修学旅行一日目は、その後少しの自由散策の後に京都市内のホテルにチェックインとなった。ホテルの部屋割りは出席番号順でツインルームに二人ずつであり、ホテルのレストランで夕食を食べた後は定められた消灯時間まで自由行動となっている。とはいえ、当然ながらホテルから外出は厳禁である。
香村と同じ部屋になったのは木嶋という生徒で、香村自身あまり話したことは無かったが部屋に荷物を置いて早々に「僕が同じ部屋でごめんね、廣川君の方が良かったよね」と恐縮されてしまったのがやや納得の行かないところだ。別にそんな事は無いよと返したがその返答が合っていたのかも良く分からなかった。これが、廣川の策士たるところなのだろうか……すっかりクラス内で香村と廣川はセット扱いされてしまっている。
香村たち修学旅行の一行が宿泊したホテルには大浴場が完備されていて、団体客である生徒たちももちろん入る事が出来る。部屋にユニットバスが付いているので大浴場で裸になる事を厭う生徒はそちらで済ませるようだが、香村はせっかくなら広い大浴場に入りたかった。
広々とした大浴場に足を踏み入れた瞬間、大きな窓からは京都の夜景が広がり、無数の明かりが静かに輝いていた。当然ラグジュアリーな高級ホテルなどでは無かったが、高校生の香村にとって、こんな贅沢な体験はなかなかあるものでは無かった。
先に頭と体を洗ってから広い石造りの湯船に入る。少し熱かったが、肩まで深く沈みこむと自然とため息が漏れた。
「あれ、誰かと思ったら香村だ」
不意に近くから声をかけられて振り返る。眼鏡を外した目にはやや輪郭がぼやけて見えるが、教室で隣の席に座っている中津祐輔のようだった。
「中津君?」
「あ、もしかして眼鏡無いとあんま見えない?」
「いや、全然見えないわけじゃないから大丈夫。ちょっとぼやっとしてるだけ」
彼は友人たちと一緒に入りに来ていたようで、少し離れた場所には数人がわいわいと楽し気に話をしている。湯船の端にいる彼らの顔までは、近眼の香村には認識出来なかった。
「残念ながら廣川はいないよ」
「え?」
「今、探してたんじゃない?」
そう言う中津の表情はなんとなく意地悪く笑っているように見えて、香村は湯船の端の団体から視線を逸らした。別に、彼らの中に廣川がいるだろうかと探していたわけではないのだ。本当に。
「はは、そんな嫌そうな顔しないでよ~」
「……してないよ。良く見えないから眉間に皺が寄っちゃうだけ」
「あーなるほど。近眼?」
こくり、と頷く。そういえば彼の前で眼鏡を外したことは、レンズを掃除するほんの短時間くらいしか無い事を思い出した。彼の前で、というより家族以外の他人の前で眼鏡を外す習慣は香村には無い。
「廣川君に、あまり人前で眼鏡外すなって言われたけど……そもそもコンタクトも持ってないから外す機会なんてそうそう無いと思うんだよね」
そろそろ熱くなってきたな、と思いつつ香村がそう言うと、中津は今度は本格的に噴き出すように笑った。
「凄いなあ廣川は。それってめちゃくちゃ独占欲じゃない?」
「……独占される謂われは無いんだけど」
独占欲、なのだろうか。香村は彼に言われて初めて、それが廣川の独占欲から溢れ出した言葉であった可能性に気づいた。
風呂から上がり、持って来ていた学校指定のジャージに着替えると大浴場の扉を出たところに自販機と休憩スペースがある事に気づいた。香村は冷えた緑茶の缶を買い、ベンチに腰掛けて一休みすることにした。温泉ではないようだが、大きな大浴場にテンションが上がってしまい少し長く浸かりすぎたせいか体が熱い。
「あら、こんなところで何してるの?」
不意に聞きなれた声がして、香村は顔を上げる。眼鏡をかけているので今度はすぐに声の主が判別出来た。
「六花、風呂入ったのか」
「うん、少し早く出たからみんなを待とうかと思って」
隣のクラスである二年A組の吉野六花とは家が近い事もあり物心ついた頃から付き合いのある幼馴染だ。高校まで一緒になるとは思っていなかったが、彼女曰く家から近いからという理由で高校を決めたらしい。なんというか、見た目に反してさっぱりと現実的な女性なのだ。
吉野は黒くまっすぐな髪を背中まで伸ばし、やや切れ長の目といつも笑みを含んでいるかのような赤い唇、驚くほど白い肌と、例えるならば日本人形めいたところのある美人だ。赤ん坊のころから付き合いのある香村にしてみれば、彼女の美醜など殆ど気にした事は無かった。
「私、オレンジジュースね」
「……なんで俺が奢る前提みたいに言ってんの?」
「お財布は部屋に置いてきたのよ。ここの自販機、これじゃ買えないみたいだから」
殆ど答えになっていない事を当然のように言いながら、吉野は赤い手帳型のケースに入ったスマートフォンを振ってみせる。確かにここの自販機はスマートフォンでの決済には対応していないようだった。
昔から彼女には弱い自覚のある香村は大げさな溜息をつきながら、仕舞ったばかりの財布をジャージのポケットから取り出して自販機に小銭を投入する。こういう場所の自販機は高い。
オレンジジュースをゲットした吉野は満足そうにありがとうと言って受け取り、香村の隣に腰掛けた。湯上りの彼女は体育祭の時に作ったクラスTシャツに学校指定のジャージのズボンという姿で、ドライヤーで乾かしたばかりであろう長い髪からふわりとシャンプーの香りが漂って来た。
「修学旅行って、どうして告白しようって子が増えるんだろうね」
小さなペットボトルのオレンジジュースに口を付けながら、吉野は唐突に言う。彼女の場合、こうやって唐突な話題を口にすることが多いので香村はそのマイペースさには慣れていた。
「また告白されたのか」
「そう、自由散策の時に呼び出されて。一言も喋った事が無いC組の子」
美人な彼女はよく告白されるらしい。今年に入って、これで何度目だろうか。モテて良いなと思った事もあったが、純粋な恋愛感情だけでなく邪な視線に晒される事も多いと中学生の頃に気づかされたので素直に大変だなと思った。何かあればすぐに言えよと格好つけてみたところで、小学生の頃から合気道を習っている彼女の方が香村よりずっと強いだろう。
「誰かと付き合ってみるとか、やってみないのか?」
吉野六花がとにかくモテるということは香村が一番知っているが、彼女が誰かと交際を始めたという話はこれまで聞いた事が無い。もちろん何もかもを曝け出して隠し事など無い、なんて関係性では無いので香村の預かり知らぬところでそういった相手はいたのかもしれないが。
「無いかなあ。私、恋愛感情とかよくわからないのよ。そういった話は嫌いじゃないけど、自分が誰かと、とか全然ピンとこない」
吉野は大したことではない、という様子で綺麗にヌードカラーに塗られた艶やかな爪を見下ろしながら興味無さげな声を発する。
「へえ……お前はてっきり女の子の方が好きなのかと思ってた。全然男と付き合わないから」
「それは考え方が短絡的過ぎ」
「……確かに。ごめん」
良いけど、と言って彼女は美しく笑う。恋愛に興味が持てない、と言うのならますますモテてしまうのは苦痛なのではないかと思ったが、そう問えば彼女は楽し気に笑った。
「変な人に絡まれるのは嫌だけど、モテる自分の事案外嫌いじゃないから」
「ちやほやされるのが好きってことか」
「うーん、それも無いとは言わないけど、私の外側だけを見て恋愛感情を抱く人の心理が分からないから面白い」
なんともマッドなサイエンティストのような言い方に香村は思わず笑ってしまう。外側だけを見て恋愛感情を抱く人の心理……それは香村にもよくわからない。もちろん外見に対する美醜の価値観は人それぞれであるし、美しいとされる人の方が好感度が高くなることも理解は出来るがそれが恋愛感情へ結び付けられることは今までの香村の人生の中で経験は無かった。
思えば、廣川は香村を好きになった理由を一目惚れみたいなものと言った。それが本当の事なのかは分からないが彼はよく香村の見た目を褒める。自分はたまたま彼にとって好みの外見をしていたのだろうか、と考えたところで一年生の頃は榊原奈美と交際していたことを思い出し、それは無いなと首を横に振った。
「今、何を考えてたのか当ててあげましょうか」
はたと顔を上げた香村は、切れ長で真っ黒な吉野と目が合った。彼女が香村を覗き込んできていたのだ。思わずごくりと唾を飲み込む。
「廣川君の事、でしょ?」
長い睫毛に縁どられた瞳がにんまりと絵本の中のチェシャネコのように弧を描いた。じわり、と耳が熱くなってきた気がしてたまらず彼女の特徴的な瞳から目を逸らす。
「違うよ」
「ふふ……健臣は嘘をつく時すぐに目を逸らすからバレバレ」
「っ……本当に、そういうのじゃなくて」
――ああ、せっかくの修学旅行だというのにどうしてみんな廣川君の話をするんだ。
なんだかとても理不尽な目に遭っているような気がしてならなかった。
修学旅行二日目は嵐山の渡月橋などの観光名所を巡った後に伏見稲荷大社へ向かった。
伏見稲荷大社は数々の写真で見たことがあったが、実際に目の前に広がるその朱塗りの鳥居が連なる参道の光景は、想像をはるかに超えていた。
「これが千本鳥居か……なんか、ちょっと怖いかも」
スマートフォンでパシャリと写真を撮った香村の隣で廣川が感嘆の声を上げる。これほどの数の鳥居を纏めて見たのは香村も初めてで、どことなく霊的な、神秘的なものをイメージしてしまうのも致し方ないと思えた。その朱色の鳥居の列は長く長く続いており、まるで出口など無いのではないかと錯覚させられるほどだ。鳥居の隙間から洩れる陽の光が筋状に地面に伸びていて、それがまた不思議と神聖な雰囲気を演出しているようだった。
「うん、怖い……っていうのはちょっとわかるかも」
稲荷といえば狐が神の使いとして知られている。どこかからひょっこりと尾のたくさん生えた狐が顔を出して人ならざる者の世界へと誘ってもおかしくないと感じてしまう。
「しかも……なんか、だんだん道が、きつくなってきた」
朱色の鳥居が延々と続く参道は徐々に険しさを増していく。随分高いところに本殿があるのだな、と改めて思い知らされた。
「運動あんまり得意じゃないもんなー香村は」
他の生徒たちがどんどん先へ行く中で、廣川は香村の隣をゆっくりと歩いて付き合ってくれていた。それが少し申し訳ない。
「山登りが、趣味って人の……気が知れない」
じんわりと汗をかきながら文句を言えば、廣川は少し驚いた様子で香村を見た後可笑しそうにくつくつと笑った。
「香村もそういう事言うんだ」
「文句くらい言うよ。俺は別に聖人君子でも何でも無いんだから」
廣川が香村に対しどのようなイメージを持っているのか知らないが、文句のひとつも言わない良い子ちゃんだと思われていては困る。
――いや、別に俺が困る事は無いのか?
彼に何と思われようと自分には関係の無い事だ。今までずっとそう思っていたし、これからもそうであるはずなのに。
「せいじん、くうし?」
廣川のふわふわとした声に思わず脚を止めて隣を歩く彼を見る。身長は殆ど変わらないのですぐに視線はかち合って、彼は真顔で首を傾げた。
「……聖人君子。人徳や優れた教養を身に着けた、理想的な人物ってこと」
「つまり……香村みたいな人?」
「いや、だから俺は別にそんなに理想的な人間じゃないって」
わかってないな、と思いつつ更に説明しようと口を開くが、廣川はにこりと笑って首を横に振った。
「良いの、香村がどう思おうと俺にとっては香村がそうってだけだから」
何の迷いも無くそう言われ、香村はそれ以上何も言う事が出来なかった。
午後からは京都駅からJR線で奈良へ移動となり、東大寺へと向かった。その巨大な南大門を通り抜けると、目の前に現れた大仏殿の壮大さに思わず息を飲んでしまう。木造建築の迫力と歴史の重みを感じつつ大仏殿の中へ入っていけば、そこには、荘厳な雰囲気を漂わせる大仏が鎮座していた。高さ約十五メートルのその姿は香村の想像をはるかに超えており、ただただ圧倒されるばかりだった。
「でかいな……」
思わず間の抜けた感想が口から洩れてしまう。他のクラスメイト達も東大寺にある奈良の大仏のことは勿論知っていたはずだが、想像をはるかに超えた大きさに驚いているようだった。
廣川はこの日も学校新聞のカメラマンとして忙しなく生徒たちや大仏殿をカメラに収めて回っていた。学校が雇った専属のカメラマンもついて回っており、卒業アルバムなどに収められる写真はそちらの写真になるのだろうが、廣川は元来が真面目な性格なのか、はたまた個人的に楽しくなっているのか、積極的に生徒たちにカメラを向けているのがわかる。
ガイドから説明を聞きながら大仏を見て回った後は鹿がたくさんいることで有名な奈良公園を散策する。やはりここも日本人だけでなく外国人の観光客もとても多いが、それに加えて思った以上に鹿がいたるところに自由に歩き回ったり横になったりしていた。
「鹿、こえー!」
カメラを構えたまま廣川が鹿に囲まれていた。そんな彼を面白がって撮影する為にクラスメイトたちがスマートフォンを掲げて鹿の周りを更に取り囲んでいるのがわかる。
「廣川、鹿せんべいやってみろよ」
「うわ、やめろ来るな来るな! 鹿せんべい持ってたらもっと囲まれるだろうが!」
「えー鹿可愛いじゃん」
きゃあきゃあとはしゃいでいる一団から少し離れた場所で香村は購入した鹿せんべいを集まった鹿たちに与えてみる。人を全く怖がる様子は無く、鼻先をひくひくとさせながら近づけて香村の手からせいべいを咥えてむしゃむしゃと食べる鹿の様子は何だか無心で見ていられる気がした。こういう動画があったらきっと一日中飽きずに見てしまうかもしれない。
「あ、香村ー! 助けてー!」
鹿とクラスメイトたちに囲まれていた廣川が香村に気づいたようで腕を大きく振って輪の中心から助けを求めてきた。皆の視線が一斉に香村へと集まって来て、なんだか少し腰が引けてしまいそうになる。
そんな時、誰かが言った。
「おっ、出たよ廣川のカレシじゃん」
あまり良くない響きの笑みを含んだその声に、香村は思わず開きかけていた口を閉じた。
タイミングもあったのだろう、その声は当然香村だけでなくその場にいた多くの生徒たちに聞こえていたようだ。B組以外のクラスの生徒も皆声の方へと顔を向け、その後に香村へと視線を移してくるのがわかる。
「ちょっとやめなよそういうの」
「え、何でだよ。だってお前ら付き合ってんでしょ?」
「多様性の時代だもんな、多様性」
「やめろって」
「なになに、どっちがオンナ役するわけ?」
「グロ~聞きたくね~」
ざわざわとした声が重なって行くのがわかる。
誰かが止めようとしているのもわかるが、それ以上に悪意にも満たないような、軽口程度の言葉たちが重なり合って聞こえてくるようだった。
香村は輪の中心にいた廣川を見た。彼は普段の明るい笑顔を忘れたかのように顔色を無くし、ショックを受けたように立ち竦んでいるのがわかる。男子生徒に強く肩を叩かれてビクリと体を震わせた廣川は勢い良くその手を振り払い、しかしすぐに取り繕うように笑って話題を変えようとしている。
馬鹿馬鹿しい。香村はそう思った。どうして皆、人の恋愛に口を出したがるのか理解が出来ない。口を出すだけならまだしも、それをエンタメのように軽く扱ってしまえることが不思議でならない。
普段であればそんな言葉は軽く無視していただろう。誰が何を言ったところでああいう連中はすぐに考えを改めたりはしないのだろうから。しかし、香村はその軽い言葉に一気に頭の芯が沸騰するような激しい衝動に襲われた。
「悪いけど、面白くないよ、そういうの」
香村が発したその言葉は、大勢の観光客や鹿たちがいる中であっても不思議と良く通った。
まさか反論があると思わなかったのだろう、酷い言葉を凶器とも気づかず軽い口調で放った男子生徒が驚いた様子で香村を見る。香村はまっすぐに彼と、彼に便乗して酷い言葉を口にした生徒たちを見やる。
「白けさせて悪いけど、俺はそういう話を笑って言うのはどうかと思う」
時間にすれば一瞬の出来事だった。ああ、やってしまったかもしれない。そう思いはしたが自分の事を好きだと言ってくれた廣川があんな風に笑われるのは、どうしても我慢ならなかったのだ。
彼らに背を向けると、水を打ったように静まり返ってしまった奈良公園の一角はすぐに「なにあれ」「ウザ、真面目かよ」などといった言葉が聞こえてきたが、香村は一度も振り返ることなくバスの待つ駐車場へと歩いていった。
奈良市内のホテルが今夜の宿だ。
京都のホテルより和モダンな館内はロビーに小さな太鼓橋があったりと凝った内装となっていた。
今夜も部屋割りは京都のホテルと同じで、ルームキーを一枚ずつ預かってツインルームへと移動する。荷物を置いてホテルのレストランで本格的な懐石料理をいただく。食べ慣れない料理がたくさんあったが、どれも美味しかった。
食事を終えて部屋へ戻ろうとしていた香村を呼び止める声があった。それは三年C組のクラス委員として香村と面識のある、福田という女子生徒だった。
「あの、突然ごめんね。実は香村くんに聞いて欲しい話があって」
福田という少女は緩いくせ毛の髪を胸元でしきりに弄りながら視線を彷徨わせている。
ホテルの中庭は小さな日本庭園のようになっていた。石灯籠や小さいながらも池があり、錦鯉が何匹か泳いでいるのがわかる。すっかり陽が落ちているが空はまだ薄藍色に夕陽の名残りのオレンジが混ざっていて、ライトアップの為の足元の明かりがついているがしっかりと互いの表情を伺う事の出来る明るさだった。
「いや、構わないけど。どうしたの」
クラス委員として何か相談だろうか、と思ったがそんな話をわざわざ修学旅行中にしてくるとも思えない。
「えっと……実は、夕方の奈良公園で香村君がうちのクラスの男子と揉めてるのを見て」
ああ、と香村は納得した。数時間前の奈良公園で思わず大きな声を出してしまったが、廣川を揶揄っていたのはC組の男子生徒だったようだ。どおりであまり見覚えが無いと思った。
「あれはごめん、あんな場所で大きな声を出すべきじゃ無かった」
他の観光客も大勢いる場所でとってしまった行動に香村は素直に反省の意を示した。言った言葉に後悔は無いがもう少し場所を選ぶべきだったのかもしれない。
「違うの、別に責めているわけじゃなくて……むしろうちのクラスの男子が失礼な事言ったみたいだから怒って当然」
てっきりあの時の行動に対する抗議かと思ったが、そうでは無いらしい。それでは何だろうと彼女の言葉を待っていると、福田は大きく息を吸い込んでから意を決した様子で香村と向き合った。
「違ったらごめん。香村君が、困ってるんじゃないかと思って」
「……え?」
予想外の言葉に香村は面食らった。
「同じクラスじゃないけど、廣川君の噂はよく聞いていて……こう、廣川君と香村君はデキ……ちがう、付き合ってるんじゃないかって。そういうので迷惑してるんじゃないかなって」
デキてるって言いかけたな、と香村は冷静にそんなことを思う。しかし、奈良公園での一件も含めて廣川の言動が他のクラスにまで派生しているとは思わなかった。
「私は全然そういうの、偏見は無いの。無いんだけどそんな噂が広がったりしたらきっと迷惑だよね。だって香村君は全然そういうタイプじゃないでしょ?」
「タイプ?」
「うん、ほら、A組の吉野さんとも仲良いし。男の子が好きって感じじゃ無さそうだから。本当に偏見とか全然無いんだけど、香村君がそっち側の人って思われたら可哀想だなって」
もやっ……と香村は自分の胸の中に嫌な感情が生じるのを感じた。
「それで、その……もし良かったらなんだけど、私と」
「ごめん、福田さんが何を言いたいのか良く分からない」
俯いてスカートの裾を何度も直しながら言葉を紡ぐ福田の言葉を、香村は思わず遮っていた。先ほどから聞いていれば迷惑をしているだの、そういうタイプじゃないだの……挙句、そっち側の人とは。さすがにこれ以上彼女の言葉を聞く気にはなれなかったのだ。怒らせたいのだろうか。
言葉を遮られた福田は驚いたように顔を上げる。そして、顔を真っ赤にさせたかと思うとみるみる大きな両の目に涙が溜まって行くのが見えて、香村は思わず固まってしまった。
「ご、ごめんね。私、あの……あなたの、香村君の事が、好きなの」
「……え」
好きなの?! と、香村は内心激しく動揺した。じゃあ今までの話は何だったのだ、怒らせたかったわけではないのか。
彼女は今にも泣きだしそうなほど目にいっぱいの涙を溜めて香村をじっと見上げる。どうやら香村の返事を待っているようだ。このまま返事を聞かずに解放してはくれないらしい。
「え、と……福田さんの気持ちは、嬉しい。福田さんは、俺の何が好きなの?」
今度は福田の方が驚く番だったらしい。そのように返されると思ってもみなかったのだろう、大きな目をぱちぱちと瞬かせてから真っ赤な顔を更に耳まで赤く染め、忙しなく視線を彷徨わせる。
「なに、って……あ、頭が良くて、優しいところ、とか」
消え入りそうなほどか細い声でそう告げてくれる彼女は可愛らしい女の子だと香村は思う。だが、香村は口を開かずにはいられなかった。
「ごめん……俺は福田さんが思うほど賢くも優しくも無い。俺は廣川君の事、ああいう言い方をした福田さんとは付き合えない」
びくりと福田が肩を揺らして顔を上げる。真っ赤になっていた顔がみるみる赤みを失ってゆくのを見ながら、泣かせてしまうかもしれないと思った。泣かせてしまうようなことは言うべきではないと頭ではわかっているのに止められない。
「俺は、別に廣川君とは付き合ってない。でも、君が言うようなあっち側とかこっち側とか、どういうタイプとか、廣川君はそんな風に俺を見ないし、たぶん……俺よりずっと、ずっと優しい」
ほろり、と福田の頬に涙が伝った。ああ、やっぱり泣かせてしまった。言い過ぎだ。香村は更に言葉を紡ごうとした口を無理矢理閉じた。自分を好きだと言ってくれた女の子を傷つけるべきじゃない。それでも、だったら尚更、誰も廣川のことを傷つけて良い筈がない。
「……ごめん、言い過ぎた」
絞り出すようにそれだけ言えば、福田はぐすりと鼻を啜ってから首を横に振る。
「私の方こそ……嫌な事言って、ごめんなさい」
涙混じりにそう言って、彼女は香村に背を向けると小走りにホテルの中へと帰っていった。
「立ち聞きはどうかと思うんだけど」
庭の低木の影へ香村が声をかけると、がさりと小枝が音を立てて揺れた。福田が話し始めた頃からそこに誰かがいるなという予想はついていて、時折覗く明るい色の髪が誰のものであるか何となく察しはついていた。
地面に座り込んでいたのだろう。立ち上がり低木の影から出て来た廣川は制服のズボンを軽く払ってから気まずげな視線を香村に向ける。いつの間にか空はすっかり暗さを増し、オレンジ色は紺色へと色を変えていた。
修学旅行二日目、奈良のホテルの中庭はすっかり夜の気配が濃くなっていて、遊歩道を橙色の明かりが足元から照らししっとりと雰囲気のある景色になっている。庭に出ている宿泊客は他にいないようで、十月の少しひんやりとした風が心地よく吹きわたっていた。
「ごめん、その……立ち聞きしようと思ってたわけじゃなくて」
開口一番に謝ってきたのは廣川だった。足元の明かりとホテルから洩れる暖かな明かりのお陰で近づけばきちんと彼の表情を窺い知ることが出来る。彼はばつが悪そうに苦笑を浮かべた。
「良いよ、言い訳を聞きましょう」
聞かれたものは仕方がないと香村が大仰に頷くと、廣川は困った様子で頬を掻く。なんだかここまでしおらしい様子の廣川は珍しい。
「奈良公園で、香村にすげー迷惑かけちゃったから謝りたくて」
「別に廣川君が謝る事は無いだろ」
むしろ彼は被害者と言っても良い。だが、廣川は首を横に振った。
「俺は別に何言われても良いんだけど、香村を巻き込んじゃったから」
苦笑いを浮かべてそう言った廣川に対し、香村はまたじわりと胸の奥が焼けるような不快感を覚える。何だか今日はやけに感情が高ぶってしまっていけない。そう思うのだが今日の香村は一度緩んでしまった感情の箍が外れやすくなってしまっているようだった。
「巻き込んじゃったってなに。いつも俺のこと構ってくるのに、こういう時だけなんでそんな事言うんだよ」
まるで自分が悪いとでも言いたげな廣川の言い方が気に入らない。香村は目を丸くしている廣川を正面から睨みつけた。
「何言われても良いわけないだろ。誰も、廣川君を傷つけて良いわけないんだよ」
「俺は、別に傷ついてなんか」
「傷つけよ、酷いこと言われたんだぞ。傷ついて、怒るべきだよ。鈍感になるなよ、俺がこんなに怒ってるのに!」
これではまるで八つ当たりだ。自分だけが腹を立てているのが馬鹿らしく思える。それでも、気に入らないものは気に入らなかった。
「俺は廣川君が傷つけられるのは嫌だよ。廣川君は優しすぎる。そんな廣川君が無神経に傷つけられるの、俺は我慢できない。そんなの理不尽じゃないか」
拳を握り、思うがままに声を上げる。声量を抑える努力だけはなんとかしていたが胸の中を渦巻く怒りが抑えられない。
不意に視界が塞がれた。驚いている間もなく、香村は廣川に正面から抱き締められていることに気づきドクリと心臓が大きく鳴った。
「っ……急だな」
「うん……ごめん、でも……我慢できなかった」
ぎゅう、と香村を抱き締める腕に力が籠る。少し苦しいくらいの強さで抱き締められながら、頬に当たる髪の柔らかさを感じる。ふわりと甘さを含んだ爽やかな香りが鼻腔を満たし、香水だろうかとどうでも良いことを香村の良く回る頭は考える。何に怒っていたのか、一瞬のうちに吹き飛んでしまった。
「俺、香村のこういうところが好き」
抱き締められながら呟かれたのは独り言じみた言葉。腕の力を緩めないままに廣川はこれまでのような余裕のある態度も軽薄な仕草もかなぐり捨てて、まるで縋るように香村を抱き締めたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「他人の理不尽に怒ったり、反論したりしてくれるところがずっと好きだった」
「……ずっと、って」
「初めて香村を知った時から、ずっと」
そんな話を、香村は知らない。一目惚れみたいなものだったと言ったくせに、何も一目惚れではないではないか。
「覚えてない」
「うん……俺が一方的に香村を知って、勝手に救われただけだから」
救われた、という言葉に重さを感じてしまう。香村は自分が廣川を救った記憶など全く無いが、彼は救われたと感じる程の何かを背負っていたのかもしれない。そう思うと、明るく優しく誰とでも仲良くなれそうな廣川七瀬という男を、不器用な人だなと思った。
ドク、ドク、と、ずっと心臓が大きく音を立てている。抱き締められて中途半端に上げた両腕をどうしたらいいのか分からない。そのまま下すのもおかしい気がして、香村はそっと彼の広い背中に掌を置く。自分のものとは違う筋肉のついた男の背中は少し体温が高く感じた。
不意に、ドクドクと心臓の音が走り出すように早まった。
いや、違う。これは……廣川の心臓の音だ。
「うー……やばい」
突然呻きだした廣川に、香村は慌てて強引に彼を引き剥がす。具合でも悪くなったのかと彼の顔を見れば、彼は情けないほどくしゃりと顔を歪ませて苦笑を浮かべた。
「香村のこと、好きだ」
真正面から紡がれた言葉に香村は思わず息を飲む。自分が背中に触れただけで驚くほどに鼓動を速めた彼の心臓を思い、じわりと耳から顔が熱くなってゆく。何度も彼の口から聞いた言葉であるにも関わらず、何度もはぐらかしてこれた言葉であるにも関わらず、今日は何故か彼の目から視線を外せない。
「ひ、ろかわくん」
「好きだ、香村。誰にも取られたくないんだ」
取られるって何だよ、人を物みたいに言うな。そう言いたくて唇を開き、喉に舌が貼り付いたかのように言葉が出て来ない。胸が痛い、苦しい、体が熱くて息が浅くなってくる。それでも、彼の情けなく下がった眉と請うような琥珀色の目から逃れられないのがわかった。
「っ……俺は、別に、廣川君が思ってるほど良い奴じゃないよ」
先ほども女の子を泣かせてしまった頭の固い人間だ。そういう自覚はある。理不尽が嫌いで、頑固で、人の感情に疎くて……欠点がいくつもある人間なのだ。だからきっと、それを知れば廣川は興ざめするかもしれない。
「良いよ」
廣川は簡単な事のように一言そう言うと、猫のような大きな目を細めて笑った。まるで愛おしいものを見るように、大切なものを見るように。その視線の先には、香村がいる。
「俺だって、全然良い奴じゃないよ。香村みたいにちゃんと人に意見するのが苦手で、なあなあで済ませようとするし。誰かに嫌われるのも怖いし」
いつも明るいクラスのムードメーカーである廣川の、それはきっと本心に近い言葉なのだろう。香村はそう思った。
なによりそんな脆く柔らかい部分を自分に見せてくれた廣川七瀬という男を、ああ、可愛い男だなと思ったのだ。
「なあなあにするんじゃないよ」
「……ごめん」
「俺にはあんなに強気にぐいぐい来るくせに」
「だってそれは、誰にも取られたく無くて」
廣川七瀬は策士なのだと、そう思っていた。恋愛に慣れていて、駆け引きが上手くて、策を巡らせて追い込もうとしているのだと。
けれど、もしかしたらただ臆病なだけなのかもしれない。好きな人を誰にも取られたく無くて必死で、それでも恰好だけはつけたかっただけなのかもしれない。
「じゃあ……つき、あう?」
馬鹿みたいに心臓が跳ねていた。背中に触れられた時の廣川など比では無い程にバクバクと暴れる鼓動をどうか聞かれないようにと願いながら、少しだけ余裕ぶって見せたくて問うてみる。
廣川は一瞬何を言われたのか分からないという様子でポカンと間の抜けた顔をした後、みるみる動揺しはじめて終いにはその場で屈み込んでしまう。
「えっと……今、付き合うって言った?」
廣川の前に同じように屈みこんだ香村はこくりと顎を引いて頷く。
「うん。期待に応えられるかわからないけど」
自分は吉野のように恋愛に興味が無いのだと言い切れるタイプではない。どちらかと言えば女性を恋愛対象としてきたが、なんだか昨日も今日も廣川の事ばかり考えている事に気づいて腹を括った。この男が傷ついて欲しくない、傷つけられることが許せない。そんな激しい衝動が自分の中に存在していることに気づいて、もう言い訳出来なくなっていた。
廣川は両手で真っ赤になった顔を覆う。
香村の耳に、蚊の鳴くような声が辛うじて耳に届いた。
「よろしくお願いします……」
修学旅行最終日、香村たち修学旅行生の一団は法隆寺へと向かった。
法隆寺は世界最古の木造建築物として知られ、その荘厳な佇まいは圧巻の一言だ。
聳える五重塔を見上げた。優雅な曲線と堂々たる姿は、時を超えて存在する神秘そのものと言える。塔の木材は長い年月を経て深い色合いを帯びており、歴史の重みを物語っていた。
生徒たちはゆっくりと境内を歩き、金堂へと向かった。金堂に足を踏み入れると、そこには静謐な空気が漂い、仏像たちが静かに迎えてくれる。釈迦三尊像や百済観音像など、いずれもアルカイックスマイルと呼ばれる繊細な表情をたたえた仏像たちがその場に佇んでいた。
法隆寺の見学を終えると少しの自由時間となり、皆法隆寺周辺に点在する土産物屋へと入って行く。家への土産は京都で買っていた香村も手持無沙汰だったためどこかの店へ入ろうかと周囲に視線を巡らせると、首からカメラを提げた廣川を見つけた。最終日も相変わらず仕事熱心にカメラを抱えて飛び回っていた彼は、何故か数人の男子生徒に囲まれている。
「あ、昨日の……」
廣川を囲んでいるのが、昨日奈良公園で絡んで来たC組の生徒たちであることに気づいた香村はまた何か言われているのかと足を踏み出しかける。だが、意外にも廣川は笑って一言二言話した後にすんなりと解放されたようだった。何かを探すように視線を巡らせる廣川とぱちりと目が合う。彼は嬉しそうに目を細めて笑うと小走りに香村の元へとやって来た。
「香村もお土産買う?」
「いや、俺は京都で買ったから良いんだけど……さっきの、昨日の人たちだよね?」
尋ねた香村に、廣川はこくりと頷いた。
「昨日は悪かったって。なんか、ナミにすげー怒られたんだってさ」
「榊原さんに?」
何故ここで彼女の名前が出るのかと香村は首を傾げる。廣川はどこか照れくさそうにに頬を掻いた。
「昨日のアレ、ナミも近くにいたらしくて。俺や香村を馬鹿にすんじゃねーぞってマジギレだったって」
「え、俺も?」
「そう、マジになってる奴を笑うなってすげー剣幕だったらしくて。あいつらナミにビビってて俺に謝って来た」
どうして榊原がそんなにも怒るのか、香村はますます疑問に感じる。彼女は以前廣川と交際していて今でも彼と仲が良い。だが、なぜ香村のことまで含めて怒ってくれたのだろうか。
「ナミは良い奴なんだよ。俺と同じで勉強は全然ダメだけど、俺と違って度胸があるっていうか……俺が香村にマジな事、たぶん一番わかってるから怒ってくれたんだと思う」
確かに香村が知る榊原奈美はまさに度胸の塊といったイメージの女性だ。そもそも度胸が無ければ堂々と髪をピンクに染めては来ない。
「そっか、じゃあ俺も後で榊原さんにお礼を言っておかないと。一応、ほら……廣川君の彼氏なわけだし」
自分で言っていて妙な気恥しさがある。昨日、宿泊先のホテルの庭で半ば勢いのままに廣川へ付き合ってみないかと提案したのは香村の方からだった。今までずっと廣川から好きだと言われ続けていて、香村はなんの返事も返さずにいたのだが、香村の中でふと廣川七瀬という男に対して自分の中で特別な立ち位置にいるのだということに気づいたのだ。それが恋愛感情であるのか香村自身もいまいち確証が持てないが、それでも良いならという条件を提示したところ彼は食い気味にそれで構わないと言った。
そういうわけで、香村と廣川は昨夜からいわゆる交際状態に入ったのだ。
「……なんか言ってよ。俺、すべったみたいになってるだろ」
昨夜と同じく両手で顔を覆って俯いた廣川に対し、香村は顔が熱くなるのを感じながら文句を言う。
「いや、だって……噛みしめてる」
「大げさな」
「大げさじゃないの、全然、俺にとっては全然大ごとなの」
あの後、部屋に戻る道すがら廣川はぽつりぽつりと香村と初めて出会い好意を抱いた時の話をしてくれた。出会い、とは言っても香村自身は廣川に気づいていなかった為正しくは彼が香村を初めて見た時の話だったが、中学生の頃に両親の離婚により辛い時期があったことや、友達との距離に苦しんだ話は廣川のことを誰とでも仲良くなれるタイプの根明であると思い込んでいた香村にとって意外性に満ちた話だった。意外だと感じたということは、きっと香村も廣川に対して無意識に何かしらのレッテルを貼っていたということなのかもしれない。
こんなことを言われても香村は困ると思って、と今まで香村を好きになったきっかけを話さずにいた廣川は苦笑を浮かべてその理由を教えてくれた。やはり、と思う。廣川は他者を困らせることを恐れる臆病な面があり、それは同時に対立を嫌う優しい面でもあるのだろう。
「昨日あれから朝まで眠れなかったんだよ」
「へえ、意外と繊細なんだね廣川君って」
「意外ってなんだよ~俺はすげー繊細ボーイなんですけどー」
大げさな身振り手振りで嘆いてみせる廣川に、すれ違った観光客であろう親子連れがくすくすと笑う。繊細なことは知っているよ、と香村は思った。
自由時間を終え、香村たち修学旅行生は名古屋駅から新幹線に乗り岐路につくこととなった。
二泊三日の京都と奈良を巡る修学旅行はなんだかあっという間だったように感じた。寺社仏閣を巡るのは香村自身とても楽しかったし勉強になることも多かった。しかし振り返ってみれば、思い出のいずれの場面にも廣川が隣にいたような気がする。実際のところ彼は学校新聞のカメラマンとして香村の隣だけでなく方々へ行っていたはずなのだが、不思議とこの三日間廣川との思い出ばかりが蘇ってくるような気がした。
もちろん、昨夜のホテルの中庭でのやりとりも。
「あ、コームラじゃん。駅弁食った?」
トイレにでも行ったのか、座っていた生徒がいないのを良いことにピンク色の髪が特徴的な榊原奈美が当たり前の顔をして香村の隣の座席に座った。
「食べたよ。榊原さんは?」
「アタシも食べた。柿の葉寿司ってヤバくない? 美味すぎて笑う」
確かに駅弁で食べた柿の葉寿司は驚きの美味しさだった。文字通り柿の葉で包まれた寿司だが、柿の葉にはビタミンCとポリフェノールの一種であるタンニンが多く含まれており抗菌・殺菌作用があるらしい。
聞きかじった知識でそう言うと、榊原は長いつけまつげで縁取られた目を大きく丸くして素直に感嘆の声を上げた。
「なんでも知ってんなーコームラは」
「いや、なんでもは知らないよ……それより、榊原さん。あの、昨日はありがとう」
香村が彼女に向き合ってそう言うと、彼女は楽し気に笑った。
「あー奈良公園のやつ? すっげームカついたからアタシが勝手に暴れただけじゃん」
「でも、その……怒ってくれて嬉しかったから」
ふうん、と榊原は大きな目を細めて香村をまじまじと見る。香村自身人の目を見て話す方だとよく言われるが、彼女のように目力の強い女性に凝視されると不思議と後退りしたくなった。もちろん、新幹線の座席に座っているので実際に後退りなど出来ないのだが。
「付き合うんだって?」
ああ、廣川は彼女に言ったんだなと思った。自分のことを一番知っている人だと廣川は榊原を指して言っていたので、それだけ彼女を信頼しているのだろう。
「うん」
頷いた香村に、彼女は細めた目を笑みの形に変えた。猫のような目をした廣川にどこか似ている、と香村は思う。
「そっか。七瀬も頑張った甲斐があったってワケだ。アイツのことよろしくね」
彼女はそう言って痛いほどに強さで香村の肩をばしばしと叩いた。衝撃でずれた眼鏡を直しながら香村は彼女に向き合い、なるべく頑張りますと言うしかなかった。
学校の最寄り駅で電車を降りるとその場で解散となる。生徒たちは大きな荷物を抱えているので寄り道することなくそのまま家路へつく者が殆どだろう。香村も修学旅行のために購入したスーツケースをガラガラと引きながら駅から家まで歩いて帰るつもりだった。
「香村、一緒に帰ろう」
少し歩いたところで声をかけられ振り返ると、大きなスポーツバッグを抱えて小走りで廣川が後を追ってきたところだった。
「構わないけど、家まで歩くつもりだよ?」
「良いよ、俺は香村と分かれたらバスに乗るから」
午後のまだ日が高い時間帯に家路につくのはなんだか非日常感がある。テスト期間も普段の時間割とは異なる為ふわふわとした心持になることがあるが、それとも違ったそわそわとした気持ちになっていた。
「あ、カメラは?」
「駅前で新聞部の奴らに渡した。すげー撮っちゃったから選ぶの大変だぞー」
「何枚撮ったの?」
「千枚くらい?」
「そんなに?!」
たくさんシャッターを切っているなとは思っていたが、どうやら香村の思っていた以上に彼は張り切っていたようだ。
「楽しくなっちゃって」
「うん、楽しそうだったからな廣川君」
よくそんなに違うクラスの中にも入っていけるなと感心したものだ。それに、皆廣川が声をかけてカメラを向けると楽しそうにしていたように思う。香村にはけして真似のできないことだ。
「えーなになに、俺のこと気になって見てたんだ?」
廣川が冗談めかして笑いながらそう言った。
香村はふと思い返す。そうか、と思った。この三日間の修学旅行で思い出の中に常に廣川の姿があるのは、そういうことなのではないか。
「そう。きっと、俺は廣川君のことが気になってずっと目で追ってたんだと思う」
不意に少し前を歩いていた廣川が立ち止まった。十月も下旬、人通りの殆ど無い昼下がりの路地を涼しい風が吹き抜ける中香村も自然と足を止める。
廣川が香村の空いている左手を取った。少し汗ばんでいて、体温が高い。しっかりと制服のブレザーを着ている香村と違い廣川はブレザーのボタンを全て外している。一見して正反対の人間に見えるのかもしれない。
俯いた彼の、長い前髪で表情が伺えなかった。
「廣川君?」
声をかけると廣川が顔を上げる。いつも楽し気に笑っている琥珀色の目が、じっと香村を見つめた。その瞳に籠められた熱を感じた気がして香村は少し怯んでしまう。しかし、握られた左手は離してくれる様子はなかった。
「香村、嫌だったら言って。嫌じゃなかったら……キスして良い?」
唐突とも思える彼の言葉に香村は目を丸くする。涼しい風が吹いているというのに、じわりとうなじに汗をかいているのがわかった。キスをする、という言葉の意味を常ならば良く回る頭がなんとか理解したころにはもう廣川の見慣れた顔が見慣れぬ位置にまで迫っていた。
咄嗟に目を閉じた。甘さと爽やかさの混じった香りが強くなり、ふわり、と唇に柔らかなものが触れたのが分かったがそれはすぐに離れてゆく。ぱち、と目を開くと廣川は目尻をわずかに赤く染めて嬉しそうに笑った。
「……貰っちゃった、香村のファーストキス」
「……ん?」
心臓が痛いほどに跳ねていたが、廣川の呟いた甘さを含む声に香村は思わず声を上げた。廣川は少し驚いた様子で真正面から香村を見て、そしてすぐに眉尻を下げた。
「……え?」
「あー、えっと」
「待って! え、もしかして……初めてじゃ、ない?」
恐る恐るといった様子で尋ねた廣川に、香村は何故か若干の申し訳なさを感じながら小さく顎を引いて頷く。
人通りの殆ど無い住宅地の路地の一角で、廣川の情けない嘆きの声が響いた。
二泊三日の修学旅行を終え、吉野立花はスーツケースをガラガラと引きながら駅から家への帰路を歩いている。京都は一度演劇部の大会のために訪れたことがあったが、あの時は夏でとにかく暑くて良い印象が無かった。しかし十月下旬という初秋に改めて訪れた京都も奈良も空気が心地よく、観光地の為さすがに人は多かったが寺社仏閣も思いのほか楽しめて充実した三日間だった。
吉野は美人と言って差し支えない容姿をしている。きめ細かな白い肌に紅を引いたような赤い唇。ややつり目の黒い瞳は長いまつ毛に縁取られ、黒く真っすぐな髪は背中まで伸ばしていた。日本人形のようだと言われることも良くあったが、吉野自身日本人形と言うとひとりでに髪が伸びそうで少し怖さを感じてしまいあまり好きでは無かった。
吉野の家は駅から十数分ほど歩いた住宅街にある、ごく普通の一軒家だ。学校へは自転車で通学しているが、今日は修学旅行帰りであり大きな荷物もあるため徒歩での帰宅だった。帰ったらまだ両親は仕事中で家には誰もいないはずなので、ひとまず溜まった洗濯物を片付けなければならないなと思いながら住宅街の角を曲がれば、吉野の家の隣家の前で立ち尽くしている見覚えのある男がいた。
「何をしているの健臣、鍵でも忘れた?」
吉野家の隣家は香村健臣の一家が暮らす香村家だ。香村の家とは吉野が生まれる以前からの付き合いがあるらしく、物心ついたころには既に彼と面識があったらしい。らしい、というのはさすがに幼稚園に上がる前のことは覚えていないからで、吉野と香村は同じ幼稚園に通うようになってから高校までずっと一緒の、所謂幼馴染と呼ばれる関係だ。
自分の家の前で立ち尽くしていた香村は、吉野に声をかけられるとびくりと肩を揺らして振り返った。どうやら、心ここにあらずといった状態だったらしい。
「え、あ、いや……鍵はあるよ」
「そう。旅行で疲れたんじゃない? ぼうっとしてるみたいだし」
同じ学年であってもクラスが違う為、基本的にクラス単位で行動する修学旅行では彼とはほとんど顔を合わさなかった。……いや、一日目の夜にホテルの廊下でばったりと顔を合わせてオレンジジュースを奢って貰ったか。
「べ、つに……ぼーっとなんかしてない」
「嘘。顔も赤いし、風邪でも引いたんじゃないの?」
吉野の知る香村健臣という男は昔から物静かで勉強が好きな子供だった。そして吉野に負けず劣らずにとても整った顔立ちをしているが、香村自身自らの容姿というものにまるで関心が無いらしく自分の容姿が整っていると認識していないようだ。小学生のころから眼鏡をかけ、前髪を重く垂らしているせいで彼の容姿に気づいている者は少ないのかもしれず、吉野は内心もったいないなと感じていた。
そんな香村はずれてもいない眼鏡をしきりと触りながらもごもごと口の中で曖昧に言葉を転がしている。目尻から耳にかけてじんわりと赤く染まった肌に気づき、吉野は目まぐるしく思考を回転させた。
「……何かあったでしょ、廣川君と」
これはただの勘である。女の勘などというものが本当にあるのかは知らないが、ここ最近香村の様子がおかしい時はだいたいの原因は廣川七瀬なのだ。
廣川七瀬は二年生に進級した際に香村と同じクラスになった男子生徒だ。吉野自身はしっかりとした面識は無いが、明るい髪色で交友関係の広い彼はクラスを超えて目立つ存在だった。そんな彼に口説かれるのだと香村が吉野に相談してきたのは確か五月の半ば頃の話だったと記憶している。口説かれるとはどういう意味だろうかと香村の話をよく聞いてみれば、確かに廣川は香村を熱心に口説いているのだろうと確信した。
香村健臣は基本的にごくごく一般的な常識と感性を持っている人だと吉野は思っている。真面目で時折融通の利かないことはあるが、考え方は思いのほか柔軟で感情の起伏も周りが思うよりずっと激しい。幼稚園の頃、友達にひどいからかわれ方をして傷ついた吉野のために代わりに喧嘩をしてくれたのは香村だった。彼は真面目が故かもしれないが、理不尽が許せない性格なのだろう。だとしたら、あまりに廣川がしつこいようなら香村は真正面からやめてほしいと声を上げる。吉野は彼がそういう人間であることを良く知っていた。
吉野自身、恋愛というものに興味がない。いや、興味がないというよりも恋愛感情を理解することが出来ないのだ。友人たちの恋愛話や少女漫画、ドラマの恋愛ものは嫌いでは無いしむしろ好きな方だが、こと自分自身が誰かに恋愛感情を持つかといったらそれは否だった。もちろん十代で自分のセクシャリティについて決定づけてしまうのは時期尚早ではないか、とも思うので特段自分の恋愛観を口にすることは無いのだが、そんな吉野であっても……逆に、そんな吉野であるからだろうか、きっと話したこともない廣川という男は香村のことが本当に好きなのだろうと思ったし、廣川は香村を振り向かせたくて必死なのだろうとも思った。
「……何かあったのは、確かだけど」
ぽつり、と香村がやけに小さな声で呟いて視線をさ迷わせる。何度も唇に指先で触れ、それに気づいて手を下ろす仕草に吉野は名探偵さながらに閃いた。
「健臣、ひとつ聞かせて? ちゃんと合意?」
気は強いタイプだが押しに強いとは言えない香村が途端に心配になる。実際に話したことは無い物の廣川はそれほど悪い男には見えなかったが、ことと次第によっては放っておくわけにはいかないかもしれない。
香村は勢いよく顔を上げ、首から上をみるみる赤くしていった。おや、と吉野は内心思う。
「合意っていうか、いや、違う。あ、違うっていうのはその、そうじゃなくて」
「じゃあ、好きになったんだ。彼のこと」
幼稚園からの付き合いの中でも見たことのない動揺の仕方をする香村に、吉野はじんわりとした僅かな寂しさを感じる。
彼もまた、吉野が知らない感情を抱いて、誰かに惹かれていくのだ。それが羨ましくもあり、少しだけ遠くに感じる。吉野が知らない感情を誰かに向けて、こうして動揺したり喜んだり傷ついたりするのだろう。少しだけ羨ましくて、けれど自分の先を行かれたような小さな憎らしさもある。
「好きかは、まだわからない。でも……付き合うことになった」
香村はまだ赤い顔を上げ、眼鏡の奥から真っすぐに吉野を見て言う。真面目過ぎるんじゃない、と思いつつも、彼が真剣であることはよくわかった。
吉野立花は恋愛感情というものがわからない。好きかどうかわからないけれど付き合ってみると言い、おそらくキスをしたであろうに嫌悪感を抱く様子もなく顔を赤くした幼馴染のその感情が恋愛に基づいたものであるのか、それとも友情の延長にあるものなのかもわからない。それでも、真面目な彼が真剣に考えてそうすると決めたのならそれで良いのかもしれないと思うのだ。
「そう」
一度だけ、香村相手ならば恋愛が出来るのではないかと思ったことがあった。人並みに誰かを好きになるという経験をしてみたかったのだ。しかし、結局その試みが上手くいくことは無かった。だからやはり、少しだけ悔しい。
「健臣が廣川君に泣かされるようなことがあれば、私が彼を殴ってあげるから」
そう言えば香村は一度驚いた様子で目を丸くし、しかしすぐにその整った容貌は笑みの形に崩れる。
「泣かないよ。それに、廣川君はそんなことはしないよ」
失恋したわけでもないのに、なんだか話したことも無い廣川のことが憎らしくなりそうだった。