事が分かった以上香村は自分の中のこの特別という感情が彼と同じものであるのか、判断を付けられずにいた。
 修学旅行一日目は、その後少しの自由散策の後に京都市内のホテルにチェックインとなった。ホテルの部屋割りは出席番号順でツインルームに二人ずつであり、ホテルのレストランで夕食を食べた後は定められた消灯時間まで自由行動となっている。とはいえ、当然ながらホテルから外出は厳禁である。
 香村と同じ部屋になったのは木嶋という生徒で、香村自身あまり話したことは無かったが部屋に荷物を置いて早々に「僕が同じ部屋でごめんね、廣川君の方が良かったよね」と恐縮されてしまったのがやや納得の行かないところだ。別にそんな事は無いよと返したがその返答が合っていたのかも良く分からなかった。これが、廣川の策士たるところなのだろうか……すっかりクラス内で香村と廣川はセット扱いされてしまっている。
 香村たち修学旅行の一行が宿泊したホテルには大浴場が完備されていて、団体客である生徒たちももちろん入る事が出来る。部屋にユニットバスが付いているので大浴場で裸になる事を厭う生徒はそちらで済ませるようだが、香村はせっかくなら広い大浴場に入りたかった。
 広々とした大浴場に足を踏み入れた瞬間、大きな窓からは京都の夜景が広がり、無数の明かりが静かに輝いていた。当然ラグジュアリーな高級ホテルなどでは無かったが、高校生の香村にとって、こんな贅沢な体験はなかなかあるものでは無かった。
 先に頭と体を洗ってから広い石造りの湯船に入る。少し熱かったが、肩まで深く沈みこむと自然とため息が漏れた。
「あれ、誰かと思ったら香村だ」
 不意に近くから声をかけられて振り返る。眼鏡を外した目にはやや輪郭がぼやけて見えるが、教室で隣の席に座っている中津祐輔(なかつゆうすけ)のようだった。
「中津君?」
「あ、もしかして眼鏡無いとあんま見えない?」
「いや、全然見えないわけじゃないから大丈夫。ちょっとぼやっとしてるだけ」
 彼は友人たちと一緒に入りに来ていたようで、少し離れた場所には数人がわいわいと楽し気に話をしている。湯船の端にいる彼らの顔までは、近眼の香村には認識出来なかった。
「残念ながら廣川はいないよ」
「え?」
「今、探してたんじゃない?」
 そう言う中津の表情はなんとなく意地悪く笑っているように見えて、香村は湯船の端の団体から視線を逸らした。別に、彼らの中に廣川がいるだろうかと探していたわけではないのだ。本当に。
「はは、そんな嫌そうな顔しないでよ~」
「……してないよ。良く見えないから眉間に皺が寄っちゃうだけ」
「あーなるほど。近眼?」
 こくり、と頷く。そういえば彼の前で眼鏡を外したことは、レンズを掃除するほんの短時間くらいしか無い事を思い出した。彼の前で、というより家族以外の他人の前で眼鏡を外す習慣は香村には無い。
「廣川君に、あまり人前で眼鏡外すなって言われたけど……そもそもコンタクトも持ってないから外す機会なんてそうそう無いと思うんだよね」
 そろそろ熱くなってきたな、と思いつつ香村がそう言うと、中津は今度は本格的に噴き出すように笑った。
「凄いなあ廣川は。それってめちゃくちゃ独占欲じゃない?」
「……独占される謂われは無いんだけど」
 独占欲、なのだろうか。香村は彼に言われて初めて、それが廣川の独占欲から溢れ出した言葉であった可能性に気づいた。

 風呂から上がり、持って来ていた学校指定のジャージに着替えると大浴場の扉を出たところに自販機と休憩スペースがある事に気づいた。香村は冷えた緑茶の缶を買い、ベンチに腰掛けて一休みすることにした。温泉ではないようだが、大きな大浴場にテンションが上がってしまい少し長く浸かりすぎたせいか体が熱い。
「あら、こんなところで何してるの?」
 不意に聞きなれた声がして、香村は顔を上げる。眼鏡をかけているので今度はすぐに声の主が判別出来た。
「六花、風呂入ったのか」
「うん、少し早く出たからみんなを待とうかと思って」
 隣のクラスである二年A組の吉野六花(よしのりっか)とは家が近い事もあり物心ついた頃から付き合いのある幼馴染だ。高校まで一緒になるとは思っていなかったが、彼女曰く家から近いからという理由で高校を決めたらしい。なんというか、見た目に反してさっぱりと現実的な女性なのだ。
 吉野は黒くまっすぐな髪を背中まで伸ばし、やや切れ長の目といつも笑みを含んでいるかのような赤い唇、驚くほど白い肌と、例えるならば日本人形めいたところのある美人だ。赤ん坊のころから付き合いのある香村にしてみれば、彼女の美醜など殆ど気にした事は無かった。
「私、オレンジジュースね」
「……なんで俺が奢る前提みたいに言ってんの?」
「お財布は部屋に置いてきたのよ。ここの自販機、これじゃ買えないみたいだから」
 殆ど答えになっていない事を当然のように言いながら、吉野は赤い手帳型のケースに入ったスマートフォンを振ってみせる。確かにここの自販機はスマートフォンでの決済には対応していないようだった。
 昔から彼女には弱い自覚のある香村は大げさな溜息をつきながら、仕舞ったばかりの財布をジャージのポケットから取り出して自販機に小銭を投入する。こういう場所の自販機は高い。
 オレンジジュースをゲットした吉野は満足そうにありがとうと言って受け取り、香村の隣に腰掛けた。湯上りの彼女は体育祭の時に作ったクラスTシャツに学校指定のジャージのズボンという姿で、ドライヤーで乾かしたばかりであろう長い髪からふわりとシャンプーの香りが漂って来た。
「修学旅行って、どうして告白しようって子が増えるんだろうね」
 小さなペットボトルのオレンジジュースに口を付けながら、吉野は唐突に言う。彼女の場合、こうやって唐突な話題を口にすることが多いので香村はそのマイペースさには慣れていた。
「また告白されたのか」
「そう、自由散策の時に呼び出されて。一言も喋った事が無いC組の子」
 美人な彼女はよく告白されるらしい。今年に入って、これで何度目だろうか。モテて良いなと思った事もあったが、純粋な恋愛感情だけでなく邪な視線に晒される事も多いと中学生の頃に気づかされたので素直に大変だなと思った。何かあればすぐに言えよと格好つけてみたところで、小学生の頃から合気道を習っている彼女の方が香村よりずっと強いだろう。
「誰かと付き合ってみるとか、やってみないのか?」
 吉野六花がとにかくモテるということは香村が一番知っているが、彼女が誰かと交際を始めたという話はこれまで聞いた事が無い。もちろん何もかもを曝け出して隠し事など無い、なんて関係性では無いので香村の預かり知らぬところでそういった相手はいたのかもしれないが。
「無いかなあ。私、恋愛感情とかよくわからないのよ。そういった話は嫌いじゃないけど、自分が誰かと、とか全然ピンとこない」
 吉野は大したことではない、という様子で綺麗にヌードカラーに塗られた艶やかな爪を見下ろしながら興味無さげな声を発する。
「へえ……お前はてっきり女の子の方が好きなのかと思ってた。全然男と付き合わないから」
「それは考え方が短絡的過ぎ」
「……確かに。ごめん」
 良いけど、と言って彼女は美しく笑う。恋愛に興味が持てない、と言うのならますますモテてしまうのは苦痛なのではないかと思ったが、そう問えば彼女は楽し気に笑った。
「変な人に絡まれるのは嫌だけど、モテる自分の事案外嫌いじゃないから」
「ちやほやされるのが好きってことか」
「うーん、それも無いとは言わないけど、私の外側だけを見て恋愛感情を抱く人の心理が分からないから面白い」
 なんともマッドなサイエンティストのような言い方に香村は思わず笑ってしまう。外側だけを見て恋愛感情を抱く人の心理……それは香村にもよくわからない。もちろん外見に対する美醜の価値観は人それぞれであるし、美しいとされる人の方が好感度が高くなることも理解は出来るがそれが恋愛感情へ結び付けられることは今までの香村の人生の中で経験は無かった。
 思えば、廣川は香村を好きになった理由を一目惚れみたいなものと言った。それが本当の事なのかは分からないが彼はよく香村の見た目を褒める。自分はたまたま彼にとって好みの外見をしていたのだろうか、と考えたところで一年生の頃は榊原奈美と交際していたことを思い出し、それは無いなと首を横に振った。
「今、何を考えてたのか当ててあげましょうか」
 はたと顔を上げた香村は、切れ長で真っ黒な吉野と目が合った。彼女が香村を覗き込んできていたのだ。思わずごくりと唾を飲み込む。
「廣川君の事、でしょ?」
 長い睫毛に縁どられた瞳がにんまりと絵本の中のチェシャネコのように弧を描いた。じわり、と耳が熱くなってきた気がしてたまらず彼女の特徴的な瞳から目を逸らす。
「違うよ」
「ふふ……健臣は嘘をつく時すぐに目を逸らすからバレバレ」
「っ……本当に、そういうのじゃなくて」
――ああ、せっかくの修学旅行だというのにどうしてみんな廣川君の話をするんだ。
 なんだかとても理不尽な目に遭っているような気がしてならなかった。
 修学旅行二日目は嵐山の渡月橋などの観光名所を巡った後に伏見稲荷大社へ向かった。
 伏見稲荷大社は数々の写真で見たことがあったが、実際に目の前に広がるその朱塗りの鳥居が連なる参道の光景は、想像をはるかに超えていた。
「これが千本鳥居か……なんか、ちょっと怖いかも」
 スマートフォンでパシャリと写真を撮った香村の隣で廣川が感嘆の声を上げる。これほどの数の鳥居を纏めて見たのは香村も初めてで、どことなく霊的な、神秘的なものをイメージしてしまうのも致し方ないと思えた。その朱色の鳥居の列は長く長く続いており、まるで出口など無いのではないかと錯覚させられるほどだ。鳥居の隙間から洩れる陽の光が筋状に地面に伸びていて、それがまた不思議と神聖な雰囲気を演出しているようだった。
「うん、怖い……っていうのはちょっとわかるかも」
 稲荷といえば狐が神の使いとして知られている。どこかからひょっこりと尾のたくさん生えた狐が顔を出して人ならざる者の世界へと誘ってもおかしくないと感じてしまう。
「しかも……なんか、だんだん道が、きつくなってきた」
 朱色の鳥居が延々と続く参道は徐々に険しさを増していく。随分高いところに本殿があるのだな、と改めて思い知らされた。
「運動あんまり得意じゃないもんなー香村は」
 他の生徒たちがどんどん先へ行く中で、廣川は香村の隣をゆっくりと歩いて付き合ってくれていた。それが少し申し訳ない。
「山登りが、趣味って人の……気が知れない」
 じんわりと汗をかきながら文句を言えば、廣川は少し驚いた様子で香村を見た後可笑しそうにくつくつと笑った。
「香村もそういう事言うんだ」
「文句くらい言うよ。俺は別に聖人君子でも何でも無いんだから」
 廣川が香村に対しどのようなイメージを持っているのか知らないが、文句のひとつも言わない良い子ちゃんだと思われていては困る。
――いや、別に俺が困る事は無いのか?
 彼に何と思われようと自分には関係の無い事だ。今までずっとそう思っていたし、これからもそうであるはずなのに。
「せいじん、くうし?」
 廣川のふわふわとした声に思わず脚を止めて隣を歩く彼を見る。身長は殆ど変わらないのですぐに視線はかち合って、彼は真顔で首を傾げた。
「……聖人君子。人徳や優れた教養を身に着けた、理想的な人物ってこと」
「つまり……香村みたいな人?」
「いや、だから俺は別にそんなに理想的な人間じゃないって」
 わかってないな、と思いつつ更に説明しようと口を開くが、廣川はにこりと笑って首を横に振った。
「良いの、香村がどう思おうと俺にとっては香村がそうってだけだから」
 何の迷いも無くそう言われ、香村はそれ以上何も言う事が出来なかった。

 午後からは京都駅からJR線で奈良へ移動となり、東大寺へと向かった。その巨大な南大門を通り抜けると、目の前に現れた大仏殿の壮大さに思わず息を飲んでしまう。木造建築の迫力と歴史の重みを感じつつ大仏殿の中へ入っていけば、そこには、荘厳な雰囲気を漂わせる大仏が鎮座していた。高さ約十五メートルのその姿は香村の想像をはるかに超えており、ただただ圧倒されるばかりだった。
「でかいな……」
 思わず間の抜けた感想が口から洩れてしまう。他のクラスメイト達も東大寺にある奈良の大仏のことは勿論知っていたはずだが、想像をはるかに超えた大きさに驚いているようだった。
 廣川はこの日も学校新聞のカメラマンとして忙しなく生徒たちや大仏殿をカメラに収めて回っていた。学校が雇った専属のカメラマンもついて回っており、卒業アルバムなどに収められる写真はそちらの写真になるのだろうが、廣川は元来が真面目な性格なのか、はたまた個人的に楽しくなっているのか、積極的に生徒たちにカメラを向けているのがわかる。
 ガイドから説明を聞きながら大仏を見て回った後は鹿がたくさんいることで有名な奈良公園を散策する。やはりここも日本人だけでなく外国人の観光客もとても多いが、それに加えて思った以上に鹿がいたるところに自由に歩き回ったり横になったりしていた。
「鹿、こえー!」
 カメラを構えたまま廣川が鹿に囲まれていた。そんな彼を面白がって撮影する為にクラスメイトたちがスマートフォンを掲げて鹿の周りを更に取り囲んでいるのがわかる。
「廣川、鹿せんべいやってみろよ」
「うわ、やめろ来るな来るな! 鹿せんべい持ってたらもっと囲まれるだろうが!」
「えー鹿可愛いじゃん」
 きゃあきゃあとはしゃいでいる一団から少し離れた場所で香村は購入した鹿せんべいを集まった鹿たちに与えてみる。人を全く怖がる様子は無く、鼻先をひくひくとさせながら近づけて香村の手からせいべいを咥えてむしゃむしゃと食べる鹿の様子は何だか無心で見ていられる気がした。こういう動画があったらきっと一日中飽きずに見てしまうかもしれない。
「あ、香村ー! 助けてー!」
 鹿とクラスメイトたちに囲まれていた廣川が香村に気づいたようで腕を大きく振って輪の中心から助けを求めてきた。皆の視線が一斉に香村へと集まって来て、なんだか少し腰が引けてしまいそうになる。
 そんな時、誰かが言った。

「おっ、出たよ廣川のカレシじゃん」

 あまり良くない響きの笑みを含んだその声に、香村は思わず開きかけていた口を閉じた。
 タイミングもあったのだろう、その声は当然香村だけでなくその場にいた多くの生徒たちに聞こえていたようだ。B組以外のクラスの生徒も皆声の方へと顔を向け、その後に香村へと視線を移してくるのがわかる。
「ちょっとやめなよそういうの」
「え、何でだよ。だってお前ら付き合ってんでしょ?」
「多様性の時代だもんな、多様性」
「やめろって」
「なになに、どっちがオンナ役するわけ?」
「グロ~聞きたくね~」
 ざわざわとした声が重なって行くのがわかる。
 誰かが止めようとしているのもわかるが、それ以上に悪意にも満たないような、軽口程度の言葉たちが重なり合って聞こえてくるようだった。
 香村は輪の中心にいた廣川を見た。彼は普段の明るい笑顔を忘れたかのように顔色を無くし、ショックを受けたように立ち竦んでいるのがわかる。男子生徒に強く肩を叩かれてビクリと体を震わせた廣川は勢い良くその手を振り払い、しかしすぐに取り繕うように笑って話題を変えようとしている。
 馬鹿馬鹿しい。香村はそう思った。どうして皆、人の恋愛に口を出したがるのか理解が出来ない。口を出すだけならまだしも、それをエンタメのように軽く扱ってしまえることが不思議でならない。
 普段であればそんな言葉は軽く無視していただろう。誰が何を言ったところでああいう連中はすぐに考えを改めたりはしないのだろうから。しかし、香村はその軽い言葉に一気に頭の芯が沸騰するような激しい衝動に襲われた。

「悪いけど、面白くないよ、そういうの」

 香村が発したその言葉は、大勢の観光客や鹿たちがいる中であっても不思議と良く通った。
 まさか反論があると思わなかったのだろう、酷い言葉を凶器とも気づかず軽い口調で放った男子生徒が驚いた様子で香村を見る。香村はまっすぐに彼と、彼に便乗して酷い言葉を口にした生徒たちを見やる。
「白けさせて悪いけど、俺はそういう話を笑って言うのはどうかと思う」
 時間にすれば一瞬の出来事だった。ああ、やってしまったかもしれない。そう思いはしたが自分の事を好きだと言ってくれた廣川があんな風に笑われるのは、どうしても我慢ならなかったのだ。
 彼らに背を向けると、水を打ったように静まり返ってしまった奈良公園の一角はすぐに「なにあれ」「ウザ、真面目かよ」などといった言葉が聞こえてきたが、香村は一度も振り返ることなくバスの待つ駐車場へと歩いていった。